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2013年6月19日水曜日

日吉町調査報告その2


「『日吉町政だより』『広報ひよし』にみられる保健婦と婦人会の取り組み」

 昭和38年の『日吉町政だより』から昭和56年の『広報ひよし』を概観し、そこに見られる吉田幸永保健婦とK保健婦、各地区婦人会の取り組みをその時代背景を含めて見ていくと。

①   昭和38年10月31日『日吉町政だより』

 A地区訪問日誌(保健婦の日誌)としてとある未熟児を救うために保健婦が病院と家族のもとを行ったり来たりしながら、看護にあたったことを記している。ここで重要なのはまず一点目にお産に対して、母体の中に胎児が生育する期間を昔の因習で「八月子(やつきご)は育つが九月子(ここのつきご)は育たない」というものがあり、母体から早く出たほうがいいということが村の中であったということ。これに対して保健婦は未熟児の例を挙げて、母体で胎児が育つにはそれなりの長い期間が必要であり、早く生まれすぎるとほ乳力が少なく、虚弱で死んでしまう可能性が高いことをしている。当時は、こうした因習に対しての嫁の発言権が低く、そのままお産を早めるなどのことが行われていたのではないかと考える。二点目として、保健婦は未熟児でも手当をすれば命のともしびは消えないからあきらめないようにしなさいと述べている点である。未熟児の例では医者から見放され、家族もどうしていいかわからないなかで、保健婦を頼ってくれることを願うと同時に、あきらめずに相談し入院の手立てを早期にすることを進めている。当時の未熟児出産においては、どこか諦観したものの見方がなされており、死ぬのをただ待つしかなかったのではないかと考える。こうした状況は無医村地区に多く、それに対応するために保健婦がいるにも関わらず、保健婦を頼らない場合が多くあること、それを広報を通じて読者である町民に知らせようとする意図が見られる。

 

②   昭和40年3月15日の『日吉町政だより』

 「家族計画のおすすめ」として保健婦相談を設けることを示唆する文章が掲載されている。人工中絶が多くなってきていることについて触れており、人工中絶による子宮筋腫などの害を挙げて、そうならないように日ごろからの「家族計画」を婦人会と若妻グループの勉強の中で啓蒙しようとしている。保健婦が当時二人、吉田保健婦とK保健婦であったため、各支所に保健婦が詰める日を決めてその時に婦人会に指導していた。月曜日は殿田?の本庁、水曜日は五ケ荘支所、木曜日は胡麻郷支所へ相談窓口を開いていた。

 

③   昭和41年2月10日の『日吉町政だより』

 「明るい暮らし正しい家族生活から」と題して、「家族計画」の具体的な指針について触れるとともに、各地区の人工妊娠中絶数をグラフで表し、昭和38年から40年までの三か年における推移を見比べている。そこでは昭和38年から婦人会の中に保健婦が入り込み、家族計画の実地指導を行ってきた成果が表れている。昭和38年度は生まれた数106に対して人工妊娠中絶数が193という結果を生んでおり、それが昭和40年には生まれた数91に対して人工妊娠中絶数が105と減ってきていることを評価している。ただ、部落別に表を見ると家族計画の努力いかんによって左右されており、全部が全部改善されたかというとなかなか難しい状況があった。この当時における人工妊娠中絶の増加傾向は全国的な傾向でもあり、各家庭の家庭の事情で子どもをおろすことがよく行われていた。そのため家族計画が叫ばれるようになるのであるが、具体的な策として、ペッサリーやコンドームの装着を進めることなどのハード面、人工妊娠中絶によって生じる害毒の啓蒙的教育のソフト面によって進められていた。たぶん、この時期の家族計画の話し合いの中ではこれらが語られていたと推定される。

 

④昭和41年3月18日『日吉町政だより』

 「全滅まであと一息 町から寄生虫の追放へ」では、過去10年間の活動を振り返り、そのデータをグラフとして表示し、各部落でどのような変化が起きているのかを示している。昭和32年から36年頃にかけての調査で、十二指腸虫が検便で見つかり、田畑に素足で出入りすることによって寄生され、貧血などを起こすとして問題視されていた。そのたびに検便をして調べ、集団駆虫をして対処していた。当時の衛生観として田畑に素足出入りすることはよくあり、またその素足を水でよく洗う行為も水道が引かれていないためにあまりよくなされていなかった。これは回虫にも言えて、回虫卵が付着しているまま、つまり土がついたまま食す場合があり、そのたびに吉田保健婦は水でよく洗って食べないといけないといい、水道の設置を行政に求める運動もしていた。また、こうした検便や水道の設置に対しては婦人会の方々の協力があってのことであり、吉田保健婦、北川保健婦だけの活動とはいえない。地域ぐるみで取り組んだ結果、このグラフが示す通り、寄生虫が激減したのである。

 

⑤昭和41年4月20日『日吉町政だより』

 「自分の健康は自分で… 保健活動のおすすめ」と題されたものには、地域の婦人会が定期的に保健についての学習を行っていることが各部落ごとに1月~12月にかけての年間スケジュールの中で詳しく述べられた表が載せられている。これによると、昭和40年代は、検便と血圧、乳児(育児)相談などを頻繁に行っていたようである。当時、食生活改善のための料理講習会が行われていたが、まだまだ地域における漬物や塩漬け等の保存食に頼り、血圧が高いままで、高血圧症から脳卒中で倒れる人が頻繁にいたとされる。後々の記事でもそれが見られるが、こうした高血圧症にならないよう、日頃から血圧の計測を行うとりくみがなされていた。K保健婦がいうには、現在もこうした習慣が残っており、老人会の折に、K保健婦は老人らの血圧を記録し、医師に渡すような取り組みを行っている。

 思うに、こうした婦人会の取り組みと保健婦がタッグを組んでいたのは、「もの言わぬ」女性から、「もの言う」女性へと意識の転換をしていこうとした結果なのではないかと思う。ちょうどこのころに、田中友子生活改良普及員と出会う時期であるので、婦人会の中でこうした保健や教育に対する積極的な取り組みがなされていくのは、田中氏の指導も含まれていたのではないかと考える。

 

⑥昭和41年9月16日『日吉町政だより』

 「どんな病気が多いか―日吉町の死因調べ―」では、昭和40年7月から翌年の6月にかけてどんな病気で亡くなった方が多いかをグラフ化して提示している。一番多いのが脳出血(脳卒中)で、高血圧の方が多くいたためであろう。で、次に多いのがガンである。生活習慣から来るものかどうかはこのグラフと説明の記事だけではわからないものの、当時における死因が急性的な感染症から慢性的な生活習慣病へと切り替わっていった様子がうかがえる。また、ガンについてはこの当時まだ「死刑宣告」を受けたかのようにして捉えられていたとされていて、保健婦らは住民らに対しそれをすぐに「死刑宣告」として受け取らず、日々の検診をちゃんと受けて、生活習慣を整えておくことの大事さを述べている。

 

⑦昭和41年11月17日『日吉町政だより』

 「赤ちゃんの発育がよくなりました」では9月3日に行われた、世木、五ケ荘、胡麻郷の三地区で行われた乳児健康診断の結果が発表されている。昭和38年までは優良児が男女合わせて二十人足らずだったものが、昭和41年に入ってほとんどの乳児が全国平均を上回っており、育児への関心が母親らの中に高まった傾向がみられると述べている。

 

⑧昭和42年3月7日『日吉町政だより』

 「高血圧にご注意」と称して、40年、41年度からの日吉町内における死亡原因調査の結果が掲示されており、そこには高血圧による死亡が三分の一を示していたことについて、血圧管理の必要性を次のような項目で述べている。「治療を中途でやめないでください」では、医師の所見が「これでよい」というまでは薬の服用や治療をやめないことを述べている。当時の医療費のことであったり詳しいデータがないため一概には言えないが、医師に診てもらうことに抵抗があり、またそれにかかる費用面で工面するのが難しい家庭が多かったことがこの注意の中身ではないかと思われる。この時点で吉田保健婦、北川保健婦がどういう風にして地域に呼びかけていたのかは考える必要性がある。「寒くなると血圧は上がります」として寒さが厳しい季節がら体を温めておくこと、また足元は「炉」があれど、腰から上は隙間風がある家はよくないと述べている。当時の家屋が隙間風が入るようなところがおおく、そのために足元だけあった高ければいいという感覚が抜けず、体全体で温かさを維持するためにも隙間風のある家屋はどうにかするべきだと暗示している。受託改善にもつながる提案であるが、この段階では呼びかけにとどまっているように思われる。「夜の便所行き」では暖かな寝床から便所に行くまでに体が冷えて、寒暖差から血圧が上昇することを指摘し、夜は尿瓶を部屋に持ち込み、なるべく屋外に出ないようにしてほしいことを述べている。当時の住宅構造で便所が屋外にあったこと、そこまでの道のりは冬場は寒い中を行ったり来たりしなくてはならず、その間に血圧の上昇が懸念され、そこに問題があることを述べている。「ふろ」では、風呂の入り方についての注意がなされている。寒さが厳しい外から帰宅してすぐに熱い湯につかる前に、かけ湯をして入ることを指導している。「食事」では塩分過剰摂取がみられるため、塩分量は13グラム(茶さじすり切れ四杯分)を限度にして、それを超えるような摂取は避けるように指導している。また白米を避けて七分づきか麦ごはんを毎食二杯、新鮮な色野菜に果物(特にみかん)、塩分の少ない魚、豆腐、納豆、卵、鯨等を食べ、油気は植物性の油(大豆油、サラダ油、ごま油)を摂取することが血圧を抑えるのに効果的であるという具体的な提案がなされていることに注目がいく。また、こうした広報だけに限らず、料理教室や健康相談に保健婦が応じていることを内外に示すことも文言として含まれていた。また、付属表には高血圧死亡の月別調べが40年度と41年度の比較で載せられているが、冬場に高血圧で死亡する患者が増えていること、また41年度はとくに12月の段階で7件もあり、高血圧死亡が多いことを示している。高血圧対策は30年代後半から行われていたが、40年代になってその傾向がまた異なっているように思う。寒さが原因なのか保健婦の活動不足が原因なのかは判然としないが、どちらにせよ住民の高血圧に対する認識がまだ整っていないのがうかがい知れる。

 

⑨昭和42年6月22日『日吉町政だより』

 「健康づくり 地域活動の成果あらわる ―東谷母子愛育会―」では、日吉町の母子愛育会モデル地区(西胡麻、木住、東谷)の内、東谷地区における母子の健康増進活動についてその歩みと報告がなされている。東谷の婦人(グループ)は自分たちの健康について、詳しい記録を続け、年一回の地元の医師の健康診断の計画をたてているという。そのデータとして紹介されているのが「潜在疾病率」である。当時の日本の農村の疾病率は75パーセント、東谷は昭和38年に72パーセントとなっていたが、昭和42年には50パーセントへと減少していることが成果として挙がっている。潜在疾病率とは病気を持っていながら、もしくは気づかぬままに、がまんして病院にかかっていなかった人の率を出したものである。この東谷の潜在疾病率の減少は、年一回の健康診断のおかげもさながら、共同菜園づくりや、良いタンパク質のもとである鯨や肉の共同購入、豆腐の日(豆腐を食べる日を決めていた)などが設けられたこと、環境衛生が整備されたことが大きな役割を果たしていたと考えられると述べている。この環境衛生の整備は多分、簡易水道の整備やし尿処理設備の整備などがあげられると考える。また、潜在疾病の秒別に見た場合の表も提示されており、そこでは昭和38年では脚気が多かったのが、42年からは心臓病が目立った病気にのぼってきていることを挙げている。さらに、貧血の程度を表す血色素比較がなされている。昭和40年代当時の日本の婦人の平均的な血色素の数値が80に対して、昭和38年は65、昭和42年は70前後を行ったり来たりとなっており、まだまだ貧血の度合いが多いことが表れている。しかし徐々にその改善がみられていることから、食生活の改善がいかに大切であるか、そういうのが結果として出てきたものとを思われる。こうした夫人の健康への関心が高まり、結果を出してきている一方で、日吉町を取り巻く状況は問題が多いと述べている。その内容としては、農村での働き手がサラリーマン化し、野良仕事プラス内職などが婦人に課せられている状況、また食生活が簡易なインスタント食品に傾倒し、栄養状況が悪くなっていることを挙げている。婦人らはこのことについての対策として、七分づき米運動、大豆や卵を食べよう運動、共同菜園づくり、魚や肉の共同購入、わたしたちのからだを守る運動を全長名に広げる取り組みを今後展開してく必要性があると提案している。これらの記事の内容を見るに、婦人の健康意識の高さ、さらに創意工夫をした対応策が自主的にとられていることが着目するに値する。

 

⑩昭和42年11月10日『日吉町政だより』

 「(赤ちゃんの体重)全国平均を上回る」では乳児健診の結果が表としてあらわされ、それによると全国平均値を男女ともども上回る傾向にあることをほめたたえている。また、育児方法として厚着をさせないこと、日光に当ててあげること、おやつは虫歯対策のため適量にしチョコレートやあんるいを与えるのは控えるようにとの指示がなされている。

 

⑪昭和43年1月1日『日吉町政だより』

 「脳卒中にご注意」では日吉町が三か年計画で婦人会とタイアップしてきた高血圧、脳卒中の予防対策を紹介している。塩分過剰摂取が多いことが指摘されているのは、白米と漬物を食べることが多いからであるとしている。そのため、保健婦は「食餌献立」を希望者に指導している。また、寒さと高血圧に関することからは、寒い季節にはほほかむりをして冷たい風から顔を守ることや、冷たい水での洗顔を避けること、夜間の便所には注意することなどを指導している。風呂と血圧については、服を脱ぐこと湯に入ることによって生じる血圧の急激な上昇下降をなるべくさけるために、湯に飛び込むことをやめるようにしたり、湯から出た後の冷たい水をかぶることを戒めたりと風呂の入り方の指導をしている。血圧を下げる薬については、市販薬に頼るのではなく、必ず医師へ相談し処方してもらうようにすることを指導している。これらの指導を徹底するために毎週月曜日は本庁のある殿田、水曜日は五個荘、木曜日は胡麻に保健婦が駐在しているので相談に来るようにしている。また、日吉町年月別脳卒中の死亡者数を表であらわしている。月別に見れば、やはり寒さが厳しい12月から雪解けの4月までの期間が多い。年別に見れば、その時の気候にもより年によって増減はあるものの、ただ年々減少の傾向にあることがわかる。

 

⑫昭和44年1月1日「日吉町政だより」

 「乳幼児健診の結果 やはり赤ちゃんには母乳が一番」では、乳幼児健診結果発育がよい傾向にあることを示したうえで、その傾向はどういう風な栄養からかということを具体的に栄養面から見ている。母親の職場進出により人工栄養によって育てる傾向が多くなっているが、では母乳と混合栄養、人工栄養の発育の差についてグラフで表し、その発育の傾向について述べている。表を見ると母乳を与えた乳幼児の発育が安定した発育傾向にあること、人工栄養による発育は太りすぎになる場合があり、あまり推奨できないことを示している。そのため、この記事ではなるべく母乳で育てることを勧めるような文言が書かれている。

 

⑬昭和46年4月1日「日吉町政だより」

 「虫ぐすり代は、タダ」では、国民健康保険施設と婦人会との寄生虫予防活動の効果を紹介し、昭和32年までは二人に一人が腹に虫をわかしていたが、昭和46年現在においては十人に一人以下まで減ってきていることを表であらわしている。昭和45年までは検便をして虫が出た場合は、薬代の半分を個人負担にしていたが、46年4月からは全額を町で負担し、薬代がタダであることを述べている。ここで注目したいのが、昭和40年代からの「日吉町政だより」に掲載される保健活動関係の記事には、たびたび婦人会の関与、婦人会とのタイアップが謳われていること、婦人会が積極的に保健活動に関与していることが活動の活発化につながっていることを強調している。

 

⑭昭和46年12月5日「日吉町政だより」人権特集号

 「「婦人研究集会」での交流」では、これまで述べてきた婦人会活動の活発化は、婦人が差別されてきた背景を脱するための発言権の強化としての取り組みであったことを示すような記事が書かれている。「私の家では、女はハイハイといって服従だけを強いられています。今日もこの会合に参加することを反対されましたが私はこれをふりきってきたのです。だまっていては差別はなくならないと思います。私たち婦人は毎日のくらしが差別とのたたかいだと思いますが、みなさんはどうお考えられますか」というある婦人の訴えに、婦人の中から「村のくらしの中では女は発言をおさえられ、またその場もない状態におかれ行動することもおさえられています。いま足をふまれてるものが『いたい』といわなければ足をふんでいるものにその痛さはわかりません。『いたい』といいかえさなければ差別はなくならないと思います」と発言している。このことは、当時生活改良普及員として船井郡に駐在していた田中友子普及員の「カナンことはいう」を実践しようとしているためだと考える。当時の女性の家庭や村での扱いは、男性のそれと比べて地位が低く、発言権もない状態であったものを、女性たちは発言権の回復と、発言することによって女性の地位の向上をめざし活動していることをこの記事は物語っている。

 

⑮昭和47年5月10日「日吉町政だより」

 「おばあさんらでつくった「およばれ会」」では、殿田の老婦人方が集まって、およばれ会なる交流会を開いた内容を記すものである。内容がかなり面白いのでそのまま記述する。

 

とのだの、おばあさんがこのほど区民館で、およばれ会をしました。

「いっぺん、わたしらばっかりであつまりまひょか」

「そうどすなあー。わたしら、もうこの年になったらどこへゆくたのしみもないし」

「ほんなら、わたしがとのだの役員さんにたのんでみまひょ」

とのだのおとしより会の世話役湯浅幸代さんから、でんわ、

「ああ、保健婦さんですか。まいどすみません。とのだの、おとしよりの人から、いっぺんおばあさんばかりのあつまりをしたいのでお世話になれませんやろか、といってはるのですけど……」

「そらごくろうさんです。どんなことをお手伝いさせてもろたらよろしいのでっしゃろ」

「とにかく、話をきいてほしいということで………」

「ほんなら、いっぺんおばあさんらばっかりで、かんたんにできる、ひるごはんでもつくらはったら、どうでっしゃろ……」

「ああ、そらよろしおすなあ。ほんなら、わたしはやさい料理を考えます…。ごはんの方はまかしまっせ」

ということでムードがもり上がってきました。

 みんなでつくったお料理をみんなで、たのしみながら、また湯浅さんの湯どうふは、あたりでおかわりがつづきました。

 あさ十時からひるからの五時まで、ぐるっと輪になった、おばあさんらは、みんな思い思いのことをしゃべりましたが、けっきょくおとしよりのおもいはいっしょやということがわかりました。

 たとえば、

「かなしかったら、自分の部屋でふとんをかぶって泣くしかしやない」

「お母さん、これどうしまひょときいてくれる嫁の一言がどんなにうれしいことか」

「年がいったら、おかしなものやと思うのでっせ。たべもののことですぐひがみがでるのでっせ」

「自分はもう家のこと、ようせんのにあれこれかまいたいのでっせ」

「台所は、若いもんにゆずったけど、何十年とはたらいてきた台所には、としよりでなかったら出せん味がある。これおばあちゃんがつくったんやで、と手づくりの味を家族に味わせたい」

「家族いっしょにごはんをたべて、ごっとうさん、とお茶わんふせてすぐに自分の部屋へ行くときの気持、何とも言えませんなあ」

「みんな、ほんま、ほんま、こういうとしよりの思いを、婦人会のあつまりの時にどうぞ伝えておくれやす!たのみまっせ!」

 はじめてのあつまりでしたが、みんなに一言づつ感じられたことを話してもらいました。

「こんなたのしいあつまりは今日だけでしまいにするのはおかしいし、又あつまれるようにしたい」

「いつも一人でいるので、ほんまによかった」

「今まで老人クラブであつまったけど、すみっこの方で二、三人がほそぼそしゃべっているだけでもう一つスイッとせんかった。今日は胸にあるものをみんなはき出してしもうてほんまにスイッとしました。またこの中の誰かがあつまりたいな、と思ったら二、三人でもあつまりまひょーな、その時には、たのみまっせ!」

 と世話役の湯浅さんと手伝い役の保健婦は下駄をあずけられました。

 

 この文章から感じられるのは、婦人会活動が活発化し、若い嫁たちの発言が注目される一方で、逆に老婦人方の発言がしづらい状況があったということ。またこの「およばれ会」によって老婦人個々が自分の思いを仲間と共有できる場にしたいと願っていること。そういうのが感じられる。保健婦はこれらの要望を婦人会に提案し、こうした老人たちの声を婦人会の中に進言していく役割を担っていたと考える。

 

⑯昭和48年5月1日「日吉町政だより」

 「子宮がんで死なんように 今年も検診を」という表題で、昭和44年から取り組んでいた「がん」の検診が5年目に突入し、婦人会のこの取り組みは府下でも一番の成果を上げていたという。がんの早期発見と治療を婦人会の取り組みによって行われていた。47年と48年は殿田の駅前にある「福祉センター」で「恢復者のつどい」をやり、もち米を持ち寄りながらお祝いを行うとともに、府の医師会の医師による手術後の悩みの話し合いを行うなど、術後ケアにつとめている。そうしたがん検診の取り組みで、子宮がんのことにもふれて、60代から70代で患者がいることがわかり、婦人会から患者に対して検診と治療を受けるようにとの要請をだし、積極的に検診を受ける体制を整えている。日吉町はがん検診を無料で行っていたという。

 

 「身寄りのない老人にあたたかい手 こんにちは家庭奉仕員です」という表題で、これは保健婦とは違うが、昭和48年当時に身寄りのない老人のケアのために4月から家庭奉仕員(ホームヘルパー)制度が導入されたという。この家庭奉仕員に初めて任命されたのが畑郷のI氏(当時46歳)。一週間に授与人の在宅老人を掛け持ち訪問、身の回りの世話や話し相手として活動している。この文章は老人福祉にも関係するので抜粋する。

 

 Iさんが尋ねる先は、後見人のない単身老人がほとんどで、老衰に加えて手足や目耳など不自由な人が多く、一人で生活するのにせいいっぱいの、言わばお世話をしなければならない人たちばかり。中には紙に大きな字を書いて話さなければ通じない老人もあります。
「こんにちは。どうです?」と気楽に話しかけるIさんに
「今日来てくれやはるやろか、あしたやろかと首なごうして待っていました」と嬉しそうに老人顔がほころぶ。
 話をしているうちにお年寄りの悩みも多く出てきます。
「今月はこうしていても、明日はどうなることかと、自分の身のことを思うと、夜もねられへん時があるんやで」
「おじいさん何も心配せんとき。心配は体に悪いし、まだまだ長生きしてもらわんと…。この頃はね至れり尽せりの立派な老人ホームもできているし、万一病気になっても、タダでお医者さんにみてもらえるし。何でも遠慮せずに言うてや。私に対しては『おっきに』という言葉はいらへんのやで。あたりまえのこととして、しゃべってもらえばいいの。また近くには民生委員さんもおってくれやはるし……。」といつも老人を励ますことを忘れていません。
「くしゃくしゃ思っていても、こうして岩城さんと話していると、気持ちがスィーとしてます。やっぱり話をするということはよいんやなあ。」と老人。
 Iさんの仕事も数多い。家の掃除からふとん干し、食器を洗ったりお茶を沸かしたりして共に昼食をとるかと思えばそのあと洗たくがはじまります。洗たく物が多いときは自宅に持って帰って夜洗い次の訪問日に届けることもしばしば。お医者さんの薬を届けることもあります。
 お年寄りのお世話はなかなか根気のいる仕事、でも時代の要請にこたえる大切な仕事、としてIさんは情熱をかたむけています。

―かなんことは?

 無口で話してくれない人。初めてのうちはとりつく島がありませんでした。でもこのごろはみんな慣れてよく話をしてくださるようになりました。

―うれしいことは?

 何よりも、お年寄りがよろこんでもらえる時です。

―町政に望むことは?

 やはり心配なのが、‘火の用心’です。保護費を届けても、お金の値打ち、使い方が分からない方がおられます。こういう人には、よく本人と相談の上、電気、ガス用品など家庭に便利で安全なものを品物にかえてお渡ししてはいかがでしょうか。
 こう語っているIさんのみはもう次の仕事が待ちかまえています。「もう一軒回ってこんならんし」と走って行かれるIさんの後姿は、そのまま老人の幸せにつながっているのです。

 

 当時、長寿園という老人ホームが日吉町内に出来上がっている。だけど、そこに入居できない人たちの世話をする人が必要とのことで、家庭奉仕員があると考える。活動は保健婦の訪問活動と同様で、加えて身の回りの世話、生活環境を整えてあげることを主として行っているところがある。この家庭奉仕員と保健婦との関係性はどうであったのかが気になるところ。

 

2013年6月16日日曜日

第一回アカデミックカフェ報告書

 こんばんは。久々の更新です。このところ、いろいろあって更新できずにいました。
 さて、本日のお題は、「第一回アカデミックカフェ報告書」です。本日の午後1時前後より、大阪駅構内のオープンカフェ「DEL SOLE」で行われた、私主催のアカデミックカフェの第一回目の報告です。

はじめに

 本報告は、アカデミックカフェにおける参加者の発言をもとに、そこで出された議題について検討し、次に発展させていくための報告です。

参加者

 楓瑞樹(私、山中健太)、chiyoさん、musuboreさんの三名です。お互いにTwitter上で知り合った方です。

報告書

①保健婦資料館の知名度と利用

 本日、議題に真っ先乗っかったのは「保健婦資料館について」のことでした。
 これは、私自身が所属しているところですが、まずmusuboreさんより、「保健婦資料館の知名度が低い」「利用状況はどうなのか」という指摘を受けました。それについては、確かにそのとおりで、私のように血眼になりながら保健婦資料を探している人以外は誰も知らない謎の資料館という位置付けが一番だと思います。
 というのも、保健婦資料館自体、未だに利用者が自由に利用できる環境になく、事務局に話を通して、利用の許可をもらい、日程調整をしてからしか利用ができないという、大変不便な状況にあります。ですので、musuboreさんのいう「利用状況」はほぼないに等しいのが現状です。これでは、資料館としての役割を果たしていないのではないかとご指摘を受けるのもごもっともで、資料館が資料コレクション化を優先するあまりに、その資料の利用、活用について検討が及ばず、また館の来館者に対する利用の予算的措置が図られておらず、常駐の職員や管理者がいないということが問題点です。
 さらに、広報ができておらず、館の存在自体が世間に知られていないという状態です。ただ、この件についてはmusuboreさんが「館の公開が明確になったところで、広報宣伝して、どっと人が押し寄せた時にどう対応するか」という面。これが全く検討されていないのが現実で、私自身どう広報したら館の運営を邪魔せずに、またスムーズに利用できるのかを検討していかなければいけないなと思いした。
 ともかく、この第一の問題点である「保健婦資料館の利用」については後日保健婦資料館事務局に申し入れて、検討を測っていただくようにしたいと考えております。私も何かしらの手助けができるなら、それに積極的に参加し、館の運営に携わることで、利用者のニーズにこたえられるようにしていきたいと思っています。

②保健師教育の現状

 これはmusuboreさんのお話でした。musuboreさんは、関西の大学の看護学科に通う四年生で、精神医療についてお調べになっていて、私のプロフをご覧になって「精神医療の歴史を知りたいので、是非、保健婦資料館を利用したい」とおっしゃって下さった方です。こういう利用者が増えてくれることを私は望んでいましたので嬉しい限りです。
 そこで、musuboreさん自身、看護師資格と保健師資格の両方の課程を選択なさっているとのことで、早速私から質問攻めになっていました。というのも、私自身、現在の保健師教育がどういう風になっており、その後の保健師の配属先において実際どの程度その教育が役立っているのか、保健師を目指す学生の方にお聞きしたいと思っていたからです。
 私は早速「保健師はどのような教育を受けているのか」という質問をぶつけてみました。彼は丁寧にこう答えてくれました。「保健師の教育は、座学と実習とがあり、座学では公衆衛生学を学んだり、もちろん保健師の歴史を学ぶこともあります。実習では学校、産業、役場と三方向に分かれての実習が行われており、役場(行政)での実習は必須になっています。実習期間は一か月程度、その間に役場とそのほかの学校、産業の現場に配属され、そこで実習を行います。実習先では、まずその地域を知らないといけないということで地域踏査を行い、地域の歴史や健康統計に基づく問題点を研究し、それに応じてどのようなことができるのかということを考えつつ行います」とのことでした。
 私が驚いたのは、実習に地域踏査がなされており、実際にその地域の生活を見て、そして調べるということが盛り込まれていることでした。これまで、私はどこかしら、現職の保健師らから聞く声で、地域についての情報は実際に配属された後に踏査して、それでデータを集積していくものと場あかり思っていたので、実習は役場内での事務処理やケースの家庭訪問になっているのではないかと疑っていました。ですが、彼の発言を聴いて、それは杞憂で、実地での生活面のフォローがちゃんとできていることがすごいと思いました。さすが、保健師ですね。地域をフィールドとして展開する以上、その生活を自分で見聞きすることは大変重要なことであると思いますし、それがないと地域生活での保健活動ができませんからね。
 その後も、「保健師の現状」として、「地域行政に置かれる保健師は、事業が予算に縛られることが多く、自由に家庭訪問ができる状態ではないこと」「実習で学んだり、座学で理念として知っていることが実践ではなかなかいかせきれないこと」を事細かく話していただきました。メモを取るのも忘れて話に聞き入ってしまいましたね。
 ここで、問題となったのがその「実習や座学という保健師教育が実際就職した後にできるかというとそうでもないこと」でした。これは、多くの保健師の方々が証言している通り、実際現場での働くことになると、その配属先の行政機構の中で、事業を繰り広げなくてはならず、当然それには予算がつきものであり、ケースを除いては勝手に家庭訪問をすることはおろか、事業を進めることもできないということがあります。また、年間の保健計画がなされていることもあって、そのノルマをこなすことに一生懸命であり、とてもじゃないけれど新しく事業を推進したり、全戸訪問をしたりとする時間がないことが関係していると思われます。つまり、教育で受けたものが理念としてわかっているし地域住民のための健康を守るという活動をしていかなければならないのだけど、現実それがすべてできているかというと一部にしか過ぎないこと、理念と現実とのギャップはあるということでした。
 この件については、今後私もいろんなつてを使って保健師に会い、現場の声としてどのようなことがあるのか、それを解決するにはどうすることが最善策なのかということを検討していきたいと思っています。但し、musuboreさんがおっしゃるには、こうした保健師の問題点は、単に保健師個人にあるのではなく、行政機構自体に問題があり、問題が大きすぎて扱うには一人の保健師では無理なこと、立ち向かう相手がかなり大きなものであり、それをどうするかと考えた時、どうしようもないという諦観がそこにあるのではないかということでした。つまり、問題の根っこは、かなり深く、保健師個々が声をあげても、それを動かすだけの策がとれるかというと、それはまだ未知数であり、なかなか取り組むには難しい状況であることがいえるとのことです。
 私は、保健師活動についてまだ詳しく調べているわけではなく、現状把握をするので精いっぱいではあります。とてもじゃないけど、そうした根っこの部分を一研究者が声をあげたところで、それはスローガンにのみに終始し、活動はしぼんでしまうケースが見え見えです。やはり、もう少し詳しく現場の保健師の方々の声を聴いたうえで、じゃあ具体的にどういう方向性が今問えるのかということを考えていくほかありませんね。行政を動かすというのではなく、いかにその行政の枠内で改善できるかということが重要となります。

③病と差別の歴史

 これはchiyoさんよりお話しいただいたことです。chiyoさんは、某県で部落史の編纂をなさっておられるとのこと。またご専門は中世史をなさっておられるとのことでした。部落史というのは、被差別部落だけに限らないそうですが、その中で病、特に癩病に関するお話をしてくださいました。
 近世における癩病者は、真言宗などの宗教活動の中で保護され来たとことで、密教系のルートから薬(漢方)をもらったり、祈祷による治療などが行われていたとのことです。民間信仰にはよくあることですが、そうした宗教者の中に癩病者が囲われていたという事実は大変面白かったです。
 また、chiyoさんから私にご質問をくださったのですが、近代のらい予防法、無癩県運動などによる迫害により、癩病者が療養所へ強制隔離されて行く中で、そうした光景を保健婦がどのように見ていたのかというご質問をいただきました。
 これについては、多分事業史のなかでは保健婦は従順に職務を全うし、療養所へ患者を送り届けていたという風なことが描かれるのでしょうが、実際はもっと壮絶だったようです。というのも『生活教育』の「保健婦の手記」やそのほかの手記を見る限り、保健婦はその家族の絶縁の場に立ち会ったり、患者を家族から引き離し列車に送るまでの間、自分の仕事に対して疑問をもったりしていたということが書かれています。
 ただ、その当時は、それが公衆衛生政策の一環であり、隔離することがよいことであると使命を帯びていたことから、終生隔離がなされていると知ってか知らずか、疑問に思いながらも仕事としてそれをこなしていたことが描かれています。ですので、保健婦は当然、感情のある人間でありますから、そうした絶縁の場や別れの中にある患者とその家族を全くもって何も感じずに見送っていたわけではないと考えます。ただ、何もできかなったのが保健婦たちの心に悔いを残したと思います。
 あと、これは補足ですが、戦後の沖縄県での保健婦(沖縄では公衆衛生看護婦)は、癩病者の隔離が日本本土でとられている中、療養所に送るのではなく自宅で癩病の治療を行ったり、看護をしていたといいます。つまり、全体を通じて癩病者に対する措置はそうした強制隔離だけではなく、沖縄のように治療まで行うという措置を保健婦自らが行っていたと考えていいのではないでしょうか。ただ、沖縄は特殊事例であると言えばその通りでしょうけどね。


 以上、主に保健師や保健婦の話で終わってしまって、どこかしら私のフィールドに皆さんを巻き込んでしまったみたいになってしまったのが、今回の欠点ではありました。もうすこし、幅広く皆さんのご専門の領域を活かせる話し合いができるように努力していきたいと思います。あと、①と②については今後、保健師の方々と共に解決の糸口を探しつつ保健婦資料館としてなんとか関与できるような環境を整えていきたいと思います。③については、今後の私の戦後の研究の中で、これら事業史とは別の文脈で語られる、保健婦の声の歴史をどういう風にまとめていくかを検討し、また何かの機会に学会発表を行っていきたいと思います。
 長くなりましたが、以上で報告を終えたいと思います。参加して下さったchiyoさん、musuboreさん、お付き合いいただき感謝いたします。今後も何卒よろしくお願いします。

 また、次の機会も設けますので、その時はこのブログをご覧の皆さんにも、積極的に参加いただき、意見交換や議論ができれば幸いかと思います。
 

2013年6月2日日曜日

日吉町保健婦調査報告(平成25年6月1日まで)


旧日吉町国保保健婦吉田幸永氏の保健婦活動に関する調査報告

 

【調査報告履歴】

平成25年5月20日記録(補足情報:日吉町郷土資料館協力)

平成25年5月27日記録(追加情報:保健婦資料館事務局菊地頌子氏の証言。南丹市農業改良普及センター職員の証言)

平成25年5月28日改訂

平成25年5月31日記録(京都府立図書館にて蜷川府政と壽岳章子との接点について調査)

平成25年6月1日記録(K保健婦より聞き取り調査、日吉町に於いて。日吉町郷土資料館同行)

 

【調査報告まとめ】

平成25年5月20日

「『生活教育』よりみる京都府船井郡日吉町国保保健婦 吉田幸永」

対象保健婦:吉田幸永(よしださちえ)

 大正14年生まれ。日本大学文学部卒。大阪市厚生女学院卒。昭和25年4月京都府船井郡日吉町、当時は世木村の(現南丹市日吉町)国民健康保険診療所保健婦(国保保健婦)に就任。退任歴は不明。保健婦の教育雑誌『生活教育』の「保健婦の手記」で4度の入選を果たし、手記が掲載されている。タイトルは「小さな足跡」(昭和35年)「一つの集い」(昭和37年)「保健婦十二年」(昭和38年)「合理化のしわよせの中で」(昭和40年)。

「小さな足跡」では農民のグループ活動をつくりその貯蓄精神を生かして改良便所の普及を図るものの、なかなかその普及には活かせず、集金したお金は別の目的に使われるようなってしまう。それでも、吉田氏はあきらめず、全戸の検便をして回虫の保有率を調べ、それをスライドで見せることにより啓蒙思想に努めるとともに、薬の飲み方を丁寧に教えて、改良便所の必要性を説き、見事に定着を見る。

「一つの集い」では、若妻会を通じて農村婦人の在り方について、嫁の地位向上を示すべく、中老婦人会を開き、彼らと集まりを持つ中で嫁の地位について育児の方面から触れて、その結果、姑の嫁への理解を得ることになったのだが、その一方で、老人たちの楽しみである「孫の面倒」をその手から取り上げてしまったことに対して、吉田氏は苦悩する。

「保健婦十二年」では、昭和25年から37年に至る12年を振り返って、その反省を三つの事例から紹介している。一つ目はジフテリアの子どもを救った経験。昭和25年当時日吉町(旧世木(せぎ)村)の医療機関は、村医として一人の医師がいたが、昼間は郡の病院勤めで、夜間町に駐在するということで、昼間の対応のほとんどが保健婦に頼らざるを得ない状況が多かった。急病人が出ても対応ができず、死なせてしまうことも多かった。そのなかでの経験に、ジフテリア感染症の子どもが出てきて、雪の中様子を見るために向かうのだが、医療行為を禁止されている身である保健婦にはどうしようもなく、そこで医師に連絡を取り、すぐに医師に診てもらうようにするが、医師もジフテリアの子どもの診察には限界を示し、郡の病院へ搬送することと、強心剤の注射をするようにとの指示を下す。そのため、吉田氏は子どもの父親とともに朝早くから家を出て、もちろん子どもの心臓に負担にならぬよう細心の注意を払いながら汽車に乗って病院を訪れ、医師に対応してもらうという措置を取った。このことにより、その子どもの命は取り留めた。この子どもが中学生になって元気でいてくれている姿を見るとホッとするという。次の事例では、役場から離れたところに暮らす吉田保健婦のもとに直々に助けをこうもので、子どもがひきつけを起こしたから診に来てくれという。ところが、その家に着くやその子どもの体温は42度を超えており、浣腸を繰り返すも便が出ず、そのまま息を引き取ってしまうという事態に陥った。吉田氏はその前の日から子どもが「ぽんぽんいたい」と言っていたのを、気にせずにいた無知な親たちに腹を立てるとともに、医療の手が及ばない山村地域にあって、疫痢に対応ができない自分のふがいなさに反省を込めている。さらにその次の事例では、農閑期での家族計画実施に触れるとともに、実際にお産に立ち会った際のことを述べている。骨盤位分娩の経験。逆子のために窒息して仮死状態で生まれた胎児を生き返らせるために必死になって取り組むその姿が描かれている。しかしながらこうしたお産に携わる時の緊張感はかなりの精神的な負担を要し、お産を終えて役場に着いて記録を付けるときの手の震えがあったと述べている。

「合理化のしわよせの中で」では、これまでの保健婦と農民とのかかわりではなく、保健婦と行政とのかかわり、特に待遇面に対しての措置が、役場機構の合理化により、保健婦削減という形で出たことに対して抗議するものであった。抗議は保健婦の定数減らして、一名を学校養護教諭にするというものであったが、定数削減によって生じる住民サービスの充実化が図れないとして吉田氏は町長を相手に、組合に頼み込みそれで助けをこうという姿勢で保健婦の地位向上を目指すべく努力する。その姿は、これまでの地域での活動を見てきた農民らの支持をうけ、且つ組合も町長の合理化に対して抗議を発するとともに、これにてその定数削減をなくすことに勝利する。

以上が、現時点における『生活教育』の「保健婦の手記」に描かれた彼女の活動である。ここから読み取れるのは、単に衛生のためとして働いた足跡というよりも、村人ともにあり、その信頼を勝ち取っていった彼女の足跡を記すものであると考える。また、そこに描かれる農山村の現実、医療機関の不足、衛生面での無知、育児面に残る封建遺制とそれを取り除くことによって生じる新たな問題といったものを描き出している。これらの様子は、保健婦側からしか見られない現実ではないのかと考える。

 

平成25年5月26日

「保健婦資料館事務局菊地頌子氏の証言から得られた吉田幸永氏の印象とその背景にあったもの」

 吉田幸永保健婦は、昭和30年代当時、「地域のために」と様々な取り組みを精力的に行っている半面で、昭和40年代に入って生活改良普及員田中友子氏(昭和53年に船井郡園部にあった生活改良普及所を退職)より、「その手法では民主的ではない。(上から押しつけの)官僚主義になっている」として批判を浴び、地域での保健婦活動の在り方を問われるようになったという。

 当時京都府は蜷川虎三知事による、住民自治と憲法に沿った保健活動の強化を受けて、地域での社会教育の実現などに力を注いでおり、その中で民主化政策として農業改良普及員らを配置していたきらいがある。田中氏はそうした社会教育の活発な活動の中に身を置きつつ、住民の主体性を育てる中における保健婦の在り方を問うていたのではないかと推測される。また、こうした社会教育の背景には壽岳章子氏らの婦人運動指導者の影響も見られ、そうした時代背景と周囲の環境が吉田保健婦の人格に影響を及ぼしていたことが分かった。

 

平成25年5月28日

「蜷川知事とろばた懇談会、壽岳章子と婦人運動と憲法」

 昭和35年代頃から活発化する、蜷川知事府政下の地方自治。それを押し出すようにして行われるろばた懇談会。吉田幸永保健婦が丸岡秀子氏の追悼記として出版した『わたしの結縁帳』の中で、昭和35年頃から活発化した京都府下のろばた懇談会なるものを取り上げている。また、この懇談会に吉田氏自身が出席し、婦人の発言力のあり方について職員から問われたところ、「生活改善グループ活動の発展」を挙げている。

 壽岳章子氏との接触についてはわからないものの、壽岳氏が部落解放の中で婦人運動を展開することを京都府下で行っており、それに憲法のあり方、人権のあり方を問うていることから、これが日吉町においても同様にして行われていた可能性が高い。吉田保健婦の思想的バックボーンの一つに壽岳章子氏がいてもおかしくはない。

 

平成25年5月31日

「蜷川府政下の社会教育としてのろばた懇談会」

 吉田保健婦が出席した「ろばた懇談会」は、昭和35年から始まる京都府教育委員会が提唱した社会教育活動を推進するための一事業であり、住民の行政への参画を促すとともに、住民の声を府政に活かすための教育活動の一環として行われたようである。津高正文氏ら編『地域づくりと社会教育―京都「ろばた懇談会」に学ぶ―』(総合労働研究所 1980)の目次を見ると、女性運動家の壽岳章子氏が執筆している章があり、「婦人にとってのろばた懇」とのタイトルで、生活改善グループ活動について触れており、吉田氏の活動にも影響を与えていたと思われる。日吉町の住民である佐々江周子氏の手記も掲載されている。

 未だ資料すべてに目を通していないので、今後ろばた懇談会の社会教育の流れと保健婦活動についても検討していかなければならない。

 

平成25年6月1日

「吉田幸永保健婦の後輩であるK保健婦(大正15年生まれ)の証言」

 北川和歌子氏は吉田幸永氏と同郷であり、吉田氏とは青年学校(女性は裁縫を、男性は農業を学んでいた)で一緒で、その頃の吉田氏は裁縫が上手で、いろいろ面倒を見てくれて面白い人だったという。自分のことを「たぬきのたーちゃん」(よく人を化かして、誤魔化したりとかしていたから)といっていた。青年学校は3年間で、吉田氏はK氏の一個上であり、昭和18年に青年学校を卒業していた。K氏は翌年に卒業し、京都の看護婦学校と助産婦学校を経て、昭和27年に京都府の保健婦養成所を卒業した。保健婦養成所での訓練期間は6ヶ月程度で、その時保健婦が京都府内で不足ていることもあって、すぐに旧S村(Y町)で国保保健婦として働くこととなった。その後昭和30年に世木村など三か村が合併して日吉町になったころ、そこの国保保健婦として役場から通知が来て転属となった。その時に、吉田保健婦が旧世木村と旧五ヶ荘村で活躍していたこともあって、そこで再開を果たし、その後は受け持ち地区(吉田氏が五個荘地区と世木地区の半分を、K氏が畑郷地区と世木地区を半分担当していた)をそれぞれ持ちつつ、協力して保健婦活動にあたった。
 その頃は、国保保健婦と保健所保健婦がいて、国保保健婦は吉田氏とK氏の二人で、保健所保健婦が何名かいた。月に一度研修会が開かれて、学習をしていたという。保健婦の活動としては、乳幼児健診や回虫駆除、生活改善などの活動を主にしていた。特に村の回虫率がひどく、それは水道が引かれていないがために起こったことだとして、吉田氏は役場と掛け合い水道を引くようにしたという。生活改善では、婦人会の集まりに度々出席し、その中で栄養料理講習会を栄養士の指導のもと行い、高血圧症患者(冬場の積雪が多い地域であるために保存食として塩で保存した鰯や漬物類がどこの家にも常備されており、それが食べられていたことによる)が多かったことから塩分を控えめにした食事内容に切り替える運動を行っていた。その後、この活動は生活改良普及員の田中友子氏が昭和30年代以降に関わるようになってから生活改善グループを結成し、活発化するようになった。当時の吉田氏は気の強い人で、青年学校にいた頃とは違った様子だったという。もしかすると大阪にいた頃にいろいろと指導があったのかもしれない。また、田中友子氏との付き合いの中でそれが変化していったことも事実という。吉田保健婦の活動は村人の中にも広がり、赤ん坊の検診の折には母親らは野良仕事を休むべきだとし、老人らには検診日は野良仕事を休みなさいと指示を出し、そのため野良休みが設けられることが多くなった。村人は助かったという。(舅や姑らがこれをどう見ていたのかはわからない)
 また、吉田氏は藤岡医師とマンガン鉱山のじん肺の問題に取り組み、よく活動をしていたという。K氏自身がこれに関わっていたわけではない。受け持ち地区が違ったので。
 K氏は昭和30年から昭和55年まで日吉町の国保保健婦として活躍したが、その後はしばらくの間、後輩の保健婦を助けて昭和60年まで働いていた。K氏の話の中で、母親が死にその胎児も「死ぬ」と宣告されて、寒空の下ベビーカーに入れられていた胎児を保育器へ入れてくれといい、自分の子供として育てようとした話は感動的であった。
 
【調査を終えての雑感】
 この調査を終えて、吉田保健婦ならびにK保健婦の活動が、さらに広い視野でみるべきであることを痛感した。これまで吉田保健婦に依拠し、吉田保健婦側からの活動でしか保健婦活動を見ていなかったことを反省しつつ、K保健婦という後輩の活動も含めて今後記していく必要性があるのではないか。また、K氏と吉田氏の関係性もそうだが、住民とどういう風に繋がっていたのかという部分について聞き取りができればと今後の調査方向性について、再考し今一度保健婦と住民との繋がりを基軸にしながら進めていきたい。
 
 
 
一部個人名は本人の了承を得ていないため、伏せさせていただきました。


訂正しました。