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2012年12月1日土曜日

保健婦をどうみるかということ。

 おはようございます。朝から小難しいことをやっています。といっても、これが頭のトレーニング的なもので、アイドリング的な何かだと思っていますのでご容赦ください。

 えっと、以前「保健婦と民俗学」のことを触れておりました折に、私は保健婦を職業として見るのではなく、人間として見るべきであることを主張させていただきました。今もその主張は変わらないのですが、その件について若干考察を加えてみたいと思います。

 なぜこんな重箱の隅をつつくような考察をするかというと、民俗学では保健婦という言葉自体が概念を持って定義されているものではございません。この職業性というものも全体を把握できるまでは至っていないのです。そもそも、私たち一般のイメージにしても、保健婦というのは保健所勤めの方であったり、公衆衛生の専門家だったりと職業方面で何事も決めてしまう帰来があります。別にそれはまちがったことではありませんし、見知らぬ人を判断する時彼らの仕事から彼らの人柄を探るべきであり、それをもって他人を他人として見つめるのですから。ちょっと哲学チックになりましたが、要するにですね、保健婦というものを私たちは、その職能でもって判断し、彼らの活動を規定してしまっていないかと思うのです。なぜこれを「しまっている」と申し上げているのかというと、保健婦の活動というのは、これは戦後しばらくとか戦前もそうなのですが、地域に出て地域で住民と接しながら試行錯誤しながら行っていました。また、全くの無医村地域に出向くこともあり、そこには「保健婦」っということに触れたことがない方が大勢おられるのですから、そもそも職能云々の話にもならなかったりします。そうなると、保健婦の活動をそのまま職能だけにしてしまったら、これは地域での活動の一場面をかなり狭めて考えてしまっていないのだろうかと思うわけです。例えば、母子保健活動一つをとっても、出産の介助、産婦のケア、育児相談という助産資格をもつ彼女らからすればその専門性にかなったことをしていますが、それと同時に妊娠に関する相談ごと、それ以前の交際に関すること、家庭のことなどなど単に出産という場面だけでなく、もっと包括的に出産を取り巻く生活面において彼女らが果たした役割も大きいのです。だから、彼女らを母子保健の専門家としてみるのは彼女らの一部分しか見ていないことにもならないかともうわけです。また、違った見方をするならば、生活全体を通じて出産とかの部分を切り出して、そこに保健婦をはめ込むという作業は、どことなく不揃いなパズルのピースのようであり、前後関係とかそのほかのことをあまり考慮に入れていないのではないかとも思ったりします。つまり、生活全体の連続性のなかで彼女らを再確認すべきではないかと考えるわけです。

 おっと、突っ込んだ話に突然なってしまいましたが、そういうわけで保健婦の職能に関する見方というのをどう考えていくかというのが焦点になってきます。

 保健婦の職能については専門誌である『保健婦雑誌』や『生活教育』でたびたび取り上げられていますが、ただ記事内部でも「保健婦手記」など実務をうたった場合、保健婦の活動はいわゆる公衆衛生の専門としての部分はもちろんではあるけど、それよりも雑多な村人との関係をにおわす話が多いように感じます。雑誌のほかの記事においては、保健婦はこうならなければならない、理想的な保健婦の専門性はこうだというように高らかにうたっているにもかかわらず、それが「保健婦手記」になるとその実際の部分では、村人との良好な関係性を築く意味でも、単なる臨床屋みたいなことばかりをやっているわけにはいかなくなるというのです。民生委員の仕事をしたり、役場の連絡係をしたりなどなど、その職能に当たらないことも含めて彼らの「仕事」となっているのです。「仕事」と書くと、いかにも専門性をもった感じに受けるかもしれませんけど、どちらかというと使命感のような漠然とした目標として考えてください。

 じゃあ、保健婦の活動は職能でなければなんなのかということなのですが、先にも示した通り人間関係の構築という部分、構築というよりも補強という部分で、より人間らしい一面性を含めた能力というものもあるのではないかと思います。よく保健婦を女性としてとらえる場合もあるでしょうが、この場合ちょっとそれは別の議論になるので置いておきます。女性である前に、一個人として、一人間として彼女らは住民と接していることが言えます。人の日常に入るということは、単なる臨床や検診の専門としていては、どこまでも入って行けず、深く関係を築き、彼らをサポート出来やしない。その中で、保健婦がとったのは、医師や看護婦や助産婦にはない、日常的な付き合いとして活動であったのではないかと思うのです。言葉はどうかわかりませんが、なんでも屋といえばいいのでしょうかね。そういう感じです。村の人々にとっては、医師も看護婦も助産婦も保健婦も区別はつかないのでしょうが、しかしながら保健婦は民生委員などとのつながりもあったりして、その立場的にたんなる医療従事者としのそれではないのです。そういったことを念頭に置いて、保健婦の実際をみていくべきではないかと思うわけです。

 多分、これまでの民俗学でもし仮に「保健婦」を扱うものがあったとするならば、それはその職業として彼女らが「いた」ことを証明することはできても、彼女らが村人と接しながら「いる」ことを観察してはいなかったのではないでしょうか。保健婦をその専門職としてのみ扱い、村人との関係性からは論じない。そういった風潮があるように思います。これは別段保健婦を特別視しているわけではないのですが、医師や看護婦、助産婦についてもそうです。彼らの日常的な取り組みについてはどうであったのかという部分に関する考察というか視線というものは、私見の限り研究がないのです。研究がないというのはどうしてなのか。それは一つに、保健婦などを村から切り離して考えているからではないでしょうか。「外部者」として扱うみたいに。村の一員ではなく、村の外から来た人としての視点で見られ、影響は与えてもそれは一時的なものであり、村の連続した生活の中ではさほど重要なことでもないと考えられてきたのではないでしょうか。しかしながら、それは誤解で、保健婦も含め医療従事者はどこまでも「外部者」ではなく、どこからか「内部者」として村のうちにあることを十分考察しなければならないと思うのです。確かに、保健婦がいなかった地域に、ぽんっと保健婦が現れた場合、最初は「外部者」としてそれをみる場合はあるかもしれませんが、保健婦の活動は日常の些細なことも含めて生活にダイレクトにかかわっていることもあり、その接触期間というのは医師や看護婦の比ではなく、それこそ連続性の中で位置付けられるものであると思います。「外部者」という線引きで語られるほど、保健婦は単純ではないということを申し上げたいですね。

 以上、保健婦の見方について少しばかり論じてみました。まだこれでも十分議論できたとは思えませんけどね。最後に、私の意見はこうです。保健婦の見方というのは単に一面性でとられてはダメだということです。