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2013年5月27日月曜日

NPO法人公衆衛生看護研究所 保健婦資料館付属研究所総会②


平成25526

於:保健婦資料館

保健婦資料館総会二日目報告

 朝からやさしい陽光を受けて起床したのは最高の気分でした。昨晩の総会では保健婦経験者の方々との語らいは何事にもかえられない良い刺激であったし、夕飯の料理は最高で、ピアノ伴奏までついて楽しい時間を過ごせました。

【保健婦資料の傾向】

 朝食前に保健婦資料館の写真を撮ったり、収蔵庫に保管されている資料を眺めたりして過ごしました。収蔵されている資料を拝見していて二点のことについて考えていました。まず一点目としてよく保健婦が現場で経験する際に用いられる社会教育的な要素がどこから来ているものなのか資料で当たれないかという点、二点目は農村や農民自体を保健婦がどのような視点で見ていたのかという確証を持てる資料がないかどうかという点でした。結論的に言えば、保健婦資料館に所蔵されている資料の中ではそれらの占める割合は少なく、必ずしもこれらの資料を活用して活動をしていたわけではないことがわかりました。二点目については、菊地頌子氏と名原氏曰く、「農村や農民の実態については、資料で確認するというよりも、現場で確認することが多かったし、保健婦養成の教育課程で都市と農村の両方に実習へ向かうことでそこから知識を得ていた」ということでした。なるほど、現場主義らしい保健婦の証言でした。尚、補足的に見られていたとされるのが社会学的な調査項目が掲載された古島敏雄氏ら編の『農村調査研究入門』(東京大学学出版 1980)で、この農村や農民への関与は保健婦にとって最大の関心ごとでもあったと考えられます。また、もどって一点目については、これは私の雑感なのですが、昨晩菊地氏との会話の中で保健婦の現場での活動、特に教育活動においては社会教育的な思想がかなりの割合でかかわりを持っていたこと、『生活教育』などの生活記録、生活綴り方運動との兼ね合いから全くもって無関係であったとは言い切れないと思います。

【総会発表において】

①3.11での保健師の証言から学ぶ

 朝食後、菊地頌子氏の発表で「原発事故と福島の保健師たちの現状」として現在保健婦資料館が取り組んでいる記録映画『1000年後の未来へ、3.11保健師たちの証言』の中で、どのような聞き取りが行われ、さらにどのような証言が得られたのかを個別事例を出しながら詳細に報告されました。東日本大震災は未曽有の大震災として、大きな津波被害もさながら、福島県の原発事故によって多くの方々が故郷を追われるという事態を招きました。ニュースで何度かこういうことを伺ってはいたのですが、その渦中で保健師たちが何を行っていたのか、どういう風な思いでそれにあたっていたのかという証言を集めたこの発表は、後世の保健師にとって災害時の保健師の在り方を問う意味において重要なものではないかと考えます。映画は是非とも見たいと思いました。また、菊地氏より全国保健師活動研究会編『3.11ドキュメント 東日本大震災 原発災害と被災地の保健師活動』(萌文社 2012)を譲っていただき、この発表の詳しい内容をまた本で確認できるようになりました。菊地氏には感謝いたします。

②公設産婆と総合保健活動

 続けて、元福井県立大学短大部地域看護学を担当されておられた藤下ゆり子氏より「福井県の保健婦のあゆみ」の報告がありました。特に戦前から戦中にかけての福井県内での保健婦の姿、その前身たる公設産婆と巡回産婆のことについて詳しく報告がなされました。私も公設産婆については存じ上げなかったのですが、福井県内では公的に産婆資格をもった人を地域の保健医療の第一線で活躍できるようにと、様々な取り組みが行われていたということです。その取り組みの中には保健所所長の近代的な考え方が見られ、彼らの力添えがあって行われていたとのこと。また、もう一つ驚いたのがツ反(ツベルクリン反応)がこの戦前期においても行われていたこと。戦後の保健婦活動では常識化していたことではありましたが、戦前のツ反が行われていたのは初めて聞きました。保健婦経験者らの話では、戦前期にもうすでに小学校等でツ反の集団検診が行われており、結核予防会が中心となってこれを行っていたのではないかという意見が出ていました。なるほど、結核予防会が関与していたのならそれは戦前期、さらに戦中期の健民健兵政策の中に位置づけられる活動ですから、事業的な目的とも合致しております。さらに、この当時、栄養改善がそれらの政策の中で語られて、実際に行われていたことに驚きました。というのも戦後の生活改善諸活動のなかにおいては、戦前の栄養改善を含む生活改善はスローガンがほとんどで、実際に行われたかどうかはいまだわかっていないことが多いためです。つまり、この藤下氏の報告内容からすると、戦前気の早い段階において栄養政策が公然として行われ、またその成果が伝えられていたということになり、ただ単なるスローガンではなく実践性を伴ったものであったことがわかったのです。なかなか刺激的でした。

③社会保健婦の日記から見つめる

 続いては、元千葉県保健所保健師の弓削田友子氏より「千葉県の社会保健婦養成と卒業生の記録から」と題して、戦前期の社会保健婦が残した日記や新聞記事から見られる社会保健婦養成がどのようにして行われたのかを、資料提示という形で報告されました。資料提示なので実際の分析までは至っていませんでしたが、社会保健婦がどのようにして育成されていくのかが、保健婦の実体験としての日記によって明らかにされるのは大変面白い内容だと思いました。私自身、保健婦の手記という、保健婦自身が記したものをベースとしていることから、資料上の扱いについて気になって質問をさせていただいたのですが、そこはまだ議論が進んでおらず、資料収集がまず先決であるとのお言葉でした。確かに、資料が集積しないことにはその歴史的展開を立証するには不十分なものといえましょう。また、私が驚いたのが、そうした戦前期の社会保健婦時代の日記が今も残っているということ、それ自体が持ち合わせるものとして従来大国美智子氏を筆頭にして語られてきた保健婦の歴史という事業史がもっと具体性を持って語られていく過程が見られる可能性が広がったことを示していました。日記資料は主観的な史料としての批判性も高いのですが、弓削田氏は同時にその社会保健婦のご子息が保管されていた新聞のスクラップ記事を並べて、当時性を確保しつつ客観的な視点での分析が可能なものとして評価できるものだと思います。
 以上が調査研究報告の内容であったわけですが、フロアーからの声として大きく上がったのが、やはりその戦前期の資料を今のうちに収集し、保管しておく必要性があること、定期的な資料報告の必要性があることなどが語られ、これが資料館における資料の位置づけを物語るものであることをおもいました。というのも、保健婦資料館館長である坂本玄子氏と朝の事務室にてお話ししている中で、とう資料館が目指すのはまず収集であって、それを活用するのは自主的な学習意欲のある保健師や研究者にゆだねられることが先決であり、こちらからのアプローチは総会を含め、研究会などで語っていくことが大事であること。資料報告によって明らかになることが多いことを仰られておられたので、弓削田氏の発表のときなるほど、こうした報告が定期的に行われ、それによって研鑽されていくのだなぁっと感心しておりました。

【保健師の悩み】

 昼食時には、保健婦経験者の方々から、現在の保健師の在り方についてのお話を聞いたりして過ごしました。現在の保健師は、その方が曰くは「外に出ていこうとしていない」というのです。それは事業的な縛りもあるかもしれないのだけど、それにしても「外に出る」努力をしていないのではないかという厳しい意見でした。ただ、そうした状況を作り出した責任は保健師だけにあるのではなくて、行政のほうに責任があり、人事削減により事務職を削ったがためにそのつけが保健師に回ってきているという、本来専門職である保健師の立場が行政内では事務職としての在り方に成り下がっていることを指摘されておられました。大変興味深い内容でした。

【今後の保健婦資料館の事業として】

 昼食後は本来であれば長野県佐久穂町役場の須田秀俊氏の提案事項がご本人より報告されるのでしたが、お仕事のご都合で出席できないとのことで、昨晩中に資料を持参なさって説明をみんなの前でなさっておられました。ある程度の共通認識が置けたところで、今後の資料館の取り組みとしての「戦前の産業組合発行『保健教育』の発掘グループ募集」が提唱され、具体的なグループ活動として各大学や諸機関に保管されている資料収集作業が語られました。やはり議題に上がったのは昨晩須田氏が仰っておられた資料保管のことを考えるのであれば全文コピーを取ることが必要であり、その著作権がどこにあるのかを調べ、それをどうクリアして資料をいかに収集するかということでした。私は、奈良医大の図書館に所蔵されている『産業組合』(『保健教育』の前身)を収集するチームに配属させていただき、保健婦資料館の一員として調査に参加することを表明しました。私以外にも奈良医大には元大阪の保健婦でおられた南氏や林氏がご同行いただけるとのことで、大変ありがたいことです。私自身、戦前の保健婦活動についてはあまり存じ上げておりません故、経験者の方々の証言を交えて資料を調査できる機会は、またとないチャンスとなりそうです。あとは奈良医大との接触について具体的な検討策が考えられました。

 これにより保健婦資料館の総会は閉幕し、各々の課題を持ち帰り、914日と15日に行われる研究会に向けて、資料収集を進めていくことになりました。

NPO法人公衆衛生看護研究所 保健婦資料館付属研究所総会①


平成25525

於:保健婦資料館

12回総会に出席して
 
【資料館訪問に対する想い】

 保健婦経験者が集まる保健婦資料館の第12回総会に出席させていただきました。もういった当初からテンションが上がっていたのですが、私としてはこの総会の場で、自分の研究について触れ、それで保健婦資料館としてこの研究を続けていくことを考えたいと主張するために来ました。というのも、これまで民俗学側、特に佛教大学との接点で論文を書籍化したり、活動を繰り広げてきましたが、自分自身の反省として、あまりにも大学の恩師におんぶにだっこというのはいかがなものかと思ったきらいがあったからです。また、独立した研究者として、保健婦活動を民俗学の中に位置づけ、且つ農民生活と密接にあった保健婦の在り方を今一度振り返ってみる必要性が現代の保健師教育上には欠かせないと思ったからです。本日の会はそういう気持ちで挑んだのです。


【川上裕子氏との出会い】

 昼ごろに穂高駅につき、食事をとってから保健婦資料館に赴いたら、ちょうど川上裕子氏と出会い、川上氏が出しておられた『日本における保健婦事業の成立と展開―戦前・戦後期を中心にー』(風間書房 2013)についてお話をお聞かせいただき、且つ私の研究についても少しご存じだったようで(生活改善での研究)、話が弾みかなり貴重な時間をいただきました。本当に川上氏には感謝です。川上氏は大国美智子氏の『保健婦の歴史』(医学書院 1973)では具体的に扱ってこなかった、詳しい保健婦の戦前戦中期の流れをとらえられており、事業史の在り方を今一度見つめなおす著書として素晴らしく、今も私自身読みふけっているところであります。その意味で、この会は出会いの場でしたね。いろいろな保健婦経験者の方々や大学で保健婦の歴史をとらえておられる方がともお会いできたのはいい機会でした。


【総会の講演を通じて】

①在宅保健師の震災支援と自治を考える

 昼過ぎから総会が行われ、議事の進行のもといろいろな事業計画が出されて、そのたびにああこういう活動も行っているのかと驚かされることがたびたびありました。何ともすごい会に入会したなぁって感激しました。
そのあと、「長野県栄村の大震災と在宅保健師による村民への支援活動」というタイトルで、在宅看護の会・信濃の会の小林澄子氏がご報告なさっておられました。在宅看護の会という初めて聞く言葉ではありましたが、退職した保健師らが在宅保健師として退職後も、保健師の取り組みをなさっておられるとのこと。長野県栄村の大震災は東日本大震災後に起こった震災で、あまり注目がいかなかったものだったそうなのですが、その震災による被災者救援に向けて現役保健師だけでなく、在宅保健師がボランティアとして地域に滞在しながら、看護などにあたっていたことを聞き、やはり保健師の在り方は地域の中にこそあるものだなぁってしみじみ思いました。また、栄村は自立精神が旺盛な村で事業を住民自ら動くという形でなさっていたことを聞き、そういう中で保健師はどういう活動をしていたのであろうかと不思議と疑問に思いました。というのも、この地域では下駄ばきヘルパーと呼ばれる住民の自治組織の方々が地域で盛んに活動をなさっているという中で、保健師が果たせる役割はなんなのか、また保健師が取り組むべき地域の問題はどこにあるのかということを考えさせられるものであったと思います。在宅看護の会がなさったボランティア活動は、震災を契機にこうした自治組織と連携をとりつつ、行われていたとあって、こうした地域社会における保健婦の確立というのを今一度問い直す意味で、個の発表は大変貴重なものであったと考えます。

②戦前の東北更新会を学ぶ―戦前戦中の保健婦の体制―

続いて記念講演として弘前学院大学教授の松本郁代氏が「東北更新会の目的・組織・事業と保健婦の養成・配置はなぜ行われたか、東北更新会がめざした保健婦像」と題して、戦前期に起こった東北更新会による保健婦活動について、歴史的な視点からご研究されておられることをご発表されておられました。東北更新会というのは、戦前期の東北地域を襲った凶作によって破たんした生活を立て直すべく、中央の社会事業として行われた活動だと私は思っています。その活動が、支部、分会を通じて現地に下されていく模様、またほかの社会事業団体や同潤会、セツルメントとの兼ね合いの中で行われていく過程が、すごく斬新でかつ戦後の保健婦活動にも通じる部分があるように思いました。ただ、今回のご発表のなかではその活動がどのように地域で展開されたのかは述べていらっしゃるものの、どういう風に受容されていったのかという部分についての問いかけがなく、私の研究の立場からすると不燃焼気味でした。別に学会発表ではないので、基調講演ですからそこはそれなんでしょうけど。ただ、保健婦事業が戦前において定着していく際に、この東北更新会という動きが連動し、それによって地域に保健婦が入るようになっていったことは大変勉強になりました。具体的な活動も、かなり面白いものでした。
講演後は様々な議論がなされていったのですが、私は先ほど申し上げた不満から、ついその事業の評価はどうであったのか、地域にとってその事業はどういう風に生かされていたのかという部分を突っ込まざるを得ず、大変見苦しいところを見せてしまったなぁって反省しています。ただ、松本氏は、その点について親切にお答えいただき、また保健婦の歴史が戦前と戦後との間に分断がなされている事態に対してもご指摘をなさり、それは中央の部分の考え方と末端である保健婦との考え方に違いがあったからではないのかという風に仰いました。中央では健民健兵政策の一部としてこれを活用し、事業史でもそのように書かれているけれど、実際現場で働いていた保健婦はそうではなく、地域に根差した生活の改善に努めていたということを聞き、ああそういう風な二重構造がそこに成り立っていたのかと納得しました。どうしても事業史方面から見ると、政策面が強調されてそうした末端の意見というのが捨象されがちになるので、二重の構造がそこにあったとするならば、それは、社会事業としての保健婦活動がそこにまだ顕在し、政府の動向もあるけれど、それとは別の感覚で地域を見ていたことにもつながると思ったのです。


③保健師養成とその中で学ぶ保健婦の経験知

この後は、しばらく休憩に入り、私は近くの温泉入浴場へ行ってきました。やはり穂高に来たのだから温泉を浴びておかないともったいない気がしたのです。入浴客はそこそこいましたけど、しばし疲れをいやすことができ満足でした。帰館すると豪華でおいしそうな夕食の準備が整っており、川上氏の出版記念の祝賀を祝って祝杯をし、私は隣席になった福井県の保健婦経験者である飴谷絹子氏と話したり、福井大学の講師をされておられる北出順子氏とも保健師教育やその現状のことについてお聞きしたり、質問させていただいたりしました。その節は大変お世話になりました。北出氏との会話の中で、やはり保健師教育の過程で保健婦経験権者との接触は大変貴重なものであると同時に、保健師が保健婦経験者から学ぶ機会を行っている北出氏の取り組みは、私が目指すべきことだなぁって思いました。今後も、何かと北出氏と接触を図りつつ、保健師のためにできること、自分がどこまでできるかを模索していきたいと思いました。また、飴谷氏には、保健師と保健婦のあり方の問題をよく取り上げてくれたと嬉しいお言葉をいただき、感無量でした。民俗学内ではこうした保健婦の活動についての着眼点が、木村哲也氏の『駐在保健婦の時代』(医学書院 2012)でしか見られておらず、まだまだ民俗学の中に保健婦の位置づけができていない状態があり、そのようななかで話者である保健婦経験者の方からありがたいお言葉をいただけることは、どれだけ救いになるか。私はここにきてよかったなぁって本当に思いました。その後も、自己紹介の中で、私の思いのたけをぶつけさせていただき、長々となるのを真剣に耳を傾けてくださった方々に、敬意を表するとともにああ私はここでこうして保健婦経験者の方々とともにあり、考える空間を共有していることの素晴らしさを身をもって感じました。

④日吉町故吉田保健婦の活動をお聞きして

食後は事務局の菊地頌子氏とお話しし、今後の研究計画書をお渡しするとともに、現在取り組んでいることを詳らかに話しました。というのも、菊地氏が今度調査に出向く、京都府南丹市日吉町の故吉田幸永保健婦をご存じで、しかも知人であったことを仰ったことに始まりました。こういう繋がりもあるのかと感嘆しました。そこで、お話を伺っていると、吉田氏は昭和30年代、地域において「地域住民のために」と様々な取り組みを行い、行政を巻き込んで予算を取ってきてはそれに着手するということをやっていたそうなのですが、昭和40年代に入って農業改良普及員の方が「そういう風なやり方だと住民があなたにおんぶにだっこで、本当の意味で住民の自律性、主催性を持った自治がたもてない。そのやりかたは官僚主義で、上からの押し付けであって民主的なものではない」と厳しく批判し、それを受けて吉田氏は「地域のために」という風に自分が行ってきた活動を振り返り、それが「官僚主義」的な仕事に徹していたことを反省し、もっと住民の自主性を基調とした取り組みに方向転換していったことを伺いました。この考え方は当時の京都府知事である蜷川虎三氏の「住民自治を第一に」「憲法の実現に保健婦は働きかけないといけない」という意向を受けての農業改良普及員の保健婦に対する指導だったと考えます。もともと社会教育が盛んにおこなわれていた京都府にあって、民主化のためには住民が自ら考え自ら動くことを、住民が主体性を帯びることを基本として考えていたことから端を発し、壽岳章子氏の婦人教育としての精神、社会教育運動の中で培われてきた住民主体性の思想があったからであろうと菊地氏は述べておられました。
なるほど、こうみると吉田氏という個人の保健婦の周りには単に農民との関係性だけでなく、吉田氏個人を指導しようとした農業改良普及員(生活改良普及員か)やその当時の社会教育の在り方、知事の住民自治への取り組みといった時代的な背景をも含めてみるべきであると改めて考え直す必要性があるなと思いました。保健婦の事業性を追うことでは見られない、保健婦の個性としての人間性を垣間見た瞬間というのは確かに貴重なものでした。いやはやいい人に巡り合えたなぁ。これも穂高神社に五円玉を収めたからかと思わざるを得ませんね。ほんとによい「縁」に恵まれた一日でした。

2013年5月23日木曜日

アカデミックカフェ開催について

 おはようございます。この時間帯に情報を流しても仕方ないと思うのですが、とりあえず、詳細を流しておきます。


 待ちに待っていたアカデミックカフェ、

 開催日は6月16日日曜日午後。

 場所は大阪駅周辺のカフェ(なるべく落ちついて話せる場所を探しています。もしお勧めの場所があれば情報提供願います)

 開催趣旨は……何度も申し上げていますが、簡単にいってTwitterで知り合った方々と学問分野を超えていろんなことを話せればなという企画です。ですので文系理系という分野の設定は一切しません。話題も特にこれをやろうというのは、その時の空気で考えます。そういうざっくばらんな集まりだと考えていただいて結構です。学問の幅を広げるという意味合いでこれを開催することが趣旨です。


 参加ご希望の方は、楓瑞樹までTwitter上でリプライ、及びフォロー、DMでご連絡いただければ結構です。その後の詳細はDM上でやりとりすることとなります。

2013年5月22日水曜日

農民の手記『村に生きる日日』を巡る

おはようございます。

朝から大層なタイトルでなんだか内容がうすかったらどうしようかと思う次第です。

さてと、今回は、古谷綱武氏によって編まれた『村に生きる日日』(新評論社 1954)に掲載されてる農民の手記について少し触れておきたいと思うのです。


1.はじめに

①保健婦資料の限界

 保健婦資料を集める中で、保健婦の視点からみた農民の姿を映し出すことは可能ではあるが、ただそれは「外部者」としてのそれであって、彼女らの視点は所詮、外部からの視点でしかない。この事実は間違いないことである。ただ、彼女らが積極的に農民と語りあい、交りあうことによってその「外部者」のそれというのはだんだん低くなってきた。「保健婦の手記」を見ていると、それがよくわかる。
 しかしながら、「保健婦の手記」は保健婦なりの視点によって、農村の在り方、農民の在り方を問うたものであり、活動の上で農民とどう語りあったのかということを表すものとしては大変貴重な意見ではあるが、それが農民自信どう思っていたかという部分については触れられていない。多少触れられていたとしても、感謝の意であったり、邪険にしたような態度であったりというアクションでしかない。それは生活の一部を切り取ったものであり、部分的にしかそれを理解することができないものである。

②農民の手記というアプローチ

 では、農民が保健婦のことをどう思っていたのか、保健婦の活動やしぐさについて何を思い、それにどう共感ないし反感を示して、彼女らとともに歩む道を選んだのかということは、どういった資料からうかがえることができるのか。もちろん、聞き取りという形によってそれはうかがい知れるだろうが、但しそれは現代から過去を見つめる視点において、所謂過去を「懐かしむ」というファクターがあってのことであり、それが保健婦らが活動した当時の農民としての気持ちや考え方であったかというとそうでもない。ということは、当然「保健婦の手記」は肯定的に受け入れられてしまって、保健婦活動がなんの反感もなく受け入れられたと思われがちになる。これは気持ちの面での整理が整った現代だからこそ言えることであり、過去のそれとは違うことを考えてほしい。となれば、どういう資料をここで提示すべきか。
 そこで同時代の資料における、農民の生活の詳細を記録し、その意見を取りまとめたものが当時運動として起こっていたことに着目した。それは生活記録運動であり生活綴方運動というものである。この二つは両方とも成立時期は同じくしてなったものであり、性格もよく似ているが、前者は純粋な生活を記録することによって日々の暮らしを見つめることを目的にしていおり、後者は生活を綴る行為自体を重要視し、そこで描きだすことで世間に訴えかけるものとして分類されると考える。但し、この分類の仕方には多少相違があると思うし、農民側からすれば、どちらも社会教育の範疇にあり、運動の主催者がどういう位置付けにあったのかを示すだけになっている。つまり、農民にとってはどちらも「生活の記録」であり、言いかえるなら農民の手記であると考える。
 農民の手記というのを概念的に述べることはここではしないが、簡単にその性格を位置付けると、それは農民が自らの手で、自らの生活を振り返り、その反省をもって記すものであったり、その喜びを記すものであったりと様々であるが、総じて農民自身の感情や考え方を生活の中に映し出すことができるものであると考える。そのため、ここに記されるものは多かれ少なかれ、その当時性をもってそこにあることは明確である。多少昨日今日のずれはあっても、それでもその時何を思ったのかを考える上では重要な資料と言える。

2.『村に生きる日日』
 

 この農民の手記が描かれている資料は様々ある。それは雑誌の投稿欄であったり、冊子にまとめられていたりと、生活記録運動、生活綴方運動の記録の中に散見することができる。ただ、こうした運動は、多種多様な記録を扱ううえで、多少その当時の政治性を持って掲載されることが多い。これはどの雑誌にも言えることである。そこで、昭和29年に編まれた『村に生きる日日』という古谷綱武氏編纂のものを取り上げてみたいと思う。これは、信州の農民の手記をそのまままとめたものであり、それについて解説をしたり政治性をもたせたりとする意図はここにはない。純粋にとりまとめたものである。この本は戦後のまもない農村の風景を、農民の視点から描き、その生き生きとした姿をみることができるものである。
 古谷氏自身は、この記録を生活綴方運動の中によって見出されたものであるとして、「はしがき」で述べている。それによれば、戦前から続く生活綴方運動によって触発される形で、様々な地域で様々な物が編まれてきたという。本書はそうしたものの一部であり、農民の姿のリアリティーをとらえたものであるとし、ただそこにイデオロギーを問うたりするものではないことを明確に示している。つまり、前述した生活綴方運動の政治性については、ここでは触れずに、それこそ戦後すぐ、1956年に本としてまとめられた無着成恭の『山びこ学校』のような子どもたちの素朴な綴りのおとなバージョンと言える。つまり、古谷氏自身はこの本で、別段解説をすることもなければ、それについて思う感想を述べることもしない、全編にわたって農民の手記がただ整然と並べられているだけである。いや、古谷氏はこれを信州の「雑記」としてしるしているため、整然とというと語弊があるかもしれないので、ただまとめたのみとしておこう。

3.松丸志摩三の分析

 古谷氏のこの手法によって編まれたものは、それを読む側がいるのは当然のことであり、それによって評価されて行く過程で、農民とはいかなるものかを問うことは自然の摂理である。昭和30年に松丸志摩三氏によって記された『農民の暮しと考え』(新評論社 1955)は、まさしくそれであり、古谷氏の『村に生きる日日』を評し、それでもって当時の農民の考え方についての詳しい分析がなされている。
 松丸氏自身も酪農農家の出であり、実践的に農業や酪農との関わりをもったうえで、そういう自分の生い立ちと、自身が行っていた社会教育運動の中において、『村に生きる日日』で編まれた農民の手記を扱おうとしている。つまり、手段としてそれを分析し、評したところでそれに政治性を与え、啓蒙的な運動の中に位置づけようとしたのである。『農民の暮しと考え』の中では、農民の貧乏というものに対する問いかけから始まり、そこに封建制やそれに対する農民の諦観を取り上げながら、それでは農民がいつまでたっても古い生活のままで、生産性や経済性を無視した非合理的な暮らしの中に居座ってしまっており、それを改善することが今の「青年諸君」に任されているという書き方でなされている。村の青年らによる社会教育の組織化が目立ってきた時代背景もあって、これが民主化運動として、また生活合理化、生活改善のなかで重要なテーマ性を与える素材であるとして、古谷氏の本を評している。
 ただ、先にもふれたとおり、古谷氏自身は『村に生きる日日』にイデオロギーを排してそのまま記す方法の中に、農民の生活を描こうとしており、こうした松丸氏のような第三者によってのイデオロギー化、政治性をもたせるやり方を意図とはしていなかった。しかし、ここは資料の解釈論でもって、松丸氏はそこに農民の絶望感や悲壮感を見出し、そうした苦痛をどうにか廃することが重要であるという視点から、所謂啓蒙的な記述となっていったのだろう。とはいえ、それが古谷氏の本意ではなかったことをここに記しておく。

4.農民の手記のイデオロギー性

 先の記述では私自身、この古谷氏の意見に賛同して、松丸氏の考え方を否定しているように感じるかもしれないが、別にそうは思っていない。松丸氏の指摘は、『村に生きる日日』を読んで、そこに散見される「農民の考え」を切り出し、そこに隠された農民自身の「声」を拾ったことは、農民が訴えたかったことにもつながり、これを書籍というメディアに載せて詳しく訴えかける行為はまちがっていないし、それをよしとする考え方をもっていたのが生活綴方運動である。松丸氏がこの運動にどれほど関与したかは、書籍上からはうかがい知れないが、社会教育家としての視点でこれらをみて、青年学級の中で、こうした「農民の考え」を訴えかけ、また反省し、そこから学べることを述べている。
 こうして考えてみると、農民の手記というのは読者という媒介者を通じて、ある意味イデオロギー化されるものではないのだろうか。古谷氏はただまとめたのみとしているが、古谷氏自身が農民の手記を書いたのではなくて、信州の農民自身がこれを記したことにより、それをまとめたのみであって、信州の農民が言いたかった本意は、松丸氏のような読者に読んでもらうことにより、農村の実態を明らかにし、且つ啓蒙的な視点でもってそれを改善せしめるために記されたとしてもおかしくはない。『村に生きる日日』の中にも村の現状について嘆くとともに、これをどうにか打開する手立てがないかを模索する叙述もあることから、全く政治性をもっておらずイデオロギーを排していたとは言えないのである。

5.まとめ

 農民の手記について『村に生きる日日』とそれを解釈した『農民の暮しと考え』の中から、その性格や記述のあり方について問うてみたが、ここではっきりしているのは、農民の手記というのがその暮らし自体を、農民自身が客観的に見つめるとともに、それに対して対策を打とうとする姿を診ることができうるということ。つまり、保健婦の手記という保健婦側からのアプローチでは散見できない、農民自身がどういう風に自己の生活を思い、さらにどうしたかったのかという部分をカバーしてくれる。
 生活研究の中で保健婦の手記を扱っていくに当たり、私は保健婦自身もそうであるが、農民がそれをどう位置付けていたのか、暮らしをどう見ていたのかということについても重要であると考える。以前にもふれたとおり、私の生活の変化の考えは、「生活の変化というのは、生活者が取捨選択して成り立つプロセス」の中にこそあり、結果的な変化はあまり意味をもたない。つまり、変化する過程、プロセスが大事であり、そこにどういった思惑があったのかを考えることが生活研究の中では大事であると考える。
 さて、そうなれば、やはり農民の手記というのと保健婦の手記というのを同時並行しながら見ていく必要性がある。参考する文献をあげれば山のようになるのであるが、それを一つ一つ丁寧に見て行く作業が今求められる。保健婦の手記ではカバーできない、農民の農民自身の在り方を問うにはこれ以上にない資料として、農民の手記を位置付けたいと考える。

2013年5月20日月曜日

民俗学の学問的実践性と、社会的実践性

おはようございます。

 何度かTwitterで問うていることなのですが、改めてここで私の考えをまとめておきたいと思います。

 と申しますのも、今週の金曜日に大学で岩本通弥編『民俗学の可能性を拓く』の第一章の書評発表を担当することになっておりまして、その件で少し自分なりに、岩本氏の論を批判的に見てみる必要性があるなと思ったのでまとめてみました。


1.はじめに

 まず、批判の前にこの『民俗学の可能性を拓く』という本についての特性について簡単に述べていきます。この本は、現在の民俗学における実践性の議論を発展させるべく書かれたもので、その内容としては、柳田國男言説から始まる民俗学の学問性における実践の在り方などを検討し、それが現実としてどう機能してきたのかという足跡を追うとともに、現在行われている実践性について検討し、その中で何が問題となっているのかを詳しく述べるものです。

2.岩本通弥氏の問いかけ

 岩本氏は昨今の日本民俗学会の在り方からして、その学問の方向性が古いものへ伝統的に残っているものへということに偏在してることを指摘したうえで、そうした内向きの学問的方向性が実践という場において役に立つものか否かという部分を問い直す意味でこの論を述べております。
 第一章では岩本氏が「民俗学の実践性の諸問題」として、柳田國男以来の学史から見れる実践性の変遷を追うことで、そこにどのような問題点が描かれるのかを述べています。

3.民俗学の実践性

 詳しく述べるにはブログだと長すぎるので、簡単に言うと、昨今の民俗学が抱える実践性というものは、どこかしら検討されずにそのまま学問内部の問題意識の中でうやむやのままにされているきらいがあることを指摘し、それが柳田が言うような過去を反省する学問としての活用に寄与していないのではいかという疑問から出発しています。
 柳田の言説について取り上げるとともに、それがいかに解釈されてきたのか、また誤解されていたのかということについても触れて、じゃあ柳田が目指した実践性はいかなるものかを検討するようになっています。
 また、その実例として弟子たちが行った実践について、橋浦泰雄、宮本常一、関敬吾らの研究視座と実践性について詳細に見ています。特に、宮本常一の、民俗学の「民俗」の活用としての地域おこしを取り上げつつ、それがどういった影響を与えていたのかについても詳しく検討されています。
 その中で、岩本氏は宮本氏のやってきたことは確かに農山漁村の産業、特に観光業の樹立に寄与し、地域おこしの面でかなりの影響力があったことを認めつつも、そのやり方がどこかしら「民俗」の美化につながっているような気がするとしてそれを批判し、また地域おこしが宮本氏が思っていた住民の自立性を促すものから資本家の手による植民地化に終わってしまっていることに、宮本氏の実践性の反省を見なければいけないと指摘しています。
 ほかにも橋浦氏や関氏の学問的とらえ方を描いているのですが、岩本氏が一番言いたかったのは、こうした宮本常一のような「民俗」を直接的に取り上げた地域おこしへという実践性への疑問視と、安易な「民俗」の美化に通じることへの戒めを込めてこれを取り上げているように思います。

4.実践性への問題点

 
 しかしながら、この宮本常一氏にはじまる実践性の評価については、いまだ民俗学内部でも賛否両論あり、様々な問いかけが行われているものの、岩本氏はこの宮本氏が実践をしたことによって地域へのアプローチの在り方が開かれたことは一定の評価があることを述べることで、単に地域美化に当たるだとか「民俗」の美化につながるだとかそういう、批判だけで宮本氏の実践性を否定することは間違っているとしています。ただ、先ほども申しあげたとおり、この宮本氏の実践は、ある種成功はしたものの、ただ持続性を考えると、それはどこか行政に頼りっきり、観光資源のための「民俗」利用などとして、地域住民が自分たちの生活を振り返って、そのうえで自己反省の上で確立していくべきものを、資本家の手に渡ってしまっている実態について嘆いている節があり、この点について実践の問題点を明らかにしています。つまり、民俗の文化価値としての観光資源化は、その当時の離島や山村における振興法の中で、「農産漁民の生活に寄与」する目的からそれてしまっていることについて、嘆いているからです。
 また、これは宮本氏とは違った視点で、関敬吾氏の民話を巡っての井之口氏とのやりとりから、いわゆるオーラル(口承)のとらえ方を、関氏は地域住民の活動の中に求めたのに対し、井之口らアカデミズムの側からは、オーラルは歴史補助に当たる資料としてあるべきであるとして反論したことに端を発しています。岩本氏は、これについて、この二人の擦れ違いは、「民俗」をどうとらえるかによって起きている問題とも絡めて、その実践方向が、アカデミズムの中では資料論の形成のために必要な素材としての「昔話」としてあるのに、それを「民話」として大衆的な中に置くべきものではないする考え方がどこかしら、その民俗学が長年培ってきた、歴史学への接近として科学性を強める素材として、ものとしての「民俗」にこだわる姿勢の在り方であることを述べています。
 ほかにも問題点があるのですが、まとめると、民俗学の実践性はどこかしら即物的なものが多く、その持続性将来性を確保するための素材がそろっていないこと、それを検討する場所がないことが第一点であることと、歴史への接近に固執するあまりに「民俗」を資料として用い、それを分析することにしか科学性を持てない今のアカデミズムに対する批判をしている点です。

5.書評として

 上記のほかにも岩本氏は、様々な実践性の問題点を挙げているのですが、やはりどこかしらこの根底にあるのは、柳田言説における「民俗」の解釈論と、そして実践性に先立つ現実論的な部分での検討がなされていないことに批判があると思います。岩本氏は、学史の中からこれを切り取ってそのなかでの解釈として実践性の提示をしめしているのですが、それだとどこまでたっても学問内での議論でしかなく、宮本常一氏が眼前として挑んだ現実的な実践性の中にはうさん霧消しているような理論的展開になってしまっている気がするのです。
 具体的に言えば、柳田言説に振り回されて、結局その実践性は柳田の言葉を借りてしか、学問内では見当がなされていないという点でまず間違いがあると思います。柳田の言葉はその当時性における、現実に即したものの言い方であって、その場における発言はその世相を反映するものであり、それを現実世界にまで持ち込んで、学史の中でその変遷を論じたところで、実際の実践論中ではあまり意味がないものではないかと思うのです。
 私は「生活疑問」という言葉を多用しますが、これは別段柳田の言う「生活疑問」と同意ではないと思っています。それどころか、私の述べる「民俗」は従来の民俗学が固執した過去の封建遺制などによるような伝統的な「もの」としての対象ではなく、生活という動態の中で変化しうる様相が「民俗」であると定義している時点で、岩本氏をはじめとする学史の中での議論はあまりにも、文化財行政方向での検討を重視しがちに見えるのです。
 ここで文化財行政のことを出したのは、宮本氏をはじめ幾人もの民俗学での実践者、特に博物館や資料館に勤める民俗学者たちによって行われた実践性を指してのことであり、つまり、「民俗」という「古俗」を取り上げて、それを文化的に保護し活用していこうとする動きです。
 ですが、私自身も博物館職員としての経験から、その活用に関しては様々な障害があります。博物館に配分される行政の予算、その中に占める活動にかける配分性を考えると、大々的な実践性をそこでできるかというと、そうでもなく、単に「民俗」というものを示して、「懐かしむ」「昔の知恵を探る」といった取り組みに終わってしまう傾向が強いことを示しています。ただでさえ少ない予算の中での活用というのは、民俗学の実践性を訴えるうえで大きな障害になり、且つ博物館の存続の在り方を考えると、こうした実践が問えない状況が増えているのが現状です。本書の加藤氏の第三章における見解を見てもそれが如実に記されています。

6.まとめにかえて

  つまり、岩本氏の論として成立するべきものは、従来の民俗学の学問的領域内、アカデミズムの内部で理論的に述べられているものであり、結局現場においてはその実践性の理論が生かされていないのが現実としてあること、またその活用法が限定的であり、文化財に偏重しそれがために文化財行政がひっ迫する今、この状況下における実践性をどこまで検討できるのかという、実践性の社会、政治、経済についての分析が何もなされていない点に問題があると思うのです。学史レベルでの話の中では、これが煮詰まっていないがために、実践性を評価する上ではあまりいいものとは言えません。ただ、岩本氏がこうした民俗学内部における実践性の方向性を示したことについては一定の評価ができるし、そこからもっと具体的な実践性についての話し合いができることを望みたいとは思います。



他にも言いたいことが山ほどあるのですが、とりあえず一番のツッコミどころを考えてみました。また、「生活疑問」や私の「民俗」のとらえ方については稿を改めます。

アカデミックカフェ最新情報①

 おはよございます。毎度、ご覧いただき感謝です。
 さて、以前申し上げておりました、アカデミックカフェ(前の時は関研会としていましたがわかりづらいので改名)の開催事項につきまして、最新の情報を発信します。といっても、ツイッターをご覧の方は再読になるかもしれませんが、ご了承ください。

 
開催趣旨:
①文系理系を問わず広く研究者相互間の情報のやり取りの場として
②現代社会問題を少しずつ上げて、それに応答するようなものを目指して

開催日:6月の土日(詳しい日程が決まり次第報告します)

開催場所:大阪市駅付近の喫茶店内

持ち物:別になし。気軽に参加OK

会費:なし。コーヒー代は自前でお願いします。

注意:誹謗中傷禁止

備考:一応関西中心の研究者向けにしていますが、ちょうど関西に来ていて参加したいという方も当日参加OKです。ご連絡いただければ歓迎します。

以上です。


で何かご不明な点がありましたら、ご遠慮なくツイッターのアカウント@kaede01mizukiまでご連絡を。

2013年5月16日木曜日

関西の研究者の方々、文系理系問わず、語り合ってみませんか?の会(仮)のことについて。

皆様へ

こんにちは。

 日頃、私のブログに関心を寄せていただきまして誠にありがとうございます。
 さて、この度は、少し研究とは違って「実践の場の研究」として、日頃研究者の皆様がなさっておられるご研究についてお互いに話ができる、何かしらの機会をもうけさせていただこうと思いまして、少し企画を考えてみました。まだ企画案としては粗いものではございますが、別段、肩に力を入れた話し合いをするのではなく、ざっくばらんに研究のこと、世の中の関心ごとについて、お話しいただければ幸いかと存じます。趣旨につきましては下記の通りです。



研究会名:関西の研究者の方々。文系理系問わず、語りあってみませんか?の会(仮)
略名:「関研会」(仮)

趣旨:本会は、日頃ツイッター上でお世話になっている方々と親睦を深め、且つ文系理系問わず、研究者同士がお互いの研究について、さらに昨今の社会問題について各々の視点からお話しいただける集まりです。といいましても、今回は一応研究会という形をとっておりますが、ほぼ座談会化したものと思ってくださって結構です。その座談会の話題はその時々によって変わりますし、発言者は一人とは限りません。発表形式をとるのではなくて、それぞれが思うところを述べていただく機会です。ある人にとっては有益で、ある人にとっては不利益というわけではなく、双方が情報を交換できる場でして、別段確固たるテーマ性を求めているわけではございません。気軽にその時、時間が空いていれば参加していただけるようなものにしたいと考えます。

注意:本会の趣旨は親睦を深め情報交換の場にすることが前提ですので、誹謗中傷など相手を傷つけることは絶対に許されません。それは研究者としての姿勢のあり方ですので、多様な意見があるとは思いますが、お互いに冷静なお話しができることを望んでおります。その部分はご理解いただきたく存じます。

入会について:会への参加表明はツイッター上の私(@kaede01mizuki)の開催趣旨に賛同いただける旨をお伝えの上、DMにて連絡を取る形で参加者を募ろうと思っております。なお、退会についてはその都度申し出ていただければ結構です。

会費について:今のところ考えておりません。と申しますのも喫茶店などで気軽にコーヒータイムを楽しみながら話をしたいということからです。喫茶代は各々がお支払い頂ければそれで結構です。


以上


 本来ならもっと文面を具体化したものがいいと思うのですが、あえて具体化を避け気軽に入れる会を主軸にしたいと考えておりますゆえ、このような形をとらせていただきました。
 末筆ではございますが、賛同のほど何卒よろしくお願い申し上げます。



開催者:楓瑞樹(本名:山中健太)

2013年5月14日火曜日

保健師と保健婦をつなぐ。

こんばんは。さてと、この間の研究計画書を読んでいただけたでしょうか。まだご覧になっていない方は少しご覧いただいたうえで、この記事を見ていただければ幸いです。
 
 
 以下の文章は、先ほど保健所よりご照会いただいた方々に向けて、私なりの調査へのこだわりとしてお伝えしたことになります。若干長いですけど、少し文脈を整えて述べますね。
 
 「戦後の愛媛県の稲葉峯雄をめぐる保健婦活動(仮)】
 
【愛媛県の調査にむけて】
 
 この度の調査は、私が稲葉峯雄氏の『草の根に生きる ―愛媛の農村からの報告―』(岩波書店 1973)を拝読したことから始まりました。私は研究計画書(少し小難しいものになっていましたので再度整理させていただいたものを添付いたしますので、ご確認いただければ幸いです)にも書かせていただいてりましたが、民俗学という学問における生活研究を求める際に過去の保健婦の方々が、農村生活をどのようにご覧になり、そしてそれをどのようにして地域の方々が見て、また地域の方々と一緒になって保健活動を作り上げてきたのかという経緯を、歴史的にそして生活の変化をとらえる民俗学的に分析研究したいと考えております。
 
【「保健婦の手記」とのつながり】
 
 主に保健婦の方々がご自身でおか気になられた「保健婦の手記」をベースに、そのほか保健活動に協力的であった医師や衛生教育家などの手記並びに報告を参考に調べております。
 その中で、稲葉峯雄氏の著書に出会い、その草の根の活動に感激を覚え、そうした活動がどのように生まれたのか、稲葉氏の足跡もさながら、地域で働いておられた保健婦の方々がどのように地域と接してこられたのかを、実際に愛媛県内を歩いてみて見聞きしながらその当時のことをお聞かせ願いたいと考えております。
 
【保健婦活動の研究のあり方と私のスタンス】
 
 従来保健婦活動に関する研究としては、事業の流れであったり、高知県の駐在保健婦や青森県の派遣保健婦の活動などが報告されていますが、いずれも制度的な面が強く、保健婦の人間性について、 保健婦がどのように考えどのように事例に取り組んだのかということが明らかにされていません。保健婦資料館はそうした保健婦個々人の記録を集めて、そこから学びとれるものを研究しております。私自身は、保健婦資料館の研究員であると同時に日本民俗学会の会員でもありまして、人々の生活の中で保健婦が果たした役割というのを、保健婦と地域住民の方々との接触から順を追って明らかにしていきたいと考えております。
 
【保健婦と保健師をつなぐとりくみとして】
①保健婦と保健師と
 
 また、この研究は単に保健婦の足跡、歴史を明らかにしていくものだけでなく、もう一つ私の取り組みがございます。実は、「保健婦の手記」類を読んでおりましたところ、この経験は今の保健師にもつなげられるものがないだろうかと思ったことからです。
 
 
 
②五十嵐松代氏と保健師との対話の中で
 
 今年の1月に大阪で行われておりました全国保健師研究集会に保健婦資料館の菊池様よりご招待いただき、それで保健師の現実についていろいろ拝聴させていただきました。
 その中で、新潟県の保健婦である五十嵐松代様ともお会いしていたのですが、その時お話しになっていたのが「家庭訪問」のことでした。五十嵐様は若い保健師の方々に向けて「家庭訪問」の大切さについて、自身の経験をお話しになり、且つ若い方々が今どのような「家庭訪問」をなさっておられるのかをお聞きになっておられました。その中で、若い保健師の方々がお話しになったのが、今の保健師の現状は事業に追われ、事務作業がほとんどで、ケースはともかくとしても家庭訪問にその都度出ていけるだけの余裕がなく、行政機構の中での限界があるとのお話が出ました。このことについては、以前ほかの保健婦の方からもお聞きしていたことではありましたが、実際お聞きして、そういう現実があるのかと驚くとともに、何かしら地域とのつながりとしてあった保健婦の「家庭訪問」の経験が失われつつあるのではいかと思ったのです。
 
③「家庭訪問」の経験を今こそ見つめ直す
 
 私は保健師ではございませんので、そうした感覚がどういう風に失われつつあるのかが気になりますし、これまで「保健婦の手記」を調べてきた手前、その保健婦による「家庭訪問」の経験は、人と人をつなぐ意味においてもかなり重要な役割を担う仕事であり、且つ保健婦が生きがいにしていたものだと思っています。
 私が生活研究の中で保健婦のことを調べ出したのは、兵庫県宍粟郡千種町(現宍 粟市)で活躍されておられた保健婦さんから直接地域との接触のあり方を学ばせていただき、またお話しを聴くたびに、その活動が地域の骨組みを作って言ったことを知ったのです。現在は千種町も過疎化が進み、こうした取り組みは行われなくなりましたが、その精神は今でも健在で、多くの住民の方々がその時の活動を振り返り、生き生きとした顔で語ってくださいました。そうした様子を見るたびに、私はこうした保健婦の経験というのは、地域生活を考える上で外せないと物であるとともに、それを忘れてしまってはダメだ、現在の保健師さんにバトンタッチして、それで保健師の方々と地域住民の方々が一緒になって、地域の中で何が問題であるのかという生活疑問をとらえ、積極的に考えて行くことが必要だと思うのです。
 
 
④保健婦と保健師との間にたって
 
 もちろん、それには行政の支援が必要ではありますが、その前段階として、まず、保健婦の経験を集め、そこから学べることを考えつつ、現在保健師が抱えている様々なケースの問題を多角的にとらえることはできないかと思うのです。保健師の教育課程ではどうしても、公衆衛生上のこと、母子保健のことなど事業別な話が多く、そこで学べることは限られていると思います。実際に現場に行ってみないことにはわからないことも多くあるでしょう。そこで問題にぶち当たることもあると思います。そうした時に、ふと昔の保健婦のやってきた知識や経験を、思い起こしてこうした場合はこういう風なことも可能ではないのかという考えをもつこともできると思うのです。但し、昔の保健婦と現在の保健師では考え方や、事業の内容自体も異なりますし、すぐにその経験を活かせることは難しいかと存じます。ですが、地域全体を見た時、事業自体よりも広い視野が問われてきます。この時に、果たして事業別の考え方でいいのかどうなのか、そこが問題だと思うのです。そこで、そうした地域の総体、生活自体を直に見聞きしてきた昔の経験が何かの役に立つのではないかと私は思うのです。
 このようなことで、私は保健師と保健婦の橋渡しといいますか、接合点を探しつつ、このような経験を活かした何かができればと研究の実践性について考えるわけです。まだまだ、知識が浅く、保健師でもない人間がこのような大層なことを申し上げるのは大変失礼かと思いますが、そうした保健師の未来に ついて、話が持てるような調査研究がしたいのです。
 
【まとめにかえて】
 今回メールにて以上の文面を送らせていただいたのですが、私が言いたいことは二つあります。一つは稲葉峯雄氏が関わった『草の根に生きる』に描かれた活動を、もう少し具体的に保健婦の語りとしてその当時を思い起こしながら歴史的に、生活の変化をとらえる民俗学的にとらえることができないかということ。もう一つに、保健婦の経験を、特に「家庭訪問」に見られるような地域との取り組み、接合点の中で保健婦はどうであったのかを見直し、現在の保健師がそれを知識として身につけ、保健婦と保健師をつなぐとりくみがしたいということです。
 私は以前より民俗学の実践的取り組みを何かないかと考えてきました。これまでもいろいろと地域に出ては保健婦や地域住民と関わり、何かお役に立てることはないかと考えてきました。学問的な縛りの中で何もかもが論文などの紙媒体でのみ、地域に返還されるのではなくて、どこかしらその知識を実用性をもたせて芽を出させる努力を民俗学者側がした方がいいのではないかと思うのです。
 一見して荒唐無稽でそんなのは民俗学じゃないと言われるかもしれません。しかしながら、柳田國男の言葉を借りてこの実践は「生活疑問」を解くことで「未来」を見つめることをする学問的な研究であり、実践であると考えます。ともすれば、これは立派な民俗学の分野の構築ではないかと考えるわけです。
 最後に、このような見方をすると何かしらおかしいかも知れませんが、「地域の役に立つこと」そういう使命感を民俗学を学んできたものとして、保健婦と出会ったものとしてやっていきたいという覚悟から、私は今を追い続けるのだと思うのです。

2013年5月12日日曜日

研究計画書改訂版


平成25512日改訂

保健婦資料館研究員

山中健太

 

研究計画書

研究題目:「保健婦からみた生活変化と民俗学的アプローチ」(日本民俗学会発表用には「保健婦からみる民俗学の可能性」としています)

副題:「「保健婦の手記」からみられる農山村の生活の変化模様について」

 

内容:

1.はじめに

【生活研究としての疑問】

 本研究は、従来の民俗学での生活研究のあり方が、衣食住という三分割にされて、それぞれにおいて物レベルで述べられてきた事象を、一度生活の総体として見直し、且つその生活がいかにして変化してきたのかを問うことを第一の目的としている。1

【保健婦と農村生活】

 具体的には戦後から高度経済成長期、昭和20年から50年代の保健婦の活動を概観するとともに、彼女らがみた農山村の変化はいかに映っていたのか、また彼女らにとってそれらの生活に対してどのような感情を持ち、その上でそれをどうしようとしたのか。さらにそれらの活動を農山漁村の人々はどのように見守り、それを変化として受け入れたのかを見ていくこととしたい。

 

2.研究の方向

【生活研究の反省と今後の展開】

 従来の民俗学での生活の変化というのは、物質変化を中心に描いてきた経緯がある。これはどこに「民俗」を考えるのかという考えから来るもので、当然ながら昔使われていた道具類に関するその形状や使用法、そしてそれが使われてきた背景、そして道具やその周辺の変化などを追ったものであった。物質文化の側面からの見解であり、その歴史性を実証する意味では評価できる。

但し、道具は人間があってこそで、その行動、身体と密接になければならない。道具の使用法にも関わってくるわけだが、どういう生活環境上でそれが身体の道具として使われてきたのか、その道具を人々はどういう風に「生活」の中に位置づけていたのかを含めての相対的に研究が必要なのではないか。

 

【「生活」のとらえ方】

「生活」は、単に衣食住を総合したものを指すわけではない。もっと多角的で生業や村政なども取り入れた村全体、家庭、そして個人へと向けられる身体の動き活動を指す。生活は有機的な存在で、無機的なものではない。この方針は従来の民俗学ではあまり見られない主観的な見方でもある。従来物質文化でもって客観的な変化の説明をしてきた。しかしながら、人間生活には感情があり、有機的な変化への眼差しがある。物質文化を主軸にした客観的な分析のみでは普遍性や集合性を維持できるが、生活の多様や生活を営む人間の判断などを無視してしまっている。

 

【「生活」へのまなざし】

そこで、私がやろうとしていることは、人間がそこでどういう判断を暮らしに取り入れ、変化を位置づけてきたのかである。科学性を引き合いに出すのであれば、これは科学的分析というよりも、文学的なものの捉え方かもしれない。人間をどこから見るかによる区分での科学であるが、ただそれを外見でのみ分析するには生活の動きはそう簡単なものではない。もっと内在化したものを含めて検討してこそ初めて具体性をもった生活が描ける。私は、本研究で科学論を振り回すつもりはないが、生活という舞台は人間が構造する多様なものであり、それを客観的な分析のみで終わらせては、そこに生きる人々の顔は何も見えてこない。それに問いかけ続けることがこの研究の第二の目的である。

 

【ライフヒストリー、手記への挑戦】

1)生活描写としての方法論

この生活の変化は、個別事例的である。ライフヒストリーとしての生活描写、その人が生きてきた経緯を記すこと、そこにどのようなきっかけがあうのかを描きだすことが大事になる。しかし、ライフヒストリーだけがそれをできるわけではない。例えば、農山村の文集の中から得られる情報、後で述べる農山村を見つめ続けていた人物からの手記などが、その生活を当事者として映し出すことができる媒体となる。

文集や手記というのは、ある一定の認識のもとに編集された記録であり、作為的なものを感じるかもしれないが、生活を記すという行為は自己の意見を表面化し、そして社会に向けて発信するという役割がある。

 

2)ライフヒストリーと手記

ライフヒストリーは個々人が描く場合もあるが、どちらかというと話者と調査者の関係性の中で言葉を見つけながら描かれるものであるから、そこに自己の意見であるとかそういうことよりも、もっと自己反省的な色合いが強い。それは単に歴史を編むことと違って、自己と向き合うことであり、客観的に自分を捉えなおす作業でもある。

しかし、私が取り上げた文集や手記というのはそれとは違っていて、その当時のその時々の意見の集合体であり、自己と向き合うのは当然であるが他者に発信するために記されている。多少文学的な書き方があることはあるにしても、自己の意見を表面化する作業であることには変わりないし、何より当時性をそこに見出すことが可能な素材である。ここからみえる生活の様相は従来の民俗学にあるような社会経済だけを表したようなものではない。その書き手個人ないし、そこに描かれる人々がどういう状況下にあり、それをどうしようと動いていたのかを理解しうるための重要な手掛かりとなる。

 

【生活の身体性】

1)生活と身体

 生活の要は物質ではない人間であるその身体にこそ意味がある。その身体を守る上で、命をつなぎとめる上に生活が根付いている。「体が資本」といわれるように資本社会において身体の健康は必須のことであり、それがなければ働けないし、暮らしてもいけない。そこに保健医療という生活を保障するものがあることは自明のことである。

 

2)民俗学における近代的な医療

そうした身体を守る活動に対する研究は、民俗学では民間療法に求めてきたきらいがる。確かに、地域ごとに民間療法があり、病との闘ってきた経緯がある。ただ、身体を守る動きは民間医療だけではない、明治期にできた「医制」により、近代的な西洋医学が導入されてきた経緯も考慮に入れなければならない。しかしながら民俗学では伝統的に「残存している」ものにこそ意義がありその変遷をたどることが重要視されていたため、近代によって導入された新しいものに対しての視点は整っていなかった。また、近代医学側もまた非合理的で科学性が見いだせなかったため、民間医療を批判してきた。現在は多少、そうした民間医療への見直しが近代医学の中から生じているし、民俗学内部においても近代医学のことについて触れる機会は多くなったように感じる。

 

3)医療と生活

身体を守る上で、人間が選択したのが医学であり、そこに予防が加わり「保健」「衛生」等が生じ、身体の向上を図るために「健康」が生まれてきた経緯を考えてみると、この近代医学への視点はどうしても避けようがない。それが生活に与えた影響は計り知れない。ところが、民俗学はこれに多少触れるはしても「どうやって医学が人々の中に入っていき、そして普及していったのか」また生活の中で意識されてきたのはどういった背景があったのかについては何の見解もない。生活をみること、身を守ることを見ることは医療にも直結する。本論は身体を取り巻く事情も含め、生活の変化の諸相を見ることを考えてみたい。

 

3.保健婦と「保健婦の手記」

【生活の変化と保健婦】

1)村外からの接近

さて、身体を含む生活の変化構造とはどういうものなのか、それは村の内部からくるものなのか、いや内部からであれば変化を生むインパクトを育てるだけの素養は、様々な社会的な取り決めや共同体としての意識の中においては難しい。では村の外部からということになる。但し、村の閉鎖的な環境の中にあり、村外部から変化を促す人物が来たとして、それが生活に影響を与えることができるだろうか。人間生活はそんな単純な変化の構造をもってはいない。外部から介入があったとしても、そこに住民の自主的な意志ではないし、生活を根本的に変化させたことにはならない。生活を変えることというのはそれなりにその時点での生活に疑問を投じ、それを解決するための手段としての変化であり、それが基本となっている。このように考えると単純に村内、村外双方のアプローチがもたらす影響力というのは限界がある。しかしながら可能性はゼロではない。村内からの自発的な行動ができないのであれば、村外から村内に向けての内在的なアプローチをする方法があればそれにこしたことはないだろう。そこで、考えられる人物が保健婦をはじめとする医療従事者や社会事業者である。

 

2)保健婦とは

保健婦という存在に対する分析は、いまだにまとまった概念規定がされていない。時代ごとに名称が変化し、その事業目的によりそれが目指す方向性が異なっているためもある。現行の「保健師助産師看護師法」の法規を歴史上のすべての保健婦という対象に当てはめることはできない。日本看護協会監修の『新版保健師業務要覧 第二版』(日本看護協会出版会 2012)によれば「保健師は、常に、人々ともに疾病を予防し、人々が主体的に健康な生活ができるように支援してきた。特に、貧困層が生活する地区には重点的に予防活動を行い、さらに健康な人も病気や障がいを抱えた人もすべて、「人として生きること・健康であること」が保障されるように、障害を通した人々の健康と幸福を実現することを使命としてきた。社会が予防的看護を必要とし、個人や集団の疾病予防と健康管理の専門家として保健師が誕生したのである」と述べている。一般的に「公衆衛生」「健康増進」「母子保健」に関わる仕事を指す職掌を指す。

 

3)保健婦と生活の接点

ところで、この保健婦をなぜこの生活の変化の場で問うことが必要であるのかであるが、彼女らが行った地域全体、行政や保健所や住民らを巻き込んだ保健活動は、単に表面的な衛生環境の是正を行っただけ、医療の行き届かない地域のためのケアという意味だけではない。その本質は、地域の生活に密接に関与しながら、その生活に身を置き、内部から変えていく力を持った存在が保健婦である。つまり、保健婦はその職務において臨床を中心とする看護婦や助産婦らと違って、地域という現場において何ができるのかを考えることが中心となるため、その地域生活に馴染みつつ、そこに問題点を見出し外部者でありながら内在的に発言できる人間である。

 

【保健婦の手記について】

(1)医療従事者の記録の種類

新体制を持った生活における直接的な資料として、医療従事者が記した記録に他ならない。ただ、医療従事者が基礎的に記すものは大きく三種類ある。第一に医学的分析によるカルテなど、その患者の身体検査におけるデータを記したもの。第二にその身体検査を平均的に述べて分析し患者の健康状態がどのような傾向を持つのかという統計学的なもの。第三に病そのものに対する対策としての治療や予防研究に関するものと様々である。いずれも生活に直接的に関与をもたらすような記述は見受けられない。ところが、それ以外にも医療従事者が記すものがある、それが体験記、回想録、手記というたぐいのものである。本研究で扱うのは医療従事者の中でも生活に接近していた保健婦のそれであり、彼女らの経験をもとに、実際に見聞きした当時の農山漁村における生活実態を詳細に記したものが「保健婦の手記」である。

 

(2)「保健婦の手記」とは

①保健婦の記録の特性

 簡単に説明すれば、保健婦の日常業務における記録をもとに描いた経験談である。保健婦の日常業務である家庭訪問においては、様々な情報が集まる。それは何も母子のこと病者のことだけではない、それを取り囲む過程全体のこともその家庭訪問の記録には記されていく。代表的なものとして吉田喜久代の『砂丘の陰に』(長崎書店 1940)という戦前に記された日報がある。当時の保健婦は「訪問婦」と呼ばれ社会事業的な性格が強いものであり、病者のそれとは違うが、日々の家庭訪問の度にその家の状況を事細かに記録し、上司に報告するような形をとっている。これが戦後においてもそうであったかということはないにしても、家庭状況を把握すること母子や病者、生活弱者がとりまく生活の実態について記録し、それを把握しながら仕事にあたるのであるから、当然のことながら記録類には、日常生活の機微が伝わるものがある。また、たびたび訪問することによってそれが積み重ねられ、その一家の家庭事情から経済事情などのことを知る手掛かりにもなる。

 

②「保健婦の手記」とは

 そうした中での保健婦の手記というのは、それらの家庭訪問を続けていく中で保健婦自身が、そこで暮らす農民たちの暮らしに対する疑問点を自己の体験から見つめなおすような性格を有している。「保健婦の手記」を通じてみることができるのは、地域生活における医療の重要性もさながら、日常生活における農民たちの苦労話など、雑談に類するようなものまで含まれ、そこから保健婦は「なぜこの地域には病気が多いのか」「貧しい暮らしが営まれているのか」と常に疑問として持っていた。いわゆる生活疑問というものである。そうしたせいか疑問を通じて得られるのは、農村生活の向上にどのような糸口があるのかを保健婦自身が考えることもそうであるが、これを手記にしるし、雑誌等で発表することによって、内外に生活疑問をアピールする狙いがある。また、「保健婦の手記」は同僚であるほかの保健婦の目にも就くことから、活動の共有化、自己反省につながる一つの教育的な性格を有している。

 

③「保健婦の手記」の概念規定と目的

()「保健婦の手記」の共通性

 ところでここで、一応「保健婦の手記」についての概念規定を記しておきたい。というのも、この記録は様々な雑誌等で掲載がされ、その雑誌ごとに性格が異なる。内容もその雑誌の属性に迫ったものが多く、一口に「保健婦の手記」といっても様々なものがある。ただ、共通して言えることは、この保健婦の経験は、次世代の保健婦や同僚に対してむけられていること。また雑誌の書き方にもよるのであるが、保健婦が農山漁村の生活記録を公開することによって、農山漁村の内在化する問題を、読者である民衆に気付かせる狙いを含めてあることがいえる。言い換えれば、「保健婦の手記」と一般的に言われるものの多くが、開示されることによって情報の共有化、問題の顕在化を促すことが主であるということである。

 

()「保健婦の手記」の属性

 この手記の属性が三つ挙げられる。第一に先に記したように当時における生活の克明な描写があること。生活に根差した活動を行っていた保健婦ならではのものであり、またエピソード的ではあるものの、その背景にある生活環境や社会状況についても言及がある点。

第二点に、これが掲載される雑誌の傾向である。主な雑誌として『保健婦雑誌』『公衆衛生』等の専門誌に加え『生活教育』という多分に社会教育的な影響を受けた雑誌にさえも、多くの手記が寄せられている。また生活教育の会(後に保健同人会となる)が発行している『生活教育』に至っては、手記の選考会評議会が行われ、入選者が雑誌への掲載を許されている。つまり、膨大な量の文章が選考会に投稿されて、有識者、例えば丸岡秀子、石垣純二、国分一太郎、金子光などが評価を下している。優秀作品を意図的に恣意的に選んでいる。文学作品的な評価も高く、単に職業的な評価というだけでなく、社会教育的な様相を呈している。

第三に他にも保健婦系の雑誌ではないが岩手県国民健康保険団体連合会が発行している『岩手の保健』には、保健婦だけでなく保健事業に関わった国保関係者や看護婦、栄養士など様々な方面からの記述があり、これが保健婦という職掌にとらわれない幅広い属性を有していることをここに明記しておく。

そのため、本研究でとらえる「保健婦の手記」は、「保健婦の日記」「保健婦記録」、回想録、生活記録など様々な領域にわたるものを、大きくまとめて論じることにする。その性格は先に記したような目的を有していることが前提となる。

 

4.「保健婦の手記」の可能性

【「保健婦の手記」を読むこと】

(1)「保健婦の手記」の資料性

「保健婦の手記」は長野県安曇野市にある保健婦資料館に現在集中的に収蔵される傾向にある。国立国会図書館にない本も含めて、保健婦経験者が所蔵していた一切の資料類を寄贈という形で収集し、それを膨大な資料軍の中に位置づけている。但し、未だデータベース化されておらず、今後の整理等で書籍の類型化や属性などについて分析をしていかなければならないが、その利用価値はかなり高い。ただ、「保健婦の手記」の扱いについては資料館付属研究所の研究員間でも、はっきりとした定義ができているわけでもなく、保健婦の歴史自体もまだまだ見直す必要性があるとして、手記類自体に対する研究は未だにない。保健婦の歴史的過程において資料として挙げられるものの、それ自体がどういう性格を有していたのかまではまとまっていないのだ。

『生活教育』より保健婦のメッセージ性は少ないものの、戦後の保健状況を知る意味でもかなり重要な資料である。さらに書籍面では先に紹介した大牟羅良の『物言わぬ農民』(岩波書店 1958)、菊池武雄と共著した『荒廃する農村と医療』(岩波書店 1971)、菊池武雄が記した『自分たちで命を守った村』(岩波書店 1968)といった東北を中心にして活動していた活動家による貴重な資料には、保健婦に限らず、保健婦の指導を受ける側、医療を受ける側である農山漁村民の声も証言としてあり、一概に「保健婦の手記」が保健婦だけの目線というわけでもない。さらに、長野県の佐久病院中心に活動した若月俊一という医師が自己の回想録として農山村の生活の現状とそれに対する生活疑問のあり方、さらに改善の方向性を描いたもの、及川和男の『村長ありき―沢内村 深沢晟雄の生涯』(れんが書房新社 2008)に出てくるような東北のへき地医療に対する深沢晟雄の村行政の動きと保健活動、それと関わる菊池武雄の国民健康保険組合の動きなど様々な中に描かれる事象がある。つまり、私が取り扱っている「保健婦の手記」類というのはそうした幅広い章句業種間における保健活動の主観的記録類をベースに成り立っている。

 

(2)主観的資料への科学性

こうした記録類は先に述べたように主観的で客観性を補うには多少難しい資料である。そこに科学性をもとめるのであれば、どのように立証するのかであるが、それについては実際に現地でその当時の話を当人もしくは親族、さらに旧住民に聞き取り調査を行い、また統計データなどの客観資料が県庁もしくは保健所に保管されているのであれば、それをもとにして立証することを考えている。ただ、「保健婦の手記」は保健婦および関係者が、農山漁村の暮らしを客観的にとらえた結果を記したのであり、またその感想であったりするわけであるから、全く客観性に欠けているというわけではない。そこは科学的に見て立証可能ではないかと考える。資料論的な分析も含め、「保健婦の手記」を取り巻く状況を明らかにしながら、そのうえでその内容について触れていくことにしたい。

 

5.まとめにかえて

【具体的な研究調査計画】

(1)資料調査面

 保健婦資料館および国立国会図書館、さらに各地域の保健所の協力を仰ぎながら、その当時のできるだけ詳しい状況を「保健婦の手記」をベースに読み込んでいく作業をしていく。紙資料については、保健婦資料館に所蔵されている雑誌類から収集調査し、分析ののち整理しながらその内容の分析を行うこととする。現時点では表1に代表される『生活教育』の「保健婦の手記」記事を追っている。

 

(2)フィールド調査

 現時点での調査地の選定については、「保健婦の手記」の分析しだいによって変化するが、複数の地域を候補地に挙げておきたい。第一に、京都府南丹市日吉町における保健活動について。これは『生活教育』の「保健婦の手記」に頻繁に登場する人物が旧日吉町国民健康保険診療所保健婦として勤務し、そのことについて昭和35年から37年にかけて3度にわたり入選作品として掲載され、そのたびに評価を与えられている。そのことから考えて、日吉町での保健活動がいかにしてあり、保健婦の足跡がどういう風な変化を及ぼしていたのかを実際現地で聞き取り調査しておきたいと考えている。今のところ、日吉町郷土資料館ならびに元職員であったM氏の協力を得ながら、調査のための機会をうかがっている。

 第二に、長野県佐久市臼田の佐久総合病院における保健活動の分析である。これは直接保健婦活動とは結びつかない医師の活動ではあるが、当活動が地域の生活改善に寄与し、且つ農林省が行った生活改善諸活動に対しての苦言を医療側から発し、地域住民の生活基盤における改善の必要性を訴えったこと、さらに旧八千穂村(現佐久穂町)の健康診断に積極的に関与し、継続的な保健医療活動を行うとともに、単なる医療行為としてのそれではなく、積極的な健康管理を住民に呼びかける活動を保健婦とともに行っていた経緯があるため、これも参考にしたい。

 第三に、愛媛県鬼北町、広見町中心に行われた保健婦活動について分析する。これは稲葉峯雄が記した『草の根に生きる 愛媛の農村からの報告』(岩波書店 1973)をベースにしたもので、稲葉氏自身は愛媛県の衛生教育を担当していた人物であるが、彼の足跡には保健婦もしかり、そこに暮らす農村民が彼の草の根運動をきっかけにして自主的に、健康管理などのことを勉強し、地域の保健活動に参画していったという背景がある。その時の、保健婦だった方々に現在、八幡浜保健所を通じて連絡を取っており、調査可能であれば、聞き取りにいくことと、地域を歩いてみてその当時どのような生活が営まれていたのかを概観してみたい。

 第四に、岩手県北部の農山村における保健活動について分析する。これは大牟羅良、菊池武雄らが取り組んでまとめていた『岩手の保健』に出てくる、保健婦活動をベースに、その地域でどのような活動が行われていたのかを検討することにしたい。『岩手の保健』は大牟羅良が岩手県国民県子保健協同組合より依頼されて作られた背景があり、国保の変遷をみるうえでは重要であると同時に、大牟羅が取り組んだのは単に保健活動の業務報告だけでなく、もっと開かれた雑誌として農山村民の声を拾い集めて、それらの生活記録を提示することで、具体的な保険の状況と、それに応じて変わっていく生活をうまく描いている。これについては『物いわぬ農民』や『荒廃する農村と医療』の中でも再三問われている生活疑問とそれに対応しようとした大牟羅の軌跡をたどる意味で調査を考えている。但し、まだ具体的な地域名については上げておらず、今後『岩手の保健』の記述を見ながら検討することとしたい。

 現時点においては四つの調査を予定しているが、いずれも昭和30年代から50年代にかけて同時期に行われた活動であり、全国的な波紋を呼んだ活動でもある。その意味でも、保健活動がいかにして地域と関わってきたのかを知る手掛かりになるし、保健婦および医療従事者がどのように住民に接近し、さらにどうやって住民がそれを受け入れていったのかという過程を見ることが可能となる。さらにいえば、その過程を見ていく中で地域住民が自らの生活を反省し、それに応じて変化を受容する動きをしていく過程も散見されるため、これを具体的に分析調査しながら検討することは生活研究における生活の総体の理解へとつながる。

但し、本論は地域比較論を展開するものでもなければ、保健活動の伝播論を述べるものでもないし、保健活動の類型論を展開するわけでもない。それぞれの地域的特色、取り組みの仕方を検討し、そこからどのようなことが言えるかを民俗学的視点から分析研究することにする。つまり、地域生活をそのまま記述することでその当時の生活のリアルな動きを観察し、そこに身体を守るという上で保健活動がいかに根付き、それらを住民が受け入れていったのかを各々の立場から考えていきたい。これは、地域を天秤にかけてこの地域では受け入れが足りない、こっちでは積極的だということを表すのではなく、あくまで保健事業と人間とがどういう関係性のもとで描かれるものなのかを生活面からあらわすためである。

 

【将来的展望】

(1)「保健婦(保健師)のための民俗学」実践の模索

本研究は、いずれにしても過去の保健婦や関係者の活動について外観し、地域住民と関係性、生活への関与、そして生活の変化への取り組みを考察することを主題としている。

しかしながら、なにも過去の経験を探ることだけに主眼を置いているわけではない、本研究の将来的な展望は「保健婦が経験した知識を、現在の保健師の血肉にすること」であり、つまるところ保健婦が見てきた生活実態とそれへの対応を、経験を、現代的な保健師の問題と照らし合わせて問題提起をしていくことを積極的に考えている。

昨今の社会状況の変化により、保健を取り巻く状況は変化しつつある、家族関係の希薄化や、家庭内暴力、乳幼児虐待、いじめ、感染症への理解の不足、医療へ頼りっぱなしの生活、高齢化による介護事業の参入など、目まぐるしい変化がそこにあり問題が露呈している。このような問題を解くカギの一つとして、保健婦が行ってきた家庭訪問や地域貢献の在り方が問われてきている。家庭訪問は、先に記したように健康を観察することだけに限らず、その家庭生活の機微に触れることを指し、問題の早期発見と予防を兼ね備えた活動である。さらに言えば、この活動は地域連帯をはかり、地域と行政や医療との橋渡しを行ってきた過程がある。ただ、現在の行政機構の中においては保健所も同様に家庭訪問は各症例、相談ごとの対応になり、事業自体が細分化されているため、全体を見渡せる視野が足りていない。また保健計画作成や事業推進のための書類などの事務作業に追われ、業務遂行に対しての時間的束縛、さらに予算配置などの点において多くの問題を抱えている。

しかしながら、そうした環境にある中でも希望を失わず地域の第一線で活躍する保健師を今一度見直し、保健所や行政と共にこの問題に対して今一度考え直す必要性があるのではないかと考える。私がやれることというのは、保健所や行政、保健師個々に対して現状を語っていただき、そのうえで過去の保健婦の事例を引き合いに出しながら、各問題の解決を促すことである。当然これには多くの時間と予算を投資しなければならず、すぐに実行することは難しい。また方法論についても今後保健婦資料館との話し合いも含めて検討し、現在の問題へのアプローチを試みようと思っている。

 

(2)地域組織構造改革と社会教育への実践的な取り組み

さらにこれはまた保健婦活動とは別であるが、「保健婦の手記」類に描かれた地域住民の積極的な取り組みが現在形骸化し、実質行政が個別的に地域を支えているのが現状であり、自治体組織もそれを維持することが困難な現状が今ある。それを鑑みて、今一度地域連携の在り方を探るべく、兵庫県宍粟市にてもと保健婦のつながりを通じて、地域住民間の組織づくりを社会教育的なスタンスで取り組めないかと考えている。例えば、はじめは大掛かりではなく、小さな読書会から始めてみてはどうかと考える。新聞でも文庫本でもいい、そうしたほんとか文章を通じて文通のやり取りをしながら、地域同士で連携を作っていくこと、自主的に参加していくことを視野に入れた活動がしてみたい。

こうした活動は稲葉峯雄の取り組みにも似た活動ではあるが、自己責任が叫ばれる昨今の状況、孤立を防ぐ意味においても隣近所間の連帯性をどこかで生じさせ、サークル的な活動を通じて何か実践的なものができないかと考えている。これには元保健婦の協力も得ながら、実際に動いてみようと画策している。本来であれば、これが都市部に移行できうるものであればいいのであるが、現時点では農山村の問題としての過疎化、高齢化を見越した連帯性の発揮を今一度検討に入れておきたい。

 

 

参考文献

大牟羅良著『ものいわぬ農民』(岩波書店 1958)

大牟羅良・菊池武雄共著『荒廃する農村と医療』(岩波書店 1971)

稲葉峯雄著『草の根に生きる 愛媛の農村からの報告』(岩波書店 1973)

五十嵐フミノ著『ある保健婦の手記―医療と貧しさの谷間から―』(筑波書林 1982)

五十嵐松代著 新潟県自治体に働く保健婦のつどい 自治体に働く保健婦のつどい編『ごうたれ保健婦 マツの活動』(やどかり出版 1994)

伊藤桂一著『「沖ノ島」よ 私の愛と献身を』(講談社 1968)

岩本通弥・菅豊・中村淳編『民俗学の可能性を拓く 「野の学問」とアカデミズム』(青弓社 2012)

岩間秋江著『青春を谷間に埋めて-無医村保健婦の活動-』(講談社 1958)

及川和男著『村長ありき―沢内村 深沢晟雄の生涯』(れんが書房新社 2008)

大国美智子著『保健婦の歴史』(医学書院 1973)

荻野美穂著『「家族計画」への道 近代日本の生殖をめぐる政治』(岩波書店 2008)

川上祐子著『日本における保健婦事業の成立と展開-戦前・戦中期を中心に-』(風間書房 2013)

菊池武雄著『自分たちで命を守った村』(岩波書店 1968)

木村哲也著『駐在保健婦の時代 19421997(医学書院 2012)

高橋政子著『いのちをみつめて ある保健婦の半生』(ドメス出版 1995)

田中宣一編『暮らしの革命 戦後農村の生活改善と新生活運動』(農文協 2011)

南木佳士著『信州に上医あり-若月俊一と佐久病院ー』(岩波書店 1994)

宮本ふみ著『無名の語り 保健師が「家族」に出会う12の物語』(医学書院 2006)

八木透編『新・民俗学を学ぶ-現代を知るために』(昭和堂 2013)

由紀しげ子著『ヒマワリさん』(大日本雄弁会講談社 1948)

吉田喜久代著『砂丘の陰に』(長崎書店 1940)

若月俊一著『健康な村』(岩波書店 1953)

若月俊一著『村で病気とたたかう』(岩波書店 1971)

 

【参考資料】

『岩手の保健』第1号~84(オリジナル版) 岩手県国民健康保険団体連合会

『生活教育』(巻号数不明)昭和35年から40年 生活教育の会

『保健婦雑誌』(巻号略)

『公衆衛生』(巻号略)

『母の友』(巻号略)

『主婦の友』(巻号略)

『保健同人』(巻号略)

『農村北海道』(巻号略)

『社会事業』(巻号略)






1従来の民俗学は「伝統性」に裏打ちされた現象としての「民俗」を追ってきたが、本研究ではその現象の変化の過程を「民俗」としている。