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2012年3月24日土曜日

2011年度年間報告


研究テーマ:

戦後の「生活改善」が果たした地域生活での役割

-保健衛生面の諸改善をめぐる社会事情と地域-



報告内容:

本年度の研究の目的は、戦後の「生活改善」と呼ばれる活動が地域社会に果たした役割はどのようなものであったのかを述べることである。この研究を進めるにあたって、私が行ったことは、その活動の軸となっていた時代的背景を詳しく追うことと、その時代的背景における人々の受容の分析である。また、具体的な「生活改善」を取り上げる中で今回は兵庫県宍粟郡千種町の事例をとりあげ、そこで行われていた保健衛生面での活動がいかなるものであったのかを導き出した。さらに、保健衛生面での活動を取り上げるに伴い、その活動の根底にあった地域社会にとっての「健康」というものにも着目してみた。

46月期の報告では、千種町の行った「生活改善」そのものがどのような思想的背景のもとに行われていたのかを「健康」を通じてみてみることにした。ここでわかったことは、そもそものきっかけとなった児童の成長不良から見える、児童の成長に関する大きな関心と児童の身体と「健康」に対する人々の考え方の移り変わりである。昭和32年の児童の成長不良の発覚から千種町いずみ会の活動の展開、そして地域保健活動への変遷を見る中で、共通して現れるのが地域住民の「健康」に対する考え方、健康観の推移であろう。特に、昭和32年の段階においては子どもの身体を通じて、自分たちの「健康」のありようを問うている。子どもの身体の数値の他地域との比較において、自分たちの生活のありようを他地域の生活の中に見出したのである。これは、かなりの衝撃をもって迎えられることとなり、その後の生活環境を一変させる事態にもつながった。というのも、当地域の生活環境は外部から懸念されるほど悪く、比較的「健康」な地域とは言い難いものとして取り上げられていたからである。そのような外部の視線にさらされることで人々は地域生活を疑い、それに対して徹底的に追及する姿勢を持つようになった。46月期の段階では、「生活改善」がいかにして関心がもたれていったのか、またそこには何が横たわっていたのかを分析するにとどまったが、「健康」というものがそこにあり、且つ人々の意識を変える大きなものとして受け止められていたことを導き出すことができた。

次に79月期ではそうした、「健康」がタイアップされるのにはどのようなわけがあるのかという疑問から、「健康」の背後にある「病」と地域社会との連関を考えてみた。ここでは千種町そのものを取り上げるのではなく、「病」がもつ排他的な差別観とその強迫的なまでの「健康」の追求を一つの論文から分析することにした。具体的には今野大輔氏の論文「ハンセン病差別の民俗学的研究に向けて」を読み、ハンセン病という「病」の脅威から「病」の対極に位置し、なおかつ自明のごとく君臨する「健康」という思想、そしてそれを冠して推し進めた活動が、絶対的な権威をもっていかに語られてきたのか、「病」をいかに遠ざけようとしてきたのかを解明すること。「健康」の範疇から外れるものに対して、なぜこれほどまでに疑いを抱き、劣等感を持ち忌避するのだろうか。そうした「病」の逆照射からわかる「健康」の内面性を明らかにした。今野氏のその論文はハンセン病疾患の背景にある、「病」の「忌避感」について分析したものであった。この「忌避感」が生じることは、単に身体的なそれと迷信などによる精神的なそれとがあることを今野氏は論中で挙げている。私は、この「忌避感」について詳しく見ていく中で、千種町の「生活改善」の一部始終に「病」に代表される、いわゆる身体的「劣等性」を引き合いに出した「健康」の権威主義的なものがあるのではないかと考えた。つまり、身体が劣るものを排除し、身体が優れるものを創造するという仕組みそのものの立ち上げと、その仕組みの正統性をうたう権威の象徴としての「健康」である。特に、昭和32年の事例を引き合いに出し児童の成長不良、子どもの健康について触れる中で、「優生保護法」に代表されるような排他的な「健康」観というものが取り入れられていく状況を描いた。身体がある一定のラインに達している者に対しては優を、それ以外のものに対しては劣を与え、その優における価値観を高める指導がされているのである。例えば、身体測定結果における県下の水準に至っていない児童に対しては「栄養をとりなさい」とか、「運動をしなさい」とかを奨める動きが見られるのもこのことからである。「健康」を求めることは当然のことであるが、そこに身体の優劣を見出していることに誰も気づいていないだろう。千種町での成長不良問題から派生した生活改善はこうしたバックボーンの上に成り立ち、そして町民の身体を管理運営していくことになる。特にそれが際立って見えるのが昭和43年に町で制定された「千種町健康教育振興審議委会条例」である。これは町を挙げて健康教育、即ち体育などを奨励し児童の身体の改善を実現し、「健康」で且つ元気のある町を内外にアピールするものであった。つまり、「病」とされた児童の成長不良などを一掃し、「健康」である身体を手に入れるための条例である。ここで、ハンセン病患者とこの児童の成長不良者という存在の比較的なものを考えてみた場合、そこには質は異なれど「病」「劣」に対するある種の忌避がうかがえるのではないだろうか。つまり「健康」でいなければ、「病」にかかれば自分は「劣」と見なされ、社会的な場から一掃されるという恐怖心を人々に植えつけたと考えられないだろうか。この植えつけの役割を果たしたのが「生活改善」であり「地域保健活動」である。これらの活動は、単に「病」を排除するにとどまらず、そうした意識変化にも大きく影響を与えたのである。

続いて1012月期の報告では千種町において行われた「生活改善」の中に見られる保健教育上の要素、さらにはこの活動が地域住民側において女子教育的なものとして取り扱われていたことを踏まえ、この活動の教育的側面がどう地域生活に影響を与えたのかを考察した。これまでの報告を振り返ると「生活改善」に含まれる「健康」や「衛生」という言葉は、その当時の地域社会にもとからあった意識を変革させ、新しい意識を植え付けた結果「生活改善」が樹立し、確立していことがわかる。その上で、1012月期の報告では具体的に、それがいかにして確立していったのかを千種町の事例を引き合いに考えてみた。特に、社会教育などにおいて「健康」がいかにして語られ、教育的な立場においてどうひろまっていったのかを分析した。昭和32年の成長不良事件に引き続き、その後行われた千種町いずみ会やA保健婦による「生活改善」は、その当時の社会情勢の動きとも連携して行われていることが分かった。それが分かる資料として昭和31年に開催された食生活改善協会による『昭和三十一年度 食生活改善協議会報告書』である。この資料により昭和30年代前半時点で、学校現場などにおいて「健康」知識の流入を強く求める声があることが分かった。その活動の内容の中に食生活改善などの改善事項が多くあり、千種町のそれもその潮流の中に位置していたのではないかと考えた。また、昭和31年を境目に社会全体の健康観というものも変わってきつつあった時代であった。これまでの地域保健で言われてきた「結核」などの伝染病による急性疾患が衰え、それに代わって「高血圧症」「心筋梗塞」などの生活習慣からくる慢性疾患が増え始める時期なのである。つまり、生活の根本的な見直しがこの当時求められており、食生活、保健においてそれが明確な形で示されていくようになっていたのである。千種町でこれらが進められていくにあたって強く力を発揮したのが、A保健婦の存在である。彼女は宍粟郡初の町保健婦であり、彼女の指導のもと千種町いずみ会が結成され地域活動へと邁進していくこととなる。この過程において、彼女のとった指導方法は、地域住民自らが動き支える組織ぐるみの「生活改善」の樹立を眼下に捉えた教育的指導と会員内組織の発言の共有である。特に婦人会に代表される女性グループを背景にそれらは教育されるようになる。この中には、女性の地位などを巡る社会状況が反映されたものもあれば、地域保健に伴う純粋な指導もある。千種町いずみ会は、「女性に与えられた天分」という心構えから「家族の幸せは自分たちの手で」、「健康で明るい社会を」とのスローガンのもと母親世代を中心に結束された。A保健婦の講習を受けた者が、いずみ会会員として各地区で婦人会と共に活躍することとなった。つまるところ、この会はA保健婦の呼びかけのもと集合した各地区の若い女性グループを中心とし、その地区を総合的に養成していく機関として千種町いずみ会が設けられたのである。これは革新的なことであったらしく、当時の保健衛生においてもこの会の影響力は大きい。その証拠に昭和44年千種町役場が出した条例「千種町健康教育振興審議会条例」において千種町いずみ会の活動補助を行政がとるといったかかわりがみられ、町を挙げての取り組みがみられるようになる。そうした、千種町いずみ会はその後も精力的に活動をし、食生活改善をはじめとする「生活改善」の実施や、A保健婦を筆頭にしての健康診断の実施など地域の生活向上ならびに保健衛生への関わりを強固なものへとしていった。

このことにより、地域の保健衛生に関する関心が一気に膨らみ、地域住民は自分たちの従来の生活模様を見直すことを積極的に行うこととなった。このように千種町の「生活改善」は、あまたの教育を繰り返し享受することで膨らみ、人びとの内面における健康意識を定着させ、保健医療に対し積極的に受け入れようとする流れを作ったといえよう。また、こうした流れの中には社会的気運もあったことも考えられる。昭和30年代から50年代にかけて地域医療への関心が各方面から寄せられており、雑誌『家の光』などのメディアにおいて、地域医療体制の不備を指摘し、これらを改善するとともに人びとに「正しい」健康知識を提示しようとしている。このことからして、この期間における保健医療に対する意識が社会的にも受容されるようになり、健康に対する意識や行動を具体的に描写し、それをよりよい方向へと転換していこうとなった。これ以前の健康に対する知識では、「病気にならなければいい」というそういうマイナス的な発想での健康観であったのに対し、昭和30年代以降「健康を維持し向上させる」というプラスの発想へと転換しているのである。千種町の「生活改善」が果たした役割はそうした意識革命の中にあろう。そして保健教育、女子教育という双方面おけるつながりのもとで大きく前進した事例であったと考えられる。

さらにこれらの活動の背景を受けて、さらに昭和30年代から50年代における「健康」のありように踏み込んだのが、13月期の報告である。活動における「健康」の知識、技術の普及がいかにして地域で進められ、いかにして地域に受容されていったのかを明らかにした。ここでは、「健康」という言葉がもつ強いメッセージ性についても言及している。これまでの報告同様、地域の「生活改善」が果たした役割におけるものとして「健康」知識の流入とその意義づけ、さらに権威付けがここにあるとして、それらがいかにして千種町内部で起こっていったのかを時系列的にかつ、「健康」をキーワードにまとめた。ここでわかったことは、「健康」の知識や技術は単にA保健婦の様な外部の人間が普及に努めただけに限らず、内発的に住民間からこれを受け入れ普及させようとする動きがあったことである。従来の研究で「生活改善」は外部的な要因の一つとして取り上げられることが多い中、その一方で地域住民自らが内部的にこれを受容しようとする動きが捉えられたことは大きな成果と言える。また、「健康」という言葉自体が持つ、権威性や普遍性を広く人びとの間に浸透するようになったのは、外部的な要因と内発的な活動の成果ともとらえることができよう。「健康」は普遍的なものであるが、その普遍たるをするために行われた知識の普及において、こうした内部的な活動が関わっていることをこれまで私たちは触れてこなかった。その意味においてこの報告は重要な意味を持つのではないだろうか。

以上の報告内容により、千種町の「生活改善」が果たした役割とはなんであったのかについてまとめておきたい。まず、千種町において「生活改善」は「健康」を求める動きとして定着した。これは児童の成長不良の「発覚」とそれにたいする「忌避」が挙げられるだろう。それにより、地域にある種の緊張感が訪れることとなった。ここには、自らの身体の外部との比較の中において優劣を求める動きが浸透していったことがあげられよう。特に児童などの子どもの成長においてそうした「差異」が地域生活の「劣等性」を明確にしたといえる。つまるところ、この成長不良の「発覚」は人びとにおける地域生活の「省み」を要求したことになる。これを言葉を換えれば消極的な「健康」への欲求と言えるかもしれない。自分たちが「差別され得ないだろうか」という緊迫した状況においてそれを是正する動きが出てきたのは当然の結果ともいえる。そこに「生活改善」の素地が作られていったのであろう。但し、この時点においてはまだ地域住民に「自覚」を促すにとどまり、具体的な「健康」知識や技術の普及にはまだ至っていなかった。それが可能になるのが昭和35年のA保健婦の赴任からである。彼女は先にも示したが宍粟郡初の町保健婦であり、町域全体の保健衛生に対する是正策を行政側から進めた立場の人間である。彼女が行ったのは「健康」がいかに重要であり、どのように維持管理していくかという教育である。特に、地域の婦人会や女性グループを中核に据えて、彼らとともに考える新しい組織を作り上げていった。この組織というのが千種町いずみ会である。千種町いずみ会は、地域生活の向上、特に「健康」をテーマにした活動に中心に町域全体で行われていった。このおかげもあって、その後町行政が「健康振興審議会条例」を出すことで地域の「健康」維持を具体的に取り上げるにいたった。このような流れをみていくと、「健康」は単に普及されるものとして取り上げられるにとどまらず、「健康」を介して地域生活と行政とのつながりがそこにあったのではないかと考える。地域住民側からは自己の身体の危機的状況(「忌避」状態)からの脱出、そして身体の強化としての地域活動への進展。地域行政側からは地域住民への「健康」の普及、そしてその組織化、条例化を進めていき、地域全体の「健康」水準の向上を目指し設備投資や地域医療の是正に努めたのである。このような双方間の意見の一致から「生活改善」は地域住民に受容されそして広く定着することに至ったものであった。「生活改善」が「健康」を介して地域社会に対し果たした役割とは、単に「健康」を与えるだけに終わらず、地域生活の中でそれを定着させ、そこから自発的に住民個々が「健康」を積極的に受け入れさせ、それをもとに自らの生活を「是正」管理していく枠組みを作っていったことにあると考える。もちろん、A保健婦や行政の関与もうかがえるし、彼ら抜きにしてこの「生活改善」は成り立たない。普及と受容双方のやり取りの中で「生活改善」は活動することになるのである。

このような「生活改善」の内部的な動き、実際の地域における受容の方向性、そこに横たわる問題の帰結について書かれたものは報告書も含め、希有なものであろう。未だにこの「生活改善」全体の動き、特に中央と地域との関連性については議論が進まない面もあり、「生活改善」の定義というものは明らかにされていない。だが、地域におけるその「生活改善」のありよう、役割というものはここで明らかにされたように、単なる活動としてのものにあらず、地域生活の質的向上の土壌を地域住民に与えていきそこから内的な声を上げさせる手助けをしていったことになる。この地域での役割は重要なものではないだろうか。これまでの民俗学における地域生活の分析には、「生活改善」の実態はもちろんのことそれがなしえた地域での役割、さらには地域住民の変化の受容について詳しく論じることはなかった。この報告はそれを補う上でも重要なものである。

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