ページ

2013年6月26日水曜日

京都府保健婦養成講習所(昭和25年)のこと

おはようございます。ちょっと報告が遅れていましたが、先週の土曜日に、ちょっとしたつてを使って、京都府の戦後第一号の保健婦の方々とお話をしてきました。

 京都府の保健婦養成が叫ばれたのは何も戦後に入ってからではないので、その前史はあるのでしょうが、今のところそれに関する資料に当たれていないのでわかりません。なので、今回お話しするのは、先日お会いした方々(82から87歳)は戦後初めてできた「京都府保健婦養成講習所」の第一期生の方々のお話です。

はじめに
 本報告は、戦後の京都府における保健婦養成課程における教育、実習その後の活動について京都府保健婦養成講習所(以後、京都府近畿保健婦養成所、保健婦専門学校と名前を変えて、その後現在は京都府立医科大学に続いているという)の第一期生から来たものをまとめたものである。

京都府保健婦養成講習所とは?
 戦後、GHQが日本の保健衛生看護の在り方は、世界的に見て低レベルだとを指摘され、保健婦養成機関を早急に作り、保健婦の教育並びに設置を急きょ推し進めることが決まった。その中で、京都府は昭和24年に京都府保健婦養成講習所を開設し、看護婦資格を得た、もしくは今看護婦学校に通っている人々に対して広く告知をするとともに、進駐軍の保健婦増員のために公衆衛生看護教育を行うことになった。昭和24年当時、講習所に入所したのは約50名。生徒層は、看護婦免許を持ち病院に勤務していたもの、助産婦学校に通っていたもの、看護婦学校へ通っていたものなどがいる。中には、午前中は看護学校、午後は講習所へというつわものもいた。

養成課程はどのようなものか?
 養成課程は、半年間(第三期生からは期間が延長されている)で座学と実習を行うものであった。半年という限られた期間であったのは、保健婦の設置が急がれたためであり、そのためにも公衆過程では実地訓練型の教育方針がとられていた。京都府では、市内、府内に人口12万に対し1箇所の保健所があり、また役場に国保保健婦が配置されているため、学生の多くは保健所と役場とに実習先を配属され、そこで主に家庭訪問、感染症対策、母子保健などの業務に携わった。
 座学については、一期生の話では、教科書や参考書の類は全くなく、講師が読む本を口頭筆記でノートに写していくものであった。講師陣の中には、本をそのまま読むため、講義というよりも、口頭で述べられたそのままを写し取る作業が行われていたという。

保健婦への配属の決定は?
 養成期間中にすでに内定するものもいたが、大体足並みをそろえて卒業(昭和25年4月前後)と同時に配属先に勤務することになった。話を聞いた6人の保健婦経験者はそれぞれ、府の保健所保健婦、京都市の保健所保健婦、市町村の国保保健婦(2名)、府の教育委員会所属の養護教諭、市の教育委員会所属の養護教諭であった。他にも、産業保健婦もあった。配属先に応じ、養成期間中に、配属先から使者(市町村の場合は役場の長)が講習所に出向き、その場で配属の命令を出す場合もあった。国保保健婦の一人は、滋賀県から京都府の講習所に通っていたこともあって、滋賀県甲賀郡水口町の町長が講習所にみえて、そこで配属先を決められたという。もちろん、免状を取ってからであるが、当時は保健婦養成講習所を卒業すると京都府から保健婦の免状をもらいうけていた。その後は厚生省の国家試験をパスしなければならなくなり、それ以前に免状を受けていたものは、申請して国家資格を得なければならなかったという。

配属先での活動
 それぞれの配属先の活動を一覧すると
 府保健所保健婦H氏:京都府の亀岡保健所に一番最初に勤務した。主に結核患者の家庭訪問、乳幼児健診などに携わった。
 市保健所保健婦K氏:京都府には上京区などの行政区ごとに保健所があり、そこで勤務し、担当地域はその区の中の学区ごとに決められていた。学区単位なのは、京都府は学区によって地域の組織が出来上がっていることもあり、それにならって担当制を敷いたためである。活動は主として、結核患者の家庭訪問だった。
 市町村国保保健婦K氏:京都府の新庄村へ勤務が決まり、村での公衆衛生活動に携わる様々な作業を行ったが、その後昭和30年をきりに日吉町国保保健婦になり、故郷である日吉町旧世木村へと戻り、そこで吉田幸永保健婦(現在私が調べている保健婦)ともに、家庭訪問、乳幼児健診、母親学級、婦人会のグループ活動などに携わった。
 市町村国保保健婦O氏:滋賀県甲賀郡水口町の国保保健婦となり、町役場に勤務しながら、結核患者の家庭訪問、回虫の駆除などの活動に携わった。
 府教育委員会養護教諭H氏:府教委の中にいながら、学校現場での口腔衛生指導を主として行い、府内の全校の歯科健診データをもとに、虫歯の撲滅運動を展開し、そのおかげもあって、昭和30年代ぐらいから徐々に虫歯児童が減少してきていた。
 市教育委員会養護教諭T氏:京都市上鳥羽小学校や市内の高校の保健室に勤務し、保健室に来る生徒の対応や、校内の衛生管理を行うとともに、児童の身長体重などの測定や健康管理を主として行っていた。
 各活動の深い中身については聞き取れなかったが、配属先によっては機構の中で苦しいこともあったが、同僚の保健婦同士が相談事を共有したり、働きを励ましあったりしながら行っていたこともあって、決して一人ではないという気持ちで楽しく頑張ってこれたという。

家庭訪問について
 当時の家庭訪問は主として結核患者への対応が主だったためか、その結核患者の自宅に訪問する際は、細心の注意を払い、自転車などに「○○保健所」とあればそれを消して、普段着のまま出かけるなど、道端で村人とあっても「知人の家に行く」といってその場を後にするように古こと掛けていたという。こうなったのは、昭和20年30年代当時、結核が亡国病として恐れられており、その病気にかかった人は隔離されることが主であったことから、その病人が家にいることを知られると村の内部でのその病人の家の格付けが差別や偏見のもとにさらされ、蔑視される可能性があったからである。
 また、乳幼児の訪問については、赤ん坊ができると助産婦からの連絡、または家庭訪問中に得た情報をもとに、乳幼児の自宅へ訪問し、赤ん坊の体重や発育状態、健康状態を確認し、必要に応じて育児相談や栄養指導を行った。


以上が、報告内容であるが、その他にも現在の保健師活動について以下のような話を聞いた。

―昨今の保健師の活動についてどう思うか?
K氏「赤ん坊(曾孫)が生まれた時に、訪問はしてくれたが、保健婦の経験をしていたからか、あまりにその技術、指導が頼りなく、自分が前に出て話すことが多かった」

―保健師の待遇や処遇が低いという意見が出ているがそれについてはどう思うか?
H氏「時代とともに保健婦から保健師へと変わること、法律が変わることによって保健師に求められる内容は変わってきているし、その待遇や処遇はかなりそれで左右されるから全体を通じていえることはあまりない。また、各配属先によってその処遇は変わっているだろうから一概に悪いとは言えないのではないか」

―今の保健師に求めるものは何か?
O氏「家庭訪問などの地域ケアが一番ほしい」
K氏「老人福祉分野での保健師の活動が望ましい」

などという回答をいただいた。

 あまり長い時間お話ができなかったこと、私自身がこの会合に初参加だったため、顔合わせのつもりで挑んだこともあってか、質問内容に勉強不足があったことは否めないが、上記のような内容の話を聞けたことはかけがえのないものだと思う。またここから保健師が教わることも多くあるだろうかと考える。
 一番印象的だったのは、やはり家庭訪問についての事柄で、地域生活に密着する保健婦だからこそ、細心の注意と地域への配慮が求められること、さらに地域社会における描写の扱いということを念頭に置いた活動が望まれることは、現在の保健師活動にも通日部分があるのではないだろうか。
 しかしながら、昨今の保健師の活動事情を伝え聞くに、こうした地域を包括する保健活動が実施可能かというと、地域の個別化、核家族化、独居老人などのバリエーションの多さ、またそれによって生じる個人領域への侵犯への懸念からなかなか踏み込めないことも多く、ケースバイケースの状態で包括的なケアができうる体制にないことがある。家庭訪問ということを実習や座学で学ぶが、実際現場でそれが生かせる場がなく、自分が何のためにだれのために働いているのかわからなくなる時があるとして、所謂保健師自身の目標の希薄化が進んできていることが大きな問題としてある。
 今後の保健師活動を考えるためには、こうした地域社会の現状に即した対応の在り方、行政内部で叫ばれる「地域」と現実における個別化された「地域」との落差をどう埋めるのか、また保健師の存在意義をどこに求めるのかが問われる。