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2013年9月1日日曜日

京都府船井郡日吉町の村政状況と保健婦活動(その1)

はじめに―地域を表すということ―
(1)事例を扱うにあたってのこの建前
 ここの所、京都府の事例をTwitterを通じて話してはいたけれど、こうしたまとめようとはあまりしてこなかったことが悔やまれますね。
 発表も近づいてきましたし、ある程度の目途を付けておかないといけないので、それなりに今知りえる事例概要を整理しておこうかと思います。
 以前より述べてきたのは、事例というよりも保健婦の手記の内実であったり、吉田幸永保健婦自身のことであったりとしたわけですが、ただ、こうした事例の集積にはある程度のシナリオがないといけないわけで、いわゆる仮説というやつです。私はそれについてあまりこれまで触れてきませんでした。とにかく、事例を出してそれで満足していた点がありますね。
 今回はそうした反省点に立って、少し研究の全体像を俯瞰しながら記述をしてみたいと思います。つまりこれからお話する内容は、私の研究の大きな潮流といいますか、保健婦の手記と農婦の手記を繋ぎとめる大事な楔ともいえるようなものです。
 とまぁ、大言しましたが、別に何かすごく目新しいことを言うのではなくて、私の取り扱おうとしている事例、京都府船井郡日吉町(現南丹市)という地域概要と社会状況、さらにそこに定着した保健活動の大まかな概要についてまとめておこうという魂胆です。
 なぜこれが潮流となるのか仮説となりえるのかというですが、まず一つ一つ説明していきましょう。潮流となるというのは言葉のままで、地域事例を見ていくにあたってその地域がどういう状況に投じ置かれていたのかということを把握するためです。また、仮説となるという言葉を使ったのは、今回の研究の内容が「生活変化というものが単に物質変化ではなく、人間関係性のもとで成立していきえたこと」を証明することが前提であり、その人の動きというのが大きな存在となってきます。その時に物質の潮流を見るよりももっと身近に、地域の政治的な動きがどのようにありえたのか、その中で生活はどう把握するべきなのかを漠然としながらでも把握する必要性があるからです。
 そういう理由から、今回は「京都府船井郡日吉町の村政状況と保健婦活動」ということをまず説明させていただこうかと思うわけです。

(2)事例を扱うにあたってのこの本音
 但し、私はこれに一つ不安を持っています。Twitterでも何度かつぶやきましたが、私が題材に選んだ「手記」というものはおよそ地域全体を把握するために必要なものではなく、もっと小さな単位、各家庭とか個人に対する描写が先行しており、実のところこの手記の内容から地域の動向を把握することはほぼ不可能といっていいと思います。内容もそうですし、書き手というバイアスのことを考えると、それは「つくられたもの」であり、そこに地域という枠組みを並べてしまうのは危険を伴います。
 何が言いたいかというと、「手記」というものは地域を抑えるものではなく、あくまで個人を抑えたり、その家庭を抑えたりするものであることが前提となり、京都府船井郡日吉町という大きな集まりの中を代表するものではないということです。私が常々やりたいと思っていたことは、実は地域性というものを把握するときに捨象される、こうした個人の生活の具体性の把握というものでありまして、地域概要を把握することに主眼を置いているわけではないのです。とすれば、今回の内容は本当なら把握しなくてもいいことかもしれません。それこそ手記に描かれる各個人の動きを把握していればいいことですから。ですが、そうした場合、地域という大きな枠、大きな潮流の中でその家庭の生活変化が表す意味合いというものはどうであったのかということは、地域概要抜きに語ることはできません。そのための布石としての今回の概要提示といっていいと思います。何度も言いますが、私がやりたいのは地域性を把握するというよりも、具体性の把握です。淘汰された普遍性の中での生活ではなく、生々しい生活実態のそれであることは念頭に置いてほしいのです。

地域概要―京都府船井郡日吉町―
(1)地理的把握としての地域
 さて船井郡日吉町というのはそもそもどこにあるかという平凡な問題点から提示していきましょうか。船井郡は京都市から見て北東、京都府全体から見れば丹波山地の東南部に位置しております。日吉町は京都駅からJR山陰線で1時間弱ぐらいのところにある地域です。町域の南部を大堰川が西に流れ、町の中心部で旧日吉町役場が置かれていた殿田付近にて、町域を枝状に貫流する4支流をあわせるほか、胡麻郷地区を分水界を境にして由良川の1支谷を町域に含みます。集落はこの河川域に作られた狭長な谷底平地に立地しています。現在は南丹市(平成18年に園部町、八木町、北桑田郡美山町と合併)という行政域に含まれますが、それ以前は日吉町(昭和30年に合併)、またそれ以前は胡麻郷村、五箇荘村、世木村の三か村からなっていました。あとで話します、吉田幸永保健婦が保健婦として赴任した折は、昭和25年でまだ三か村が維持されていた折で、彼女は世木村の出身であったことから、世木村の保健婦として赴任することになります。その後昭和30年に日吉町に合併しました。但し、この村については藩政村の時から維持されてきた繋がりが維持されており、三か村が合併したときでも、この村域の表すものはおおきなものであったと考えられます。もっとも、殿田を含む世木村は大堰川での筏流しの木材搬出口としての栄えていたことから、他の二か村と比べて経済的に裕福な村であったと言えます。地域をまるごと説明しようとするとかなり時間がかかるので藩政村の仕組みそのほかについては、ここでは述べません。論文や報告や発表でもそこまでは踏み込もうとは思いませんが、いずれにせよ、旧三か村は生業的にも異なる発展を遂げていること、さらに河川運搬による清流を見せる地域とそうでない地域とに経済的差が生じていたことは地理的状況から推察することができますゆえ、ここでは言葉に落としておきます。

(2)生活環境と生業形態
 資料によれば、昭和45年の人口は7040人で、その後年前の昭和40年に比べて5%あまり減少しているといいます。つまり過疎地域であります。現在の人口は平成17年の調査で5951人(2029世帯)となってます。つまり昭和40年代の過疎化進行を皮切りに、ずっと人口が下回っているということが減少として起きているのです。また、これに付随して高齢化問題も上がっており、一人暮らしの独居老人が増えているように思います。
 ただ、唯一救いなのがこの地域は京都市内からの通勤に便利なことから、ここに家を建ててそこから市内へ通勤へ向かう人通学へ向かう学生が多く住んでいるということが挙げられます。殿田とかは特にその点において交通の要所でありますから、山陰線の駅周辺部は栄えており人口もそこに集中しています。
 さて、話は昭和30年代ごろの話に戻ってしまいますが、当時の生活環境はどういうような状態であったかというと、上下水道の整備が始まったのが昭和30年代半ばに入ってからであり、それまでは近くの川に水汲みに行くか、雨水をためるか、または井戸があればそれで対応してる状況でした。つまり衛生状況としてもあまりいい状態であったとはいえません。
 生業は主に農林業が中心となっています。世木村については殿田を中心に大堰川の筏流しで栄えており、山から切り出した木材を集積する拠点ともなっていました。山陰線が開通後は、その路線沿いに材木置き場が置かれて、そこへ木材業者が集まっていたといいます。大正2年の「産業現況」をみると、農作物でも林産物でも世木村が一位となっており、続いて胡麻郷村、五箇荘村となっています。五箇荘村については、山深いところもあってか、田畑での農耕が思うように収益を持てないこと、さらに林業においても交通の不便さから、木材運搬にコストがかかり、林産物の収益もあまり見込めない土地であったことがわかっています。それが昭和30年代に入り、燃料革命によって薪などの需要が減っていくとで同時に、この林業も衰退していったとされます。割木産業から像林業へとの転換もされていましたが、昭和45年時には林業収益を得て家計の助けになっている家が14世帯余りしかなく、また農業に至っては純農業で収益を立てているのが68%、兼業農業が94%に及び、燃料革命後から次第に京都市内へ職を見つけていくような状況になっていました。
 つまり昭和30年代当時の日吉町を取り巻く状況としては、林業が衰退し農業での収益も見込めないことから、人口動態的に京都市へと人が流れ出している状態があったということです。