ページ

2013年11月19日火曜日

京都民俗学会年次研究大会での発表原稿完成

  ものすごく荒い文章になってしまいましたが、「保健婦の手記」を民俗学的にどう位置づけたらよいかを考えた上での文章化をしてみました。
  いかんせん即席めいたところがあるので、今後はこれを基軸に少しほかの資料もつき併せて論じていくべきかなとおもっております。
 
平成251119

 

「保健婦の手記」からみる民俗生活との関わり

 

1.はじめに

(1)保健婦、「保健婦の手記」との出逢い

農山村僻地へ調査に赴くと、その都度様々な民俗行事や習俗と出会うことがあるが、そうした習俗の変遷について歴史的流れを追う中で、生活の推移についても触れることが多い。そうした生活の推移において民俗の変化を語るとき、やはり基準となる物質なり経済的な動きを基準にそれを表すことが多いが、人々の生活はそう規則的なものではない。民俗学での変化の諸相は、そうした人々の生活の動態的なあり方についての分析が足りない。

 そうしたことを考えていた折に、兵庫県宍粟郡千種町でとある保健婦と出会った。彼女は地域に入り地域住民とともに彼らの視点に立った方策をたてながら、地域生活に深く関与し、民俗に対しても時に衝突し、時に融和しながらそれこそ段階を経て生活の向上を目指した活動を展開していった。民俗学の分野において保健婦という医療従事者のことを分析した類のものはあまりない。しかし、保健婦が行った事、地域を見て行ったこと、そしてそこで住民と交わした言葉や行動はそれこそ民俗の変化に深く関与したとみていいと思う。この対応の在り方をのぞくことこそ、地域生活の向上化のなかにおいて、民俗生活がどのように見られ、どう感じていたのかという動きを具体的に見ることが可能となるのではないか。

 本研究の動機はそうした保健婦らが地域と関わり、民俗生活と関わる中でどういったことがいえるのか、そういうところに注目してみたい。また、本研究の根幹となるのは、そうした保健婦らが記した地域との交流録、「保健婦の手記」の存在である。この手記に描かれる生活のありようは、それこそ生活の現実性を見ることになる。手記はそうした意味においてより現実的な問題として新しいものと民俗がどう関わり交わってきたのかを感じることが出来る素材である。本発表ではその手記がどのようなものであり、民俗との関わりにはどういったものが浮き彫りになるのかを述べてみたい。

 

(2) )研究史

 保健婦の歴史的研究については、大国美智子氏の『保健婦の歴史』や川上裕子氏の『日本における保健婦事業の成立と展開-戦前・戦中期を中心に-』の中で保健婦事業の成り立ちと経緯を述べている。また、実際に初期の保健婦として活躍された高橋政子氏が『写真で見る日本近代看護の歴史 先駆者を訪ねて』で具体的な人物を挙げて保健婦の成り立ちについて述べている。さらに、高橋氏は自らの半生を振り返り『いのちをみつめて ある保健婦の半生』で、初期の保健婦たちの様子を自身の体験として記している。

民俗学での研究では、木村哲也氏の『駐在保健婦の時代 19421997』がある。木村氏は、高知県の駐在保健婦制度とその時代的背景、実際の活動展開、歴史的位置付けについて詳しく論じている。歴史的研究ではあまり注目されなかった保健婦の実態を丹念な聞き取り調査と事業的背景との接合点から明らかにしている。しかしながら、これらの先行研究は事業史や個人史をもとに描いてはいるが、地域における現実について触れられていない。

 本発表で注目したいのは、事業史的な流れとは別に現場における保健婦と地域住民との生々しい対話の中で、保健婦がいかに受け入れられていくのか、保健婦の考え方や生活指導がどのようにして受け入れられていくのかという現実を垣間見てみたい。そこで用いるのが、「保健婦の手記」である。「保健婦の手記」に対する研究はほとんどない。「保健婦の手記」がどのようなものであり、どのような役割を果たしていたのかということを明らかにしたい。

 

2.保健婦の存在意義

(1)保健婦とは

保健婦は、時代ごとに名称が変化し、その事業目的によりそれが目指す方向性が異なっているため、一概にこうしたものという定義はできない。現行の「保健師助産師看護師法」の法規を歴史上のすべての保健婦という対象に当てはめることはできない。しかしながら、仮に定義をするならば、(日本看護協会監修の『新版保健師業務要覧 第二版』)「保健師は、(中略)「人として生きること・健康であること」が保障されるように、生涯を通した人々の健康と幸福を実現することを使命としてきた。(後略)」と言える。言い換えれば身体的健康と社会的健康を守る専門家が保健婦と言える。

本研究においての保健婦は戦後から昭和50年代にかけての保健婦を指す。また、保健婦の歴史は戦前からあるものの、戦後のそれはGHQの政策等により大きく変更がなされている個所があり、その仕事の在り方もGHQの影響を受けている。但し、木村氏が指摘しているように、戦後の保健婦事業はこのGHQの政策としてのそれと、戦前からあった訪問婦を基とするような社会福祉事業としてのそれがせめぎ合っている状態であった。そのため、事業の方針としてのそれと、経験則としての現場の方針は異なる部分がある。事業史としての保健婦をここであらわすとは思っていない。あくまで現場の動きとしての彼らの実情に迫りたい。

 

(2)保健婦の歴史的背景

 戦前の保健婦の事業史については、大国氏や川上氏の著書が詳しいが、その概要を簡単に整理すると、戦前期の保健婦事業は公衆衛生の必要性からというよりも社会的困窮者における救済的な側面からのスタートが大きくある。その最たるものが訪問婦事業である。この事業は様々な団体が担っていたが、現在の家庭訪問の基本を作っていった事業といえよう。

また一方で、当時亡国病としてなっていた結核の蔓延に伴い、伝染病予防のためにこれらから人々を守ることを使命として、その予防、隔離などを実施していった。この背景には健民健兵政策から、国策としての保健婦事業が推奨されてくる。加えて無医村への対策として保健婦が置かれるケースも多くあった。

戦後における保健婦の事業は、GHQのもと社会事業的な性格から、公衆衛生看護の専門性を追求したものとなり、結核予防もさながら、各種伝染病、寄生虫駆除など様々な事業を中心に展開していくようになる。いうなれば、その教育方針が単に富国強兵策や貧困者対策の国策のそれから、国民の健康を向上させるためにと繋がっていくのである。

但し、こうした事業の流れ、戦前から戦後にかけての経緯が、全国各地津々浦々の保健婦にすべて適合していたかというと、「保健婦の手記」を見る限りにおいて、それはまた別の次元で考える必要性があるように思う。事業史的な流れとは別に、地域史のなかにおける保健婦の位置づけや役割は現場の保健婦の性格や裁量という部分によって様々な形を成している。

 

(3)保健婦の視点から見た地域

 では保健婦は地域生活についてどのような視点で見て、どのようにして向上をしていったのであろうか。保健婦の役割から言えば、それこそ地域に保健衛生を根付かせることが第一となるわけであるが、それをするためには地域生活の機微について調査し、生活の改善の必要性があればそれを改善させ、結果として保健衛生を地域根付かせることが重要となってくる。保健婦は、地域という枠組みということを念頭に置きながらも、各家庭について詳細な調査を行っている。後述する「保健婦の手記」に出てくるのはそうした各家庭の一コマが多い。地域全体を俯瞰することも確かに重要なことではあったのだろうが、保健婦にとってそうした俯瞰するに当たり一軒一軒の家庭がどのような背景のもとにあり、どういう位置づけにあるのかということを主眼にする必要性があった。

 そして、保健婦にとって地域とはそうした個別事象の集りであり、統計的に見た場合、この地域ではどのような対応策が必要なのかを垣間見る視点であると位置づける。保健婦にとって個別事象がまずあって、その上に全体性を見たわせる視点があるといってよい。

 当然のことながら、そうした各家庭をバックにしてまた地域を見ていくに当たり、その地域の民俗に触れる場面は多くある。保健婦という立場は、医療従事者の中でも長期的に地域という場に依拠することが多い。そうした場合、民俗との接点は自然と多くなってくる。こうなった時に、やはり民俗との摩擦があることは必須である。また逆に、民俗を利用することも中にはある。地域の民俗の考え方をいくら頭ごなしに否定してもそれは、単なる摩擦に終わる。それであれば、地域生活の向上は図れない。そこで保健婦は、地域生活における民俗を利用し、地域生活に融和していこうとする。この繰り返しが保健婦が地域の視点を維持できた理由である。

 

 

3.「保健婦の手記」を読む

(1)「保健婦の手記」とは

①「保健婦の手記」とは

 「保健婦の手記」とは、家庭訪問を続けていく中で保健婦自身が、そこで暮らす農民たちの暮らしを自己の体験から見つめなおすような性格を有している。「保健婦の手記」を通じてみることができるのは、地域生活における医療の重要性もさながら、日常生活における農民たちの苦労話など、雑談に類するようなものまで含まれ、そこから保健婦は「なぜこの地域には病気が多いのか」「貧しい暮らしが営まれているのか」と常に疑問として持っていた。いわゆる生活疑問というものである。そうしたせいか疑問を通じて得られるのは、農村生活の向上にどのような糸口があるのかを保健婦自身が考えることもそうであるが、これを手記にしるし、雑誌等で発表することによって、内外に生活疑問をアピールする狙いがある。また、「保健婦の手記」は同僚であるほかの保健婦の目にもつくことから、活動の共有化、自己反省につながる一つの教育的な性格を有している。

 

③「保健婦の手記」の性格

 この手記の属性が三つ挙げられる。第一に先に記したように当時における生活の克明な描写があること。生活に根差した活動を行っていた保健婦ならではのものであり、またエピソード的ではあるものの、その背景にある生活環境や社会状況についても言及がある点。

第二点に、これが掲載される雑誌の傾向である。主な雑誌として『保健婦雑誌』『公衆衛生』等の専門誌に加え『生活教育』という多分に社会教育的な影響を受けた雑誌にさえも、多くの手記が寄せられている。また生活教育の会(後に保健同人会となる)が発行している『生活教育』に至っては、手記の選考会評議会が行われ、入選者が雑誌への掲載を許されている。つまり、膨大な量の文章が選考会に投稿されて、有識者、例えば丸岡秀子、石垣純二、国分一太郎、金子光などが評価を下している。優秀作品を意図的に恣意的に選んでいる。文学作品的な評価も高く、単に職業的な評価というだけでなく、社会教育的な様相を呈している。

第三に他にも保健婦系の雑誌ではないが岩手県国民健康保険団体連合会が発行している『岩手の保健』には、保健婦だけでなく保健事業に関わった国保関係者や看護婦、栄養士など様々な方面からの記述があり、これが保健婦という職掌にとらわれない幅広い属性を有していることをここに明記しておく。

 

(2)『生活教育』と「保健婦の手記」

 「保健婦の手記」は多様な雑誌や著書として出回っている。それらそれぞれに雑誌の意図や著作の意図があり、その一貫性を図ることはできない。先に示した性格は大きな意味において言えることであって、すべてこれに当てはまるものがあるかというと微妙なところがある。雑誌『公衆衛生』や『保健婦雑誌』というようなものであれば、それこそ保健婦の実情を描いた手記が出ているが、どこかそれは保健婦個人の感じてきたことというよりも、事業方針における保健婦の報告的な書き方でしかない。実のところ、『公衆衛生』にしろ『保健婦雑誌』にしろ、まず事業があって、その枠内で保健婦がいるということであり、保健婦は事業の一つのコマに過ぎない。人間的というよりも機械的にその報告が手記という形で処理されているに過ぎない。ところが、『生活教育』という雑誌はその傾向からは全く異質なものがある。

 『生活教育』は昭和32年、生活教育の会の丸岡秀子、国分太一郎、金子光らの手によって編集された雑誌である。顔ぶれを見てわかる通り、この雑誌の意図するところは、社会教育的な側面が大きい。特に生活綴方運動、生活記録運動の流れをくむ人々がこぞってその編者となっている時点で、単なる保健婦の雑誌というものではない。その記述方針も、事業内部の保健婦という位置づけから、地域の人びとにふれあう保健婦という位置づけになっている。

『生活教育』は、保健婦の人間性を追求している。本研究が目指すところは、より具体的な生活であり人間の動態的なものとしてである。『生活教育』における「保健婦の手記」はそうした意味において、資料的にも価値があり分析することによって、保健婦と地域住民との関係性を知ることが出来る。

 

4.「保健婦の手記」に描かれる生活

(1)保健婦が見た生活

 保健婦と「保健婦の手記」の概要を見てきたように、保健婦と地域住民、そしてそこに息づく生活との接合点はかなり密接であることが言える。ここでは、より具体的にその保健婦の活動を「保健婦の手記」から取り上げて論じていきたい。勿論、用いる資料は『生活教育』の「保健婦の手記」を中心に述べていきたい。

 保健婦にとっての壁とはまさに、地域における既存の民俗であったりする。これを近代医学と民俗の対立ととらえる人もいるだろうが、実のところこの対立的なものはもっと別の方向から言えると思う。地域に入って保健衛生を普及させ、健康的な生活を作っていこうとする思いは、保健婦だけが持っていたわけではない。地域住民もまたそれを持っていたと考えていい。『岩手の保健』で乳幼児が次々に死んでいく中で、泣く泣く子どもの亡骸を抱き寄せる母の姿からすれば、子どもを死なせることはそれこそ辛いものであるし、病気にかかっても病院へやれないという思い、つまるところの病院へ行かせてやりたいし行きたいと思っている気持には変わりがないのだ。だから、単に近代的な保健衛生と民俗的な習俗が歯車として対立しあうものであったかというと全く異なる。ここでいう民俗という壁というのは、地域住民が「超えたいけれど越えられない壁」としてのアイデンティティーの産物といってもよい。伝統的生活を固辞しようとするのではなくて、伝統的生活から抜け出せない自分たちがなぜいるのかを誰かに気づかせてもらうことを求めているきらいがある。保健婦は彼らの声を聴き、彼らの想いを汲みながら、壁をより低くしてやることが必要とされるのである。

 

(2)保健婦が見た現実

 手記の多くに散見されるのが、嫁の地位の低さによる衛生指導のゆきわたらなさである。手元にある資料①と②をご覧いただければわかる通り、保健婦が関わる多くの仕事の中で母子保健に関わる仕事は大きい、そのために若い嫁や母に会い、それを指導する機会があるが、ところがそうした指導の中において一番のネックとなるのが、嫁の地位である。①は山形県、②は岩手県の農村の事例である。①は受胎調節(家族計画)指導において中絶をしようとする母(嫁)を想いとどませるために説得するという場面、②は出産したはいいが満足に医療の恩恵を受けられないままに、死んでいくわが子を前に泣き笑いをする母(嫁)の姿をえがいたものである。

 この二つの手記に共通するのが「嫁の地位の低さからくる夫や姑への気兼ね」である。①では避妊していたにもかかわらずメンス(月経)がないがために妊娠したのではないかと慌てる嫁が、夫が妊娠を理解してくれないで別の男の子ではないかと疑われることにひどくおびえている。そして一人でこっそり中絶をしようとするのであるが、保健婦によって中絶による母体の負担を説かれ、それで思いとどまるというものであるが、ここで重要なのは、これまで戦中の国策の「産めよ殖やせよ」の反対で、戦後は「産むな殖やすな」というようなものが飛び交うようになり、世間的に中絶をよしとする流れがあること、さらに世間体として子どもを多く授かることについて異論が飛んでいることから、子だくさんをあまりよしとしない風潮があり、そのための受胎調節だと思い込んでいる節があるということ。そしてこれを信じている夫婦だからこそ、そこに子を授かることを極度に嫌がり、夫がいぬまに中絶をしようとする嫁の姿があるというのが常であることなどが背景としてある。ここで嫁の地位が低いというのは、そうした夫婦での理解が曲がりなりにもあるにもかかわらず、夫へ妊娠したことを世間体から告げられないこと、隠れて中絶をすることで今の状態をキープしようとしていることが挙げられる。

 ②は乳児死亡率が昭和30年代当時最も高かった岩手県の事例で子どもが次々亡くなるなかで「泣き笑い」をしながら「命ッコがなかった」と諦めをしてしまう嫁と、「弱かった」という風に言って諦めさせようとする姑の会話があるのであるが、これもまた嫁の地位の低さを象徴しているようであり、産むことに対してたくさん産めばそのうちの何人かはまともに生きるというような風潮がその集落の多産多死を物語っていることになっている。ここで重要なのは、「泣き笑い」をする嫁と諦めを促す姑とのやり取りで、産んだ子どもが誕生日も迎えずに亡くなっていく姿を諦められずにいる嫁がいて、ただそれをあきらめさせないと次を産んでもらえないとして叱咤激励をする姑との関係性がその家族もさながら地域全体をのみ込む、多産多死を容認する動き、それでいて「泣き笑い」ながらも姑に従わざるを得ない「子を産むために迎えられた」嫁の実態。こうした嫁と姑の在り方というのは全国的に見られるものであるが、こうした多産多死の場においても姑に意見を言えない嫁の実態があることがうかがい知れる。

 では、こうした背景はいかにしてできてきたのだろうか。②の場合、『岩手の保健』の中に、嫁の地位の低さというのは、如実に出てくる。子どもを授かることというのはそれこそ多く産めばそれがいいという風潮がある。姑の言うように「命ッコがなかった」というように諦めて、次の子を早く妊娠することに期待する。しかしながら、普段の嫁の労働は激しく、夫の出稼ぎによって農業の人員は嫁と姑らの手に任され、妊婦だの病人だのといって横になっていることは許されない。「稼ぐ嫁」が求められ、それによって妊娠してもそのまま働き続けるから母体に負担がかかり、早産を招き栄養状態の悪い中での育児、稼がなければならない経済事情などから次々と死んでいく、そしてそれを追いかけるように次々生んでいくということの繰り返しであった。嫁の発言権は許されず、母体がいくらボロボロになろうと、それを行使することを要請される。保健婦は彼女らの状況をみながら、受胎調節指導を行うなどして、なんとか母体の安全をというのであるが、夫が出稼ぎから帰ったら、労働でくたくたになった体を横たえている嫁にせまり、性行為を要求する。いくら受胎調節をしても、それが定着しないのは、嫁だけに指導を与えているせいではないかとさえ思う。

 

(3)受胎調節をめぐる嫁の地位と姑

 先の述べた事例は、①と②ともに母子保健をめぐる問題として保健婦の前に立ちはだかったものであるが、これを分析する中で、「嫁の地位の低さ」「姑の無理解」「受胎調節の在り方への無理解」そうしたものが散在していることがわかる。これまで、保健婦研究の中では結果論として、受胎調節は成功し各地に広まったとなっていたが、実のところこうした摩擦が各方面であったということがわかっている。こうした保健婦事業を行うにあたり、嫁と姑の関係性というのはかなり重要なファクターを占めてくる。地域によってそれらを保健婦がどのようにクリアするのかには違いがあるが、まずは家庭訪問でこうした現実を知り、その上で地域全体でこれをどうとらえるのかを考え、婦人会などの場で嫁や姑らに声をかけていくことから始めていく。

また、受胎調節指導がこのように積極的に出てきた背景には、夫の出稼ぎ、留守宅を任された嫁への過重労働、それによる早産で虚弱児が生まれ、そして死んでいくという現実が一つの流れとしてある。これをいかに断ち切るかが問題点であり、そこに姑の理解も加えていく必要性がある。①と②の事例では触れていないが、実のところ、保健婦は直接姑に指導を行う機会は少ない。これは嫁自身が、それこそ自分の力でもってこれをクリアしていくことを望んでいるからであり、その自主性に欠けている節が多くある。これは社会教育的場側面からの女性解放運動の中からも問われていることであるが、保健婦は内在的な問題を内部の人間から積極的に変わってくれるよう手助けするのみで、直接的な手立てをしようとはしなかった。

 

まとめ

(1)「保健婦の手記」から見えてくるもの

 保健婦の活動を「保健婦の手記」からみていくと、そこには保健婦事業では映しきれない、様々な難題があることが理解できる。そうした難題のなかに民俗の存在もある。出産の問題、嫁姑の問題などなど多岐にわたる問題がそこにある。これを封建遺制としてしまうのは簡単だが、実際地域の人々は健康問題をどうにかしたいと願いながらも、それに抗おうとしながら、あきらめていたように感じる。封建遺制という遺制としての在り方よりも、生活の習慣化によって慣らされた諦観があったと考えてよい。そうした中において、保健婦はこの諦観をどうにかするべく、力を注いでいった。

 

(2)民俗学における「保健婦の手記」研究の可能性

これまで医療者に対する研究は民俗学の範疇からは除外されてきたが、しかしながら地域生活に隣接し住民とともに保健衛生を考え、それについて指導を行ってきたこと、かかわりを持ってきたことというのはそれだけで民俗生活に大きな影響を与えたものといえる。保健婦の関わり方はまさにその部分では生活に密接に関与しているといえる。そうした中で、「保健婦の手記」という保健婦と住民との関係性を記すものを分析することは、より具体的な生活の中における民俗を垣間見ることが出来るし、それを変えようとした保健婦側がぶつかった民俗生活との摩擦がよくわかる。その意味で民俗学における研究の可能性は格段に広い分野ではないか。