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2012年12月17日月曜日

第一回生活改善諸活動研究会(第二段)

 こんばんは。今朝がた東京より帰郷しました。

 昨日東京の成城大学で行われていた「生活改善諸活動研究会」に参加させていただいていました。この会はもともと成城大学の元教授である田中宣一氏の掛け声の下開かれていた会で、戦後の生活の変化の中で特に実際に農村に入り生活指導を行ってきた生活改善諸活動という活動に焦点を当て、それがどのように生活の変化に影響と与えていたのかということを体系的、また具体的に調査研究しようという試みでした。何度か研究会を開き、そのたびに様々な発表をし、そのについては平成23年に『暮らしの革命―戦後農村の生活改善事業と新生活運動』(田中宣一編 農文協 2011)という本でまとめられました。この執筆には私も担当させていただき、戦後の生活改善という動きがどのようなものであったのかということを述べてきました。その会が本年より、新しく発足することになり、岩本通弥氏のお誘いのもと昨日結成をしたわけです。

具体的にどのようなことをするかについては岩本氏はこう述べておられます。


メールの文面より

(再開の趣旨)
 今回の研究会では、(中略)事務局・岩本の考えは、これまでの生活改善諸活動研究会における日本を中心とした研究蓄積を、比較文化論的にも拡大してみると、「当たり前」すぎて捉えにくかった「生活」の自明性が少しは揺らいでくるのではないかと期待しています。基本的に前研究会も、「生活変化」の具体像を捉え、また「生活変化」の一要因として、生活改善諸運動を研究していたと理解していますが、ありふれていて、ありきたりな「生活」「暮らし」あるいは「日常」を、どう把捉するのか、把捉するのが意外と困難な、大きな課題に向けて、前研究会がその第一歩を、ようやく踏み出したばかりなのだと思います。
 「生活」は概念化するのも意外と難しい言葉である上に、その変化も含めて把捉することは至難のわざですが、日常性という自明性によって、把握するのもままならず、かつ問題視もされてこなかった「暮らしの革命」を、具体像を通して(民俗学的に、あるいは民俗学を中心として)把捉しようとした前研究会の活動は、実に意義深いものでした。このまま活動を休止・終焉させるのは、いかにも残念で、また資料的データ的に、蓄積させていくコンテンツを多分に含んでいると思います。各地の生活変化の具体像を共時的に並べてみるなどしたら、データの集積が新たな展開をもたらす芽を潜ませているのではないかとも展望しています(後略)

 
 岩本氏が述べたのは「ありきたりな」日常の「生活」「暮らし」を民俗学でどういう風に扱っていくのかということを、生活改善諸活動の研究会を通じて発展できないかということです。


 この研究会では生活改善諸活動を通じて、「生活」というものをこの活動がどのようにとらえ、そして生活の変化にどういう風にアプローチし、そしてどうなったのかということに着眼を置いています。私自身、この研究会はかなり興味深いもので、従来の民俗学での研究では、生活改善そのものをどこか近代化の一つの事例としてしか扱ってこなかったきらいもありますし、また「生活」というものについて体系的に、具体的に論じる場というものがあまりなかったように思います。このお話しを頂いた際、また「生活」について研究ができると嬉しく思った次第です。


 今回は第一回目ですので、方針の説明などどのように「生活」を分析していくのかというものも含めてのお話だったのですが、それがまた貴重な場でした。

 まず、岩本氏は今回の研究を、国際研究の中でも位置づけ、その外側からの視線に「生活」をさらすことで生活の自明性を少し揺らがせ、そこにメスを入れようということで、一回目の発表は中国の生活改善の事例発表でした。

 福岡大学の田村和彦氏の発表で「近現代中国における生活改善に関する運動―「殯葬改革」の展開を中心に―」でした。

 中国の葬儀や墓に関する生活改善の事例で、かなり興味深い内容でした。特に興味深かったのは、葬儀を改善しようとしていく際に、それを集合体の模倣と競争原理を活かしながら広めていっているところですね。つまり、まず一つの事例の葬儀を改善し、それを真似(模倣)させて、またそれを広げるために村の意識づけとして競いあわ(競走)せて普及するというものでした。結果的にはその競争原理があだとなって、葬儀は華美な方向へと移っていくのですが、人々の「生活」に触れようとした生活改善の具体的な事例と、その結果として大変重要な指摘であったと思います。といいますのも、日本との比較で申し上げれば、改善を模倣させて競争原理を生かすということは日本の場合、あまりされていないように思います。どちらかといえば、指導部がいてその指導部を中心にグループ化が村に出て、そして各戸にその指導をいきわたらせるというもので、指導が上から下まで徹底的になされている様子がわかります。ところが中国の場合は、その指導部というものが機能しているのかどうなのかが判然とせず、またメディアの影響もあってか、住民が自主的にそして模倣として生活改善が受容されて行く実態が見えてきます。日本が指導に徹底したものであれば、中国のそれは模倣です。模倣なのでどこかでずれが生じたりしていくわけですが、これが中国での生活改善の一事例なのでしょう。

 とまぁ、日本との比較をしてみるとこれまで日本で当たり前のように見えていた指導型の生活改善が、また違ったファクターで見えていることが分かってきたのです。これはいい収穫です。日本の農村部においても、実は模倣というのは重要なことを示しております。私が調査している『生活教育』(昭和35年から現存)の昭和39年前後の記事によれば、日本の農村でも一部の生活改善を果たした家を模倣して、さまざまな取り組みがなされていたと保健婦の視点から書かれたものがあります。つまり、日本でも指導型とは別に、その模倣型と呼ばれるような感じで広まっていったものも少なからずあります。ところが、日本の場合は中国と違って、それを批判する機関、監視する機関としてのそれも発達しており、単に模倣とするのではなくそれがどう生活に生きているのかを評価し、反省し、それで指導を続けていくという形をとっているのです。

 いろんな意味で、この中国の葬儀の生活改善の事例は見えてくるものがありました。


 この発表が終わった後に、岩本氏がこれからの民俗学として、「生活」の変化のあり方をどうとらえていくのかということについてのお話しがあったのですが、その中でいちばん興味深かったのは、生活を民俗学はどうとらえてきたのかということでした。これについては富田祥之亮氏がこのように述べています。要約としては以下の通りです。

 「従来の民俗学では、儀礼や祭祀といったカテゴリーの中でのみその対象を論じようと試みてきた。それは確かにそのカテゴリー内ではみえるものではあるが、ことのほかそれを生活の上においてこようとはしなかった。生活と儀礼という風に乖離したもので、生活の変化がどのように儀礼に影響があったのかということについては触れてこなかった。生活とはさまざまな関連性のなかで描けるものであり、儀礼や祭祀の内側には生活も一緒に見えてくるはずである」

 つまり、生活というのはさまざまな関連性の下で論じられるべきものであり、本来儀礼などの民俗のカテゴリー別の研究はすべて生活に関係しているし、それをみなければ民俗学にとって「生活」をみることは難しいのではないかというのです。確かにそのとおりです。民俗学はどこかその領域内カテゴリー内で物事を完結してしまっているような気がします。非日常の場ならその場での変化を記録するのみで、それが生活とはどうリンクしていたのか、生活の変化がどのようにその儀礼の変化にかかわっていたのかということについてはあまり触れていないのです。そうなれば、儀礼は生活から浮いたもの、乖離したものとなり、どこかしら本来の民俗のありようからはかけ離れてしまう可能性をもってしまう恐れがでてきます。これは結構な危惧すべきものだと思います。

 そこで、富田氏は生活をとらえるためには、その関係性をうまく描けることが必要であると述べておられました。

 岩本氏がこれをどうとらえたのかは気になるところでしたが、私としてはこの一言が新しい民俗学での「生活」のとらえ方につながるのではないかと思っています。従来の民俗学での生活はどこか衣食住などの物質文化的な要素で固められていて、またその生活の動態との関連性を論じていない部分も多々あり、実際の生活の場と民俗で論じる生活とはかなり差があり、ずれが生じていたように思います。そこで、これを今一度整理し、生活がどのように結びつき、例えば冷蔵庫が導入されたことでどのように生活が変化し、どういう作用が方々に出てきたのかということを論じてみることも必要なのではないかと思うのです。


 これは生活改善諸活動においてもそうです。生活改善諸活動が行った活動を時系列に見ていくことも必要ではありますが、それが実際の生活の場でどう受け入れられていったのかどう作用したのかという具体的な、生活の波状効果としてみていくことが重要です。私は、保健婦を中心にそうした波状効果がどのように出ていたのかを、保健婦の視点からの生活変化をみながら分析できればと考えております。


 長々となりましたが、有意義な研究会がまた一つでき、感謝感謝です。