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2009年8月28日金曜日

10月の調査準備と研究の修正

 おはようございます。朝早くからブログ御苦労さん?いつものことです。早起きが趣味みたいになっていますので(笑)

 さて、この度は現在進行中の新論文構想とそれに関する調査日程についてお話したいと思います。

 先日、以前調査にご協力をいただいた方から紹介された人を伝って、「千種町いずみ会」「行政」「A保健婦」「健康推進委員」だった方々に調査協力要請と御挨拶をかねて連絡をしていました。皆さん、最初は訝しがっていましたが、私が研究の目的とどういうことを調べているのかを話すと、いきなり「そんなこともあったなぁ」「なつかしいなぁ」と仰っていただき、調査の協力を得ることができました。

 次にしないといけないのが電話ではなく、手紙での調査協力要請をすることです。これをすることで、電話では説明しづらかった内容にまで踏み込み、具体的に何を目的にしているのかを表明することができます。私の場合、調査のメリット、デメリットを加えて書いていますが、まぁこれは官公庁向けに書く場合のみです。普段は研究趣旨、調査項目、協力要請、調査日程などといった順で並べていきます。

これで終わりと思ったら調査予定日が変更になった時の対処ができづらいため、再度電話して厳密な日程調整を行い、その後案内状として現地に手紙を送ります。そうした手間をかけて調査に入るのですが、私はこの方法が当然のことと思っています。もし、ここがこうしたほうがいいと仰る点があればまた指摘してください。


 こうして調査準備が整ってくると、次に大変なのが新論文の構成と書きだし部分の調整です。まだ調査が一回目ということもあってか、あまり書けませんが、「書けるところから書く」という心情のもと、部分的なパズルとして文章を書いていっています。なお、後で修正が効くように配慮しながらですがね。
 
 今回の論文は今まで話してきたように、A保健婦という一人の人のライフヒストリーを描き出すものです。A保健婦が昭和30年代から50年代にかけて行政ならびに地域住民団体千種町いずみ会や健康推進委員らとどのように関係をもち活動を行ってきたのか、A保健婦自身の活動が地域の活動にどう結びついていったのかを詳しく追ってみることが主目的になっています。ですので、少し今までとは勝手が違う論文となりますので、慎重にならざるを得ないのですが、筆が止まってしまっていてはどうにもなりませんので、早速書き始めています。⇓

ある保健婦の足跡から見る地域の健康増進運動の展開
―行政、地域住民参画型事業の活動実態について―

はじめに
 本研究は、昭和四〇年代以降、兵庫県宍粟市千種町の地域生活の変遷過程において影響を及ぼしたとされる、婦人会団体千種町いずみ会と行政が行った健康増進運動の実態と地域住民によるその活動の受容を新たにA保健婦の視点から見直すものである。
以前、千種町いずみ会、行政が地域の生活の向上と健康増進運動について地域住民の生活に彼らはどのように入り込み、そしてどう「生活改善」を行い、いかにして地域の要望に従った活動がなされていたかを論じた。その際、千種町いずみ会を中心に、A保健婦や行政の協力のもと啓発運動や栄養改善、健康診断などを通じて地域住民の生活範囲内で活動しながら、「健康」に対する認識を植えつけていき、地域住民の「健康不安」に応えるべく様々な「生活改善」を行い、結果的に生活にそれが浸透し、受容されたと述べた。
しかしながらこれらは地域団体である千種町いずみ会の視点からの動きであって、そこに関わり、彼らを支持し導いていったとされる、とある人物からの「生活改善」及び健康増進運動への視点は、前述の論にはない。だが、昭和三〇年代から五〇年代にかけて地域の保健衛生活動の要となって活躍していた一人の人物を取り上げないことには、地域活動の実態自体を明確に語ることはできない。そのとある人物とは、千種町保健婦として昭和三五年以降千種町域全体にわたって活躍していたA保健婦のことである。A保健婦の功績は数知れず、当時の無医村に近い医療環境の再構築や劣悪な衛生環境の改善などを行い、また千種町いずみ会、行政、山崎保健所などと協力しながら地域保健活動ならびに健康増進運動に自ら関わってきた。そこで本論においては、千種町いずみ会や行政の地域活動を直接捉えるのではなく、A保健婦というファクターを通して間接的に捉え新たな視点から活動実態と受容について明らかにしたい。また、この研究はA保健婦の「語り」を中心に関係者及び地域住民の「語り」をも含め、総合的に地域の「生活改善」及び健康増進運動がどのように「語ら」れていったのかを求めるものである。
昭和三〇年代から四〇年代にかけては、千種町の社会情勢ならびに地域生活環境が目まぐるしく変わる時期である。特に、保健衛生面での活動がそれらに大きく影響を及ぼしている。昭和三一年、兵庫県宍粟郡千種町西河内にある千種北小学校での健康診断の結果、児童の栄養不足による成長不良や悪質な衛生環境による健康不振といった問題が浮上した。そこで、小学校の保護者からなる育友会と学校側が協議し、昭和三五年児童の栄養を考え学校給食の実施に踏み切った。これにより一時的に西河内地区の健康状態は良好を保つことができた。ところが、地域の問題は児童の成長不良だけでなく、乳幼児の多産多死、脳卒中や脳梗塞ならびに高血圧症患者の増加、十二指腸虫(鉤虫)などの寄生虫による健康被害といった問題が山積していた。これらは、地域の出産における環境、労働環境、食生活環境、衛生環境に原因があり、一刻も早く解決する必要性があった。こうした健康被害が拡大する一方、地域住民の中にはこれらの諸問題について関心を持つ者がおらず。国民健康保険診療所(以下、国保診療所)や山崎保健所などが地域の衛生状況の悪化について触れて回っても地域住民の中に浸透しなかった。そうした住民の意識の低い中、昭和四三年婦人会組織の中から千種町いずみ会と呼ばれる団体が創立された。彼女らの活動は行政によって管理され、千種町全域を視野に入れた大規模な食生活改善、栄養改善活動、衛生改善活動を行った。また、千種町いずみ会は十二地区に分かれており、それぞれの地区に似合ったいずみ会活動がなされ、ある種自主的な活動も行っていた。こうした行政及び地域住民団体の積極的な動きの背景には、昭和四四年に教育委員会より施行された「千種町健康教育振興審議会条例」や、それに伴う「体位向上協議会」の実施といった地域の保健衛生環境の整備、地域住民の健康増進を目的とした政策があった。
そうした運動が展開する中で千種町いずみ会や千種町行政などの活動の中心にいたのが昭和三〇年代から五〇年代にかけて千種町保健婦として勤めていたA保健婦である。彼女の活動は、乳幼児の検診といった母子保健や地域の健康を考慮した食生活改善と栄養改善、公衆衛生や保健医療にかかわる部分での衛生改善指導、妊娠中絶の回避を勧めるべく受胎調整(家族計画)などの講演会の実施といった多岐にわたるものであった。そうした活動は千種町いずみ会や山崎保健所、生活改良普及員などの協力を得て行われたのである。
そうした地域住民組織との関係の一方で千種町行政による健康増進運動の展開に合わせて千種町保健婦としてその運動をリードし、多様な改善活動に貢献した。A保健婦は地域住民、千種町行政の橋渡し的な存在であり、いずれの活動に際しても熱心に取り組む姿は、地域住民から厚い信頼を得ていた。

第一節 地域保健活動と「生活改善」の研究史
(一) 地域保健活動と保健婦
 そもそも、地域保健活動とはどのような活動を指すのであろうか。保健婦による地域の保健活動というのが簡単な言い方であろう。保健婦の介在なしには語れないこの地域保健活動と行政や地域住民の協同活動の中での地域保健活動、これらは対象が異なるだけのことで基礎は保健婦によって築かれているので同様のものである。また、題名にも載せている健康増進運動もこの地域保健活動とよく似ている。前者は健康増進、つまり現在の健康状態を保ちながらそれを増幅させていくという活動。具体的には体力向上や体位向上、スポーツなどによる身体の強化などが目的である。一方、後者は地域の保健衛生に関わる活動、つまりは地域内の衛生環境の改善やそれによる健康被害の増幅を抑えるための処置などが活動の内容となる。具体的には衛生改善などがこれにあたる。しかし、こうした区分は先にも述べたとおり言葉上の区分であり、あまり意味をなさない。健康増進運動も裏を返せば健康被害の増幅を抑えるために行う活動であり、地域保健活動とあまり変わりないものである。また、保健婦の介在についてもどちらもいえることであり、さほど違いがあるわけではない。
そうした地域保健活動における保健婦の位置づけというものについて少し触れておく。
「公衆衛生」という言葉があるように、地域全域にわたる衛生環境の美化を基本とする活動が保健婦には課せられている。保健婦助産婦看護婦法(現在は保健師助産師看護師法となっている)には第一章総則第一条に「医療及び公衆衛生の普及向上を図ることを目的とする」となっており、具体的に地域の生活環境の改善から地域住民に対して保健衛生知識の普及に努め、且つ地域医療の立場から検診や巡回診療もその活動に含まれることとなっている。つまり、先に述べた地域保健活動のことを「公衆衛生」という言葉は含んでいる。保健婦はそうした地域保健活動の先頭に立って、衛生普及、医療補助、巡回検診を行う人物なのである。
(二) 従来の生活改善研究への「新たな」位置づけ
 従来の生活改善諸活動の研究史において、こうした地域保健活動を位置づけることはなかったように思われる。生活改善諸活動の一つとして数えられる、保健所活動は別としても、地域行政、地域住民協同に地域保健活動は従来の研究史においては「新しい」位置づけが必要であると考える。そもそも、生活改善諸活動を一つの定義化した折には、まずは団体の存在があり、それには設立にかかわる活動理念や政策、実際地域で行うための施策などがあってはじめて成り立つものである。しかしながら、千種町いずみ会の活動や行政の健康増進運動を見てみると、そうした設立理念があってのものではなく、地域問題への対応の緊急性を前面に出したものであり、理念、政策、施行といった形で地域に広がるのではなく、活動そのもの自体が地域に直結する形で成り立っている。つまり、組織的な仕組みを持たないものであり、それを生活改善諸活動の研究史の中に位置付ける事態難しいものがある。
 そこで一度、千種町いずみ会の活動を地域保健活動の研究史の中でとらえた上で、生活改善諸活動の研究の中での位置づけを行ってみたい。地域保健活動の研究は「公衆衛生」側からのアプローチがほとんどで論文はほぼ医学系論文や社会学系論文に多い。本論では医学系論文の中の一つ『公衆衛生』という雑誌から地域保健活動についてアプローチしたいと思う。
まず、立身政一の「農村生活と地域保健活動」というものがある。秋田県の地域保健活動を題材にしたもので、秋田県の生活環境ならびに保健の実態を明らかにしたうえで、どのような問題が地域で起こっているのかを衣食住そして意識面から分析し、その対処として医師などによる巡回診療行為や地域住民による農村保健活動の活動実態を詳しく論じている。この立身の論は実態を明らかにするにとどまり、その後、地域住民と医師、農協の医療班の活動に期待することで論を閉じている。地域保健活動の実態把握のみがとり立たされ、その意義などについては論じていないのが現状である。確かに、農村生活における地域保健活動を述べるにあたってはデータを述べるにとどまるしかないのが現状であろう。本研究でいう健康増進運動という地域保健活動も、その組織構造が複雑多岐にわたり、活動それぞれにリンクしておらず、その活動実態を論じるといっても報告程度にしかならないのである。
これに対して三沢博人の「市町村を主体とした地域保健活動」においては、活動の報告に限らず、市町村で具体的にどのような取り組みをすべきかを実学的に描いている。三沢はまず新潟県の例を挙げそこでの保健衛生状態の悪化を述べた後、地域の保健所の実態を明らかにしている。「保健所は法規に定められた仕事を自分の持つ能力技術の枠内だけで処理する保健所本位の事業活動に終始」しており、その枠外のものに対しては対処できない現実を突きつけている。そういった保健所の問題点に触れながら三沢は市町村行政と保健所の連携による保健行政の体制の確立と、地域住民による自主的な組織活動を提唱している。具体的な連携活動として、「住みよい郷土建設運動」「住民の手による結核検診」「食生活改善の組織的な活動」を挙げ、行政、保健所、地域住民の総合的な保健活動の推進を考えている。この活動のためには公衆衛生推進委員や衛生委員、食生活改善推進委員、母子保健委員などを立ち上げ、地域の保健衛生の普及を目指している。最後に三沢は「「その(活動の)主体が地域の住民・市民であり」、「住民・市民と専門家が、地域保健問題の解決と保健水準の向上発展のために、一体となって努力し、必要なsocial actionを展開していく」ならば、従来の公衆衛生がもつ基本的な考え方や、制度面で古さや欠陥はやがて払拭され改善されていくことは間違いない。」と締めくくっている。
これらの研究から言えることは、地域連携型の地域保健活動の重要性と住民参画型の活動の構築が主題となっている。では、これらの研究において本研究の位置づけを行ってみると、立身がいう実態調査の必要性と三沢の言う地域連携型の地域保健活動の展開を両方とも兼ね備えた者といってよいと考える。本研究で扱う、千種町いずみ会やA保健婦や保健所による健康増進運動がまさに三沢の言う「social action」の一つの手段であることがうかがえる。
さて、地域保健活動研究における位置づけは以上のようなものであるが、生活改善研究におけるこの活動の位置づけをどうするべきかを次に考えたい。生活改善諸活動研究では生活改善普及事業、新生活運動、保健所活動、公民館活動の四つの団体を主体に研究がなされているが、ほとんどが生活改善普及事業、新生活運動の分析に終始しており、保健所活動、公民館活動に関する研究は少ない。本論で取り上げる活動も保健所活動の一環といえばそうであるが、保健所主体に活動が展開したわけではないのでこの四つの活動の中に入れることはできない。そこで新しい枠を考えたいと思う。従来の研究では官製の生活改善という枠組みの中で処理がされてきた。官製の生活改善とは政府行政諸機関が主体となって行ったいわゆる生活改善諸活動と呼ばれる活動のことを指す。ところが、それに属さない民製の「生活改善」という者がある。民製の「生活改善」とは地域住民が主体となって起こした生活向上を目指した活動並びに運動のことである。但し、この「生活改善」は何も地域住民だけが関与しているとは限らない。先の地域保健活動と同様、行政や保健所も関与しているものである。これら二つの枠組みにおいて本論は民製の「生活改善」の中で論じるものとしたい。行政や保健所の関与もうかがえるが、基本は地域住民による活動とそれを支えたA保健婦を題材としているので、民製の「生活改善」の位置づけで考えておきたい。



以上が今書き進めている段階の論文となります。それなりに見えるでしょうかね。とにかく、これでも問題だらけで、A保健婦をタイアップすると言っておきながら地域保健運動のタイアップが先になってしまい、何かしら違和感を感じる文章ともなっています。しかしながら、従来こうした視点研究がなかったわけですから、失敗は覚悟の上です。そのため毎日のように修正をしています。A保健婦に関してはこの次の章で扱おうかとおもっているのですが、少し前置きをし置く必要もありそうです。何とか完成すればいいんですけど…来年の日本民俗学会ではぜひとも発表できるようにしておきたいものです。

2009年8月21日金曜日

新論文作成中

 新しい論文を作成してみました。今回は、千種町いずみ会の動向だけでなく、それを内包していた行政の動きならびに、その先頭に立って指揮をしていたA保健婦の足跡からたどるものとなっています。

ある保健婦の足跡から見る地域の健康増進運動の展開
 ―行政、地域住民参画型事業の活動実態について―

 本研究は、昭和四〇年代以降、兵庫県宍粟市千種町の地域生活の変遷過程において影響を及ぼしたとされる、婦人会団体千種町いずみ会と行政が行った健康増進運動の実態と地域住民によるその活動の受容を新たにA保健婦の視点から見直すものである。
 以前、千種町いずみ会、行政が地域の生活の向上と健康増進運動について地域住民の生活に彼らはどのように入り込み、そしてどう「生活改善」を行い、いかにして地域の要望に従った活動がなされていたかを論じた。その際、千種町いずみ会を中心に、A保健婦や行政の協力のもと啓発運動や栄養改善、健康診断などを通じて地域住民の生活範囲内で活動しながら、「健康」に対する認識を植えつけていき、地域住民の「健康不安」に応えるべく様々な「生活改善」を行い、結果的に生活にそれが浸透し、受容されたと述べた。
 しかしながらこれらは地域団体である千種町いずみ会の視点からの動きであって、そこに関わり、彼らを支持し導いていったとある人物からの視点は、皆無に等しい。地域活動に一人の人物に焦点を当てて描くのは、大変難しく問題も多い。だが、地域活動の要となっていたこの人物を取り上げないことには、地域活動の実態自体を明確に見つめることはできないと考える。そこで、そのとある人物、昭和四〇年代以降、千種町保健婦として活躍していたA保健婦からの視点で地域活動を捉えなおし、また彼女の「語る」ライフヒストリーを通じて、千種町いずみ会らが行った「生活改善」を見なおしてみたい。また、この研究は「A保健婦の語り」を中心に関係者及び地域住民の「語り」も含め総合的に地域の健康がどのように「語られ」活動がどう展開していったのかを求めるものである。
 昭和三〇年代から四〇年代にかけては、千種町の社会情勢ならびに地域生活環境が目まぐるしく変わる時期である。特に、保健衛生面での活動がそれらに大きく影響を及ぼしている。乳幼児の多産多死、児童の成長不良、脳卒中や脳梗塞ならびに高血圧症患者の増加、十二指腸虫(鉤虫)などの寄生虫による健康被害が代表的である。これらは、一刻も早く解決する必要性があったが、地域住民の中にはこれらについて関心を持つ者がおらず。地域に「健康」「衛生」というもの自体が浸透していなかった時代でもあった。
 そうした住民の意識の低い中、千種町保健婦として活躍したA保健婦の存在がある。彼女の活動は、母子保健や食生活改善と栄養改善、公衆衛生や保健医療にかかわる衛生改善指導、受胎調整(家族計画)などといった多岐にわたるものであった。そして、時を同じく地域の保健活動に協力的に関わっていたのが、千種町いずみ会である。そうした地域住民組織との関係の一方で行政による健康増進運動が展開されていった。

2009年8月19日水曜日

「千種町健康教育振興審議会条例」の背景

 昭和44年千種町行政(教育委員会)により施行された「千種町健康教育振興審議会条例」。

 私の論文にはA保健婦や千種町いずみ会の活動が活発化した要因の一つとして挙げています。この条例には以下のような背景があったことが今日わかりました。(当時の教育委員会にいたI氏からの電話でのやり取りをまとめてみました)

 昭和30年代、千種町はほぼ無医村状態であった。医者がいない時もあればいる時もあるといった状態で、且医者の給料を支払うのに大変高額な請求をする医者もいて、千種町の財政では賄いきれない状態であった。またそのような状況の中でさらに悪化させることが起きていた。それは、地域問題として児童の成長不良(体位の悪い児童の存在)や脳卒中、高血圧症患者の増加などといった問題の浮上である。
 これらの地域保健環境をどうにかしなくてはならなくなった千種町行政は、公衆衛生ならびに保健衛生の専門家たる保健婦を町にはじめておくことを決意した。昭和35年そこに就任してきたのがA保健婦である。彼女は、12地区ある地域それぞれを歩いて訪ねて回り、各家の健康状態、衛生状態などをチェックし、その結果をカード化するなどして地域の実情を知る手だてとしていた。そうした訪問を続ける中で乳幼児健診などの母子保健に関わる診断や、高血圧症、脳卒中といった塩分過多からくる病気への警告と減塩の啓発を行い、地域の「健康増進」ならびに保健衛生の普及に尽力した。

しかしながら、無医村からいきなり保健婦をむかいいれ、多忙な業務をこなしている中で、どうにか保健婦の増加や地域の保健活動の活発化を図る必要性がでてきた。 

 そこで昭和44年「千種町健康教区振興審議会条例」を施行し、これらの問題を解決すべく地域医療の改善を考え、且つ保健婦の獲得に行政側から動いた。そこでH保健婦を含む二人の保健婦が千種町に来てくれることとなり、A保健婦の下、健康増進運動の活発化に役立っていた。具体的には町づくり検診などを行い、地域住民の健康増進をおこなったりした。
 もちろん、この活動には千種町いずみ会も関係を持っている。条例の施行により、その具体的な施策の一つとして、千種町いずみ会ならびに健康推進委員の活動の各地区内での活発化と、千種町全域における活動の展開を意図していた。

2009年8月12日水曜日

理にかなった千種町いずみ会システム

 ちょっとおどろきの発見でした。

 私の研究でおなじみの千種町いずみ会という団体は、各地区に支部組織をおき、その支部組織での活動を本部で報告し、協議しながら地域住民の健康意識の向上、健康増進の展開をおこなったのです
 こう書くと何の変哲もない組織に思いがちですが、この組織の面白いところは
「行政」がそれを「支援」し、「自ら動いてもらえるよう」画策していた
ところです。千種町行政における健康増進の先頭に立っていたのはA保健婦と呼ばれる人物と国民健康保険診療所、千種町役場の健康増進課、各地区の千種町いずみ会、婦人会、健康推進委員という官民バラバラの組織が一丸となって取り組んでいたことがうかがえます。

 保健行政の立場から考えれば当然のことと言わざるを得ないのですが、この官民連合による改善活動は珍しい形といえます。兵庫県全域にあるいずみ会組織、そのトップである兵庫県いずみ会、宍粟郡いずみ会などにおいては「自主的な」活動を目的としていますが、千種町いずみ会は末端では自主的な活動となっていますが、その間に行政の補助など様々なバクアップがあって成立する会なのです。

しかし、どうして官民両方が歩み寄る形になったのかというと、これもA保健婦のおかげといわざるを得ないのですが、とにかく昭和40年代当時は12地区内の保健衛生状況はかなり悪く、一刻も早く措置をとる必要性がありました。そのこともあってか、時代は遡りますが昭和35年千種町に唯一の保健婦A氏を置いたのです。まず、保健婦を初めて受け入れるわけですから何かと障害も多い事業だったと思われます。しかしながら、A保健婦は地域の保健、衛生、栄養、労働、育児などの環境を整備させ、千種町いずみ会とともに健康診断を開き、衛生思想の普及につとめていたのです。そのおかげもあってか、千種町で「A保健婦」について話すと、その話だけで盛り上がる状態です。それだけ影響力の強い人だったのでしょう。

 さて、話は振り出しに戻りますが、この斬新な千種町いずみ会システムは組織構造だけでなく、その組織に参加している人物の心情においてもそれを活用したシステムとなっています。このことを私は「母性」という言葉を用いて説明しますが、そもそも昭和43年の千種町いずみ会発足の前に昭和31年より児童の成長不良、健康不振などがささやかれ始めており、昭和35年には学校給食を実施することで児童の健康づくりを行ってきました。その後昭和43年までの間の活動に関しては不明確でありますが、この活動を取り仕切っていたのが学校と育友会(保護者組織)の面々です。ここで注目してもらいたいのが、児童の成長不良を心配した父兄による活動が学校給食であったということです。その流れをくんで昭和43年千種町いずみ会が誕生することとなるのです。

 つまり、保護者の心配という心情からこの活動がスタートしている点に注目があります。この育友会に参加したのは男女混合ではありましたが、女性のほうが多く、婦人会もこれに絡んでいたとも考えられます。

そのため、

この活動に対して「母性」という「いわゆる女性特有の子どもに対する想い」「家族の健康に対する想い」「地域の健康全般にわたっての改善していこうとする思い」が集約された形で動いていたものと考えられます。

 こうした理にかなった千種町いずみ会システムはそれ以後も多くの地区で活躍し、「母性」を原動力にして組織の連帯感を一層強めていったと考えられます。

2009年8月11日火曜日

聞き取り技術向上の構築に向けて

 聞き取り調査というものは、ある意味話者の生の声を聞くことから、記されなかった歴史を辿ることができるというメリットがあります。しかし一方で、聞くということは相手があって成り立ちますので、相手の主観がそこに生じているわけで、正確な時間的空間を呼び起こすにはあまりにも粗末すぎるというデメリットがあります。
 私たちの記憶は「忘れたい記憶」と「忘れない記憶」の二種類に分けられると考えます。そうなれば、話者はどれを選ぶでしょう。もし調査者が都合の悪い内容のことを聞こうとすれば、それは「忘れたい記憶」として処理され、話してもらえなくなる可能性があります。

 そもそも

 聞き取り調査というのは不完全な調査であり、完璧な記憶を呼び起こすだけの力はありません。

それを承知の上で、私たちは多くの話者から聞き取りを行い、行政文書やその他資料と突き合わせながら総合的に調査資料を整理し研究していきます。ある意味、完璧な記憶に一歩近づくためといっても過言ではないでしょう
 しかしながら、最近行政文書やそのほかの資料(モノ資料も含む)等に関して懐疑的になってきています。その理由は、文書資料とされるものはその筆者の主観やその筆者がいう「客観」的視点で物事が記されています。またモノ資料にしても、実際使われた当時の使い方が記憶の通りであるのかという実証性はなく、かなり不安定な記憶を辿ることとなります

 そこで、私は聞き取り調査の向上に向けて以下の3点から考えてみることにしたいと思います。

①聞き取り調査自体の正誤性をどう見るべきか

②調査対象者である話者をどう見るべきか

③文書資料と聞き取り資料を並列で考えるべきか

以上の3点からのアプローチを考えてみたいのですが、何分一人で考えても仕方がないことなのでどなたか進言いただければ幸いです。

 まず私の意見を言わせていただきたいと思うのですがよろしいでしょうか?(もし準備が必要ならこの後は読まなくて結構です)






①聞き取り調査自体の正誤性をどう見るべきか
 これについては皆さんのほうがよくご存じかと思いますが、「何度も訪問して」話の内容に齟齬がないかチェックすることにあります。つまり、複数回の話者とのやり取りがなければ成り立たないものです。

②調査対象者である話者をどう見るべきか
 結構難しい問題ですが、私は調査対象者としてみるのではなく、単に会話者としてみるべきかと思います。この場合、調査とか研究とかの概念は一度捨ててみることが必要かと思いますがね。ただし、会話者となるにはそれなりの信頼関係のもとでお互いを意識しなければ成り立ちません。①で申し上げた通り、やはり何度か会うことがベストです。それと、会話者には質問は無用です。質問でなくて話をするのです。何気ない話題を振りかけ、それに応じて答えを待つ。ただそれだけのことです。では調査はどうなるんだと怒鳴る方もいらっしゃるでしょうが、概念を捨てろとはいいましたが調査自体をやめろとは言っていません。会話者と適度な会話をすることで、その中に民俗学的エッセンスが詰まっていればそれだけで十分ではありませんか。確かに丸坊主の時もあるでしょうが、それでもくじけてはいけません、相手との関係性の構築には成り立っているのですから。

③文書資料と聞き取り資料を並列で考えるべきか
 まず、それはあり得ないことでしょうね。文書資料と聞き取り資料では次元が異なります。方や記述というスタンスから見るもの、方や話すというスタンスから聞くものですので、全く意味が異なります。そのため、並列に考えることはできません。よって、聞き取り調査で文書類を証拠に話を進めていくことはある意味危険性を帯びています。確かに、証拠としての文書の力は強力です。それを使って話をすれば、話者はそれ以上のことを話さなくなるでしょうし、関係も淡白なものとなってしまいがちです。そうなれば、聞き手話し手という関係自体危ぶまれるでしょうね。

以上が私の意見です。この意見は私が数々の調査経験から言えたことであって、どなたかの論文を読んで描いたわけではありません。よって、素人意見としてみていただければ結構です。しかしながら、この調査論を考えるには日本民俗学会でも取り上げるべき課題だと考えたりもします。

調査への不信感?「語り」の恐怖

 8月4日から8日までの四泊五日の調査旅行で、私が目指していたのは

「いずみ会」「千種町いずみ会」の活動実態、婦人会、行政の動きの三点

でした。(ちなみに「千種町いずみ会」は「いずみ会の後身とされています)

この調査は、単なる調査ではなく

千種町ひいては宍粟市の健康増進を中心とした地域活性化を視野に入れた研究

がその中核をなしており、調査は緊張感をもったものとなりました。おかげでいらぬ情報抜きに話者と話し合えたのでよかったと今思います。また、この調査のもう一つの目的として来月末に締め切りを迎える成城大学への論文集に掲載する原稿の見直しを兼ねていました。


ところが・・・・

今回の調査で「今までの調査を覆す内容」がでてきたのです(新しい発見といえば聞こえがいいのですが、今まで書いてきた論文そのものを否定する内容でした)。

それは何かと申しますと先ほど述べた「いずみ会」と「千種町いずみ会」のことで、

 私は以前の聞き取り調査で昭和30年代に「いずみ会」という団体ができ、保健衛生や食生活にかかわる活動を行っていたと聞き取り、且つ「千種町いずみ会」は行政が主導とのなって「千種町健康教育振興審議会条例」などにより「いずみ会」活動を各地区に広めていったと記述しました。

 しかしながら、その記述自体(確かに聞き取りで得た情報。何度も確認した情報)が間違いであったのです。(もしくは私の思い込みかもしれません→そうなれば調査地被害となりますが…)

何が間違いかと申しますと・・・・

「いずみ会」という「千種町いずみ会」の前身となる組織は存在しないのです。

「千種町いずみ会」については正確な情報ですが、「いずみ会」という団体は前身ではなく、

「千種町いずみ会」の千種町各地区における支部組織のこと

だったのです。

 正直そのお話を伺った折は、愕然として次の質問ができない放心状態になりました(質問内容を変えないといけなかったので混乱していました)。

 聞き取り調査において話者から得られる情報は、すべて口から発せられる自己の記憶をさかのぼって述べる口述表現であって、それが正確な歴史的経緯を物語っているものかといえばそうではありません。つまり、私は話者を信じすぎた(すぎるのはいいのだけど事実とごっちゃにならないようにしなければなりません)がため、語りに強調された「いずみ会」を一つの独立した団体とみなしていたのです。

 ではどうすればこれが防げたのでしょうか。私が思うには、多くの話者による情報の精査が綿密にできていなかったことに起因するため、語りだけで取り上げるのではなくそれを立証するモノ(資料)を見つけ出すことが防御策といえます。

 まぁ、いまさら悲観的になっても仕方がないしこれを機に調査方法を考え直さなければならないでしょうし、正確な事実をつかめたことに感謝をしなければなりません。

 正確な事実とはこうなります…

 昭和43年、千種町において婦人会を母体として、千種町いずみ会という会が創設され、栄養改善、衛生改善など、地域生活の向上や生活改善、健康増進運動に深く関与し、千種町保健婦、栄養士、山崎保健所の協力を得て活動を行っていた。また、千種町にある12地区各々にいずみ会組織というものをつくり、各地区においては中央の千種町いずみ会で決まった活動内容の他、各地区の環境における個別の活動を行っていた。本論ではその地区の一つ、西河内地区における千種町いずみ会の活動について考察してみたい。
 西河内におけるいずみ会は、千種町いずみ会発足の昭和43年直後に創立され、各地区のいずみ会よりもいち早く結成され、その後の千種町いずみ会の基礎となる活動、栄養指導による料理教室の実施や保健婦に学んだ保健衛生普及などを展開させていく。
 この西河内における活動の動力源の一つとして、昭和30年代の千種北小学校における学校給食の実施がある。これは、小学校児童の健康診断の結果で成長不良や健康不振などが顕著に目立ち、回虫などの寄生虫保有率が県下でも上位にあったことにより、地域の生活環境の見直しが進められ、育友会(小学校保護者団体)や千種北小学校が「児童に栄養のある食事を」とのことで始めたものである。但し、これは育友会と学校による活動であって、これに西河内のいずみ会ひいてはその母体となる婦人会や千種町いずみ会は関与していない。しかしながら、こうした地域の団結力や子どもの健全な成長を願う感情が、その後の活動に多少なりとも影響を与えていたのではないだろうか。こうした西河内での住民の活動が、千種町いずみ会にとって先駆的な活動となっていったのである。

研究のベクトル

 先日、兵庫県宍粟市千種町に調査へ行ってまいりました。まずは市役所(教育委員会、生涯学習事務所、保健センター、国民健康保険診療所)へ挨拶へ行き、今回の調査の趣旨について述べ、理解と今後の協力について話してきました。加えてこの調査研究はただ単なる論文にするためのものではないことも話してきました。(その時のあいさつ文⇓ )

 私は昭和30年代以降の生活変化における、地域住民や行政が行った「生活改善」活動や健康増進運動の実態とその受容について研究しております。
 この度の調査はあまり知られてこなかった宍粟市千種町の健康増進政策や地域住民の動きに焦点をあて、彼らがどのように活動展開し、それを住民はどう理解し受容していたのかを様々な角度から分析することを目的としています。
 
≪メリット≫
 こういった分析は、市行政の健康増進政策においての住民ニーズを明らかにすることにつながり、よりよい健康的な町づくりのヒントになると考えております。 

≪デメリット≫
 しかし、一方で本調査は過去の衛生環境の深刻な状況を記述することになりますので、当時を知る住民の方々や行政職員の方々に調査において多少不快感を与える可能性があります。


≪デメリットの解決法≫
 しかしながら、そういった

過去の記述云々よりも、その状況から現在の衛生環境へ行き着いた過程における行政や住民達の努力を知ることが大事

だと考えておりますし、

≪将来の企画≫
 それによって行政や地域住民自らの偉業を再認識し、今後地域行政の柱となる住民参画型の事業展開に一躍かっていただければ本望です

とまぁ、自分の将来像も含めて話してみましたが、文章にしてみるとなんだか恥ずかしいものですね。

2009年8月3日月曜日

聞き取り調査への応用を忘れてました(テヘ)

 『1分間勉強法』これを習得できれば、どんな書物でも1分で読むことが可能になりますし、カラーマジックシートを利用すれば重要点だけでも記憶が可能です。

これを活かして、聞き取り調査やフィールドワークに応用できないだろうか?

 もし仮に相手に1分間の短い質問を繰り返しして、その応答をすぐに手帳に書いていくことが可能ならば、聞き取り調査のうえで時間短縮になりますし、多くのことを聞くことが可能となります。しかしながら、そうはいってもうまくいくという自信はありません。というのも、聞き取り調査ではアポイントを取ってこういった質問をしますよと言ってあったとしても、相手の気分や記憶の曖昧さから話が飛んでしまったり、何を聞こうとしていたのか自分自身も迷ってしまったりするケースがよくあるからです。

 しかしながら、話が脱線したとしてもそれを取り戻せるだけの時間と根気があれば
                       「1分間質問法」も開発できるのではないかと思います。

 ここ数日、聞き取り調査についていろいろな角度から迫ってみましたが、相手が人間である以上、話がそれたり記憶があいまいなのは仕方ありません。それはそれで何か資料を見つけてそれで細くすればいいことですので問題はないかと思います。しかし、こうした調査整理はやはり時間がかかるもので重要な聞き取り事項などの分析が遅れると、研究に支障が生じる場合があります。そこで「1分間質問法」が役に立つと思います。「1分間」で聞き取った内容を、重要度に合わせて色分けし、あとは文脈力を使って文章を構成すれば、そこそこな報告書ができると思います。またその作業自体も時間短縮できるとすれば最高ですね。まだ、これについては開発中ですが、いずれ何かの機会に発表してみたいと思っています。

2009年8月2日日曜日

『1分間勉強法』の実践と聞き取り調査への応用

 またまたビジネス本に手を出してしまいました。今度は『聴き上手』と『1分間勉強法』の二点です。その前に『論理的にプレゼンする技術』も購入していましたが、やはり話題の書といえば

          『1分間勉強法』でしょう。

 私がこの本を買うきっかけになったのは以前『1分間で大切なことを伝える技術』という本を購入したことにあります。この本を読んで、1分間の貴重さ、そして1分に求められる伝える技術というのが本を読んでいて実感しました。そこで、同じ「1分間」の貴重さをアピールした『1分間勉強法』は大変魅力的であったのです。しかしながら、立ち読みの段階ではなにやら難しそうで、「1分で1冊読む」ということが本当に可能なのかと疑う始末でした。そのため、本のコーナーをいったりきたりしながら、ほかの自己啓発本を読んでみたりしていたわけなのですが、「この本はいいぞ」と呼びかけるような声がしたので、あっさりと購入してしまいました。その時は「してしまいました」と後ろ向きな購入だったのですが、一度じっくり読んでみると、
 なるほどといわせる理論的な学習法で、実践的かつ今すぐにでもできるというものだったので、試しに10分リーディング(読むのはなく感じる)と5分リーディングを続けさまにやってみました。最初はもたもたしていましたが、それを何セット化しているうちに10分間の長さが1時間のように思え、5分間が30分ぐらいの長さに思えてきたのです。

 これを本書では「タイムマジック」と呼んでいますが、
 そのとおり、思考時間の間隔が飛躍的に伸びたのです。また、この練習は単に読むだけに留まらずそのおさらいもするように書いてあります
 
 「カラーマジックシート」といって4色()の紙に、重要度順にリーディングの際に折り込みを付けた重要な個所を書いていくのです。これは単語でもいいですしキーワードでもいいです。私の場合はちょっとまとめる癖が付いているせいか文章で書いてしまいましたがね(笑)。そうして書き込んだものを何枚か集めて1秒間に1枚ずつ見ていくのです。
 色紙は脳を刺激するためのものらしく、そこにかきこんだものは重要度に合わせて記憶されていくという仕組みになっているのです。
 ただし、これは繰り返し見ることが肝心ですし、「1分リーディング」も何度も続けて行うことが大事です。

 「継続は力なり」とは言いますが、この手の本はそれが実感できるまでは持続するべきだと考えます。そうしないと買ったのに損をした気分になってしまいますしね。

 現在のところ私は「1分リーディング」習得に向けて頑張っています。二日目にはできると書いていましたが、やはりページをめくるのが遅いせいか「1分40秒」と微妙なタイムを出してしまいがちです。もし、本ブログをご覧の方の中でこうしたらいいのではないかというご指摘がありましたらお教えください。