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2010年5月29日土曜日

「民俗学」って何を持って「民俗学」となりうるのか?

 昨日、大学院の講義にて「ある保健婦の足跡から見る地域保健活動の展開ー行政、地域住民参画型事業の活動実態についてー」というタイトルで発表しました。内容について簡単に述べますと、昭和30年代から50年代にかけて兵庫県宍粟市千種町という町で地域住民の健康を理由に、直接的ないし間接的に関与しようとした活動がありました。その活動を地域保健活動と総称していいます。この研究の原点たるものは、地域生活の変遷過程において行政もしくは地域住民などの介入者がどのように動き、どういった目的を持ってそれを動かしたのかを追及することにあります。
 
 まぁ、タイトルから見れば「民俗学か?」と疑問を持たれる方もいらっしゃるでしょうが…昨日の発表でも指導教官より率直に言って「民俗学とは言えない」といわれる始末でした。確かに、発表では行政関連のことばかり申しており、地域住民側の意図などを述べていなかったこともあり、論自体が研究の原点から離れたものとなってしまったことが最大の原因であると考えます。
 しかしながら、指導教官はそういった研究の原点部分に問題を求めているのではなく、テーマそのものに原因を求め、そこに「民俗学」としての意味を見いだせないと仰っておられました。

 では「民俗学って何を持って民俗学となりうるのか?」

 そもそも「民俗学」って何という時点で、私は民俗学者として不適格な存在となりうるのですが、そこは反論しないでいただきたいと思います。私は私なりに「民俗学」の考え方を踏襲していると思います。しかし、一般的に「民俗学」と定義する場合、どうもその人それぞれで定義が異なり、一定の言葉の羅列はあっても、確固たる文面での定義がないのが問題です。そこで再び戻るのですが、「民俗学」って何?と問うた時点で民俗学者ではないというのは、ちょっとおかしい感じがします。民俗学者に限らず学者は、自分の学問が何たるものか自分の位置はどこにあるのかというものを求めて研究するものであって、初めからわかっているのであればこの学問の思考する意義はなくなります。そもそも学問は批判から生じるものであって、肯定から生じるものではないものですから。

 しかしながら、こうした考え方をしても、何が「民俗学」なのかといった疑問には答えていません。そこで私なりの民俗学の定義みたいなものを出したいと思います。
 私が思うに「時間的空間的な時点もしくは経過における人々が暮らしうる社会の仕組みもしくは知恵」が「民俗」であって「それを客観的ないし主観的にとらえ、暮しうる社会の平面もしくは側面をとらえ立体的に描くことができる学問」が「民俗学」ではないかと思うのです。ここでの「暮しうる社会」というのは短絡的に考えると「生活」という言葉に置き換えることができますが、私としては「セイカツ」と片仮名書きにしたいものです。その理由としてそれは単に個体としての人間の生産活動を意味しているのではなく、複数の人間がかかわる社会における活動も含まれることを意味しての「セイカツ」です。ですから一般に言う「生活」と「社会」をミックスしたものが「暮しうる社会」であり、それをとらえることが「民俗学」なのではないでしょうか。

 じゃあ、私の研究はどうして「民俗学とは言えない」のか?という疑問がわきます。私がやっているのは地域生活の変遷過程、つまり時間的経過における複数の人間の関与、社会的関与ですので、先ほどの定義からいえば、あまり離れていないように思います。
 では、今後、私の研究は「民俗学」としてどうやっていくべきなのでしょうか。確かに社会的(公的)な立場から考えれば「民俗学」とは言えないといわれ続けるでしょう。しかし、定義自体があいまいなうえ学問構築が不安定なこの学問において、何を持って民俗学となすのかという疑問は正直不必要な疑問ではないでしょうか。個々の研究者が自分なりの「民俗学」を築いているからこそ、今があると同様に、「相手に対し自分の土壌で戦え」というような視差を求めるのは無謀です。よって、この「民俗学」って何を持って「民俗学」となりうるのか?そんなものは破棄すべき問題なのではないでしょうか。