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2013年6月16日日曜日

第一回アカデミックカフェ報告書

 こんばんは。久々の更新です。このところ、いろいろあって更新できずにいました。
 さて、本日のお題は、「第一回アカデミックカフェ報告書」です。本日の午後1時前後より、大阪駅構内のオープンカフェ「DEL SOLE」で行われた、私主催のアカデミックカフェの第一回目の報告です。

はじめに

 本報告は、アカデミックカフェにおける参加者の発言をもとに、そこで出された議題について検討し、次に発展させていくための報告です。

参加者

 楓瑞樹(私、山中健太)、chiyoさん、musuboreさんの三名です。お互いにTwitter上で知り合った方です。

報告書

①保健婦資料館の知名度と利用

 本日、議題に真っ先乗っかったのは「保健婦資料館について」のことでした。
 これは、私自身が所属しているところですが、まずmusuboreさんより、「保健婦資料館の知名度が低い」「利用状況はどうなのか」という指摘を受けました。それについては、確かにそのとおりで、私のように血眼になりながら保健婦資料を探している人以外は誰も知らない謎の資料館という位置付けが一番だと思います。
 というのも、保健婦資料館自体、未だに利用者が自由に利用できる環境になく、事務局に話を通して、利用の許可をもらい、日程調整をしてからしか利用ができないという、大変不便な状況にあります。ですので、musuboreさんのいう「利用状況」はほぼないに等しいのが現状です。これでは、資料館としての役割を果たしていないのではないかとご指摘を受けるのもごもっともで、資料館が資料コレクション化を優先するあまりに、その資料の利用、活用について検討が及ばず、また館の来館者に対する利用の予算的措置が図られておらず、常駐の職員や管理者がいないということが問題点です。
 さらに、広報ができておらず、館の存在自体が世間に知られていないという状態です。ただ、この件についてはmusuboreさんが「館の公開が明確になったところで、広報宣伝して、どっと人が押し寄せた時にどう対応するか」という面。これが全く検討されていないのが現実で、私自身どう広報したら館の運営を邪魔せずに、またスムーズに利用できるのかを検討していかなければいけないなと思いした。
 ともかく、この第一の問題点である「保健婦資料館の利用」については後日保健婦資料館事務局に申し入れて、検討を測っていただくようにしたいと考えております。私も何かしらの手助けができるなら、それに積極的に参加し、館の運営に携わることで、利用者のニーズにこたえられるようにしていきたいと思っています。

②保健師教育の現状

 これはmusuboreさんのお話でした。musuboreさんは、関西の大学の看護学科に通う四年生で、精神医療についてお調べになっていて、私のプロフをご覧になって「精神医療の歴史を知りたいので、是非、保健婦資料館を利用したい」とおっしゃって下さった方です。こういう利用者が増えてくれることを私は望んでいましたので嬉しい限りです。
 そこで、musuboreさん自身、看護師資格と保健師資格の両方の課程を選択なさっているとのことで、早速私から質問攻めになっていました。というのも、私自身、現在の保健師教育がどういう風になっており、その後の保健師の配属先において実際どの程度その教育が役立っているのか、保健師を目指す学生の方にお聞きしたいと思っていたからです。
 私は早速「保健師はどのような教育を受けているのか」という質問をぶつけてみました。彼は丁寧にこう答えてくれました。「保健師の教育は、座学と実習とがあり、座学では公衆衛生学を学んだり、もちろん保健師の歴史を学ぶこともあります。実習では学校、産業、役場と三方向に分かれての実習が行われており、役場(行政)での実習は必須になっています。実習期間は一か月程度、その間に役場とそのほかの学校、産業の現場に配属され、そこで実習を行います。実習先では、まずその地域を知らないといけないということで地域踏査を行い、地域の歴史や健康統計に基づく問題点を研究し、それに応じてどのようなことができるのかということを考えつつ行います」とのことでした。
 私が驚いたのは、実習に地域踏査がなされており、実際にその地域の生活を見て、そして調べるということが盛り込まれていることでした。これまで、私はどこかしら、現職の保健師らから聞く声で、地域についての情報は実際に配属された後に踏査して、それでデータを集積していくものと場あかり思っていたので、実習は役場内での事務処理やケースの家庭訪問になっているのではないかと疑っていました。ですが、彼の発言を聴いて、それは杞憂で、実地での生活面のフォローがちゃんとできていることがすごいと思いました。さすが、保健師ですね。地域をフィールドとして展開する以上、その生活を自分で見聞きすることは大変重要なことであると思いますし、それがないと地域生活での保健活動ができませんからね。
 その後も、「保健師の現状」として、「地域行政に置かれる保健師は、事業が予算に縛られることが多く、自由に家庭訪問ができる状態ではないこと」「実習で学んだり、座学で理念として知っていることが実践ではなかなかいかせきれないこと」を事細かく話していただきました。メモを取るのも忘れて話に聞き入ってしまいましたね。
 ここで、問題となったのがその「実習や座学という保健師教育が実際就職した後にできるかというとそうでもないこと」でした。これは、多くの保健師の方々が証言している通り、実際現場での働くことになると、その配属先の行政機構の中で、事業を繰り広げなくてはならず、当然それには予算がつきものであり、ケースを除いては勝手に家庭訪問をすることはおろか、事業を進めることもできないということがあります。また、年間の保健計画がなされていることもあって、そのノルマをこなすことに一生懸命であり、とてもじゃないけれど新しく事業を推進したり、全戸訪問をしたりとする時間がないことが関係していると思われます。つまり、教育で受けたものが理念としてわかっているし地域住民のための健康を守るという活動をしていかなければならないのだけど、現実それがすべてできているかというと一部にしか過ぎないこと、理念と現実とのギャップはあるということでした。
 この件については、今後私もいろんなつてを使って保健師に会い、現場の声としてどのようなことがあるのか、それを解決するにはどうすることが最善策なのかということを検討していきたいと思っています。但し、musuboreさんがおっしゃるには、こうした保健師の問題点は、単に保健師個人にあるのではなく、行政機構自体に問題があり、問題が大きすぎて扱うには一人の保健師では無理なこと、立ち向かう相手がかなり大きなものであり、それをどうするかと考えた時、どうしようもないという諦観がそこにあるのではないかということでした。つまり、問題の根っこは、かなり深く、保健師個々が声をあげても、それを動かすだけの策がとれるかというと、それはまだ未知数であり、なかなか取り組むには難しい状況であることがいえるとのことです。
 私は、保健師活動についてまだ詳しく調べているわけではなく、現状把握をするので精いっぱいではあります。とてもじゃないけど、そうした根っこの部分を一研究者が声をあげたところで、それはスローガンにのみに終始し、活動はしぼんでしまうケースが見え見えです。やはり、もう少し詳しく現場の保健師の方々の声を聴いたうえで、じゃあ具体的にどういう方向性が今問えるのかということを考えていくほかありませんね。行政を動かすというのではなく、いかにその行政の枠内で改善できるかということが重要となります。

③病と差別の歴史

 これはchiyoさんよりお話しいただいたことです。chiyoさんは、某県で部落史の編纂をなさっておられるとのこと。またご専門は中世史をなさっておられるとのことでした。部落史というのは、被差別部落だけに限らないそうですが、その中で病、特に癩病に関するお話をしてくださいました。
 近世における癩病者は、真言宗などの宗教活動の中で保護され来たとことで、密教系のルートから薬(漢方)をもらったり、祈祷による治療などが行われていたとのことです。民間信仰にはよくあることですが、そうした宗教者の中に癩病者が囲われていたという事実は大変面白かったです。
 また、chiyoさんから私にご質問をくださったのですが、近代のらい予防法、無癩県運動などによる迫害により、癩病者が療養所へ強制隔離されて行く中で、そうした光景を保健婦がどのように見ていたのかというご質問をいただきました。
 これについては、多分事業史のなかでは保健婦は従順に職務を全うし、療養所へ患者を送り届けていたという風なことが描かれるのでしょうが、実際はもっと壮絶だったようです。というのも『生活教育』の「保健婦の手記」やそのほかの手記を見る限り、保健婦はその家族の絶縁の場に立ち会ったり、患者を家族から引き離し列車に送るまでの間、自分の仕事に対して疑問をもったりしていたということが書かれています。
 ただ、その当時は、それが公衆衛生政策の一環であり、隔離することがよいことであると使命を帯びていたことから、終生隔離がなされていると知ってか知らずか、疑問に思いながらも仕事としてそれをこなしていたことが描かれています。ですので、保健婦は当然、感情のある人間でありますから、そうした絶縁の場や別れの中にある患者とその家族を全くもって何も感じずに見送っていたわけではないと考えます。ただ、何もできかなったのが保健婦たちの心に悔いを残したと思います。
 あと、これは補足ですが、戦後の沖縄県での保健婦(沖縄では公衆衛生看護婦)は、癩病者の隔離が日本本土でとられている中、療養所に送るのではなく自宅で癩病の治療を行ったり、看護をしていたといいます。つまり、全体を通じて癩病者に対する措置はそうした強制隔離だけではなく、沖縄のように治療まで行うという措置を保健婦自らが行っていたと考えていいのではないでしょうか。ただ、沖縄は特殊事例であると言えばその通りでしょうけどね。


 以上、主に保健師や保健婦の話で終わってしまって、どこかしら私のフィールドに皆さんを巻き込んでしまったみたいになってしまったのが、今回の欠点ではありました。もうすこし、幅広く皆さんのご専門の領域を活かせる話し合いができるように努力していきたいと思います。あと、①と②については今後、保健師の方々と共に解決の糸口を探しつつ保健婦資料館としてなんとか関与できるような環境を整えていきたいと思います。③については、今後の私の戦後の研究の中で、これら事業史とは別の文脈で語られる、保健婦の声の歴史をどういう風にまとめていくかを検討し、また何かの機会に学会発表を行っていきたいと思います。
 長くなりましたが、以上で報告を終えたいと思います。参加して下さったchiyoさん、musuboreさん、お付き合いいただき感謝いたします。今後も何卒よろしくお願いします。

 また、次の機会も設けますので、その時はこのブログをご覧の皆さんにも、積極的に参加いただき、意見交換や議論ができれば幸いかと思います。