はじめに―地域を表すということ―
(1)事例を扱うにあたってのこの建前
ここの所、京都府の事例をTwitterを通じて話してはいたけれど、こうしたまとめようとはあまりしてこなかったことが悔やまれますね。
発表も近づいてきましたし、ある程度の目途を付けておかないといけないので、それなりに今知りえる事例概要を整理しておこうかと思います。
以前より述べてきたのは、事例というよりも保健婦の手記の内実であったり、吉田幸永保健婦自身のことであったりとしたわけですが、ただ、こうした事例の集積にはある程度のシナリオがないといけないわけで、いわゆる仮説というやつです。私はそれについてあまりこれまで触れてきませんでした。とにかく、事例を出してそれで満足していた点がありますね。
今回はそうした反省点に立って、少し研究の全体像を俯瞰しながら記述をしてみたいと思います。つまりこれからお話する内容は、私の研究の大きな潮流といいますか、保健婦の手記と農婦の手記を繋ぎとめる大事な楔ともいえるようなものです。
とまぁ、大言しましたが、別に何かすごく目新しいことを言うのではなくて、私の取り扱おうとしている事例、京都府船井郡日吉町(現南丹市)という地域概要と社会状況、さらにそこに定着した保健活動の大まかな概要についてまとめておこうという魂胆です。
なぜこれが潮流となるのか仮説となりえるのかというですが、まず一つ一つ説明していきましょう。潮流となるというのは言葉のままで、地域事例を見ていくにあたってその地域がどういう状況に投じ置かれていたのかということを把握するためです。また、仮説となるという言葉を使ったのは、今回の研究の内容が「生活変化というものが単に物質変化ではなく、人間関係性のもとで成立していきえたこと」を証明することが前提であり、その人の動きというのが大きな存在となってきます。その時に物質の潮流を見るよりももっと身近に、地域の政治的な動きがどのようにありえたのか、その中で生活はどう把握するべきなのかを漠然としながらでも把握する必要性があるからです。
そういう理由から、今回は「京都府船井郡日吉町の村政状況と保健婦活動」ということをまず説明させていただこうかと思うわけです。
(2)事例を扱うにあたってのこの本音
但し、私はこれに一つ不安を持っています。Twitterでも何度かつぶやきましたが、私が題材に選んだ「手記」というものはおよそ地域全体を把握するために必要なものではなく、もっと小さな単位、各家庭とか個人に対する描写が先行しており、実のところこの手記の内容から地域の動向を把握することはほぼ不可能といっていいと思います。内容もそうですし、書き手というバイアスのことを考えると、それは「つくられたもの」であり、そこに地域という枠組みを並べてしまうのは危険を伴います。
何が言いたいかというと、「手記」というものは地域を抑えるものではなく、あくまで個人を抑えたり、その家庭を抑えたりするものであることが前提となり、京都府船井郡日吉町という大きな集まりの中を代表するものではないということです。私が常々やりたいと思っていたことは、実は地域性というものを把握するときに捨象される、こうした個人の生活の具体性の把握というものでありまして、地域概要を把握することに主眼を置いているわけではないのです。とすれば、今回の内容は本当なら把握しなくてもいいことかもしれません。それこそ手記に描かれる各個人の動きを把握していればいいことですから。ですが、そうした場合、地域という大きな枠、大きな潮流の中でその家庭の生活変化が表す意味合いというものはどうであったのかということは、地域概要抜きに語ることはできません。そのための布石としての今回の概要提示といっていいと思います。何度も言いますが、私がやりたいのは地域性を把握するというよりも、具体性の把握です。淘汰された普遍性の中での生活ではなく、生々しい生活実態のそれであることは念頭に置いてほしいのです。
地域概要―京都府船井郡日吉町―
(1)地理的把握としての地域
さて船井郡日吉町というのはそもそもどこにあるかという平凡な問題点から提示していきましょうか。船井郡は京都市から見て北東、京都府全体から見れば丹波山地の東南部に位置しております。日吉町は京都駅からJR山陰線で1時間弱ぐらいのところにある地域です。町域の南部を大堰川が西に流れ、町の中心部で旧日吉町役場が置かれていた殿田付近にて、町域を枝状に貫流する4支流をあわせるほか、胡麻郷地区を分水界を境にして由良川の1支谷を町域に含みます。集落はこの河川域に作られた狭長な谷底平地に立地しています。現在は南丹市(平成18年に園部町、八木町、北桑田郡美山町と合併)という行政域に含まれますが、それ以前は日吉町(昭和30年に合併)、またそれ以前は胡麻郷村、五箇荘村、世木村の三か村からなっていました。あとで話します、吉田幸永保健婦が保健婦として赴任した折は、昭和25年でまだ三か村が維持されていた折で、彼女は世木村の出身であったことから、世木村の保健婦として赴任することになります。その後昭和30年に日吉町に合併しました。但し、この村については藩政村の時から維持されてきた繋がりが維持されており、三か村が合併したときでも、この村域の表すものはおおきなものであったと考えられます。もっとも、殿田を含む世木村は大堰川での筏流しの木材搬出口としての栄えていたことから、他の二か村と比べて経済的に裕福な村であったと言えます。地域をまるごと説明しようとするとかなり時間がかかるので藩政村の仕組みそのほかについては、ここでは述べません。論文や報告や発表でもそこまでは踏み込もうとは思いませんが、いずれにせよ、旧三か村は生業的にも異なる発展を遂げていること、さらに河川運搬による清流を見せる地域とそうでない地域とに経済的差が生じていたことは地理的状況から推察することができますゆえ、ここでは言葉に落としておきます。
(2)生活環境と生業形態
資料によれば、昭和45年の人口は7040人で、その後年前の昭和40年に比べて5%あまり減少しているといいます。つまり過疎地域であります。現在の人口は平成17年の調査で5951人(2029世帯)となってます。つまり昭和40年代の過疎化進行を皮切りに、ずっと人口が下回っているということが減少として起きているのです。また、これに付随して高齢化問題も上がっており、一人暮らしの独居老人が増えているように思います。
ただ、唯一救いなのがこの地域は京都市内からの通勤に便利なことから、ここに家を建ててそこから市内へ通勤へ向かう人通学へ向かう学生が多く住んでいるということが挙げられます。殿田とかは特にその点において交通の要所でありますから、山陰線の駅周辺部は栄えており人口もそこに集中しています。
さて、話は昭和30年代ごろの話に戻ってしまいますが、当時の生活環境はどういうような状態であったかというと、上下水道の整備が始まったのが昭和30年代半ばに入ってからであり、それまでは近くの川に水汲みに行くか、雨水をためるか、または井戸があればそれで対応してる状況でした。つまり衛生状況としてもあまりいい状態であったとはいえません。
生業は主に農林業が中心となっています。世木村については殿田を中心に大堰川の筏流しで栄えており、山から切り出した木材を集積する拠点ともなっていました。山陰線が開通後は、その路線沿いに材木置き場が置かれて、そこへ木材業者が集まっていたといいます。大正2年の「産業現況」をみると、農作物でも林産物でも世木村が一位となっており、続いて胡麻郷村、五箇荘村となっています。五箇荘村については、山深いところもあってか、田畑での農耕が思うように収益を持てないこと、さらに林業においても交通の不便さから、木材運搬にコストがかかり、林産物の収益もあまり見込めない土地であったことがわかっています。それが昭和30年代に入り、燃料革命によって薪などの需要が減っていくとで同時に、この林業も衰退していったとされます。割木産業から像林業へとの転換もされていましたが、昭和45年時には林業収益を得て家計の助けになっている家が14世帯余りしかなく、また農業に至っては純農業で収益を立てているのが68%、兼業農業が94%に及び、燃料革命後から次第に京都市内へ職を見つけていくような状況になっていました。
つまり昭和30年代当時の日吉町を取り巻く状況としては、林業が衰退し農業での収益も見込めないことから、人口動態的に京都市へと人が流れ出している状態があったということです。
2013年9月1日日曜日
2013年8月31日土曜日
発表に向けて整理中
もう八月も終わり。再来月の日本民俗学会の年会が迫ってきたので、本腰挙げて研究に取り組まねばと思う限りです。
発表要旨はあとで提示しますね。前に提示したのから少し整理したものですが、まぁ大筋は変わっていません。
私が挑むのは、民俗学の生活変化の描き方が、物流や経済、社会状況を盾として変化を語ることに傾倒し、具体的な生活に負える人間的な動きとしてのそれを見ていないことです。
簡単に言えば上記のようなことなのですが、これを覆すにはそれなりに分析方法の変更や、地域視座と個人視座の交差点などかなり深いところまで突っ込まなくはいけません。ですが、そこまでの時間は発表では使えないので、とりあえず、上記のような「物流や経済、社会状況の変化=生活変化」という枠組みを見直すことから始めたいのです。
その事例には保健婦の手記と農婦の生活記録(手記)を用いて論じようと思います。生活を変えようとしたほけ婦側の主張と、それを受けて取り入れようとした住民側の主張、関係性の在り方を描いてみようと思います。まだまだ、分析が進んでおらず、また手記という媒体を扱うにあたっての諸注意などの懸念事項はいろいろあるのですが、それについては今後の研究において当たっていくとして、今回は純粋に、手記の内容分析、手記同士の接合点について考えながら、変化の受容を解き明かすということにしたいと思います。
発表要旨はあとで提示しますね。前に提示したのから少し整理したものですが、まぁ大筋は変わっていません。
私が挑むのは、民俗学の生活変化の描き方が、物流や経済、社会状況を盾として変化を語ることに傾倒し、具体的な生活に負える人間的な動きとしてのそれを見ていないことです。
簡単に言えば上記のようなことなのですが、これを覆すにはそれなりに分析方法の変更や、地域視座と個人視座の交差点などかなり深いところまで突っ込まなくはいけません。ですが、そこまでの時間は発表では使えないので、とりあえず、上記のような「物流や経済、社会状況の変化=生活変化」という枠組みを見直すことから始めたいのです。
その事例には保健婦の手記と農婦の生活記録(手記)を用いて論じようと思います。生活を変えようとしたほけ婦側の主張と、それを受けて取り入れようとした住民側の主張、関係性の在り方を描いてみようと思います。まだまだ、分析が進んでおらず、また手記という媒体を扱うにあたっての諸注意などの懸念事項はいろいろあるのですが、それについては今後の研究において当たっていくとして、今回は純粋に、手記の内容分析、手記同士の接合点について考えながら、変化の受容を解き明かすということにしたいと思います。
2013年8月4日日曜日
発表要旨できました。
こんにちは。先だって、報告していた日本民俗学会第65回年会発表の要旨ですが、あれを少しいじって、本日年会事務局へ送付しました。
何とか間に合いました。しかしながら、本当ならもっと具体例としての活動、特に現在聴ける活動に焦点を当てて発表したいとも思っていたのですが、まだそれを整理するだけの余裕がないのと、なかなか公表には結びつけられないのがあり、今回はそれを断念し、「保健婦の手記」をベースとした発表にしようと考えています。
発表要旨を読んでくださった方はご理解いただけているかと思いますが、私の研究のスタンスで一番重要なのは生活の変化というものに対する人々の反応と受容がどうであったかです。
保健婦を事例に出しているのは、また違った理由もあるのですが、保健婦の活動が生活に密着し、そこから得られる多様な情報から、生活変化の在り方を考察していくことができないかと思ったからです。
ただ、保健婦の手記ばかりを見ているわけではありません。受ける側、農民の手記にも触れておく必要性があります。受け手がどうであったのか、生活に密着すればするほど、やはり摩擦もあったりして、保健婦側との折衝がでてくるものがありますゆえ、こうした場面をどうクリアにしていったのかという部分にこそ、変化の需要の在り方が垣間見えると思うのです。
民俗学でこうしたことに対してはあまり研究がなく、事例をどう扱っていいのか、例外の範疇に当たるものと思われますが、説明を丁寧にして、なんとかそこら辺の民俗学としてこれを扱うに当たってのことは明確にしておく必要性があると思います。それについては、また発表の時に時間があれば、述べることにしておきましょう。
何とか間に合いました。しかしながら、本当ならもっと具体例としての活動、特に現在聴ける活動に焦点を当てて発表したいとも思っていたのですが、まだそれを整理するだけの余裕がないのと、なかなか公表には結びつけられないのがあり、今回はそれを断念し、「保健婦の手記」をベースとした発表にしようと考えています。
発表要旨を読んでくださった方はご理解いただけているかと思いますが、私の研究のスタンスで一番重要なのは生活の変化というものに対する人々の反応と受容がどうであったかです。
保健婦を事例に出しているのは、また違った理由もあるのですが、保健婦の活動が生活に密着し、そこから得られる多様な情報から、生活変化の在り方を考察していくことができないかと思ったからです。
ただ、保健婦の手記ばかりを見ているわけではありません。受ける側、農民の手記にも触れておく必要性があります。受け手がどうであったのか、生活に密着すればするほど、やはり摩擦もあったりして、保健婦側との折衝がでてくるものがありますゆえ、こうした場面をどうクリアにしていったのかという部分にこそ、変化の需要の在り方が垣間見えると思うのです。
民俗学でこうしたことに対してはあまり研究がなく、事例をどう扱っていいのか、例外の範疇に当たるものと思われますが、説明を丁寧にして、なんとかそこら辺の民俗学としてこれを扱うに当たってのことは明確にしておく必要性があると思います。それについては、また発表の時に時間があれば、述べることにしておきましょう。
2013年8月2日金曜日
発表要旨の案。
手記にみる日常生活
―保健婦と農婦が綴る生活変化の断面―
京都府南丹市日吉町(旧船井郡日吉町)、昭和30年代から50年代にかけてここで活躍した保健婦、故吉田幸永氏の手記が『生活教育』という雑誌の中に多く掲載されている。そこに描かれているのが、戦後の日吉町の生活変化の中における人々の日常である。
本発表は、吉田幸永保健婦が残した数々の記録と、また彼女の影響を多々受けた人々によって編まれた生活記録を紐解くことによって、保健婦が地域に与えた影響と、地域が保健婦に与えた影響、さらに地域生活の変化においてそれがどのように作用していったのかということを民俗学的に考察するものである。
民俗学では、生活変化についての指標として、物質変化や経済変化を第一に考え、その中で生活の様相を語ろうとする。耐久消費財や電化製品の物流、経済発展による生活基盤の安定が変化の要因とするところが大きい。しかし、そうした物質や経済の変化は、具体的にどういう過程を経て生活の中に根差したものであったのだろうか。結果的に物質などによって変化が起きることはわかる。しかし生活の変化がそう単純なものではない。台所を変えるにしても、それは経済的なものもあれど、この問題は家、家族、村などの様々なしがらみの中を潜り抜けて段階的に成り立っている。そうした段階を無視してはいけないのではないだろうか。
その段階の中にどのようなものが見いだせるのかをここでは、ある一人の保健婦と彼女を取り巻く農婦たちの記録から追ってみたい。保健婦を選んだのは、保健婦の活動というのが人間の身体に直接影響を与えているということ。それは衛生というだけではなく、もっと深く生活基盤にまで踏み込んだ内容であったことが一番の理由である。人々はどういう風にこれをとらえていたのか、またそれを取り入れようとしたときにどんな対応を取ったのだろうか。
吉田幸永保健婦は、旧日吉町で多くの生活者を相手に、家庭訪問やグループ活動、講習会などといった保健婦活動をしながら、様々な角度でアプローチを試みた。農婦らとの関わりも深く、それによって生活指導に明け暮れる日々を過ごしていた。ところが、農婦らはその指導に対して思うことがあり、様々な対立を見せていく、その中で保健婦の心情的変化もみられ、活動に取り込まれていく。そうした保健婦と農婦たちの関係性から見えてくる、生活変化への対応と受容、そうした変化の結果ではなく過程、これを明らかにし、新しい生活への視座を民俗学的に考えてみたいと思う。
2013年8月1日木曜日
受け入れると言うこと
ここのところ、無駄に時間を過ごしているような感じがして心苦しい限りです。ですが、全く何も考えずにいるわけではなく、あれやこれやと考えたりすることが多々あります。
その中に、研究のことで、いや、研究というか人間の生活の営みのことで、いろいろと考えてみるのです。
具体的にいうと所謂変化とか言うものは、「受け入れる、受け入れない」いずれにせよ「考えること判断すること」がそこにはあり、その手順をなしに変化は語れないと思うのです。
前々から述べてきていることですが、私たちはどこか変化をその結果で評価し、それでもって変わったことを前提で話す節があります。ところが、変化の断面を観察していくと、そうした変化を受容するためのステップがあるのだと私は思います。
2013年7月22日月曜日
農民にとっての生活の変化ってなんだったのか
このところ、よく農村の手記を読むようになっています。保健関係はもちろんのこと、もっと幅広く、の農村の日常生活に関する手記の類です。
手記といってもいっぱいあるかと思いますが、私が手記と申しているのは、生活綴り方運動によって社会教育として派生した自分を見つめなおす意味での手記です。
こうした手記は、資料としての妥当性を得ているか、客観性があるかといえば、それは書いた本人にのみ許される客観性であり、我々外部者がそこに抱くのは主観の塊といえましょう。
ですが、ある意味、農村社会に関する農民の率直な意見を並べたてたものであるとも考えます。なので、私はその意味でもこの手記の存在をちゃんと把握したいと思っております。
そうした手記によく農地解放、農地改革前後の農業の在り方について触れる記事があり、それを見るたびに思うことなのですが、歴史上、農地解放後、農地は地主から小作人にそれぞれ分配され、自作農として独立しえたという風に描かれていますが、果たして「独立しえた」といえるのかというと、それは複雑な人間関係から解き放たれない現実もあるというのを手記からうかがえます。
ほかにも、生活改善のことで、こんな記事もありました。ある農婦の話で、村で生活改善が行われるに当たりその役に当たったというのですが、どうもその役が重荷になっているというのです。その理由として、生活改善が派手な結婚式をやめようという動きに対して、せっかくの末娘の晴れの日、ちゃんと祝ってやりたいという親心がせめぎあい、またそれに加えて世間体の問題もあってか役にはなったからにはしなければならないが、体裁のことを考え長持ちとかを持たすとかはしないものの、あとで家具屋から立派な本棚を花嫁道具として別に嫁ぎ先へ送ってやるというのです。この記事から読み取れるのは、農民の生活改善という変化に対しての対応の在り方です。
で、これをどう読むかですが、多分これまでの生活改善研究の研究者が読むなら、「それは農民の見栄」の表れだとして農民の対応を糾弾し、それこそ生活改善の妨げであったというようになるでしょう。ですが、私はこう読み取ります。貧しい農家において、結婚という晴れの日に持たせてやれるものは持たせてやりたい、そういう心があって当然であり、親心として理解してあげなければいけない。生活改善を受け入れるという段階にあって、そうした葛藤をちゃんと表現することが重要であり、単にこれを「虚栄心」の表れという風に片づけていいものではないと思うのです。
いずれの事例も、農村の手記ならではのもので、実はこれと同じく見ている保健婦の手記はまた違った様相を照らしています。というのもこの場合、保健婦は「施す側」としてそれを見ているのですから、その対応は明確です。上記の生活改善に絡んでいえば、「農民の生活は不衛生で不合理」という言葉をまず用いることから始まり、それを「改める必要性」を強調します。つまり、保健婦の手記は、農村の手記にはない「権力」としてのそれとして映る場合もあるのです。実のところ、農民は、別に不衛生で不合理なままの生活をよしとしているわけではありません。自分たちも変えようと努力はしています。ところが、それを阻む何かがあるのです。その何かを見つめる視点が、農村の手記には色濃くあります。たとえば、家父長制に代表されるような序列、村の中での封建的対応、男尊女卑、富農と貧農などなどそれぞれにおいて文脈が異なるものの、これが摩擦になって進められない現実があるのだと思います。
私は、こうした現実があることを民俗学に分かってほしいと思っているのです。実は、民俗学での生活変化の表現は独特で、ものの変化と精神の変化と区別して、それでもって時代変遷の中にそれらを並べておきます。例えば、ものの変化で言えばテレビの導入時期は何年で、それ以降は情報が入っているだろうから云々、という風につまりテレビの導入という契機を持って生活をはかるのですが、これって、ものが入ったら情報が入るという風に思っていませんかね。まぁ、情報の種類もたくさんあるので、この場合視覚的情報としましょうか。で、そうした視覚的情報が得られると生活はすぐに変化するものなのでしょうか。私はそこに疑問を持ちます。民俗学ではものが導入された=変化の去来として述べていますが、これ自体おかしな話で、まずどういう段階を踏んでそれが導入されるのかを詳しく述べるべきであり、その段階にはどういった障害があるのかということをつぶさに見ていく必要性があるにもかかわらず、それをすっ飛ばしてみていてはいけないと思うのです。何事も手順が必要です。また変化を受け入れないという選択肢もあることを忘れてはいけません。
依然話したかもしれませんが、テレビが無用の長物となり置物としてあり、その家の経済を逼迫する病巣として象徴されるケースも無きにしも非ずです。この場合、テレビを購入しないことには村の生活水準に自分が遅れると思い、無理をして購入した結果、それを支払った金のやりくりに迷い借金をしたがために日々の生活が破たんしていってしまうというものもあります。だから、テレビが導入されることが必ずしも視覚的情報をえるばかりではないこと、テレビを契機に生活が破たんしてしまうこともあること、世間体という壁が立ちはだかるということ、それも含めて生活を見なければ、それこそ生活を見たとはいえません。
私が民俗学に望むのはただ一つ「変化というものはなんだったのかという分析」それだけです。
手記といってもいっぱいあるかと思いますが、私が手記と申しているのは、生活綴り方運動によって社会教育として派生した自分を見つめなおす意味での手記です。
こうした手記は、資料としての妥当性を得ているか、客観性があるかといえば、それは書いた本人にのみ許される客観性であり、我々外部者がそこに抱くのは主観の塊といえましょう。
ですが、ある意味、農村社会に関する農民の率直な意見を並べたてたものであるとも考えます。なので、私はその意味でもこの手記の存在をちゃんと把握したいと思っております。
そうした手記によく農地解放、農地改革前後の農業の在り方について触れる記事があり、それを見るたびに思うことなのですが、歴史上、農地解放後、農地は地主から小作人にそれぞれ分配され、自作農として独立しえたという風に描かれていますが、果たして「独立しえた」といえるのかというと、それは複雑な人間関係から解き放たれない現実もあるというのを手記からうかがえます。
ほかにも、生活改善のことで、こんな記事もありました。ある農婦の話で、村で生活改善が行われるに当たりその役に当たったというのですが、どうもその役が重荷になっているというのです。その理由として、生活改善が派手な結婚式をやめようという動きに対して、せっかくの末娘の晴れの日、ちゃんと祝ってやりたいという親心がせめぎあい、またそれに加えて世間体の問題もあってか役にはなったからにはしなければならないが、体裁のことを考え長持ちとかを持たすとかはしないものの、あとで家具屋から立派な本棚を花嫁道具として別に嫁ぎ先へ送ってやるというのです。この記事から読み取れるのは、農民の生活改善という変化に対しての対応の在り方です。
で、これをどう読むかですが、多分これまでの生活改善研究の研究者が読むなら、「それは農民の見栄」の表れだとして農民の対応を糾弾し、それこそ生活改善の妨げであったというようになるでしょう。ですが、私はこう読み取ります。貧しい農家において、結婚という晴れの日に持たせてやれるものは持たせてやりたい、そういう心があって当然であり、親心として理解してあげなければいけない。生活改善を受け入れるという段階にあって、そうした葛藤をちゃんと表現することが重要であり、単にこれを「虚栄心」の表れという風に片づけていいものではないと思うのです。
いずれの事例も、農村の手記ならではのもので、実はこれと同じく見ている保健婦の手記はまた違った様相を照らしています。というのもこの場合、保健婦は「施す側」としてそれを見ているのですから、その対応は明確です。上記の生活改善に絡んでいえば、「農民の生活は不衛生で不合理」という言葉をまず用いることから始まり、それを「改める必要性」を強調します。つまり、保健婦の手記は、農村の手記にはない「権力」としてのそれとして映る場合もあるのです。実のところ、農民は、別に不衛生で不合理なままの生活をよしとしているわけではありません。自分たちも変えようと努力はしています。ところが、それを阻む何かがあるのです。その何かを見つめる視点が、農村の手記には色濃くあります。たとえば、家父長制に代表されるような序列、村の中での封建的対応、男尊女卑、富農と貧農などなどそれぞれにおいて文脈が異なるものの、これが摩擦になって進められない現実があるのだと思います。
私は、こうした現実があることを民俗学に分かってほしいと思っているのです。実は、民俗学での生活変化の表現は独特で、ものの変化と精神の変化と区別して、それでもって時代変遷の中にそれらを並べておきます。例えば、ものの変化で言えばテレビの導入時期は何年で、それ以降は情報が入っているだろうから云々、という風につまりテレビの導入という契機を持って生活をはかるのですが、これって、ものが入ったら情報が入るという風に思っていませんかね。まぁ、情報の種類もたくさんあるので、この場合視覚的情報としましょうか。で、そうした視覚的情報が得られると生活はすぐに変化するものなのでしょうか。私はそこに疑問を持ちます。民俗学ではものが導入された=変化の去来として述べていますが、これ自体おかしな話で、まずどういう段階を踏んでそれが導入されるのかを詳しく述べるべきであり、その段階にはどういった障害があるのかということをつぶさに見ていく必要性があるにもかかわらず、それをすっ飛ばしてみていてはいけないと思うのです。何事も手順が必要です。また変化を受け入れないという選択肢もあることを忘れてはいけません。
依然話したかもしれませんが、テレビが無用の長物となり置物としてあり、その家の経済を逼迫する病巣として象徴されるケースも無きにしも非ずです。この場合、テレビを購入しないことには村の生活水準に自分が遅れると思い、無理をして購入した結果、それを支払った金のやりくりに迷い借金をしたがために日々の生活が破たんしていってしまうというものもあります。だから、テレビが導入されることが必ずしも視覚的情報をえるばかりではないこと、テレビを契機に生活が破たんしてしまうこともあること、世間体という壁が立ちはだかるということ、それも含めて生活を見なければ、それこそ生活を見たとはいえません。
私が民俗学に望むのはただ一つ「変化というものはなんだったのかという分析」それだけです。
2013年7月21日日曜日
お詫び
こんばんは。
皆さんにお詫び申し上げないといけないことがございます。
私はこれまで「保健師のための民俗学的試論」でこのブログを運営してきましたが、実のところそれが過去の保健婦の経験をもとに現在の保健師に対して批判的に、そして無理難題を含んでいたこと、つまるところ「保健師のために」としておきながら、安易な批判的文章に成り下がっていたことを反省しないといけません。
ですので、タイトルから「保健師のための」という題目は消させていただきました。この言葉を語るには私は保健師の姿を知らなすぎます。また保健婦のこともわかったような気をしていた風があります。このことは大いに問題があると同時に、公の場でこれを論じることはあってはならないと思うのです。
その意味で、これまで当ブログでいろいろと申し上げてきたこと、保健師の方々にとって批判的に受け取られたことを深くお詫び申し上げなければならないと思います。
誠に申し訳ございませんでした。以後は、安易なる「保健師のため」というのではなく、元通り、私の学問であるところの民俗学における生活研究の中で保健婦を取り上げることはあっても、それを無理に保健師に結びつけることはしないようにしたいと思います。
この表明をもって、保健師の方々にお詫び申し上げ、研究の方向性の転換を図りたいと思います。
皆さんにお詫び申し上げないといけないことがございます。
私はこれまで「保健師のための民俗学的試論」でこのブログを運営してきましたが、実のところそれが過去の保健婦の経験をもとに現在の保健師に対して批判的に、そして無理難題を含んでいたこと、つまるところ「保健師のために」としておきながら、安易な批判的文章に成り下がっていたことを反省しないといけません。
ですので、タイトルから「保健師のための」という題目は消させていただきました。この言葉を語るには私は保健師の姿を知らなすぎます。また保健婦のこともわかったような気をしていた風があります。このことは大いに問題があると同時に、公の場でこれを論じることはあってはならないと思うのです。
その意味で、これまで当ブログでいろいろと申し上げてきたこと、保健師の方々にとって批判的に受け取られたことを深くお詫び申し上げなければならないと思います。
誠に申し訳ございませんでした。以後は、安易なる「保健師のため」というのではなく、元通り、私の学問であるところの民俗学における生活研究の中で保健婦を取り上げることはあっても、それを無理に保健師に結びつけることはしないようにしたいと思います。
この表明をもって、保健師の方々にお詫び申し上げ、研究の方向性の転換を図りたいと思います。
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