ページ

2012年10月8日月曜日

2012年日本民俗学会年会発表原稿


おはようございます。つい昨日行われた日本民俗学会での発表を公開します。ちょっと失敗してしまいましたけど、ようするに私のやりたいことはコレだということです。

 

生活者にとっての「生活改善」

-兵庫県宍粟郡千種町における「生活改善」の受容と背景-

 

1.はじめに

 本発表は兵庫県宍粟市千種町の昭和30年代から50年代にかけておこなわれた「生活改善」(地域保健活動)の実態を明らかにするとともに、それが地域にどう受け入れられていったのかという過程を、地域住民である生活者の視点から追うものである。生活者にとって「生活改善」とはどのようなものに映り、そしてそれが行われることに対してどのような心情を持っていたのであろうか。それが今回の発表の目的である。

 まず、生活者にとっての「生活改善」を述べるに当たり、従来の研究でこれがどのように扱われてきたのかを述べてみたい。そもそも、この生活改善と称する活動はどのようなものであったのか、田中宣一氏はこう述べている。「政府および政府関係機関の施策と、それに啓発された自治体及び地域や家々、さらには諸団体が、自らの生活の改善向上をめざす創意と努力」とし、生活の近代化、合理化を目指した活動である(田中 2011)。こうした活動は明治期からその萌芽がある。大正期には生活改善同盟会という組織が、都市部を中心に勤倹貯蓄、時間励行など様々な面で生活の改良を目指し活動を行っていた。戦前戦中も富国強兵の風潮の中、都市、農村といった広い範囲において生活設計の見直しを迫る活動を行っている。戦後には、GHQの指導の下、農林省が農業などの生産生活またそれに伴う農民の生活の近代化合理化を目指し生活改善普及事業や、新生活運動協会による農村の社会教育などの興隆を目的とした新生活運動、また他にも公民館活動や保健所活動などといった組織がたちあがり、多くの地域、とくに農村をターゲットに戦後農村の疲弊からの解放、民主化徹底を目的とし様々な形で活動がなされた。

これが生活改善の大まかな内容である。従来の研究ではこの活動をベースに、その団体がどのような理念で、どのような活動を行ってきたのかを詳細に描いている。最近のものでは田中宣一氏編集の『暮らしの革命-戦後農村の生活改善事業と新生活運動』(農文協 2011)が新しい、また新生活運動の歴史的経過をたどったものとして大門正克氏編集の『新生活運動と日本の戦後-敗戦から1970年代-』(日本経済評論社 2012)もある。ところが、団体の活動史としての側面が強く、地域の活動においても団体と地域グループとのかかわり、それを中心に行われた活動の概要といったように、すべての物事に対して団体を経由している。受け手である生活者像、生活改善に対する彼らの姿勢というものは現れてこない。生活改善とは生活者やそれをとりまく地域環境、社会環境などの中で、生活者が改善を必要と判断し取り入れるなかで生じた、結果としての生活の改善であって、あくまで団体はそのきっかけである。ここで、合理化近代化を前面に出さないのには理由がある。生活の合理化近代化という目線は、どれも地域生活を外部から覗いた言葉であり、生活者にとってそれは外部の意見でしかない。生活者にとって生活改善はそのような理想的な形を常に取っていたわけではない。生活者の都合は、地域生活における生活者の思考の中にあり、その都度改善をするかどうかを選択し、その都合に合わせて変えられていくものである。生活改善という活動がこれまで団体からの目線で研究されてきたのは、生活者、末端部において、それがどの団体の活動かは明確に区別されておらず、実態を知るには団体の記録を通じてしか、その存在が明らかにされていなかったからである。だが、生活者にとって生活改善は団体としてのそれだけはない。生活者の様々な考え方が交錯し、生活全体がその中にあることを考えなければならない。これらのことから、私はこうした生活者からの視点を括弧書きの「生活改善」として扱い、従来の研究とは少し離れた、受容される側から活動を眺めてみようと思う。

 

2.兵庫県宍粟郡千種町の生活改善の動向

兵庫県宍粟郡千種町は鳥取県と岡山県との県境に位置し、周囲を山林に囲まれた町で、千種川を挟むようにして集落が点在している。生業は農業と林業が盛んである。この地域で生活改善が起こったのは昭和32(1957)年、小学生児童の成長不良の発覚からである。欠食児童や栄養不良児が多く、その原因は地域の食生活環境にあるのではないかとされた。そのため、給食を実施しその是正にあたった。この給食の実施を契機に、町内の各地区で料理講習会や勉強会などといった自主的なグループ活動が行われ、食生活の向上に向けた取り組みがなされた。こうした取り組みが行われていたものの、依然として地域の生活環境は悪く、奇形児や乳幼児の死亡率など子どもだけの身体をとっても問題は山積みだった。

そのような中、昭和35(1960)年、当郡初めての町保健婦としてA氏が赴任することになった。彼女は、保健婦として就任するとすぐに、母子保健活動や地域の衛生環境の調査を行い、町内全戸を回る家庭訪問を実施した。これを事細かに記録し、どのような生活環境にどんな病気があるのかを調べた。また、彼女は調査をするだけでなく、積極的に地域に入り食生活に関わる栄養指導や衛生知識の普及に尽力した。この当時大きく問題となっていたのは、その食生活における環境であった。まず、米飯中心の栄養の偏った「ばっかり食」が横行していたこと。次に、母親の過労から食生活への気配りができなかったこと。さらに、衛生環境が整っておらず回虫などの健康被害が著しかったことがあげられる。A保健婦はこれに着目し食生活を改めるアクションを起こした。これにより、問題の存在が徐々に周知され、生活者自身が自分たちの問題として意識し出すようになった。彼らはこのA保健婦の声に耳を傾け、健康に関する知識を積極的に取り入れようとする機運が高まった。A保健婦は、このような中で、自分が積極的に関与することもさながら、生活者が自発的に問題に取り組んでこそ解決につながると考え、地域で活躍していた婦人グループに着目し彼らとともに活動をしようとした。そこで、昭和43(1968)年、「家族の幸せは自分たちの手で」、「健康で明るい生活を」とのスローガンのもと千種町いずみ会という組織を作り上げた。この組織は地域の婦人会のもとにおかれ、組織的な改善活動に勤しむこととなった。主な活動は栄養師を招いての料理講習会を通じて行われた食生活改善や栄養改善の実施、A保健婦を指導者に衛生や健康に関する知識を身につけることで、地域の衛生環境の是正を図ることなどを行った。具体的には、これまでの米飯一辺倒な食事を見直し、強化米(ビタミン剤入りの米)や麦飯の推奨、おかずの種類を増やして栄養バランスのとれた献立にするなどの工夫がとられ、飯にたかっていたハエを遠ざけるために、その温床となっていた厩や便所を別棟にしたり、台所環境を整備する等の住宅改良にも着手した。さらに、回虫の駆除を進んで行い、保健所より無料散布されていたマクリ(虫下し)を湯で溶かしそれを児童らに飲ませ、寄生虫のもととなっていた田畑への糞尿肥料の散布をなるべく控えることを呼びかけた。また、こうした生活環境の是正と同時に、町内全域を中心とした健康診断を実施し、昭和30年代後半から40年代当時に問題とされた高血圧や脳卒中などの病気を発見し、それについての講習を町の国民健康保険診療所と協力して、病気の早期発見と予防、そして生活改善への体制を築き上げた。その後この活動が行政の目を引き、町が健康政策を打ち出すと同時に、彼らに予算を振り分け、その活動を支えていくこととなった。それとともに予防活動のほかに健康増進に関わる活動も見られるようになり、当時の成人病に対応した基礎体力作りや運動などの設備が整えられることとなった。この活動はA保健婦が就任していた昭和50年代にまで千種町内で続き、活動は郡全体へ県全体へというように拡大していった。ところが、A保健婦の退職と同時に活動は衰微し、大規模な検診は保健所のそれと変わり、食生活改善は単なる料理講習に切り替わってくるようになった。年々参加者は少なくなり、活動の形骸化から現在は行われなくなった。

生活改善は千種町いずみ会の熱意とA保健婦の補助により、速やかに行われ、この相関関係こそがその受容のありようだと思っていた。ところが、そう簡単に生活改善が受容されていたのではない。生活者が生活の改善を必要とし、活動を選択した結果が生活改善につながるのであって、団体の生活改善がそのまままかり通るとは限らない。そのため、活動を進めようとする団体とそれを受け取る地域住民の間には、その活動をめぐっての軋轢や数々の葛藤があり、数々の接触を経て実るものである。だから生活改善を団体から見る視点ではなく、今一度生活者の目線で見ていく必要がある。また千種町のそれは、「保健衛生」や「健康」をキーワードにして行われており、その活動の受容にはそれらの価値観の変動が大きく関わっている。それらも含めて、生活者にとっての「生活改善」を考える必要性がある。

3.認識されるまでの道のりと葛藤

(1)医療への誤解と、健康に対する地域住民の不理解

団体の生活改善が生活者にとっての「生活改善」につながるには、まずにその活動の有効性が問われる。その活動が自分たちの生活にとって有効であるのか、本当に必要であるのかという部分において納得ができる状況でない限り受容されることはない。戦前戦中期の生活改善はこれらを無視した上からの圧力的な活動ではあったが、戦後の活動はどれも民主的な采配によるところが大きく、受け入れるか否かは生活者の受け取り次第ということになっている。もちろん、それにむけての活動努力は団体が行うことではあるのであるが、結局のところ生活者の必要性がなければ形骸化されてしまうことになる。千種町の場合、昭和32年の時点で、児童の成長不良ということから、給食を実施しようとする強いアクションが行われる。これは児童の身体というものに対して周りの大人たちが危機感を募らせたこと、周囲の比較を通じて自分たちの身体を見直したことになるのであるが、それにより改善が必要であることを認識し、行動に移した結果である。ところが、この意識というのはその後昭和35年にA保健婦が就任するまで、児童のことという狭い範囲でしか認識されず、生活自体が大きく改善をされることはなかった。食事に対して気をつけることはあっても、栄養知識があったわけでもなければ、衛生に考慮できたともいえない。つまり、千種町で給食がはじめられた当初においては、あまり表だった意識の変化はなく、それを受け入れるだけの必要性を感じていたかというとそうではないのである。そのため、問題は置き去りにされてしまった。

その後昭和35年にA保健婦が入ってくるとこの問題に少し明かりがともされることとなる。A保健婦は家庭訪問を通じ、地域の問題の所在については明確にとらえることができたのであるが、生活者にそうした話をする機会はなかなかなかった。その原因となったのが、地域における「保健婦」に対する偏見であった。当時医療従事者というのは国民健康保険診療所が千種町千草に一軒あるのみで、それ以外の医療機関というと、郡内にあった博愛病院の存在、それと保健所であった。千種町で病気やけがをすると、軽いものであれば診療所に診ることはあったものの、重い病気や手術を要するものになった場合は、郡内を離れ隣の町である佐用郡佐用町にまで出ていかなくてはならかった。医療費の他交通費のこともあり、医者にかかることはかなり慎重なことであったという。また、千種町の西河内地区など山奥の集落では、病気になることは労働力を割くことになり、また家族の迷惑や主人や姑に気兼ねすることもあってか、病気になってもよほどのことがない限り医者にかかろうとはしなかった。そのような環境下の中、A保健婦は地域を巡回していたわけであるが、医療従事者に慣れていないせいか、保健婦の存在を見たときに、「結核を診に来たのか」「それならここにはおらん、出ていけ」と冷たくあしらい、A保健婦の家庭訪問に対して強い不快感を示していたという。こうした周囲からの忌避されることが多かったため、大きな活動に出ることはできず、何度も地道に家を訪問するしかなかった。門前払いをされることも多々あったそうだが、それでも何度も訪問して理解を経て家に上がっていたという。

また、病気や怪我等に対する人々の認識は「ほっておけば治る」というものであり、症状が進行してから医者にかかることが多かったためか、手遅れの患者が多かった。このため、A保健婦が地域に入ってみたのは悲惨な状況であったという。我慢したことにより症状が進んでから病院にかかることが多かったため、普段からのこまめな治療はできなかった。こうした地域環境がきっかけで、A保健婦は住民の病気への理解を促すために各地区を回りながら、衛生指導を行った。病院にかかること、手遅れにならぬよう病気の知識を持つよう住民に呼びかけた。これも何度か行うことで人々に認識されていった。生活者の中にある病気や怪我や医療従事者に対する理解が足りなかったことが原因であった。

 

(2)地域住民間における団体活動への不理解

次に生活改善が行われていた際に問題となったのが、地域内での生活改善に対する温度差であった。特に、地域で活躍していた千種町いずみ会に対する風当たりという面において、A保健婦の活動同様に難しい局面があったという。千種町いずみ会は当初各地区において行われていた婦人グループを中心にしてできた組織である。グループ活動が行われていた当初は婦人会とは関係なく、あくまで個人同士の付き合いレベルで活動が行われていた。だが、婦人会に所属する姑世代からは関心が寄せられておらず、千種町いずみ会が結成し婦人会の中に置かれるようになった後も、半ば婦人会から浮きだった存在であったそうだ。そのため、こうした目立つ活動を善しとしない人々から嫌がらせの様な事を受けたことが多々あったそうだ。また、会員の家族は、この婦人グループの活動を、どう見ていたのかというと、「婦人会の活動だから」という理由から見守っていたという。千種町いずみ会の活動に対し、それは婦人会の活動であって彼ら独自の活動としての理解がなく、同時に家族らはそれら婦人の動きに対してあまり理解が及ばなかったそうだ。つまり、千種町いずみ会はそのまま地域社会に溶け込んだ団体ではなく、どこか浮いた存在としてそこにあり、婦人会からもあまり関心がもたれず、家族にもあまり理解を示されていなかったことが活動においてかなりの障害になっていた。特に、姑からに気兼ねしながら活動をしなければならないこともあって、最初は細々とした活動であった。さらに、彼らの活動については行政もあまりよく思っていない節があったそうだ。確かに活動自体は地域の保健に関わる重要な活動ではあるものの、昭和43年発足当時にそこへ地域の予算をつぎ込むことに理解が及ばず、活動に対しての評価がなく自費ですべての活動をまかなわれなければならなかった。料理講習会に限らず、千種町いずみ会の活動は幅広く、血圧の測定運動にまで発展した折に、各家に血圧計を置くように役場に持ちかけたが、予算をめぐって行政と対立することもしばしばあったそうだ。こうした地域における生活改善に対する不理解が起きていたことはこれらの活動が受容される中において重要なことであろう。

従来の研究において生活改善は活動記録のみが目立ち、団体がどのように動き、どのように対応したかに焦点があった。しかしながら、受容という場面においては生活者との対立も多少あっただろう。医療に対する人々の不理解や、活動団体に対する不理解というものは大きな問題があり、生活者は「生活改善」の必要性を感じていなかったともいえる。そのため、生活者の反応は薄く、団体が活動したところでそれに対する評価をすることもなく、ただただ見守ることしかなかった。

そこで、A保健婦ならびに千種町いずみ会がとった行動は、そうした不理解を払拭することであった。まず、地域の医療や健康、衛生というものの捉え方を変える必要性があった。既存の考え方を考察し、それを変えるという中で、単に医者にかかることを勧めるのではなく、各個人が病気の知識を有し、健康に対して積極的に感じ、衛生的な暮らしに心掛けることを目的とした。こうした考え方の改善がどのようにして受容されるようになったのかを考える必要性がある。次に、千種町いずみ会の地域内での彼らの動きに対する人々の理解は、単に婦人会の活動であるという認識しかなかった。あまりこの活動の中身について関心が寄せられていなかったこと、単なる若い世代の活動として旧態然とした婦人会活動から切り離されていたことが問題であった。そのため、当初の活動は、細々としたものが多く、消極的であり、はっきりとした結果が得られていたものではなかった。その後千種町いずみ会は、保健婦を招き講話を催し、そこから栄養知識について学び、それを地域に持ち帰って普及するやり方をとっている。そうしたいずみ会がどういう立ち位置におかれ、どういう視点で見られていたのかということも必要になる。

他にも様々な問題点があるが、以上の二つの視点について考えてみたい。

 

4.生活者と健康

(1)生活者にとっての健康

そもそも、この活動は地域の保健衛生の是正にあり、現在から考えれば、至極まっとうな活動であるように思う。ところが、このような考え方がその当時あったかと言えばそうでもない。というのも、先述した生活者と医療従事者の誤認でもわかるように、生活者にとって病は大敵であり、だが同時に病院に入ることをこれと同様に忌避していた。当時の生活者にとっての健康とは、医学的な健康というものとは少し異なり、養生としての健康がそこにあったからではないかと思う。病気は「そのままにしておけば治る」自然治癒という考え方が支配していたことになろう。病院に行くことは労働力を割くことにもつながり、それを回避するべきと考えたため、人々の中には病院は最終手段であった。その日暮らせればいい、その時の状態が良ければいいというくらし方が基本であったため、未来における病気の脅威に対してなんら用意を持っていなかった。病気を長らく放置し、手遅れの状態になることが多く、且つ予防に目を向けるだけの余力が生活者の中にはなかったというべきなのかもしれない。

 さらに、なぜこのような余力がないとか医者にかかることが難しい状態であったのかを問うた場合、経済的な理由と生業的な理由とがあると思う。医者にかかることは多額の費用を要し、それを出すだけの蓄えもなければ、予防にあてられる余裕もなかった。また生業的な理由は、当時この地域では出稼ぎが横行しており、一家の大黒柱である主人が家を空けることが多く、残された祖父母と妻の「三ちゃん農業」が多くみられ、農業人口の少なさのために一人にかかる労働力がかなり多かったこと。さらに妻は子どもたちのためにということで少しでも蓄えを増やすべく、外部に働き口を求め炭焼きなどを行って生計を立てようと試みたがために、一日のほとんどを仕事につぎ込み、多忙な毎日を送っていた。そのため、医者にかかるタイミングもなければ、忙しさのために家庭の健康や予防に手を回せるだけの余力もなかった。後々これについては問題化され、「母よ、家に帰れ運動」というものが実施されるようになってくる。

 ただし、全く健康に対しての考え方が備わっていなかったかというとそうではない。先に記したように昭和32年において、既に児童の成長不良を通じて自己の健康水準の低さを自覚し、それに対して劣等感を持っていたのは事実である。生活者にとってのこの子どもの不健康の発覚はかなりの衝撃を与えた。当時の生活者からの声は「どうしてうちの子が」「今まで何にもなかったのに」「確かにこまいとは思っていたが」というように子どもの健康がそれまでは別段問題にされなかっただけに、このときの健康水準における不健康の烙印は、危機感として内々に健康への疑問が出てくることになった。こうした危機感を通じての健康が省みられ、生活者にとって「生活改善」は必要なものとして意識されるにいたった。その後、しばらく間が空いてしまうものの生活者にはこの疑問が残り、A保健婦が家庭訪問を繰り返し行うことで、単に子どもの問題だけでなく自己の問題として認識されるようになっていった。まとめると、この当時地域内では二つの異なる考え方が混じった状態となっていた。一方では養生という考え方がために病院や医療にかかることを最終手段としておき、実際にかかることは経済的、社会的に見ても忌避すべきものであるとする考え方が支配していた。だが他方では、子どもの健康における疑問から自身の身体やその生活に劣等感を持ち、従来の健康ではだめだと意識的に思うようになった。こうした考え方が渦巻き、葛藤がある中で、生活者は「生活改善」を求めようとしたことになる。

 

(2)生活者にとっての婦人グループ

 次に、婦人会や行政などとの温度差というものについてよく考えてみると、地域社会、村社会として、この新しい組織や考え方に対しての多少の抵抗があった。この原因については推測の域を出ないが、嫁と姑、嫁と家、女性と社会という枠組みの中で語られるものだと考える。つまり、新しい考え方を持とうとする女性、特に嫁世代に対して、古い考え方をもつ姑世代を中心とした婦人会の中で摩擦があった。昭和30年代ごろの婦人会組織は村の中でもかなりの力を持っていたそうだ。そのため、婦人会に所属することは家として村としては誇りとなるものであり、婦人会の活動はかなり高い評価を受けていたという。この背景には男手が出稼ぎなどで町外へ出ており、実質的に家庭のこと村のことで権力を誇示していたのはやはり女性なのではないかと思う。嫁世代が婦人会に加わることはかなり大きな存在意義になっていた。そこへ、新参者である千種町いずみ会が出てくるわけであるが、この会はもともと地区の婦人グループの中におかれていたため、活動としてもそのグループの域を出ることはない。そのためか、婦人会の傘下組織におかれる際、婦人会の権限としての活動を許可されているのであって独立した考え方を有するものではなかった。千種町いずみ会が正式に認められた昭和40年代において、この活動が力を強めていたことに対し、婦人会や姑世代はこれを表面上認めはするものの、陰ではあまりよいものとして見てはいなかった風もある。そのため、食生活改善や栄養改善を行う際、姑の了解や婦人会との接触としてもかなり気を使った。だが、この会が目指したこと、健康に関することについては、姑世代や婦人会の大多数は理解を示しており、また子どもたちのためという建前もあったためか活動に対して正面をきって反対することはなかった。

 さらに行政の反応も同様に、初めのうちはこの活動に対してなんら支援をするということを示していなかった。千種町いずみ会が会として成立するまでの間、様々なグループ活動が地域内で起こってはいたものの、行政がこれに対して何らかの処置、予算配分などを行っていたということは聞かない。この昭和43年以前の段階においては行政の積極的な介入はなく、あくまで生活者の自由意思に任せていたというのがあった。ところが、昭和43年に入ると、それまで黙認してきたものが看過できなくなり、行政の介入が起こってくる。これは昭和44年に制定された千種町健康教育振興審議会条例による健康教育の普及を示唆したもので、同年の体位向上協議会において児童の身長体重ならびに地域の食生活や衛生環境に対し、行政として関心を持ったことによる。ただ、この介入においての予算配分は、婦人会のそれとは別なものであり、金額としても少ないものであった。千種町いずみ会はこの予算枠について、後々A保健婦とともに改善するよう行政に訴え、それで活動資金を手に入れるようになった。行政の意図としても、こうした健康への盛り上がりを受けて、健康増進に前向きに取り組まざるを得なくなり、そこでA保健婦や保健所を交えて地域の健康への取り組みを行政としてどのように取り組むのかを決めていこうとした。予算もその都度において決定され、施行されるようになった。婦人会活動にしろ、行政の取り組みにしろ最初はあまり積極的なものではなく、どちらかというと旧態然とした対応でしかなかったものが、健康を敏感に受けるようになってからはがらりと方向転換をし、千種町いずみ会やA保健婦に対し協力を申し出るというような対応をしている。このことからわかるのは、千種町での健康に関する活動は、すぐに認識され決断されたのではなく、昭和40年代にまでもつれこみ、様々な葛藤の中で生み出されたものであるということである。

 

5.まとめ

 千種町における生活改善の背景にあった諸事情というものについて考えてきたが、ここでもう一度そもそも活動がどうして起こったのか、なぜ活動を受け入れたのかということを考え直したい。

 昭和32年におきた児童の成長不良の問題は、他地域との比較の中で自分たちの健康基準の低さに劣等感を覚えたことに始まった。つまり、この時点において人々の目に具体的な指標としての健康が見え始め、それは従来の生活のままではいけないことを決定づけた。だが、昭和32年の時点では、小学校内での問題として処理され、生活者の中に改善を生みだすことはなかった。その一方で、この児童の給食の件を発端にして地域内での食生活に対する関心が高まり、婦人グループの意識的な活動が行われるようになっていく。細々とした活動ではあるものの、生活者が食生活を見直そうとし始めたことがうかがえる。また、これとは平行して健康に対する問題意識は昭和35年のA保健婦の就任により、表面化することになる。病院にかかろうとしなかった地域の健康への不理解を払拭するべく、A保健婦はたびたび地域を訪れては健康に課する知識の普及に努めた。同時に家庭訪問を通じて各戸に呼びかけを行い、意識的な改革に乗り出そうとしていた。そのような中、地区の婦人グループの活動に出会い、彼女らとともに地域の生活改善に乗りだそうとする。このとき、既に地区内には健康に対する関心が高まり、A保健婦に対する忌避感は薄まり、彼女を中心とした活動に目が向けられていくようになる。婦人グループも当初は婦人会から浮きたった存在で、姑世代との間に考え方の開きがあったものの、活動を通じて特に家族の健康について方針を示していくことになり、徐々に理解を取り付けていった。

 このように、活動は生活者の様々な考え方の下に展開し、段階的にステップアップしていったことがわかる。これまでの研究では活動の足跡をそのまま追うことから、こうしたステップアップという過程についての詳細な分析がなされていなかった。この段階には生活者が何を思い、何のために、どうして生活改善を受け入れたのかという、生活者個々の「生活改善」がそこにあったのであろう。団体史としての生活改善からは導き出されない、生活者の本音の部分における改善のありようは、単に生活改善を活動として見るのではなく、人々の心情の変化においてあるものとして受けとらえるべきだろう。

 最後に、この生活者視点の「生活改善」、特に今回は健康という意識の変化や団体の認識などについてみてきたが、ここで描けるものはすごく狭い範囲でのことであって、全国的にこうした活動の展開がなされていたかいうとそうではない。地域個々の活動にはそれなりの理由や、それなりの受容があってしかるべきである。だから、今回扱ったのは兵庫県宍粟郡千種町の昭和30年代から50年代にかけて行われた活動の、しかも昭和30年代から40年代ぐらいまでの間で起こった事象を取り上げて述べたものである。時代や場所によってその考え方は異なり、活動の性格やその受けとらえ方というものも変わってくるだろう。特に、昭和40年代からは栄養改善により、栄養豊かな食事が提供される一方で、その反動としての生活習慣病が問題化される。成人病診断が町行政の下で実施され、単に予防としての健康から、健康増進、向上のための活動へとスイッチしていく。つまり、その間においても生活者の意識は変化を続け、この活動を見ていたことになる。とするならば、当研究はまだまだ途上段階であり、全体を抑えたものとなっていない。また千種町の活動だけを切り離すならば、彼らの行った活動というのは地域保健活動という医療関係の活動にもなる。そうした視点からの分析も必要であるし、そうした立場から生活改善はどうであったのかをとらえる必要があるだろう。

2012年7月10日火曜日

健康という民俗を考える(その1)

病と民俗に関する考察はあるものの、ことその反対である「健康」というものに関する民俗というのがあるのでしょうか。

私見の限りではありますが、あまりそうした研究が民俗学でなされていたということはないようです。

なぜここにきて「健康」を民俗学で考えようと試みるのかというと、それは我々の生活の中では「健康」という言葉やその周辺がもたらす影響というのは大きいからです。

昨今、健康食品や健康法などなど健康に関する知識や技術は様々であります。医療だけでなく、美容としてのものも含めた健康を私たちは追い求めています。

こういう言い方をするとなんだかひどいように思うかもしれませんが、「餓鬼が喰い物をあさるように」私たちは健康を摂取しようとひたすらに行動します。

一体その根底にはどのようなことがあるのでしょうか。

一つに病というものの対極として健康があることが考えられます。どういうことかといえば、病にならないこと、病を克服することそれが身体にとってよいことであり、美徳とされたことによるものであります。健康はそのような考え方のもとにあります。

これは何も現代に限った事ではありません。過去においてもそうです。ただ、その時代時代によって健康が持つ考え方というものは多少異なるものではあります。これはまちがわないでいただきたいのです。

さらにもう一つ、差別としての健康というものがあります。先に示したように、病気にならないこと、病気を克服すること、身体を向上することは「美徳」です。「よいこと」です。つまり、そこから外れるものは容赦なく社会的に差をつけられます。蔑視まではいかないものの、健康ではないことを「悪いこと」であるとして、それに怯えることもあります。

これは日々の生活においてもそうです。健康に生きることを半ば強制的に、いえ脅迫的に生きているのも私たちなのです。

他にも様々な要因が考えられますが、今のところ私で大きく整理しているのはこの二つです。

この二つの要因は似通っていて互いに影響しあい、それでいて健康を成り立たせていると考えていいでしょう。

だから私たちにとって健康は生きがいなのです。

で、ここからなのですが、こうした背景があるにもかかわらず、民俗学では健康に対して積極的に研究されてきていません。これはなぜでしょうか。まだ私自身まとめきれていないのが現状なので、ずばりこれということはできませんが、健康というものがすでに常識的であり、日常性や非日常性うんぬんの前に人々の前にあって、それが生活の根底をささえているなどということを見逃していたのではないかと思うのです。簡単に言えば、普通すぎて何も見えないし、そこに民俗というものが感じられないのかもしれません。

これは何を民俗とするのか。民俗とは何かということにもかかわってくるのでしょうが、ここでその議論をすることを望んではいません。仮に民俗を私なりに定義するとするならば、「生活の知恵であり技術である」ものだと思っています。

そうすると、この健康というものもその生活の知識であり技術でもあるのではないでしょうか。

ちょっとはしょり過ぎですね。言い方を変えましょう。生活の知識や技術というものは、ある程度もたらされるものであるという前提がなくてはなりません。前々からあったとするならば、それは経験則からの知識であり、技術であります。つまり、過去からもたらされたものであるとも言えます。そこでそれにのっとって、健康というものを考えてみた場合、健康は時代時代における身体への関心によってもたらされた知識や技術ともいえます。

すなわち、健康は民俗たりえるわけです。




(ここから先はまた別の機会で書きます)

2012年7月9日月曜日

生活者にとっての「生活改善」(民俗学会発表要旨再考)


こんにちは。日々勉強とおもいつつも、いろいろなことに手を出しまくっていると時が過ぎ去るのはいつものことで、研究もそのうち流れに流れてしまっているような気がしてなりませんね。

さてと、以前こちらで公開した日本民俗学会年会に関する発表要旨のアナウンスですが、あの後しばらく考えこんでいまして、あのままではだめだと思い自分の気持ちに素直になりながら書きなおしていました。今回表明するのは、正式に日本民俗学会年会に送った発表要旨そのものです。本来なら、年会当日に参加者の手元に置かれるものではありますが、私としては民俗学会に参加していない人、生活改善に少しでも興味を持っていただいた人に対して、広く構えたいと思っており、ネット上で子の用に公開させていただく運びになりました。

まだまだ至らぬ点が多くございますが、今のところ私の発表方針としては下記のような内容となっています。


 
 
【発表題目】生活者にとっての「生活改善」

【副題】-兵庫県宍粟郡千種町における「生活改善」の受容と背景-

【要旨】

 兵庫県宍粟郡(現宍粟市)千種町、兵庫県の北西部にあるこの町で、昭和30年代から50年代にかけて「生活改善」(地域保健活動)と称する活動が展開した。この活動は、地域生活の向上、住民の健康増進を目的とし、食生活改善や衛生改善など様々な取組が行われた。昭和32年、児童の成長不良という問題の浮上をきっかけに、地域の食生活、労働環境、衛生環境を少しでも善いものに変えようと地域住民側から発せられた。はじめは心安い人々同士が集まりグループを形成し、料理を通じて食生活の見直しをしていたが、昭和35年にある保健婦が町を訪れ、保健業務の傍ら彼らの活動を補佐し導くようになった。そうしてグループ活動が次第にまとまりをみせ、「家族の幸せは自分たちの手で」「健康で明るい社会」をスローガンに、千種町いずみ会となって展開することになった (山中 20112012)

 生活改善とは「政府および政府関係機関の施策と、それに啓発された自治体及び地域や家々、さらには諸団体が、自らの生活の改善向上をめざす創意と努力」からなる生活の近代化、合理化を目指した活動である(田中 2011)。戦後の活動をとれば生活改善普及事業、新生活運動、公民館活動、保健所活動などがある。ただ、千種町のそれは、地域住民自らが内発的に取り組んだ「生活改善」であり、これまでの生活改善とは少し視点が異なる。これまでの研究は政府諸団体から見てどうであったのかであって、団体個々の理念や活動をもって地域活動を説明する節があった。ところが、千種町のそれは地域の内情において出てきた活動であり、それは地域住民の願望である。では、そうした地域活動をどうとらえるべきなのか。私は、生活改善のこれまでの経緯を照らし、民側の生活改善の意向として「生活改善」を新たに捉えなおそうと試みた。千種町いずみ会の方向性、そして実施された活動、それに関わった保健婦の素顔などについて、それがいかにして地域で受け入れられていったのかというプロセスを見ていった。つまり、政府諸団体ではなく地域の住民、生活者の視点における「生活改善」の視点である。

だが、これまで私が取り組んできた千種町の「生活改善」の研究は、どれもその「生活改善」に関与した団体あるいは個人からの見方であって、受け手である生活者側のアプローチとしては少し物足りない部分があった。生活者の意思がそこにあることを見逃していた。生活者が何を望みどのように取捨選択したのかそういうものも含めて考えるべきであろう。本発表ではそうした反省をもとに生活者にとっての「生活改善」を再度見直してみたい。


参考文献

田中宣一編『暮らしの革命-戦後農村の生活改善事業と新生活運動』農文協 2011

山中健太 「千種町いずみ会の地域的展開と「生活改善」の受容」(田中宣一 2011)

山中健太 「ある保健婦の足跡から見る地域保健活動の展開と住民の受容」(『佛教大学大学院紀要 文学研究科篇』第40号 2012)
 
 
以上
 
なんかマジマジと見ると結構不可解な点が多いですけど、簡略に述べますとですね以下の通りになります。
 
【目的】生活者サイドからみた「生活改善」とはどのようなものであり、どのような過程を経て受け入れられるものであったのか、またその反応とはいかなるものだったのかを明らかにすることで、人々が「生活改善」という活動に対して思っていたこと主観として受け取っていたことを半ば住民のニーズの本質として歴史的に追ってみたい
 
*まぁようするにですね。「生活改善」はなぜ受け入れられていったのかというのを住民ニーズがどうであったのかという視点から見るということです。
 
【方法】兵庫県宍粟郡千種町の事例を軸に、そこで起こった「生活改善」を明らかにし、それにかかわった地域団体(千種町いずみ会)とある保健婦(以下A保健婦と略す)の話に加え、被験者である地域住民側、本来実質的に「生活改善」を受け入れたとされる生活者側からの聞き取りを加える。地域での聞き取りをベースにした主観からの調査結果を基とする。
 
*主観からの調査結果を基とするというのは、従来の研究ではどうしても傍観者としての生活者が描かれており、どうも生活感がない「生活改善」になりがちであった。そこで婦人会および各家庭において「生活改善」が行われた際に、家族そのほか周辺の住民はどんな「感情」でそれを受け、さらにそれを生活に「必要であるから」として「選択」したのかを問うてみたいのです。生々しい会話の中における「生活改善」の実態といいましょうかそんなのを描きたいのです。
 
このような感じで、目的と方法を用いて結果を導き出すわけですが、今のところ結果を言うとしらけてしまいますので、ここはこれまでしか明かさないことにしたいと思います。
 
まぁ、部分的開示でよければ
 
 
「生活改善」は生活者の都合と合致した形で受け入れられていった。
 
 
と申しておきましょうかね。従来の研究ではその「都合」ということに対して「合理的」「近代的」「経済的」とか分析されておられますが、もっと本質的な部分ではそうしたものは後付されたものにしか他なりません。では「合理的」などの理由のほかにはどういった「都合」があるのかそれが重要なのだと思います。
 
 
ここに書かれた以外の細かい内容のこと、さまざまな視点からのことについてはTwitter(楓瑞樹@御京楓https://twitter.com/kaede01mizuki)で呟いていますのでそちらをご覧ください。

2012年6月16日土曜日

発表要旨


生活改善とは生活の合理化近代化を進めた活動のことを指す。このように従来の研究では言われてきた。確かに活動の面ではこの言葉が妥当であることはわかる。但し、そこにそれを受ける側、地域住民の姿はあるだろうか。この合理化近代化をどうみていたのか。そうした部分についての視差はいまだ少ない。

 本発表では、生活改善の活動における地域住民の反応、特に地域住民が生活改善をどのようにとらえ、どのようにして受容していったのかを述べたい。また、受け手側だけの受容をみても全体像はみえない。そこで、活動を推進した側の地域住民に対する視線というものにも注目して考えてみたい。ここで述べる生活改善は、その活動が行われたときに人々がどう思っていたのか、どう感じていたのかを明確にするため、記憶の鮮明な戦後の生活改善を取り上げておきたい。戦後の生活改善に関しては田中宣一氏の『暮らしの革命』(農文協 2011)に詳しく記されているが、本発表で扱う生活改善は地域という現場でどういう活動が起こって、どう受け取られていたのかを前提とするため、戦後の大きな潮流で扱われる生活改善普及事業や新生活運動とは少し違った見方をしたい。というのも、これらの活動は地域においてはそうそう区別されて動いていたわけではなく、混ざってそこにあったというほうが正しい。つまり、活動を区分して分析するよりも現実、その活動がどうあったのかというありのままを見つめることが優先される。ここではあえて生活改善をそのままの活動主体によって概念づけるのではなく、地域住民の中で、地域の中でどうあったかを優先させたい。また生活改善を「合理化近代化」というのではなく「生活を改める活動」としてとらえ直したい。

 具体的には兵庫県宍粟市千種町の昭和30年代から40年代にかけて行われた活動(地域保健活動ともいう)を取りあげ、行政や地域住民がどう動いてどういう風な対応をし、どういう反応があったのかを考えてみたい。それを解くことで、生活改善が単に合理化近代化を目指した活動とされるのではなく、もっと根本的に生活の質を変えようとしたこと、その活動を地域住民が意識的に選択し受け入れたことを明らかにしたい。

2012年3月24日土曜日

2011年度年間報告


研究テーマ:

戦後の「生活改善」が果たした地域生活での役割

-保健衛生面の諸改善をめぐる社会事情と地域-



報告内容:

本年度の研究の目的は、戦後の「生活改善」と呼ばれる活動が地域社会に果たした役割はどのようなものであったのかを述べることである。この研究を進めるにあたって、私が行ったことは、その活動の軸となっていた時代的背景を詳しく追うことと、その時代的背景における人々の受容の分析である。また、具体的な「生活改善」を取り上げる中で今回は兵庫県宍粟郡千種町の事例をとりあげ、そこで行われていた保健衛生面での活動がいかなるものであったのかを導き出した。さらに、保健衛生面での活動を取り上げるに伴い、その活動の根底にあった地域社会にとっての「健康」というものにも着目してみた。

46月期の報告では、千種町の行った「生活改善」そのものがどのような思想的背景のもとに行われていたのかを「健康」を通じてみてみることにした。ここでわかったことは、そもそものきっかけとなった児童の成長不良から見える、児童の成長に関する大きな関心と児童の身体と「健康」に対する人々の考え方の移り変わりである。昭和32年の児童の成長不良の発覚から千種町いずみ会の活動の展開、そして地域保健活動への変遷を見る中で、共通して現れるのが地域住民の「健康」に対する考え方、健康観の推移であろう。特に、昭和32年の段階においては子どもの身体を通じて、自分たちの「健康」のありようを問うている。子どもの身体の数値の他地域との比較において、自分たちの生活のありようを他地域の生活の中に見出したのである。これは、かなりの衝撃をもって迎えられることとなり、その後の生活環境を一変させる事態にもつながった。というのも、当地域の生活環境は外部から懸念されるほど悪く、比較的「健康」な地域とは言い難いものとして取り上げられていたからである。そのような外部の視線にさらされることで人々は地域生活を疑い、それに対して徹底的に追及する姿勢を持つようになった。46月期の段階では、「生活改善」がいかにして関心がもたれていったのか、またそこには何が横たわっていたのかを分析するにとどまったが、「健康」というものがそこにあり、且つ人々の意識を変える大きなものとして受け止められていたことを導き出すことができた。

次に79月期ではそうした、「健康」がタイアップされるのにはどのようなわけがあるのかという疑問から、「健康」の背後にある「病」と地域社会との連関を考えてみた。ここでは千種町そのものを取り上げるのではなく、「病」がもつ排他的な差別観とその強迫的なまでの「健康」の追求を一つの論文から分析することにした。具体的には今野大輔氏の論文「ハンセン病差別の民俗学的研究に向けて」を読み、ハンセン病という「病」の脅威から「病」の対極に位置し、なおかつ自明のごとく君臨する「健康」という思想、そしてそれを冠して推し進めた活動が、絶対的な権威をもっていかに語られてきたのか、「病」をいかに遠ざけようとしてきたのかを解明すること。「健康」の範疇から外れるものに対して、なぜこれほどまでに疑いを抱き、劣等感を持ち忌避するのだろうか。そうした「病」の逆照射からわかる「健康」の内面性を明らかにした。今野氏のその論文はハンセン病疾患の背景にある、「病」の「忌避感」について分析したものであった。この「忌避感」が生じることは、単に身体的なそれと迷信などによる精神的なそれとがあることを今野氏は論中で挙げている。私は、この「忌避感」について詳しく見ていく中で、千種町の「生活改善」の一部始終に「病」に代表される、いわゆる身体的「劣等性」を引き合いに出した「健康」の権威主義的なものがあるのではないかと考えた。つまり、身体が劣るものを排除し、身体が優れるものを創造するという仕組みそのものの立ち上げと、その仕組みの正統性をうたう権威の象徴としての「健康」である。特に、昭和32年の事例を引き合いに出し児童の成長不良、子どもの健康について触れる中で、「優生保護法」に代表されるような排他的な「健康」観というものが取り入れられていく状況を描いた。身体がある一定のラインに達している者に対しては優を、それ以外のものに対しては劣を与え、その優における価値観を高める指導がされているのである。例えば、身体測定結果における県下の水準に至っていない児童に対しては「栄養をとりなさい」とか、「運動をしなさい」とかを奨める動きが見られるのもこのことからである。「健康」を求めることは当然のことであるが、そこに身体の優劣を見出していることに誰も気づいていないだろう。千種町での成長不良問題から派生した生活改善はこうしたバックボーンの上に成り立ち、そして町民の身体を管理運営していくことになる。特にそれが際立って見えるのが昭和43年に町で制定された「千種町健康教育振興審議委会条例」である。これは町を挙げて健康教育、即ち体育などを奨励し児童の身体の改善を実現し、「健康」で且つ元気のある町を内外にアピールするものであった。つまり、「病」とされた児童の成長不良などを一掃し、「健康」である身体を手に入れるための条例である。ここで、ハンセン病患者とこの児童の成長不良者という存在の比較的なものを考えてみた場合、そこには質は異なれど「病」「劣」に対するある種の忌避がうかがえるのではないだろうか。つまり「健康」でいなければ、「病」にかかれば自分は「劣」と見なされ、社会的な場から一掃されるという恐怖心を人々に植えつけたと考えられないだろうか。この植えつけの役割を果たしたのが「生活改善」であり「地域保健活動」である。これらの活動は、単に「病」を排除するにとどまらず、そうした意識変化にも大きく影響を与えたのである。

続いて1012月期の報告では千種町において行われた「生活改善」の中に見られる保健教育上の要素、さらにはこの活動が地域住民側において女子教育的なものとして取り扱われていたことを踏まえ、この活動の教育的側面がどう地域生活に影響を与えたのかを考察した。これまでの報告を振り返ると「生活改善」に含まれる「健康」や「衛生」という言葉は、その当時の地域社会にもとからあった意識を変革させ、新しい意識を植え付けた結果「生活改善」が樹立し、確立していことがわかる。その上で、1012月期の報告では具体的に、それがいかにして確立していったのかを千種町の事例を引き合いに考えてみた。特に、社会教育などにおいて「健康」がいかにして語られ、教育的な立場においてどうひろまっていったのかを分析した。昭和32年の成長不良事件に引き続き、その後行われた千種町いずみ会やA保健婦による「生活改善」は、その当時の社会情勢の動きとも連携して行われていることが分かった。それが分かる資料として昭和31年に開催された食生活改善協会による『昭和三十一年度 食生活改善協議会報告書』である。この資料により昭和30年代前半時点で、学校現場などにおいて「健康」知識の流入を強く求める声があることが分かった。その活動の内容の中に食生活改善などの改善事項が多くあり、千種町のそれもその潮流の中に位置していたのではないかと考えた。また、昭和31年を境目に社会全体の健康観というものも変わってきつつあった時代であった。これまでの地域保健で言われてきた「結核」などの伝染病による急性疾患が衰え、それに代わって「高血圧症」「心筋梗塞」などの生活習慣からくる慢性疾患が増え始める時期なのである。つまり、生活の根本的な見直しがこの当時求められており、食生活、保健においてそれが明確な形で示されていくようになっていたのである。千種町でこれらが進められていくにあたって強く力を発揮したのが、A保健婦の存在である。彼女は宍粟郡初の町保健婦であり、彼女の指導のもと千種町いずみ会が結成され地域活動へと邁進していくこととなる。この過程において、彼女のとった指導方法は、地域住民自らが動き支える組織ぐるみの「生活改善」の樹立を眼下に捉えた教育的指導と会員内組織の発言の共有である。特に婦人会に代表される女性グループを背景にそれらは教育されるようになる。この中には、女性の地位などを巡る社会状況が反映されたものもあれば、地域保健に伴う純粋な指導もある。千種町いずみ会は、「女性に与えられた天分」という心構えから「家族の幸せは自分たちの手で」、「健康で明るい社会を」とのスローガンのもと母親世代を中心に結束された。A保健婦の講習を受けた者が、いずみ会会員として各地区で婦人会と共に活躍することとなった。つまるところ、この会はA保健婦の呼びかけのもと集合した各地区の若い女性グループを中心とし、その地区を総合的に養成していく機関として千種町いずみ会が設けられたのである。これは革新的なことであったらしく、当時の保健衛生においてもこの会の影響力は大きい。その証拠に昭和44年千種町役場が出した条例「千種町健康教育振興審議会条例」において千種町いずみ会の活動補助を行政がとるといったかかわりがみられ、町を挙げての取り組みがみられるようになる。そうした、千種町いずみ会はその後も精力的に活動をし、食生活改善をはじめとする「生活改善」の実施や、A保健婦を筆頭にしての健康診断の実施など地域の生活向上ならびに保健衛生への関わりを強固なものへとしていった。

このことにより、地域の保健衛生に関する関心が一気に膨らみ、地域住民は自分たちの従来の生活模様を見直すことを積極的に行うこととなった。このように千種町の「生活改善」は、あまたの教育を繰り返し享受することで膨らみ、人びとの内面における健康意識を定着させ、保健医療に対し積極的に受け入れようとする流れを作ったといえよう。また、こうした流れの中には社会的気運もあったことも考えられる。昭和30年代から50年代にかけて地域医療への関心が各方面から寄せられており、雑誌『家の光』などのメディアにおいて、地域医療体制の不備を指摘し、これらを改善するとともに人びとに「正しい」健康知識を提示しようとしている。このことからして、この期間における保健医療に対する意識が社会的にも受容されるようになり、健康に対する意識や行動を具体的に描写し、それをよりよい方向へと転換していこうとなった。これ以前の健康に対する知識では、「病気にならなければいい」というそういうマイナス的な発想での健康観であったのに対し、昭和30年代以降「健康を維持し向上させる」というプラスの発想へと転換しているのである。千種町の「生活改善」が果たした役割はそうした意識革命の中にあろう。そして保健教育、女子教育という双方面おけるつながりのもとで大きく前進した事例であったと考えられる。

さらにこれらの活動の背景を受けて、さらに昭和30年代から50年代における「健康」のありように踏み込んだのが、13月期の報告である。活動における「健康」の知識、技術の普及がいかにして地域で進められ、いかにして地域に受容されていったのかを明らかにした。ここでは、「健康」という言葉がもつ強いメッセージ性についても言及している。これまでの報告同様、地域の「生活改善」が果たした役割におけるものとして「健康」知識の流入とその意義づけ、さらに権威付けがここにあるとして、それらがいかにして千種町内部で起こっていったのかを時系列的にかつ、「健康」をキーワードにまとめた。ここでわかったことは、「健康」の知識や技術は単にA保健婦の様な外部の人間が普及に努めただけに限らず、内発的に住民間からこれを受け入れ普及させようとする動きがあったことである。従来の研究で「生活改善」は外部的な要因の一つとして取り上げられることが多い中、その一方で地域住民自らが内部的にこれを受容しようとする動きが捉えられたことは大きな成果と言える。また、「健康」という言葉自体が持つ、権威性や普遍性を広く人びとの間に浸透するようになったのは、外部的な要因と内発的な活動の成果ともとらえることができよう。「健康」は普遍的なものであるが、その普遍たるをするために行われた知識の普及において、こうした内部的な活動が関わっていることをこれまで私たちは触れてこなかった。その意味においてこの報告は重要な意味を持つのではないだろうか。

以上の報告内容により、千種町の「生活改善」が果たした役割とはなんであったのかについてまとめておきたい。まず、千種町において「生活改善」は「健康」を求める動きとして定着した。これは児童の成長不良の「発覚」とそれにたいする「忌避」が挙げられるだろう。それにより、地域にある種の緊張感が訪れることとなった。ここには、自らの身体の外部との比較の中において優劣を求める動きが浸透していったことがあげられよう。特に児童などの子どもの成長においてそうした「差異」が地域生活の「劣等性」を明確にしたといえる。つまるところ、この成長不良の「発覚」は人びとにおける地域生活の「省み」を要求したことになる。これを言葉を換えれば消極的な「健康」への欲求と言えるかもしれない。自分たちが「差別され得ないだろうか」という緊迫した状況においてそれを是正する動きが出てきたのは当然の結果ともいえる。そこに「生活改善」の素地が作られていったのであろう。但し、この時点においてはまだ地域住民に「自覚」を促すにとどまり、具体的な「健康」知識や技術の普及にはまだ至っていなかった。それが可能になるのが昭和35年のA保健婦の赴任からである。彼女は先にも示したが宍粟郡初の町保健婦であり、町域全体の保健衛生に対する是正策を行政側から進めた立場の人間である。彼女が行ったのは「健康」がいかに重要であり、どのように維持管理していくかという教育である。特に、地域の婦人会や女性グループを中核に据えて、彼らとともに考える新しい組織を作り上げていった。この組織というのが千種町いずみ会である。千種町いずみ会は、地域生活の向上、特に「健康」をテーマにした活動に中心に町域全体で行われていった。このおかげもあって、その後町行政が「健康振興審議会条例」を出すことで地域の「健康」維持を具体的に取り上げるにいたった。このような流れをみていくと、「健康」は単に普及されるものとして取り上げられるにとどまらず、「健康」を介して地域生活と行政とのつながりがそこにあったのではないかと考える。地域住民側からは自己の身体の危機的状況(「忌避」状態)からの脱出、そして身体の強化としての地域活動への進展。地域行政側からは地域住民への「健康」の普及、そしてその組織化、条例化を進めていき、地域全体の「健康」水準の向上を目指し設備投資や地域医療の是正に努めたのである。このような双方間の意見の一致から「生活改善」は地域住民に受容されそして広く定着することに至ったものであった。「生活改善」が「健康」を介して地域社会に対し果たした役割とは、単に「健康」を与えるだけに終わらず、地域生活の中でそれを定着させ、そこから自発的に住民個々が「健康」を積極的に受け入れさせ、それをもとに自らの生活を「是正」管理していく枠組みを作っていったことにあると考える。もちろん、A保健婦や行政の関与もうかがえるし、彼ら抜きにしてこの「生活改善」は成り立たない。普及と受容双方のやり取りの中で「生活改善」は活動することになるのである。

このような「生活改善」の内部的な動き、実際の地域における受容の方向性、そこに横たわる問題の帰結について書かれたものは報告書も含め、希有なものであろう。未だにこの「生活改善」全体の動き、特に中央と地域との関連性については議論が進まない面もあり、「生活改善」の定義というものは明らかにされていない。だが、地域におけるその「生活改善」のありよう、役割というものはここで明らかにされたように、単なる活動としてのものにあらず、地域生活の質的向上の土壌を地域住民に与えていきそこから内的な声を上げさせる手助けをしていったことになる。この地域での役割は重要なものではないだろうか。これまでの民俗学における地域生活の分析には、「生活改善」の実態はもちろんのことそれがなしえた地域での役割、さらには地域住民の変化の受容について詳しく論じることはなかった。この報告はそれを補う上でも重要なものである。

中間報告④


報告題目:「千種町の「生活改善」活動に見る「健康」の普及と地域」



 本報告は、兵庫県宍粟郡千種町(現宍粟市千種町)の昭和30年代から50年代にかけて行われた「生活改善」もしくは地域保健活動と称される活動における「健康」の知識、技術の普及がいかにして地域で進められ、いかにして地域に受容されていったのかを明らかにするものである。報告のテーマは、本年度研究計画のテーマであった「戦後の「生活改善」が果たした地域生活での役割-保健衛生面の諸改善をめぐる社会事情と地域-」を研究するにあたって見つけだしたものである。

 「健康」という言葉は、普遍的な意味を持って使用している。「健康とは、単に疾病がないとか虚弱でないというばかりではなく、肉体的、精神的、社会的に完全に良好な状態である」。これは、WHO(世界保健機関)1946年に世界保健憲章前文において「健康」とは何かということを定義づけた一文である。医療従事者に留まらず、世間一般的に流布している「健康」というものはとりあえずこの意味において定義づけられていることになっている。ただ、私たちが使用する「健康」というものはこの意味だけに限らず、様々な状況において使われていることもあり、これが「健康」であるというものはあまり明確に存在するものではない。例えば、身体測定において測られる数値としての健康の度合い。これはある一定の数値を基準にそれ以上それ以下によって健康の水準を定めるものである。近年ではメタボリックシンドロームの検査においてこれを用い、それによって数値を上回れば「不健康」、数値を下回れば「健康」というカテゴリー分けを行っている。つまりその場の状況に合わせてある種、病気を見つけだすための装置としての「健康」という捉え方、消極的「健康」とも評されるものである。またその一方で、スポーツなどを生活に取り入れることによって身体の強化を図るという意味での「健康」、アンチエイジングに始まる美容においての「健康」がある。これは自らの身体を標準以上に設けることによって身体の強化を図りそれでいて美意識としての精神的強化も図るというものである。積極的「健康」と評される。こうした、積極的消極的といった区分のほかに、時代的区分もある。これは「健康」という言葉がもつ社会性というものであり、その時代ごとにおいて「健康」がもつ意味合いは異なり、その影響力も異なる。この意味において「健康」は単に普遍的な定義だけでなく、様々な環境において用いられる用語であることは明らかである。さらに、ここで加えておくと、地域においてもその意味合いは異なると思う。僻地における「健康」と平地における「健康」とはその基準や社会性も異なる。つまり地域性もそこに見出せることになるのではないかと考える。これにより、WHOの定義が一枚岩ではないことが明らかであろう。ところが、世間一般においてはこの定義が先行され、且つ利用されるようになっている。つまり一つの解釈において「健康」というものが普遍的に広がりを見せているのである。では、だが、その「定義たらしめた」状況において人々がどう考えたのであろうか。つまり、「健康」という一定の意味を持つものが普及する中で人々はそれをどう受け入れていったのであろうか。これが今回の報告の目的である。

この「健康」を取り上げたことには理由がある。それは、先に述べたように「健康」というものは時代地域によって異なり、その積極性、消極性などの精神的な区分によっても異なるという状況下において、それを一刀両断にひとつの「健康」を推し進めた活動が存在することを発見したからである。その活動は「生活改善」と称され、戦後生活の近代化や合理化を推進するもとで行われたものである。一見、「健康」を冠していないような活動に見えるが、この活動は普及の過程で知識や技術としての「健康」の普及に力を注いでいる。それは広い意味では都市部に比べて農山漁村の生活環境の悪質な状況を鑑みての保健衛生的処置として行われた普及である。食生活に始まり、衣生活、住生活など様々な方面において行われており、明確な活動区分としての「健康」というものはないが、それでも一定の生活基準として「健康」というものを念頭に置きながら活動がされていることからも、この活動が「健康」を内包しその普及に努めたものといえるだろう。では、その普及方法はどうであったのであろうか。ここで具体的な事例を見ていきたい。地域は、兵庫県宍粟郡千種町である。本地域は昭和30年代前半に、とあることがきっかけとなり「生活改善」が進んだ地域である。そのきっかけというのが児童の成長不良という地域の「健康」に言及するものであり、その後の活動も広く「健康」を取り上げたものとなっている。この事例を追うことで、「健康」がいかに「生活改善」で語られそれが如何に普及していったのかを考えてみることにする。

まず、千種町で起きたことについて簡単に述べておきたい。兵庫県宍粟郡は鳥取県と岡山県との県境に位置し、中でも千種町は県境に最も近い位置にある町で、農業と林業が盛んである。ことの発端は昭和32年、千種町でも最北端にある西河内地区、千種北小学校の修学旅行先で、他地域と比べ児童の成長が著しく遅れているのではないかという声が上がったことからはじまる。児童の成長不良の原因は食生活にあり、それを考え直す必要性があった。そこで、北小学校に児童を預けている親が集まり、育友会を介して、彼らの手による給食がもたらされた。こうした流れは、後に地域の食生活そのものに投げかけられ、児童だけでなく、その家族、地域全体へと広がっていった。千種町域ではこれ以外にも様々な保健衛生上の問題を抱えていた。まず、児童の成長不良に代表されるような地域の食生活の問題。次に、食生活の問題と絡めて母親に過重な労働による母子保健衛生上の問題。さらに、回虫卵保有率からみる衛生上の問題の3つがある。これらは緊急性の高い問題であったため、地域住民は各地区で自ずとその問題を解決すべく活動を展開するようになった。例えば、成長不良問題が発覚した西河内地区のいずみ会、さらの室地区の幸妻会などといった料理講習会や勉強会、それぞれ設立経緯は異なるものの、地域生活の向上に向けての先駆けとなっていた。ところが、具体的に地域の「健康」に対する知識や技術は乏しく解決には至らなかった。

このような地域行政の保健衛生への立ち遅れは兵庫県下でも問題となり、早急な手立てを講じる必要性を求める声が行政の中でも囁かれるようになった。そのような中、昭和35年、宍粟郡では初めてとなる町保健婦にA氏が赴任することになった。彼女は、保健婦となるや千種町の地域問題に触れ、一刻も早くこの危機的状況を打破しなければならないと考え、食生活に関わる栄養指導、母子保健の確立、衛生知識の普及に尽力することとなった。その一方で彼女自身は地域住民自らが問題解決に取り組むべきだと考え、活動のための基盤となる住民組織の育成に従事した。A保健婦は婦人会や先の地区活動を土台に昭和43年、千種町いずみ会を立ち上げた。この会は、各地区から選ばれた住民によって構成されており、A保健婦からの指導を受けた後、各地区の現場にてその場に沿った「生活改善」を行う組織である。会の主な活動は食生活改善、栄養改善、衛生改善などといった改善活動を中心としたものであった。このようにして出来上がった活動の基盤は、瞬く間に千種町一帯に広がりを見せ、行政の関与も多くみられるようになる。昭和44年、教育委員会によって出された「千種町健康教育振興審議会条例」、その前後に行われた「体位向上協議会」である。条例は「千種町の児童生徒の体位向上を図るための健康教育及び一般町民の健康増進を図るため」に出されたものである。この条例は千種町の地域問題から行政として「健康知識の普及」や「健康増進のための施設の建設」を進めるものであった。これにより、千種町いずみ会は大きなバックボーンを受け様々な活動を展開していった。

ここで注目したいのはその活動の引き金となった昭和32年の児童の成長不良の発覚である。これ以前にも頻繁に身長体重などの体格を示す身体測定結果、健康診断結果が表出しているにもかかわらず、この時点でそれが地域住民の目に「発覚」したのである。そもそもこうした「発覚」があったからこそその後の「生活改善」が起きたのであり、これがなければ何も起きなかったはずである。この「発覚」はある種「健康」の発見ともいえる。千種町での「発覚」は他地域との比較の中で語れていることに着目すると、そこにはある種の競争原理や健康基準創出のようなものがうかがえる。「健康」であることに対する強迫的な考え方があり、それに応じて他地域と比較し同じかそれ以上でない、または「基準値に達していない身体は不健康である」という考え方が広まり、それを強烈なインパクトを与えていたのであろう。先述した消極的健康の代表的な例といえよう。ただし、千種町のそれは消極的なだけで終わらなかったことも事実である。このきっかけにより、地域で「健康」に対する関心が一気に上がったのは間違いない。自分たちの持っていた「常識」が疑われ、そのままでは非常に「悪い」として恐怖感や危機感を煽った。その一方で、自分たちの「健康」とはどのようなものでどうすればいいのかを知るといった積極的な動きを見せるようになってくる。それが千種町でいえば、千種町いずみ会の組織化である。A保健婦は立ち上げには閑居しているものの、基本的にこの組織は地域住民の自由意思に任せられていた。そのため、この会の活動自体は単に恐怖心や危機感で外部的に動いたものではなく、より積極的な健康意識をもって行われたと推測される。特に、栄養面に関する活動は積極的であり、どの作物にどのような栄養素が含まれていてどのように体に作用するのかといった事細かな内容に至るまでデータを取り、それが実地で作ることが可能であるのか、また地域の健康にあっているのかを比較検討してから取り込むことまでを念頭において行われている。そのような地域住民からの積極的な動きに合わせて行政も動き、千種町健康教育振興審議会条例をつくり、スポーツ設備などを建設することで住民のニーズにこたえようとしている。「生活改善」における「健康」の普及はこのような方法をとってすすめられていったのであろう。