昭和44年千種町行政(教育委員会)により施行された「千種町健康教育振興審議会条例」。
私の論文にはA保健婦や千種町いずみ会の活動が活発化した要因の一つとして挙げています。この条例には以下のような背景があったことが今日わかりました。(当時の教育委員会にいたI氏からの電話でのやり取りをまとめてみました)
昭和30年代、千種町はほぼ無医村状態であった。医者がいない時もあればいる時もあるといった状態で、且医者の給料を支払うのに大変高額な請求をする医者もいて、千種町の財政では賄いきれない状態であった。またそのような状況の中でさらに悪化させることが起きていた。それは、地域問題として児童の成長不良(体位の悪い児童の存在)や脳卒中、高血圧症患者の増加などといった問題の浮上である。
これらの地域保健環境をどうにかしなくてはならなくなった千種町行政は、公衆衛生ならびに保健衛生の専門家たる保健婦を町にはじめておくことを決意した。昭和35年そこに就任してきたのがA保健婦である。彼女は、12地区ある地域それぞれを歩いて訪ねて回り、各家の健康状態、衛生状態などをチェックし、その結果をカード化するなどして地域の実情を知る手だてとしていた。そうした訪問を続ける中で乳幼児健診などの母子保健に関わる診断や、高血圧症、脳卒中といった塩分過多からくる病気への警告と減塩の啓発を行い、地域の「健康増進」ならびに保健衛生の普及に尽力した。
しかしながら、無医村からいきなり保健婦をむかいいれ、多忙な業務をこなしている中で、どうにか保健婦の増加や地域の保健活動の活発化を図る必要性がでてきた。
そこで昭和44年「千種町健康教区振興審議会条例」を施行し、これらの問題を解決すべく地域医療の改善を考え、且つ保健婦の獲得に行政側から動いた。そこでH保健婦を含む二人の保健婦が千種町に来てくれることとなり、A保健婦の下、健康増進運動の活発化に役立っていた。具体的には町づくり検診などを行い、地域住民の健康増進をおこなったりした。
もちろん、この活動には千種町いずみ会も関係を持っている。条例の施行により、その具体的な施策の一つとして、千種町いずみ会ならびに健康推進委員の活動の各地区内での活発化と、千種町全域における活動の展開を意図していた。