『婦人問題研究』第四三号(婦人問題研究会 一九七二 五頁から八頁 抜粋)
「ある保健婦のくらし」(吉田幸永)
(前略)
私は日吉町の生まれです。少女時代に日吉町の僻地で、エキリでなくなったこどもの家に弔問にゆき、泣いている父の姿を見た。そういう人間の姿を私ははじめてみました。そしある種の感動をもちました。病のために死なねばならぬ幼ない者を見ることは耐えられぬ悲しみであるのですが、その中で私は医者になりたいと思いました。人の命の問題をじかに仕事とすることができる医者が、私の未来の姿として浮かんできたのです。
そんな幼時の思いを基礎として、医者にはなりませんでしたが、とうとう私は健康の問題をあつかう保健婦の世界に入ったのです。保健婦になろうと思ったのは十八才の時です。大阪の厚生女学院に、親に内証(ママ)で試験を受けて入りました。私にさまざまな思いを托し、とりわけかわいがってくれた父は、涙を流しながらフトンの荷造りをしてくれました。
さて学校も無事卒業してやがてふるさとへ戻ってきました。それが昭和二五年です。以後現在までずーっと保健婦の仕事をしてきましたが、保健婦やっててよかったなとしみじみ思うのはここ四、五年と言えましょう。それは生活改善グループのメンバーとともに仕事をするようになったからです。普及員さんといっしょに学習の場を持ち出してからです。
まあ卒(ママ)直にいって、それまでの町の保健婦の仕事と言えば、厚生省からの通達、あるいは府の仕事をこなすことにかかりきりなんです。逆に言うたら、それですんでるとゆうところがあります。赤ん坊の検診がどうのこうの、妊婦の健康診断がどうのこうのでおしまい。しかもそれもまことに表面だけのことに終わってしまうのです。勉強会をして、離乳食がどうこう言うても、いくら一所懸命に指導をしましても、その婦人たちに次に会って聞いたら何もやっていないのです。なぜだろう?と思いつゞけました。私はこんなにもきばっているのに、みなはなぜ言うことを聞いてくれないのだろう?それが私の悩みでした。
(中略)
私は、赤ん坊に重湯をのませるとき、その水の中に、コブを入れて栄養をプラスしなさいというように言うてまわったんですが、それがうまくゆきませんでした。若嫁さんのお姑さんが、重湯のだしにコブを使うなんてもったいないと言って、頭から否定されました。理論には間違いない話が、まるで受け入れられない、それはなぜだろうかということを一所懸命に私は考えました。
(中略)
日吉町には、良質のマンガン地下資源があるのです。朝鮮戦争の頃までは手掘りでしたんですが、以後、増産ということになって、さく岩機が入るようになってきました。狭い穴に大の男が身をかがめてはいります。中は埃でいっぱい、そのうちにマンガン中毒ということになりまして、その人たちは脳をやられますんです。おまけに、昭和三十六年ごろからは外国のマンガンがどんどん入るようになってきまして、日吉町のマンガン採取はやめになりました。まあ言うてみたら使いたおして、あと廃人みたいになったのを放ったらかしというひどいことをですわナ。ジン肺患者がたくさん出来たんです。
その頃、日吉町にも、田中とも子さんに料理教室をやってもらったりしながら、生活改善グループが出来てきました。
(中略)
その頃、M子さん(筆者修正)という人の旦那さんがマンガン中毒で倒れて入院しました。大へんなことでした。それに出くわして、私が口先きでほどほどのことを言うてその場しのぎのことをしてましたら、M子さんにバンと言われたしもたんです。「保健婦さん、口先きだけでは誰でも言うわ、うちは実行してもらいたいんやで」と。
これはこたえました。そのぴしりとしたことばは私にとってはムチでした。
私は町へ戻り、このマンガン中毒患者の検診をして対策を考えんといかんと、町長や課長に言いました。そしたら、「金がいる」と剣もほろろにことわられました。それでも、まず検診をやらなんだらあかん、そう私は思うて、まずじん肺患者同盟を作り、町が検診体制を布くよう努力しました。やっと町がみこしをあげ、二十万の予算で検診がはじまるようになりましたが、そうなるまでに二年もかかりました。四十九年頃には自主検診です。三十九人健康診断を受けまして、じん肺患者が三十六人もいました。うち六人は労災法にかかりました。国から保証をうけるようになったんです。
五十年には再び健康診断をおこないました。二十万の予算です。五十人検診を受けて、じん肺が四十三人もいましたんです。マンガン中毒の自主検診では、お医者もよく努力しはって、よい調査でした。でも、黙っとらんと、要求し、健康なくらしを保証してもらうようなことが出来たのはほんまにうれしいことでした。やらんとあかんと思いました。
(中略)
当節のことで、日吉町にも休耕田があります。いくら京都食管でも、多少は休耕田はあります。その休耕田を、M(筆者修正)の下請けが目をつけてねらってきましたんです。つまり、休耕田を利用するのは、産業廃棄物をそこで処理しようという業者です。業者は休耕田を買いうけ、産業廃棄物を棄てようというわけです。そして、その人たちは決して産業廃棄物の捨て場などと言うことは言いません。工事の道具の置き場やと言うてました。そやけど、見てたらそうやない、産棄物がつまれてゆきます。それはK地区(筆者修正)のたんぼやったんですが、ええことには、そこに生活改善グループのメンバーがいまして、おかしいなと思うたわけです。
大変やでェということで、区長さんへ言いにゆきました。やっぱり住んでるとこの問題ですし、みんなワァということで学習会を計画して、小学校の体育館を会場にしました。三十人も集まればよいと思うてましたが、何と、百人もきました。
女二三人のしでかしたことやというて、はじめはボスの人たちはばかにしてました。反対もしました。そやけど、それから毎週毎週学習会をしました。
そやけど、本式の運動になると段々人がへってきます。私にしてもあせりがでてきました。業者相手に裁判してるのに、早うせんと裁判で負ける、どないしょうと思いましたが、フッと思いついたんです。署名があればええのやないか、それにしょうとひらめいたのを大切にして、署名運動をはじめました。一五〇〇も集まったんです。ほんまにうれしいでしたよ。それで町議会へ提出しました。議会の傍聴にも五十人も動員してゆきましたえ。議員のネジまいたわけです。町長もわびました。保健婦の活動をはじめて評価してくれました。公害課が動いて、とうとうその土地を町が買い上げました。一五〇〇万でした。
私の保健婦としての生活の場はこんなせかいなんです。
(後略)
この記事については、実は吉田保健婦が記したいろんな本に同じような記述がみられ、吉田保健婦自身が記録したものと思われます。昭和30年代から50年代にかけての保健婦歴を地震で振り返りながら記したもので、その反省点を細かく記しており、当時の生活環境の変化と、それにともなう女性の発言権の進歩などがうかがえます。