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2009年9月24日木曜日

私なりの聞きたいリストの表示の仕方

 聞き取り調査では多くのことを聞き取り、それを整理する作業があります。ですが、聞き手と話者との間では意味の取り違えや聞いている内容から外れた意見も数々あります。

 そこで私は質問表を作成し、意図的に質問の答えを引き出す感じで作成しています。これにはメリットデメリット両方がありますが、ここでは問わないことにしておきます。

 私の質問表は「聞きたいことリスト」と名付けています。このリスト化にはまず論文を書き、不足している情報の個所を赤色で示すというやり方です。

例えば⇓…(これは実際に論文を構成していく作業中に思いついたまま赤を入れたのみですが)

 第二節 A保健婦の足跡と公衆衛生への姿勢


(一) A氏の千種町保健婦としての道のり【詳しく】

A氏は、昭和三年、兵庫県佐用郡平福村(現佐用町延吉)に生まれ。【両親・兄弟はどのようなひとで、どのような生活環境でA保健婦は育ったのか】第二次世界大戦時、姉が国立病院看護婦をしていたため、「お国のために」と思って衛生兵の替わりに募集されていた陸軍病院に入隊した【なぜ姉の足跡を辿ろうとしたのか、看護の道にきょうみがあったのか】。しかし、教育中に終戦を迎えた。その後、国立病院看護婦養成所で卒業し、一九歳の折に看護婦の免許を取得した【看護婦になった後は、どこに勤めていたのか。どのような仕事についていたのか。その当時の自己の衛生観についてはどうであったのか。】。その後、看護婦だけで終わりたくない、努力して助産婦の資格も得たいと考え【なぜ助産婦の資格が必要となったのか】、神戸市立産婆学校に入学し、兵庫県の検定試験を受け二一歳で助産婦資格を得た。加えて、保健婦資格も取りたいと思い【なぜ、保健婦の資格が必要となったのか】、姫路市保健所にて公衆衛生を学びながら訓練に励み、兵庫県の検定試験を受け二二歳の若さで保健婦の資格を得た。その後しばらくの間看護婦【最初に勤めていた病院とは違う病院での勤務か。助産婦資格、保健婦資格を有している身として、そこでの看護婦の仕事はどのように感じていたのか。】として活躍するものの、昭和二六年に二三歳で結婚し仕事を一時辞めた。

その後、昭和三二年、二九歳から、兵庫県佐用郡石井村 (現佐用町)の診療所にて看護婦として再び復帰した【なぜ復帰したのか】。A氏は石井村診療所の出張診療所のある海内で診療所に泊まり込みで駐在し、地域住民の健康相談や往診などの勤務にあたった【海内での診療活動において何を学んだのか】【地域とのつながりはどうだったのか】

昭和三五年、三二歳の時に佐用郡石井村に隣接する宍粟郡千種町で衛生環境の悪化が懸念され、町に新しく保健婦を置くことが決められたことを受けて山崎保健所の婦長【山崎保健所とのつながりはいつからあったのか、どういう仕事ぶりを認めていたのか】の推薦により、A氏がその保健婦になることが決まった【なぜその決心をしたのか。どういう思いでこの仕事を引き受けたのか】。A保健婦は始め千種町内の衛生環境を調査して歩き、地域住民の健康状態などをカードに記録しながら活動を進めていった【調査だけだったのか、それとも健康指導も行っていたのか】【行っていたとしてどのような方法で行っていたのか】。そうした中で昭和四三年千種町いずみ会や健康推進委員の設置により、活動をより強力なものへと展開させていった【地域のこのような団体との関係はどのように作っていったのか】。特に保健衛生の普及に尽力し、婦人会の総会があれば、足を運んでそこで講演をするなど積極的な活動を行った【具体的にどのような話をしたり、活動したりしたのか】。もちろん、これは彼女だけの活動ではなく千種町いずみ会や各地区の婦人会に所属するいずみ会会員、健康推進委員らも山崎保健所、生活改良普及員らの指導を受け活動に協力をしていた【どのように連携し地域活動を活発化していったのか】

以上のようにやっていくと、調査当日何を聞くべきかがはっきりしてきます。また聞く順番も少しですがわかるようになります。このように私は、論文構成から「聞きたいことリスト」を取り出すことを考えています。

論文無事に提出

 何とか間に合いました。結構はしょった部分もありますが、伝えられるものは伝えたつもりです。(つもりってのもおかしい表現ですが、読者の方にわかっていただけるよう最大限の努力は尽くしました。)
 とにかく、わかりやすくそして学術的に価値のあるものを目指して書いた論文ですので、あとは校正などが入ってくるでしょうが何とか一安心です。

2009年9月13日日曜日

論文提出に向けて

 9月いっぱい締め切りの原稿を現在書いているのですが、何とか間に合いそうです。この原稿は東京の成城大学との共同研究「生活改善諸活動研究プロジェクト」の論集に載る原稿です。

 ネタは、以前にも申し上げましたが、千種町いずみ会の活動のことで、活動推移と住民への浸透を論じてみました

現在、その原稿の手直しを何度か行っているのですが、やはり未熟なのか、結構あらがあったりして何度も修正をいれては確認の繰り返しでした。そこでプロに見てもらおうと、大学の教授に頼んで、論文を見ていただきました。すると「結構読みやすいし、いいんじゃないかな」とのお言葉をいただき大変うれしかったです。細かい部分についての指摘もあり、それについては帰宅後すぐに訂正し、なんとか形を整え始めています。

 こうした執筆活動の一方で来月の調査の件も考えなくてはならず、休んでも居られません。連休中には話者全員分(16名)の質問項目を整理し、的確に質問できるようにしておきたいと考えています。今回の調査は一人での調査で、なんだかふあんはありますが頑張ってみたいと思っています。

2009年9月7日月曜日

「健康不安とその対応に当たった活動」

 本研究を始めてひとつ気づいたことがあります。「健康」を名乗る運動には何かしらの「健康不安」が存在し、それを改めようと「生活改善」が展開する。当たり前のことですが、そもそも「健康不安」という言葉自体を私はあまり知らなかったので、ここで改めて知ったということです。
 千種町いずみ会、A保健婦、健康推進委員(母子保健委員)、保健所、行政などが取り組んだ健康増進運動というものは、すべて「健康不安」を発端に活動しているものです。保健所や行政については、簡単には言い切れない部分もあるでしょうが、衛生行政や地域保健活動の観点から考えれば、これらの活動も「健康不安」からくるものだと考えることができます。
 昭和30年代から50年代にかけての千種町域で行われた「健康」に関する活動は、聞き取り調査の上、「そういう時期があったなぁ」っといわれる人も多くいて「健康」が身近にあった時期だったことが証明されました。ではそれまでの「健康」はどう扱われていたのか、以前にもお話ししたかもしれませんが、千種町域でこれほどまでに「健康」に対し熱を帯びた活動が展開されたのは昭和30年代からであって、それまでの生活の中で「健康」というものはそれほど地位が高いものではありませんでした。公衆衛生の観点からいっても、正直千種町域の昭和30年代の生活は極めて危険な衛生環境にあったことは言えます。「極めて」と申しますのも、この地域一帯は雪深い山麓にへばりつくように集落が点在する地域です。そのため、医療設備が整っていたとしてもそれを提供できるだけの「足」がないのです。またA保健婦の証言から当時の医療設備はそれほど整っておらず、かなりの人が衛生面において疾患を持っていたといえる状況だったということがわかりました。地理的環境、医療環境、衛生環境においてこれほど孤立した集落はないと思うぐらいの地域でした。そのため、「極めて」危険な生活環境のところをぎりぎりのラインでやり遂げていたといっても過言ではありません。
 そのような衛生環境の中、昭和30年代に入り「健康」に関心が徐々に持たれることになると、それまでの危機的環境からの脱却するように人々の中に「健康」を身近に感じるようになったのです。この背景には、A保健婦、千種町いずみ会、健康推進委員、保健所、行政の健康増進運動ならびに昭和30年代以降の日本国内における「健康」推進の動きがあったと考えられます。前者については御承知の通りの活動ですが、後者についてはあまりこのブログでは触れてきませんでした。
 昭和30年代からの『厚生白書』には数々の衛生環境および医療環境データが分析され、それにどのように対応していくかが詳しく載せられています。厚生省においてこうした動きをしだしたのはWHOの「健康」の定義が昭和22年にあったためだと考えられます。戦後の混乱期に、保健衛生事業を始めるにあたり、健康とは何かを問う中で「健康とは肉体的精神的社会的に健全であること」という意味が付加されることにより、それまで一人ひとりが健康に気を配っていればよかったもののの社会全体がこれをサポートするべきものとなったのです。これにより国は都市、地方に限らず全国民に対して「健康」を義務化しようとする動きをしていきます。それが国民健康保険の存在です。今でこそ当たり前のように国民の義務化になっていますが、昭和30年代以前までの国家においてはそれは被保険者に対する保健サービスとしてのものでしかありませんでした。そうなれば保険料を納められない住民はどうなるのか、それはその当時あまり関心がもたれていなかったと考えられます。もし考えられていたとすれば、無医村地域や国民健康保険診療所の各地域でのばらつきはなかったと考えられます。まさに医療格差社会ともいえる現象です。それが義務化によって各地域にへき地診療所ならびに国民健康保険診療所、各種診療所が開設されると全国民に対し保健サービスを提供できると考えたのでしょう。
 話がそれてしまいましたが、千種町域の「健康」に関する動きの背景には様々な動きが複雑多岐に絡まっていたことが考えられます。この度、この研究をするにあたり、そこまで踏み込むことができるかどうかは分かりません。多分、千種町域の健康増進運動の展開を知るところまでが現状でしょう。しかしながら、それらの動きに合わせて社会的な動きもあったことも考えていかなくていはいけません。どちらにしろ、課題は山積みです。

2009年9月3日木曜日

千種町いずみ会の地区活動

 「地域生活の変遷過程において外的機関の介在の実態とその受容」を考えるというテーマで現在執筆中ではありますが、ひとつ調査の過程において注目すべきことがわかってきました。

①健康推進委員という存在?
 昭和50年ごろより各地区におかれた健康増進運動の末端を担当する人物。昭和50年以前は「母子保健委員」という名前だった

②千種町いずみ会の前身?
 昭和43年発足の千種町いずみ会ですが、千種町黒土ではその前身として「若妻会」という会が存在していたことが分かった。

発見としては以上の二つなのですが、従来の調査では聞き取れなかった内容が入っています。特に重要なのは「各地区」により千種町いずみ会の成り立ちが異なる点です。

 いずみ会の地区活動と言ってしまえば聞こえはいいのですが、千種町域は広く平野の部分もあれば山間部もあり豊富な地理的環境が整った場所でもあります。つまり地理的環境が異なることはその生活体系にも影響を及ぼしており、各地区によって社会活動も別々なものがあるということです。

 さあ、この問題をどう扱うかはこれからの課題でもありますが、、何とかまとめてみたいものです。