⑰昭和50年10月『日吉町政だより』
「今年のろばた懇談会 地域の暮らしを考える」では、京都府下で昭和40年代から行われていた社会教育活動と、「憲法を暮らしの中へ」とする蜷川虎三知事の住民主体の行政体制による「ろばた懇談会」と称する、地域問題を住民と行政関係者、専門家、社会教育者などが集まって、現実の生活における問題点について意見交換し、また討議を深め、実行に移すまでのことを検討する会議が行われたとする記事が載っている。記事によれば、これが最初の会議ではなく、何度かにわたって行われていることがわかる。『日吉町政だより』のバックナンバーではこれ以外の「ろばた懇談会」に関する記事は今のところ見当たらないこともあり、過去どのような会議が行われたかは定かではない。記事によれば「ろばた懇談会」は「住民のかたがたが気がるに集り、しごとのことや教育のことなど、毎日のくらしにかかわる具体的な問題やねがいをお互いに出しあいながら、自由に話しあい、考え、私たちの住んでいる地域をよくするための学習の場として行われている」としている。実質行政と住民との町政に関する具体的な話し合いの場になっていた。昭和50年の話し合いでは、和田、新し、片野、駅前の四地区で、道路改良、改良問題、川の美化問題、交通安全対策の問題、子どもの遊び場設置の問題、下排水の問題、水道の問題などが話された。
本記事は、「ろばた懇談会」がどういうものであるのかについての周知徹底を図ったものであり、詳しい議事録を乗せたものではないためこれ以上のことはわからないが、記事の最後に、「こういうことは教育委員会が設営しなくても、できるならば地域で計画して行政との話し合いがされなくてはならない」と、ろばた懇談会が教育委員会の設営によって行われ、ある種行政によって設けられた場での住民の参加であったことから、積極的な住民の参画がうかがえたかというとそうでもなかったような書き方がなされている。つまり、住民参加を集っておきながら、行政の手中にその権限があったようにあることを反省している。「教育委員会のしていることは、そのためのさそい水」としてあったとされる。またこの記事には載せられていないが、昭和50年代当時、まだ簡易水道が全町内に普及されていたわけではなく、雨水をためたり、川から水を汲んでいたりという生活が行われており、吉田保健婦は昭和30年代ごろから、この簡易水道の設置を訴え、行政に設置を促してきたが、全町域にまで波及することはまだなかったと考える。さらに、川の美化については産業廃棄物の不法投棄により河川の汚れが目立ち、そのための措置を取らないといけないということが話し合われたものと思われる。
「じん肺(硅肺)患者の組織が結成」。この記事は昭和48年から行われた全町域におけるじん肺患者の検診の結果に基づき、全国じん肺患者同盟中央本部、京滋じん肺患者同盟組織にならい、日吉町内でも患者組織を作ることを決めた記事である。この記事の背景として、戦中戦後にかけて日吉町域内および船井郡内の鉱山(マンガン鉱山)において働いていた者に、鉱山閉山後からその労働によるじん肺(肺に石が刺さって起きる呼吸障害などの症状)がみられ、このじん肺に罹った患者に対して国にその検診及び治療に対する諸経費の補償を求めようとした経緯がある。昭和40年代から吉田保健婦、日吉町の婦人会などがじん肺患者への働きかけが行われており、当初は婦人会の中にじん肺患者を夫に持つ婦人から吉田保健婦に相談があり、相談の結果、町医師である藤岡医師のもとでじん肺の検診が自主的に行われるようになっていた。ところが、行政はこれに対して冷ややかな対応を取っており、昭和40年代の時点では、町行政がこれに関与することはあまりなく、予算的措置が取られていたわけではない。そのため、吉田保健婦を筆頭として婦人会らがこれに対して盛んに運動を執り行い、先に見た全国じん肺患者同盟や京滋じん肺患者同盟組織をみつけ、そこに加入することで国から検診に対する支援金があることを知り、そのために町行政に話をつけ、今回の昭和50年に組織を作り出すことに成功したということとなっている。会員数は60名、賛助会員40名からなり、京滋じん肺患者同盟日吉支部として、国に次のような要求をした。「一、われわれじん肺患者の健康診断の費用を国で持て。一、われわれ、じん肺患者の休業補償を生活できる額にせよ。一、われわれ、じん肺患者の(管理三)の者に対しても何らかの補償せよ」としている。じん肺患者数は検診を受けた者で、昭和49年に39名だったのが、昭和50年には50名になっている。このことからも、じん肺という職業病に対する住民の意識が芽生え、それによる行政への請願、国への補償を訴えることにつながったことがわかる。これも、吉田保健婦をはじめ藤岡医師、そして日吉町内の婦人会の協力なくしては成り立たなかった。
「家庭奉仕員 九月より二人に」では、昭和48年度からはじめられた福祉施策のひとつとしての家庭奉仕員を、昭和50年9月より一名増員することを決定している。当時日吉町内には独居老人が62名、重度障がい者19名が暮らしており、これまでは一人で一週間に14から15名の独居老人並びに重度障がい者の世話をしてきたが、より多くの人々に、きめ細かなサービスができるよう、奉仕員の増員を決定したという。奉仕員となったのは湯浅ふさゑさん(当時38歳)。
⑱昭和52年4月『日吉町政だより』
「夫人の手でより住みよい町に 「日吉町婦人の集い」が開かれる」では、日吉町内の各種婦人団体が集まって、第八回「婦人の集い」が行われた様子が記事に掲載されている。記事によれば、これは国際婦人デーを契機に、婦人活動の活発化を促し、婦人の力でより住みよい日吉町にしようという目的で催された。さらに、この集いには助役が「今日、婦人は社会的に大きな役割をはたしているが、その役割が十分認識されていない状況にある。つまり、家事、育児、教育、仕事という大変な仕事を十分評価されていない状況である。これらの問題をどう解決していくかを、この機会に十分学習してほしい」と述べ、そのあとで大阪音楽大学で社会教育を研究している井上英之氏を講師に招いて「民主的な家庭づくりと地域づくり」という講演を設けている。講演の内容は、当時の婦人の労働状況の分析から、農村生活が都市化傾向にあることを指摘し、婦人会そのもの活動が都市化傾向で減退している現状から、教育の問題や健康の問題に対して十分に理解が及んでおらず、これを解決するために婦人の働きかけが必要であることを述べていた。
こうした集いは、「ろばた懇談会」の婦人会バージョンにあたり、婦人から行政に対する疑問を提示する場でもあったのではないかと推測される。但し、町当局がどう参加していたのかについてはわかっておらず、社会教育面が前面に出されていることから、どちらかというと、教育的指導としての傾向が強いものであったのではないか。また、昭和50年代に入ってから、昭和30年代40年代と活発化していた婦人会活動が、先に見たように婦人の日雇いや町外労働により、婦人会自体に参加する人員が減ってきていること、昭和30、40年代に比べて減退していることを挙げて、この解決に「婦人の集い」が必要であったことを表している。
⑲昭和52年11月『日吉町政だより』
「全日本健康優良学校に五ケ荘小学校」では、五ケ荘小学校(6学級68人)が全国の小学校の中から健康優良学校として朝日新聞社から表彰を受けたことを伝えている。この表彰に至った背景には、昭和46年ごろから四ツ谷、佐々江校区で過疎化が激しくなり、且つ両親が共働きで町外にいることがあってか、食生活が栄養バランスの悪い食生活になりがちで、それを学校保健委員会(昭和46年発足)が健康づくり運動を行い、早朝マラソン、乾布摩擦の実施で、体を鍛えるとともに、食事面では栄養を重視した献立の給食を実施するなどその成果の表れがある。
当時の社会状況として父母が共働きの家庭が増加するとともに、祖父母によって育てられる児童が多く、祖父母は孫に好きなものを食べさせる傾向にあったがために、栄養の偏りが目立ち、その解決のための学校保健委員会組織の結成であったと思われる。ただ、この学校保健委員会がどのような組織で、だれが担っていたかについては記事からはわからない。
「60人の婦人が参加 郡衛生管理組合の見学」では、昭和52年9月に行われた婦人会による、船井郡衛生管理組合の見学のもようが伝えられている。婦人会はこの見学会でごみの分別がいかに大切か、さらに子の分別にかかる町行政の財政についての聞き取りを行い、日々の日常生活におけるごみの処理を徹底することが「美しい町づくり」につながるとしている。
当時の婦人会活動が、環境問題に対して熱心であったこと、さらにこうした環境問題が日常生活の卑近な問題であることからここから解決を目指すという方針の表れが見える。
⑳昭和53年12月『日吉町政だより』
「最近のニュースに思う…… 北川和歌子」では、町保健婦の北川和歌子氏が昨今の健康事情について述べている。記事の内容は、赤ちゃんの食事に対するもので、昭和53年当時ニュースで話題になっていた放射線をあてた食品が出回っていることに言及し、こうした食品ではなく、もっと安全な食品を扱うように指導することを述べている。また、昭和30年におきた森永ヒ素ミルク事件に触れながら、「せっかく元気で生まれてきた赤ちゃんにお母さんの手で毒を食べさせないように注意」し、「新鮮な野菜をたくさん使った味噌汁を家族には食べさせ、赤ちゃんにはその上澄みを少し食べさせてあげることが大事であり、食品の選定には注意が必要であるということを促している。さらに毎日の食器洗いで使う洗剤によって手の皮膚に必要な油分も奪われることから、市販の洗剤ではなく昔からの石鹸を使った洗い物へと変えることを推奨している。
「農家のくらしと婦人の貧血 吉田幸永」では、町保健婦の吉田幸永氏が健康の目安となる貧血検査「ザーリ」について述べている。「ザーリ」とは血色素数を求める法式で、被検者の単位容積血液中の血色素量と赤血球数の比を求め、これを健康者について得た同比に対する相対値として表現する.次式によって計算する。当時の健康値としてのザーリは80ぐらいであるが、それ以下は貧血として献血などができない。昭和30年代には献血はお金になり、血を売ることで収入を得ることができていた。吉田保健婦はこのザーリの話題について、日吉町の主婦の中ではこの数値を言い合ってお互いの健康を確かめ合うことが合言葉のようになっているという。文章が非常に面白いのでここでそれを抜粋しておく。
日吉町は昭和四十一年から、婦人会活動の主目標に、「健康づくり」をかかげ、年一~二回の健康相談、支部によってはお医者さんに来てもらって健康診断を実施しています。この時いつも話題になるのは、睡眠と食物の話。支部によってはほとんどの主婦が、ザーリ七〇。なんでかなと、よくよく聞いてみますと、ここの支部はみんな働き者の主婦で、睡眠時間は四~五時間でくたびれていることがわかりました。また冬はわりと元気なのに、夏にはガタの来ている主婦。
「バレーの練習でクタクタ、夜バレーに行こうと思ったら、一日の仕事をうんときばって早くすませ、晩のしまいをして、せんだくもして、ふとんしきまでして来んならん。えろうて、えろうて。そらザーリ、七〇にもなるわ」
「バレー、何時頃までやったはるの?」
「十一時にはなるなあー。それから帰って風呂に入ってねるの十二時すぎるわ」
「旦那は応援してくれへんの」
「旦那ども、奥さんのバレーがはじまったら、ほろくに晩めしもあたらんてカンカン」
どうしたら、旦那さん、バレーに頑張る奥さんを応援して下さるかしら……。
次は食物の話。健康診断がおわったあと、婦人会の役員さんと、お医者さんとのやりとり。
「晩めしのしたくにせめて二時間はかけてほしい。たべるものを創るのは一つの芸術である」
「料理に二時間もかけとったら、内職のお金もうけがパーになってしまいますわ。わたしら内職しとって、ふくろ物買うて皿にのせる。このぐらいしとっても、くらしにくいのですもん。昼ども一人やし、茄子びの漬物でお茶漬けでカサカサとすませます」。
パートや内職にこきつかわれ、家の仕事に追いまわされ、最も困っている人びとが、たのしみながら食事の支度に二時間をかけ、睡眠を十分にとり、せめて貧血検査が、ザーリ・八〇にするくらしをするのにはどうしたらおいのかを考え話しあう場の一つに、「生活教室」があります。中味は料理実習とくらしの問題の話しあい。年齢に制限はなく、十代の娘さんから八十近いおばあさんまで誰でも入れる教室です。今活動をやっているのは、宮村、生畑、殿、佐々江、西胡麻、上胡麻の各教室です。町の保健婦もいっしょに勉強しています。詳しいことをお聞きになりたい方は町役場保健課、保健婦へおといあわせください。
という文章である。この文章は暮らしを支えている主婦がいかに忙しい身であるのか、さらにそれによって生じる、食生活の不摂生、睡眠の不規則などに問題があり、そのために貧血が起きてしまう現実を物語っている。この当時の婦人の働きようはかなり激しいものであったらしく、日雇い労働に出かけ一日を過ごし、夕飯はインスタントがほとんどで、あまり料理をしなくなっていたという。
㉑昭和54年12月『日吉町政だより』
「マンガン鉱山の元労働者 集団検診75人が受ける」として、昭和49年から続いている日吉町内のマンガン鉱山の元労働者に対する集団検診に関する記事が掲載されている。記事によれば51年、52年にも検診が行われ、のべ174名の検診が完了し、その中で労災認定を受けたのが63人もいたという。しかしながら、これまでに患者同盟の自主検診でかなり受診率が上がっているものの、まだ埋もれた労働者がいるという京滋じん肺同盟の要請に応じて今回の検診が実施された。今回検診を受けた中には、坑内運搬に従事していた婦人の姿もあったという。
「生畑木住簡易水道が完成」という記事では、昭和53年から続けられていた、簡易水道工事が11月10日に竣工式を迎えた。総工事費は1億9294万5千円で、内訳が国保補助金7087万円、府補助金が1771万7千円、町債が1億80万円(内7610万円は年金積立金還元融資、過疎債2470万円)、地元負担金330万円、一般会計からの繰越金25万8千円となっている。水源は木住川の伏流水に求め、浄水所から六つの配水池に送水されたうえで生畑、木住両地区の104世帯(410人)へ配水された。この簡易水道の完成で日吉町内の簡易水道普及率は94パーセントとなった。
この記事には、竣工式、会計、配分についてのほかに、町民の感想が2つ寄せられている。「完成を待ち望んでいました」とする木住地区の法谷啓子氏がこの水道のおかげで炊事などの婦人労働が楽になると同時に、消火栓設備によって火災の際に主婦の手で鎮火できる手段ができたと喜んでいる。また「これで安心です」とする生畑地区の船越千代氏は、炊事や風呂に水が使えることへの喜びと同時に、きれいな水道の利用について「有害な洗剤をさけるよう各自が気を付けていきたい」と環境衛生への配慮がうかがえる。
㉒昭和55年11月『日吉町政だより』
「ああよかった!」。これはこの11月から連載が開始された吉田幸永保健婦による、とある保健婦活動のことをつづったものである。11月号では、殿田小学校の湯浅氏から保健婦に食品添加物の主に漂白剤についての学習を行うから、その検査薬を手配してほしいという話からはじまる。検査薬を保健所に問い合わせたところ、係りの者がいないからと断られかけたが、吉田氏は粘って課長から許可を得て、小学校の家庭科授業への薬品の供与をしている。この殿田小学校の取り組みによって、主婦の間で食品添加物の問題が児童を通じて知らされ、これについての「こういう勉強は、一家の台所をあずかっている婦人がやらんならんこっちゃ」として婦人学習に役立てたといっている。
当時の主婦、婦人会や婦人グループの取り組みはかなり盛んに行われていたこともあり、上記のような児童から学習内容を伝え聞くと同時に、それを実践に移す行動力があった。
㉓昭和55年12月『日吉町政だより』
「ああよかった!(その2)」では、同じく吉田保健婦の体験談として、子宮がん検診の話で、婦人会からおしかりを受ける場面を描いている。当初年に一回の受診をこころがけるようにと住民に話してきたのに、いつも行われていた6月の検診日が、12月へと切り替わりその間の半年ばかりは無検診状態にあることを婦人会から指摘され、吉田保健婦は、これに対応すべく、検診日を元に戻すように八木保健所および府の衛生課にかけあうが、年間計画スケジュールの都合上できないと断られ、医師会にも断れれ、けんもほろほろなところ、婦人会支部長に相談したら、H医師を紹介され、H医師にかけあって子宮がん検診を勝ち取るというものである。
この記事内容自体が婦人の発言からスタートし、婦人の紹介で医師を確保にまでこぎつけるといった、婦人の健康意識の高さと行動力が保健婦を凌駕していることが重要なところとして思われる。
㉔昭和56年4月『広報ひよし』
「ああよかった(その4)」では、日吉町が取り組んできた子宮がん検診が、昭和55年12月の検診で、12年目になることを終えて、11206人が検診を受け、そのうち15人が0期のがんで、155人が子宮筋腫の早期発見へと結果を表したことにちなみ、そこでの回想を吉田保健婦が述べている。
回想の時期は判然としないが、婦人会から議員になった磯部氏の町議会を傍聴しに行くという話である。婦人会が保健婦とともに議会の傍聴を求め、保健課課長の許可を得て、磯部氏の発言に耳を澄ませる。磯部氏は町議会で「○番議員、吉田町長に質問とお願いをいたします。私ども婦人会は女のいのちを奪う子宮がん死亡ゼロをめざして頑張っております。今日は超婦人会を代表いたしまして、次の二点について町長の前向きの答弁を求めます。①子宮がん検診車をつくっていただきたい。②検診費の個人負担三百円を、町で負担していただきたい」との発言。それに賛同する議員が表れ、町長は「町婦人会のいのちを守る熱意にこたえ、一千人までの検診費は町で負担します」と述べた。
磯部氏は婦人会の会長でもあったことから、常日頃子宮がん検診がもっと活発化し、検診をうまくできるようにならなくてはと思っていたと考える。そのため、婦人会の同志から「女の声を町政に反映させてもらわんと」ということから、町議会への発言へと至ったのだろう。これによって子宮がん検診車「さちかぜ号」ができる。
㉕昭和56年5月『広報ひよし』
「ああよかった(その5)」では、昭和56年4月25日、子宮がん検診車「さちかぜ号」が誕生について吉田前町長の意見を吉田保健婦がうかがっている。「そら磯部さんは偉い人やった。ほんま言うたら銅像たてんならんぐらいの人やった」と。磯部氏は蜷川前京都府知事に子宮がん検診車の件について、女性が子宮がんで亡くなっている実情とそれに対する行政のケアをについて体当たりで要求したという。
このエネルギーがどこから来るのかと思うぐらいの婦人会の行動力の大きさ、これは多分昭和40年代の田中友子氏の来訪と、その後の吉田保健婦の支えがあって他にはないだろうと思う。それこそ、婦人問題研究の壽岳章子氏が絶賛するのも無理はない。
【『日吉町政だより』『広報ひよし』と、吉田保健婦の著作とを顧みて】
以上、『日吉町政だより』『広報ひよし』から判明する限りの保健婦と婦人会の活動状況、またその周辺での社会問題に対する取り組みを追ってみたが。ここで明らかになるのは、保健婦個人が中心となって行った活動が果たしてあるのかという点である。あるとしても昭和40年代以前の記事に散見されるものだけで、あとは婦人会が中心となって保健活動が取られている。
何度も記述するようだが、昭和40年代に入り、園部町改良普及所から田中友子生活改良普及員が指導に日吉町を訪れ、そこで婦人グループに対して「言いにくいことを、言いにくい場でいう」活動を展開し、嫁や女の意見を家庭や社会で言える場をつくる取り組みをしていった。これは、これまで、嫁や女はどこかしら牛馬のごとく、またネズミよりましな惨めな生活を送っていたことを受けて、婦人解放を訴えてきた田中友子氏が音頭を取り、その考え方からすべて変えていこうとした。
吉田保健婦もこれを敏感に感じ、自分が今までしてきたことはどこかしら「官僚主義」であったことを反省し、婦人の立場に立った活動の展開をこの田中氏とともに歩んでいこうとした。数々の社会問題に対し、婦人会の発言力は増していき、しまいには先に記したように町議会をも動かす行動力へと移っていく。こうした、婦人の力が保健婦を動かし、婦人の力による保健婦活動の実現であったと考える。
このことについて、吉田保健婦はたびたびいろんな場で発表をし、その婦人会などの地域活動における公職者の立場を、もっと住民の立場に立ったものへとするように訴えようと数多くの出版物で述べている。これについて、同僚の北川保健婦は少しやりすぎな部分はあったけど、吉田氏らしい活動であったと表現している。
吉田保健婦がこうした地域の取り組みを内外に対して示したことは、二つの意味を持っていると思う。一つは、保健婦活動というのが地域を対象としておきながら、本当に地域生活をみていたのかどうかという疑いと、その実施にともなう地域住民とのつながりは以下にあるかということである。つまり、吉田氏は自身の体験から、自分が行ってきた保健婦活動は、「地域のために」と叫んでおきながらも、それを地域住民に理解されていなかったこと、理解してもらうための取り組みを行ってこなかったことを反省し、そのうえで、地域の第一線で活躍する保健婦たちに行政側の人間として地域を見るのではなく、公職者は行政の外からそれこそ住民側から生活を鑑み、その中でどのようにしたら生活に取り入れてもらえるかを考えることを常に持っておかないといけないと考えたためだろう。
もう一つは、地域住民の参画なくして保健婦活動はあり得ないということである。これまでの保健婦活動はどこか地域住民への施しを中心とした、上から下への官僚主義的な動きでしかとらえられてこなかった、先に示したように「地域のために」ということを叫んでも、それは単に一方通行的な問いかけであって、それを実践する住民自身の力にはなりえていなかった。これを反省し、地域住民からの自発的な問いかけ、ことに生活に関する素朴な疑問から出てくる内在的な気持ちの噴出を起こすこと、田中氏がやってのけたように「ものいう女性」にみられるように、住民自身が自らの生活を省み、そこから何を学ぶかを考え、行動に移していくことの大切さ、そのような中で保健婦がどういう働きができるのかを伝えたかったのではないかと思う。
このような、保健婦と地域住民、特に婦人会とのつながりを考えてみると、日本全国のあらゆる地域に見られる。だが、こうした住民が最終的に主導権を握り、保健婦をも動かせる立場になることは、日吉町の独特のものであると考える。
本調査で得られたのは、保健婦と住民との対話とその行動力の育成の過程と結果である。