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2014年10月14日火曜日

地域の「助言者」であること

Facebook、Twitterにも載せましたが、私の地域に立つスタンスを紹介する上でここにも掲載しておきます。

私の愛媛の心の師、故稲葉峯雄氏の地域で活躍すべき「助言者」というものを示した言葉として以下のことが述べられておりますので引用します。

『草の根に生きる』岩波書店 1973 34頁から37頁

助言者という位置や役割は、その呼名ほど一般的に理解されていない。その役割を当の本人が放棄してかかるか、グループのみんながその位置をたてまつってこわしてしまうかのいずれかである。助言であるかぎり、本音がなければならない。それは質問に答えることではない。質問(=本音)それ自体を助けることである。なかには言いたいこと、聞きたいことがひとつもうまく言えないひとがいる。それでも必死に発言したのである。助言者がその気持と言葉を通訳できなければ、まず失格である。そういう発言者は大方の場合、一回かせいぜい二回しか発言しないのである。
なにを助言するかである。そのためには、まず助言者が自分の言葉を捨てなければならない。ところが、自分の言葉を捨てられるのは、自分の言葉を持ったひとにしかできない芸当である。助言者が講師や大先生よりはるかにむずかしいのは、このためである。自分の言葉を捨てた上で、なにを助言するのかの「なに」を見つけること、つかむことである。それは、言葉(質問・意見)だけ、テーマだけの把握ではやっていけない。たとえば、五〇代と二〇代のちがい、職業や経済などの生活環境を無視して、その言葉だけをいかに助言しようとしても、それでは助言が主役になって本音はしぼむばかりである。
人を助言するとは、大それた考えのようである。しかし見方をかえれば、人間はみんな助言しあって生きているのである。場合によったら、まったく自分のない生きかたを強いられている人もある。また、自分では本音と思いこんでいるが、他人の言葉を口うつしにしゃべっている場合もある。助言者はそうした相手のすべての人間生活をより深く知って、その人の立っている位置へ自分で歩いて行ってこそ助言の言葉が見つかるのである。いや、その近よって行くことそれ自体が助言の内容ではないだろうか。
相手を知るためには、その人を集団のなかで見てゆく、知ってゆくことが大切だと思う。もう一つは、テーマにたいしてその人がどんな言葉や態度をもつかということを見きわめておくことである。助言者は、集会のなかで個人が示してゆく人間性を、こうした態度で正しく評価し把握しなければならない。
集団のなかで考えるということは、自分と他人の考えをくらべてみることなのである。そのためには自分の考えを発言しなければならない。同時に、自分が発言したら他の発言を聞かなければならない。発言の多い人はどうしても自分の意見にばかりとらわれて、他と比較することがおろそかになる。終始だまっている人は、個人的には考えることができても、集団のなかで考える役割を果たしていない。いいかえれば、発言しない人は物事や自分自身の片側しかわからないことになる。助言者の役目は、この集団のなかで考える姿勢をどうやって参加者にとらせてゆくかにある。
話合い、集会を重ねてゆくうちにお互いがよく知り合ってくる。知るということは相手と自分のちがいがだんだんはっきりしてくることである。知るほどにお互いの性格や能力や思想やその他すべてのちがいが発見され、距離がはっきりするのである。「草の芽」【稲葉氏が読書会を通じて交流を深めたグループ活動】も一年たてば一年のみぞ(距離)がお互いのあいだにできているわけである。真剣に出席した人ほどそのみぞは深い。そして深ければ深いほど、愛することを理解することの必要性と目標をはっきりするのである。
意見が対立し、性格のちがいもわかってきたAさんとBさんは、当人同士が手をつなごうと思っても、その手がとどかない場合がある。助言者にはこの二人に手をかしてやって手をとどかしてやる役目がある。こうして結ばれた手こそが民主主義をささえ、個人の生活と権利を守ってゆくのだと思う。助言者がなにを助言するかということよりも、なにをお母さんたちから学ぶかということ、その実践をつづけるなかからしかこの役割は果たせないだろう。

注【 】内は引用者が補足しました。


この稲葉氏の「助言者」を考えるとき、まさに地域実践に際してのキーマンが取るべき役割をみるのです。

確かにこれが書かれた時代や背景のことを思うと必ずしも可能な環境ではないでしょうけど、それに近づけること、血の通った話がお互いにできる場を作ることができたのならば、それはそれで立派なことだと思います。

私がなぜ、地域に対して向き合うのか、この本を読むまであまり分からないでいました。この本を読んだからこそ、地域を見る視線が変わったように思います。

手垢まみれの本で、古本ですから多くの方々の手によって読まれては回ってきたものだと思いますが、私はこの本が私の手元にいてくれて本当に感謝しています。

2014年8月19日火曜日

日本民俗学会研究発表原稿完成版

地域保健活動と住民運動―愛媛県南予の「地区診断」と農村生活―


はじめに
 愛媛県北宇和郡旧広見町という山間の農村地域で昭和39年以降、「地区診断」と呼ばれる地域保健活動が行われていた。この活動は文字通り、地区を健康診断する目的でなされたものだ。今で言うところのヘルスプロモーションである。この活動は昭和30年代当時としては画期的なもので、「地区診断」を通じて地区住民が健康に関心を寄せ、自らの手で健康を取り戻す活動を社会教育活動のなかに見出していたからだ。
  本報告は「地区診断」がどのようなものであり、どうして住民の手に渡り、さらに住民が自分たちの生活のなかにどう取り入れていったのかを考察するものである。

1、「地区診断」とは何か?
 地区診断という言葉の概念は、公衆衛生上、地域の保健衛生を診断し、地域生活の安定を目指す活動を指す。また、昭和30年代当時この活動は衛生教育の普及をねらってのものであった。保健衛生に対して関心を寄せない人々に対して、行政が環境衛生、公衆衛生上の立場から指導し住民に知らしめることが急がれたからだ。
 この活動は二つの見方がなされている。一つは共同保健計画という保健行政側の見解としてのそれ。もう一つは、住民活動としてのそれだ。地区診断が愛媛の地で生きついたのは、他でもない住民の自主的な活動が診断後に広く行われ、それが健康意識の向上をもたらしていたからだ。それゆえ、本報告において、行政側の施策を提示するも、それとは別に住民側の理解と努力について触れねばならない。なので、地区診断を括弧書きで提示することをお断りとして入れさせていただく。

補足…レジュメに載せる
  私がこの「地区診断」に向き合う理由は二つある。一つはこれまで兵庫県、長野県の調査において、地域住民の自主的な動きを見るなかで、保健活動ほど課題性を持ったものはなく、生活の変化に大きな役割をになっていたことがわかった。昨今の民俗学の傾向として、「動く」生活に対する視座、つまり生活の移ろいやそこに描かれる社会と個人のあり方を問うことが叫ばれている。生活に介入しそこに価値観を植え付ける活動ほどインパクトのあるものはない。他ならぬ私自身生活改善運動を取り上げてきたことにより、よりその「動く」ことへの関心は強いものだった。今回愛媛の地に入ったのは岩波新書の稲葉峯雄氏の著書『草の根に生きる』(岩波書店 1973)が大きく関与している。この本のなかで稲葉峯雄氏は「地区診断」に触れるなかで、保健行政が行政内に終始するのではなく、住民と向き合うことの大事さ、さらに地区組織を育て上げていくことの重要性を問うている。これは稲葉氏自身が青年運動に携わり、さらに衛生教育係として南予の地区を訪ね歩いた経験から述べている。稲葉氏の著書を拝読した時に、どう言う経緯でこの活動が花開いたのかと言うことを、自身の関心であった地域保健活動と住民組織のあり方と重なったからである。
 もう一つの理由は、そもそも地域保健活動は生き物であり、それこそ時代時代の課題を内包しつつ、現在にも繋がっている。ヘルスプロモーションなどがそのいい例だろう。こうした企画自体は現在、国家、地方自治体がそれぞれの思惑によって各地で行われていた。しかし、現実的にこうした活動が地域に根ざしているものであるかというと、その評価はまちまちであり、それこそ地方自治体の取り組みの方向性において決定されている。また、大きな問題として、時としてこの保健活動が地域住民に期待されていない場合や、地方自治体が保健活動に対しての興味関心を示さず、定期的な健康診断データを統計処理してことを済ませるようになりつつある。この場合、地域住民の顔はそこにあるのだろうか。地域保健活動は総じて、行政が行う活動であることは理解できるが、それを受ける側がなにを考えその活動を受け入れるのかということについては、何ら答えが見えていない。なにが問題でどう解決するのかが不透明なまま計画だけが進行する、そのようなことではないか。私は歴史的に保健活動をみていくなかで、活動の方針もさながら住民がいかに解釈し、それを生活のなかに位置付けるのかをみてきた。そこで言えることであるが、住民は保健活動に対して、ある程度シビアに捉え、また自己の問題として内在化することで、それを解決しようとしていた。この教訓は現在にこそ活かされるべきものではないか。勿論、昨今の保健行政を取り巻く事情から、もう健康は個々人の自己責任論へとなってきており、地域単位で捉える時代ではないのかも知れない。近隣関係が希薄化し、付き合いも減るとこうしたことができなくなるのでしょう。しかしながら、それを傍観してていいのか。地域を見る目線のあり方をもう少し考えて見るべきではないか。健康は自己責任で語られるが、いざことが起きた時どのように対処するかというと、それこそ地域での付き合いが支えになる。その観点から、今の時代だからこそこの地域保健活動を取り上げるのとの重要性があるのだと思う。

2、保健をめぐる民俗の視座
(1)近代的な保健に対する視座
 民俗学で保健活動を正面から捉えることは、これまでなかったように思う。木村哲也氏の駐在保健婦の話(木村哲也著『駐在保健婦の時代 1942-1997』医学書院 2012)がそれに該当するかもしれないが、保健婦活動自体に踏み込んだものではない。どちらかといえば、保健婦機構や政策の変遷とその対応が論点の中心にある。民俗学や歴史学の中で、保健に関して民間医療の中で問われることはあれど、保健活動の中身、特に戦後の行政が行った活動と地域の対応については考察が少ない。保健活動というものが村落社会とは別の近代的な外来物として捉えられていたからではないだろうか。しかしながら、人間の身体というものを見る視点という考え方に立脚すれば、保健活動は幅広く村落社会との結びつきは強い。健康祈願や民間療法の分野における保健の考え方は、近代のそれとは異なるにしても身体を見る視点には変わりないだろう。また、これを近代的な視野でみた場合の保健活動は、それ自体地域の生活、人間の生死に関わるものであるからこそ、その活動の内容は本来大きく捉えられなければならない。

(2)医療福祉における民俗学の活躍
  昨今、助産や介護での民俗学の活躍が目覚ましい。安井眞奈美氏の助産をめぐる近現代の移り変わり、出産の考え方の違いなどは注目に値する(安井眞奈美著『出産環境の民俗学―<第三次お産革命>にむけて』昭和堂 2013)。六車由美氏の介護現場における、回想法などを通じての民俗が社会的に果たす役割は大きな成果と言えないだろうか(六車由美著『驚きの介護民俗学』医学書院 2012)。医療、福祉などの中に芽生える民俗の様相はこの二人に代表されるように、これまでの身体を通じての観念的な視座から、近現代におけるその行動のあり方を問う視座へと進化しつつある。しかし、地域の最前線において公衆衛生の立場から生活を改革した活動への言及は未だにない。助産師、介護士への関心があるのに対し、こうした保健活動への関心度が低いのはなぜなのか。
  一つとしては、助産、介護の現場は、人の人生のなかにおいて大きな分岐点を表すものであり、そこは生と死が向き合う場と理解できる。臨床や福祉現場において、民俗がどう対応して行ったのかを立証することが可能な分野であっただろう。対して、保健活動は、生と死を扱うものではなく、日常生活に対して行われたものであり、どこかしら生活運動の中で明文化されるものであっただろうが、村落社会と行政機構の境界線上に位置する活動であるがために、それ自体を民俗の変遷の中に位置付けることはしてこなかった。このことが関心が寄せられなかった大きな要因ではないかと思う。
  もう一つは、解釈論で民俗は伝承性をもつものであり、保健活動のような近代性をもつものとは相容れない考え方の元におかれていた帰来がある。保健活動は生活の近代化を図る上で、当然のことながら従来の生活を変えること、廃すること、批判することを内包していた。民俗の立場においては、それは脅威的なものであり、民俗の喪失に繋がることであると理解されてきた。しかしながら、人々の生活はこれを受け入れている。現に生活改善運動を始め、様々な社会運動を住民達は吸収ないし理解しながら生活の革新を行ってきた。勿論、人間の身体に関わる問題についてはより敏感であったであろうし、生活を変えることに住民が納得するだけの要素をそこに持っていたことは確実に言える。ともすれば、伝承というものはそれこそ社会の荒波のなかにおいて変わらざるを得ないものであったことは理解できるし、そこに近代的な取り組みが関わりを見せたことは大きな核となり得る。

(3)本研究の視点
  本研究はそうした保健活動のなかにおいて、行政ないし県がそれにどのような取り組みをなしたのか、その目的はどのようなものであったのか、また相互関係にある住民がどのようにそれを交渉し得たのか、その部分を明らかにしたい。報告で取り扱うのは、愛媛県南予の鬼北盆地に位置する地区である。それは昭和39年を皮切りにして、愛媛県全体に波及する大きな事業となり、これにより地域の保健のあり方、住民の健康への関心は高まったと言える。保健活動は単に健康の問題を取り上げていたわけではない。むしろその先にある生活環境の是正が、健康への第一歩であるとして、生活への介入がある。愛媛の「地区診断」は、その先駆けで予防のためにも、地区の社会教育のなかに保健活動を位置付けていた。地域の自主性を基調とし、住民自身が学習しながら生活に活かすことを最終的な目標に掲げていた。「地区診断」を明らかにすることは、当時の保健のあり方を見つめ、その中で住民がどう応えていったのかを知ることにも繋がるのではないだろうか。
 加えて言えば、本研究が民俗学において果たす役割というものは、民俗学という学問自体が用いる地域への関心の方向性をより実践的な形に向けることにある。文化の諸相を問うのではなく、その文化をいかに活かすべきかそして住民と共にそこにおいて何がなし得るかを探ることにつながる。本研究が保健活動に見出したのは、地域住民との接触と交渉、そして協働の中において変化をどう見出していったのかを問うことになるのであり、広くとらえれば学問的関心からより地域に立脚した実践的な関心へと昇華させていくことになる。

3、愛媛県南予の「地区診断」
(1)地域概要
①地理概要
 下大野は愛媛県西南部、北宇和郡の中央部に位置し、宇和島市東部の広見町の北東部にあたる。四万十川の最上流広見川の支流下大野川に沿った標高200から300メートルの山脈の谷間に集落を構える純農村地帯である(注1)。
 気候としては平均気温が昭和40年代において15.70℃。最高気温21℃、最低気温11℃と年間を通じて暖かい気候区分にあったが、盆地の為寒暖の差が激しいところでもある。年間降水量は240.3㎜となっており、夏は高温多湿な気候にある。
交通は国道と県道が網の目に走り、現在でこそ予土線の深田駅、近永駅、出目駅がありそこから下大野へ行くことも可能であるが、主要交通手段は車やバスであり、どこの家も車を所有している。昭和30年代はもっぱら宇和島市から出ている一日13往復の国鉄バスを利用しての来町であり、不便な地域であった。教育施設は、下大野にはなく隣の小松にある小中学校に通い、御開山組には分校があった。但し、児童福祉施設として下大野には保育所があり乳幼児保育を行っていた。
医療施設も隣接の小松に国保直営の三島診療所と歯科の開業医が一軒あるのみで、地区の奥、小字御開山からは8キロ前後とかなり離れた位置にある。このような立地のため、結核患者を早期発見することは難しく、さらに下水道が整備されていなかったために汚染された水等から感染する赤痢や、当時の食習慣であったモクズガニを食して寄生する肺ジストマの多発地域であったことから問題視されていた。

②生業形態
 主として農業を中心として行っていたが、経営規模は平均5.5アールほどの零細農家が多く、林業によって収入を補っている。栽培作物は、米麦が中心となる。その他、果樹とくに栗の栽培や養蚕なども行われていた。しかし、昭和30年代においては林業もままならず、酪農や養豚などに手を出す人々も多くいた。昭和40年代頃から農業の機械化がすすみ。経営規模は大きくなくとも労働力を減らす役割をになった。その分、男性は長期、短期による季節労働、出稼ぎにいったり、女性は日雇に出るなどの現象が多くみられるようになっている。昭和30年代頃も機械化は進まなくとも、苦しい農家経営のために外に労働を見出す人が多くいた。
 そのため、農業は所謂「三ちゃん」農業という経営になっており、尚且つ若い嫁は日雇労働に出ていることからその健康に関することが取りざたされることも多くあった。また、出稼ぎ先で結核にかかりそのまま帰郷して、そこで家族感染を起こすという被害も出ている。こう見ると、赤痢の問題は「地区診断」の突破口となったわけであるが、それ以前より環境衛生、労働衛生面において多くの問題点を内包していた地域といってよい。

③村政
戸数184戸、人口842人に減少している。減少の原因は零細農家から兼業農家へ、そして宇和島市へ勤めに出る人が昭和30年代より多く見られ、そのために市内へ居を構える人が増えたことが挙げられる。但し、この背景は単に零細農業という原因だけに限らず、交通の不便さ、医療や教育に恵まれていないなどのことも考えられるため一概に生業母体の移動によるところに原因を見出すのは早計かと思われる。
 下大野は昭和30年代頃、9つの組があった。奥から御開山組、坂立組、奥組、上組、中尾坂組、中組、東組、西組、町組である。組はそのまま小字にあたり、隣組との関係性は不透明である。尚、御開山組に関しては戦後の開拓地で、昭和39年少し前に下大野に組み込まれていたため、それ以前は御開山それひとつで独立していた。地区で区長がおりその下に各組の組長が行政機構としてある。その他に組織として婦人会、農協婦人部が置かれている。

(2)「地区診断」への道
 「地区診断」が始まったのは昭和39年9月。それ以前より地区を対象とした健康診断は継続的に行われており、そこで結核患者が県下で全国的に見て3倍の数字を見ることになり、さらに肺ジストマ、赤痢などの発生が連続して発生したことから診断に踏み切った。
また、単にこうした公衆衛生的な要因だけでなく、衛生教育として地区をまわっていた稲葉峯雄氏が鳥取大学の加茂甫氏と出会いが大きな要因となっていた。稲葉氏自身は、社会教育的見地から組同士の連携の在り方、そこから育つ主体性を望んでいた。加茂氏も社会医学の見地から住民の主体性による、健康の回復を望んでいたことから、この診断はそうした活動の実践の場として設けられていた。

(3)「地区診断」の構造
 さて、こうした持続可能な地区診断にはその構造(注2)が一番重要なものとなってくる。ではその構造はどういったものであったのかであるが、まず衛生行政の構造を見ることにする。広見町、町議会と「厚生文教委員会」、それらの下に生活環境課、保健課がおかれ、保健課の下に母子健康センター、三島診療所、広見町健康センター、衛生係、国保係がある。では、次に共同保健計画としての「地区診断」の構造を見ると、広見町共同保健計画推進協議会と呼ばれる、広見町行政、農業改良普及所、保健所、医師会、公民館などから構成される組織が共同で結ぶ組織が一番にある。その下に町の共同保健計画委員会、健康センターが組織され、下に下大野地区健康管理活動推進協議会があり、これに先の共同参画者らが連携する。そして、その下に下大野健康管理活動専門委員会と下大野健康会議がある。専門委員会は専門家による組織で、下小野健康会議は四部門、環境衛生部会、食生活改善部会、健康管理部会、広報教宣部会という各種部署における専門的な研究会が組織されている。これに参画するのが組組織である。それぞれに組集会が持たれ、そこから下大野健康会議に問題提示がなされたら、各部門にそれに対処する作りになっている。
 ただ、この組織構造が診断当時に完全な形で成り立っていたわけではない。共同保健計画としてこれらの組織がきっちりと組みあがるのは昭和40年代に入ってからである。昭和39年当時は、実験的な組織として、宇和島保健所、鳥取大学、県、町行政、農業改良普及所、公民館などの組織が、保健衛生面、衛生教育面で組織されていたと思われる。(図参照)

(4)地区生活に対する「地区診断」のアプローチ
 下大野の「地区診断」は、はじまりとして、結核と赤痢の蔓延による健康被害がきっかけであった。ただ、「地区診断」は、健康診断と異なり、単に結核や赤痢を公衆衛生的に処置し管理するのではなく、健康管理面、根本的な問題としての生活全体における、それらの疾病を蔓延させた原因を解決すべく、また地区全体の衛生教育を発展させ組織することに意義を見出していた。
 「地区診断」の最大の特徴は、その機動力にある。住民自身が自分たちの健康を省みて、地区全体で取り組めることを行うことこそが「地区診断」に欠かせない要素であった。そのため、「地区診断」の地区生活へのアプローチはすべて、組単位における集会を重ねていくことになった。勿論下大野全体という形をとる場合もあるが、まずは各戸における生活のことを話し合う場を設け、そこで出た議題をもとにして「地区診断」の方向性を決定し、専門部会、食生活部門、衛生部門などの部会にそれを問題提示し、そこから解決策を専門家と語り合いながら解決に導くという方法であった。下大野では組集会を重ね、その中で食生活改善などの具体策を行ってきた。組集会は各戸老若男女問わず、様々な年齢層が集まり、そこで決議がなされており、衛生対策としての意味合いもさながら、社会教育的な寄合の在り方をそこに見ることが出来る。
 組集会は、別段健康だけの問題を取り上げて話し合われていたわけではなく、社会的要因としての生活の実態、特に農耕に関する問題や、生活全般に対する疑問点などを多くそこに垣間見ることが出来る。つまり、「地区診断」の末端における組集会とは、生活上の社会的要因を把握することに特化した集会であった。下大野の「地区診断」は構造的には、上から下へのような形で組織されているように描かれることが多いが、それは事業としての組織構造である。実際は組から発せられる信号を、専門家が見聞きし、その上で様々な手当てを行うことにあった。

4、農村生活に与えた影響
(1)地区診断の評価
 報告書(注3)による地域住民の地区診断への統計としての評価はおおむね良好な数値を現しており、この地区診断が一定の理解を得ていたことがわかっている。但し、世代によってはそれが浸透せず、いや嫁と姑との間の情報連携の在り方自体がまだ解消されていないがために、嫁への引継ぎがなされていない場面や、農機具を入れるがために借金を背負い兼業化し農業外に収入を得るようになって来ると、組単位で集まることは難しくなり、全戸の周知徹底には至らなかったと推測される。
 また、生活調査過程において、地区住民の生活の悩みに健康診断や地区診断を「めんどうくさい」「(改善するのに)金が必要になる」等との声が上がっており、日々の習慣からの脱出もさながら経済生活の中における地区診断の在り方自体を見直すことが必要となりつつあった。

(2)「地区診断」と農村生活
さて、これまで「地区診断」そのものと住民との関係性を問うて来たが、では具体的にこの活動が実を結ぶ、生活の場においてどういう作用をしていたのかをみておきたい。

①A氏の語りから
「私は「地区診断」のことをなんも知らんけん。参考になるかわからんよ」と語るA氏(注4)は、昭和10年代に当地で生まれ、集団就職で一度県外へ出ていたが、丁度地区診断が行われた昭和39年に結婚を契機に戻ってきた。A氏は地区診断の折は婦人会に名を連ねていたが、健康会議や組集会には姑が出ていき、自分は姑から話を聞くのみだった。姑から伝え聞くに組集会では減塩対策などの食生活改善指導が、保健婦の手によってなされていた。内容的には栄養素を細かく記録することを教えており、一週間に何を何グラムとったかということを記して逐次保健婦に提出していた。このことについて、A氏は「あの何グラムっていうのがわからなかったけん。なんというか、わずらわしかった」と振り返る。他にも便所の清掃などの指導があったが、それ以前(地区診断以前)から消毒液をまいたりしていたから、特段指導があっても別に地区診断が行われたからそれに沿って改善したわけではない。


②B氏、C氏の語りから
 下大野集会所にてB氏、C氏それぞれに「地区診断」のことについて語ってもらった。両氏ともども昭和初年頃の生まれで、昭和20年代に結婚した。同じ時期ぐらいに婦人会に入っていたという。農協婦人部としても活躍し、診断後の生活改善には農協婦人部が主体的に関与した。
 C氏は「地区診断」が行われた前後の生活をこう振り返る。「『おしん』みたいな生活やったけん」。朝から晩まで仕事していた。現金収入が農業だけでは難しかったから、方々へ出稼ぎや外へ仕事を見つけに行く人が増えていた。そうやって働きづめていたから、自身の健康や子育てのことなんて何一つしてこなかった。
 昭和27年から38年の間の10年間に肺ジストマ(注5)や結核なんかが流行しても、診療所が小松にあるけど予防には間に合わず、またそれで死んで行く人も多く、どうしようもない状況だった。生活は貧乏だったし、衛生面に気を付けることもなければ、そのまま放置な状態が続き、ついに昭和39年前後に立て続けに赤痢が出てしまった。
 これを契機に県の共同保健計画として下大野地区をモデル地区に指定し「地区診断」が実施されるようになった。この診断は、ただ単に保健所や農村医学センターが中心になって動くのではなく、住民の参画が求められており、健康会議や組集会などが活発に行われ、婦人会では食生活改善部会で話し合われた内容を年間計画にして、それを組集会で再考し、実行に移すという形をとっていた。当時、そうした話し合いは組長宅で行い、婦人会長などとも多くの意見を交わしていたという。そのおかげもあって、健康意識が芽生え、栄養のある野菜をつくろうと、家の畑の一部を緑黄色野菜の畑にするなど精力的に行った。ところが、またしても姑とこのことでもめることとなったが、栄養のことは自分たちで何とかしないといけないと思い、姑を説得してでも野菜の栽培を続けた。
 両氏が言うには、「言い方はなんだけど、赤痢のおかげで、地区のみんなが自分の健康を気にするようになったけん。今思うとよかったとおもいますけん」また、「「地区診断」によって地区の連帯ができとったけん。みんなで集まって問題解決するのにいいたいことをいっとたけん。それで楽になったこともありますけん」という。

(3)「地区診断」に関する地区住民の評価
 A氏からC氏、三名からの聞き取りから得られた情報を整理すると、「地区診断」前の生活環境は次の問題があった。経済的にもかなり切り詰めた生活がなされていたこと。そのために農業外労働を強いられ、健康は二の次になっていたこと。このような問題から、地区における健康は害され、肺ジストマ、結核、赤痢の蔓延が起こる騒ぎになり、診断が行われるようになった。
 そうした診断に対して家によって差異はあるが概ねよかったと見る傾向と、診断のことを全く知らずに、ただ盲目にそれに従っていた人々の視点とがある。A氏が後者、B氏とC氏は前者である。地区の全域において診断が大きく影響していたわけではなく、段階的に指導がなされ、それを踏まえて組集会が循環の役割をしていたのではないか。

まとめにかえて
  本報告が目指したのは、かつて愛媛県南予においておこなわれた「地区診断」という地域保健活動が、農村生活に浸透して行った過程を明らかにすることにある。結論から述べると、「地区診断」は今日で言うところのヘルスプロモーションであり、地域住民のエンパワーを結束させる役割をになっていた。つまり、単なる健康診断というよりもより生活基盤に密着した活動を目指していた。住民の反応はといえば、診断直後はやはり行政任せなところが浮き彫りになる。だが、話し合いの場を多く設けることで、住民は自らの健康に関して、ではどうすればよいのかをかんがえるようになっていく。この考え方は当時の保健活動においては大変珍しいやり方であった。全国各地で様々な保健活動が跋扈するなかで、愛媛の事例は住民の主体性を話し合いで持って成し遂げた良い例であろう。
  民俗学では、従来積極的に地域生活に行政や県がどういう介入をしてきたのかについて関心を持たなかった。近代化という波にとの説明が依然としてあった。だが、この近代化を住民個人がいかに捉えていたのか、また住民の地域生活においてこれをどう受容していたのかは見えてこなかったと思う。本研究は地域生活において主人公たる住民がいかに保健活動を捉え、そして自分たちのものへとなしたのかを問いかけるものである。
  近年、地域保健活動は暗礁に乗り上げ、健康管理体制の維持が自治体で困難な課題となりつつある。これは行政主体の地域活動に終始し、個々人の事情を含み得ない活動がなされてきたからではないか。但し、かといって行政が地域を把握するのに個々人のプライベートな単位から介入することが現代社会において重要かと言うとそうではない。それこそマクロな見方がなされてこその行政でなくてはならないだろう。だから、現状からして、地域枠にこだわる問題を打開する施策は求められない。しかしながら、何もせずに傍観するよりアクションを起こす方が幾分か解決策を模索できる。そこで、本発表は今一度「地区診断」の原点にたち、住民と行政の在り方をそこにみることによって、そうした語り合いの場をどのように設定するのかを学ぶべきではないか。現代社会は昔とは違う。しかし、地続きであり、人と社会は常に隣り合わせにあるのであるから、そこに目を見張る必要はあるだろう。本発表はまだこの課題について答えを出すものに至っていないが、地域保健活動に対して民俗学がなしえる役割を見出してみたい。

注釈:
注1:昭和30年に好藤村、愛治村、近永町、泉村、三島村が合併し広見町となり、現在は平成17年に隣接した日吉村と合併して鬼北町となった。大字下大野は旧村単位では三島村に属する。「地区診断」当時、昭和39年、三島村から広見町になってまだ10年となっておらず、農協の単位も三島農協と旧村体制が維持されていた。

注2:稲葉氏は、診断の構造の基本的根幹を、住民の自主性を守る立場から住民の積極的な参画を促すべく、組集会を末端に添えながら、その上にそれらを統括する組織、そしてそれらを管理する組織を組んでいくことにしている。但し、先に断わっておくが、稲葉氏はあくまでこの組織らをセクト主義的な上から下への命令としておくことをせずに、住民の要求を聴きだし、その上で何が行政として県として出来るのかを専門家と検討を重ね、実施に及ぶという形を理想としていた。
 しかしながら、実施した「地区診断」にこれが徹底されていたかというと、地域住民側からすれば地域の健康を保健所、行政、県、鳥取大学らが自分たちの主張のもとに、住民を組み込んだような形になっていたことは否めない。稲葉氏自身が望んだこととは軌道がずれている実態となっていた。ただ、この診断後における住民の健康意識を変えたこと、住民の中から自主的な組織が出来上がり、組単位での取り組みが盛んに行われる機会を作ったことは、稲葉氏の意向に沿ったものではあった。「地区診断」自体は昭和39年に行われているが、その後は健康会議などを何度も行い、その後の経過を追って調査しそのデータを住民に提示した。また住民側はそのデータに沿って自分たちでできることを組集会に持ち込み、組単位の活動に転じていることからして継続的な活動が活発化していった。

注3:愛媛県立北宇和病院農村医学センター編『農村医学センター No.1』(1966)、広見町健康センター編『広見町健康センター 2号』(1974)、愛媛県立北宇和病院農村医学センター編『農村医学センター No.5』(1970)

注4:また、A氏は昭和40年代後半からメリヤス工場で働きへ日雇労働に出ていった。その日雇いはA氏によれば「昭和30年代当時からよく、地区(下大野地区)の人は外に出よったと思うけん」と語り、当時の地区外労働がはやっていたことを示唆している。後に述べるが、他の話者も同じく地区診断が行われた当時は、地区で農業をやっていては生活ができない。現金収入が少ないといって、夫は季節労働として出稼ぎに出て、妻は少しでも蓄えを増やすために農業以外に土木関係の日雇労働に出ていた。時には木材をキンマ引きで引くなど男性並みの労働をして、製材所へ出すことも行われていたようだ。こうした地区外労働者の健康に対して、診断はどこまで影響を持っていたものなのだろうか。過労をとりあげ、貧血との関係性を説く診断側の意図を「貧血とかいわれていたけど、仕事をやめるわけにはいかんけんね。なるようになるって思ってたけん」と消極的に捉えていた。

注5:モズクガニを食べて寄生虫が身体の中に入り、最終的には脳を侵してしまう病気





2014年8月5日火曜日

日本民俗学会年会報告原稿

地域保健活動と住民運動―愛媛県南予の「地区診断」と農村生活―

要旨
 本報告は愛媛県南予、特に旧広見町下大野(注1)という山間部の農村で、昭和39年から行われている「地区診断」とその後の地域保健活動が農村生活にどのような影響を及ぼしたのかについて、行政の施策と農民の対応の双方から明らかにしたい。
  「地区診断」とは、県、保健所らによる共同保健計画の一つとして生まれた。活動内容は疫学調査や社会調査で地区のあり方を見ていく。課題はその時代ごとに異なり、また地域により様々な様相を呈している。この診断は、単に保健のデータを地域に提示するにとどまらず、住民がその後の下大野健康会議(注2)や組集会(注3)を通じて、地区全体の生活環境を自覚すること重点が置かれている。そのため、「地区診断」は住民にとって直に地域課題に触れたことで、より生活の変化に訴えるものであった。
  これを明らかにすることは、行政の事業という社会活動のなかにおいて住民がどのような立ち位置で物事を考えていたのかを、生活変化における人と社会の接合点から理解することに繋がる。具体的には、地域社会における問題をいかに解決し、それを住民自身がどう受け入れていったかというプロセスと、生活の変遷を地域または個人という中でいかに社会と錯綜していたのかを知る手立てになる。
  現在、地域保健活動は停滞しつつある。保健行政も様々な課題を各部署に細分化しながら、住民サービスにつとめている。しかしながら、これにも限界がある。地域の統計を把握はしていても、現場の生活の動向を見聞きできているかというと業務が煩雑でなかなか難しい。また、政府の見解として健康は個人の責任となりつつある現在、健康は個人志向により地域という枠組みではもはやなくなりつつあり、地域全体を通じた保健のあり方は暗礁に乗り上げてしまっている。このような状況下において、過去の保健活動、行政と地域社会と人々との結びつきを再読することは、地域保健を今後どう考えるのかという課題にも提言できるのではないだろうか。本報告はそのステップとして事例を紹介したい。

キーワード

地域保健活動、住民運動、生活疑問、社会教育運動

注釈
(注1) 現北宇和郡鬼北町下大野
(注2 )診断後発覚した検討課題についての会議
(注3)健康教育、住民の主体性を問うの実践の場


民俗学的な視野
  

伝えたいこと
◎保健活動が果たした役割

リード→愛媛の「地区診断」との出会い、「地区診断」が果たした役割と農村生活

つかみ→「地区診断」とは何か、医療や介護、保健の民俗学的研究史、地域研究史のなかでの保健活動のあり方

叙述→愛媛県南予の「地区診断」、広見町事例、事業の変遷と当時の社会的関心、住民の対応

〆→保健活動と生活変化をどう捉えるか

目次案

はじめに

「地区診断」とは

保健活動の研究視座

愛媛県南予の事例

農村生活に与えた影響

まとめにかえて



リード

はじめに
愛媛県北宇和郡旧広見町という山間の農村地域で昭和39年以降、「地区診断」と呼ばれる地域保健活動が行われていた。この活動は文字通り、地区を健康診断する目的でなされたものだ。今で言うところのヘルスプロモーション事業の一環としてなされたものであり、現在からすればさほど珍しいものでもない。しかしながら、この活動は昭和30年代当時としては画期的なものであり、長野県、岩手県の保健活動と並べて評される全国でも稀に見る活動であった。「地区診断」を通じて地区住民が健康に関心を寄せ、自らの手で健康を取り戻す活動を社会教育活動のなかに見出していたからだ。表向きは、保健活動となっているが、内実は地区の自主性と衛生教育による社会教育的な要素を含んだ住民活動としてあった。
本報告は「地区診断」がどのようなものであり、どうして住民の手に渡り、さらに住民が自分たちの生活のなかにどう取り入れていったのかを考察するものである。

つかみ

1、「地区診断」とは何か?
はじめに断りを入れさせていただくと、地区診断という言葉の概念は、公衆衛生上、地域の保健衛生を診断し、地域生活の安定を目指す活動のことを指す。つまり、健康診断と公衆衛生活動があわさった総合的な、共同保健計画としてあった。勿論、当時性をもたせるのであれば、この活動は衛生教育の普及をねらってのものであり、社会教育的な視座が盛り込まれていた。保健衛生に対して関心を寄せない人々に対して、行政が環境衛生、公衆衛生上の立場から指導し住民に知らしめることが急がれた。
しかしながら、この活動は二つの見方がなされている。一つは共同保健計画という保健行政側の見解としてのそれ、もともとそこから端を発しているゆえ、本来はこちらを扱うべきだ。もう一つは、住民活動としてのそれだ。地区診断が愛媛の地で生きついたのは、他でもない住民の自主的な活動が診断後に広く行われ、それが健康意識の向上をもたらしていたからだ。つまり、住民側の努力が実を結んだといってよい。それゆえ、本報告において、行政側の施策を提示するも、それとは別に住民側の理解と努力について触れねばならない。なので、地区診断を括弧書きで提示することをお断りとして入れさせていただく。

補足…レジュメに載せる
  私がこの「地区診断」に向き合う理由は二つある。一つはこれまで多くの調査で、地域住民の自主的な動きを見るなかで、保健活動ほど課題性を持ったものはなく、それこそ生活改善において大きな役割をになっていたと考えたからだ。昨今の民俗学の傾向として、「動く」生活に対する視座、つまり生活の移ろいやそこに描かれる社会と個人のあり方を問うことが叫ばれている。生活に介入しそこに価値観を植え付ける活動ほどインパクトのあるものはない。他ならぬ私自身生活改善運動を取り上げてきたことにより、よりその「動く」ことへの関心は強いものだった。勿論、これまで兵庫県宍粟市で取り組んできた地域保健活動と住民組織の果たした役割を深く掘り下げたいと言う気持ちからもあった。ただ、今回愛媛の地に入ったのは岩波新書の稲葉峯雄氏の著書『草の根に生きる』が大きく関与している。この本のなかで稲葉峯雄氏は「地区診断」に触れるなかで、住民との対話のあり方、保健行政が行政内に終始するのではなく、住民と向き合うことの大事さ、さらに地区組織を育て上げていくことの重要性を問うている。これは稲葉氏自身が青年運動に携わり、さらに衛生教育係として南予の地区を訪ね歩いた経験から述べている。また、稲葉氏は「地区診断」の構想に関与し、自身もそのなかで働き、住民と対話しながら作り上げて行ったと言う背景があった。私はこの稲葉氏の著書を拝読した時に、こうした活動はその後どのように発展し、またどう言う経緯でこの活動が花開いたのかと言うことを、自身の関心であった地域保健活動と住民組織のあり方と重なったからである。
もう一つの理由は、そもそも地域保健活動は生き物であり、それこそ時代時代の課題を内包しつつ、現在にも繋がっている。ヘルスプロモーションなどがそのいい例だろう。こうした企画自体は現在、国家、地方自治体がそれぞれの思惑によって各地で行われていた。しかし、現実的にこうした活動が地域に根ざしているものであるかというと、その評価はまちまちであり、それこそ地方自治体の取り組みの方向性において決定されていると言っていいだろう。また、大きな問題として、時としてこの保健活動が地域住民に期待されていない場合や、地方自治体が保健活動に対しての興味関心を示さず、定期的な健康診断データを統計処理してことを済ませるようになりつつある。この場合、地域住民の顔はそこにあるのだろうか。地域保健活動は総じて、行政が行う活動であることは理解できるが、それを受ける側がなにを考えその活動を受け入れるのかということについては、何ら答えが見えていない。なにが問題でどう解決するのかが不透明なまま計画だけが進行する、そのようなことではないか。私は歴史的に保健活動をみていくなかで、活動の方針もさながら住民がいかに解釈し、それを生活のなかに位置付けるのかをみてきた。そこで言えることであるが、住民は保健活動に対して、ある程度シビアに捉え、また自己の問題として内在化することで、それを解決しようとしていた。この教訓は現在にこそ活かされるべきものではないか。勿論、昨今の保健行政を取り巻く事情から、もう健康は個々人の自己責任論へとなってきており、地域単位で捉える時代ではないのかも知れない。近隣関係が希薄化し、付き合いも減るとこうしたことができなくなるのでしょう。しかしながら、それを傍観してていいのか。地域を見る目線のあり方をもう少し考えて見るべきではないか。健康は自己責任で語られるが、いざことが起きた時どのように対処するかというと、それこそ地域での付き合いが支えになる。その観点から、今の時代だからこそこの地域保健活動を取り上げるのとの重要性があるのだと思う。

2、保健をめぐる民俗の視座
(1)近代的な保健に対する視座
民俗学で保健活動を正面から捉えることは、これまでなかったように思う。木村哲也氏の駐在保健婦の話がそれに該当するかもしれないが、保健婦活動自体に木村氏が踏み込んで話をした内容ではない。どちらかといえば、保健婦機構の変遷と現場保健婦の対応であったと考えて良い。つまるところ、保健に関して民間医療の中で問われることはあれど、保健活動の中身、特に戦後の行政が行った活動と地域の対応については無いに等しい。この理由がどのようなものであったかは今の所推測の段階であるが、保健活動というものが村落社会とは別の近代的な外来物として捉えられていたからではないだろうか。しかしながら、人間の身体というものを見る視点という考え方に立脚すれば、幅広く村落社会との結びつきは強い。健康祈願や民間療法の分野における保健の考え方は、近代のそれとは異なるにしても身体を見る視点には変わりないだろう。また、これを近代的な視野でみた場合の保健活動は、それ自体地域の生活、人間の生死に関わるものであるからこそ、その活動の内容は本来大きく捉えられなければならない。

(2)医療福祉における民俗学の活躍
  昨今、助産や介護での民俗学の活躍が目覚ましい。安井眞奈美氏の助産をめぐる近現代の移り変わり、出産の考え方の違いなどは注目に値する。六車氏の介護現場における、回想法などを通じての民俗が社会的に果たす役割は大きな成果と言えないだろうか。医療、福祉などの中に芽生える民俗の様相はこの二人に代表されるように、これまでの身体を通じての観念的な視座から、近現代におけるその行動のあり方を問う視座へと進化しつつある。しかし、地域の最前線において公衆衛生の立場から生活を改革した活動への言及は未だにない。助産師、介護士への関心があるのに対し、こうした保健活動への関心度が低いのはなぜなのか。
  一つとしては、助産、介護の現場は、人の人生のなかにおいて大きな分岐点を表すものであり、そこは生と死が向き合う場と理解できる。臨床や福祉現場において、民俗がどう対応して行ったのかを立証することが可能な分野であっただろう。対して、保健活動は、生と死を扱うものではなく、日常生活に対して行われたものであり、どこかしら生活運動の中で明文化されるものであっただろうが、村落社会と行政機構の境界線上に位置する活動であるがために、それ自体を民俗の変遷の中に位置付けることはしてこなかった。このことが関心が寄せられなかった大きな要因ではないかと思う。
  もう一つは、解釈論で民俗は伝承性をもつものであり、保健活動のような近代性をもつものとは相容れない考え方の元におかれていた帰来がある。保健活動は生活の近代化を図る上で、当然のことながら従来の生活を変えること、廃すること、批判することを内包していた。民俗の立場においては、それは脅威的なものであり、民俗の喪失に繋がることであると理解されてきた。しかしながら、人々の生活はこれを受け入れている。現に生活改善運動を始め、様々な社会運動を住民達は吸収ないし理解しながら生活の革新を行ってきた。勿論、人間の身体に関わる問題についてはより敏感であったであろうし、生活を変えることに住民が納得するだけの要素をそこに持っていたことは確実に言える。ともすれば、伝承というものはそれこそ社会の荒波のなかにおいて変わらざるを得ないものであったことは理解できるし、そこに近代的な取り組みが関わりを見せたことは大きな核となり得る。

(3)本研究の視点
  これだけではないであろうし、近代化という言葉自体も怪しい部分はあるが、人々の生活が保健活動を受け入れていた事実は変わりない。この動きをどう理解するのかが問われる。本研究はそうした保健活動のなかにおいて、行政ないし県がそれにどのような取り組みをなしたのか、その目的はどのようなものであったのか、また相互関係にある住民がどのようにそれを交渉し得たのか、その部分を明らかにしたい。報告で取り扱うのは、愛媛県南予の鬼北盆地に位置する地区である。それは昭和39年を皮切りにして、愛媛県全体に波及する大きな事業となり、これにより地域の保健のあり方、住民の健康への関心は高まったと言える。保健活動は単に健康の問題を取り上げていたわけではない。むしろその先にある生活環境の是正が、健康への第一歩であるとして、生活への介入がある。愛媛の「地区診断」は、その先駆けで予防のためにも、地区の社会教育のなかに保健活動を位置付けていた。地域の自主性を基調とし、住民自身が学習しながら生活に活かすことを最終的な目標に掲げていた。これは農村医学で、当時語られていた「医療の社会化」も含め、臨床という現場ではなく、地域社会で取り組む新しい保健のあり方を模索するものであった。「地区診断」を明らかにすることは、当時の保健のあり方を見つめ、その中で住民がどう応えていったのかを知ることにも繋がるのではないだろうか。

3、愛媛県南予の「地区診断」
(1)地域概要
①地理概要
 下大野は愛媛県西南部、北宇和郡の中央部に位置し、宇和島市東部の広見町の北東部にあたる。四万十川の最上流広見川の支流下大野川に沿った標高200から300メートルの山脈の谷間に集落を構える純農村地帯である。昭和30年に好藤村、愛治村、近永町、泉村、三島村が合併し広見町となり、現在は平成17年に隣接した日吉村と合併して鬼北町となった。大字下大野は旧村単位では三島村に属する。「地区診断」当時、昭和39年、三島村から広見町になってまだ10年となっておらず、農協の単位も三島農協と旧村体制が維持されていた。
 気候としては平均気温が昭和40年代において15.70℃。最高気温21℃、最低気温11℃と年間を通じて暖かい気候区分にあったが、盆地の為寒暖の差が激しいところでもある。年間降水量は240.3㎜となっており、夏は高温多湿な気候にある。大字に組み込まれている御開山は、豊富な水源がありここから水を引いている家もある。
交通は国道と県道が網の目に走り、現在でこそ予土線の深田駅、近永駅、出目駅がありそこから下大野へ行くことも可能であるが、主要交通手段は車やバスであり、どこの家も車を所有している。昭和30年代はもっぱら宇和島市から出ている一日13往復の国鉄バスを利用しての来町であり、不便な地域であった。教育施設は、下大野にはなく隣の小松にある小中学校に通い、御開山組には分校があった。但し、児童福祉施設として下大野には保育所があり乳幼児保育を行っていた。
医療施設も隣接の小松に国保直営の三島診療所と歯科の開業医が一軒あるのみで、地区の奥、小字御開山からは8キロ前後とかなり離れた位置にある。このような立地のため、結核患者を早期発見することは難しく、さらに下水道が整備されていなかったために汚染された水等から感染する赤痢や、当時の食習慣であったモクズガニを食して寄生する肺ジストマの多発地域であったことから問題視されていた。

②生業形態
 主として農業を中心として行っていたが、経営規模は平均5.5アールほどの零細農家が多く、林業によって収入を補っている。栽培作物は、米麦が中心となる。その他、果樹とくに栗の栽培や養蚕なども行われていた。しかし、昭和30年代においては林業もままならず、酪農や養豚などに手を出す人々も多くいた。昭和40年代頃から農業の機械化がすすみ。経営規模は大きくなくとも労働力を減らす役割をになった。その分、男性は長期、短期による季節労働、出稼ぎにいったり、女性は日雇に出るなどの現象が多くみられるようになっている。昭和30年代頃も機械化は進まなくとも、苦しい農家経営のために外に労働を見出す人が多くいた。
 そのため、農業は所謂「三ちゃん」農業という経営になっており、尚且つ若い嫁は日雇労働に出ていることからその健康に関することが取りざたされることも多くあった。また、出稼ぎ先で結核にかかりそのまま帰郷して、そこで家族感染を起こすという被害も出ている。こう見ると、赤痢の問題は「地区診断」の突破口となったわけであるが、それ以前より環境衛生、労働衛生面において多くの問題点を内包していた地域といってよい。

③村政
戸数184戸、人口842人に減少している。減少の原因は零細農家から兼業農家へ、そして宇和島市へ勤めに出る人が昭和30年代より多く見られ、そのために市内へ居を構える人が増えたことが挙げられる。但し、この背景は単に零細農業という原因だけに限らず、交通の不便さ、医療や教育に恵まれていないなどのことも考えられるため一概に生業母体の移動によるところに原因を見出すのは早計かと思われる。
 下大野は昭和30年代頃、9つの組があった。奥から御開山組、坂立組、奥組、上組、中尾坂組、中組、東組、西組、町組である。組はそのまま小字にあたり、隣組との関係性は不透明である。尚、御開山組に関しては戦後の開拓地で、昭和39年少し前に下大野に組み込まれていたため、それ以前は御開山それひとつで独立していた。地区で区長がおりその下に各組の組長が行政機構としてある。その他に組織として婦人会、農協婦人部が置かれている。

(2)「地区診断」への道
 「地区診断」が始まったのは昭和39年9月。それ以前より地区を対象とした健康診断は継続的に行われており、そこで結核患者が県下で全国的に見て3倍の数字を見ることになり、さらに肺ジストマ、赤痢などの発生が連続して発生したことから診断に踏み切った。
また、単にこうした公衆衛生的な要因だけでなく、衛生教育として地区をまわっていた稲葉峯雄氏が鳥取大学の加茂甫氏と出会いが大きな要因となっていた。稲葉氏自身は、社会教育的見地から組同士の連携の在り方、そこから育つ主体性を望んでいた。加茂氏も社会医学の見地から住民の主体性による、健康の回復を望んでいたことから、この診断はそうした活動の実践の場として設けられていた。

(3)「地区診断」の構造
 稲葉氏は、診断の構造の基本的根幹を、住民の自主性を守る立場から住民の積極的な参画を促すべく、組集会を末端に添えながら、その上にそれらを統括する組織、そしてそれらを管理する組織を組んでいくことにしている。但し、先に断わっておくが、稲葉氏はあくまでこの組織らをセクト主義的な上から下への命令としておくことをせずに、住民の要求を聴きだし、その上で何が行政として県として出来るのかを専門家と検討を重ね、実施に及ぶという形を理想としていた。
 しかしながら、実施した「地区診断」にこれが徹底されていたかというと、地域住民側からすれば地域の健康を保健所、行政、県、鳥取大学らが自分たちの主張のもとに、住民を組み込んだような形になっていたことは否めない。稲葉氏自身が望んだこととは軌道がずれている実態となっていた。ただ、この診断後における住民の健康意識を変えたこと、住民の中から自主的な組織が出来上がり、組単位での取り組みが盛んに行われる機会を作ったことは、稲葉氏の意向に沿ったものではあった。「地区診断」自体は昭和39年に行われているが、その後は健康会議などを何度も行い、その後の経過を追って調査しそのデータを住民に提示した。また住民側はそのデータに沿って自分たちでできることを組集会に持ち込み、組単位の活動に転じていることからして継続的な活動が活発化していった。
 さて、こうした持続可能な地区診断にはその構造が一番重要なものとなってくる。ではその構造はどういったものであったのかであるが、まず衛生行政の構造を見ることにする。広見町、町議会と「厚生文教委員会」、それらの下に生活環境課、保健課がおかれ、保健課の下に母子健康センター、三島診療所、広見町健康センター、衛生係、国保係がある。では、次に共同保健計画としての「地区診断」の構造を見ると、広見町共同保健計画推進協議会と呼ばれる、広見町行政、農業改良普及所、保健所、医師会、公民館などから構成される組織が共同で結ぶ組織が一番にある。その下に町の共同保健計画委員会、健康センターが組織され、下に下大野地区健康管理活動推進協議会があり、これに先の共同参画者らが連携する。そして、その下に下大野健康管理活動専門委員会と下大野健康会議がある。専門委員会は専門家による組織で、下小野健康会議は四部門、環境衛生部会、食生活改善部会、健康管理部会、広報教宣部会という各種部署における専門的な研究会が組織されている。これに参画するのが組組織である。それぞれに組集会が持たれ、そこから下大野健康会議に問題提示がなされたら、各部門にそれに対処する作りになっている。
 ただ、この組織構造が診断当時に完全な形で成り立っていたわけではない。共同保健計画としてこれらの組織がきっちりと組みあがるのは昭和40年代に入ってからである。昭和39年当時は、実験的な組織として、宇和島保健所、鳥取大学、県、町行政、農業改良普及所、公民館などの組織が、保健衛生面、衛生教育面で組織されていたと思われる。

(4)地区生活に対する「地区診断」のアプローチ
 下大野の「地区診断」は、はじまりとして報告書にある通り、結核と赤痢の蔓延による健康被害がきっかけとしてある。ただ、地区診断は、健康診断と異なり、単に結核や赤痢を公衆衛生的に処置し管理するのではなく、健康管理面、根本的な問題としての生活全体における、それらの疾病を蔓延させた原因を解決すべく、また地区全体の衛生教育を発展させ組織することに意義を見出していた。
 「地区診断」の最大の特徴は、その機動力にある。住民自身が自分たちの健康を省みて、地区全体で取り組めることを行うことこそが地区診断に欠かせない要素であった。そのため、地区診断の地区生活へのアプローチはすべて、組単位における集会を重ねていくことになった。勿論下大野全体という形をとる場合もあるが、まずは各戸における生活のことを話し合う場を設け、そこで出た議題をもとにして地区診断の方向性を決定し、専門部会、食生活部門、衛生部門などの部会にそれを問題提示し、そこから解決策を専門家と語り合いながら解決に導くという方法であった。下大野では組集会を重ね、その中で食生活改善などの具体策を行ってきた。組集会は各戸老若男女問わず、様々な年齢層が集まり、そこで決議がなされており、衛生対策としての意味合いもさながら、社会教育的な寄合の在り方を底に見ることが出来る。
 組集会は、別段健康だけの問題を取り上げて話し合われていたわけではなく、社会的要因としての生活の実態、特に農耕に関する問題や、生活全般に対する疑問点などを多くそこに垣間見ることが出来る。つまり、「地区診断」の末端における組集会とは、生活上の社会的要因を把握することに特化した集会であった。下大野の「地区診断」は構造的には、上から下へのような形で組織されているように描かれることが多いが、それは事業としての組織構造である。実際は組から発せられる信号を、専門家が見聞きし、その上で様々な手当てを行うことにあった。

4、農村生活に与えた影響
(1)地区診断の評価
 報告書による地域住民の地区診断への統計としての評価はおおむね良好な数値を現しており、この地区診断が一定の理解を得ていたことがわかっている。但し、世代によってはそれが浸透せず、いや嫁と姑との間の情報連携の在り方自体がまだ解消されていないがために、嫁への引継ぎがなされていない場面や、農機具を入れるがために借金を背負い兼業化し農業外に収入を得るようになって来ると、組単位で集まることは難しくなり、全戸の周知徹底には至らなかったと推測される。
 また、生活調査過程において、地区住民の生活の悩みに健康診断や地区診断を「めんどうくさい」「(改善するのに)金が必要になる」等との声が上がっており、日々の習慣からの脱出もさながら経済生活の中における地区診断の在り方自体を見直すことが必要となりつつあった。この反省を活かし、次の愛治地区へ地区診断が引き継がれていくのであるが、その後も下大野では盛んに健康会議を行われていく。報告書にはその5年間、10年間の歩みが掲載されており、組組織の連携強化、診断側のセクト主義への批判とその改善策としての関係諸機関の連携の強化が図られるようになる。

(2)「地区診断」と農村生活
さて、これまで「地区診断」そのものと住民との関係性を問うて来たが、では具体的にこの活動が実を結ぶ、生活の場においてどういう作用をしていたのかをみておきたい。

①A氏の語りから
「私は「地区診断」のことをなんも知らんけん。参考になるかわからんよ」と語るA氏は、昭和10年代に当地で生まれ、集団就職で一度県外へ出ていたが、丁度地区診断が行われた昭和39年に結婚を契機に戻ってきた。A氏は地区診断の折は婦人会に名を連ねていたが、健康会議や組集会には姑が出ていき、自分は姑から話を聞くのみだった。姑から伝え聞くに組集会では減塩対策などの食生活改善指導が、保健婦の手によってなされていた。内容的には栄養素を細かく記録することを教えており、一週間に何を何グラムとったかということを記して逐次保健婦に提出していた。このことについて、A氏は「あの何グラムっていうのがわからなかったけん。なんというか、わずらわしかった」と振り返る。他にも便所の清掃などの指導があったが、それ以前(地区診断以前)から消毒液をまいたりしていたから、特段指導があっても別に地区診断が行われたからそれに沿って改善したわけではない。
また、A氏は昭和40年代後半からメリヤス工場で働きへ日雇労働に出ていった。その日雇いはA氏によれば「昭和30年代当時からよく、地区(下大野地区)の人は外に出よったと思うけん」と語り、当時の地区外労働がはやっていたことを示唆している。後に述べるが、他の話者も同じく地区診断が行われた当時は、地区で農業をやっていては生活ができない。現金収入が少ないといって、夫は季節労働として出稼ぎに出て、妻は少しでも蓄えを増やすために農業以外に土木関係の日雇労働に出ていた。時には木材をキンマ引きで引くなど男性並みの労働をして、製材所へ出すことも行われていたようだ。こうした地区外労働者の健康に対して、診断はどこまで影響を持っていたものなのだろうか。過労をとりあげ、貧血との関係性を説く診断側の意図を「貧血とかいわれていたけど、仕事をやめるわけにはいかんけんね。なるようになるって思ってたけん」と消極的に捉えていた。

②B氏、C氏の語りから
下大野集会所にてB氏、C氏それぞれに地区診断のことについて語ってもらった。両氏ともども昭和初年頃の生まれで、昭和20年代に結婚した。同じ時期ぐらいに婦人会に入っていたという。
 C氏は地区診断が行われた前後の生活をこう振り返る。「『おしん』みたいな生活やったけん」。朝から晩まで仕事していた。現金収入が農業だけでは難しかったから、方々へ出稼ぎや外へ仕事を見つけに行く人が増えていた。そうやって働きづめていたから、自身の健康や子育てのことなんて何一つしてこなかった。
昭和27年から38年の間の10年間に肺ジストマ(モズクガニを食べて寄生虫が身体の中に入り、最終的には脳を侵してしまう病気)や結核なんかが流行しても、診療所が小松にあるけど予防には間に合わず、またそれで死んで行く人も多く、どうしようもない状況だった。生活は貧乏だったし、衛生面に気を付けることもなければ、そのまま放置な状態が続き、ついに昭和39年前後に立て続けに赤痢が出てしまった。
これを契機に県の共同保健計画として下大野地区をモデル地区に指定し地区診断が実施されるようになった。この地区診断は、ただ単に保健所や農村医学センターが中心になって動くのではなく、住民の参画が求められており、健康会議や組集会などが活発に行われ、婦人会では食生活改善部会で話し合われた内容を年間計画にして、それを組集会で再考し、実行に移すという形をとっていた。当時、そうした話し合いは組長宅で行い、婦人会長などとも多くの意見を交わしていたという。そのおかげもあって、健康意識が芽生え、栄養のある野菜をつくろうと、家の畑の一部を緑黄色野菜の畑にするなど精力的に行った。ところが、またしても姑とこのことでもめることとなったが、栄養のことは自分たちで何とかしないといけないと思い、姑を説得してでも野菜の栽培を続けた。
両氏が言うには、「言い方はなんだけど、赤痢のおかげで、地区のみんなが自分の健康を気にするようになったけん。今思うとよかったとおもいますけん」また、「地区診断によって地区の連帯ができとったけん。みんなで集まって問題解決するのにいいたいことをいっとたけん。それで楽になったこともありますけん」という。

(3)地区診断に関する地区住民の評価
 A氏からC氏、三名からの聞き取りから得られた情報を整理すると、地区診断前の生活環境は次の三つの問題があった。経済的にもかなり切り詰めた生活がなされていたこと。そのために農業外労働を強いられ、健康は二の次になっていたこと。嫁姑間での亀裂があったこと。このような三つの問題から、地区における健康は害され、肺ジストマ、結核、赤痢の蔓延が起こる騒ぎになり、地区診断が行われるようになった。
 そうした地区診断に対して家によって差異はあるが概ねよかったと見る傾向と、地区診断のことを全く知らずに、ただ盲目にそれに従っていた人々の視点とがある。A氏が後者、B氏とC氏は前者である。地区の全域において地区診断が大きく影響していたわけではなく、段階的にそれこそ上から下へのトップダウン式の指導がなされ、それに組集会は相乗していたのではないかと考える。

まとめにかえて
  本報告が目指したのは、かつて愛媛県南予においておこなわれた「地区診断」という地域保健活動が、農村生活に浸透して行った過程を明らかにすることにある。結論から述べると、「地区診断」は今日で言うところのヘルスプロモーションであり、地域住民のエンパワーを結束させる役割をになっていた。つまり、単なる健康診断というよりもより生活基盤に密着した活動を目指していた。住民の反応はといえば、診断直後はやはり行政任せなところが浮き彫りになる。だが、話し合いの場を多く設けることで、住民は自らの健康に関して、ではどうすればよいのかをかんがえるようになっていく。この考え方は当時の保健活動においては大変珍しいやり方であった。全国各地で様々な保健活動が跋扈するなかで、愛媛の事例は住民の主体性を話し合いで持って成し遂げた良い例であろう。
  民俗学にとって保健活動をとりあげることに意味があるかというと、それはその人個人の地域の捉え方であり、それをとやかくいうつもりは毛頭ない。ただ、地域生活に行政や県がどういう介入をしてきたのかはこれまで問われてこなかった。近代化という波にとの説明が依然としてあった。だが、この近代化を住民個人がいかに捉えていたのか、また住民の地域生活においてこれをどう受容していたのかは見えてこなかったと思う。本研究は地域生活において主人公たる住民がいかに保健活動を捉え、そして自分たちのものへとなしたのかを問いかけるものである。
  近年、ヘルスプロモーションは暗礁に乗り上げ、健康管理体制の維持が自治体で困難な課題となりつつある。これは行政主体の地域活動に終始し、個々人の事情を含み得ない活動がなされてきたからではないか。但し、かといって行政が地域を把握するのにどうしても大枠での捉え方しかできず個々人の心情に配慮がなされるのかとはいえない。現状これを打開する施策は取られていない。では、これを突破するために考えるべきは、今一度「地区診断」の原点にたち、そこから学ぶべきこともあるのではないか。本発表はまだこの課題について答えを出すものに至っていないが、地域保健活動に対して民俗学がなしえる役割を見出してみたいと思う。

2014年7月25日金曜日

看護教育の中での地域連携と、現実の地域連携

昨日、看護師を目指す彼女から、就職面接時に提示する課題「どんな看護をしたいか」の文章をみてくれと言われたので読んでました。

文章自体は別に問題ないし、表現のところで訂正はあったものの別だんこれといった問題もなく、これで提出すればいいよと助言を交えて話しておりました。

しかし、ふと文の内容をよんでいて不思議に思ったのが、看護の教科書に出てくる地域連携という言葉。

気にしなくてもよかったかもしれませんが、私自身保健師関連で地域連携、特に他業種との関わり、行政内での横の繋がりが果たせていない今、この地域連携というものをいかに看護の中に位置付けておくべきなのかということで少し考えていました。

彼女の文章からは、退院後もその患者さんが健康で生きる力を出すために、単に入院ケアだけに専念するのではなく、幅広い目でその患者さんが暮らす社会や生活を包括的にケアできるシステムを樹立させていくことがしたい、となっていました。多少飛躍して読んでいるかも知れませんが、私の中で彼女の言葉は大変素晴らしいことだなぁって思ったのです。

しかしながら前述したとおり、保健師でさえ地域連携が難しくなっている昨今の事情から、では看護の現場でこれがどこまで果たせるものかというところでは、なかなか厳しい課題であることは確かです。日々の業務に身を削り、それでもなお地域を視野に入れた取り組みをなそうとすれば、彼女の言葉通り他業種との連携は欠かせません。但し、他業種間での交流が病院内でどこまで果たせるものなのかとなった時、今まで以上に難しいのは確かです。

さて、彼女は面接時にどのような具体例からそれが発言できるのか、そこがみそなようなきがします。

日本民俗学会発表要旨

日本民俗学会用発表要旨

タイトル

地域保健活動と住民運動―愛媛県南予の「地区診断」と農村生活―

要旨
 本報告は愛媛県南予、特に旧広見町下大野(現北宇和郡鬼北町下大野)という山間部の農村で、昭和39年から行われている「地区診断」とその後の地域保健活動が農村生活にどのような影響を及ぼしたのかについて、行政の施策と農民の対応の双方から明らかにしたい。
  「地区診断」とは、県、保健所らによる共同保健計画の一つとして生まれた。活動内容は疫学調査や社会調査で地区のあり方を見ていく。課題はその時代ごとに異なり、また地域により様々な様相を呈している。この診断は、単に保健のデータを地域に提示するにとどまらず、住民がその後の下大野健康会議(診断後発覚した検討課題についての会議)や組集会(健康教育、住民の主体性を問うの実践の場)を通じて、地区全体の生活環境を自覚すること重点が置かれている。そのため、「地区診断」は住民にとって直に地域課題に触れたことで、より生活の変化に訴えるものであった。
  これを明らかにすることは、行政の事業という社会活動のなかにおいて住民がどのような立ち位置で物事を考えていたのかを、生活変化における人と社会の接合点から理解することに繋がる。具体的には、地域社会における問題をいかに解決し、それを住民自身がどう受け入れていったかというプロセスと、生活の変遷を地域または個人という中でいかに社会と錯綜していたのかを知る手立てになる。
  現在、地域保健活動は停滞しつつある。保健行政も様々な課題を各部署に細分化しながら、住民サービスにつとめている。しかしながら、これにも限界がある。地域の統計を把握はしていても、現場の生活の動向を見聞きできているかというと業務が煩雑でなかなか難しい。また、政府の見解として健康は個人の責任となりつつある現在、健康は個人志向により地域という枠組みではもはやなくなりつつあり、地域全体を通じた保健のあり方は暗礁に乗り上げてしまっている。このような状況下において、過去の保健活動、行政と地域社会と人々との結びつきを再読することは、地域保健を今後どう考えるのかという課題にも提言できるのではないだろうか。本報告はそのステップとして事例を紹介したい。

キーワード

地域保健活動、住民運動、生活疑問、社会教育運動

2014年5月25日日曜日

助言者たるもの

先日、稲葉峯雄氏のお墓参りに同行させていただき、また蓬の会という稲葉氏を囲う保健師たちの会の方々から、稲葉峯雄氏についていろいろお伺いしました。

私は稲葉氏に対して、本著でしか存じ上げませんし、語りのなかの人となったしまった今、そこから得られる稲葉峯雄像について拝聴できることは大変喜ばしいことで、会や奥様、娘様とのお話は私にとって新たな稲葉峯雄氏の発見でした。

その話のなかで、蓬の会の面々が口を揃えて稲葉氏を評するに、稲葉峯雄氏という人は、器が大きく包容力が豊かで、人の話を聴くこと、耳を傾けそこから学ぶことを一生懸命なさっておられた方だと言うことを聴きました。

稲葉氏の著書『草の根に生きる』のなかで、稲葉氏は助言者たることについて、助言者は耳を傾けることにこそあり、そこでキラリとひかるものを見つけ、それについて提言したり、全体を俯瞰することにこそ役割があるとされておられます。

蓬の会で稲葉氏は皆が読書会を通じて思うこと、また地域の現場であったことをレポートするときに、その話をじっくりと聴き、その上で自身が思うこと、感じることを述べられておられたと聴きました。

そのときハッとしました。私はこれまでの調査で、稲葉氏のこの助言者たることについて理解しているつもりで、話者との語りに臨んでおりましたが、どこか自己満足に終わり、話者の生活疑問を聴くことができたか、話者に私の顔よりも私と話者自身の言葉にキラリとしたものが見出せたかどうかと言う点で、まだまだ稲葉氏の背中は遠いなぁと思う限りでした。

助言者たるもの、聴き耳を育て、相手を話のなかで育て、話を相手のものにすることこそ意義がある。

多分、稲葉氏の心掛けとしてこの言葉が一番であったのではないでしょうかね。

2014年5月23日金曜日

愛媛県南予の「地区診断」と民俗

保健婦資料館で見つけた一冊の本。

稲葉峯雄氏の『草の根に生きる』から始まった愛媛県南予の地区診断調査。

「地区診断」とは愛媛県の場合、昭和34年を機に県の共同保健計画が立ち上がり、その中で当時宇和島保健所に衛生教育係りとして赴任していた、稲葉峯雄氏が地域の包括的な予防を含め、衛生教育、社会教育を通じ、住民の自主性を育てながら、住民自らが生活を見直し、地区全体の健康管理を促す活動として立案され、施行されたものである。

この「地区診断」については、長野県にある佐久総合病院が昭和30年代から医師が自ら地域に入り、活動しその中で旧八千穂村を地区に行った全村健康管理事業、また同時期岩手県旧沢内村で深沢村長のもとで実施された健康管理運動とも、深い繋がりを持つ。愛媛県の保健師は、愛媛県で行われた「地区診断」を「愛媛モデル」として語り継いでいる。

愛媛モデルの「地区診断」をこのように、「 」書きにするのは意味がある。これまで愛媛県において、共同保健計画として進められた地区診断事業は昭和40年代に入り、地域の実情にそぐわない、予算編成の中で無駄であるとの指摘を受け、活動が縮小化しその意味合いが保健計画のそれとして理解される限り、その後の活動を含めより現場においてどういう風な形がなされていたのかという評価基準が、実施された昭和30年代末と40年代とでは全く異なるし、40年代以降の活動について県は消極的な対応をとっている。
本研究で地区診断を行政や県の立場から理解するならば、その後の活動について話すことはなくなり、また県の評価基準の中で活動の本質を知ることができない。そのため、本研究は地区診断をもっと広い視野で、もっと現場に則して理解すべきと考え、あえて「 」書きににさせてもらっている。

先に述べたように「地区診断」が目指したのは、住民の自主性を培うことであり、施す医療や保健事業とは全く異質な認識を有している。この認識においては、他の長野県、岩手県も同様であり、農村医学的には医療の社会化として評価される。つまり、予防医学やその他諸々の学問的な領域を越えて、社会、生活の母体に対してアプローチしようとしたのが「地区診断」と言えよう。

さて、私がこの「地区診断」を民俗学で取り上げる理由であるが、この事業及び活動は、地域生活を根底から見直す役割を担っており、活動の在り方一つとっても、それこそ住民主体であるから生活全般にわたって大きな影響力を持っている。
私は民俗学の視座は生活においてどのような変化があったのか、その変化の原因は何か、また経世済民の学として地域の諸問題に対して見つめ直す学問のそれとしてあると考える。その意味において、「地区診断」はまさにその位置づけを明確にしている点で、民俗学の方法論を実戦的にしたいい例である。私は、この他、「地区診断」が住民側にどのように理解されてきたのか、その後の生活においてどのような判断基準となり得たかを観察することによって、地域の流動的、そして人の動きのそれとして描かれていると思う。

本研究の視座はこのような視点で持って発展的に捉えられるものである。

2014年4月2日水曜日

平成26年度保健婦資料館付属研究所研究員研究計画書



平成26年度保健婦資料館付属研究所研究員年間研究計画書

 

はじめに

 計画書作成にあたり昨年度の研究の反省を述べておく。昨年度の研究計画において、筆者は保健婦資料館に所蔵されている「保健婦の手記」の分析と解説をすること、また愛媛県の稲葉峯雄氏によって記された『草の根に生きる』をもとにした愛媛県南予地域の地区診断の在り方とそれが農村に与えた影響について調べること、さらに雑誌『岩手の保健』の編者であるところの大牟羅良氏をはじめ、彼とかかわり声を上げていった地域住民とのあり方とを調べるとのことであったが、それらが全て調査研究できていたかというと中途半端なものになってしまったことは否めない。

 

   「保健婦の手記」の分析

 「保健婦の手記」の分析、特に雑誌『生活教育』に掲載されている記事を抽出し、それを精査したうえで、具体事例として京都府の故吉田幸永保健婦の手記を取り上げながらそれを具体的にとらえてみたが、手記全体の特質と吉田氏の関わりをいかにみいだすのかということについては触れられなかった。手記は手記の分析で、吉田氏の手記については個別に扱うなどして、それぞれ別々な方向で述べるだけに至った。手記の分析はどちらかというと資料論的な分析に依拠し、『生活教育』の主張するところの性格を強調し、そこから手記はどうあるべきなのか、民俗学でどう位置付けるべきであるのかを述べたのであるが、民俗学における手記研究の在り方などを踏まえて説明できていなかった点は、研究史的に見てそれがどういう風な研究なのかということを不鮮明にしてしまった。素材としてはいいが方法論、論理的思考に問題があった。また、吉田保健婦の在り方については事例として具体的に扱って、地域とのかかわりを浮彫にはできたが、ただそれは手記と周辺資料、そして少しの証言からでしか具体的に迫れなかった。手記という主観の産物を社会という客観との連携の中で描けなかったことは大いに反省しなければならない。

 

   愛媛県南予地区診断報告からの分析

 愛媛県の地区診断という共同保健計画に基づいた愛媛オリジナルの地域保健活動を具体的に分析することにしてみたが、資料類の多様さ、地区診断の移り変わりにおける方向性の変質、さらに関係者各位、保健婦や地域住民らの関わり方をうまく描けたかというとそうでもない。具体的に地域を見たのは、旧広見町と旧吉田町の二つであり、また二つの中でも下大野地区(旧広見町)、増田・黒井地地区(旧吉田町)であり部分的なものである。もともと地域を割り出すという意味で始めたものではあったが、ただ筆者が調査を進める中で思ったことは、住民との関わりを論じるにはもう少し主観的に地区診断の評価を取り入れていかなければならないと思い、地区診断をただ単に地域保健活動の一つの取り組みとして見るのではなく、地域の繋がりの中で、いや個々人と医療とのつながりの中で論じなければならないと実行に移してみたのであるが、調査地区のバリエーションの多さと、地区それぞれよりも話者個人によって地区診断のとらえ方は異なり、具体的にじゃあどういう風なつながりであったのかということを問うたとき、未だに解答を得られていない。先が見えてこないというべきか、地区診断をまだ第一次として位置づけているため調査方法や研究方法などの方法論的な構築に至っていないこともあるから、これについては今年度の課題に持って行きたいと思う。

 

   『岩手の保健』の在り方

 『岩手の保健』の分析については現時点では資料収集とその読解、さらに農民の声ということに焦点を絞って、岩手に限らず地域でそこに暮らす人々の声がどう扱われているのかということを周辺生活記録、生活綴方にみてきたがまだ分析が伴っていない。長期的なスパンで研究を進める必要性があるため、今年度の研究計画においては触れずにいよう。個別的に資料を読み込むことはするものの具体的に足を向けていくことはまだ早急だと考える。

 

 以上のことから昨年度の反省に基づき次に具体的な、今年度の研究目的を立案したい。

 

1.       次期計画策定目標

   計画策定にあたって

研究計画の策定にあたっては目標の設置が必要不可欠であるため、以下その目標について述べていくことにする。ただ、この目標は中長期それぞれあり、さらに最終目標としてのそれもある。そのため、一概に策定できないにしろ、ここで大まかな概要を記しておくことにする。

本研究の大きな目標は、地域、いや個人生活における生活世界がどのように構成され、さらに地域社会という集団の中でどう連携し、その上で内外的な社会変動が与えた影響を明らかにすることにある。これによりこれまで普遍的に語られ、「顔の見えない」生活に、自己主張を与え、そこから垣間見える社会との関連性を現代社会においてどのようにしてとらえなおすのかを問うものである。この研究に答えはない。結論はない。この研究が出版され、最終的に人の目にとまった時にその読者自身が過去を振り返り、考えてみることを視野に入れている。所謂実践的な研究であり、象牙の塔の如く学問の中におかれるだけの研究と位置付けたくない。具体的には地域貢献ないし地域のまちづくりにおける基礎的な資料としてこれを活用できるようなものとしておきたい。結論というのはそうした街づくりの樹上にて出されるのであって、研究者が出す結論というのはただの方向性の一つにすぎないことを強調しておきたい。

 

   計画の中期目標

 計画の大きな目標は社会科学的な視点での地域と個人との有機的な繋がりを求めるものであるが、ここではそれを一歩進めて中期的な目標として提示することにする。

 現時点では愛媛県南予地域の地区診断の調査を継続的に行うことで、一つにその地域と語り部たち個々人との有機的な繋がり、つまり「顔の見える」生活史の作成をしてみたい。またもう一つに、地区診断を世に紹介し、さらにそれを社会教育的な視点で持って論じた『草の根に生きる』の著者、故稲葉峯雄氏の彼自身の思想と、彼の人生の中における地区診断の位置づけを行いたいと思う。これはライフヒストリー的な分析を中心としたものであり、故人の関係者からの聞き取りを基に、故人の性格、行動、さらに著作や手紙、資料などから見受けられる、地区診断をどう稲葉氏自身が捉えて、その後どうしていこうと考えていたのかを問いたい。これは、稲葉氏が地区診断後に老人福祉の分野に移行するため、その原因となる一つのターンが地区診断の想定と結果であったと仮説をたてているからである。地区診断自体もさながら、彼固有の考え方、また彼と接触した様々なヒトとの出逢いの中において、培われた地区診断の結論をそこに見出したいのである。前者が、地域と住民との関連性を描くのに対し、後者は個人と社会とのあり方を問うものであり、『生活記録の社会学』の著者、ケン・プライマーの主観と客観の相互作用論に依拠した生活史への視点を民俗学的に用いるものである。

 さらに、「保健婦の手記」に関する研究においては、生活記録としてある手記の在り方、手記が目指す方向性について資料論的な部分から、具体的な描写に関する部分に至るまで総合的な鳥瞰図を描いてみたい。昨年度の報告では、具体的描写と、資料論的な視座が別々に論じられており、それぞれに欠落があったことを反省し、その上に立って、より一層総合的な視座に立ちながら、「保健婦の手記」の概要と具体性を描いてみたい。この描き方においては生活史的な視点を持ち込む。前記の南予の研究においてもそうであるが、私が目指すべきところは、生活主体と社会との相互作用であり、「保健婦の手記」の場合、保健婦と社会、描かれる対象となる個人と社会という二重の見方もできる。それらがどういう風に対峙し、さらにどういう風な関係性のもとにおいて「描かれる」ものであったのかということを生活記録研究と民俗学的な研究との間を取り持つような形で論じてみたい。

 

   計画の長期目標

 次に中期目標のその後はどうするのか、調査も現時点においてどこまでできるのかも不透明であるため、ここで長期的な目標の設定をあらかじめ行っておきたい。この設定はあくまで研究の最終目標ではなく、中期目標の次のステップとしてのそれであり、研究をどういう風に発表するのかとかどういう風に公開するのかといった部分に触れるものである。

 学会発表では日本民俗学会、京都民俗学会の発表を継続的に行っていきたい。これは民俗学内における生活の在り方を問い直すための一つの手立てととして目標づけておきたいからである。従来の民俗学における地域生活の分類、さらにそれらの類型論、比較論、伝播論の普遍性をもとにした記述に対して、筆者は個々人の生活の村長という立場を維持しながら、社会との関連性の中で生活はどのようにあったのかという、主観と客観の相互作用論という社会科学のメスを入れてみたい。別にこれまでの民俗学の方法論に対して否定をするわけではないが、あまりに地域を抽象的に扱い、具体的に扱ったとしてもデータとしてのそれにしか当たらず、記述がそれ以上進まない。研究者内で完結してしまうことを恐れたためである。私の研究は実践性に立脚したものであるから、研究者内の象牙の塔にこもる必要性はまったくない。地域社会の一般性に訴えるつもりもない。こういう生活があったという事実をもとにして、ではそれをどのようにして解決していくのかという部分に焦点を当ててみたいからである。なので、学会的な結論はその一つの手段であり、結語となるようなものではないことを強調しておく。

 出版については、現時点ではまだ考えていないが、学会誌への投稿を視野に入れて、2本の論考ないし研究ノートを日本民俗学会、京都民俗学会等に発表しておきたい。また、民俗学の枠内に収まるのではなく、積極的に周辺諸科学、社会学、教育学など、さらには医学などの部分においても関係機関を通じて発表しておきたい。加えて、論考ではなく調査において思ったことをコラム化した記事を、保健所や教育委員会などの地域機関に投稿し、それをもとに市の広報などの一部分を飾ってみたいと考えている。これは地域において私の研究に実践性を持たせる一つの手段であると考えている。

 

   計画の最終目標

 上記の計画目標はどれも一時的なものであり、最終結論をだすものではない。またこれから述べるものも最終結論ではないことを念頭に置いておきたい。というのも、本研究の最終結論の策定者は研究者である筆者ではなく、読者やそれこそ地域で働く保健師らが決めることであり、筆者はあくまでアドバイザー的な立場という繋ぎを演じることにしている。つまり、問題の記述とそこから垣間見える諸現象に対する考察ここまでが筆者の仕事であり、それ以上についてはより具体的に地域を考案する場で、ひざを突き合わせながら議論していかなくてはならないのである。

 こう考えると、筆者の最終目標というのは地域議題への導きにこそある。行政も関わるであろうし、地域コミュニティーである自治会や組などの単位での話し合いの場において議論されることを願うものである。一見して筆者の研究は保健分野に編住しているように見受けられるかもしれないが、生活の総合俯瞰の一部として保健を扱っているにすぎず、生活をどう考えるのかという部分についてはより一層の意見を住民側ないし保健師側から示してもらう方がより鮮明になる。とりとめのない議論が出てくるかもしれない危険性ははらんでいるが、とりとめのない議論の中でも彼らがそれらを意識しだすことの方が優先であり、筆者のねらいとしてはそこに長期的目標を位置付けたい。

 

2.       具体的調査と調査方法論

   策定に基づく調査・研究方法論

 ここでは具体的な調査・研究方法について述べていくが、先に断りとして、現時点では調査・研究方法論が完全に私の中で組みあがっているわけではない。それこそ調査を進める中において方法論は違ってくるだろうし、研究に際しても議論の場が異なってくることも考えうる。現に、これまでの調査、京都府の調査から愛媛県の調査に移る際においても保健婦主体から、地域住民の生活と保健婦との関わりという風に研究主体が大きく変わっているし、方法も聞き取り調査と資料調査もさながら個人の手紙のやり取りとの中で考えられうること、個人史の分析方法論の中に立脚したものへと変化しつつある。つまり、一概にここで論じることはできないし、それこそ学会等において発表時に考えることであるから、ここで提示するのはあくまで計画に基づく予測される調査・研究方法であることを明記しておく。

 まず、調査方法であるが、民俗学の方法論としてのフィールドワークにおける聞き取り調査は前提としてそこにある。当研究が聞き取り調査をもとにして、その個人との関係を築いているのであればそれは、立派な調査方法であり、関係構築の方法でもありうるので、これは大きな前提となる。さらに加えて筆者は、調査者個人の主観的な語りに対して興味を持っているため、その個人個人の生活と人生について聞き取り、さらにそれを立証できうるだけの、できるだけの資料を集めている。それは議事録であったり日記であったり、メモであったり写真であったりするわけであるが、個人と地域の相互作用を垣間見える素材を収集し、その分析と語りの在り方を重層的に配置していくことが調査には求められる。

 研究方法については、生活記録(ライフドキュメント)研究で1990年代に発表されているケン・プライマーらの著書、社会学や社会科学の分野を参考にして、それをどのように民俗学に取り入れていくのかが主眼になってくる。生活記録を扱う研究は多々あるが、いずれも理論構築を優先的にしているところが多く、事例分析を強化したものは少ないと見受けられる。プライマーの理論は確かに妥当性を持って語られるべきものであるが、それを民俗学の俎上においてどう料理するかはまだ未知数なものがある。民俗学は事例分析を優先的に行い、そこから理論構築をしていくことが主体であるから、最初に理論があって事例を当てはめていくとかなり事実関係が異なってしまう危険性をはらんでいる。そのうえで、事例と研究の理論の枠は大きくとっておきたい。研究方法が生活記録に依拠しているのは、当研究が生活の様子をそれこそ語りだけに限らず記されたものに対して考えるところにあり、口述史的分析と、個人史的分析との双方間の間を取り持つ形になる。いずれにせよ主観性に立脚した議論であるが、筆者は主観性を社会との照らし合わせで客観性を持たす取り組みを、それこそプライマーの相互作用論の中に見出しているため、彼の論理を民俗学風にアレンジすることから考えてみたい。

 

   「保健婦の手記」と生活記録研究

 細かくなるが、研究ごとの分析方法をここで論じておきたい。「保健婦の手記」が個別的事象を取り上げていること、個人的な記録であることは報告書のとおりであるし、個人という枠組みで見た場合、ケン・プライマーが社会科学の分野において批判されてきた客観性の欠如は確かに指摘されるであるため、これ自体をそのまま用いることは難しい。勿論、手記類をそのまま提示し、読者に判断を仰ぐ研究も欧米の社会科学の研究の中にはある。ただ、「保健婦の手記」というものの特性からして、それ自体が外部に向けて発信されている点、さらに投稿が評価され選択されている点という恣意的なものがあるため、そのままの状態を提示することは筆者のいうところの主観と客観の相互作用をみるような、住民と社会とのあり方、保健婦と社会との結びつきを見るうえではかなり偏りを見せてしまうためあきらめざるを得ない。

 そうなれば、方法は一つ。手記類が書かれる背景を丹念に調査し、書いた本人がどのような人物でありどういう風な人生を歩んできたのかということも含めて内容を吟味しなくてはならない。その語りの周縁においてどういった関係者がそこにいたのかのさえ本来はつかまなければならないが、「保健婦の手記」の内容については匿名性が多く、その関係者をすべて考慮することは現時点ではかなわないだろう。つまり完全な事実確認が「保健婦の手記」でなされるわけではない。ケン・プライマーの著書『生活記録の社会学』の中でもそれについては触れてある通りだ。バイアスがあるし、主観性という立場に立てばそれこそ膨大な資料データがそこにいることになる。しかしながらそうした余裕は現時点でできないため、考慮策として主観性をすべて排除するのではなく、書いた保健婦自身が持つ履歴や経験を洗い出し、それを社会との関連の中で位置づけながら、それこそ歴史の中に位置づけながら、仮定的事実として受け入れ、主観性と客観性の相関関係の上で描くべきだと考える。

 吉田保健婦の手記については現時点で5例ある。但し、これは入選を獲得し、『生活教育』に掲載されたものであってそのすべてではない。彼女は度々記録を付けて公表をしていたという後輩の保健婦からの証言もあり、入選作を除いてもその数は膨大にあるだろう。また彼女と関係性をもった保健婦は多々あり、その講演なども多くの聴衆が聴いている。加えて彼女と深いつながりがあった田中友子生活改良普及員のありようを記したものが近年発刊されており、彼女の足跡もたどっておく必要性が出てきている。つまり、事は日吉町という一地域にかたよらず、そこで働いていた一保健婦が地域住民、いや地域外も含めて様々な人との関連性の中でどう描かれるのかという部分が重要である。

 結論として、「保健婦の手記」をその資料的価値、内容的、具体性の価値基準を総体として取り上げ、それを構築していく中でどういう風な関係図を描けるのかというのが課題となる。現時点においてこの関係図の一部は調査にてわかっているものの、肝心の地域住民からの証言が得られておらず、彼らが保健婦に対して何を思い、保健婦がそれにどう応じていたのかという部分が明らかにならないことにはその関連性を構図的に理解することはかなわないだろう。

 

   愛媛県南予地区診断と稲葉峯雄氏の思想

 愛媛県南予地域の地区診断の調査に至ったのは、もともと稲葉峯雄氏の『草の根に生きる』を拝読し、その社会医療、農村医学的な発想と、地域社会教育の在り方を辿ることにあった。また、勿論稲葉氏が地区診断のきっかけを作ったことは確かであるし、その地区診断が行われた地域との関連性を重んじることは必要不可欠なことである。

現時点では、南予の宇和島市三間町増田・黒井地、北宇和郡鬼北町下大野の三地区の概要を話者の語りと、資料調査から明らかにしていった。ただ、下大野を除く三間町増田・黒井地では悉皆調査、踏査はまだおこなっておらず、地域住民の証言も農協婦人会のそれとして理解されるべきものであり、まだまだ全体的な地域調査が必要である。

一応断りを入れておくと、この調査の大きな目的としては地域住民と保健所、稲葉峯雄氏らなどの人物との関わりをその語りから導き出すという作業である。地域をそのまま調査し、地域の特色を出し、他地域との比較をするということを前提としているのではない。比較論的な立場をとるならば、それこそモデル地区として普遍化し、それぞれの生活については取捨選択された、切り貼りされた生活模様を描かざるを得なくなる。筆者は常々生活は総体であって、衣食住などの分類項目を使うべきではないし、地域的特色をそこに見出したとしても現代社会においてそれが意味するところはただの文化的価値観という風なものに偏り、地域生活に直接的に問題を提示するには至らないことを調査過程で思っていた。

そのため、比較論的立場は切り捨て、地域論的立場にも立たず、地域と人間という立場、その社会と人との相互作用としての個人史に目を向けておきたいと考える。また、ここで言う、個人というのは単にひとりの個人を指すわけではない。一人の個人が地域で果たす役割を丹念に追っても、それこそ縦横無尽な関係性がそこに浮き彫りになり、個人を構成するものはそれこそ他の個人とのかかわりの中で論じなくてはならない。一人の個性というのは存在しえないと考える。環境であり、社会なりがそこに関与してこそ個性が引きだたされる。個性というのは「魅せる」ものであって、パーソナリティーという訳語で話すものではないことをここに明記しておきたい。

ではこの観点に立ったところで、愛媛県南予の地区診断を見ていくに当たり、二つの方法をとりたい。一つは、それこそ証言の集約をしていくということである。地域、いや地区個々の人々の語りの中で地区診断はどうあったのか、また公的機関に残されている資料、さらにかかわりを持った保健婦らがこれをどういう風に客観視していたのかを含め、総合的な形で地区診断の在り方を問うてみたい。これを問いただすことは、地区における健康を見出すというわけではなく、地区診断が持つもっと深い関係性の構築、社会教育的な視点から立った時に見えてくる地域コミュニティーの発展的発想をそこに見出すことができる。これは現在の農村社会が抱える問題である、地区組織の在り方というのもにも直結するし、民俗学的に見ても村政としての地区がどのように機能し、どういう形成過程を経てあったのかということを細かく見ていくことにもつながる。村政についてはこれまで行政的なレベルと家族などの近親者的なレベルなどと別々に取り上げられてきたきらいがある。しかしながら、そうした関係構図は実際の生活のおいてはもっと重層的であり、立体的な繋がりをもって生まれてくる。抽象論としてのそれらの関係構図は確かに、行政とその他というくくりになるかもしれないが、実生活は具体的であり、抽象的な理解では考えられない部分も多々ある。それらをどう描き出すのかが重要だ。

二つ目に、稲葉峯雄氏という大きな関心、関係者としての人物の思想的なものが地区診断には大きな役割を果たしている。地区診断に関わったのはなにも稲葉峯雄氏だけではないが、彼が『草の根に生きる』で鳥取大学医学部教授の加茂甫氏と語った中で、社会医学的な視点で持って愛媛県の南予における健康被害を、生活レベルで考えることの構築を目指していたことから、彼なりの構図がそこに描かれているはずである。また、それが意図的にさようしたのか、逆に外部的な思想によって邪魔されたのか結果的には地区診断は成功して評価はされている。但し、稲葉峯雄氏自身がこれをいかに描いていたのか、その後の地区診断をどのように構築するように仕向けて行ったのかということはかなり重要な課題の一つである。つまり、稲葉峯雄氏自身のライフストーリーと地区診断の交差を見出しておくことも一つの手立てとして必要不可欠ではないだろうか。現時点では、稲葉氏と関わりを持った「蓬会」の保健婦らと接触を持ちつつ、この調査に踏み切る段取りはしているが、未だ彼の家族に会えずにいる。家族に会って話をきくことがかなうならば、彼の人となりと考え方について深いところで知ることができるように思う。できれば、早いうちに、さらにいえば稲葉氏が残したメモ等があればそれをもとに彼の軌跡をたどってみたいと考える。

結果的に、この南予地域の調査は地域のそれとは違った所謂個々人の集合体としての生活史を明らかにすることに焦点が注がれており、稲葉峯雄氏にしろその個人が社会にどうかかわっていったのかを導き出すことにこそ意味を見出している。民俗学における、「生活者の顔がない」生活史を批判するとともに、生活者がどういうひとであり、どういう考えを持ち続けていたのか、その推移はどこにあるのかということを地区診断という部分的な事象に絞って考えてみることにする。

加えて本研究の視座は、民俗学固有のものではなく、経済学、生活学、家政学、社会学、医学、公衆衛生学などのさまざまな諸科学の影響を学際的に、いや総合的に描き出すものであることを付記しておく。

 

   『岩手の保健』の読解と研究

 現状からのべると、まだ資料を読み込めておらず、その問題について論じることについてはできていない。また大牟羅良という人物の人となりもかなり興味深いが、これもまだ調査に踏み切る余裕はない。

 今後の課題としては、まずは資料を読み込むことと時代における編者である大牟羅良の考え方の推移をそこに見出してみたいと考えている。『岩手の保健』は長年にわたって岩手県の国保の歴史に大きく関与してきた雑誌だけでなく、岩手の農村の現状を伝え、議論する場としての雑誌の性格を有している。この性格から考えられうることは、編者自身が地域をどうとらえようとしていたのか、また地域住民はこれに対してどういう反応を見せていったのかが重要である。ここでも筆者のスタンスは比較論者でもなければ地域論者でもない。生活史という立場に立脚しながらも、その主観性の雑誌記事を丹念にとらえ、大牟羅氏が云わんとすること、そしてそれを外部社会が客観視する際に見えてくるものを明らかにしておきたいのである。

 今年度にこの読解作業が終了できればそれでいいと考える。考察についてはまだ方法論を考えつつ探っていきたい。

 

3.       調査研究結果の公表に向けて

 基本的に調査報告は調査地や話者を優先し、一度制作したものを仮報告として話者に渡し、その反応を待って正式な報告書を記述し、考察を述べていくことにしている。これは地域と関係性を硬いものとするための努力であり、別段話者のそのままの声をそのまま載せることについて了解を得るだけのものではない。まずは、仮報告によって地域に対して報告内容に誤読がないかどうか、さらに地域生活においてこの問題を認識してもらうことにこそ意義がある。そのうえで、正式な報告書にてそれを盤石のものとなす。筆者の方向性としては実践性にあり、学問性にある取り組みとしては考えていない。学問的立場に立つのであれば、それこそ正式な報告書をおくることは、確かに成果を見出すことにつながるが、筆者の場合は、それを土台にしてどういう風に地域を考えるかというアフターケアも含めた議論が必要となる。

 この観点に立って報告書を垣間見た時にそれを公表し、掲載することはかなり慎重でなくてはならない。現時点で発表報告をしているのは吉田保健婦のそれと「保健婦の手記」であって、愛媛県南予地域に関する報告はまだ封印している。いずれ、その封印は解き、公表する予定であるが、現時点ではこの報告書によって地域でどのようなアクションがあるのかを待ってみたいと考える。意識され出したかどうかを見計らってからでも公表掲載は遅くない。

 

まとめにかえて

 今年度で取り組めるのは、吉田保健婦の調査と南予の調査の二つが主題となるだろう。別に他のものができないというわけではないが、データ整理が膨大にあり、それに追われることがしばしば出てくるものと考える。その時にほかに手を出していては難しい局面に陥るであろうから、そうしたリスクには慎重にならざるを得ない。個人と社会、主観と客観の相互作用を論理的に進めていくに当たり、まだまだ研究史の分析が整っていないきらいがあるし、民俗学的に見てこれらの方法論が学会的に了解を得られるかどうかという部分に不安を覚えるところはある。しかしながら、「顔の見えない」生活ほどむなしいものはないし、機械的に機能的に分析することが生活を捉えることではないと強く主張したい。生活者あっての生活であり、個人あっての集合であり、集合があっての地域であるこれを段階的にとらえていく作業こそが現在の民俗学には必要不可欠であり、とくに社会とのあり方を基準にした研究の欠落している部分にあたるものと考える。主観性を排除し客観性に科学性をみいだすというのは、もはや古いものである。主観性と客観性の相関関係論を社会学はいち早く見つけそれについて取り上げているにもかかわらず、依然として民俗学はそうした相関関係性を普遍化としてしか取り上げていない。普遍化することがよい場合もあれば悪い場合もあることを考えなくてはならない。