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2013年4月27日土曜日

保健師のための民俗学の構想について①民俗学研究の中における保健婦

こんにちは。

研究計画以外では久々の書き込みになります。

私は民俗学者の一人として生活研究を続けてきて、その中で保健婦を見てきました。いわば保健婦を方法としてみていたと思います。保健婦は人間であり、保健婦活動は人間味のある活動であるのに対して、どこか事務的にそれをみていたきらいがあります。機械的といってみてもいいのですが、そういう風にどこか「学問のための保健婦」という風に描いていました。アカデミズムにどっぷりつかりすぎていたためでしょうか、その保健婦がどういう人たちであったのかということをはっきりと描こうとはせず、その外観をもって生活変化に寄与したことを書いてきたのです。これは現在私が取り組もうとしている「保健師のための民俗学」とは全く逆の考え方です。保健師のためではなく自分のため、自己満足のためだけに保健婦を利用してきたというべき暴挙です。ここ数か月、保健婦の手記や様々な保健活動に対する記録類、書籍を見るの中で、そこに描かれる保健婦というのは私が外観として描いていたもの以上に、いや別物としてそれこそ人間としての保健婦を見ていました。ここは深く反省すべきことです。その反省の上に立ちながら、今一度計画書を記し、自己の内在化している保健婦像を今一度書き直してみる必要性があるように思います。今回、私がお話しするのは、そうした人間としての保健婦、それを民俗学でどう扱っていくのか、また将来的にこれを用いてどういう風に保健師と向き合っていかないといけないのかを考えてみたいと思います。


【民俗学研究の中における保健婦】


民俗学での保健婦研究というのは存在しません。最近でこそ男性産婆、介護の民俗学として職業者の民俗学的動向が見られるようになってきましたが、未だにそれらの減少は、人の生き死につまり人生の節目に活躍する人間にこそ着目されていると思われます。民俗学的に言えば、人生儀礼の合間合間における職業と民俗の関係性というものでしょうか、そういうものから語られます。また介護の民俗学は介護現場における回想法に対しての研究であり、その職業自体を取り扱ったものではないのです。多少そういう記述は見られるものの、民俗学的な分析をするためには、その職業そのものよりもその背景にあるもの、つまり人生設計があるのです。ところが、それに比べて保健婦にはそういう視点がないとみなされ、また医療従事者にしても人生の現場にありながらにして民俗学の学問上からは除外されてきた職業であると思われます。直接的な排除というものではなく、保健婦や医者がもつ医療技術、近代医学の恩恵について、そこに民俗を見いだせないかったということからなのだと感じます。前にTwitterでいろいろと議論をしましたが、民俗学にとっての「民俗」は未だに古いものに対して目が向いています。それは文化行政現場でも同じです。近代以降とくに昭和時代のものというのは歴史的にみてまだ価値がついて言っていないのが現状であり、民俗もまたそのような状況で、医療といえば民間医療、漢方薬や富山の置き薬に始まるものを主として研究対象に選んできたきらいがあります。ですから、民俗学が保健婦をはじめとする医者をどこか近代化の産物としてみて、その職業に対する関心は、民俗誌上に登場する一部の人間としてしか扱っていませんでした。
 しかしながら、民俗のフィールドである農山漁村の場において、保健婦や医者という存在は切り捨てられるものなのでしょうか。戦前戦中を巡って医師がない村、無医村地区への政治的関心は大きく、それをいち早く打開することが富国強兵策へとつながる、農山漁村民の健康が成り立たなければ、国の兵力は地に落ちるそいう視点がありましたし、戦後においては無医村地区での感染症の放置や環境衛生の悪化、病気の温床としての農山漁村という風に描かれていました。こういうことを考えれば、そうした村にとって医療従事者である保健婦や医者というのは切っても切り離せないものであっただろうし、民俗学にとっても無視ができない存在であったに違いないのです。特に生活において保健婦や医者が果たした役割というのは計り知れません。生活は人の身体と密接であるがための活動を意味するのですから、その身体が病に侵されている状況というのは当然、死と隣り合わせの状況であり、密接に医療と結びついていなければならないのです。ともすれば、この保健婦らの存在というのは、単に「近代化の代物」として扱うのではなく、積極的に見ていくべき人々ではないでしょうか。

2013年4月26日金曜日

研究計画?(多分研究概要というべきかな)の続きを書きました。


研究計画書

研究題目:「保健婦からみた生活変化と民俗学的アプローチ」(日本民俗学会発表用には「保健婦からみる民俗学の可能性」としています)

副題:「「保健婦の手記」からみられる農山村の生活実態と、保健活動の取り組みのよって変化する生活模様について」

 

内容:

はじめに

 本研究は、従来の民俗学での生活研究のあり方が、衣食住という三分割にされて、それぞれにおいて物レベルで述べられてきた事象を、一度生活の総体として見直し、且つその生活がいかにして変化してきたのかを問うことを第一の目的としている。本来、過去にある事象をこれまで民俗学は「民俗」として追ってきたが、本研究での「民俗」はそれと異なり、より変化の過程に主眼を移し、変化してきたことにこそ意義があるという見方でもってそこに「民俗」を考えてみたい。つまり、祭礼や儀礼といった習俗の残存、持続、継承といった過去への分析ではなく、現代に向かってきている過程を分析することを主体としたい。

 

研究の方向

 では、具体的にその生活の変化について少し取り上げておきたい。従来の民俗学での生活の変化というのは、先にも述べたとおり物質変化を中心に描いてきた経緯がある。これはどこに「民俗」を考えるのかということを念頭に置いた考えから来るもので、当然ながら昔使われていた道具類に関するその形状や使用法、そしてそれが使われてきた背景、そして道具自体の変化などを追ったものであった。確かにこの点についての分析は、物質文化の側面から見れば妥当な見解であり、その歴史性を実証するには十分な取り組みであると評価できる。但し、道具は人間によって使われていることを前提に考えるならば、その人間の行動、身体と密接になければならない。身体と密接にというのは、道具の使用法にも関わってくるわけだが、どういう生活環境上でそれが身体の道具として使われてきたのか、その道具を人々はどういう風に生活の中に位置づけていたのかそういうことも含めての研究が必要なのではないかと思う。つまり、生活の総体としての研究である。ここでいう生活は、単に衣食住を総合したものを指すわけではない。もっと多角的なアプローチによるものであり、生業や村政なども取り入れた村全体、共同体から見た家庭、そして個人へと向けられる身体の動き、活動を指す。生活それ自体は、有機的な存在で、決して物質的な見識でもって説明できるような無機的なものではない。いうなれば、生き生きととらえられる生活模様をここでは描き、そこにどういった変化があったのかを考えることにしたい。この方針は従来の民俗学ではあまり見られない手法であり、且つ主観的な見方から来るものでもある。これまで物質文化でもって変化を説明してきたのは客観性を重視したためだと私は思う。もちろん、物質文化から見えてくる人間の活動は大きいものである。科学技術の進歩や流通過程、消費経済の流れが物質に集約され、それが物語る生活の様相は確かに重要なものではある。しかしながら、そこに全てが詰まっているわけではない。人間生活には感情があり、物質などの無機的なものからは感じられない変化への眼差しがある。そのまなざしを抜きにして語れない。物質文化を主軸にした客観的な分析のみで物事を語るにはあまりに平均的で、生活の多様性を考慮に入れないばかりか、生活をつくりあげている人間の判断などを無視してしまっている。そこで、私がやろうとしていることは、物質という明確すぎる客観性を用いた平均的な流れに沿ったものではなく、もっと人間味がある、人間がそこでどういう判断をしどういう風に暮らし、どう変化の中に位置づけられるのかということを念頭に入れた若干主観性に依拠した分析方法である。科学性を引き合いに出すのであれば、これは科学的分析というよりも、文学的なものの捉え方かもしれない。人間をどこから見るかによる区分での科学であるが、ただそれを外見でのみ分析するには生活の動きはそう簡単なものではない。もっと内在化したものを含めて検討してこそ初めて具体性をもった生活が描ける。文学的であろうと、それは一つのものの見方であり、ひとつの科学として考えられないだろうか。私は、本研究で科学論を振り回すつもりはないが、生活という舞台は人間が構造する多様なものであり、それを客観的な分析の身で終わらせては、そこに生きる人々の顔は何も見えてこない。それは別段、衣食住に限ったことではない。様々な民俗学における研究には人間の顔が出ているだろうか。人間がどういう風な表情をしてそこに生きているのか、また生きていたのかそういうことを描いているだろうか。それに問いかけ続けることがこの研究の第二の目的である。具体的には、今聞き取り調査が可能な昭和20年代以降、戦後から高度経済成長期という大きな潮流を時間軸に、農山村の実際の生活模様を個別事例に基づき取り上げ、そこからうかがい知れる情報を整理しながら、その当時どのような生活が営まれ、どういう風にして変化したのか、あるいは変化しなければならなかったのかを検討することにする。この生活模様については、個別的であり、個人史に関わる問題も内包する。ライフヒストリーとしての生活描写、その人が生きてきた経緯を記すこと、そこにどのようなきっかけ、要因があり自己の生活、身体の活動を移り替えていったのかを描きだすことが大事になる。しかし、ライフヒストリーだけがそれをできるわけではない。例えば、農山村の文集の中から得られる情報、後で述べる農山村を見つめ続けていた人物からの手記などが、その生活模様を当事者として映し出すことができる媒体となる。ライフヒストリーを個人史とするなら、私の取り上げている文集や手記というのは、ある特定の集団の歴史という風にとらえられることができる。ある特定の集団というと作為的なものを感じるかもしれないが、実際そういった部分もあるが、生活を記すという行為、生活の綴り方運動に端を発する、こうした社会運動的な行動の中には、その生活を記すことによって自己の意見を表面化し、そして社会に向けて発信するという役割がある。ライフヒストリーは個々人が描く場合もあるが、どちらかというと話者と協力者、その関係性の中でその人にあった言葉を見つけながら描かれるものであるから、そこに自己の意見であるとかそういうことよりも、もっと自己反省的な色合いが強い。個人史を執筆者が見つめなおすことは、それは単に歴史を編むことと違って、自己と向き合うことであり、客観的に自分を捉えなおす作業でもある。しかし、私が取り上げた文集や手記というのはそれとは違っていて、その当時のその時々の意見の集合体であり、自己と向き合うというより他者と向き合うために記されている。情報をアウトプットすることに主眼があり、ライフヒストリーのように客観的に内在化するものをインプットしながら作業することとは別のものである。簡単に述べるのであれば、文集や手記というのは、それ自体がその当時のその時点における人々の声であり、そこに記された生活はそのままその当時の生活をそのまま伝えたことになる。多少文学的な書き方があることはあるにしても、自己の意見を表面化する作業であることには変わりないし、何より当時性をそこに見出すことが可能な素材として位置づけられる。ここからみえる生活の様相は従来の民俗学にあるような社会経済だけを表したようなものではない。その書き手個人ないし、そこに描かれる人々がどういう状況下にあり、それをどうしようと動いていたのかを理解しうるための重要な手掛かりとなる。

 

生活と「保健」「衛生」「健康」さらに医療について

 さて、こうした新たな生活の研究の視座から具体的にどういう風な生活をここで描こうとしているのかというと、本研究は生活の要である人間の身体性に着目し、その身体を守る上で、命をつなぎとめる上でどのような行動を起こしそこにどういった意味合いが含まれ、どういった過程を経て人々の内側に根付いていくのかを考えていくことしたい。婉曲的な言い方であるが要するに「健康」や「衛生」や「保健」という言葉に表されるような活動のことである。もちろん、身体的脅威である病気との闘いを含めて、医療との付き合いもこのなかには含められる。そうした身体を守る活動を人々はどのように行ってきたのかということに対する研究は、民俗学では昔からある東洋医学や民間医療をそのまま用いてきたきらいがる。確かに、東洋医学の流入の歴史は古く、また地域ごとに民間療法としての処置がなされていて、病気との闘いは何も今に始まったことではない。ただ、民俗学での研究の主眼は西洋医学や近代医学とは違った見方をしてきた。もっとも西洋医学の知識、近代医学の行為について批判的な立場をとり続けていたといってもいい。民間に残る療法こそが「民俗」であるかのようにして語られている。現在は多少、そうした民間医療への見直しが近代医学の中から生じているし、民俗学内部においても近代医学のことについて触れる機会は多くなったように感じる。しかしながら、未だにどこか近代医学について敬遠し、そこに直接的に触れようとはしない。その近代医学が人々の生活の中枢にまで来ている昨今の状況においてもそうである。身体を守る上で、人間が選択したのが医学であり、そこに予防が加わり「保健」「衛生」等が生じ、身体の向上を図るために「健康」が生まれてきた経緯を考えてみると、この近代医学ないし医学という視点はどうしても避けようがない。それが生活に与えた影響は計り知れない。地域で調査していてそれらの場面にであうことは数多くある。だから、医学がなしえたこと生活形成への関与は疑いようがない。ところが、民俗学はこれに多少触れるはしても「どうやって医学が人々の中に入っていき、そして普及していったのか」また「衛生」「保健」「健康」というものが生活の中で意識され出したのはどういった背景があってのことであったのかということについては何の見解もない。はじめに述べたとおり、本論での「民俗」は生活の変化の過程そのものにある。医学が入ってきたことによる生活の変化のプロセス等があって当然のはずである。なぜこれほどまでに民俗学が医学の領域に対してあまり興味関心を見出していないのかは今のところよくわかっていない。ただ、私が推測するに、民俗学における生活というのは物質文化にこそあり、そこの周辺に医学があるぐらいに考えていないだろうか。まずは者があってこそ成り立つような風潮である。

 

保健婦の生活変化への関与

そこで、本論ではこうした民俗学の反省にたって、身体を守ることに対する人々の生活の変化の様相を具体的に描写してみたい。それが地域に散らばる文集の中であったりするわけであるが、もっと直接的に身体のことを記したものがあるとすれば、それは医療者が記した記録に他ならない。ただ、医療者が記すもの、例えばカルテなどは病の統計であったり、分析であったり、予防法であったり様々なものがあるが、いずれも生活に直接的に関与をもたらすような記述は見受けられない。ところが一つだけその記述をみつけることができた。それは医療従事者の一人であり「保健」「衛生」を人々の中に沸き起こし、「健康」な生活を維持管理しようとした人、保健婦の存在である。保健婦とは、公衆衛生業務や母子保健などに関わる行政ないし保健所に所属する職員のことで、現在は「保健師」という名前で統一されている。本論では、その過去について語る場合は「保健婦」を、現代について語る場合は「保健師」をという風に使い分けて論じていきたい。本論の主題が「保健婦」となっているのは、本論の構成が過去の「保健婦」の経験をもとに、彼女らが実際に見聞きした生活実態を詳細に追いながら考えることを主目的にしているからである。彼女らの活動とは、先に話した公衆衛生活動などを主とするわけであるが、それを行うに当たり地域の各家々を回る家庭訪問を頻繁に実施し、その疾病率であったり、治療であったり、看病であったりすることをしてきたわけであるが、もう一つ忘れてはならないのが、彼女らが行った家庭訪問には人々の生活環境を見聞きし、そこから考えられる疾病の要因や健康被害の状況を事細かに分析し、それを基にして保健計画を立て、地区診断や地域の健康活動に役立てようとしている。そもそも、彼女らの目的は、そうした生活の中に入って観察しそこから問題点を導き出すことを主眼としている。つまり生活を実際に見ている。

 

「保健婦の手記」の可能性

となれば、彼女らが残す報告書にはそうした足跡が記されているはずである。ところが、市町村合併などにより行政文書は破棄されることが多く、ほとんどが残されていない。唯一残されている手掛かりとして、保健婦自らが投稿形式に雑誌へ掲載していた「保健婦の手記」、さらに保健婦自身が自分の半生を振り返って書いた回想録、さらに医療従事者、保健関係者が残した生活記録をベースにした書籍類である。この書籍は保健婦資料館に多く収められており、未だデータベースされていないものも、その利用価値はかなり高いものだ。ただ、「保健婦の手記」の扱いについては資料館側でもまだ整理がついていない状況で、具体的にその手記に描かれている事象を分析し、論文として表す手立ては今のところない。というのも、手記は膨大にあり、一個の雑誌だけでなく複数の雑誌にわたって連載もしくは掲載がされており、「保健婦の手記」であったり「保健婦日記」であったりさまざまである。しかしながら、それらの内容を見る限りにおいて、この手記の特性が三つ挙げられる。まず先に記したように当時における生活の克明な描写があること。生活に根差した活動を行っていた保健婦ならではのものであり、またエピソード的ではあるものの、その背景にある社会状況についても言及がされている場合があり、資料的価値は高い。第二点に、これが掲載される雑誌の傾向である。主な雑誌として『保健婦雑誌』『公衆衛生』等の専門誌に加え『生活教育』という多分に社会教育的な影響を受けた雑誌にさえも、多くの手記が寄せられている。また生活教育の会(後に保健同人会となる)が発行している『生活教育』に至っては、手記の選考会評議会が行われ、入選者が雑誌への掲載を許されている。つまり、膨大な量の文章が選考会に投稿されて、そこからより優られたものが雑誌に載せられているのである。また、単に雑誌に載るだけでなく、有識者、例えば丸岡秀子、石垣純二、国分一太郎、金子光などの社会教育者、衛生教育者、教育者、保健婦などの面々が名をつらね、それぞれが一つ一つの作品に評価を下している。評価内容はその有識者個々に任されていることもあり一定の評価基準があるわけではない。丸岡秀子であれば女性解放のことについて触れていたり、石垣純二は衛生教育上の立場からの意見をのべるなど多様な様相をもっている。資料論をするだけでもかなり豊富な内容を秘めている。もちろん、この雑誌は保健婦に読まれることを前提としているため、保健婦からの応援メッセージがあったり、悩み相談箇所、教育の現場のレポートなどがあり、保健婦相互間の連絡を兼ねていたことがわかっている。他にも保健婦系の雑誌ではないが岩手県国民健康保険団体連合会が発行している『岩手の保健』には、保健婦だけでなく保健事業に関わった国保関係者や看護婦、栄養士など様々な方面からの記述があり、何よりこの雑誌の特徴は編集者である大牟羅良氏の意向もあり「ものいわぬ農民」の発言の場にもなっている。そうした中で描かれる保健婦の記録は、単に保健事業としての目的に沿った統計的なものではなく、実生活面での保健の普及や障害について事細かに述べられている。『生活教育』より保健婦のメッセージ性は少ないものの、戦後の保健状況を知る意味でもかなり重要な資料である。さらに書籍面では先に紹介した大牟羅良の『物言わぬ農民』、菊池武雄と共著した『荒廃する農村と医療』、菊池武雄が記した『自分たちで命を守った村』といった保健活動の主導者側の記録、さらに保健婦自身や農村医療に関わった医師らが自己の回想録として描いた書籍等が数多くある。本研究ではそうした記録類から、当時の農山漁村の状況と高度経済成長を迎えるにあたっての変化、さらにそれにかかわった保健事業の推移や保健婦の動きを具体的に描写していくことを検討している。現時点のところ、保健婦資料館に所蔵されている『生活教育』、さらに『岩手の保健』などの雑誌記事からの「保健婦の手記」をとりあげ、それらを整理している途中であり、今後はその内容分析と生活描写のあり方を検討したい。また同時に、戦後から昭和30年代にかけて活躍し、地域の生活変化に関与した保健関係者からの聞き取り調査を行うとともに、当時の生活の具体性を、保健婦や保健関係者の視点から概観したい。地域の選定については現在検討中であるが、稲葉峰雄が記した『草の根に生きる 愛媛の農村からの報告』を読み、愛媛県の保健活動が住民主体で、行政や保健所、もちろん保健師も含めて進められた共同計画と実施の上にあることを知り、この住民参画型の事業の推移と、住民生活の向上について検討を加えたいと考えている。さらに、他地域での活動にも目を向けていきたいと思っている。但し、本研究は地域比較を検討しその伝播や地域ごとの貧富の差を明らかにしたり、「無知」や「貧乏」を挙げて地域を並列に扱うことはしない。それぞれの地域的特色、取り組みの仕方を検討し、そこからどのようなことが言えるかを民俗学的視点から分析研究することにする。つまり、比較研究でもなければ類型論的な視点でもない、地域生活をそのまま記述することでその当時の生活のリアルな動きを観察し、そこに身体を守るという上で保健活動がいかに根付き、それらを住民が受け入れていったのかを個別に考えていきたい。これは、地域を天秤にかけてこの地域では受け入れが足りない、こっちでは積極的だということを表すのではなく、あくまで保健事業と人間とがどういう関係性のもとで描かれるものなのかを生活面からあらわすことを最終的な目的としている。

 

【将来的展望】

本研究は、いずれにしても過去の保健婦についての外観を示し、そこから得られる経験知ないし、生活変化への取り組みを考察することを主題としている。しかしながら、なにも過去の経験を探ることだけに主眼を置いているわけではない、本研究の将来的な展望は「保健婦が経験した知識を、現在の保健師の血肉にすること」であり、つまるところ保健婦が見てきた生活実態とそれへの対応を、経験を、現代的な保健師の問題と照らし合わせて論じていくことを考えている。昨今の社会状況の変化により、保健を取り巻く状況は変化しつつある、家族関係の希薄化や、家庭内暴力、乳幼児虐待、いじめ、感染症への理解の不足、医療へ頼りっぱなしの生活、高齢化による介護事業の参入など、目まぐるしい変化がそこにあり問題が露呈している。このような問題を解くカギの一つとして、保健婦が行っていた家庭訪問の意義が問われてきているような気がする。家庭訪問の持つ意義は、先に記したように健康を観察することだけに限らず、その家庭生活の機微に触れることを指し、問題の早期発見と予防を兼ね備えた活動である。しかしながら、現在の行政機構の中においては保健所も同様に家庭訪問はケースごと、相談ごとの対応になりつつある。また保健計画作成や事業推進のための書類などの事務作業に追われ、こうした家庭訪問の本来的意義が問われなくなってきている。このことを全国保健師研究集会の会場で耳にし、その現状打破のためにも、保健婦の経験知をこのような状況下におかれている保健師ならびに行政に示すことにより、家庭訪問の促進と保健師の積極的な地域関与を促す役割にこの研究が役立ってくれることを期待したい。

 

 

 

【参考文献】*現時点で読んでいるもの

大牟羅良著『ものいわぬ農民』(岩波書店 1958)

大牟羅良・菊池武雄共著『荒廃する農村と医療』(岩波書店 1971)

稲葉峯雄著『草の根に生きる 愛媛の農村からの報告』(岩波書店 1973)

五十嵐フミノ著『ある保健婦の手記―医療と貧しさの谷間から―』(筑波書林 1982)

五十嵐松代著 新潟県自治体に働く保健婦のつどい 自治体に働く保健婦のつどい編『ごうたれ保健婦 マツの活動』(やどかり出版 1994)

伊藤桂一著『「沖ノ島」よ 私の愛と献身を』(講談社 1968)

岩本通弥・菅豊・中村淳編『民俗学の可能性を拓く 「野の学問」とアカデミズム』(青弓社 2012)

岩間秋江著『青春を谷間に埋めて-無医村保健婦の活動-』(講談社 1958)

及川和男著『村長ありき―沢内村 深沢晟雄の生涯』(れんが書房新社 2008)

大国美智子著『保健婦の歴史』(医学書院 1973)

荻野美穂著『「家族計画」への道 近代日本の生殖をめぐる政治』(岩波書店 2008)

川上祐子著『日本における保健婦事業の成立と展開-戦前・戦中期を中心に-』(風間書房 2013)

菊池武雄著『自分たちで命を守った村』(岩波書店 1968)

木村哲也著『駐在保健婦の時代 19421997(医学書院 2012)

高橋政子著『いのちをみつめて ある保健婦の半生』(ドメス出版 1995)

田中宣一編『暮らしの革命 戦後農村の生活改善と新生活運動』(農文協 2011)

南木佳士著『信州に上医あり-若月俊一と佐久病院ー』(岩波書店 1994)

宮本ふみ著『無名の語り 保健師が「家族」に出会う12の物語』(医学書院 2006)

八木透編『新・民俗学を学ぶ-現代を知るために』(昭和堂 2013)

由紀しげ子著『ヒマワリさん』(大日本雄弁会講談社 1948)

若月俊一著『健康な村』(岩波書店 1953)

若月俊一著『村で病気とたたかう』(岩波書店 1971)

【参考資料】*現時点で読んでいるもの

『岩手の保健』第1号~84(オリジナル版) 岩手県国民健康保険団体連合会

『生活教育』(巻号数不明)昭和35年から40年 生活教育の会

『保健婦雑誌』(巻号略)

『公衆衛生』(巻号略)

『母の友』(巻号略)

『主婦の友』(巻号略)

『保健同人』(巻号略)

『農村北海道』(巻号略)

『社会事業』(巻号略)

研究計画立案「保健婦から見た生活変化と民俗学的アプローチ」途中ですが…



ご無沙汰してます。そろそろ研究をまとめにかからないといけないこともあって、少しでいいから考えを整理するために計画書というか思案書をかいてみました。



研究計画書



研究題目:「保健婦からみた生活変化と民俗学的アプローチ」(日本民俗学会発表用には「保健婦からみる民俗学の可能性」としています)



副題:「「保健婦の手記」からみられる農山村の生活実態と、保健活動の取り組みのよって変化する生活模様について」







内容:



はじめに



 本研究は、従来の民俗学での生活研究のあり方が、衣食住という三分割にされて、それぞれにおいて物レベルで述べられてきた事象を、一度生活の総体として見直し、且つその生活がいかにして変化してきたのかを問うことを第一の目的としている。本来、過去にある事象をこれまで民俗学は「民俗」として追ってきたが、本研究での「民俗」はそれと異なり、より変化の過程に主眼を移し、変化してきたことにこそ意義があるという見方でもってそこに「民俗」を考えてみたい。つまり、祭礼や儀礼といった習俗の残存、持続、継承といった過去への分析ではなく、現代に向かってきている過程を分析することを主体としたい。







研究の方向



 では、具体的にその生活の変化について少し取り上げておきたい。従来の民俗学での生活の変化というのは、先にも述べたとおり物質変化を中心に描いてきた経緯がある。これはどこに「民俗」を考えるのかということを念頭に置いた考えから来るもので、当然ながら昔使われていた道具類に関するその形状や使用法、そしてそれが使われてきた背景、そして道具自体の変化などを追ったものであった。確かにこの点についての分析は、物質文化の側面から見れば妥当な見解であり、その歴史性を実証するには十分な取り組みであると評価できる。但し、道具は人間によって使われていることを前提に考えるならば、その人間の行動、身体と密接になければならない。身体と密接にというのは、道具の使用法にも関わってくるわけだが、どういう生活環境上でそれが身体の道具として使われてきたのか、その道具を人々はどういう風に生活の中に位置づけていたのかそういうことも含めての研究が必要なのではないかと思う。つまり、生活の総体としての研究である。ここでいう生活は、単に衣食住を総合したものを指すわけではない。もっと多角的なアプローチによるものであり、生業や村政なども取り入れた村全体、共同体から見た家庭、そして個人へと向けられる身体の動き、活動を指す。生活それ自体は、有機的な存在で、決して物質的な見識でもって説明できるような無機的なものではない。いうなれば、生き生きととらえられる生活模様をここでは描き、そこにどういった変化があったのかを考えることにしたい。この方針は従来の民俗学ではあまり見られない手法であり、且つ主観的な見方から来るものでもある。これまで物質文化でもって変化を説明してきたのは客観性を重視したためだと私は思う。もちろん、物質文化から見えてくる人間の活動は大きいものである。科学技術の進歩や流通過程、消費経済の流れが物質に集約され、それが物語る生活の様相は確かに重要なものではある。しかしながら、そこに全てが詰まっているわけではない。人間生活には感情があり、物質などの無機的なものからは感じられない変化への眼差しがある。そのまなざしを抜きにして語れない。物質文化を主軸にした客観的な分析のみで物事を語るにはあまりに平均的で、生活の多様性を考慮に入れないばかりか、生活をつくりあげている人間の判断などを無視してしまっている。そこで、私がやろうとしていることは、物質という明確すぎる客観性を用いた平均的な流れに沿ったものではなく、もっと人間味がある、人間がそこでどういう判断をしどういう風に暮らし、どう変化の中に位置づけられるのかということを念頭に入れた若干主観性に依拠した分析方法である。科学性を引き合いに出すのであれば、これは科学的分析というよりも、文学的なものの捉え方かもしれない。人間をどこから見るかによる区分での科学であるが、ただそれを外見でのみ分析するには生活の動きはそう簡単なものではない。もっと内在化したものを含めて検討してこそ初めて具体性をもった生活が描ける。文学的であろうと、それは一つのものの見方であり、ひとつの科学として考えられないだろうか。私は、本研究で科学論を振り回すつもりはないが、生活という舞台は人間が構造する多様なものであり、それを客観的な分析の身で終わらせては、そこに生きる人々の顔は何も見えてこない。それは別段、衣食住に限ったことではない。様々な民俗学における研究には人間の顔が出ているだろうか。人間がどういう風な表情をしてそこに生きているのか、また生きていたのかそういうことを描いているだろうか。それに問いかけ続けることがこの研究の第二の目的である。具体的には、今聞き取り調査が可能な昭和20年代以降、戦後から高度経済成長期という大きな潮流を時間軸に、農山村の実際の生活模様を個別事例に基づき取り上げ、そこからうかがい知れる情報を整理しながら、その当時どのような生活が営まれ、どういう風にして変化したのか、あるいは変化しなければならなかったのかを検討することにする。この生活模様については、個別的であり、個人史に関わる問題も内包する。ライフヒストリーとしての生活描写、その人が生きてきた経緯を記すこと、そこにどのようなきっかけ、要因があり自己の生活、身体の活動を移り替えていったのかを描きだすことが大事になる。しかし、ライフヒストリーだけがそれをできるわけではない。例えば、農山村の文集の中から得られる情報、後で述べる農山村を見つめ続けていた人物からの手記などが、その生活模様を当事者として映し出すことができる媒体となる。ライフヒストリーを個人史とするなら、私の取り上げている文集や手記というのは、ある特定の集団の歴史という風にとらえられることができる。ある特定の集団というと作為的なものを感じるかもしれないが、実際そういった部分もあるが、生活を記すという行為、生活の綴り方運動に端を発する、こうした社会運動的な行動の中には、その生活を記すことによって自己の意見を表面化し、そして社会に向けて発信するという役割がある。ライフヒストリーは個々人が描く場合もあるが、どちらかというと話者と協力者、その関係性の中でその人にあった言葉を見つけながら描かれるものであるから、そこに自己の意見であるとかそういうことよりも、もっと自己反省的な色合いが強い。個人史を執筆者が見つめなおすことは、それは単に歴史を編むことと違って、自己と向き合うことであり、客観的に自分を捉えなおす作業でもある。しかし、私が取り上げた文集や手記というのはそれとは違っていて、その当時のその時々の意見の集合体であり、自己と向き合うというより他者と向き合うために記されている。情報をアウトプットすることに主眼があり、ライフヒストリーのように客観的に内在化するものをインプットしながら作業することとは別のものである。簡単に述べるのであれば、文集や手記というのは、それ自体がその当時のその時点における人々の声であり、そこに記された生活はそのままその当時の生活をそのまま伝えたことになる。多少文学的な書き方があることはあるにしても、自己の意見を表面化する作業であることには変わりないし、何より当時性をそこに見出すことが可能な素材として位置づけられる。ここからみえる生活の様相は従来の民俗学にあるような社会経済だけを表したようなものではない。その書き手個人ないし、そこに描かれる人々がどういう状況下にあり、それをどうしようと動いていたのかを理解しうるための重要な手掛かりとなる。