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2012年7月10日火曜日

健康という民俗を考える(その1)

病と民俗に関する考察はあるものの、ことその反対である「健康」というものに関する民俗というのがあるのでしょうか。

私見の限りではありますが、あまりそうした研究が民俗学でなされていたということはないようです。

なぜここにきて「健康」を民俗学で考えようと試みるのかというと、それは我々の生活の中では「健康」という言葉やその周辺がもたらす影響というのは大きいからです。

昨今、健康食品や健康法などなど健康に関する知識や技術は様々であります。医療だけでなく、美容としてのものも含めた健康を私たちは追い求めています。

こういう言い方をするとなんだかひどいように思うかもしれませんが、「餓鬼が喰い物をあさるように」私たちは健康を摂取しようとひたすらに行動します。

一体その根底にはどのようなことがあるのでしょうか。

一つに病というものの対極として健康があることが考えられます。どういうことかといえば、病にならないこと、病を克服することそれが身体にとってよいことであり、美徳とされたことによるものであります。健康はそのような考え方のもとにあります。

これは何も現代に限った事ではありません。過去においてもそうです。ただ、その時代時代によって健康が持つ考え方というものは多少異なるものではあります。これはまちがわないでいただきたいのです。

さらにもう一つ、差別としての健康というものがあります。先に示したように、病気にならないこと、病気を克服すること、身体を向上することは「美徳」です。「よいこと」です。つまり、そこから外れるものは容赦なく社会的に差をつけられます。蔑視まではいかないものの、健康ではないことを「悪いこと」であるとして、それに怯えることもあります。

これは日々の生活においてもそうです。健康に生きることを半ば強制的に、いえ脅迫的に生きているのも私たちなのです。

他にも様々な要因が考えられますが、今のところ私で大きく整理しているのはこの二つです。

この二つの要因は似通っていて互いに影響しあい、それでいて健康を成り立たせていると考えていいでしょう。

だから私たちにとって健康は生きがいなのです。

で、ここからなのですが、こうした背景があるにもかかわらず、民俗学では健康に対して積極的に研究されてきていません。これはなぜでしょうか。まだ私自身まとめきれていないのが現状なので、ずばりこれということはできませんが、健康というものがすでに常識的であり、日常性や非日常性うんぬんの前に人々の前にあって、それが生活の根底をささえているなどということを見逃していたのではないかと思うのです。簡単に言えば、普通すぎて何も見えないし、そこに民俗というものが感じられないのかもしれません。

これは何を民俗とするのか。民俗とは何かということにもかかわってくるのでしょうが、ここでその議論をすることを望んではいません。仮に民俗を私なりに定義するとするならば、「生活の知恵であり技術である」ものだと思っています。

そうすると、この健康というものもその生活の知識であり技術でもあるのではないでしょうか。

ちょっとはしょり過ぎですね。言い方を変えましょう。生活の知識や技術というものは、ある程度もたらされるものであるという前提がなくてはなりません。前々からあったとするならば、それは経験則からの知識であり、技術であります。つまり、過去からもたらされたものであるとも言えます。そこでそれにのっとって、健康というものを考えてみた場合、健康は時代時代における身体への関心によってもたらされた知識や技術ともいえます。

すなわち、健康は民俗たりえるわけです。




(ここから先はまた別の機会で書きます)

2012年7月9日月曜日

生活者にとっての「生活改善」(民俗学会発表要旨再考)


こんにちは。日々勉強とおもいつつも、いろいろなことに手を出しまくっていると時が過ぎ去るのはいつものことで、研究もそのうち流れに流れてしまっているような気がしてなりませんね。

さてと、以前こちらで公開した日本民俗学会年会に関する発表要旨のアナウンスですが、あの後しばらく考えこんでいまして、あのままではだめだと思い自分の気持ちに素直になりながら書きなおしていました。今回表明するのは、正式に日本民俗学会年会に送った発表要旨そのものです。本来なら、年会当日に参加者の手元に置かれるものではありますが、私としては民俗学会に参加していない人、生活改善に少しでも興味を持っていただいた人に対して、広く構えたいと思っており、ネット上で子の用に公開させていただく運びになりました。

まだまだ至らぬ点が多くございますが、今のところ私の発表方針としては下記のような内容となっています。


 
 
【発表題目】生活者にとっての「生活改善」

【副題】-兵庫県宍粟郡千種町における「生活改善」の受容と背景-

【要旨】

 兵庫県宍粟郡(現宍粟市)千種町、兵庫県の北西部にあるこの町で、昭和30年代から50年代にかけて「生活改善」(地域保健活動)と称する活動が展開した。この活動は、地域生活の向上、住民の健康増進を目的とし、食生活改善や衛生改善など様々な取組が行われた。昭和32年、児童の成長不良という問題の浮上をきっかけに、地域の食生活、労働環境、衛生環境を少しでも善いものに変えようと地域住民側から発せられた。はじめは心安い人々同士が集まりグループを形成し、料理を通じて食生活の見直しをしていたが、昭和35年にある保健婦が町を訪れ、保健業務の傍ら彼らの活動を補佐し導くようになった。そうしてグループ活動が次第にまとまりをみせ、「家族の幸せは自分たちの手で」「健康で明るい社会」をスローガンに、千種町いずみ会となって展開することになった (山中 20112012)

 生活改善とは「政府および政府関係機関の施策と、それに啓発された自治体及び地域や家々、さらには諸団体が、自らの生活の改善向上をめざす創意と努力」からなる生活の近代化、合理化を目指した活動である(田中 2011)。戦後の活動をとれば生活改善普及事業、新生活運動、公民館活動、保健所活動などがある。ただ、千種町のそれは、地域住民自らが内発的に取り組んだ「生活改善」であり、これまでの生活改善とは少し視点が異なる。これまでの研究は政府諸団体から見てどうであったのかであって、団体個々の理念や活動をもって地域活動を説明する節があった。ところが、千種町のそれは地域の内情において出てきた活動であり、それは地域住民の願望である。では、そうした地域活動をどうとらえるべきなのか。私は、生活改善のこれまでの経緯を照らし、民側の生活改善の意向として「生活改善」を新たに捉えなおそうと試みた。千種町いずみ会の方向性、そして実施された活動、それに関わった保健婦の素顔などについて、それがいかにして地域で受け入れられていったのかというプロセスを見ていった。つまり、政府諸団体ではなく地域の住民、生活者の視点における「生活改善」の視点である。

だが、これまで私が取り組んできた千種町の「生活改善」の研究は、どれもその「生活改善」に関与した団体あるいは個人からの見方であって、受け手である生活者側のアプローチとしては少し物足りない部分があった。生活者の意思がそこにあることを見逃していた。生活者が何を望みどのように取捨選択したのかそういうものも含めて考えるべきであろう。本発表ではそうした反省をもとに生活者にとっての「生活改善」を再度見直してみたい。


参考文献

田中宣一編『暮らしの革命-戦後農村の生活改善事業と新生活運動』農文協 2011

山中健太 「千種町いずみ会の地域的展開と「生活改善」の受容」(田中宣一 2011)

山中健太 「ある保健婦の足跡から見る地域保健活動の展開と住民の受容」(『佛教大学大学院紀要 文学研究科篇』第40号 2012)
 
 
以上
 
なんかマジマジと見ると結構不可解な点が多いですけど、簡略に述べますとですね以下の通りになります。
 
【目的】生活者サイドからみた「生活改善」とはどのようなものであり、どのような過程を経て受け入れられるものであったのか、またその反応とはいかなるものだったのかを明らかにすることで、人々が「生活改善」という活動に対して思っていたこと主観として受け取っていたことを半ば住民のニーズの本質として歴史的に追ってみたい
 
*まぁようするにですね。「生活改善」はなぜ受け入れられていったのかというのを住民ニーズがどうであったのかという視点から見るということです。
 
【方法】兵庫県宍粟郡千種町の事例を軸に、そこで起こった「生活改善」を明らかにし、それにかかわった地域団体(千種町いずみ会)とある保健婦(以下A保健婦と略す)の話に加え、被験者である地域住民側、本来実質的に「生活改善」を受け入れたとされる生活者側からの聞き取りを加える。地域での聞き取りをベースにした主観からの調査結果を基とする。
 
*主観からの調査結果を基とするというのは、従来の研究ではどうしても傍観者としての生活者が描かれており、どうも生活感がない「生活改善」になりがちであった。そこで婦人会および各家庭において「生活改善」が行われた際に、家族そのほか周辺の住民はどんな「感情」でそれを受け、さらにそれを生活に「必要であるから」として「選択」したのかを問うてみたいのです。生々しい会話の中における「生活改善」の実態といいましょうかそんなのを描きたいのです。
 
このような感じで、目的と方法を用いて結果を導き出すわけですが、今のところ結果を言うとしらけてしまいますので、ここはこれまでしか明かさないことにしたいと思います。
 
まぁ、部分的開示でよければ
 
 
「生活改善」は生活者の都合と合致した形で受け入れられていった。
 
 
と申しておきましょうかね。従来の研究ではその「都合」ということに対して「合理的」「近代的」「経済的」とか分析されておられますが、もっと本質的な部分ではそうしたものは後付されたものにしか他なりません。では「合理的」などの理由のほかにはどういった「都合」があるのかそれが重要なのだと思います。
 
 
ここに書かれた以外の細かい内容のこと、さまざまな視点からのことについてはTwitter(楓瑞樹@御京楓https://twitter.com/kaede01mizuki)で呟いていますのでそちらをご覧ください。