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2013年5月27日月曜日

NPO法人公衆衛生看護研究所 保健婦資料館付属研究所総会②


平成25526

於:保健婦資料館

保健婦資料館総会二日目報告

 朝からやさしい陽光を受けて起床したのは最高の気分でした。昨晩の総会では保健婦経験者の方々との語らいは何事にもかえられない良い刺激であったし、夕飯の料理は最高で、ピアノ伴奏までついて楽しい時間を過ごせました。

【保健婦資料の傾向】

 朝食前に保健婦資料館の写真を撮ったり、収蔵庫に保管されている資料を眺めたりして過ごしました。収蔵されている資料を拝見していて二点のことについて考えていました。まず一点目としてよく保健婦が現場で経験する際に用いられる社会教育的な要素がどこから来ているものなのか資料で当たれないかという点、二点目は農村や農民自体を保健婦がどのような視点で見ていたのかという確証を持てる資料がないかどうかという点でした。結論的に言えば、保健婦資料館に所蔵されている資料の中ではそれらの占める割合は少なく、必ずしもこれらの資料を活用して活動をしていたわけではないことがわかりました。二点目については、菊地頌子氏と名原氏曰く、「農村や農民の実態については、資料で確認するというよりも、現場で確認することが多かったし、保健婦養成の教育課程で都市と農村の両方に実習へ向かうことでそこから知識を得ていた」ということでした。なるほど、現場主義らしい保健婦の証言でした。尚、補足的に見られていたとされるのが社会学的な調査項目が掲載された古島敏雄氏ら編の『農村調査研究入門』(東京大学学出版 1980)で、この農村や農民への関与は保健婦にとって最大の関心ごとでもあったと考えられます。また、もどって一点目については、これは私の雑感なのですが、昨晩菊地氏との会話の中で保健婦の現場での活動、特に教育活動においては社会教育的な思想がかなりの割合でかかわりを持っていたこと、『生活教育』などの生活記録、生活綴り方運動との兼ね合いから全くもって無関係であったとは言い切れないと思います。

【総会発表において】

①3.11での保健師の証言から学ぶ

 朝食後、菊地頌子氏の発表で「原発事故と福島の保健師たちの現状」として現在保健婦資料館が取り組んでいる記録映画『1000年後の未来へ、3.11保健師たちの証言』の中で、どのような聞き取りが行われ、さらにどのような証言が得られたのかを個別事例を出しながら詳細に報告されました。東日本大震災は未曽有の大震災として、大きな津波被害もさながら、福島県の原発事故によって多くの方々が故郷を追われるという事態を招きました。ニュースで何度かこういうことを伺ってはいたのですが、その渦中で保健師たちが何を行っていたのか、どういう風な思いでそれにあたっていたのかという証言を集めたこの発表は、後世の保健師にとって災害時の保健師の在り方を問う意味において重要なものではないかと考えます。映画は是非とも見たいと思いました。また、菊地氏より全国保健師活動研究会編『3.11ドキュメント 東日本大震災 原発災害と被災地の保健師活動』(萌文社 2012)を譲っていただき、この発表の詳しい内容をまた本で確認できるようになりました。菊地氏には感謝いたします。

②公設産婆と総合保健活動

 続けて、元福井県立大学短大部地域看護学を担当されておられた藤下ゆり子氏より「福井県の保健婦のあゆみ」の報告がありました。特に戦前から戦中にかけての福井県内での保健婦の姿、その前身たる公設産婆と巡回産婆のことについて詳しく報告がなされました。私も公設産婆については存じ上げなかったのですが、福井県内では公的に産婆資格をもった人を地域の保健医療の第一線で活躍できるようにと、様々な取り組みが行われていたということです。その取り組みの中には保健所所長の近代的な考え方が見られ、彼らの力添えがあって行われていたとのこと。また、もう一つ驚いたのがツ反(ツベルクリン反応)がこの戦前期においても行われていたこと。戦後の保健婦活動では常識化していたことではありましたが、戦前のツ反が行われていたのは初めて聞きました。保健婦経験者らの話では、戦前期にもうすでに小学校等でツ反の集団検診が行われており、結核予防会が中心となってこれを行っていたのではないかという意見が出ていました。なるほど、結核予防会が関与していたのならそれは戦前期、さらに戦中期の健民健兵政策の中に位置づけられる活動ですから、事業的な目的とも合致しております。さらに、この当時、栄養改善がそれらの政策の中で語られて、実際に行われていたことに驚きました。というのも戦後の生活改善諸活動のなかにおいては、戦前の栄養改善を含む生活改善はスローガンがほとんどで、実際に行われたかどうかはいまだわかっていないことが多いためです。つまり、この藤下氏の報告内容からすると、戦前気の早い段階において栄養政策が公然として行われ、またその成果が伝えられていたということになり、ただ単なるスローガンではなく実践性を伴ったものであったことがわかったのです。なかなか刺激的でした。

③社会保健婦の日記から見つめる

 続いては、元千葉県保健所保健師の弓削田友子氏より「千葉県の社会保健婦養成と卒業生の記録から」と題して、戦前期の社会保健婦が残した日記や新聞記事から見られる社会保健婦養成がどのようにして行われたのかを、資料提示という形で報告されました。資料提示なので実際の分析までは至っていませんでしたが、社会保健婦がどのようにして育成されていくのかが、保健婦の実体験としての日記によって明らかにされるのは大変面白い内容だと思いました。私自身、保健婦の手記という、保健婦自身が記したものをベースとしていることから、資料上の扱いについて気になって質問をさせていただいたのですが、そこはまだ議論が進んでおらず、資料収集がまず先決であるとのお言葉でした。確かに、資料が集積しないことにはその歴史的展開を立証するには不十分なものといえましょう。また、私が驚いたのが、そうした戦前期の社会保健婦時代の日記が今も残っているということ、それ自体が持ち合わせるものとして従来大国美智子氏を筆頭にして語られてきた保健婦の歴史という事業史がもっと具体性を持って語られていく過程が見られる可能性が広がったことを示していました。日記資料は主観的な史料としての批判性も高いのですが、弓削田氏は同時にその社会保健婦のご子息が保管されていた新聞のスクラップ記事を並べて、当時性を確保しつつ客観的な視点での分析が可能なものとして評価できるものだと思います。
 以上が調査研究報告の内容であったわけですが、フロアーからの声として大きく上がったのが、やはりその戦前期の資料を今のうちに収集し、保管しておく必要性があること、定期的な資料報告の必要性があることなどが語られ、これが資料館における資料の位置づけを物語るものであることをおもいました。というのも、保健婦資料館館長である坂本玄子氏と朝の事務室にてお話ししている中で、とう資料館が目指すのはまず収集であって、それを活用するのは自主的な学習意欲のある保健師や研究者にゆだねられることが先決であり、こちらからのアプローチは総会を含め、研究会などで語っていくことが大事であること。資料報告によって明らかになることが多いことを仰られておられたので、弓削田氏の発表のときなるほど、こうした報告が定期的に行われ、それによって研鑽されていくのだなぁっと感心しておりました。

【保健師の悩み】

 昼食時には、保健婦経験者の方々から、現在の保健師の在り方についてのお話を聞いたりして過ごしました。現在の保健師は、その方が曰くは「外に出ていこうとしていない」というのです。それは事業的な縛りもあるかもしれないのだけど、それにしても「外に出る」努力をしていないのではないかという厳しい意見でした。ただ、そうした状況を作り出した責任は保健師だけにあるのではなくて、行政のほうに責任があり、人事削減により事務職を削ったがためにそのつけが保健師に回ってきているという、本来専門職である保健師の立場が行政内では事務職としての在り方に成り下がっていることを指摘されておられました。大変興味深い内容でした。

【今後の保健婦資料館の事業として】

 昼食後は本来であれば長野県佐久穂町役場の須田秀俊氏の提案事項がご本人より報告されるのでしたが、お仕事のご都合で出席できないとのことで、昨晩中に資料を持参なさって説明をみんなの前でなさっておられました。ある程度の共通認識が置けたところで、今後の資料館の取り組みとしての「戦前の産業組合発行『保健教育』の発掘グループ募集」が提唱され、具体的なグループ活動として各大学や諸機関に保管されている資料収集作業が語られました。やはり議題に上がったのは昨晩須田氏が仰っておられた資料保管のことを考えるのであれば全文コピーを取ることが必要であり、その著作権がどこにあるのかを調べ、それをどうクリアして資料をいかに収集するかということでした。私は、奈良医大の図書館に所蔵されている『産業組合』(『保健教育』の前身)を収集するチームに配属させていただき、保健婦資料館の一員として調査に参加することを表明しました。私以外にも奈良医大には元大阪の保健婦でおられた南氏や林氏がご同行いただけるとのことで、大変ありがたいことです。私自身、戦前の保健婦活動についてはあまり存じ上げておりません故、経験者の方々の証言を交えて資料を調査できる機会は、またとないチャンスとなりそうです。あとは奈良医大との接触について具体的な検討策が考えられました。

 これにより保健婦資料館の総会は閉幕し、各々の課題を持ち帰り、914日と15日に行われる研究会に向けて、資料収集を進めていくことになりました。

NPO法人公衆衛生看護研究所 保健婦資料館付属研究所総会①


平成25525

於:保健婦資料館

12回総会に出席して
 
【資料館訪問に対する想い】

 保健婦経験者が集まる保健婦資料館の第12回総会に出席させていただきました。もういった当初からテンションが上がっていたのですが、私としてはこの総会の場で、自分の研究について触れ、それで保健婦資料館としてこの研究を続けていくことを考えたいと主張するために来ました。というのも、これまで民俗学側、特に佛教大学との接点で論文を書籍化したり、活動を繰り広げてきましたが、自分自身の反省として、あまりにも大学の恩師におんぶにだっこというのはいかがなものかと思ったきらいがあったからです。また、独立した研究者として、保健婦活動を民俗学の中に位置づけ、且つ農民生活と密接にあった保健婦の在り方を今一度振り返ってみる必要性が現代の保健師教育上には欠かせないと思ったからです。本日の会はそういう気持ちで挑んだのです。


【川上裕子氏との出会い】

 昼ごろに穂高駅につき、食事をとってから保健婦資料館に赴いたら、ちょうど川上裕子氏と出会い、川上氏が出しておられた『日本における保健婦事業の成立と展開―戦前・戦後期を中心にー』(風間書房 2013)についてお話をお聞かせいただき、且つ私の研究についても少しご存じだったようで(生活改善での研究)、話が弾みかなり貴重な時間をいただきました。本当に川上氏には感謝です。川上氏は大国美智子氏の『保健婦の歴史』(医学書院 1973)では具体的に扱ってこなかった、詳しい保健婦の戦前戦中期の流れをとらえられており、事業史の在り方を今一度見つめなおす著書として素晴らしく、今も私自身読みふけっているところであります。その意味で、この会は出会いの場でしたね。いろいろな保健婦経験者の方々や大学で保健婦の歴史をとらえておられる方がともお会いできたのはいい機会でした。


【総会の講演を通じて】

①在宅保健師の震災支援と自治を考える

 昼過ぎから総会が行われ、議事の進行のもといろいろな事業計画が出されて、そのたびにああこういう活動も行っているのかと驚かされることがたびたびありました。何ともすごい会に入会したなぁって感激しました。
そのあと、「長野県栄村の大震災と在宅保健師による村民への支援活動」というタイトルで、在宅看護の会・信濃の会の小林澄子氏がご報告なさっておられました。在宅看護の会という初めて聞く言葉ではありましたが、退職した保健師らが在宅保健師として退職後も、保健師の取り組みをなさっておられるとのこと。長野県栄村の大震災は東日本大震災後に起こった震災で、あまり注目がいかなかったものだったそうなのですが、その震災による被災者救援に向けて現役保健師だけでなく、在宅保健師がボランティアとして地域に滞在しながら、看護などにあたっていたことを聞き、やはり保健師の在り方は地域の中にこそあるものだなぁってしみじみ思いました。また、栄村は自立精神が旺盛な村で事業を住民自ら動くという形でなさっていたことを聞き、そういう中で保健師はどういう活動をしていたのであろうかと不思議と疑問に思いました。というのも、この地域では下駄ばきヘルパーと呼ばれる住民の自治組織の方々が地域で盛んに活動をなさっているという中で、保健師が果たせる役割はなんなのか、また保健師が取り組むべき地域の問題はどこにあるのかということを考えさせられるものであったと思います。在宅看護の会がなさったボランティア活動は、震災を契機にこうした自治組織と連携をとりつつ、行われていたとあって、こうした地域社会における保健婦の確立というのを今一度問い直す意味で、個の発表は大変貴重なものであったと考えます。

②戦前の東北更新会を学ぶ―戦前戦中の保健婦の体制―

続いて記念講演として弘前学院大学教授の松本郁代氏が「東北更新会の目的・組織・事業と保健婦の養成・配置はなぜ行われたか、東北更新会がめざした保健婦像」と題して、戦前期に起こった東北更新会による保健婦活動について、歴史的な視点からご研究されておられることをご発表されておられました。東北更新会というのは、戦前期の東北地域を襲った凶作によって破たんした生活を立て直すべく、中央の社会事業として行われた活動だと私は思っています。その活動が、支部、分会を通じて現地に下されていく模様、またほかの社会事業団体や同潤会、セツルメントとの兼ね合いの中で行われていく過程が、すごく斬新でかつ戦後の保健婦活動にも通じる部分があるように思いました。ただ、今回のご発表のなかではその活動がどのように地域で展開されたのかは述べていらっしゃるものの、どういう風に受容されていったのかという部分についての問いかけがなく、私の研究の立場からすると不燃焼気味でした。別に学会発表ではないので、基調講演ですからそこはそれなんでしょうけど。ただ、保健婦事業が戦前において定着していく際に、この東北更新会という動きが連動し、それによって地域に保健婦が入るようになっていったことは大変勉強になりました。具体的な活動も、かなり面白いものでした。
講演後は様々な議論がなされていったのですが、私は先ほど申し上げた不満から、ついその事業の評価はどうであったのか、地域にとってその事業はどういう風に生かされていたのかという部分を突っ込まざるを得ず、大変見苦しいところを見せてしまったなぁって反省しています。ただ、松本氏は、その点について親切にお答えいただき、また保健婦の歴史が戦前と戦後との間に分断がなされている事態に対してもご指摘をなさり、それは中央の部分の考え方と末端である保健婦との考え方に違いがあったからではないのかという風に仰いました。中央では健民健兵政策の一部としてこれを活用し、事業史でもそのように書かれているけれど、実際現場で働いていた保健婦はそうではなく、地域に根差した生活の改善に努めていたということを聞き、ああそういう風な二重構造がそこに成り立っていたのかと納得しました。どうしても事業史方面から見ると、政策面が強調されてそうした末端の意見というのが捨象されがちになるので、二重の構造がそこにあったとするならば、それは、社会事業としての保健婦活動がそこにまだ顕在し、政府の動向もあるけれど、それとは別の感覚で地域を見ていたことにもつながると思ったのです。


③保健師養成とその中で学ぶ保健婦の経験知

この後は、しばらく休憩に入り、私は近くの温泉入浴場へ行ってきました。やはり穂高に来たのだから温泉を浴びておかないともったいない気がしたのです。入浴客はそこそこいましたけど、しばし疲れをいやすことができ満足でした。帰館すると豪華でおいしそうな夕食の準備が整っており、川上氏の出版記念の祝賀を祝って祝杯をし、私は隣席になった福井県の保健婦経験者である飴谷絹子氏と話したり、福井大学の講師をされておられる北出順子氏とも保健師教育やその現状のことについてお聞きしたり、質問させていただいたりしました。その節は大変お世話になりました。北出氏との会話の中で、やはり保健師教育の過程で保健婦経験権者との接触は大変貴重なものであると同時に、保健師が保健婦経験者から学ぶ機会を行っている北出氏の取り組みは、私が目指すべきことだなぁって思いました。今後も、何かと北出氏と接触を図りつつ、保健師のためにできること、自分がどこまでできるかを模索していきたいと思いました。また、飴谷氏には、保健師と保健婦のあり方の問題をよく取り上げてくれたと嬉しいお言葉をいただき、感無量でした。民俗学内ではこうした保健婦の活動についての着眼点が、木村哲也氏の『駐在保健婦の時代』(医学書院 2012)でしか見られておらず、まだまだ民俗学の中に保健婦の位置づけができていない状態があり、そのようななかで話者である保健婦経験者の方からありがたいお言葉をいただけることは、どれだけ救いになるか。私はここにきてよかったなぁって本当に思いました。その後も、自己紹介の中で、私の思いのたけをぶつけさせていただき、長々となるのを真剣に耳を傾けてくださった方々に、敬意を表するとともにああ私はここでこうして保健婦経験者の方々とともにあり、考える空間を共有していることの素晴らしさを身をもって感じました。

④日吉町故吉田保健婦の活動をお聞きして

食後は事務局の菊地頌子氏とお話しし、今後の研究計画書をお渡しするとともに、現在取り組んでいることを詳らかに話しました。というのも、菊地氏が今度調査に出向く、京都府南丹市日吉町の故吉田幸永保健婦をご存じで、しかも知人であったことを仰ったことに始まりました。こういう繋がりもあるのかと感嘆しました。そこで、お話を伺っていると、吉田氏は昭和30年代、地域において「地域住民のために」と様々な取り組みを行い、行政を巻き込んで予算を取ってきてはそれに着手するということをやっていたそうなのですが、昭和40年代に入って農業改良普及員の方が「そういう風なやり方だと住民があなたにおんぶにだっこで、本当の意味で住民の自律性、主催性を持った自治がたもてない。そのやりかたは官僚主義で、上からの押し付けであって民主的なものではない」と厳しく批判し、それを受けて吉田氏は「地域のために」という風に自分が行ってきた活動を振り返り、それが「官僚主義」的な仕事に徹していたことを反省し、もっと住民の自主性を基調とした取り組みに方向転換していったことを伺いました。この考え方は当時の京都府知事である蜷川虎三氏の「住民自治を第一に」「憲法の実現に保健婦は働きかけないといけない」という意向を受けての農業改良普及員の保健婦に対する指導だったと考えます。もともと社会教育が盛んにおこなわれていた京都府にあって、民主化のためには住民が自ら考え自ら動くことを、住民が主体性を帯びることを基本として考えていたことから端を発し、壽岳章子氏の婦人教育としての精神、社会教育運動の中で培われてきた住民主体性の思想があったからであろうと菊地氏は述べておられました。
なるほど、こうみると吉田氏という個人の保健婦の周りには単に農民との関係性だけでなく、吉田氏個人を指導しようとした農業改良普及員(生活改良普及員か)やその当時の社会教育の在り方、知事の住民自治への取り組みといった時代的な背景をも含めてみるべきであると改めて考え直す必要性があるなと思いました。保健婦の事業性を追うことでは見られない、保健婦の個性としての人間性を垣間見た瞬間というのは確かに貴重なものでした。いやはやいい人に巡り合えたなぁ。これも穂高神社に五円玉を収めたからかと思わざるを得ませんね。ほんとによい「縁」に恵まれた一日でした。