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2012年3月24日土曜日

中間報告①


報告題目:千種町の「生活改善」からみる地域社会における「健康」



本研究は、戦前・戦後にわたり人々の生活の「近代化」「合理化」を目的に、政府行政、各種啓蒙団体、地域組織等が行った「生活改善」と呼ばれる活動の概論を述べることと、それらが地域社会に果たした役割を位置付けるものである。「生活改善」という言葉に対する定義は未だ整理がされていないが、仮に定義するとなれば以下のようになる。生活の「合理化」や「近代化」といった従来の生活規範から脱却した新しい生活規範のモデルを構築するため、さらにはそれを普及するために行われた社会活動である。「生活改善」は戦前から現在に至るまで数多くの団体が行い、その時代その場所で活動の目的が異なりその当時の政治、社会を持って語られることが多い。従来の研究では戦前戦後の活動を通じて教育学、生活学、経済学、社会学、歴史学、民俗学といった諸科学によって様々な角度から各団体の理念、活動、その時代背景などが浮き彫りにされてきた。しかしながら、これらの研究は各種団体個々の分析に留まることが多く、活動の実態についてはあまり研究が進んでいない。また、地域の受容についての分析も進んでいない。さらに、民俗学の研究に至っては、改善前後の民俗の変容の諸相のみを取り上げ、民俗がいかに変わったのか、また変わらなかったのかを理由づける一つの要因として扱ってきた節がある。しかし、そうした変容の諸相といった側面だけでなくそこに関連してくる改善活動自体にも目を向けなくてはならないのではないか。民俗生活に大きな変容の中で、事象を撤廃、改善しようとした「意図的」活動は目を見張る部分があり、単に人々が暮らしうる民俗社会においてそれを受容した拒否したに限らず、そこにどのような介入があり、どういった諸相が渦巻いていたのかを取り上げることは重要である。こうした方面から「生活改善」を正しく捉え直し、その位置付けを再検討することは、社会を取り巻く諸相とその事象との関連性を見る中でも重要ではないか。本研究はそういった民俗学で見落とされてきた「生活改善」との地域生活の具体像を明らかにする。

これまで、兵庫県宍粟市千種町というフィールドのもとで、「生活改善」と呼ばれた地域保健活動やいずみ会活動などの衛生に関わる「活動」の分析し、それがいかにして地域に定着、どう普及してきたのかを、官側である保健婦と民側であるいずみ会の双方から見定めた。いずれも一様にその時代その地域の諸事情により誘発され活動を展開したことが分かった。双方同じく「衛生上の悪化」から派生しており、官はそれに「脅威を感じ」行政的に「取り除き」「宍粟郡下における衛生行政の立場を向上」させようとし、民はそれに「恐れを抱き」自分達の生活を「(衛生的に)改め直そう」とした。そうした双方の思惑が重なり、それぞれの活動で結果的にひとつの「生活改善」として形成されたことを述べてきた。この論は地域の実際の動きが重層的であること、地域の状況によってそれが構築されているということの二点が判明した。しかしながら、論中では活動の歴史的、社会的背景についてはあまり触れられなかった。「衛生の悪化」という理由をそれぞれが「脅威」「恐れ」と感じ、それを「改善」せざるを得なかった背景にはどういう事情があったのかも含めて見ることによってより地域の「生活改善」の諸相が見渡せるのではないか。単に「恐れ」から台所や住宅、さらには食生活自体に至るまで「改善」、「変化」させようとしたのではない。そこには衛生的脅威を取り巻く様々な要因が考えられないだろうか。そこで、戦後から高度経済成長期を中心に、地域で起こった保健衛生上の「生活改善」と呼ばれる活動、衛生改善、台所改善などを取り上げながら地域の諸相を描き、一方で衛生行政や保健衛生事業、さらに衛生思想の流布と啓蒙といった同時代の社会事情も含めて論じたい。

ところで、ここで取上げる「生活改善」は、数多くある活動の中でも、生活にダイレクトに影響を与え、且つ自分達の生活に「善い」ものとして積極的に受け入れられていった保健衛生に関する活動である。主として、保健医療をはじめ公衆衛生に関する活動も含む広い領域にわたるが、本研究では公衆衛生活動を中心としてそれを描いていこうと考える。こうした公衆衛生活動に関する「生活改善」からの切り口は先行研究からはあまり見受けられない。そもそもこの活動を「生活改善」と位置付けることがあまりなかったことにも由来するが、その内容を再検討してみると「生活改善」と密接につながりは深い。例えば便所の改善、台所改善、住宅改善の活動の発端となるのはやはり衛生上の理由からということが多い。これまでの研究では合理化、近代化のもとで行われた活動であるとのことから物の利便性などを追及していたのが、「生活改善」と思われがちであるが、こうした人々健康や衛生に配慮した活動を行っていたことも念頭に置く必要性がある。つまるところ、こうした健康ないし衛生の考え方次第で「生活改善」は動いていたのではないかとさえ思われる節もある。では、この「生活改善」の根底となるものはなんであろうか。それを考える必要性がある。

本報告においては、これらのことを前提に考え、まず「生活改善」が派生した地域に着目することとなった。兵庫県宍粟市千種町では昭和32年ふとした児童の成長不良の発覚とともに生活改善もしくは地域保健活動が繰り広げられていく。ここで注目したいのはその活動の引き金となった昭和32年の児童の成長不良の発覚である。これ以前にも頻繁に身長体重などの体格を示す身体測定結果、健康診断結果が表出しているにもかかわらず、この時点でそれが地域住民の目に「発覚」したのである。これは一体何なのかということが最初の問いであった。そもそもこうした「発覚」があったからこそ生活改善が発動したのであり、これがなければ何も起きなかったはずである。

そこで、私はこの「発覚」したものを、その当時の社会的事象に依拠するある種の思想的社会的な存在が構築したものであることを前提に調べることにした。すると、当時「健康」に関わる諸運動が広く行われていることが分かった。特に、昭和30年代以降の戦後の生活改善の運動の中においては、まず人々の「健康」や「健全な生活」を前提にして、あらゆる生活の合理化、近代化に手を出すことになる。つまり、これらの活動の根底にあるものが「健康」というもので、その思想によりこの活動が動いているのである。また、生活改善の中には保健活動を行い、地域に「健康」に関する知識を普及教育するものもある。ではその「健康」が表出することに応じて起こってくるものとは何か、そもそもこうした「健康」がはらんでいた社会的な意義というものは何であろうか。千種町での「発覚」は他地域との比較の中で語れていることに着目すると、そこにはある種の競争原理や健康基準創出のようなものがうかがえる。「健康」であることに対する強迫的な考え方があり、それに応じて他地域と比較し同じかそれ以上でない、または「基準値に達していない身体は不健康である」という考え方が広まり、それを強烈なインパクトを持って受け取っていることもうかがえ、これがなぜ引き起こされたのかを探る必要性があるのではないか。こうした疑問から私は「健康」というものの捉えられ方、さらにそれによってひき起こった生活改善の諸相を考えてみたいと思ったのである。

このように千種町で起こった「生活改善」というものはその根底に「健康」に対するある種の強迫的な感情とそれを支えた保健体制に依拠していることが明確である。保健体制の構築についてはまた別の報告にて表したいと思うが、その前にこの「健康」というものが如何にして人々のそばに横たわっていたのか。さらに言えば、千種町の場合は子どもの成長という「健康」基準にそれが映し出されていたようにも思われるため、これがどのようにして起こっていたのかを調べる必要性があるだろう。

そこで取り上げたいのが、同時代において子どもの成長を社会的に意義づける、「健康」を社会的基準に押しやる出来事としての健康優良児表彰事業のありようを捉えなおそうと考える。「健康優良児表彰事業」は昭和5211日新聞で「少国民の健康如何は次の時代の国運を支配する大問題」であり「国民保健運動の一方法として全国小学校児童の健康調査を行」い、そこから健康優良者を選定して表彰することにより国民の健康意識の向上を目指そうとした活動である。これの前身としては、当時の児童保育のための展覧会であった、子ども博覧会や児童博覧会などが挙げられる。ここにおいて、大正期から昭和初期にかけての都市新中産階級の労働者家庭における子どもの扱い方というものを、その肉体的な見地からの「理想像」として挙げられたのが始まりである。つまり、健康優良児表彰というものはそれに「健康」とついているものの、現在でいう「健康」というのとは異なり、ある種の見世物的な要素を含んだ「理想の子ども」を選出するためのイベントであったようにも思われる。また、このイベントは、単なる理想像を追い求めるだけに留まらず、それを使える人間として、兵士として富国強兵策に沸いた当時の日本の政治的支配体制の一つの駒として役立てるように仕組まれたものでもあったように感じられる。当時の文部省、内務省は健康政策を通じて様々な催しを行っている。例えば、ラジオ体操の樹立もこの時期に当たる。またそれから派生する健民運動や各種イベントにおいて身体の重要性を説いたものが多く取り立たされたのもこの当時のものであろう。だが、こうした政策自体は、戦後もそのまま受け継がれるものとは異なる。その当時の健康観というものが依拠するところが大きく、それによって暫定的であるが活動の方針や健康優良児の捉え方というものは異なってきた。

この健康観の移り変わりについて鹿野政直氏が次のように分類している。まず、健康という言葉自体ができた明治から大正期までを「健康」の時代、突発性の伝染病から慢性の伝染病へと移り変わった大正期から昭和初期にかけて「体質」の時代、健康を治すものから維持する体力や健康の維持と強化へ向けた昭和期から戦後期にかけての「体力」の時代、栄養失調などを通じて生理学的見地からの物理的肉体を重視した戦後から高度経済成長にかけて「肉体」の時代、高度医療体制における医学的革新が見られ、長寿命の時代到来を告げたころからの体調を気遣う動きとして現れた高度経済成長期から昭和50年代にかけて「体調」の時代、死に向かう中で問われる健康をはらんだ昭和50年代から現在に至るまでの「生命」の時代という風に6つの分類に分けてそれぞれの時代における健康観を述べている。この健康観に倣って考えるなら、健康優良児が起こった昭和初期は「体質」から「体力」の時代へと移り変わろうとした時期に当たる。

一方、千種町の時期はそれからはるか後の、高度経済成長期における「体調」の時代であり、健康観は全く異なるものである。しかしながら、私はこの健康観自体がはっきり区分できるものとは思っていない。体質や体力を消耗戦の中で維持し政治的に活用とした時代と全く一緒というわけではないが、体質や体力を整える意味において栄養価値やそれを摂取すべくしきりに体調を気にする時代とは全く別物というわけでもないと思う。健康優良児表彰においても同様であり、この事業は戦前から戦後しばらくの間、戦中期を除いて行われ続けている背景には、体力が唯一その人物を測る基準としてあったことに由来する。その体力を支える栄養管理面での体調というものもそこに加わっているだろうし、単なる外見的な体力というものが昭和初期に現れていたわけではないのである。そのため、「体質」「体力」の時代と「体調」の時代とには時間的格差はあるものの、その根底とすることは健康の維持繁栄に依拠することであり、ほぼ同様のものともいえる。そうした考えをもって、この千種町の一例を細かく見ると、昭和30年代に何度かこの地域で健康優良児表彰が行われていたことが分かっている。それは身長体重を基準とした身体測定を表立って行ったものであり、子どもたちの健康を確かに測っていた。しかしながら、この身体測定において要するものは身長と体重であり、それは個々人の身体的なデータ化を基にするものであるが、これを表にすることはあまりこの時点では持たれていなかったのではなかろうか。その結果、昭和32年の時点で子どもの成長不良が「発見」されるにつながるのであろう。ここにはまだ分析しなくてはならないことがあるが、ひとつ言えることとして、こうした「健康」に下地があったにもかかわらず「発見」されたという事実である。そもそも、健康優良児表彰がこの地域であったのであれば、昭和32年までに子どもの成長不良は発覚していたであろうし、行政においても手を打つ手段はいくらでもあったと思われる。しかしながらこれを行っていない。それにこの子どもの成長不良を引き金に、地域住民全体を巻き込んだ健康増進運動、地域保健活動、生活改善へと変わっていく。こうした総合的な見地から言って千種町のとりまく健康は複雑多岐であったことが分かる。

昭和40年代に入って、千種町では行政により千種町健康振興審議会条例が制定されたりと、町民の健康措置についての議案が相次いで制定されている。これは、地域住民の高齢化に伴う社会福祉の充実化と町民健康躍進のための体育振興に依拠するものがある。具体的には社会福祉施設の増設や体育館、町民のための運動施設の増加を行っている。この背景には、昭和30年代から40年代にかけての千種町内で行われた数々の健康運動や保健婦による活動の報告により、町民の健康状態の悪化が深刻であること、それを解決するには栄養措置のほかに体育を取り入れた総合的な健康支援を行わなければならないことが挙げられる。そうした、段階の上に昭和40年代の千種町における健康増進運動があるわけである。ただし、これは昭和40年代においてであって、昭和32年の子どもの成長不良を直接取り上げた自称ではない。だが、昭和40年代の報告においてもやはり子どもの成長不良が取り立たされており、町民がこの問題に対して関心を抱き、行政がそれに応えようとしている姿が浮き彫りにされている。つまり、昭和32年の事象はその後の千種町の行政において大きな事件であり、これを解決するために躍起になっていた部分がある。今のところ、この当時を知る手だてがあまり残されておらず、聞き取りを中心に行っているが、当時の行政において町民の健康はそれほどまでに重要かつ問題であったという点、さらにその住民の中でとりわけ子どもの成長というものは最大の関心ごとであり早急な手立てがなされるべきだという認識が備わっていた点がこのことからわかる。

論が前後するが、先に記したように、この子どもの成長については「健康優良児表彰事業」に近いものがある。子どもの成長を物差しで測り、それに基準を設けそれからはずれるものを異とする意識があった。それがこの子どもの成長不良の突如とした発覚を生むことになっていたのではないかとおもう。当時、どのような身体測定がなされていたのかは今のところ分かっていない。だが、この身長体重の格差は顕在化する事象としてあるので、見た目でそれがわかってしまい、修学旅行先で子どもの身長体重が比較的劣っているものとして映ったのであろうと思う。またこの当時、千種町に保健普及の兆しがなく、まだ混沌とした状態にあったこと、人々の中に健康という意識があまりなかったことを考慮に入れると、この子どもの成長不良という言葉は十分すぎるほど効果を持っていたのではないか。その後、千種町に保健婦が初めておかれるようになるが、それにともない地域の健康事情は明確になればなるほど、人々に結果として恐怖が生まれてきたと思われる。それを何とか除去するために行政が躍起になって政策を打ち出したのであろう。

以上が、今回の健康優良児表彰と千種町の成長不良事象を考察したところである。健康優良児との接点についての明確な資料、資料分析が整っていないため、健康優良児のイメージ像や施策における対比の問題を取り上げたうえでの報告とさせてもらった。これは本来ならば、あまりよいものとはいえない。接点がないものを接点があるようにしているのかもしれない。それは研究においては重々気をつけないといけないことであるが、この千種町の一件についての考察において、この健康優良児表彰がそこで行われていたという事実だけでも有力な手掛かりとなりうる可能性は高く、それを前面に出した報告となった。今後は、行政の措置としての法令の分析、さらに同時代において健康に関する政策がどうであったのかを加えていくこととしたい。

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