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2013年10月11日金曜日

日本民俗学会でのねらい①

 こんにちは。さてと、明日いよいよ新潟大学にて日本民俗学会年会がスタートします。二日間にわたっての会なのですが、一日目はフォーラムで、二日目から研究発表となります。

 それで、今回の発表についての意気込みを一言。

 「なんとかこれまでの民俗学の常識としてとらえられてきた、変化の諸相、物質や経済の発展性の中からとらえる生活変化を、もっと人を介して人によってはぐくまれる有機的変化へとベクトルを向けることができるように頑張る」

 詳細としては↓

【本発表のねらい】

1)生活変化からのねらい
①「変化」の認識を変える
 まず、今回の発表で最重要視したいのは、生活研究の位置づけを、これまでの物質変化を基準としたものから、人間関係という有機的変化へと変えていくこと。衣食住とあまりにカテゴライズされて物質化した変化を、そうしたカテゴリーで分けるのではなくて、生活総体としてとらえなおし、さらに人間の有機的つながりをそこに見出すことにしたい。
 これまで、私の投稿をご覧いただいた方はわかっていただけていると思いますが。私は、生活というのを「動かす側」と「受ける側」という二つの関係性の中で論じています。私のこれまでの論文にも多く登場してきましたが、生活というのは一方的に変わることはあり得ません。ちゃんと「受ける側」が試行錯誤しながらそれを考え、その考えに基づき取捨選択した結果が「変化」であると考えます。一口に変化といってもそこには多くの段階があり、その結果を私たちは「変化」と認識しています。
 だから、民俗学はその結果だけをみて答えを出していたのでは、それは「変化」の中身をあまりにも軽視しすぎているように思います。社会変化や大きな歴史的潮流というのはありますし、それによって生活の外観が変化することはわかります。ですが、それがすべてであるという風にしてしまうことは危険だと思うのです。
 社会の変動というのをとらえる側はそれこそ千差万別であり、角度によっては社会の変動の受け具合がまた違った形になっている可能性も否定できません。地域の変化を考えるうえで、確かに社会変動と結びつけながら、歴史の中に置き換えることも重要ではあると思いますが、ただ単にそうみるのではなくて、そこに関わる人々の在り方とか、関係性とかそういう有機的な、動態的なファクターも必要となります。
 私は歴史を否定するわけではありませんし、歴史的潮流や社会変動をないがしろにするわけではありません。ただ、もう少し地域を丁寧に扱うことはできないだろうかと思うのです。地域変化と社会変化、生活変化を一つの変化のようにして扱うこと自体が本来は難しいはずですから。だからこそ、もっと違うファクターでもってとらえなおすことが地域の実情をとらえるうえで友好的であると思うのです。「変化」のとらえ方を、認識を、今一度再確認することがねらいです。

②カテゴライズされる生活を開放する
 また、先に述べたように、カテゴライズされた衣食住という分け方にも問題があります。衣食住という生活の分け方が、実際の生活上で意味をなすものであるかということについて、私は疑問に思います。衣食住はその三つ巴の関係が複雑に絡まり、さらにそこに人間が介してより立体的にとらえられるべきであってしかるべきなのです。衣生活、食生活、住生活の研究を否定するわけではありませんが、じゃあそれらの有機的関係性にどれだけ民俗学がアプローチしてきたのでしょうか。
 ここで従来の研究史を明らかにしたいのですが、何分そこまでの力量が伴っていないため、研究者個々人の名前をここで表明することは致しません。ただいえることだけを申し上げます。もともとこうしたカテゴライズを作ったのは柳田國男からの流れがあるのでしょうが、そのあとの民具研究にも大きな影響があると考えます。民具研究の中における生活は、それこそ道具をまず整理して分けることからなされます。その過程で出てくるのが衣食住というカテゴリーです。そのカテゴリーに分けていく作業をしていくうちに、その物質の伝来とかそういう風なものに関しては目が向きますが、生活という総体の中においてそれがどういう風にほかのカテゴリーと連関しているのかということは述べられていません。大枠としてその物質がたどってきた道のりを見ていくのであって、その中身における人と物との関係性がそこには入り込む余地がなかったように思います。
 
 さらにいえば、民具研究だけに限らず、生業やそのほか人々の暮らしを考え上で私たち民俗学者が指標としていたのは、生活を切り刻んだカテゴライズ化された様相です。民俗誌がまさにその真骨頂でしょうね。その民俗誌から見えるものは、それこそ断片的な生活の諸相です。そこに横のつながりはありませんし、人間の営みを見出すには断片的すぎてわかりづらいのがあります。ただ、これを民俗学の内部においては、衣食住のこうした民俗誌を「資料」として認識し、そこのエッセンスを持って、「生活」という風に表しているきらいがあります。つまり、衣食住というカテゴライズの中からエッセンスを抽出し、その中で民俗学は生活を描いていたという風になります。
 批判的に聞こえたら申し訳ないのですが、こうした民俗学のとらえ方というのは分析上致し方がない部分も多分にあります。それこそ柳田の分析方法を唱えるならば、地域という単位ではなくて全国規模におけるその分布と伝播、さらにそこに位置づけられる歴史性を見出す中で、どうしても対象を抽出的にみてしまわないとつじつまが合わない部分が出てくるのが現実としてあります。現在の民俗学、特に地域民俗学の中でも多くこれがありますが、対象となる地域と他地域との差別化をはかるとき、どうしてもこのカテゴライズされた中の内容を抽出的に取り上げ、そこの上でこう暮らしが違うという風に述べてしまいがちです。
 これ自体に問題があるというわけではありませんが、ただこの図式から言えばじゃあそこに暮らす人々の動きはとらえられているのか、生活を営んでいる人を抽出的なもの、断片的なものから得られるのかということを考えたとき、従来の研究の方針では難しいのではないかと思うのです。だから、私はあえて、抽出的に衣食住を扱うのではなく、生活の相対的な動きとしてのそれを見出そうとしているのです。カテゴライズされる生活を開放するのが次のねらいです。
(*但し、今回の発表ではそこについては言及を避けています。発表の本旨は①なので、カテゴライズについて述べるのは論文になってからにしたいと思います。)

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