読み原稿
手記にみる日常生活
―保健婦と農婦が綴る生活変化の断面―
はじめに―民俗学の生活変化への疑問から―
本発表は、生活変化について具体的な事例を挙げ、その諸相について述べていくものです。結論から述べると、生活変化というのは単に一方的な動きによって変わるのではなく、「動かす側」と「受け取る側」の駆け引きによって変わります。
ところが従来の民俗学では、そうした受け手のことを考えた研究がなされておらず、物質や経済の変化をどこか無機質な変化としてとらえているきらいがあります。人間が関わる以上有機的なつながりを持っている変化を、では具体的にどう描くべきでしょうか。
ここでは、ある保健婦の経験を通じて、保健婦の活動が、住民たちの生活にどう訴えてきたのか、さらに住民たちはどうとらえてきたのかを彼らの関わりから明らかにしたいと思います。
1.吉田幸永保健婦と日吉町
(1)保健婦と住民との関係性
保健婦は、多くの生活者を相手に、個別の家庭訪問やグループ活動、婦人会などを対象とした講習会などといった活動をしながら、農婦らと関わり生活指導を行っていました。しかしながら、それは保健婦の上から下への指導ではありません。資料編の手記を見ていただければわかるとおり、様々な壁がそこにはあって取り入れられない場面が必ず出てきます。受け手側の農婦らは常に保健婦の活動に対して疑問を持ち、不満を保健婦にぶつけてきます。その中でそれをどう解消するのかが保健婦の役割であります。そうした対応の在り方は、まさに保健婦と農婦たち有機的な関係性の中から見えてきます。
(2)地域概要―京都府船井郡日吉町―
①地理状況
具体的に地域を見て行くことにしましょう。まずはこちらの地図をご覧ください。船井郡は京都市から見て北東、京都府全体から見れば丹波山地の東南部に位置します。町域の南部を大堰川が流れ、殿田付近にて他の4支流を合流しています。また、胡麻郷地区には由良川が流れています。集落はこの河川に沿って谷間に点在しております。現在は南丹市という行政域に含まれていますが、それ以前は日吉町、またそれ以前は胡麻郷村、五ヶ荘村、世木村の三か村から成っていました。
①地理状況
具体的に地域を見て行くことにしましょう。まずはこちらの地図をご覧ください。船井郡は京都市から見て北東、京都府全体から見れば丹波山地の東南部に位置します。町域の南部を大堰川が流れ、殿田付近にて他の4支流を合流しています。また、胡麻郷地区には由良川が流れています。集落はこの河川に沿って谷間に点在しております。現在は南丹市という行政域に含まれていますが、それ以前は日吉町、またそれ以前は胡麻郷村、五ヶ荘村、世木村の三か村から成っていました。
②生業形態
現在の人口は平成17年の調査で5951人(2029世帯)、昭和40年代の過疎化進行を皮切りに、ずっと人口が下回っています。
現在の生業は農業が中心となっていますが、これからお話する昭和30年代当時は主に農林業が中心でした。谷によっては農林業での収益があまり見込めず、近隣のマンガン鉱山に出入りして稼ぐ人が多くいました。しかしながら、林業も燃料革命を機に徐々に衰退していき、さらに農業外に日雇や出稼ぎで収入を得る人々が多く出て、兼業化が加速化していきました。
③村の状況
(ア)昭和30年代の町政の動向
町政をみていくと、昭和30年代を皮切りに、過疎化に伴い、企業誘致やその他もろもろの政策を進めていこうとしました。道路の舗装を急いだり、公共施設の建設ラッシュが起きたが、ライフラインの整備が遅れていました。保健衛生上においても準無医村地区になっており、病にかかっても病院へ行くのにかなりのお金と手間がかかりました。
このような町の状況に対し調整の動きが旧態然としていたのは、町政に意見が言える立場の人間が各地区の地区長、地区内にある部落の長、戸長など男性が中心であったためです。実質家庭生活を支える女性の意見はそこへは反映されることはなく封建的な社会環境のもとで政策がすすめられていました。
(イ)新しい動きとして
女性はつつましやかなほうがいいという風な言い方が多く、加えて女性の中でも嫁は姑に対して頭が上がらない存在でした。農婦の手記には「牛馬のような扱いであればいいほう」というような言葉があり、その当時の女性の位置づけが読み取れます。
ところが、昭和35年前後から京都府内を特に丹波地域にて女性の地位向上を目指す運動が活発化していきました。この動きについては現在調査中ではありますが、様々な機関、社会教育方面、生活改善方面などの動きの中で現れ、さらに女性運動家の壽岳章子氏の活動が後に女性問題研究会を結束するなど、多様な人間関係の下で女性の解放、地位向上が叫ばれるようになってきました。日吉町でもそれは例外ではなかったのです。
(ア)昭和30年代の町政の動向
町政をみていくと、昭和30年代を皮切りに、過疎化に伴い、企業誘致やその他もろもろの政策を進めていこうとしました。道路の舗装を急いだり、公共施設の建設ラッシュが起きたが、ライフラインの整備が遅れていました。保健衛生上においても準無医村地区になっており、病にかかっても病院へ行くのにかなりのお金と手間がかかりました。
このような町の状況に対し調整の動きが旧態然としていたのは、町政に意見が言える立場の人間が各地区の地区長、地区内にある部落の長、戸長など男性が中心であったためです。実質家庭生活を支える女性の意見はそこへは反映されることはなく封建的な社会環境のもとで政策がすすめられていました。
(イ)新しい動きとして
女性はつつましやかなほうがいいという風な言い方が多く、加えて女性の中でも嫁は姑に対して頭が上がらない存在でした。農婦の手記には「牛馬のような扱いであればいいほう」というような言葉があり、その当時の女性の位置づけが読み取れます。
ところが、昭和35年前後から京都府内を特に丹波地域にて女性の地位向上を目指す運動が活発化していきました。この動きについては現在調査中ではありますが、様々な機関、社会教育方面、生活改善方面などの動きの中で現れ、さらに女性運動家の壽岳章子氏の活動が後に女性問題研究会を結束するなど、多様な人間関係の下で女性の解放、地位向上が叫ばれるようになってきました。日吉町でもそれは例外ではなかったのです。
(3)吉田幸永保健婦と保健婦活動
そうした新しい動きに積極的に関わろうとしたのが吉田幸永保健婦でした。大正14年に生まれの人懐っこい性格の人物で、世話好き、困っていう人を見るとよく手伝ってあげたりしていたそうです。
当時の村では夜間にしか医者が常駐しておらず、昼間はもっぱら保健婦がこの対応に追われることがよくありました。そのため、吉田保健婦は「医者の代わり」としての役割を強いられました。対象者への家庭訪問、婦人会などでの啓蒙活動を行っていました。
彼女は、とにかくエネルギッシュで使命感に燃えて次から次へと保健問題を挙げて、時には行政にぶつけてその矛盾を問いただす場面が多々ありました。こうした彼女の活動を知るうえでみてほしいのが資料編の「保健婦の手記」です。
2.「保健婦の手記」を描く
(1)「保健婦の手記」とは
「保健婦の手記」をざっくり説明すると、その特性は三つあります。第一に生活に根差した活動をするために克明な生活描写があること。第二点に、掲載される雑誌の傾向として医学的なものの外に社会教育的啓蒙を目指していたこと。第三にこの雑誌の購読者層は保健婦が多く、内容も応援メッセージ、悩み相談、教育の現場のレポートなどがあり、保健婦相互間の連絡を兼ねていたことが挙げられます。つまり、業務報告とは別に保健婦によるケースへの対応と、そこでの取り組み、連携などを総合的に文章化したものが「保健婦の手記」です。
今回は多くある「保健婦の手記」の中でもとりわけケースへの対応に力がそそがれていた雑誌『生活教育』にから、吉田幸永保健婦の軌跡をたどってみることにします。
(2)吉田保健婦の「保健婦の手記」
『生活教育』は昭和31年に生活教育の会より発行され、平成9年に後任の保健同人会の廃刊を機に終焉した雑誌で、その中での吉田保健婦の記事は多様にありますが、現時点において私が把握しているだけで、昭和35年から41年までに、合計5回雑誌への掲載がなされています。すべてについて触れている時間はありませんが、その中から一篇「小さな足跡」について資料編に乗せておりますのでお手元の資料をご覧ください。
ここに描かれるのは寄生虫卵撲滅運動で、その記述の中に改良便所についての一文があります。吉田保健婦が地区を回って衛生教育をすすめるうえで改良便所の設置について働きかけ、その支度金を各戸からお金を出し合って取り組もうします。ところが、その支度金として貯蓄していたお金の使用が、子どもへのお小遣いや、そのほか家庭用品へと消えていったことを嘆いています。これは、普段主人や姑に頭が上がらない嫁たちの苦悩を表したものであり、保健活動が多くの人の関係性の中に描かれ、保健婦はそれに粘り強く対応していくことを求められています。常に保健婦側の思っている意図と、それを理解するべきはずの住民との意図がかみ合わない場合が出てきてそれに奔走する保健婦の姿があります。
3.農婦の手記と保健婦
(1)農婦たちの戦いと保健婦
①農婦たちの記録
先に見たのは吉田保健婦側から見た生活の現実ですが、では具体的どのような生活がそこにあったのでしょうか。ここでは保健活動の受け手側に立つ、女性たちの視点から今一度これについて確認してみたいと思います。
主として婦人問題研究会が発行していた雑誌『婦人問題研究』と、草川八重子・壽岳章子が編集を担当した『自分をかえる―丹波船井郡生活改善グループの足あと―』を中心に見て行きます。吉田保健婦との関わり、また船井郡の女性たちの活動については、婦人問題研究会が出していた昭和40年代から刊行されている『婦人問題研究』の第10号から44号までに度々散見します。先に昭和30年代から女性運動が活発化したといいましたが、その記録がこの雑誌に多く所収されています。この資料の位置づけは、女性の地位向上や差別に関するものを取り上げ、女性自らが意見を言える環境をつくることを目指したものとなっており、雑誌は発表者の発言録を中心にそれについて討議されてきました。そこには農婦らによる手記もあり、彼女らがどういう風に吉田保健婦の活動を見ていたのかを書いています。
②農婦と保健婦と生活改良普及員
そうした活動をとらえるうえでまず注目したいのが複雑な人間関係の在り方です。吉田保健婦と農婦との関係は、母子保健などの活動を通じてです。吉田保健婦は農婦たちのグループ活動を始めており、料理教室などを催すなど精力的でありました。ところが、資料③をご覧いただければわかる通り、その料理教室の一場面で、栄養を優先して指導していたがために、農婦から一度家でやってみようとしたけれど姑の理解を得られずに、なかなかうまくそれを家庭の中で実践することは難しいという話が出てきます。保健婦は住民の生活模様を把握しそれに応じた活動をしなければならないのですが、吉田氏はそれが出来ていなかったと反省をしています。
そこで登場したのが、船井郡の生活改良普及員として赴任していた田中友子氏です。田中氏の指導方法は独特で、まず住民の自主性に働きかけることを第一に考え、自らの指導というのは住民の背中を押してあげる程度にとどめ、何から何まで指導することはしない。
吉田保健婦と田中友子氏との関係は、その思考的な部分でかなり大きな違いがあった。吉田保健婦は「住民のために」と献身的に動く傾向にあるが、田中氏は住民から動くことを待つ素振りをする傾向にある。そのため、しばしば田中氏は吉田保健婦の行動について、「あなたのやっていることは官僚主義だ」と糾弾する場面がありました。吉田保健婦はこれまでの指導が住民の実情にそぐわない上っ面だけの活動であったことを田中氏から教えてもらうことになりました。いくら料理指導しても住民側の意識を改革しない限りはそれが定着しないことを単に嘆くのではなく、その背景に何があるのかを考えることの大切さを田中氏は彼女に伝えました。
そこで、田中氏と吉田保健婦はまず農婦たちから事情を聴き、さらにそうした背景にある発言権をめぐる問題をとりあげ、それについて話していくという作業をしていきます。つまり、技術的な指導ではなく根本的な生活意識に訴える意識改革に乗り出したのです。そうした中で出てきたのが、「一番言いにくいことを一番言いにくい場で一番言いにくい人に言う」というような、女性の発言権の強化でした。
(2)女性の発言権と保健婦活動
①女性の発言権という壁
話は戻りますが資料①の「保健婦の手記」でみてきたとおり、貯蓄するという行為は、若い嫁たちにとっては未知の領域でありました。そのため、その貯金を手にしたときに、主人や姑に気兼ねして家の事についての意見は言えず、お金は家のことよりも生活費に用立てることが優先されていくのです。保健婦がいうような事業的なものに使うという考えはそこにありません。いくら衛生思想を振りかざしたとしても、若い嫁たちの意識は改革できないのであった。今思えば当たり前のことが当たり前にできない、意見として言えないという事態がそこにあったのです。
②意識をかえるということ
まず、言いにくいことを言えるようになる意識改革を進めることになりました。ただ、従順な嫁が美徳として語られる社会ですから、男性陣はもちろんの事、姑世代からは意見することは口答えすることにつながり、様々な批判を浴びることになります。さらに日雇などの労働形態の変化によって、嫁は農業外収入を得て経済力を持つことになりましたが、農作業面、育児面において姑に頼らざるを得ず、かえって「頭が上がらない」という立場をつくってしまうという悪循環が起きます。こうした少しずつの矛盾や軋轢が日増しに増大化していった中での発言権の確保というのは並大抵のものではありませんでした。
吉田保健婦と田中氏は昼間はそれぞれに仕事を抱え方々を飛び回ると同時に、夜は日雇から帰ってきた嫁たちを集めて、話し合いを重ねていった。最初は部屋の入り口でたたずみ俯きながら話を聞いていた嫁たちは、徐々にではありますが積極的に「かなんことはかなん」というように主張を強めていきました。
(3)受け手としての農婦
①農婦の気持ち
では、具体的に吉田保健婦らがどのようなアプローチで嫁をはじめとする女性の発言権を確保するようになっていったのでしょうか。次に資料②をご覧いただけますでしょうか。
この手記はS氏が吉田保健婦や田中氏の料理講習会に参加してのことを綴ったもので、調味料の軽量からはじまり、科学的根拠に基づいた料理方法を自分たちでみつめつつ、また一方でそうした料理をする中で自分たちの意見というものを尊重し合うという雰囲気をつくっていき、その過程には様々な壁がありえたがそれを田中氏らが話し合いをして解決していくようにしていったことが描かれています。
この文章からわかるとおり、農婦たちは戸惑いながらも、それでも普及員である田中氏の指導の下で一致団結しながら話し合いを重ねていきました。そのうえで「もの言う」ことを覚えていくようになったのです。そうした雰囲気づくりを自然な形でやろうと心に決めた彼らの動きというのは単に指導者による女性の発言権の強化という言葉に表されるものではありません。どちらかというと、指導者はその場を整えたのであって、農婦自らがそこへ入り、その中で学び取りながら一つ一つの問題にあたっていったと考えます。田中氏が農婦たちの自主性を強調したのは、こうした意見の発露を目指すこと、また吉田保健婦はこの意見の発露をくみ取りそこから考えられる援助は何かを見て行くようになっていました。
②保健婦の失敗と農婦の意見
農婦たちの気持ちはこうしてくみ取られるようになっていくのですが、保健婦側はこれをどうとらえていこうとしたのでしょうか。次に資料③の吉田保健婦の発言録をご覧いただきたいと思います。
重湯の話を見てわかる通り、姑の意見が絶対とされていた時代に意見を自ら表明することは、農婦たちにとってかなりの勇気がいるものでした。そのような中で田中氏と出会い、生活改善グループ活動を進めていく中で、「言いたいことを言う」をスローガンに、受け手である農婦たちの言葉を引き出しそれについて検討をし、実行をしていきました。吉田保健婦は、住民の意見に毎回耳を傾け、「町の保健婦」としての職掌よりも、一人の女として人として「町民のため」に、彼らの要求を汲んで様々な取り組みに従事する保健婦へと変わっていきました。
まとめにかえて
本発表は保健婦活動を進めるうえで、吉田保健婦と農婦たちがどう関わりを持って、その保健活動を手に入れていくのかを女性の発言権の確保という意識面での指導に着目してきました。従来の変化の様相のとらえ方では見られなかった心情変化などの細かい伏線、複雑な関係がそこにあること、変化を事象AからBへと単純な動きでとらえていてはみえてきませんでした。一つの生活変化、保健を暮らしの中に反映するためには、それは保健婦だけの問題ではありません。多様な人間関係の下、有機的なつながりがそこにあり、AからBへという変化はBをどう受け入れるのかどう反映させていくのかをひとつひとつ確認しながら理解を深めていく仕組みになっているのです。
変化というものを単に物質的に機械的に把握するよりも、有機的に人間的に理解を深める方がより具体的な諸相としてそれを見ることにつながるのです。それは主観と客観という問題もある。だが、人の生活をそのどれか一つで見ることはできない。主観性も客観性も含めた総合的な生活把握が必要である。