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2012年12月29日土曜日

資料としての「保健婦手記」

 こんにちは。歳末の夕暮れ時、皆様におかれましてはいかがお過ごしでしょうか。私は歳末に当たり、資料の整理や資料の扱いについて吟味して過ごしております。

 さて、その資料のことについて今回はお話しさせていただこうかと思います。

 たびたび、このブログでも取り上げております「保健婦手記」の取り扱いといいますか、分析の方向性について論じたいと思います。

 保健婦手記につきましてはこれまでも論じてきましたので、ざっくりとした説明になりますが、これは保健婦が自らの手によって読者である同僚やその他保健医療に関心のある読者に向けて発信したメッセージの高い資料になります。『生活教育』の「保健婦の手記」の場合は、その性格が強く、あげられる事例のほとんどが日々の業務における悩みや、自分の体験したことまた相談したいことについて発言する場となっています。この発言は一応選考があるので、雑誌編集側の意図がありますが、概ねそれに投稿をしようとする保健婦は、誰かに読まれること、また誰かに伝えようという意志からそれを掲載しています。業務の内容に触れることというのは、プライベートな部分もあり、なかなか難しいものではあるものの、そこは保健婦の記述によってカバーされており、保健婦の主観や視点からの公衆衛生状況が垣間見えるものであります。また、『生活教育』に限らず、様々な保健婦手記がこれまでに発刊されており、それが一つ一つ保健婦の経験知によるものであり、日記のようなものから小説に至るまで様々な形態として挙がっています。いずれの資料についても一環としてうかがえることは、単なる読み物としてのそれではないこと、読者である保健婦やそのほかの人々に向けて、自分たちの意見、自分たちの考え方を表明し、それを社会に届けるということを役割としているのが保健婦手記になります。

 保健婦手記の定義についてはまだ私の中で固まったものがないため、上記のような形でざっくばらんに定めております。では、日記と手記ではどう違うのかということを考えると、かアンリ難しいところはあるのですが、私の場合、日記というのは日々の業務や行動を記録しそしてそれを自己で管理するものとしてのそれだと思っております。それに比べて手記というのは様々なものがありますが、いずれもそれは日記を発展させそれを他者の中で広めることを意義としているのではないでしょうか。このようなことから私は、「手記」というものをもっとパブリックなものとして見ていきたいと考えております。故に、ライフヒストリーとしての視野もさながら、公的な視点としてのそれを兼ね備えたものであり、多元的な議論ができうるものであると位置づけます。

 
 
 民俗学においてこうした視野があったかどうかについてはまだこれから研究を進めていかなければならないところですが、保健婦という限られた職掌における「保健婦手記」というものについての扱いはこれが初めてではないかと思います。保健婦について民俗学で言及したものはほとんどなく、保健医療の分野で一番多いものといえばやはり助産婦や産婆といった臨床の立場の人間、特に人生の過渡期にあたる部分おける人の役割として論じられることが多く、この助産婦らにしてもその職掌というよりもどこかそれらがもっていた技術的なもの、慣習的なものが民俗学の研究対象になっています。いずれにしても、民俗学での保健医療の研究については、未だにその職掌をおさえておらず、記録にとどまった人間としての位置づけにしかなっていません。彼らがどういう役割を担い、どういう風な活動を行っていたのか、またそれが村にとってどういう風な影響力を持ち、生活の上に成り立っていたのかという視点はほとんど見られないのです。私は、民俗学における生活研究の中で保健婦をみているわけですが、生活の変化の中には様々な人物が影響を与えているものの、その中でずば抜けて影響力を持っているのが医療従事者であることをこれまでの研究から発言したいと思っています。人間の行動のそれぞれはどこかしら身体的な障害を起点にして、それから脱することを基本としていますので、そうした場合一番に身体にアプローチできるのは医療従事者ではないかと考えるわけです。で、医療従事者の中でも、生活に直結する形であるのが、保健婦というわけです。彼らの行動を見ていくと、医者や看護婦や助産婦などと違って、日常的に人々と接し、その接する中で生活の問題、身体の問題について提言し、そして生活を変えようとした人物なのです。ともすれば、これは民俗学における生活の変化を見る中で、いの一番に見る必要性がるの職掌ではないかとも思ったりします。つまり、保健婦をみることで民俗学における生活の変化の諸相を今一度とらえなおし、もっと身体的に具体的な人間模様として描きなおせるのではないかと思うのです。また、もう一つに私の目的としてはこれらの人間模様から見られる、保健婦が果たした役割を鑑み、現代の保健師たちに保健業務にあたるうえでの心構えというか、体験としての保健婦の経験を今の仕事に生かしてくれることを願い、この研究を実践的にしたいと考えています。実践的な研究にするためには、今一度これまでの保健婦の経験をうまく整理することが重要となってくるわけですので、「保健婦手記」というものの研究はその意味でも重要な役割を担ってくれると考えます。

2012年12月21日金曜日

生活研究と保健婦

 おはようございます。先日の生活改善諸活動研究会の再開でかなり興奮気味の一週間ではありましたが、とりあえず少し緊張も解け、自分なりに観察でできるようになったのでその手始めに、生活研究の大きな枠組みというか方向性と、そこで私が抱える保健婦研究がどのような役割を果たすのかという部分について触れてみたいと思います。

 先日の研究会のブログ記事でご紹介したとおり、昨今民俗学において「生活」(日常生活)について注目が集まってきています。それは、戦後からの生活変化についてこれまで民俗学はどちらかというと平面的に扱い、それがどのように変化し、どう受け入れられるものであったのかという具体像についてはあまり触れられてこなかったからです。そのような中ですので、衣食住の研究というのも、生活道具などの道具研究が主となってしまい、生活自体の動き、社会との関連性というもの、さらに人間との関連性というものについて論じることはこれまであまりなかったのです。
 私は、「生活」というものについてこう考えます。「生活」とは単に物や技術の動きだけに限らず、それを使う人間の動きであり、そのものや技術に直面した時の感情などといった人と物、さらにその技術を伝える行為の中で描かれる人間同士の関連性の中でみられるものである。つまり、物が技術が発達して生活が変化していったという考え方ではなく、それを使う人間がどうそれを関連付けて自分たちのものへとしていったのかということが「生活」なのではないかと思うのです。私の考え方からすれば、従来の民俗学での生活研究、特に生活変化に関する研究というのはそうした関連性にかけているのではないかと思うのです。
 この関連性についてなぜ私が思ったのかということは、先日の研究会での富田氏による発言があったからです。「民俗学は一カテゴリ内に依拠してしまい、ほかの生活の部分についての関連性が描けていない」。その通りであると思います。そのため、今一度自分のやりたいことについてこの疑問を当てはめてもう一度研究をくみ上げていくことが私に課せられたものだとおもっています。

 さて、ここまで、生活研究の土台となる「生活」をどうとらえるのかということについて記してきましたが、要するに「生活」を人間や物、技術、さらに人間同士の関連性の中で描いていくことの必要性を問うたのです。では、これらを具体的にどう描いていくのかという方法について、次は私の研究である保健婦研究で分析したいと思います。

 保健婦研究なるものがいまのところ民俗学には存在しないので、私のオリジナルなところがあるのですが、そのままずばり、保健婦がどう民俗に接近していったのかということを研究するものです。これだと抽象的すぎますので、具体的には、全国各地にいる保健婦、特に戦前戦中戦後という激動の時代、生活変化が顕著だった時代に職務についていた保健婦を対象に、彼らがどのように地域で活動し、どのような指導を行っていたのか、またその指導はどのようにして生活に影響を与え、地域住民にどう受け入れられていったのかということについて研究するものです。もともと、私の研究方針としては、保健婦がどのような人物であり、どのような活動をしていたのかという、保健婦を全対象にするものではありましたが、これだと、単に特殊な職業における民俗となってしまいかねませんし、そもそも保健婦が民俗学の対象であるということには、必ずしも当てはまるとは言えません。ただ、保健婦が行った活動を見ていくと、それは民俗学者のように地域の民俗、生活の細かいところを覗き込み、それを記録し、そのうえ衛生指導にのっとりながら生活の細かい指摘をしていくのです。それこそ手取り足取りといった具体的な所作を含めての指導ですので、単なる言葉だけの指導ではありません。そういった意味において、生活に直接に触れると同時に、そこの民俗に対して理解を深め、そのうえで活動していたことになるので、保健婦がいかに民俗学的に見て重要な人物であるかは自明のことだと思います。もちろん、生活改善という含みを持たせるのであれば、何も保健婦だけではなく、生活改良普及員などの指導者もこれに含まれますが、保健婦の一番の特徴は、その手腕に人間の生命ないし健康という一番重要な部分がかかっており、なおかつ彼らの活動は「医師の代わり」としてあったようで、それこそ発言力にはかなりの力を持っていましたし、その技術力については地域住民の良き相談相手になっていたのです。このことをかんがみると、保健婦が生活にどう組み込んでいったのかということをみることにより、いずれにしても生活の変化の機微がわかってくるのではないかと考えるのです。ですので、保健婦研究は生活研究に関連していくものでもあり、これこそ「生活」の関連性を描く上で重要なものではないでしょうか。

 具体的な保健婦研究を持ち出して生活研究の中に位置づけようと思うのではありますが、実は私は少し迷っている部分があります。生活研究の中にそのまま保健婦を位置付けてしまった場合、保健婦が固定化してしまわないかと思うのです。つまり、保健婦というものが生活に影響を与えたことは明確であるからそれには異論はないのですが、保健婦が生活の域を出ていないかというとそうでもありません。様々な方向への関連がうかがえます。この場合、私がさす「生活」は衣食住の従来の研究を指しているわけですが、この研究の範囲内では保健婦の力量のほんの一部のみにしか焦点がいきませんし、いずれにしても保健婦の見方がかなり狭まってしまうことになりかねません。そこで、私は、保健婦と生活研究を二つの大きな輪として考え、それが接近する部分において関連性として描こうかと思っています。また、保健婦という人物がどうほかのカテゴリーと関連していくのかという部分についても触れておきたいので、衣食住に限らず様々な場面での彼らはどう映っていたのかも含めて考察していきたいのです。要するに、保健婦を狭い範囲でとらえるのではなく、保健婦から派生する様々な関係性の中で生活をとらえてみるということです。先に述べたことと少し矛盾があるかと思いますが、私の意見としては、単に生活研究、衣食住に依拠した研究の中で保健婦を取り上げるのではなく、保健婦という視点からもっとマクロな「生活」を取り上げられないかと思うのです。私がさす方向にある「生活」というのは、衣食住に限らず、それを基本としながら関連していく諸領域も含めてのものです。多分、このことについては生活改善諸活動研究会の方向も同じであると考えます。いずれも、生活というのを狭い範囲内でみるのではなく、もっと広い視野で見ていくというもの、それが大事なんだと思います。

 ちょっと話がそれてしまいましたが、上記の二つのこと。生活研究のこれから。そして保健婦研究と生活研究というの中でどうかんがえてみるのかというものでした。私がこの記事の中で一番言いたいことは、「生活」ってのは衣食住だけじゃないし、ものだけ、技術だけではない、人々の息遣いが聞こえるようにして生活もいろいろな関係性の中で「生きている」ものであり、それを分析するに当たっては、その生きたもの関連し続けるその様相をうまく立体的に取り込まなければならないということです。従来のような一カテゴリーの中での民俗をとりあげるのではなく、もっと複雑にもっと人間味のあるものを描いていくべきではないかと思うのです。そのための一つの手段として、人々の暮らしに直接関与し、生活の指導者であり、良き相談相手として位置づけられていた保健婦を具体事例に出すとともに、彼らがどう動き、どういう風に受け入れられていったのかということと、生活の変化について述べてみたいと思うのです。

2012年12月17日月曜日

第一回生活改善諸活動研究会(第二段)

 こんばんは。今朝がた東京より帰郷しました。

 昨日東京の成城大学で行われていた「生活改善諸活動研究会」に参加させていただいていました。この会はもともと成城大学の元教授である田中宣一氏の掛け声の下開かれていた会で、戦後の生活の変化の中で特に実際に農村に入り生活指導を行ってきた生活改善諸活動という活動に焦点を当て、それがどのように生活の変化に影響と与えていたのかということを体系的、また具体的に調査研究しようという試みでした。何度か研究会を開き、そのたびに様々な発表をし、そのについては平成23年に『暮らしの革命―戦後農村の生活改善事業と新生活運動』(田中宣一編 農文協 2011)という本でまとめられました。この執筆には私も担当させていただき、戦後の生活改善という動きがどのようなものであったのかということを述べてきました。その会が本年より、新しく発足することになり、岩本通弥氏のお誘いのもと昨日結成をしたわけです。

具体的にどのようなことをするかについては岩本氏はこう述べておられます。


メールの文面より

(再開の趣旨)
 今回の研究会では、(中略)事務局・岩本の考えは、これまでの生活改善諸活動研究会における日本を中心とした研究蓄積を、比較文化論的にも拡大してみると、「当たり前」すぎて捉えにくかった「生活」の自明性が少しは揺らいでくるのではないかと期待しています。基本的に前研究会も、「生活変化」の具体像を捉え、また「生活変化」の一要因として、生活改善諸運動を研究していたと理解していますが、ありふれていて、ありきたりな「生活」「暮らし」あるいは「日常」を、どう把捉するのか、把捉するのが意外と困難な、大きな課題に向けて、前研究会がその第一歩を、ようやく踏み出したばかりなのだと思います。
 「生活」は概念化するのも意外と難しい言葉である上に、その変化も含めて把捉することは至難のわざですが、日常性という自明性によって、把握するのもままならず、かつ問題視もされてこなかった「暮らしの革命」を、具体像を通して(民俗学的に、あるいは民俗学を中心として)把捉しようとした前研究会の活動は、実に意義深いものでした。このまま活動を休止・終焉させるのは、いかにも残念で、また資料的データ的に、蓄積させていくコンテンツを多分に含んでいると思います。各地の生活変化の具体像を共時的に並べてみるなどしたら、データの集積が新たな展開をもたらす芽を潜ませているのではないかとも展望しています(後略)

 
 岩本氏が述べたのは「ありきたりな」日常の「生活」「暮らし」を民俗学でどういう風に扱っていくのかということを、生活改善諸活動の研究会を通じて発展できないかということです。


 この研究会では生活改善諸活動を通じて、「生活」というものをこの活動がどのようにとらえ、そして生活の変化にどういう風にアプローチし、そしてどうなったのかということに着眼を置いています。私自身、この研究会はかなり興味深いもので、従来の民俗学での研究では、生活改善そのものをどこか近代化の一つの事例としてしか扱ってこなかったきらいもありますし、また「生活」というものについて体系的に、具体的に論じる場というものがあまりなかったように思います。このお話しを頂いた際、また「生活」について研究ができると嬉しく思った次第です。


 今回は第一回目ですので、方針の説明などどのように「生活」を分析していくのかというものも含めてのお話だったのですが、それがまた貴重な場でした。

 まず、岩本氏は今回の研究を、国際研究の中でも位置づけ、その外側からの視線に「生活」をさらすことで生活の自明性を少し揺らがせ、そこにメスを入れようということで、一回目の発表は中国の生活改善の事例発表でした。

 福岡大学の田村和彦氏の発表で「近現代中国における生活改善に関する運動―「殯葬改革」の展開を中心に―」でした。

 中国の葬儀や墓に関する生活改善の事例で、かなり興味深い内容でした。特に興味深かったのは、葬儀を改善しようとしていく際に、それを集合体の模倣と競争原理を活かしながら広めていっているところですね。つまり、まず一つの事例の葬儀を改善し、それを真似(模倣)させて、またそれを広げるために村の意識づけとして競いあわ(競走)せて普及するというものでした。結果的にはその競争原理があだとなって、葬儀は華美な方向へと移っていくのですが、人々の「生活」に触れようとした生活改善の具体的な事例と、その結果として大変重要な指摘であったと思います。といいますのも、日本との比較で申し上げれば、改善を模倣させて競争原理を生かすということは日本の場合、あまりされていないように思います。どちらかといえば、指導部がいてその指導部を中心にグループ化が村に出て、そして各戸にその指導をいきわたらせるというもので、指導が上から下まで徹底的になされている様子がわかります。ところが中国の場合は、その指導部というものが機能しているのかどうなのかが判然とせず、またメディアの影響もあってか、住民が自主的にそして模倣として生活改善が受容されて行く実態が見えてきます。日本が指導に徹底したものであれば、中国のそれは模倣です。模倣なのでどこかでずれが生じたりしていくわけですが、これが中国での生活改善の一事例なのでしょう。

 とまぁ、日本との比較をしてみるとこれまで日本で当たり前のように見えていた指導型の生活改善が、また違ったファクターで見えていることが分かってきたのです。これはいい収穫です。日本の農村部においても、実は模倣というのは重要なことを示しております。私が調査している『生活教育』(昭和35年から現存)の昭和39年前後の記事によれば、日本の農村でも一部の生活改善を果たした家を模倣して、さまざまな取り組みがなされていたと保健婦の視点から書かれたものがあります。つまり、日本でも指導型とは別に、その模倣型と呼ばれるような感じで広まっていったものも少なからずあります。ところが、日本の場合は中国と違って、それを批判する機関、監視する機関としてのそれも発達しており、単に模倣とするのではなくそれがどう生活に生きているのかを評価し、反省し、それで指導を続けていくという形をとっているのです。

 いろんな意味で、この中国の葬儀の生活改善の事例は見えてくるものがありました。


 この発表が終わった後に、岩本氏がこれからの民俗学として、「生活」の変化のあり方をどうとらえていくのかということについてのお話しがあったのですが、その中でいちばん興味深かったのは、生活を民俗学はどうとらえてきたのかということでした。これについては富田祥之亮氏がこのように述べています。要約としては以下の通りです。

 「従来の民俗学では、儀礼や祭祀といったカテゴリーの中でのみその対象を論じようと試みてきた。それは確かにそのカテゴリー内ではみえるものではあるが、ことのほかそれを生活の上においてこようとはしなかった。生活と儀礼という風に乖離したもので、生活の変化がどのように儀礼に影響があったのかということについては触れてこなかった。生活とはさまざまな関連性のなかで描けるものであり、儀礼や祭祀の内側には生活も一緒に見えてくるはずである」

 つまり、生活というのはさまざまな関連性の下で論じられるべきものであり、本来儀礼などの民俗のカテゴリー別の研究はすべて生活に関係しているし、それをみなければ民俗学にとって「生活」をみることは難しいのではないかというのです。確かにそのとおりです。民俗学はどこかその領域内カテゴリー内で物事を完結してしまっているような気がします。非日常の場ならその場での変化を記録するのみで、それが生活とはどうリンクしていたのか、生活の変化がどのようにその儀礼の変化にかかわっていたのかということについてはあまり触れていないのです。そうなれば、儀礼は生活から浮いたもの、乖離したものとなり、どこかしら本来の民俗のありようからはかけ離れてしまう可能性をもってしまう恐れがでてきます。これは結構な危惧すべきものだと思います。

 そこで、富田氏は生活をとらえるためには、その関係性をうまく描けることが必要であると述べておられました。

 岩本氏がこれをどうとらえたのかは気になるところでしたが、私としてはこの一言が新しい民俗学での「生活」のとらえ方につながるのではないかと思っています。従来の民俗学での生活はどこか衣食住などの物質文化的な要素で固められていて、またその生活の動態との関連性を論じていない部分も多々あり、実際の生活の場と民俗で論じる生活とはかなり差があり、ずれが生じていたように思います。そこで、これを今一度整理し、生活がどのように結びつき、例えば冷蔵庫が導入されたことでどのように生活が変化し、どういう作用が方々に出てきたのかということを論じてみることも必要なのではないかと思うのです。


 これは生活改善諸活動においてもそうです。生活改善諸活動が行った活動を時系列に見ていくことも必要ではありますが、それが実際の生活の場でどう受け入れられていったのかどう作用したのかという具体的な、生活の波状効果としてみていくことが重要です。私は、保健婦を中心にそうした波状効果がどのように出ていたのかを、保健婦の視点からの生活変化をみながら分析できればと考えております。


 長々となりましたが、有意義な研究会がまた一つでき、感謝感謝です。

2012年12月10日月曜日

作業中の一覧表を公開。

ちなみに『生活教育』の「保健婦手記」はどのようなものがあるのかですが、以下のようなものがあります。

『生活教育』(生活教育の会)「保健婦手記」一覧表
タイトル 巻号 内容
1 忘れ得ぬ思い出 昭和35 4月号 助産
2 小さな足跡 昭和35 3月号 寄生虫駆除 生活改善
3 稲子に無医地区診療所を建てて 昭和36 1月号 無医地区問題 医療行為
4 打つ手はあった 昭和36 1月号 結核
5 砂丘の集い 昭和36 1月号 母子保健
6 仔負い虫始末記 昭和36 1月号 家庭問題
7 救われたAさん母子 昭和36 1月号 母子保健 家庭問題
8 一一三〇gの未熟児 昭和36 1月号 母子保健
9 アパートの人達 昭和36 1月号 グループ活動
10 保健婦生活十二年を省みて 昭和36 6月号 母子保健
11 迎え火 昭和36 8月号 結核 生活保護
12 こぼれ陽 昭和36 9月号 結核 生活保護
13 生命は尊し 昭和36 10月号 結核 医療行為
14 小さな赤ちゃん 昭和36 11月号 母子保健
15 人形・予防注射 昭和37 1月号 障がい者 予防接種
16 ともる灯 昭和37 1月号 精神衛生 生活保護
17 農村の保健婦 昭和37 1月号 衛生実態
18 Fさんのこと 昭和37 1月号 結核
19 あれから三年 昭和37 1月号 結核 生活保護
20 保健婦と母親と 昭和37 1月号 被差別部落 母子保健
21 一つの集い 昭和37 1月号 グループ活動(中老婦人会)
22 患者と共に歩んで 昭和37 1月号 生活保護
23 食卓にて 昭和37 1月号 結核
24 母と娘の願い 昭和37 1月号 癌闘病
25 保健婦のよろこび 昭和37 1月号 性生活
26 保健婦十二年 昭和38 4月号 感染症 母子保健
27 葛藤 昭和38 4月号 結核 家庭問題
28 ある日の訪問 昭和38 4月号 育児問題
29 島に駐在して 昭和38 4月号 保健婦の家族 家族計画
30 勇夫ちやん 昭和38 4月号 母子保健 育児問題
31 惠子ちやん 昭和38 4月号 父子家庭 育児問題
32 母と娘と保健婦のねがい 昭和38 4月号 結核 宗教
33 四升樽で産湯をつかったお嬢さん 昭和39 4月号 母子保健 生活問題
34 おじいちゃんベビー 昭和39 4月号 母子保健
35 癌になった私 昭和39 4月号 体験記
36 死のガスと斗う 昭和39 4月号 農薬問題
37 一本の電話から 昭和39 4月号 結核 宗教
38 アフターケアー 昭和39 4月号 結核 療養施設
39 私の一年 昭和39 4月号 衛生実態
40 啓子とともに 昭和39 4月号 就学支援
41 家と病院の間 昭和39 4月号 結核
42 H君を守ろう 昭和40 4月号 結核 就学支援
43 くらくさびしい話 昭和40 4月号 家庭問題 自殺
44 アイロンと結核と保健婦と 昭和40 4月号 家庭看護問題
45 ケースとともに 昭和40 4月号 奇形児
46 信長君の死 昭和40 4月号 母子保健 看護問題
47 声の出なかった赤ちゃん 昭和40 4月号 母子保健
48 胸像 昭和40 4月号 感染症 政治
49 母と子と出稼ぎ 昭和40 4月号 嫁姑問題
50 五年間絶対安静をした患者をおこすまで 昭和40 4月号 リハビリ看護
51 合理化のしわよせの中で 昭和40 4月号 保健婦陳情

「保健婦手記」をどうみるかということ

 こんばんは。久々の更新となります。ご無沙汰します。

 さて、ここまで私のツイート並びにブログでの投稿をご覧の方はおわかりとおもいますが、私は保健婦研究に際しまして、『生活教育』という雑誌の「保健婦の手記」(「保健婦手記」)について分析を行っています。

 そこで、この度はこの「保健婦手記」というものがさす意味、またこれがどういう資料性をもっているのかについてもう一度深く検討してみたいと思います。

 なぜこのようなことをしようと思ったのかというと、これまで私は『生活教育』内で扱われていた「保健婦の手記」というものについて、保健婦の行動記録として位置付けてまいりましたが、いろいろ見ていくとただそれだけのものとは異なるものがみえてきたので、ここで今一度自己確認を込めて記しておきたいと思ったのです。
 また、私自身、この保健婦研究について、この間まではどこか「生活の変化」の中で保健婦を扱おうと思っている節がありました。ですが、保健婦というのは「生活の変化」の要因の一つと位置付けるよりも、彼ら自身がどういう役割を担い、どういう形で村と接してきたのかをみる方が先決のような感じもしました。と申しますのも、保健婦と村人との関係性は「保健婦手記」をみる限り、かなり深い関係にあります。その関係性がどのように気付かれて行ったのかを知ることは同時に「生活の変化」や生活そのものにアプローチしていくものと思います。つまり、「生活の変化」は副次的なものであり、これを中心に扱うのではなく、「保健婦が」どうであったのかを中心に考え、その中に生活を見出すこともできないかと思うわけです。なので、私は少し路線変更をし、保健婦自身を深く知ることにしたいと思います。

 さて、話がそれましたが、その保健婦が書いたもの、日常の記録を記したものとしての「保健婦の手記」が『生活教育』の中ではよく取り扱われます。『生活教育』とは月刊の保健婦をターゲットにした教育雑誌で、昭和30年頃(現存しているのが昭和35年3月号からなのでそれ以前のはまだ分かっていません)で、発足のきっかけとしては「公衆衛生の退潮期を支える最大のホープとして、今日ほど保健婦に大きなきたいをかけられたことは、かつてんなかつたと思われます。ただ現代の保健婦業務は、時代の推移を反映して単なる看護技術や予防医学から、一そう広い民衆生活の深層にむかつて拡がつて参りました。その拡大された業務上の要望に応えるべく、エーザイ社の全面的協賛の下に私ども刊行委員会はこの「生活教育」誌の刊行と頒布を決意したのであります」(『生活教育』昭和35年3月号 96頁 「「生活教育」刊行のことば」より)となっており、要するに昭和30年代より戦後の公衆衛生行政の立て直しのために活躍している保健婦に注目し、彼らの活動がどのようなことをしていたのか、その技術面だけでなく民衆生活の「深層」にどうアプローチしていったのかという、読者である昭和30年代現在の保健婦業務についている人たちの要望に応えるべく記した雑誌です。いうなれば、保健婦のための手引書、教科書的なものとして位置付けられるものです。ただ、その教科書の特性は少し他の雑誌とは異なります。同時代に出された『保健婦雑誌』は、どちらかというと技術面、保健婦業務面におけるサポートが中心であるのに対し、『生活教育』の方針は保健婦の精神面、規律面についての記事が多くみられます。技術面もさながら、保健婦としての心構えを記した本誌は、『保健婦雑誌』にはない社会教育的な取り組みがなされています。その一環として「保健婦の手記」があるわけです。
 「保健婦の手記」というのは、保健婦自らによる寄稿によってなりたつ記事です。全国各地の保健婦の体験談、経験談を保健婦自らが『生活教育』に寄稿し、それらを刊行委員ら(丸岡秀子、金子光、永野貞、石垣純二ら)の審査によって一位から佳作までの評価を受けたものです。つまり、『生活教育』による保健婦の体験談のコンクール的な要素をもった企画なのです。審査が入るので、幾分か刊行委員の意図がみえかくれはするものの、保健婦がどのような活動をし、どのようなことを考え、悩み、感じていたのかということを丁寧に扱ったものであり、保健婦の動きを知る上で貴重な資料と言えます。
 ところで、この「保健婦の手記」について従来の保健婦研究ではどういう扱いをされてきたかというと、保健婦資料館が出している定期刊行物『保健師の歴史研究』(公衆衛生看護史研究会・保健婦資料館 2005)にいくつかみられるのみで、他の研究、例えば保健婦の歴史にかかわる研究という文脈の中では、あまり扱いが見られません。従来の研究では、保健婦の歴史は、制度史、法制史そういう並びでの扱いであり、保健婦個々よりも、保健婦という職掌がどのような役割をになっていたのかを制度の面から見ていこうというものでした。これは確かに大きな歴史の流れを考える上では重要なことではありますが、しかしながら保健婦の実態ということについてはこの歴史をそのまま真に受けることはできません。といいますのも、保健婦の実態では、制度について疑問視する声があったり、制度に背いてまでも医療行為を行った経験があったりと、そのほかかなり歴史相とは異なったものがあります。それが見られるのが「保健婦の手記」なのです。また、雑誌『生活教育』に限らず、保健婦の記録を扱ったものは多々あり、それらを総称して私は「保健婦手記」として扱っていこうと思っています。この「保健婦手記」というのは、単なる保健婦の記録という特性を持ち合わせるのではなく、先に記したように保健婦の思想、考え、悩みなど主観的な部分を多分に含んだ要素をもっています。「保健婦手記」というのは、従来の保健婦の歴史研究では扱われてこなかった保健婦の生の声を聞くことができる資料なのです。
 ただし、「保健婦手記」には多くの問題点があります。まずその書き方です。記述の仕方が読ませる文章になっていること。つまり意図的に作為的に自己の経験を書いているという点です。現実的なことを言えば、それは本当にその当時あったことであるのか、どうかといった真偽のほどは保健婦のみぞ知るというもので、実証性が低いものでもあります。これは大きな問題でもありますが、一方で保健婦がどういうメッセージをおくっていたのかということを知る資料としては十分効力を発揮する者でもあります。なので、この資料をそのまま引用するだけでなく、保健婦の制度、その当時の社会的変動と合わせてみることにより立体的に浮き彫りにできるものであると考えます。
 次の問題点として、保健婦の立ち位置の問題です。これは先の意図的なものと被るかもしれませんが、「保健婦手記」が綴られた当時、保健婦がどのような身分にいてどのような立場にある人間であったのかということによっては、その記述の持つメッセージ性の強弱に差がみられるとい事です。つまり、すべての資料を一つのものとして考えたり、資料をまとめてこういうことが言えるというようなあり方にすると少し誤解を招く恐れがあります。保健婦個々の性格もありますし、その立場というものがどういう風に手記に表れているのかをちゃんと整理したうえでなければ扱いづらいという難点があります。ただ、これは手記というものがいかに保健婦の内情をとらえているのかということも同時に示しており、保健婦の発言の様相を深く知るものでもあります。なので、個々の保健婦の立ち位置を踏まえ、どういう発言が彼らに可能であったのかということから、保健婦の内情、保健婦業務の裏側を探ることが可能なのです。
 さらにこれは問題点ではないのですが、保健婦手記には読者がいて、その読者もまた保健婦であるということも考慮に含めなければなりません。特に『生活教育』などの場合、保健婦が保健婦に対して述べている記事もあり、その真意は保健婦が同意境地に立たされているのかを知るものでもあります。なので、その読者側がどう手記を読んでいたのかも考えなければならないのです。
 以上のように、「保健婦手記」というものが含む問題点、展望そういうのを加味したうえで今一度、「保健婦手記」を読んでいくと、歴史面とは違った保健婦の顔が見えてくるのではないでしょうか。


 まだまだ至らぬ点があり、ブログで表明するには難点がありますが、今のところの思っていることを「保健婦手記」をどうみるかということとしてまとめてみました。

 今後は、『生活教育』もそうなのですが、ほかにも「保健婦手記」は多方面にあり、例えばそれは雑誌の一こまであったり、小説の題材であったり、半生記であったり、などなど多様な形をもっています。それらの資料を今一度整理しながら、「保健婦手記」とは何なのか、またそれはどう読むべきなのかということについても触れていきたいと思います。


 末筆ではありますがTwtter(楓瑞樹@御京楓)もフォローのほどよろしくお願いします。こちらでも定期的に呟いていますので、研究のほどがリアルタイムにわかります。

2012年12月2日日曜日

保健婦をどう見るかということ。(その2)

 おはようございます。朝っぱらから何をしてんだと言われかねない時間帯ではありますが、昨日考えたことを整理しているまでです。ご了承ください。

 昨日、「保健婦をどう見るかということ」としてブログにアップさせていただきましが。この記事についてあと後自分で考えてみて、少し付け加えるところといいますか、自分なりに保健婦研究をするにあたっての諸注意事項としてもう少し深く見ていこうと思ったからです。以下の文は、先のブログに対しての振り返りと、今後のことについてを少しまとめたものです。

 保健婦の研究には、単に保健婦個人、保健婦という存在をまるっと扱うのではない。保健婦個人を扱うのであれば、それは個人史であったりして別段民俗学の中でこれを定義することは必要ないし、その上民俗学との関連性を言うのであれば、保健婦個人よりもその周辺のことであり、あくまで個人はその上にあるものだという考え方がある。保健婦がその労働力を向けた地域やそこに住む人々についても深く掘り下げる必要性があり、保健婦はそうした地域において規定されなければならないとさえ思う。保健婦を民俗学の中で位置付けることというのは、地域生活、地域住民との有機的な関係性をそこに見出したのであり、保健婦個人を調べるものではない。また、保健婦を特別に強調し、その存在を文脈の中で明らかにすることが主体ではない。確かに、保健婦の略歴や経験の記述は大切ではあるが、それは地域活動において、保健婦が有する経験知がどのように働いていたのかということを明らかにする手段であり、目的というわけではない。民俗学で保健婦を扱うときの目的は、どうしても地域生活の変化の中で保健婦が与えた影響であったり、保健婦がどのような働きをしていたのかということを地域社会の役割の中でみていくことにこそあると思う。
 しかし、ただ地域生活での分析を進めていくにあたって、それでは保健婦の存在意義というものがあまりに薄くなってしまわないかという疑問もある。そもそも、保健婦でなくとも別なものであってもいいと思うことすらある。ここで、保健婦をあげる以上、この保健婦にしかない特徴をまず取り上げる必要性があるのではないだろうか。その上で上記のような地域生活の中で彼女らの活動をみていくことが大切であると思う。つまり、単に地域生活の中での彼女らをみるだけでなく、保健婦自身にも気を配らなければならないということである。保健婦自身がどのような経験を経て、どのような経験知を得て、地域で活動をしているのかといった、彼女らのスキルの部分をみることは、地域での活動の根底部分、意図する部分においての動機付け、意図などを読み取ることにもつながる。なので、民俗学で保健婦を位置づけするに当たり、地域活動の中で保健婦を規定するだけでは、保健婦のことをあまりに軽んじてはいないだろうかと思ったりする。
 民俗学における、保健婦の見方を論じるに当たっては、二つの視点が以上のことから言えると思う。一つに、地域生活の中における彼女らの働きから保健婦を論じるということ。二点目は、保健婦自身がどういう経験知をもって活動に挑んだのかという保健婦自身を論じるということ。この二点は本来は別々のものではあるが、双方ともにみて初めて一本の保健婦の諸相を明らかにするものである。だから、どちらか片方の見方に偏って、考えていけば、あまりに視野の狭い論になりかねない。例えば、結核診断のことをあげるならば、この結核診断は地域生活においては保健衛生上必要なことであり、行政としても結核予防法に基づき、結核患者を隔離しなければならない。そのために保健婦がその役割を担っているのだとするのである。これをみる限り、保健婦は結核という地域の問題の中に位置し、地域生活と結核患者の中でのみ語られるような形になっている。そこはどこか業務的であり、報告的な描き方でしかないような形だ。従来の民俗学ではこうしたちょっとした報告に保健婦をあげることは多い。だが、結核予防ということは保健婦の経験知の中でこそその業務はあり、保健婦がどのような気持ちでどのような方法をとりながら結核患者と接していたのか、そういう保健婦の働きの中に地域生活を置くことも重要なことである。つまり、保健婦を民俗学で見る場合、そこに地域と保健婦双方をみる視点がひつようであるということ。地域生活も大事であるが、同じぐらい保健婦自身のことも重要であることを念頭に置きながら考える必要性がある。この地域と保健婦の関係性が交わるところにこそ、保健婦の真骨頂が見られるではないだろうか。

 ちょっと長くなりましたが、先の保健婦をどう見るかという問題について自分なりに決着をつけてみました。まぁ、これは何かを参照して出した答えではなく、私なりの知識の中でどのような方法が民俗学としてありうるかそういうのを考えた結果です。

2012年12月1日土曜日

保健婦をどうみるかということ。

 おはようございます。朝から小難しいことをやっています。といっても、これが頭のトレーニング的なもので、アイドリング的な何かだと思っていますのでご容赦ください。

 えっと、以前「保健婦と民俗学」のことを触れておりました折に、私は保健婦を職業として見るのではなく、人間として見るべきであることを主張させていただきました。今もその主張は変わらないのですが、その件について若干考察を加えてみたいと思います。

 なぜこんな重箱の隅をつつくような考察をするかというと、民俗学では保健婦という言葉自体が概念を持って定義されているものではございません。この職業性というものも全体を把握できるまでは至っていないのです。そもそも、私たち一般のイメージにしても、保健婦というのは保健所勤めの方であったり、公衆衛生の専門家だったりと職業方面で何事も決めてしまう帰来があります。別にそれはまちがったことではありませんし、見知らぬ人を判断する時彼らの仕事から彼らの人柄を探るべきであり、それをもって他人を他人として見つめるのですから。ちょっと哲学チックになりましたが、要するにですね、保健婦というものを私たちは、その職能でもって判断し、彼らの活動を規定してしまっていないかと思うのです。なぜこれを「しまっている」と申し上げているのかというと、保健婦の活動というのは、これは戦後しばらくとか戦前もそうなのですが、地域に出て地域で住民と接しながら試行錯誤しながら行っていました。また、全くの無医村地域に出向くこともあり、そこには「保健婦」っということに触れたことがない方が大勢おられるのですから、そもそも職能云々の話にもならなかったりします。そうなると、保健婦の活動をそのまま職能だけにしてしまったら、これは地域での活動の一場面をかなり狭めて考えてしまっていないのだろうかと思うわけです。例えば、母子保健活動一つをとっても、出産の介助、産婦のケア、育児相談という助産資格をもつ彼女らからすればその専門性にかなったことをしていますが、それと同時に妊娠に関する相談ごと、それ以前の交際に関すること、家庭のことなどなど単に出産という場面だけでなく、もっと包括的に出産を取り巻く生活面において彼女らが果たした役割も大きいのです。だから、彼女らを母子保健の専門家としてみるのは彼女らの一部分しか見ていないことにもならないかともうわけです。また、違った見方をするならば、生活全体を通じて出産とかの部分を切り出して、そこに保健婦をはめ込むという作業は、どことなく不揃いなパズルのピースのようであり、前後関係とかそのほかのことをあまり考慮に入れていないのではないかとも思ったりします。つまり、生活全体の連続性のなかで彼女らを再確認すべきではないかと考えるわけです。

 おっと、突っ込んだ話に突然なってしまいましたが、そういうわけで保健婦の職能に関する見方というのをどう考えていくかというのが焦点になってきます。

 保健婦の職能については専門誌である『保健婦雑誌』や『生活教育』でたびたび取り上げられていますが、ただ記事内部でも「保健婦手記」など実務をうたった場合、保健婦の活動はいわゆる公衆衛生の専門としての部分はもちろんではあるけど、それよりも雑多な村人との関係をにおわす話が多いように感じます。雑誌のほかの記事においては、保健婦はこうならなければならない、理想的な保健婦の専門性はこうだというように高らかにうたっているにもかかわらず、それが「保健婦手記」になるとその実際の部分では、村人との良好な関係性を築く意味でも、単なる臨床屋みたいなことばかりをやっているわけにはいかなくなるというのです。民生委員の仕事をしたり、役場の連絡係をしたりなどなど、その職能に当たらないことも含めて彼らの「仕事」となっているのです。「仕事」と書くと、いかにも専門性をもった感じに受けるかもしれませんけど、どちらかというと使命感のような漠然とした目標として考えてください。

 じゃあ、保健婦の活動は職能でなければなんなのかということなのですが、先にも示した通り人間関係の構築という部分、構築というよりも補強という部分で、より人間らしい一面性を含めた能力というものもあるのではないかと思います。よく保健婦を女性としてとらえる場合もあるでしょうが、この場合ちょっとそれは別の議論になるので置いておきます。女性である前に、一個人として、一人間として彼女らは住民と接していることが言えます。人の日常に入るということは、単なる臨床や検診の専門としていては、どこまでも入って行けず、深く関係を築き、彼らをサポート出来やしない。その中で、保健婦がとったのは、医師や看護婦や助産婦にはない、日常的な付き合いとして活動であったのではないかと思うのです。言葉はどうかわかりませんが、なんでも屋といえばいいのでしょうかね。そういう感じです。村の人々にとっては、医師も看護婦も助産婦も保健婦も区別はつかないのでしょうが、しかしながら保健婦は民生委員などとのつながりもあったりして、その立場的にたんなる医療従事者としのそれではないのです。そういったことを念頭に置いて、保健婦の実際をみていくべきではないかと思うわけです。

 多分、これまでの民俗学でもし仮に「保健婦」を扱うものがあったとするならば、それはその職業として彼女らが「いた」ことを証明することはできても、彼女らが村人と接しながら「いる」ことを観察してはいなかったのではないでしょうか。保健婦をその専門職としてのみ扱い、村人との関係性からは論じない。そういった風潮があるように思います。これは別段保健婦を特別視しているわけではないのですが、医師や看護婦、助産婦についてもそうです。彼らの日常的な取り組みについてはどうであったのかという部分に関する考察というか視線というものは、私見の限り研究がないのです。研究がないというのはどうしてなのか。それは一つに、保健婦などを村から切り離して考えているからではないでしょうか。「外部者」として扱うみたいに。村の一員ではなく、村の外から来た人としての視点で見られ、影響は与えてもそれは一時的なものであり、村の連続した生活の中ではさほど重要なことでもないと考えられてきたのではないでしょうか。しかしながら、それは誤解で、保健婦も含め医療従事者はどこまでも「外部者」ではなく、どこからか「内部者」として村のうちにあることを十分考察しなければならないと思うのです。確かに、保健婦がいなかった地域に、ぽんっと保健婦が現れた場合、最初は「外部者」としてそれをみる場合はあるかもしれませんが、保健婦の活動は日常の些細なことも含めて生活にダイレクトにかかわっていることもあり、その接触期間というのは医師や看護婦の比ではなく、それこそ連続性の中で位置付けられるものであると思います。「外部者」という線引きで語られるほど、保健婦は単純ではないということを申し上げたいですね。

 以上、保健婦の見方について少しばかり論じてみました。まだこれでも十分議論できたとは思えませんけどね。最後に、私の意見はこうです。保健婦の見方というのは単に一面性でとられてはダメだということです。

2012年11月30日金曜日

書評:木村哲也『駐在保健婦の時代1942‐1997』(その1)

 おはようございます。朝から結構ハードなことをしようかと思います。といいましても、そんな大層なものではなく、気になったことをメモにまとめるようにして書評を書いてみようかと思ったまでです。もしかしたら、研究者にとっては物足りない感があるのかもしれませんが、それはご容赦ください。民俗学でもあまりこうした研究というのはまだないので、手探りなのです。

 さて、本日書評をさせていただくのは、木村哲也氏の『駐在保健婦の時代1942-1997』という医学書院から2012年に発刊されたものです。保健婦の歩んできた歴史がわかる一冊となっています。これまで、こうしたまとまった歴史の書物というのは、医学史の中では取り上げられてきましたが、保健婦というくくりの中での研究は少なく、また戦後の保健婦の駐在制について言及したものというのはほとんどありません。どこか一文で触れる程度の扱いでしたから。で、ちょっと出てしまいましたが、木村氏の著書の特徴は、保健婦のなかでも駐在保健婦という、戦後において無医村などに駐在して活動を行っていた保健婦を中心に描いていることです。

 目次については以下の通りです。

はじめに

第一章 総力戦と県保健婦の市町村駐在
 第一節 近代日本における公衆衛生政策の外観
 第二節 総力戦と県保健婦の市町村駐在
 第三節 戦時高知県における保健婦駐在活動の実態

第二章 戦後改革と保健婦駐在制の継承
 第一節 GHQ/PHWによる公衆衛生制度改革の特徴と問題点
 第二節 高知県における保健婦駐在制の継承
  一 四国軍政部看護指導官・ワーターワースの指導
  二 高知県衛生部長・聖成稔の構想
  三 高知県衛生部看護係・上村聖恵の役割

第三章 保健婦駐在制の概況 高知県駐在保健婦経験者の聞き書きから(その一)
 第一節 聞き書きした保健婦の略歴
 第二節 中村保健所の沿革、管内の状況
 第三節 駐在所
 第四節 交通手段
 第五節 指導体制
 第六節 業務計画
 第七節 家族管理カード

第四章 保健婦駐在活動の展開 高知県駐在保健婦経験者の聞き書きから(その二)
 第一節 結核
  一 家庭訪問指導
  二 集団検診と予防接種
  三 隔離療養室の無料貸与制度
 第二節 母子衛生
  一 助産の介助
  二 障害児への取り組み
  三 授乳や子育ての指導
  四 出産状況をめぐる変化
 第三節 受胎調節指導
 第四節 性病
 第五節 急性伝染病
 第六節 寄生虫
 第七節 ハンセン病
  一 暮らしのなかのハンセン病
  二 隔離の現場で
  三 社会復帰・里帰りを見守る
 第八節 精神衛生
  一 私宅監置の禁止
  二 精神衛生法改正以後
  三 施設入所から地域でのケアへ
 第九節 成人病
  一 栄養改善指導
  二 リハビリ教室
  三 健康体操
 第十節 小括

第五章 沖縄における公看駐在制 保健婦駐在制の関係史(その一)
 第一節 沖縄戦と保健婦
  一 保健婦駐在の実態
  二 指導者たち
 第二節 米軍占領と公看駐在制―保健婦から公看へ
 第三節 公看駐在活動の展開
 第四節 日本復帰と駐在制存続問題
  一 高知県との交流
  二 日本復帰と駐在制存続問題

第六章 青森県における保健婦派遣制 保健婦駐在制の関係史(その二)
 第一節 農村恐慌以降の保健活動
  一 戦時における衛生環境
  二 さまざまな保健活動
 第二節 戦後改革と「公衆衛生の黄昏」
 第三節 保健婦派遣制の実施
  一 夏季保健活動
  二 派遣制の実施
 第四節 活動の成果とその評価
  一 活動の成果
  二 評価

第七章 「高知方式」の定着と全国への波及 保健婦駐在制の関係史(その三)
 第一節 「高知方式」の定着
 第二節 国民皆保険と無医地区問題
 第三節 高度経済成長と無医地区対策
 第四節 「保健婦美談」と駐在制批判

第八章 保健婦駐在制廃止をめぐる動向
 第一節 地域保健法制定の経緯
 第二節 各県の対応
 第三節 保健婦経験者による駐在制廃止への思い



あとがき

 となっています。結構長いのですが、いずれの章も隣接している問題ですので、一個いいっ子がばらばらなのではなく、一つのストーリー上に成り立っているので、読み応えがあります。

 さて、全体的な流れといいますか、まずそこからまとめていきましょうかね。木村氏は祖母に駐在保健婦経験者を有しており、保健婦駐在制について調べるようになったとのこと。「はじめに」でも描かれているのですが、「日本の公衆衛生の戦時・戦後史を、その実質的な担い手であった保健婦に焦点を当てて」、「保健婦活動の一形態である保健婦駐在制を題材とし、その中心的役割を担ってきた高知県の実践を中心に、制度実施の経緯、各地への波及、地域のける駐在保健婦による活動の実態を、一九四二年の制度実施から一九九七年の制度廃止までを通して、歴史学の方法を持って明らかにした」ものとのことです。保健婦駐在制というのは、木村氏によると「本来保健所内に拠点を置いて活動するのが一般的である保健婦が、管内各地に駐在し、保健所長の指示の下、日常的に住民の衛生管理をおこなう携帯を」指すといいます。一般的に保健婦というと保健所で働く人、現在は保健師となっていますが、そういう風なイメージをもたれると思いますが、保健婦はその発足当時二つの潮流がありました。一つは、ご存知の通りの保健所内にいる保健婦。これは都道府県身分の保健所保健婦のことです。もう一つは、国民健康保険の関係で市町村身分の国保保健婦(のちに市町村保健婦へ)があります。駐在制はこの二つの命令系統を一本化し、地区分担をしながら業務を行います。保健所保健婦や国保保健婦が管内や地域内での業務を事業別にして担当するのに対し、駐在保健婦は地域の中に身を置いているためにすべての業務をやらなければならないところに違いがあります。この駐在制の導入は戦前にさかのぼり、一九四二年から健民健兵政策のもと、警察の駐在制に倣い設置されたものではありますが、敗戦を契機に公衆衛生政策も占領下で改革されて、この駐在制も見直しがされていきます。そのような中、一九四七年から唯一高知県で継承され、「高知市式」としてその後の保健婦活動の手本のようになっていきます。また、これと同時期に、沖縄県でも公衆看護婦制度が確立し、アメリカの指導のもと活動が行われて行きます。さらに、青森県でも僻地対策にと保健婦派遣制が独自に導入されて行きました。
 ざっと、保健婦駐在制のことを木村氏の著書に即してまとめてみましたが、要するに地域に駐在しそこで活動を行った保健婦のことを指すということを念頭に置いていただきたいのと、この活動が戦時下の健民健兵によって出されたこと、さらにこの活動が戦後高知県に継承されてその後も生き続けたことを時代背景として持ってほしいのです。
 
 さて、本書の研究史の外観といいますか……その前にこの研究をどのように位置づけるかについて木村氏は、三つの柱から研究を進めています。まずそれを紹介しようと思います。一、医療・公衆衛生史の再構築、二、総力戦体制・戦後改革研究、三、地域研究といった中で駐在保健婦の問題をおいています。詳しくは本書を読んでいただいた方がわかるのですが、簡単に言うと、①これまでの医療・公衆衛生を扱った歴史の潮流は、「近代的価値の進歩の過程として描かれる」ものと「逆に近代批判の文脈で、「権力」として批判的に描かれた」ものとがあり、木村氏は二項対立ではなく、国家と国民のはざまに立つ存在として保健婦に注目し、新たな医療・公衆衛生史を考える。②保健婦駐在制が戦後から始まったとする先行研究が多い中、木村氏は実際は戦時中に生まれた制度を戦後になって地域の事情から継承しているとし、その連続性の中で保健婦駐在制を語る③単に国の政策が地域にあるのではなく、地域同士の連携において保健婦駐在制はどうであったのかということを、沖縄県や青森県の事例を通じてみていく。という視点からおっています。
 用いる資料については、これまで「雑多」なものとして扱われてきた、雑誌類(特に『保健婦雑誌』)してそこから読みとれる駐在制の実態について分析しています。また、民俗学で用いられる聞き取り方法も取りいれ、駐在保健婦経験者からのインタビューを合わせて記述しています。木村氏はこうした方法論について、「本書で扱う駐在保健婦は、決して「国家指導者」でも「底辺民衆」でもない。むしろそのはざまに立つところに固有の活動領域があるのであり、これまであまり明らかにされてこなかった子、こうした対象への接近方法として、聞き書きという方法は有効であろう」と唱えている。また、これは同館で私もこのことついて強く主張しておきたいのですが、助産婦や看護婦もある意味保健婦と同様の活動を行っていることは、数多くの研究からなされています。但し、助産婦も看護婦も決まった臨床の場でしか活動することがなく、保健婦はそれと違って、「より日常的に密着した且つ度の場を持って」いて、それをみつめることこそ、今まで注目されてこなかった領域での実践を明らかにできるではないだろうかと述べています。将にその通りでしょうね。「より日常的に」あるあたりに、単なる医療史とか制度史としてのそれではなく、保健婦の人間史的な部分があるのだと私は思っています。
 あと、木村氏は「実際に地域で衛生指導に当たった人々の意識や行動が、地域住民の生活の改編とどうからみあっていたのか、その実態を十分に明らかに」したいと述べて聞き取り調査の有効性、保健婦経験者が語る歴史の重要性を述べています。これは、保健婦の柔軟性という部分にかかわってくるのでしょうが、私も聞き取り調査で分かったのですが、保健婦は国家からの命令をそのまま流用するようなことはあまりしていません。その地域に合った、その住民に合った形での最善策として指導を行っていますし、そこに感情や意識があり、地域住民との関わりがあり、それで生活を見つめていたことがわかっています。その点において、意識や行動がどう生活の改変にかかわってきたのかを見つめることは、大変意義のあることなのです。これは歴史学だけではなく、隣接する民俗学においてもそうだと思います。

 さて本論に入りますが、あまりに長々としてしまったためか、退屈になると思いますので、一度ここで区切っておこうと思います。(つづく)

2012年11月26日月曜日

民俗学で保健婦を考えるということ。

 朝から失礼しますね。保健婦活動について、『生活教育』の「保健婦手記」や、出版されている保健婦に関する記録類をみていて少し思ったこと。

 保健婦という職業は、医学的、衛生学的な視点からの生活指導を主たる目的にはしているが、実際地域での活動をみてみると、単にそれだけではなく、生活学的、教育学的な視点からの生活に根差した指導も行っている。また、指導といっても上から下への命令的な指導ではなく、地域の事情を踏まえ、その上での活動を展開している。つまり、地域住民にとって近しい関係にあり、それでいて専門性を有していることになる。さらに加えるならば、保健婦はその職業としてのそれだけにあたるのでは、地域住民との信頼関係を築けないため、同じ目線に立って考えることをしている。いうなれば、職業としての「保健婦」ではなく、もっと人間性としての「保健婦」がそこにあるのではないかと思う。

 保健婦に関する民俗学での研究は、直接的なものとしてはあまりなく、近年出版された木村哲也氏の『駐在保健婦の時代』が最新のものであろう。木村氏は、著書の中で高知県の駐在保健婦について触れ、彼女らの活動がどのように展開し、どう位置付けられていったのかという部分について詳しく論じられており、これまであまりみられなかった保健婦の総体としてどのような経緯を戦前戦中戦後とたどってきたのかを明らかいにしている。保健婦というものがどのようなものであるのか、はたまたそれがどのように歴史的に位置付けられるのかという点において、木村氏の著書は素晴らしい内容である。木村氏のほかに、このような保健婦を扱う研究は今のところない。助産婦のことについては、出産の変遷の場で論じられることはあっても、保健婦はそうした論じられ方はしない。しかしながら、出産の場にしても保健婦の存在というのはかなり大きい位置を占めている。母子保健に関わる活動には、助産婦だけでなく看護婦、そして保健婦も深くかかわりを持っている。つまり、出産一つにとっても保健婦の位置付けというのはかなり大きいはずだ。にもかかわらず、これまで民俗学では保健婦ということにつて触れてこなかった。これはどういった意味があるのだろうか。現時点ではあまり資料がなく、どういう意図でこれを避けてきたのかはわかっていない。産婆や助産婦の役割が前面に出て、保健婦の活動についてはあまり表だって出てこないのではないだろうか。但し、こうしたことは誤りであって、保健婦活動は母子保健という立場に立てば、産婆や助産婦よりも、母と子に対してかなり密に連絡を取り、妊娠前後から出産後にいたって、子どもの成長などを見届けるなど、かなり長いスパンにわたり関与している。このことを思えば、助産婦などが一時の活動であるのに対し、継続的な関与として保健婦が位置付けられる。このことを今一度見直す必要性があるのではないか。また、母子保健に関わらず、保健婦活動は多岐にわたり、健康、衛生の教育普及に始まり、身の上相談的なものもこなす。ある意味地域のアドバイザーとしての側面が強い。彼女らを地域の中でとらえることは、地域生活の機微をとらえることにもつながるし、保健婦と住民との関係性をみるなかで、生活変化の考え方の一過程をみることができる。つまり、保健婦という存在は地域の民俗において、多大な影響を持っており、その活動の隅々をみることにより、地域生活の変遷過程を細かく見ていくことができるのではないかと思うのである。

 民俗学での保健婦の取り扱いについて述べてみたが、これは試論であり、まだまだ分析する部分は多いと思う。生活の部分だけではない。保健婦が及ぼしたのは精神的な部分においてもそうである。健康観や死生観などそうした生活を規定しうるものにさえ、彼女らの影響がみられる。分析の仕方、研究の切り口でいえばまだまだ未開拓地である。このことを踏まえ、民俗学における保健婦の位置付けを今後も考えていきたい。

 また、これは私の持論ではあるが、保健婦の活動をとらえることを、単にその職業性をもって、専門性を持ってとらえようとは思わない。どちらかというと彼女らが、地域住民と具体的にどう接し、どういう感情を用いたのかという人間性という部分において、彼女らの活動をみていくことにしたい。というのも、助産婦にしろ産婆にしろ、その専門家的な位置づけがされてはいるものの、彼女らが地域でその専門性以外にどう付き合ってきたのかということはこれまでの研究で明らかにされていない。保健婦も同じくその方面が強い。そうした意味においても、彼女らの住民との接し方をもう少し具体的に見つめ、単に活動を追うのではなく、彼女らの人間としての動きを立体的にとらえ、それを地域社会でどう位置付けるのかを問うてみたい。

 具体的にどのような方法論で行うのか、どのような資料を持って述べていくのかについてだが、私はこれまで述べてきたように『生活教育』にあるような「保健婦手記」での記述を、その資料として用いたいと考える。『生活教育』で述べられる「保健婦手記」は、保健婦の経験を内外的に示す役割を担っていた。この投稿をみていく中で、保健婦がどのような苦境に立たされ、そのたびにどういう判断をし、どう切り抜けていったのかというような事の顛末が記されている。この記述には、単に活動の内容だけでなく、保健婦がどのように地域住民と接し話していたのか、また地域住民がどのようにそれに応答していたのかといった具体的な経緯を知ることが可能である。つまり、「保健婦手記」をみることにより、保健婦の内面、そして地域での受容をみていくことにもつながるのである。但し、問題はある。『生活教育』という雑誌は「保健婦手記」に対して、その選考過程において文章的表現力を指導し、巧みにその記述を操作しようとしている部分が否めない。つまるところ、この文章が実際の活動であったのかという部分においては疑問が残る。保健婦がどのような過程からこの手記を描くのかという部分についても分析が必要であるし、どういう選考基準になっていたのかということも念頭に置くべきだろう。しかしながら、こうした問題点はあるにしろ、「保健婦手記」は保健婦の内情を知る上で必要不可欠な資料であり、これを読み解くことは民俗学的にも、地域の生活の変化を知りえる上で重要なことであろう。今のところ、方法論というのについては、比較をとるべきか地域の中での歴史的変遷をとるべきか悩む部分ではあるが、私は少なくとも比較するべきものではないと思っている。その保健婦個人個人が地域で行き当たった問題というのは、同じケースであってもそれは見方が異なるし、保健婦の経験知からしてもやはり違った見方があって当然である。そのような場合、比較をしたところでそれは何の意味があるのだろうか。地域比較をしたところで、どういったデータをとれるというのだろうか。それは全く保健婦の人間性とか地域での根差し方とかを無視した論になりかねない。私は、そういった意味では地域の中で彼女らが果たした役割とその活動により変わりゆく生活を見つめる方が有意義ではないかと思う。その意味も、歴史的変遷をみていく方で方法論は考えてみたい。

 以上のように、民俗学で保健婦を考えるということを書いてみたのであるが、この分析はまだまだ試行錯誤の段階であり、幅広く意見を聞きたい所存である。何か不明な点があればご指摘いただきたい。

2012年11月24日土曜日

『生活教育』の特性と「保健婦手記」

安曇野にてのメモ書き

 保健婦資料館所蔵の『生活教育』を拝読し、一つ気になったこと。『生活教育』という雑誌において「保健婦手記」はどのういう記事として扱われていたのか。その当時、保健婦の読み物または参考書として出されていた『保健婦雑誌』は、記事の特性からして専門的、学術的なものに対し、『生活教育』はどこかしら、そういった学術的な記述というよりも、保健婦の心構えのようなものがその特性となっている。細部の記載については現時点で判断できないが、『保健婦雑誌』は技術、学術系とするならば、『生活教育』は保健婦の規律、規範を重んじる精神系のものではないだろうか。その中では特に目につく記事が「保健婦手記」である。これは読者である保健婦による投稿で成り立っており、日々の業務で感じたこと、経験して学んだこと、困ったことなど様々な記述がなされている。また、この記事は選考会が開かれており、多数の投書から選ばれたものだとわかる。その選考理由も編集委員の意見としてまとめられている。編集委員の中には丸岡秀子の名も見られ、あらためてこの記述が社会教育的な側面を有していることがわかる。さらに、本誌は投稿者と委員との対面形式だけをとらず、広く読者からの意見や声を合わせて記述されているあたり(「おたより」欄)に参画型の取り組みがなされていることが考えられる。「保健婦手記」に書かれた活動の内容や心情は単なる発言に留まるのではなく、本誌を介した共有性をもった内容であり、各道道府県で働く保健婦全体に訴えかけるものがある。先の選考にみられるように本誌は、保健婦の教養にも使われ、意図的に選考し表彰することで、各人に保健婦の理想や規律を促している。「保健婦手記」はそういった意味においては、日々仕事に精を出している保健婦への教養と励ましを与えるものであろう。

上記のメモ書きは、11月22日に安曇野で私がメモ書きしたものをうつしたものです。私が保健婦資料館で拝読した『生活教育』の「保健婦手記」欄をどうみるのかということを考えてみました。雑誌にどういった特性があり、その記事にはどういった意図が見られるのかという点です。

保健婦資料館と保健婦資料

 こんにちは。お久しぶりです。さてと、Twitterで私の発言をご覧の方はご存知だと思いますが、先日まで長野県安曇野市へ行ってまいりました。

 風光明美なところで身体も心もリフレッシュしました。

 なぜいきなり長野県安曇野市かというと、穂高に「保健婦資料館」という施設があり、そこには保健婦関連の資料がかなり豊富に取りそろえてあるということをTwitterで知り合った方から情報を頂いたからです。

 これまでのブログの記述からわかるとおり、私は生活改善の中でも保健衛生活動、とりわけ保健婦の活動を取り上げて研究しておりました。しかしながら、研究しているとは言っても保健婦がどのような存在でどういう活動を主たるものとしていたのか、どういう風に地域に入って行ったのかというのを聞き取りでしか知らず、基本情報としての知識があまりに少なかったのです。そこで「保健婦資料館」のお話しをいただいたのでして、これを機に一から保健婦という存在について勉強してみようと思い、いろいろと資料を集めてみたいと思ったのです。

 これまで、私自身フィールドで資料を追うことはあっても、本格的な資料調査というのをしてきたわけではなく、どういう資料がそこにあるのか、どういう調べ方ができるのか、またどういう資料を選んで研究すべきなのかということを結構悩んでいました。正直なところ私の保健婦のイメージは、村の中で臨床を取り扱ったりする専門家という位置付けでしかなく、私の論文でも彼女を取り扱うのはどうもその職業性のみで語ってきたきらいがあります。しかしながら、保健婦の語ることについてよくよく考えてみると、ただ単に臨床でやってきたわけではありません、公衆衛生の知識を広く村人たちに触れて回るのですから、彼らの生活の中に直接入っていくことをしなければ、うわべだけのその場しのぎの活動になってしまいます。私が、兵庫県宍粟郡(現宍粟市)でお話しを聞いたA保健婦は、こんなことを申されていたのを今でも覚えています。「衛生環境が悪いことを説明するのに、まず生活をみてからじゃないとわからない。家庭訪問の際は些細なことでも、訪問家庭の生活事情を記録し、それをもとにしてさまざまな(公衆衛生活動ないし、保健)活動をおこなった」という。つまり、保健婦は村の生活について理解をしなければならず、そのために家庭訪問を繰り返し行い、そのたびに衛生知識の普及に努めたというのです。保健婦はこうした村人の立場の中に身をおいてこそ実践が可能のあのであって、単に臨床の現場だけを抑えておかばいいというわけではないのです。

 そうしたこれまでの調査でうすうす気づいていたものを少しずつ考えていくことがこのところの私の作業でした。そこで、はたと気づいたのです。保健婦というのを職業として、保健活動を業務としてみているのでは、民俗学の中で保健婦を取り扱うのはかなり無機質になってしまわないかと。要するに、活動の流れや地域での位置付けをするだけでは、民俗とのかかわりは描けないし、たとえ描いたとしてもそれは人間の営みのなかでの生活と活動との間に隔たりをもったものになってしまわないかと。そういう心配をしたのです。よくよく考えてみると、保健婦というのは先にも話した通り、村の中に身を置いて活動しているわけですから、生活に深く根ざしており、民俗にも多大に影響を与えていたのではないかと思ったのです。人々の生活意識において保健婦が与えた影響は民俗学としても無視できないのではないかなと思ったのです。そして、これが重要なことなのですが、単なる活動の記述として民俗学で保健婦を扱うのではなく、村人と保健婦がどういう風に接してきたのか、そこでどのような生活への取り組みが向けられていったのか、その時どういう感情があったのかということも含めて立体的に活動をとらえる必要性があるのではないかと。今までの私のやり方っていうのはそこらへんの立体感にかけていて、どこ無機質な記述になっていたのではないかなとおもったのです。

 そこで、話は少し戻るのですが、保健婦資料の中に「保健婦手記」という保健婦の活動を記録したものがあります。この資料は、度々書籍として刊行されており、私もそれを何点か集めています。その中で重要なのは、彼女らがいかに活動したのかということと同じぐらいに、どのような思いでどういう風に接してきたのかという、業務にかかわる苦悩や喜びといった感情が描かれていることです。保健婦は専門家ではありますが、その前に一人の人間として職務に当たっています。つまりそこには人間らしい、その表情豊かな記述があるということなのです。そこで、今一度この資料類をみていくことで、どうにか保健婦活動を立体的に描けないものかと思ったのです。保健婦活動はなにも兵庫県だけが特別ではないし、日本各地で様々な活動が営まれ、各地の保健婦は創意工夫しながら村の中に身を置き活動しています。そのことをもう少し知りたかったというのが、私を「保健婦資料館」へいざなったと思うのです。

 保健婦資料館で所蔵されている資料の中には、そうした手記類は多数あります。そうした記述を丹念に見ていき、そこから民俗学にアプローチしてみることもできるのではないかと思っています。私のアプローチ方針としては、「保健婦手記」や保健婦の証言から、村人の生活にどういう風にかかわり、どういう風に変えようとしたのか、またそこにはどのような葛藤があり、どういう賛同をえたのかといことを今一度民俗学の中で位置付けてみたいと思うのです。

 これまでの研究が生活改善という言葉にゆらされて、どこかしらあまり有益な情報を得られていませんでしたので、保健婦というキーワードにもう一度立ち返って、考え直す必要性もあるのではないかと反省したことが今回の収穫です。

2012年10月8日月曜日

2012年日本民俗学会年会発表原稿


おはようございます。つい昨日行われた日本民俗学会での発表を公開します。ちょっと失敗してしまいましたけど、ようするに私のやりたいことはコレだということです。

 

生活者にとっての「生活改善」

-兵庫県宍粟郡千種町における「生活改善」の受容と背景-

 

1.はじめに

 本発表は兵庫県宍粟市千種町の昭和30年代から50年代にかけておこなわれた「生活改善」(地域保健活動)の実態を明らかにするとともに、それが地域にどう受け入れられていったのかという過程を、地域住民である生活者の視点から追うものである。生活者にとって「生活改善」とはどのようなものに映り、そしてそれが行われることに対してどのような心情を持っていたのであろうか。それが今回の発表の目的である。

 まず、生活者にとっての「生活改善」を述べるに当たり、従来の研究でこれがどのように扱われてきたのかを述べてみたい。そもそも、この生活改善と称する活動はどのようなものであったのか、田中宣一氏はこう述べている。「政府および政府関係機関の施策と、それに啓発された自治体及び地域や家々、さらには諸団体が、自らの生活の改善向上をめざす創意と努力」とし、生活の近代化、合理化を目指した活動である(田中 2011)。こうした活動は明治期からその萌芽がある。大正期には生活改善同盟会という組織が、都市部を中心に勤倹貯蓄、時間励行など様々な面で生活の改良を目指し活動を行っていた。戦前戦中も富国強兵の風潮の中、都市、農村といった広い範囲において生活設計の見直しを迫る活動を行っている。戦後には、GHQの指導の下、農林省が農業などの生産生活またそれに伴う農民の生活の近代化合理化を目指し生活改善普及事業や、新生活運動協会による農村の社会教育などの興隆を目的とした新生活運動、また他にも公民館活動や保健所活動などといった組織がたちあがり、多くの地域、とくに農村をターゲットに戦後農村の疲弊からの解放、民主化徹底を目的とし様々な形で活動がなされた。

これが生活改善の大まかな内容である。従来の研究ではこの活動をベースに、その団体がどのような理念で、どのような活動を行ってきたのかを詳細に描いている。最近のものでは田中宣一氏編集の『暮らしの革命-戦後農村の生活改善事業と新生活運動』(農文協 2011)が新しい、また新生活運動の歴史的経過をたどったものとして大門正克氏編集の『新生活運動と日本の戦後-敗戦から1970年代-』(日本経済評論社 2012)もある。ところが、団体の活動史としての側面が強く、地域の活動においても団体と地域グループとのかかわり、それを中心に行われた活動の概要といったように、すべての物事に対して団体を経由している。受け手である生活者像、生活改善に対する彼らの姿勢というものは現れてこない。生活改善とは生活者やそれをとりまく地域環境、社会環境などの中で、生活者が改善を必要と判断し取り入れるなかで生じた、結果としての生活の改善であって、あくまで団体はそのきっかけである。ここで、合理化近代化を前面に出さないのには理由がある。生活の合理化近代化という目線は、どれも地域生活を外部から覗いた言葉であり、生活者にとってそれは外部の意見でしかない。生活者にとって生活改善はそのような理想的な形を常に取っていたわけではない。生活者の都合は、地域生活における生活者の思考の中にあり、その都度改善をするかどうかを選択し、その都合に合わせて変えられていくものである。生活改善という活動がこれまで団体からの目線で研究されてきたのは、生活者、末端部において、それがどの団体の活動かは明確に区別されておらず、実態を知るには団体の記録を通じてしか、その存在が明らかにされていなかったからである。だが、生活者にとって生活改善は団体としてのそれだけはない。生活者の様々な考え方が交錯し、生活全体がその中にあることを考えなければならない。これらのことから、私はこうした生活者からの視点を括弧書きの「生活改善」として扱い、従来の研究とは少し離れた、受容される側から活動を眺めてみようと思う。

 

2.兵庫県宍粟郡千種町の生活改善の動向

兵庫県宍粟郡千種町は鳥取県と岡山県との県境に位置し、周囲を山林に囲まれた町で、千種川を挟むようにして集落が点在している。生業は農業と林業が盛んである。この地域で生活改善が起こったのは昭和32(1957)年、小学生児童の成長不良の発覚からである。欠食児童や栄養不良児が多く、その原因は地域の食生活環境にあるのではないかとされた。そのため、給食を実施しその是正にあたった。この給食の実施を契機に、町内の各地区で料理講習会や勉強会などといった自主的なグループ活動が行われ、食生活の向上に向けた取り組みがなされた。こうした取り組みが行われていたものの、依然として地域の生活環境は悪く、奇形児や乳幼児の死亡率など子どもだけの身体をとっても問題は山積みだった。

そのような中、昭和35(1960)年、当郡初めての町保健婦としてA氏が赴任することになった。彼女は、保健婦として就任するとすぐに、母子保健活動や地域の衛生環境の調査を行い、町内全戸を回る家庭訪問を実施した。これを事細かに記録し、どのような生活環境にどんな病気があるのかを調べた。また、彼女は調査をするだけでなく、積極的に地域に入り食生活に関わる栄養指導や衛生知識の普及に尽力した。この当時大きく問題となっていたのは、その食生活における環境であった。まず、米飯中心の栄養の偏った「ばっかり食」が横行していたこと。次に、母親の過労から食生活への気配りができなかったこと。さらに、衛生環境が整っておらず回虫などの健康被害が著しかったことがあげられる。A保健婦はこれに着目し食生活を改めるアクションを起こした。これにより、問題の存在が徐々に周知され、生活者自身が自分たちの問題として意識し出すようになった。彼らはこのA保健婦の声に耳を傾け、健康に関する知識を積極的に取り入れようとする機運が高まった。A保健婦は、このような中で、自分が積極的に関与することもさながら、生活者が自発的に問題に取り組んでこそ解決につながると考え、地域で活躍していた婦人グループに着目し彼らとともに活動をしようとした。そこで、昭和43(1968)年、「家族の幸せは自分たちの手で」、「健康で明るい生活を」とのスローガンのもと千種町いずみ会という組織を作り上げた。この組織は地域の婦人会のもとにおかれ、組織的な改善活動に勤しむこととなった。主な活動は栄養師を招いての料理講習会を通じて行われた食生活改善や栄養改善の実施、A保健婦を指導者に衛生や健康に関する知識を身につけることで、地域の衛生環境の是正を図ることなどを行った。具体的には、これまでの米飯一辺倒な食事を見直し、強化米(ビタミン剤入りの米)や麦飯の推奨、おかずの種類を増やして栄養バランスのとれた献立にするなどの工夫がとられ、飯にたかっていたハエを遠ざけるために、その温床となっていた厩や便所を別棟にしたり、台所環境を整備する等の住宅改良にも着手した。さらに、回虫の駆除を進んで行い、保健所より無料散布されていたマクリ(虫下し)を湯で溶かしそれを児童らに飲ませ、寄生虫のもととなっていた田畑への糞尿肥料の散布をなるべく控えることを呼びかけた。また、こうした生活環境の是正と同時に、町内全域を中心とした健康診断を実施し、昭和30年代後半から40年代当時に問題とされた高血圧や脳卒中などの病気を発見し、それについての講習を町の国民健康保険診療所と協力して、病気の早期発見と予防、そして生活改善への体制を築き上げた。その後この活動が行政の目を引き、町が健康政策を打ち出すと同時に、彼らに予算を振り分け、その活動を支えていくこととなった。それとともに予防活動のほかに健康増進に関わる活動も見られるようになり、当時の成人病に対応した基礎体力作りや運動などの設備が整えられることとなった。この活動はA保健婦が就任していた昭和50年代にまで千種町内で続き、活動は郡全体へ県全体へというように拡大していった。ところが、A保健婦の退職と同時に活動は衰微し、大規模な検診は保健所のそれと変わり、食生活改善は単なる料理講習に切り替わってくるようになった。年々参加者は少なくなり、活動の形骸化から現在は行われなくなった。

生活改善は千種町いずみ会の熱意とA保健婦の補助により、速やかに行われ、この相関関係こそがその受容のありようだと思っていた。ところが、そう簡単に生活改善が受容されていたのではない。生活者が生活の改善を必要とし、活動を選択した結果が生活改善につながるのであって、団体の生活改善がそのまままかり通るとは限らない。そのため、活動を進めようとする団体とそれを受け取る地域住民の間には、その活動をめぐっての軋轢や数々の葛藤があり、数々の接触を経て実るものである。だから生活改善を団体から見る視点ではなく、今一度生活者の目線で見ていく必要がある。また千種町のそれは、「保健衛生」や「健康」をキーワードにして行われており、その活動の受容にはそれらの価値観の変動が大きく関わっている。それらも含めて、生活者にとっての「生活改善」を考える必要性がある。

3.認識されるまでの道のりと葛藤

(1)医療への誤解と、健康に対する地域住民の不理解

団体の生活改善が生活者にとっての「生活改善」につながるには、まずにその活動の有効性が問われる。その活動が自分たちの生活にとって有効であるのか、本当に必要であるのかという部分において納得ができる状況でない限り受容されることはない。戦前戦中期の生活改善はこれらを無視した上からの圧力的な活動ではあったが、戦後の活動はどれも民主的な采配によるところが大きく、受け入れるか否かは生活者の受け取り次第ということになっている。もちろん、それにむけての活動努力は団体が行うことではあるのであるが、結局のところ生活者の必要性がなければ形骸化されてしまうことになる。千種町の場合、昭和32年の時点で、児童の成長不良ということから、給食を実施しようとする強いアクションが行われる。これは児童の身体というものに対して周りの大人たちが危機感を募らせたこと、周囲の比較を通じて自分たちの身体を見直したことになるのであるが、それにより改善が必要であることを認識し、行動に移した結果である。ところが、この意識というのはその後昭和35年にA保健婦が就任するまで、児童のことという狭い範囲でしか認識されず、生活自体が大きく改善をされることはなかった。食事に対して気をつけることはあっても、栄養知識があったわけでもなければ、衛生に考慮できたともいえない。つまり、千種町で給食がはじめられた当初においては、あまり表だった意識の変化はなく、それを受け入れるだけの必要性を感じていたかというとそうではないのである。そのため、問題は置き去りにされてしまった。

その後昭和35年にA保健婦が入ってくるとこの問題に少し明かりがともされることとなる。A保健婦は家庭訪問を通じ、地域の問題の所在については明確にとらえることができたのであるが、生活者にそうした話をする機会はなかなかなかった。その原因となったのが、地域における「保健婦」に対する偏見であった。当時医療従事者というのは国民健康保険診療所が千種町千草に一軒あるのみで、それ以外の医療機関というと、郡内にあった博愛病院の存在、それと保健所であった。千種町で病気やけがをすると、軽いものであれば診療所に診ることはあったものの、重い病気や手術を要するものになった場合は、郡内を離れ隣の町である佐用郡佐用町にまで出ていかなくてはならかった。医療費の他交通費のこともあり、医者にかかることはかなり慎重なことであったという。また、千種町の西河内地区など山奥の集落では、病気になることは労働力を割くことになり、また家族の迷惑や主人や姑に気兼ねすることもあってか、病気になってもよほどのことがない限り医者にかかろうとはしなかった。そのような環境下の中、A保健婦は地域を巡回していたわけであるが、医療従事者に慣れていないせいか、保健婦の存在を見たときに、「結核を診に来たのか」「それならここにはおらん、出ていけ」と冷たくあしらい、A保健婦の家庭訪問に対して強い不快感を示していたという。こうした周囲からの忌避されることが多かったため、大きな活動に出ることはできず、何度も地道に家を訪問するしかなかった。門前払いをされることも多々あったそうだが、それでも何度も訪問して理解を経て家に上がっていたという。

また、病気や怪我等に対する人々の認識は「ほっておけば治る」というものであり、症状が進行してから医者にかかることが多かったためか、手遅れの患者が多かった。このため、A保健婦が地域に入ってみたのは悲惨な状況であったという。我慢したことにより症状が進んでから病院にかかることが多かったため、普段からのこまめな治療はできなかった。こうした地域環境がきっかけで、A保健婦は住民の病気への理解を促すために各地区を回りながら、衛生指導を行った。病院にかかること、手遅れにならぬよう病気の知識を持つよう住民に呼びかけた。これも何度か行うことで人々に認識されていった。生活者の中にある病気や怪我や医療従事者に対する理解が足りなかったことが原因であった。

 

(2)地域住民間における団体活動への不理解

次に生活改善が行われていた際に問題となったのが、地域内での生活改善に対する温度差であった。特に、地域で活躍していた千種町いずみ会に対する風当たりという面において、A保健婦の活動同様に難しい局面があったという。千種町いずみ会は当初各地区において行われていた婦人グループを中心にしてできた組織である。グループ活動が行われていた当初は婦人会とは関係なく、あくまで個人同士の付き合いレベルで活動が行われていた。だが、婦人会に所属する姑世代からは関心が寄せられておらず、千種町いずみ会が結成し婦人会の中に置かれるようになった後も、半ば婦人会から浮きだった存在であったそうだ。そのため、こうした目立つ活動を善しとしない人々から嫌がらせの様な事を受けたことが多々あったそうだ。また、会員の家族は、この婦人グループの活動を、どう見ていたのかというと、「婦人会の活動だから」という理由から見守っていたという。千種町いずみ会の活動に対し、それは婦人会の活動であって彼ら独自の活動としての理解がなく、同時に家族らはそれら婦人の動きに対してあまり理解が及ばなかったそうだ。つまり、千種町いずみ会はそのまま地域社会に溶け込んだ団体ではなく、どこか浮いた存在としてそこにあり、婦人会からもあまり関心がもたれず、家族にもあまり理解を示されていなかったことが活動においてかなりの障害になっていた。特に、姑からに気兼ねしながら活動をしなければならないこともあって、最初は細々とした活動であった。さらに、彼らの活動については行政もあまりよく思っていない節があったそうだ。確かに活動自体は地域の保健に関わる重要な活動ではあるものの、昭和43年発足当時にそこへ地域の予算をつぎ込むことに理解が及ばず、活動に対しての評価がなく自費ですべての活動をまかなわれなければならなかった。料理講習会に限らず、千種町いずみ会の活動は幅広く、血圧の測定運動にまで発展した折に、各家に血圧計を置くように役場に持ちかけたが、予算をめぐって行政と対立することもしばしばあったそうだ。こうした地域における生活改善に対する不理解が起きていたことはこれらの活動が受容される中において重要なことであろう。

従来の研究において生活改善は活動記録のみが目立ち、団体がどのように動き、どのように対応したかに焦点があった。しかしながら、受容という場面においては生活者との対立も多少あっただろう。医療に対する人々の不理解や、活動団体に対する不理解というものは大きな問題があり、生活者は「生活改善」の必要性を感じていなかったともいえる。そのため、生活者の反応は薄く、団体が活動したところでそれに対する評価をすることもなく、ただただ見守ることしかなかった。

そこで、A保健婦ならびに千種町いずみ会がとった行動は、そうした不理解を払拭することであった。まず、地域の医療や健康、衛生というものの捉え方を変える必要性があった。既存の考え方を考察し、それを変えるという中で、単に医者にかかることを勧めるのではなく、各個人が病気の知識を有し、健康に対して積極的に感じ、衛生的な暮らしに心掛けることを目的とした。こうした考え方の改善がどのようにして受容されるようになったのかを考える必要性がある。次に、千種町いずみ会の地域内での彼らの動きに対する人々の理解は、単に婦人会の活動であるという認識しかなかった。あまりこの活動の中身について関心が寄せられていなかったこと、単なる若い世代の活動として旧態然とした婦人会活動から切り離されていたことが問題であった。そのため、当初の活動は、細々としたものが多く、消極的であり、はっきりとした結果が得られていたものではなかった。その後千種町いずみ会は、保健婦を招き講話を催し、そこから栄養知識について学び、それを地域に持ち帰って普及するやり方をとっている。そうしたいずみ会がどういう立ち位置におかれ、どういう視点で見られていたのかということも必要になる。

他にも様々な問題点があるが、以上の二つの視点について考えてみたい。

 

4.生活者と健康

(1)生活者にとっての健康

そもそも、この活動は地域の保健衛生の是正にあり、現在から考えれば、至極まっとうな活動であるように思う。ところが、このような考え方がその当時あったかと言えばそうでもない。というのも、先述した生活者と医療従事者の誤認でもわかるように、生活者にとって病は大敵であり、だが同時に病院に入ることをこれと同様に忌避していた。当時の生活者にとっての健康とは、医学的な健康というものとは少し異なり、養生としての健康がそこにあったからではないかと思う。病気は「そのままにしておけば治る」自然治癒という考え方が支配していたことになろう。病院に行くことは労働力を割くことにもつながり、それを回避するべきと考えたため、人々の中には病院は最終手段であった。その日暮らせればいい、その時の状態が良ければいいというくらし方が基本であったため、未来における病気の脅威に対してなんら用意を持っていなかった。病気を長らく放置し、手遅れの状態になることが多く、且つ予防に目を向けるだけの余力が生活者の中にはなかったというべきなのかもしれない。

 さらに、なぜこのような余力がないとか医者にかかることが難しい状態であったのかを問うた場合、経済的な理由と生業的な理由とがあると思う。医者にかかることは多額の費用を要し、それを出すだけの蓄えもなければ、予防にあてられる余裕もなかった。また生業的な理由は、当時この地域では出稼ぎが横行しており、一家の大黒柱である主人が家を空けることが多く、残された祖父母と妻の「三ちゃん農業」が多くみられ、農業人口の少なさのために一人にかかる労働力がかなり多かったこと。さらに妻は子どもたちのためにということで少しでも蓄えを増やすべく、外部に働き口を求め炭焼きなどを行って生計を立てようと試みたがために、一日のほとんどを仕事につぎ込み、多忙な毎日を送っていた。そのため、医者にかかるタイミングもなければ、忙しさのために家庭の健康や予防に手を回せるだけの余力もなかった。後々これについては問題化され、「母よ、家に帰れ運動」というものが実施されるようになってくる。

 ただし、全く健康に対しての考え方が備わっていなかったかというとそうではない。先に記したように昭和32年において、既に児童の成長不良を通じて自己の健康水準の低さを自覚し、それに対して劣等感を持っていたのは事実である。生活者にとってのこの子どもの不健康の発覚はかなりの衝撃を与えた。当時の生活者からの声は「どうしてうちの子が」「今まで何にもなかったのに」「確かにこまいとは思っていたが」というように子どもの健康がそれまでは別段問題にされなかっただけに、このときの健康水準における不健康の烙印は、危機感として内々に健康への疑問が出てくることになった。こうした危機感を通じての健康が省みられ、生活者にとって「生活改善」は必要なものとして意識されるにいたった。その後、しばらく間が空いてしまうものの生活者にはこの疑問が残り、A保健婦が家庭訪問を繰り返し行うことで、単に子どもの問題だけでなく自己の問題として認識されるようになっていった。まとめると、この当時地域内では二つの異なる考え方が混じった状態となっていた。一方では養生という考え方がために病院や医療にかかることを最終手段としておき、実際にかかることは経済的、社会的に見ても忌避すべきものであるとする考え方が支配していた。だが他方では、子どもの健康における疑問から自身の身体やその生活に劣等感を持ち、従来の健康ではだめだと意識的に思うようになった。こうした考え方が渦巻き、葛藤がある中で、生活者は「生活改善」を求めようとしたことになる。

 

(2)生活者にとっての婦人グループ

 次に、婦人会や行政などとの温度差というものについてよく考えてみると、地域社会、村社会として、この新しい組織や考え方に対しての多少の抵抗があった。この原因については推測の域を出ないが、嫁と姑、嫁と家、女性と社会という枠組みの中で語られるものだと考える。つまり、新しい考え方を持とうとする女性、特に嫁世代に対して、古い考え方をもつ姑世代を中心とした婦人会の中で摩擦があった。昭和30年代ごろの婦人会組織は村の中でもかなりの力を持っていたそうだ。そのため、婦人会に所属することは家として村としては誇りとなるものであり、婦人会の活動はかなり高い評価を受けていたという。この背景には男手が出稼ぎなどで町外へ出ており、実質的に家庭のこと村のことで権力を誇示していたのはやはり女性なのではないかと思う。嫁世代が婦人会に加わることはかなり大きな存在意義になっていた。そこへ、新参者である千種町いずみ会が出てくるわけであるが、この会はもともと地区の婦人グループの中におかれていたため、活動としてもそのグループの域を出ることはない。そのためか、婦人会の傘下組織におかれる際、婦人会の権限としての活動を許可されているのであって独立した考え方を有するものではなかった。千種町いずみ会が正式に認められた昭和40年代において、この活動が力を強めていたことに対し、婦人会や姑世代はこれを表面上認めはするものの、陰ではあまりよいものとして見てはいなかった風もある。そのため、食生活改善や栄養改善を行う際、姑の了解や婦人会との接触としてもかなり気を使った。だが、この会が目指したこと、健康に関することについては、姑世代や婦人会の大多数は理解を示しており、また子どもたちのためという建前もあったためか活動に対して正面をきって反対することはなかった。

 さらに行政の反応も同様に、初めのうちはこの活動に対してなんら支援をするということを示していなかった。千種町いずみ会が会として成立するまでの間、様々なグループ活動が地域内で起こってはいたものの、行政がこれに対して何らかの処置、予算配分などを行っていたということは聞かない。この昭和43年以前の段階においては行政の積極的な介入はなく、あくまで生活者の自由意思に任せていたというのがあった。ところが、昭和43年に入ると、それまで黙認してきたものが看過できなくなり、行政の介入が起こってくる。これは昭和44年に制定された千種町健康教育振興審議会条例による健康教育の普及を示唆したもので、同年の体位向上協議会において児童の身長体重ならびに地域の食生活や衛生環境に対し、行政として関心を持ったことによる。ただ、この介入においての予算配分は、婦人会のそれとは別なものであり、金額としても少ないものであった。千種町いずみ会はこの予算枠について、後々A保健婦とともに改善するよう行政に訴え、それで活動資金を手に入れるようになった。行政の意図としても、こうした健康への盛り上がりを受けて、健康増進に前向きに取り組まざるを得なくなり、そこでA保健婦や保健所を交えて地域の健康への取り組みを行政としてどのように取り組むのかを決めていこうとした。予算もその都度において決定され、施行されるようになった。婦人会活動にしろ、行政の取り組みにしろ最初はあまり積極的なものではなく、どちらかというと旧態然とした対応でしかなかったものが、健康を敏感に受けるようになってからはがらりと方向転換をし、千種町いずみ会やA保健婦に対し協力を申し出るというような対応をしている。このことからわかるのは、千種町での健康に関する活動は、すぐに認識され決断されたのではなく、昭和40年代にまでもつれこみ、様々な葛藤の中で生み出されたものであるということである。

 

5.まとめ

 千種町における生活改善の背景にあった諸事情というものについて考えてきたが、ここでもう一度そもそも活動がどうして起こったのか、なぜ活動を受け入れたのかということを考え直したい。

 昭和32年におきた児童の成長不良の問題は、他地域との比較の中で自分たちの健康基準の低さに劣等感を覚えたことに始まった。つまり、この時点において人々の目に具体的な指標としての健康が見え始め、それは従来の生活のままではいけないことを決定づけた。だが、昭和32年の時点では、小学校内での問題として処理され、生活者の中に改善を生みだすことはなかった。その一方で、この児童の給食の件を発端にして地域内での食生活に対する関心が高まり、婦人グループの意識的な活動が行われるようになっていく。細々とした活動ではあるものの、生活者が食生活を見直そうとし始めたことがうかがえる。また、これとは平行して健康に対する問題意識は昭和35年のA保健婦の就任により、表面化することになる。病院にかかろうとしなかった地域の健康への不理解を払拭するべく、A保健婦はたびたび地域を訪れては健康に課する知識の普及に努めた。同時に家庭訪問を通じて各戸に呼びかけを行い、意識的な改革に乗り出そうとしていた。そのような中、地区の婦人グループの活動に出会い、彼女らとともに地域の生活改善に乗りだそうとする。このとき、既に地区内には健康に対する関心が高まり、A保健婦に対する忌避感は薄まり、彼女を中心とした活動に目が向けられていくようになる。婦人グループも当初は婦人会から浮きたった存在で、姑世代との間に考え方の開きがあったものの、活動を通じて特に家族の健康について方針を示していくことになり、徐々に理解を取り付けていった。

 このように、活動は生活者の様々な考え方の下に展開し、段階的にステップアップしていったことがわかる。これまでの研究では活動の足跡をそのまま追うことから、こうしたステップアップという過程についての詳細な分析がなされていなかった。この段階には生活者が何を思い、何のために、どうして生活改善を受け入れたのかという、生活者個々の「生活改善」がそこにあったのであろう。団体史としての生活改善からは導き出されない、生活者の本音の部分における改善のありようは、単に生活改善を活動として見るのではなく、人々の心情の変化においてあるものとして受けとらえるべきだろう。

 最後に、この生活者視点の「生活改善」、特に今回は健康という意識の変化や団体の認識などについてみてきたが、ここで描けるものはすごく狭い範囲でのことであって、全国的にこうした活動の展開がなされていたかいうとそうではない。地域個々の活動にはそれなりの理由や、それなりの受容があってしかるべきである。だから、今回扱ったのは兵庫県宍粟郡千種町の昭和30年代から50年代にかけて行われた活動の、しかも昭和30年代から40年代ぐらいまでの間で起こった事象を取り上げて述べたものである。時代や場所によってその考え方は異なり、活動の性格やその受けとらえ方というものも変わってくるだろう。特に、昭和40年代からは栄養改善により、栄養豊かな食事が提供される一方で、その反動としての生活習慣病が問題化される。成人病診断が町行政の下で実施され、単に予防としての健康から、健康増進、向上のための活動へとスイッチしていく。つまり、その間においても生活者の意識は変化を続け、この活動を見ていたことになる。とするならば、当研究はまだまだ途上段階であり、全体を抑えたものとなっていない。また千種町の活動だけを切り離すならば、彼らの行った活動というのは地域保健活動という医療関係の活動にもなる。そうした視点からの分析も必要であるし、そうした立場から生活改善はどうであったのかをとらえる必要があるだろう。