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2017年5月14日日曜日

戦後南予における「蚊とハエのいない生活」の展開 ―喜多郡旧五十崎町から宇和 島市石応へ―その6

まとめにかえて

南予の二つの活動が戦後の「蚊とハエのいない生活」において、どのような意味を持っているのかを述べていきます。

第一にこの活動の先行きの面で、五十崎と石応では大きな違いがあります。住民主導で進められた石応は改善を生活合理化に結びつけることを可能としましたが、施設改善で行政主導になっていた旧五十崎では行政の指示範囲から脱することができておらず、活動の舵取りが環境衛生や保健衛生面から他に波及する見込みはなかったのです。

第二に、生活課題への対応です。五十崎はその性格上、行政計画に則って行われていくため、一定の結果は得られようが、変則的な生活状況に対応できていません。確かに偉大な成果は持ち込めたと思いますが、意識面の改革にまで及んでいたかというと、どこか指示ありきの行動があって、住民は後手に回っていた点は否定できません。その面、石応は地区集会という絶えず議論を交わすため柔軟な発想力と対応力に長けていました。そのため、下水溝改善を一つの通過点で考え、生活課題をさらに洗い出し活動を昇華させていったのです。生活課題の捉え方によってその後の展開が全く異なります。

「蚊とハエのいない生活」は、戦前からあるようなある種強権的なトップダウン型を推し進める地域もあれば、戦後の民主的な住民の意見の反映としてボトムアップ型に徹する地域もありました。住民参画という意図は盛り込みつつもその方向性は地域の生活課題への姿勢によって左右されるのです。そのためモデルを模倣する場合技術は同じでも方策については取捨選択がなされていたといえます。

戦後南予における「蚊とハエのいない生活」の展開 ―喜多郡旧五十崎町から宇 和 島市石応へ―その5

第4章 喜多郡旧五十崎町から宇和島市石応へ

五十崎と石応の活動は契機も背景も、組織の構造についても全く異なりますので本来比べる相手ではありません。ただ、五十崎にしろ石応にしろ下水溝改善をどういう風に具体的に進めるかにおいて、技術的なモデルをそれぞれに持っています。五十崎なら長崎から、石応なら五十崎からと二つの活動は異なる背景があるにもかかわらず、その技術ポイントにおいて共通認識があったのではないかと考えます。

五十崎と石応の共通点は蚊とハエの発生源である水たまりや、ゴミだまりをなくすことが重要議題に上がり、それを着実に進めることにありました。では、この活動の相違点はどうでしょうか。それは住民の位置づけの問題にあるといえます。五十崎では町行政が主体となり、住民がそこに参画する形をとります。ところが、石応ではすべてが住民の手によってなされています。

これには指導者である、藤本薫喜と此下七雄の二人の立ち位置が関係します。藤本は環境衛生の専門家の立場から、長崎での実践経験を基礎として五十崎をバックアップしました。しかし、此下は専門家ではなく住民と同じ視線において、生活課題をみつけ専門家と住民との間を取り持つコーディネーターの役割を担っていました。こうした立ち位置からいえることは同じ活動を目的としつつもその視点が五十崎は行政計画推進からのトップダウン型、石応は地区集会の現場における意見を掬い取るボトムアップ型であったといえます。

戦後南予における「蚊とハエのいない生活」の展開 ―喜多郡旧五十崎町から宇和 島市石応へ―その4

第3章 宇和島市石応の公民館と地区衛生

さて、五十崎の活動と同時代に同様の活動をしていた地域があります。それが宇和島市石応と呼ばれる半農半漁の地域です。

『地区衛生のあゆみ』と、記録スライド映画『どぶとりくんだ公民館』によれば、活動の契機は昭和28年、石応公民館主事に任命された此下七雄の思想と活動にあります。彼は、公民館活動を地域の生活課題の上に位置付け、住民の本音を聴く機会を設け、それが地区集会と呼ばれるようになりました。
昭和30年、地区集会の中から「溝が臭くてたまらない」などという生活課題が出てくると、これを石応全体の問題としてとらえ各方面の指導機関の協力を得て、公民館の年次計画として地区衛生の改善を試みようとしました。しかし、地区の男たちの中からは「漁師がハエを気にして生活できるか」という意見が出ました。そういう反発がある中で婦人会、青年団は下水溝整備の資金を自治会に要請し続けます。そして翌年、石応自治会は地区の排水溝設備に対して予算をつけることになりました。その具体的な方法を探るため、自治会幹部は、五十崎へ視察に出向いています。五十崎の視察で下水溝改善の必要性を理解した自治会は、同年11月から工事を行いました。

下水溝改善は下水溝をコンクリート化する前、昭和30年に下水溝の掃除を実施することから始められていました。ところが、当時の下水溝は底が凸凹しておりどぶやごみをさらったとしても水たまりがすぐにできることを繰り返していました。そこで、下水溝のコンクリート化が提唱されたのです。7つの地区集会のうちに1つの地区が実践しその後全地区に波及しました。

この活動について宇和島保健所の稲葉峯雄が、役所が指定したりして行う衛生のモデル地区や活動ではなく、住民の主体的な生活課題への実践として最もよいと評価しています。特に公民館が育てた地区集会が真の母体になったことは、最大の教訓であったとも述べている点は重要です。また、『どぶととりくんだ公民館』では、自治会長の話として今までしに頼りきりであったことは反省に値し、自分たちで行うことの重要性をこの活動で学んだと述べています。

下水溝改善のその後について、掃除やどぶさらいは毎回続けられるようになったのですが、実はそれ以外の部分にもこの改善が契機となったものがあります。それは生活合理化運動です。下水溝改善は、生産の結びついた意識改革でもあり、また生活の協同化を進めるうえで重要な意味を持っていました。

「蚊とハエのいない生活」はほとんどが防疫上の課題から実践に行きますが、石応は住民の生活課題に対する炙り出しという集団討議が先にあり、そこで「蚊とハエのいない生活」が明確化された点で特筆に値します。此下氏が目指したのは石応の各地区の住民の意見の応酬と、それにどう向き合うかを住民自身の姿勢を問うという意識改革にありました。ですから、防疫上のそれとしての意識よりも、住民をいかに生活課題を考える人間にさせていくのかが問われているのです。

戦後南予における「蚊とハエのいない生活」の展開 ―喜多郡旧五十崎町から宇和 島市石応へ―その3

第2章 五十崎町環境衛生実践会活動

では、具体事例からそのモデル形成とその後に迫っていきたいと思います。場所は喜多郡旧五十崎町、現在は隣接地域と合併して内子町の純農村地域です。

『改訂五十崎町誌』と『館報いかざき縮刷版』によれば、昭和20年前後の2回にわたり赤痢の集団発生で、町民の衛生に対する関心が高揚したことが契機として記されています。そこで同町は、昭和28年に長崎医科大学の藤本薫喜氏を呼んで環境衛生の講演会を開催します。翌年、町長らが長崎県を視察したのです。その後大洲保健所より「衛生モデル町」の指定を受け、環境衛生実践会を軸に鼠族昆虫駆除をスローガンのもと、町行政の主導、住民参画で改善事業が開始されます。便所と下水溝の整備を第一とし、塵芥焼却炉の設置、堆肥舎、畜舎等の改善、台所の改善、簡易水道の設置などインフラ整備に重点がおかれています。

事業成果については、昭和29年から7年を経て1870戸中1862戸の改善を見ています。なぜこのような成果を得られたのかというと、事業おいて徹底的な団体行動が厳命されていたからです。資材は、地区毎に適正な算定がされています。労力は地区住民の共同作業とし、勝手な個人作業は許可せず、公私混同を避けています。そのため活動における責任の所在が明確でわかりやすかったのです。表を見ますとハエに悩む家が少なくなったことと、家畜の発育が顕著に現れたことがわかります。町民からの反応について館報には、全体的に非常に衛生思想が向上し、共同作業のおかげで地区内の融和がとれだと評します。活動を契機に、殺鼠月間の実施、蠅たたき運動などの環境衛生活動が次々と実施されていきました。昭和31年、昭和32年に愛媛新聞社、毎日新聞社から表彰を受けています。

しかし疑問が残ります。なぜこうまでして組織力に長けた活動を有することができたのかです。それは長崎県の戦略をモデルとしたからです。橋本正巳の論によれば、長崎では「蚊とハエのいない生活」が閣議決定される以前から「モデル衛生市町村建設事業」が行われています。その契機は、五十崎と同じく赤痢の発生があり、鼠族昆虫を駆除が地区で各々展開していきました。そこへ昭和26年知事が、衛生長崎県を建設するため、蚊、ハエ、鼠を駆除して健康快適な生活環境を打ちたてるべきとして県の事業としたのです。行政と住民が強い関係を築き上げ、統率された組織活動と、インフラ整備するに集中しています。

そう、五十崎の活動はこうした組織戦略と技術を長崎から得ていたのです。ただ、全てうまくいったわけではないです。『館報いかざき 第7号』 によれば、「協力精神」に欠落した部分があったことを指摘しています。モデルを模倣することの難しさがここに見えます。但し、五十崎の活動は強力的な団体行動が実を結んだという意味においては長崎に近づけられたのでしょう。

戦後南予における「蚊とハエのいない生活」の展開 ―喜多郡旧五十崎町から宇 和 島市石応へ―その2

第1章 「蚊とハエのいない生活」とは

さて、このモデル地区ベースに改善が行われたのが、「蚊とハエのいない生活」です。この運動の沿革とその研究史がどのようなスタンスにあったのかをのぞいてみましょう。

「蚊とハエのいない生活」というのは、感染症を媒介する鼠族昆虫駆除を目的とした運動です。橋本正巳、須川豊、関なおみ、澤田るいらの論考からその沿革について述べます。
戦前戦中は鼠族昆虫駆除が伝染病予防法により義務化されていました。戦後の保健行政はGHQ主導で、環境衛生監視員の監視下衛生班が整備されました。また他方で戦後すぐより全国各地で住民の自主的な駆除活動が展開していきます。この活動を市町村行政が積極的に評価しモデル化をしていきました。こうして昭和27年ごろから「蚊とハエのいない生活」運動が生まれ、昭和30年に閣議決定されて国民運動としての地位を確立していったのです。

「蚊とハエのいない生活」の研究は、主としてその運動の主体性の構築と管理、また技術普及への評価、その後の経過などが集中しています。橋本や須川は運動実施当時において公衆衛生学の観点から運動のあり方を模索しています。関は後年この経験を発展途上国においての導入を模索する中で、運動の欠点を洗い出して運動評価をしています。他方、澤田は文化資源学の観点から地域個々での活動に注目し、映像資料をもとにその波及の実際を論じています。ただ、いずれの論にもモデルの模倣については触れられていません。

戦後南予における「蚊とハエのいない生活」の展開 ―喜多郡旧五十崎町から宇 和 島市石応へ―その1

ご紹介に預かりました。保健婦資料館付属研究所研究員の山中健太と申します。何卒宜しくお願いします。
この度、シンポジウムにてお話しさせていただくのは、保健衛生に関する改善がどのようにして根付いていったのか。また、この改善にはモデル地区の存在がありまして、そのモデルがどのように波及していったのかというプロセスとその後についてお話ししたいと思います。本報告では数ある改善の中で戦後の「蚊とハエのいない生活」の実態について考察します。

具体的な事例については愛媛県喜多郡旧五十崎町、同県宇和島市石応の昭和30年の活動を主軸にそれぞれの目的意識、改善へのプロセスと成果、そしてその後について言及します。この地域を取り上げるのは、二つの地域はそれぞれモデルと模倣との関係であります。五十崎は長崎県をモデルにし、石応は五十崎をモデルとしています。つまり一連の流れとして活動が伺えるケースであり、モデルの波及を見ることができます。

先に結論を簡潔に申し上げると、モデルを模倣するというのは、それぞれの地区の生活課題の向き合い方により左右されていきますので、モデルであるからといってそれが実施地域でも通用したのかと言われればノーと言えます。