○「「保健婦の手記」からみる民俗生活との関わり」
はじめに
農山村僻地へ調査に赴くと、その都度様々な民俗行事や習俗と出会うことがあるが、そうした習俗の変遷について歴史的流れを追う中で、生活の推移についても触れることが多い。そうした生活の推移を伺う際、筆者が気を付けているのは、それを物質の変化や日本経済の変化として全体的に見てしまうことだ。民俗調査では物質なり経済的な動きを指標にして語ることが多い、しかしながら人々の生活はそう規則的なものではない。人それぞれの人生があり生活があるわけで、類型化されたもので語ってしまうと、そこに地域の総体としての民俗調査で得られた情報と実際の生活とに大きな差が生まれる。こうした差が生まれること前提と立った調査がなされているとは思うが、生活研究において果たしてそうした類型化されモデル化されたものを生活として描いていいものだろうか。筆者はこの点について、聞き取り調査、資料調査という行為において、当事者または他者が語る人生観などの主観をどう描くべきかと考えている。
調査をしていると「日記」や「手記」というものを目にすることも多い。こうした記述されたものを見て行くと、その当時何を人々は考え生活の中に取り入れていったのかということを知ることができる。勿論それは主観の産物としてあるとは思うが、そうした生活者側、当事者側を見つめる視点、主観を客観視することも必要不可欠であると思う。民俗学だけでなく周辺諸科学でもこうした議論は盛んに行われている。それこそ調査方法の議論などの方面からが多い。しかしながら、「手記」などの記されたものに対する視線がそこにあったのかというとあまりその視点は培われていない。「手記」それ自体を資料学的に分析することも必要であるし、それに民俗を見出すことも今後必要となると思う。本稿はその意味でその土台となるべく、これまで私が向き合ってきた保健婦が書いた「保健婦の手記」を分析し、そこから見えてくるものについて述べてみたいと思う。
まず本論に移る前に、保健婦という職掌に関する研究が民俗学では少ないために簡単ではあるが、保健婦の歴史研究を中心に紹介してみたい。
1.研究史で振り返る保健婦と「保健婦の手記」
(1) 保健婦研究の現状
保健婦の歴史的研究については、大国美智子氏の『保健婦の歴史』や川上裕子氏の『日本における保健婦事業の成立と展開-戦前・戦中期を中心に-』の中で保健婦事業の成り立ちと経緯を述べている。また、実際に初期の保健婦として活躍された高橋政子氏が『写真で見る日本近代看護の歴史 先駆者を訪ねて』で具体的な人物を挙げて保健婦の成り立ちについて述べている。さらに、高橋氏は自らの半生を振り返り『いのちをみつめて ある保健婦の半生』で、初期の保健婦たちの様子を自身の体験として記している。ここに提示した、大国氏、川上氏、高橋氏の著書等で記されている歴史的諸相というのは、制度的な歴史をその軸にして、そこの範囲で保健婦がどういう風な活動をしてきたのかを描いている。高橋氏の後者で上げた著書においては、それをより具体的に体験談として描いている点は注目に値する。大国氏や川上氏の分析は、戦前期から戦中期に関しての保健婦の事業推移と法律やそれに応じた活動の変化を主にして、戦前期に関するまとまった記述を考えるうえでは重要な研究と云える。
昨今、保健婦資料館によって、戦前期の保健婦資料を収集しそこから保健婦養成の状況を産業組合史から見つめる研究の取り組みが行われている。産業組合に関する諸研究は多いものの、そこにある保健婦像についての分析は未だなく、戦前期の保健婦の姿を具体的に把握するうえで、保健婦資料館が果たす役割は大きい。今後の分析に期待を寄せたい。
ところで、民俗学での研究についてではあるが、この分野の先駆的なものとして木村哲也氏の『駐在保健婦の時代 1942-1997』と、筆者、山中健太の「ある保健婦の足跡から見る地域保健活動の展開と住民の受容」がある。民俗学での保健婦研究というのは、助産婦や産婆、介護士などの保健衛生、社会福祉分野の職業側からの分析に比べて稀なものである。そのためか民俗学での保健婦の認識は、「公衆衛生を行った人」程度の認識でしかない。彼らが生活の中で取り組んできたことについても触れられていないし、先の助産婦に絡めて出産の場に限っていっても、そこに保健婦の立ち合いがあることが多いにも関わらず、保健婦がどういう役割を担い、育児にもどういう風にアクションを起こしていたのかということは描かれていないのが現状である。その面から考えると、木村氏、山中の分析はかなり貴重な視点といえる。
木村氏は、著書の中で高知県の駐在保健婦制度とその時代的背景、実際の活動展開、歴史的位置付けについて詳しく論じている。先の大国氏、川上氏が全体像を描いたとしたら、木村氏は具体像を描いたといえる。その分析も歴史的に偏るのではなく、木村氏自身がその家族に保健婦経験者を介していることもあり、保健婦本人からの聞き取りを含めそのライフヒストリー的な視点をそこに取り入れている点については評価が高い。制度史ではわかりにくい、保健婦の葛藤が目に見えてわかるし、制度の中にあって保健婦がどのように生きていたのかということは大きな成果であろう。
山中の視点はそれに比べてもっと細かい点に関してが中心となる。兵庫県宍粟市千種町西河内という集落において昭和30年代に地域住民たちの主導の下で起きた地域保健活動を基軸に、そこに保健婦がどのように関わってきたのかを論じている。ここで重要なのは、先の大国氏、川上氏、高橋氏、木村氏が制度的な立場、保健婦側、または保健婦を含む行政側からの活動について分析するに対して、山中はその受け手側の住民、生活者の側に立った保健婦とはどういうものかを分析している。本稿で扱う保健婦の証言や保健婦の「手記」などと同様に、それを受け手側である農村の記録、農婦たちの活動証言の中に保健婦をおく事に重点を置いているあたりは、より民俗学的な生活視点に立った研究といえる。未だこの研究に対する外部的な評価は少ないため、この研究が木村氏の研究に比して民俗学でどう扱われるべきかは議論の必要性があるだろう。
とにかく民俗学での研究視点というのは、木村氏の体験談に基づく制度論的な視点、受け手側と保健婦との関係性に基づく生活史的な視点の二つがある。いずれにしても経験談を主軸においているあたりは、本稿の狙いであるところの主観を客観視する視点に立脚しているだろう。
本稿では、こうした現場における保健婦と地域住民との対話の中で、保健婦の考え方はどうあったかを明らかにしておきたい。そこで用いるのが、「保健婦の手記」である。「保健婦の手記」に対する研究はほとんどない。保健婦資料館においても筆者以外これに特化した研究がなされていないのが現実だ。記録類に関する研究についても、保健婦に特化したものは無いだろう。保健婦をここで取り上げるのは先に述べたように彼らが生活に立脚し、それこそ生活者とともにあったからである。そこで彼らがどういう視点で「保健婦の手記」を書いたのか、「保健婦の手記」がどのようなものであったのか、保健婦が地域でどのような役割を果たしていたのかを資料紹介とともに資料論的に明らかにしたい。
(2)保健婦とは
保健婦とはどういう職業であるのか、民俗学で論じるにあたりその定義について先にふれておくことにしたい。日本看護協会に於いては「(中略)「人として生きること・健康であること」が保障されるように、生涯を通した人々の健康と幸福を実現することを使命としてきた。(後略)」(日本看護協会監修の『新版保健師業務要覧 第二版』)としてその活動と存在を定義している。言い換えれば身体的健康と社会的健康を守る専門家が保健婦と言える。身体的健康については省略するが、社会的健康というのはそれこそ予防医学の立場に立脚し、病気になる社会的要因、つまり生活の中におけるどういったことが病気につながるのかということを観察し、さらにそこからの問題点を抽出、それを解決するための事業的展開を含む健康の在り方を問うものである。
現在は「保健師」という名称に変化し、仕事も多様化しているが、基本的な仕事の使命においては変わっていない。本稿においては戦後から昭和50年代にかけての保健婦を中心にみていくことにしたい。
保健婦の歴史を紐解けば、戦前期の保健婦事業は貧困層への救済的な側面からのスタートが大きくある。その最たるものが訪問婦事業である。この事業は様々な団体が担っていたが、現在の家庭訪問の基本を作っていった事業といえよう。戦前の保健婦活動は総合的な一つの道としてあらわすことは本来難しい。慈善団体による社会事業としてスタートしたものもあれば、日本赤十字、聖路加などの病院を中心としたところからスタートしたものも含むとすれば多岐にわたる。歴史については大国氏、川上氏、高橋氏の著書がそれらをよく分析しているし、保健婦資料館においては産業組合という戦前からある相互扶助組織の活動の中における一事業としての保健婦の在り方を問うているものもある。こうなると一概に保健婦というものを歴史上で一つの筋道として描くことは難しい。本稿はその一部を紹介することとしておきたい。
保健婦の主要な業務として貧困救済と併せて重要視されていたのが、戦前より亡国病として恐れられていた結核への対応である。農村の娘たちが紡績工場の劣悪な環境で結核が蔓延していったこと、またそれを帰郷した折に農村に持ち込んで、その生活から結核が蔓延したことはその当時においては脅威であった。都市部においては労働者層が結核の為に命を失うことがたびたび問題視し、その原因の究明と生活環境、労働環境の是非を含めてその治療だけでなく予防医学の立場から、公衆衛生の向上を含め保健婦にとって大きな仕事としてあがっていた。勿論、赤痢、コレラ、日本脳炎などなどの伝染病、寄生虫による害などを予防することも行われていたが、戦後においても結核はたびたび「保健婦の手記」において描かれている。それほどまでに保健婦の活動の主軸として結核予防が置かれていたのである。戦時中の健民健兵政策の推進の上でも、農村から兵士を集う際に結核というのは最大の敵であり、結核予防の在り方が各地域に於いて活動していた保健婦に課せられていた。
戦後になっては、結核は勿論その対応を求められることは継続的に行われていくものの、その政策の在り方は、兵士の健康というものよりも、より民主的な健康の在り方として、いや戦後直後は占領軍の健康を守るために日本政府に課した政策として公衆衛生の向上を半ば強権的に行おうとした。GHQのもと社会事業的な性格から、公衆衛生看護の専門性を追求したものになる。このように戦後日本における公衆衛生は戦前の慈善団体的なやり方よりは、より官僚主導による具体的に専門特化した分野に変化していく傾向にあった。
本稿では戦後の保健婦を対象とし、その記述を見て行くわけであるが、上記のような制度史レベルの事業が、地域差がまったくなく平坦であったかというとそうではない。「保健婦の手記」の内容の中で一番問題視されているのが、県や保健所の制度に依拠するものの地域の養成や家庭訪問先の様子においてはこれ以上の仕事内容が付与される場合があり、地域差個人差が目立って記されている。これは、その地域における保健婦の位置づけや、その保健婦本人の性格や資質という部分によって様々である。保健婦という人物像について決して制度だけで語れるものではない。
(3)保健婦の視点から見た地域
では「保健婦の手記」が訴えかける、保健婦の現実というものはどのようなものであったのだろうか。また、その中身において保健婦は地域生活をどのような視点で、どのように対応していったのであろうか。基本的な保健婦の役割から言えば、地域の衛生を向上させるために、様々なアプローチがそこにあるが、一番重要なのは地域に保健衛生を根付かせることである。しかし、それを行うためには地域生活の機微について敏感にならなくてはならない。地域を踏査し、その家々の衛生環境もしかり、地域の環境因子を掴み取り、その上での問題はなんなのかを統計や聞き取り、アンケートを経てその問題点を洗い出し、そこから考えられる対応策を講じるために開業医はもちろん、国保診療所、保健所や農業改良普及所、役場、都道府県庁へ協力を仰がなくてはならない。いずれにしても、そうした問題を明らかにするうえで地域に溶け込むことが最重要課題となってくる。具体的には、それこそ保健婦の本質的な活動としての家庭訪問をはじめ、母子保健、各種検診、健康相談、地域統計における地区診断などがそこには付随する。最小単位は各戸、各個人に依拠し、最大単位は地域全域にわたる包括的な健康活動が望まれるのである。
「保健婦の手記」はまさにその形を表している場合が多々ある。小さな各戸の問題点をついてはその地区の経済や家庭生活における社会的要因、身体的特徴などを記録し、そのうえでそれを保健婦がどう思うかが描かれるのである。報告書的な立場から立てば、こうした保健婦の感情的な面については見られないが。『生活教育』の「保健婦の手記」はその様子が手に取るようにわかるほど、文章的に豊かな表現を持っているといえる。そこで保健婦が描こうとしているのは、仕事の中における地域という枠組みを考える一方で、その第一段階としての家庭訪問などによる各家庭の状況を詳細に記録する中で地域や国、自分自身の行為に対して疑問や矛盾ややりきれなさなどの葛藤を語りに盛り込んでいる。地域全体を俯瞰することも確かに重要なことではあったのだろうが、保健婦にとって一軒一軒の家庭がどのような背景のもとにあり、どういう位置づけにあるのかも重要である。またそれに対し、保健婦自身が何が出来、どう対応するかを描こうとしている。
これについては制度史側、現在の保健師側からすれば異論があると思う。保健婦にとって家庭訪問は地域を図るツールとしての域は出ない。ツールであることには間違いないが、「保健婦の手記」を分析するにあたり、事業的な枠組みでそれが描かれていることは逆に極めてまれなのである。事例一つ一つが個別事象であり、それをまずあってからの地域という発想があった。本稿で取り扱うにあたってもこの方向性で述べていきたい。
2.「保健婦の手記」を読む
(1)「保健婦の手記」とは
①「保健婦の手記」とは
「保健婦の手記」とは、家庭訪問を続けていく中で保健婦自身が、そこで暮らす農民たちの暮らしを自己の体験から見つめなおすような性格を有している。「保健婦の手記」を通じてみることができるのは、地域生活における医療の重要性もさながら、日常生活における農民たちの苦労話など、雑談に類するようなものまで含まれ、そこから保健婦は「なぜこの地域には病気が多いのか」「貧しい暮らしが営まれているのか」と常に疑問として持っていた。そうしたせいか疑問を通じて得られるのは、農村生活の向上にどのような糸口があるのかを保健婦自身が考えることもそうであるが、これを手記にしるし、雑誌等で発表することによって、内外に生活疑問をアピールする狙いがある。この発想は社会医学的な発想として評価される。昭和30年代当時の医学は治療が中心、予防という発想はあったとしてもそれを開業医が中心に行うということ自体が稀であった、その中でそうした役割を担っていたのが保健婦であったといえる。保健婦の使命の中においてそうした現実をどう現状として訴えかけるかが重要になっていたことは必然であろう。保健婦が誰に対して書こうとしているのかということを読み解くのは重要であり、「保健婦の手記」を総合的に俯瞰したとき、それは行政であり国でありという上の立場に対して、その政策の是非を問う、援助を願うことの方が多くある。
また後述するが、「保健婦の手記」は読み物としての正確性が強い面がある。保健婦が体験したことを、感情を表現する場としての手記のありようこそにも大きな関心を払う必要性がある。
③「保健婦の手記」の性格
この手記の属性はその性格が大きく三つに分けられる。第一に現状を抑えるために地域で当時どのような生活が営まれていたのかという克明な描写、その背景にある生活環境や社会状況についても言及がある点。第二点に、手記は何も一つの種類だけではないことである。保健婦自身が過去を振り返って記した手記が単行本として発行されている場合もあれば、投稿形式として雑誌等で取り扱われそれに対して評論家が評価を下すというもの、さらに政策の在り方の是非を問うツールとして公衆衛生事業の中での保健婦を描くもの、それぞれにその描かれる傾向は異なるのである。主なものとして『砂丘の陰に』などの報告記録を記したもの、高橋氏の経験談を綴った手記をもとにした保健婦の歴史を描くもの、単行本だけでもかなりのバリエーションがある。雑誌としても保健婦、いや公衆衛生関係者の学問的、実践的な視野に立った理論や実践を記した『保健婦雑誌』『公衆衛生』、保健婦だけでなく地域に発信し、地域における保健婦の活動を綴り方として発表を求めた社会教育的な『生活教育』の記述がある。いずれにしても、それ自体が所属するものによってその発信者から読者に向けて発信する意志は変化するものとしてとらえていい。本稿では、『生活教育』を中心にとらえる為、ここでは社会教育的な意味合い、地域に発信することを主目的にしていることが大前提となる。第三に手記の読者層がいかなるものであるのかということである。先に記したように発信者は常に読者を意識しているわけであるから、読者がどのような立場にあるのか、どういう人がそれを手に取って読むのかによってその解釈はさらに分解し、発信者である保健婦自身が誰に向けるかによってその読者も変わってくるし、逆に受け手側がどうそれを読むのかによってその感じ方はすべて違って見えることがあるということである。突き詰めれば、手記が描き出す世界というのは小説のような創作物の世界と似ている。感じ方しだいによってその現実は歪曲される。これはおおきな問題ではあるが、主観資料としての手記は常にそういう傾向を持つものとして理解しておかなくてはならない。また、他の手記に比べ「保健婦の手記」を見る場合、保健婦を取り巻く政治性と、保健婦が共有する世界観というのが最大の特徴として描かれている。保健婦事業の是非を含めた議論がそこになされるのであるから、余計にその発信の政治性は大きな意味を持つものとして考えてよい。小説などの創作物と表現したが、どちらかとうと新聞の記事のような普遍化、一般化される場合もあることをここに付け加えておく。
(2)『生活教育』と「保健婦の手記」
雑誌『公衆衛生』や『保健婦雑誌』は、保健婦の実情を描いた手記が出ているが、それは保健婦個人の感じてきたことというよりも、事業方針における保健婦の報告的な書き方でしかない。報告書的な書き方というのは、事業の推進に当たり当地域ではこのようなことを行っているというような、保健婦事業の現状把握的なところで手記が引用されているということである。実のところ、『公衆衛生』にしろ『保健婦雑誌』にしろ、これら二つの雑誌の意図は学問的な見地と、さらに公衆衛生事業としての実践性を追求したものであるから、まず事業があってその枠内で保健婦がいるという位置づけがされている。そのため、保健婦は事業の一つのコマに過ぎない。手記についてもその事業を裏付けるものとして描き出すものであるから、別にそこに保健婦の感情があるとか、保健婦の個人的な見解が入る余地はほとんどないといっていい。ところが、『生活教育』という雑誌はその傾向からは全く異質なものだ。
『生活教育』は昭和32年創刊、生活教育の会の丸岡秀子、国分太一郎、金子光らの手によって編集された雑誌である。顔ぶれを見てわかる通り、この雑誌の意図するところは、社会教育的な側面が大きい。特に戦前期から農村青年層を中心にして様々な啓発活動に取り組んできた生活綴方運動、生活記録運動それぞれの流れをくむ。所謂、名もない一般民衆の暮しの声を、その主張を教育的に、または政治的に問い直す取り組みに主眼が置かれている。『生活教育』の雑誌としての性格はそれこそ、衛生教育、つまり教育分野に対しての意見が基調となる。そこに出てくる文章それぞれが綴り方の中にあることがわかる。一つの事業、一つの事例についても文章内容もさながら表現力も特にこだわりがあり、発信者が読者に与える影響は報告というよりも読み物としての性格が強く意識されている。このように、生活記録、生活綴方の関係者がこぞってその編者となっているのはまだ謎が残るが、彼らが前面に編集に出ている時点で、単なる保健婦の雑誌という方向性はない。『生活教育』に描かれる「保健婦の手記」は、保健婦の人間性を追求している。より具体的にそれがどのような経緯を経てどういう意志のもとに描かれ、具体的にそれを発信者である保健婦自身がどう思うのか。保健婦の発言性に重点を置いているのが『生活教育』の最大の特徴である。
本稿の意図は、具体的に保健婦が手記を具体的にどういう風に意識し、さらにどういう気持ちのもとで作り上げていったのかが資料論的に表現できればと考える為、報告書的な性格を有する『公衆衛生』などよりも、より教育に特化した『生活教育』に焦点を絞る。
3.「保健婦の手記」に描かれる生活
(1)「保健婦の手記」が描き出す世界観
『生活教育』の「保健婦の手記」は保健婦資料館に所蔵され現存しているものから、昭和35年以前から昭和45年までの約十数年間にわたって行われた特集記事であった。この手記が意図するところは、保健婦が日頃どのような業務に励んでいるのかというものを描こうという取り組みであり、その教育的視点から表現としての発言を求めていた。特集記事を振り返ると、様々な議題がそこに上っているが、いずれの記事も保健婦の発言を、どう表現するかが投稿の基準であり、評価方針であったとされる。評価については本稿では触れないが、保健婦がどのような世界を描いていたのかについて具体的に述べていきたい。
(2)保健婦と地域生活
保健婦と「保健婦の手記」の概要を見てきたように、保健婦と地域住民、そしてそこに息づく生活との接合点はかなり密接であることが言える。この密接な関係にこそ本来民俗学は気が付くべきであるが、木村氏をはじめとする民俗学における保健婦研究の在り方は、まずその時点で生活という発想がそこに出てこない。あくまで職業種としての位置づけであり、彼らの活動は保健活動であって地域生活活動という位置づけはされていない。筆者はそこに疑問を持つ。これまで筆者は保健婦と地域生活の交差を顧みるに、単なる職業種としての位置づけで彼らを片付けてしまうには、彼らと地域住民との関係性はあまりにも大きいし、かなり濃厚な関係を築いていっている。その上で、「保健婦の手記」に描かれる対象はより現実的であり、リアリティーをもっていることは確かなことといえる。但し、手記は主観である以上、そこに本当にリアリティーの追及がなされているかというとそこまでの考えがあったかどうかは、それを書いた保健婦本人しかわからない。つまり、手記というものがその内容に曖昧さを持たせていることには変わりないのである。しかしながら、これを前提にしても「保健婦の手記」から見えてくるものは多々ある。ここでは、より具体的にその保健婦の活動を「保健婦の手記」から取り上げてみたい。
保健婦活動を進めるにあたって障害となっていたのが、地域における既存の生活習慣である。明治以降近代医学の発展によって全国津々浦々に開業医がいるようになり、西洋医学の浸透もそれに乗じて広がりを持つ。但し、開業医制度の在り方は、それこそその報酬において医者本人によって左右されることから、一部の裕福な人間がこの恩恵にあずかることが多々あった。そのために、貧富の差に応じて、貧民は医者にかからずに、富山の置き薬をはじめとする投薬治療、薬草などによる民間医療、信仰に祈願を求める祈祷などが大半を占めていた。都市部においてはこうした差を埋めるべくして、保健婦制度の確立が生じて貧民救済を謳いながら大きな成果を得てはいたが、農山漁村といった地方に関してはこれが行き届いていたかというとそうとは言い切れない。とにかく、保健婦の活動はそうした置き薬や祈祷などに依拠した生活の在り方そのものを変える必要性があり、そこに心血を注いでいくことになった。
ところで、この障害を近代化と民俗生活の対立ととらえる人もいるだろうが、実のところこの対立的なものはもっと別の方向ではないかと考える。地域に入って保健衛生を普及させ、健康的な生活を作っていこうとする思いは、保健婦だけが持っていたわけではない。地域住民もまたそれを持っていたと考えていい。乳幼児が次々に死んでいく中で、泣く泣く子どもの亡骸を抱き寄せる母の姿からすれば、子どもを死なせることはそれこそ辛いものであるし、病気にかかっても病院へやれないという思い、つまるところの病院へ行かせてやりたいし行きたいと思っている気持には変わりがないのだ。だから、単に近代的な保健衛生と民俗的な習俗が対立しあうものであったかというと全く異なる。ここでいう民俗という壁というのは、地域住民が「超えたいけれど越えられない壁」、伝統的生活を固辞しようとするのではなくて、そこから抜け出せない自分たちへの葛藤である。それは経済であったり、生活習慣の中に息づく封建制であったりとするわけだが、保健婦は彼らの声を聴き、彼らの想いを汲みながら、壁をより低くしてやることが求められた。
(3)保健婦が見た「超えられない壁」
手記の多くに散見されるのが、嫁の地位の低さによる衛生指導のゆきわたらなさである。保健婦が関わる多くの仕事の中で母子保健に関わる仕事は大きい、そのために若い嫁や母に会い、それを指導する機会があるが、ところがそうした指導の中において一番のネックとなるのが、嫁の地位である。手記の内容は別紙資料①と②を確認していただきたい。①は山形県、②は岩手県の農村の事例である。①は受胎調節(家族計画)指導において中絶をしようとする母(嫁)を想いとどませるために説得するという場面、②は出産したはいいが満足に医療の恩恵を受けられないままに、死んでいくわが子を前に泣き笑いをする母(嫁)の姿をえがいたものである。
この二つの手記に共通するのが「嫁の地位の低さからくる夫や姑への気兼ね」である。①では避妊していたにもかかわらずメンス(月経)がないがために妊娠したのではないかと慌てる嫁が、夫が妊娠を理解してくれないで別の男の子ではないかと疑われることにひどくおびえている。そして一人でこっそり中絶をしようとするのであるが、保健婦によって中絶による母体の負担を説かれ、それで思いとどまるというものであるが、ここで重要なのは、これまで戦中の国策の「産めよ殖やせよ」の反対で、戦後は「産むな殖やすな」というようなものが飛び交うようになり、世間的に中絶をよしとする流れがあること、さらに世間体として子どもを多く授かることについて異論が飛んでいることから、子だくさんをあまりよしとしない風潮があり、そのための受胎調節だと思い込んでいる節があるということ。そしてこれを信じている夫婦だからこそ、そこに子を授かることを極度に嫌がり、夫がいぬまに中絶をしようとする嫁の姿があるというのが常であることなどが背景としてある。
②は乳児死亡率が昭和30年代当時最も高かった岩手県の事例で子どもが次々亡くなるなかで「泣き笑い」をしながら「命ッコがなかった」と諦めをしてしまう嫁と、「弱かった」という風に言って諦めさせようとする姑の会話があるのであるが、これもまた嫁の地位の低さを象徴しているようであり、産むことに対してたくさん産めばそのうちの何人かはまともに生きるというような風潮がその集落の多産多死を物語っていることになっている。ここで重要なのは、「泣き笑い」をする嫁と諦めを促す姑とのやり取りで、産んだ子どもが誕生日も迎えずに亡くなっていく姿を諦められずにいる嫁がいて、ただそれをあきらめさせないと次を産んでもらえないとして叱咤激励をする姑との関係性がその家族もさながら地域全体をのみ込む、多産多死を容認する動き、それでいて「泣き笑い」ながらも姑に従わざるを得ない「子を産むために迎えられた」嫁の実態。こうした嫁と姑の在り方というのは全国的に見られるものであるが、こうした多産多死の場においても姑に意見を言えない嫁の実態があることがうかがい知れる。
(4)受胎調節をめぐる嫁の地位と姑
では、こうした背景はいかにしてできてきたのだろうか。子どもを授かることというのはそれこそ多く産めばそれがいいという風潮がある。姑の言うように「命ッコがなかった」というように諦めて、次の子を早く妊娠することに期待する。しかしながら、普段の嫁の労働は激しく、夫の出稼ぎによって農業の人員は嫁と姑らの手に任され、妊婦だの病人だのといって横になっていることは許されない。「稼ぐ嫁」が求められ、それによって妊娠してもそのまま働き続けるから母体に負担がかかり、早産を招き栄養状態の悪い中での育児、稼がなければならない経済事情などから次々と死んでいく、そしてそれを追いかけるように次々生んでいくということの繰り返しであった。嫁の発言権は許されず、母体がいくらボロボロになろうと、それを行使することを要請される。保健婦は彼女らの状況をみながら、受胎調節指導を行うなどして、なんとか母体の安全をというのであるが、夫が出稼ぎから帰ったら、労働でくたくたになった体を横たえている嫁にせまり、性行為を要求する。いくら受胎調節をしても、それが定着しないのは、嫁だけに指導を与えているせいではないかとさえ思う。
これまで、保健婦研究の中では結果論として、受胎調節は成功し各地に広まったとなっていたが、実のところこうした摩擦が各方面であったということがわかっている。こうした保健婦活動を行うにあたり、嫁と姑の関係性というのはかなり重要なファクターを占めてくる。地域によってそれらを保健婦がどのようにクリアするのかには違いがあるが、まずは家庭訪問でこうした現実を知り、その上でこれをどうとらえるのかを考え、婦人会などの場で嫁や姑らに声をかけていくことから始めていく。①と②のその後についての報告記事がないので、それがどういう風にクリアされていったのは現時点では判然としない。ただ、保健婦がこうした嫁の立場というもの対して敏感に反応し、それに応じた対策を打たなければならないことを強く思い、それを手記という形で表現している点においては、保健婦はそれなりに悩みを抱えつつもそれを解決する方策を模索していたと考えるのが順当だろう。
地域での取り組み方にもよるが、保健婦がこうした嫁の立場を擁護する場合、単に姑との付き合い方の見直しを、嫁側に立って観察するよりも、嫁自身の自主性を基調とするやり方の方が実のところ多い。日本民俗学会で筆者が発表したものに触れておくが、京都府船井郡日吉町の保健婦であった吉田幸永氏は、生活改良普及員であった田中友子氏とタッグを組み、まずは女性の発言権の向上をその集会などで持ち込もうとする。特に田中氏の指導は徹底していて、何事も諦めるのではなくてどうしてそうなるのかを考える人を育てるやり方で、料理教室ではメモを一切取らせずに口答で覚えさせ、嫁自身が自分の言葉でわからないことはわからないといえる立場を確立し、そのうえで相談や嫁同士の考え方を確立していった。吉田氏はそうした田中氏の指導を受けた、嫁らに対して衛生教育を図り、実践の中でどのような問題がそこにあるのかを逐次相談の場を設けながら活動を行っていたという。こういう風に考えれば、保健婦の活動が「越えられない壁」を低くすることには単に保健婦自身だけの力ではなく、多くの関係者間、さらに対象となる人々の心情に訴える方策を以ってでなければなしえない状況がそこあることになる。これは社会教育的場側面からの女性解放運動の中からも問われていることであるが、保健婦は内在的な問題を内部の人間から積極的に変わってくれるよう手助けする方向性を模索し、単に直接的な手立てをしようとするのではなく、嫁たちによって内在化された問題を地域生活の場で「発言」できるように整えてあげることが彼らの活動の根本といえないだろうか。
まとめ
保健婦の活動を「保健婦の手記」からみていくと、そこには保健婦事業では映しきれない、様々な難題があることが理解できる。出産の問題、嫁姑の問題などなど多岐にわたる問題がそこにある。これを封建遺制としてしまうのは簡単だが、実際地域の人々は健康問題をどうにかしたいと願いながらも、それに抗おうとしながら、あきらめていたように感じる。封建遺制という遺制としての在り方よりも、生活の習慣化によって慣らされた諦観があったと考えてよい。そうした中において、保健婦はこの諦観をどうにかするべく、力を注いでいった。先の事例はその一例に過ぎないが、この保健婦の活動は、そうした現場における現実性の中においてどのように対応していくのかを常に迫られる。そこにおける葛藤は様々なものがあるだろう。例えば、医者に連れて行ってやりたいがこの家庭の経済のことを考えると無下にそれを言えない。生活保護の受給者がいるが、生活保護で医者にかかろうとすれば土地を手放す必要性もさながら、一家離散を招く危険性を常にはらんでいる場合がある。こうした緊迫した現場の状況を「保健婦の手記」は訴えとして『生活教育』の場に求めている。編者らはこれについてアドバイスをする傍ら、保健婦活動の厳しさ、保健婦の本質性をついた評価を下し、そのうえで今後の保健婦の在り方について一定の理解を示そうとしている。こうした取り組みは『公衆衛生』『保健婦雑誌』には見られない事柄であろう。
筆者はこの「保健婦の手記」を生活研究の中に位置づけ、民俗学の学問的視点から追ってはいるが、実のところそれは未だ踏み込んだばかりでしかない。全体的な分析がそこに活かせているかというと、その内容的解釈に依拠し、方法論的な手記の在り方を模索したものではない。資料論としてこれを展開するには、今一度本格的な「保健婦の手記」の類型論などを行う必要性がそこにはあるだろう。しかしながら、筆者は類型論的な分類をしていては保健婦それぞれの性格が異なるにもかかわらず、さらに言えば地域が異なるにもかかわらず、内容のみで比較検討し類型してしまうと、それこそ保健婦はなんであったのか、そこに描かれる生活の状態と地域との乖離を生んでしまうことになると危惧を覚える。そのため、あえて「保健婦の手記」をそのまま、その話ごとにおいてどういう風な背景がそこにあるのか、特に日本民俗学会で示したように、とある保健婦の一個人に焦点を当てて、彼女の人生そのものから「保健婦の手記」がどのように構築されていくのかを、今一度考える必要性があるように思う。つまり、類型論に偏らず、保健婦個々人のライフヒストリーの中に「保健婦の手記」の可能性を見出し、その中に描かれる生活がいかなるものであったのか、それを保健婦がどう見ていたのかについて論じることを以後の課題としたい。
参考文献:
大牟羅良著『ものいわぬ農民』(岩波書店 1958)
大国美智子著『保健婦の歴史』(医学書院 1973)
荻野美穂著『「家族計画」への道 近代日本の生殖をめぐる政治』(岩波書店 2008)
川上祐子著『日本における保健婦事業の成立と展開-戦前・戦中期を中心に-』(風間書房 2013)
木村哲也著『駐在保健婦の時代 1942-1997』(医学書院 2012)
高橋政子著『いのちをみつめて ある保健婦の半生』(ドメス出版 1995)
山中健太「千種町いずみ会の地域的展開と「生活改善」の受容」(田中宣一編『暮らしの革命―戦後農村の生活改善事業と新生活運動』 農文協 2011 328頁~351頁)
山中健太「ある保健婦の足跡から見る地域保健活動の展開と住民の受容」(『佛教大学大学院研究紀要 文学研究科篇』第40号 2012 109頁~124頁)
山中健太「戦後の生活変化の受容と生活改善」(八木透編『新・民俗学を学ぶ-現代を知るために』昭和堂 2013 233頁~237頁)
石垣純二編『保健婦の手記』(生活教育の会 昭和33年)
生活教育の会『生活教育』 昭和35年4月号から43年7月号