本研究を始めてひとつ気づいたことがあります。「健康」を名乗る運動には何かしらの「健康不安」が存在し、それを改めようと「生活改善」が展開する。当たり前のことですが、そもそも「健康不安」という言葉自体を私はあまり知らなかったので、ここで改めて知ったということです。
千種町いずみ会、A保健婦、健康推進委員(母子保健委員)、保健所、行政などが取り組んだ健康増進運動というものは、すべて「健康不安」を発端に活動しているものです。保健所や行政については、簡単には言い切れない部分もあるでしょうが、衛生行政や地域保健活動の観点から考えれば、これらの活動も「健康不安」からくるものだと考えることができます。
昭和30年代から50年代にかけての千種町域で行われた「健康」に関する活動は、聞き取り調査の上、「そういう時期があったなぁ」っといわれる人も多くいて「健康」が身近にあった時期だったことが証明されました。ではそれまでの「健康」はどう扱われていたのか、以前にもお話ししたかもしれませんが、千種町域でこれほどまでに「健康」に対し熱を帯びた活動が展開されたのは昭和30年代からであって、それまでの生活の中で「健康」というものはそれほど地位が高いものではありませんでした。公衆衛生の観点からいっても、正直千種町域の昭和30年代の生活は極めて危険な衛生環境にあったことは言えます。「極めて」と申しますのも、この地域一帯は雪深い山麓にへばりつくように集落が点在する地域です。そのため、医療設備が整っていたとしてもそれを提供できるだけの「足」がないのです。またA保健婦の証言から当時の医療設備はそれほど整っておらず、かなりの人が衛生面において疾患を持っていたといえる状況だったということがわかりました。地理的環境、医療環境、衛生環境においてこれほど孤立した集落はないと思うぐらいの地域でした。そのため、「極めて」危険な生活環境のところをぎりぎりのラインでやり遂げていたといっても過言ではありません。
そのような衛生環境の中、昭和30年代に入り「健康」に関心が徐々に持たれることになると、それまでの危機的環境からの脱却するように人々の中に「健康」を身近に感じるようになったのです。この背景には、A保健婦、千種町いずみ会、健康推進委員、保健所、行政の健康増進運動ならびに昭和30年代以降の日本国内における「健康」推進の動きがあったと考えられます。前者については御承知の通りの活動ですが、後者についてはあまりこのブログでは触れてきませんでした。
昭和30年代からの『厚生白書』には数々の衛生環境および医療環境データが分析され、それにどのように対応していくかが詳しく載せられています。厚生省においてこうした動きをしだしたのはWHOの「健康」の定義が昭和22年にあったためだと考えられます。戦後の混乱期に、保健衛生事業を始めるにあたり、健康とは何かを問う中で「健康とは肉体的精神的社会的に健全であること」という意味が付加されることにより、それまで一人ひとりが健康に気を配っていればよかったもののの社会全体がこれをサポートするべきものとなったのです。これにより国は都市、地方に限らず全国民に対して「健康」を義務化しようとする動きをしていきます。それが国民健康保険の存在です。今でこそ当たり前のように国民の義務化になっていますが、昭和30年代以前までの国家においてはそれは被保険者に対する保健サービスとしてのものでしかありませんでした。そうなれば保険料を納められない住民はどうなるのか、それはその当時あまり関心がもたれていなかったと考えられます。もし考えられていたとすれば、無医村地域や国民健康保険診療所の各地域でのばらつきはなかったと考えられます。まさに医療格差社会ともいえる現象です。それが義務化によって各地域にへき地診療所ならびに国民健康保険診療所、各種診療所が開設されると全国民に対し保健サービスを提供できると考えたのでしょう。
話がそれてしまいましたが、千種町域の「健康」に関する動きの背景には様々な動きが複雑多岐に絡まっていたことが考えられます。この度、この研究をするにあたり、そこまで踏み込むことができるかどうかは分かりません。多分、千種町域の健康増進運動の展開を知るところまでが現状でしょう。しかしながら、それらの動きに合わせて社会的な動きもあったことも考えていかなくていはいけません。どちらにしろ、課題は山積みです。