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2012年3月24日土曜日

2011年度年間報告


研究テーマ:

戦後の「生活改善」が果たした地域生活での役割

-保健衛生面の諸改善をめぐる社会事情と地域-



報告内容:

本年度の研究の目的は、戦後の「生活改善」と呼ばれる活動が地域社会に果たした役割はどのようなものであったのかを述べることである。この研究を進めるにあたって、私が行ったことは、その活動の軸となっていた時代的背景を詳しく追うことと、その時代的背景における人々の受容の分析である。また、具体的な「生活改善」を取り上げる中で今回は兵庫県宍粟郡千種町の事例をとりあげ、そこで行われていた保健衛生面での活動がいかなるものであったのかを導き出した。さらに、保健衛生面での活動を取り上げるに伴い、その活動の根底にあった地域社会にとっての「健康」というものにも着目してみた。

46月期の報告では、千種町の行った「生活改善」そのものがどのような思想的背景のもとに行われていたのかを「健康」を通じてみてみることにした。ここでわかったことは、そもそものきっかけとなった児童の成長不良から見える、児童の成長に関する大きな関心と児童の身体と「健康」に対する人々の考え方の移り変わりである。昭和32年の児童の成長不良の発覚から千種町いずみ会の活動の展開、そして地域保健活動への変遷を見る中で、共通して現れるのが地域住民の「健康」に対する考え方、健康観の推移であろう。特に、昭和32年の段階においては子どもの身体を通じて、自分たちの「健康」のありようを問うている。子どもの身体の数値の他地域との比較において、自分たちの生活のありようを他地域の生活の中に見出したのである。これは、かなりの衝撃をもって迎えられることとなり、その後の生活環境を一変させる事態にもつながった。というのも、当地域の生活環境は外部から懸念されるほど悪く、比較的「健康」な地域とは言い難いものとして取り上げられていたからである。そのような外部の視線にさらされることで人々は地域生活を疑い、それに対して徹底的に追及する姿勢を持つようになった。46月期の段階では、「生活改善」がいかにして関心がもたれていったのか、またそこには何が横たわっていたのかを分析するにとどまったが、「健康」というものがそこにあり、且つ人々の意識を変える大きなものとして受け止められていたことを導き出すことができた。

次に79月期ではそうした、「健康」がタイアップされるのにはどのようなわけがあるのかという疑問から、「健康」の背後にある「病」と地域社会との連関を考えてみた。ここでは千種町そのものを取り上げるのではなく、「病」がもつ排他的な差別観とその強迫的なまでの「健康」の追求を一つの論文から分析することにした。具体的には今野大輔氏の論文「ハンセン病差別の民俗学的研究に向けて」を読み、ハンセン病という「病」の脅威から「病」の対極に位置し、なおかつ自明のごとく君臨する「健康」という思想、そしてそれを冠して推し進めた活動が、絶対的な権威をもっていかに語られてきたのか、「病」をいかに遠ざけようとしてきたのかを解明すること。「健康」の範疇から外れるものに対して、なぜこれほどまでに疑いを抱き、劣等感を持ち忌避するのだろうか。そうした「病」の逆照射からわかる「健康」の内面性を明らかにした。今野氏のその論文はハンセン病疾患の背景にある、「病」の「忌避感」について分析したものであった。この「忌避感」が生じることは、単に身体的なそれと迷信などによる精神的なそれとがあることを今野氏は論中で挙げている。私は、この「忌避感」について詳しく見ていく中で、千種町の「生活改善」の一部始終に「病」に代表される、いわゆる身体的「劣等性」を引き合いに出した「健康」の権威主義的なものがあるのではないかと考えた。つまり、身体が劣るものを排除し、身体が優れるものを創造するという仕組みそのものの立ち上げと、その仕組みの正統性をうたう権威の象徴としての「健康」である。特に、昭和32年の事例を引き合いに出し児童の成長不良、子どもの健康について触れる中で、「優生保護法」に代表されるような排他的な「健康」観というものが取り入れられていく状況を描いた。身体がある一定のラインに達している者に対しては優を、それ以外のものに対しては劣を与え、その優における価値観を高める指導がされているのである。例えば、身体測定結果における県下の水準に至っていない児童に対しては「栄養をとりなさい」とか、「運動をしなさい」とかを奨める動きが見られるのもこのことからである。「健康」を求めることは当然のことであるが、そこに身体の優劣を見出していることに誰も気づいていないだろう。千種町での成長不良問題から派生した生活改善はこうしたバックボーンの上に成り立ち、そして町民の身体を管理運営していくことになる。特にそれが際立って見えるのが昭和43年に町で制定された「千種町健康教育振興審議委会条例」である。これは町を挙げて健康教育、即ち体育などを奨励し児童の身体の改善を実現し、「健康」で且つ元気のある町を内外にアピールするものであった。つまり、「病」とされた児童の成長不良などを一掃し、「健康」である身体を手に入れるための条例である。ここで、ハンセン病患者とこの児童の成長不良者という存在の比較的なものを考えてみた場合、そこには質は異なれど「病」「劣」に対するある種の忌避がうかがえるのではないだろうか。つまり「健康」でいなければ、「病」にかかれば自分は「劣」と見なされ、社会的な場から一掃されるという恐怖心を人々に植えつけたと考えられないだろうか。この植えつけの役割を果たしたのが「生活改善」であり「地域保健活動」である。これらの活動は、単に「病」を排除するにとどまらず、そうした意識変化にも大きく影響を与えたのである。

続いて1012月期の報告では千種町において行われた「生活改善」の中に見られる保健教育上の要素、さらにはこの活動が地域住民側において女子教育的なものとして取り扱われていたことを踏まえ、この活動の教育的側面がどう地域生活に影響を与えたのかを考察した。これまでの報告を振り返ると「生活改善」に含まれる「健康」や「衛生」という言葉は、その当時の地域社会にもとからあった意識を変革させ、新しい意識を植え付けた結果「生活改善」が樹立し、確立していことがわかる。その上で、1012月期の報告では具体的に、それがいかにして確立していったのかを千種町の事例を引き合いに考えてみた。特に、社会教育などにおいて「健康」がいかにして語られ、教育的な立場においてどうひろまっていったのかを分析した。昭和32年の成長不良事件に引き続き、その後行われた千種町いずみ会やA保健婦による「生活改善」は、その当時の社会情勢の動きとも連携して行われていることが分かった。それが分かる資料として昭和31年に開催された食生活改善協会による『昭和三十一年度 食生活改善協議会報告書』である。この資料により昭和30年代前半時点で、学校現場などにおいて「健康」知識の流入を強く求める声があることが分かった。その活動の内容の中に食生活改善などの改善事項が多くあり、千種町のそれもその潮流の中に位置していたのではないかと考えた。また、昭和31年を境目に社会全体の健康観というものも変わってきつつあった時代であった。これまでの地域保健で言われてきた「結核」などの伝染病による急性疾患が衰え、それに代わって「高血圧症」「心筋梗塞」などの生活習慣からくる慢性疾患が増え始める時期なのである。つまり、生活の根本的な見直しがこの当時求められており、食生活、保健においてそれが明確な形で示されていくようになっていたのである。千種町でこれらが進められていくにあたって強く力を発揮したのが、A保健婦の存在である。彼女は宍粟郡初の町保健婦であり、彼女の指導のもと千種町いずみ会が結成され地域活動へと邁進していくこととなる。この過程において、彼女のとった指導方法は、地域住民自らが動き支える組織ぐるみの「生活改善」の樹立を眼下に捉えた教育的指導と会員内組織の発言の共有である。特に婦人会に代表される女性グループを背景にそれらは教育されるようになる。この中には、女性の地位などを巡る社会状況が反映されたものもあれば、地域保健に伴う純粋な指導もある。千種町いずみ会は、「女性に与えられた天分」という心構えから「家族の幸せは自分たちの手で」、「健康で明るい社会を」とのスローガンのもと母親世代を中心に結束された。A保健婦の講習を受けた者が、いずみ会会員として各地区で婦人会と共に活躍することとなった。つまるところ、この会はA保健婦の呼びかけのもと集合した各地区の若い女性グループを中心とし、その地区を総合的に養成していく機関として千種町いずみ会が設けられたのである。これは革新的なことであったらしく、当時の保健衛生においてもこの会の影響力は大きい。その証拠に昭和44年千種町役場が出した条例「千種町健康教育振興審議会条例」において千種町いずみ会の活動補助を行政がとるといったかかわりがみられ、町を挙げての取り組みがみられるようになる。そうした、千種町いずみ会はその後も精力的に活動をし、食生活改善をはじめとする「生活改善」の実施や、A保健婦を筆頭にしての健康診断の実施など地域の生活向上ならびに保健衛生への関わりを強固なものへとしていった。

このことにより、地域の保健衛生に関する関心が一気に膨らみ、地域住民は自分たちの従来の生活模様を見直すことを積極的に行うこととなった。このように千種町の「生活改善」は、あまたの教育を繰り返し享受することで膨らみ、人びとの内面における健康意識を定着させ、保健医療に対し積極的に受け入れようとする流れを作ったといえよう。また、こうした流れの中には社会的気運もあったことも考えられる。昭和30年代から50年代にかけて地域医療への関心が各方面から寄せられており、雑誌『家の光』などのメディアにおいて、地域医療体制の不備を指摘し、これらを改善するとともに人びとに「正しい」健康知識を提示しようとしている。このことからして、この期間における保健医療に対する意識が社会的にも受容されるようになり、健康に対する意識や行動を具体的に描写し、それをよりよい方向へと転換していこうとなった。これ以前の健康に対する知識では、「病気にならなければいい」というそういうマイナス的な発想での健康観であったのに対し、昭和30年代以降「健康を維持し向上させる」というプラスの発想へと転換しているのである。千種町の「生活改善」が果たした役割はそうした意識革命の中にあろう。そして保健教育、女子教育という双方面おけるつながりのもとで大きく前進した事例であったと考えられる。

さらにこれらの活動の背景を受けて、さらに昭和30年代から50年代における「健康」のありように踏み込んだのが、13月期の報告である。活動における「健康」の知識、技術の普及がいかにして地域で進められ、いかにして地域に受容されていったのかを明らかにした。ここでは、「健康」という言葉がもつ強いメッセージ性についても言及している。これまでの報告同様、地域の「生活改善」が果たした役割におけるものとして「健康」知識の流入とその意義づけ、さらに権威付けがここにあるとして、それらがいかにして千種町内部で起こっていったのかを時系列的にかつ、「健康」をキーワードにまとめた。ここでわかったことは、「健康」の知識や技術は単にA保健婦の様な外部の人間が普及に努めただけに限らず、内発的に住民間からこれを受け入れ普及させようとする動きがあったことである。従来の研究で「生活改善」は外部的な要因の一つとして取り上げられることが多い中、その一方で地域住民自らが内部的にこれを受容しようとする動きが捉えられたことは大きな成果と言える。また、「健康」という言葉自体が持つ、権威性や普遍性を広く人びとの間に浸透するようになったのは、外部的な要因と内発的な活動の成果ともとらえることができよう。「健康」は普遍的なものであるが、その普遍たるをするために行われた知識の普及において、こうした内部的な活動が関わっていることをこれまで私たちは触れてこなかった。その意味においてこの報告は重要な意味を持つのではないだろうか。

以上の報告内容により、千種町の「生活改善」が果たした役割とはなんであったのかについてまとめておきたい。まず、千種町において「生活改善」は「健康」を求める動きとして定着した。これは児童の成長不良の「発覚」とそれにたいする「忌避」が挙げられるだろう。それにより、地域にある種の緊張感が訪れることとなった。ここには、自らの身体の外部との比較の中において優劣を求める動きが浸透していったことがあげられよう。特に児童などの子どもの成長においてそうした「差異」が地域生活の「劣等性」を明確にしたといえる。つまるところ、この成長不良の「発覚」は人びとにおける地域生活の「省み」を要求したことになる。これを言葉を換えれば消極的な「健康」への欲求と言えるかもしれない。自分たちが「差別され得ないだろうか」という緊迫した状況においてそれを是正する動きが出てきたのは当然の結果ともいえる。そこに「生活改善」の素地が作られていったのであろう。但し、この時点においてはまだ地域住民に「自覚」を促すにとどまり、具体的な「健康」知識や技術の普及にはまだ至っていなかった。それが可能になるのが昭和35年のA保健婦の赴任からである。彼女は先にも示したが宍粟郡初の町保健婦であり、町域全体の保健衛生に対する是正策を行政側から進めた立場の人間である。彼女が行ったのは「健康」がいかに重要であり、どのように維持管理していくかという教育である。特に、地域の婦人会や女性グループを中核に据えて、彼らとともに考える新しい組織を作り上げていった。この組織というのが千種町いずみ会である。千種町いずみ会は、地域生活の向上、特に「健康」をテーマにした活動に中心に町域全体で行われていった。このおかげもあって、その後町行政が「健康振興審議会条例」を出すことで地域の「健康」維持を具体的に取り上げるにいたった。このような流れをみていくと、「健康」は単に普及されるものとして取り上げられるにとどまらず、「健康」を介して地域生活と行政とのつながりがそこにあったのではないかと考える。地域住民側からは自己の身体の危機的状況(「忌避」状態)からの脱出、そして身体の強化としての地域活動への進展。地域行政側からは地域住民への「健康」の普及、そしてその組織化、条例化を進めていき、地域全体の「健康」水準の向上を目指し設備投資や地域医療の是正に努めたのである。このような双方間の意見の一致から「生活改善」は地域住民に受容されそして広く定着することに至ったものであった。「生活改善」が「健康」を介して地域社会に対し果たした役割とは、単に「健康」を与えるだけに終わらず、地域生活の中でそれを定着させ、そこから自発的に住民個々が「健康」を積極的に受け入れさせ、それをもとに自らの生活を「是正」管理していく枠組みを作っていったことにあると考える。もちろん、A保健婦や行政の関与もうかがえるし、彼ら抜きにしてこの「生活改善」は成り立たない。普及と受容双方のやり取りの中で「生活改善」は活動することになるのである。

このような「生活改善」の内部的な動き、実際の地域における受容の方向性、そこに横たわる問題の帰結について書かれたものは報告書も含め、希有なものであろう。未だにこの「生活改善」全体の動き、特に中央と地域との関連性については議論が進まない面もあり、「生活改善」の定義というものは明らかにされていない。だが、地域におけるその「生活改善」のありよう、役割というものはここで明らかにされたように、単なる活動としてのものにあらず、地域生活の質的向上の土壌を地域住民に与えていきそこから内的な声を上げさせる手助けをしていったことになる。この地域での役割は重要なものではないだろうか。これまでの民俗学における地域生活の分析には、「生活改善」の実態はもちろんのことそれがなしえた地域での役割、さらには地域住民の変化の受容について詳しく論じることはなかった。この報告はそれを補う上でも重要なものである。

中間報告④


報告題目:「千種町の「生活改善」活動に見る「健康」の普及と地域」



 本報告は、兵庫県宍粟郡千種町(現宍粟市千種町)の昭和30年代から50年代にかけて行われた「生活改善」もしくは地域保健活動と称される活動における「健康」の知識、技術の普及がいかにして地域で進められ、いかにして地域に受容されていったのかを明らかにするものである。報告のテーマは、本年度研究計画のテーマであった「戦後の「生活改善」が果たした地域生活での役割-保健衛生面の諸改善をめぐる社会事情と地域-」を研究するにあたって見つけだしたものである。

 「健康」という言葉は、普遍的な意味を持って使用している。「健康とは、単に疾病がないとか虚弱でないというばかりではなく、肉体的、精神的、社会的に完全に良好な状態である」。これは、WHO(世界保健機関)1946年に世界保健憲章前文において「健康」とは何かということを定義づけた一文である。医療従事者に留まらず、世間一般的に流布している「健康」というものはとりあえずこの意味において定義づけられていることになっている。ただ、私たちが使用する「健康」というものはこの意味だけに限らず、様々な状況において使われていることもあり、これが「健康」であるというものはあまり明確に存在するものではない。例えば、身体測定において測られる数値としての健康の度合い。これはある一定の数値を基準にそれ以上それ以下によって健康の水準を定めるものである。近年ではメタボリックシンドロームの検査においてこれを用い、それによって数値を上回れば「不健康」、数値を下回れば「健康」というカテゴリー分けを行っている。つまりその場の状況に合わせてある種、病気を見つけだすための装置としての「健康」という捉え方、消極的「健康」とも評されるものである。またその一方で、スポーツなどを生活に取り入れることによって身体の強化を図るという意味での「健康」、アンチエイジングに始まる美容においての「健康」がある。これは自らの身体を標準以上に設けることによって身体の強化を図りそれでいて美意識としての精神的強化も図るというものである。積極的「健康」と評される。こうした、積極的消極的といった区分のほかに、時代的区分もある。これは「健康」という言葉がもつ社会性というものであり、その時代ごとにおいて「健康」がもつ意味合いは異なり、その影響力も異なる。この意味において「健康」は単に普遍的な定義だけでなく、様々な環境において用いられる用語であることは明らかである。さらに、ここで加えておくと、地域においてもその意味合いは異なると思う。僻地における「健康」と平地における「健康」とはその基準や社会性も異なる。つまり地域性もそこに見出せることになるのではないかと考える。これにより、WHOの定義が一枚岩ではないことが明らかであろう。ところが、世間一般においてはこの定義が先行され、且つ利用されるようになっている。つまり一つの解釈において「健康」というものが普遍的に広がりを見せているのである。では、だが、その「定義たらしめた」状況において人々がどう考えたのであろうか。つまり、「健康」という一定の意味を持つものが普及する中で人々はそれをどう受け入れていったのであろうか。これが今回の報告の目的である。

この「健康」を取り上げたことには理由がある。それは、先に述べたように「健康」というものは時代地域によって異なり、その積極性、消極性などの精神的な区分によっても異なるという状況下において、それを一刀両断にひとつの「健康」を推し進めた活動が存在することを発見したからである。その活動は「生活改善」と称され、戦後生活の近代化や合理化を推進するもとで行われたものである。一見、「健康」を冠していないような活動に見えるが、この活動は普及の過程で知識や技術としての「健康」の普及に力を注いでいる。それは広い意味では都市部に比べて農山漁村の生活環境の悪質な状況を鑑みての保健衛生的処置として行われた普及である。食生活に始まり、衣生活、住生活など様々な方面において行われており、明確な活動区分としての「健康」というものはないが、それでも一定の生活基準として「健康」というものを念頭に置きながら活動がされていることからも、この活動が「健康」を内包しその普及に努めたものといえるだろう。では、その普及方法はどうであったのであろうか。ここで具体的な事例を見ていきたい。地域は、兵庫県宍粟郡千種町である。本地域は昭和30年代前半に、とあることがきっかけとなり「生活改善」が進んだ地域である。そのきっかけというのが児童の成長不良という地域の「健康」に言及するものであり、その後の活動も広く「健康」を取り上げたものとなっている。この事例を追うことで、「健康」がいかに「生活改善」で語られそれが如何に普及していったのかを考えてみることにする。

まず、千種町で起きたことについて簡単に述べておきたい。兵庫県宍粟郡は鳥取県と岡山県との県境に位置し、中でも千種町は県境に最も近い位置にある町で、農業と林業が盛んである。ことの発端は昭和32年、千種町でも最北端にある西河内地区、千種北小学校の修学旅行先で、他地域と比べ児童の成長が著しく遅れているのではないかという声が上がったことからはじまる。児童の成長不良の原因は食生活にあり、それを考え直す必要性があった。そこで、北小学校に児童を預けている親が集まり、育友会を介して、彼らの手による給食がもたらされた。こうした流れは、後に地域の食生活そのものに投げかけられ、児童だけでなく、その家族、地域全体へと広がっていった。千種町域ではこれ以外にも様々な保健衛生上の問題を抱えていた。まず、児童の成長不良に代表されるような地域の食生活の問題。次に、食生活の問題と絡めて母親に過重な労働による母子保健衛生上の問題。さらに、回虫卵保有率からみる衛生上の問題の3つがある。これらは緊急性の高い問題であったため、地域住民は各地区で自ずとその問題を解決すべく活動を展開するようになった。例えば、成長不良問題が発覚した西河内地区のいずみ会、さらの室地区の幸妻会などといった料理講習会や勉強会、それぞれ設立経緯は異なるものの、地域生活の向上に向けての先駆けとなっていた。ところが、具体的に地域の「健康」に対する知識や技術は乏しく解決には至らなかった。

このような地域行政の保健衛生への立ち遅れは兵庫県下でも問題となり、早急な手立てを講じる必要性を求める声が行政の中でも囁かれるようになった。そのような中、昭和35年、宍粟郡では初めてとなる町保健婦にA氏が赴任することになった。彼女は、保健婦となるや千種町の地域問題に触れ、一刻も早くこの危機的状況を打破しなければならないと考え、食生活に関わる栄養指導、母子保健の確立、衛生知識の普及に尽力することとなった。その一方で彼女自身は地域住民自らが問題解決に取り組むべきだと考え、活動のための基盤となる住民組織の育成に従事した。A保健婦は婦人会や先の地区活動を土台に昭和43年、千種町いずみ会を立ち上げた。この会は、各地区から選ばれた住民によって構成されており、A保健婦からの指導を受けた後、各地区の現場にてその場に沿った「生活改善」を行う組織である。会の主な活動は食生活改善、栄養改善、衛生改善などといった改善活動を中心としたものであった。このようにして出来上がった活動の基盤は、瞬く間に千種町一帯に広がりを見せ、行政の関与も多くみられるようになる。昭和44年、教育委員会によって出された「千種町健康教育振興審議会条例」、その前後に行われた「体位向上協議会」である。条例は「千種町の児童生徒の体位向上を図るための健康教育及び一般町民の健康増進を図るため」に出されたものである。この条例は千種町の地域問題から行政として「健康知識の普及」や「健康増進のための施設の建設」を進めるものであった。これにより、千種町いずみ会は大きなバックボーンを受け様々な活動を展開していった。

ここで注目したいのはその活動の引き金となった昭和32年の児童の成長不良の発覚である。これ以前にも頻繁に身長体重などの体格を示す身体測定結果、健康診断結果が表出しているにもかかわらず、この時点でそれが地域住民の目に「発覚」したのである。そもそもこうした「発覚」があったからこそその後の「生活改善」が起きたのであり、これがなければ何も起きなかったはずである。この「発覚」はある種「健康」の発見ともいえる。千種町での「発覚」は他地域との比較の中で語れていることに着目すると、そこにはある種の競争原理や健康基準創出のようなものがうかがえる。「健康」であることに対する強迫的な考え方があり、それに応じて他地域と比較し同じかそれ以上でない、または「基準値に達していない身体は不健康である」という考え方が広まり、それを強烈なインパクトを与えていたのであろう。先述した消極的健康の代表的な例といえよう。ただし、千種町のそれは消極的なだけで終わらなかったことも事実である。このきっかけにより、地域で「健康」に対する関心が一気に上がったのは間違いない。自分たちの持っていた「常識」が疑われ、そのままでは非常に「悪い」として恐怖感や危機感を煽った。その一方で、自分たちの「健康」とはどのようなものでどうすればいいのかを知るといった積極的な動きを見せるようになってくる。それが千種町でいえば、千種町いずみ会の組織化である。A保健婦は立ち上げには閑居しているものの、基本的にこの組織は地域住民の自由意思に任せられていた。そのため、この会の活動自体は単に恐怖心や危機感で外部的に動いたものではなく、より積極的な健康意識をもって行われたと推測される。特に、栄養面に関する活動は積極的であり、どの作物にどのような栄養素が含まれていてどのように体に作用するのかといった事細かな内容に至るまでデータを取り、それが実地で作ることが可能であるのか、また地域の健康にあっているのかを比較検討してから取り込むことまでを念頭において行われている。そのような地域住民からの積極的な動きに合わせて行政も動き、千種町健康教育振興審議会条例をつくり、スポーツ設備などを建設することで住民のニーズにこたえようとしている。「生活改善」における「健康」の普及はこのような方法をとってすすめられていったのであろう。

中間報告③


報告題目:戦後の地域の保健教育、女子教育と「生活改善」



 本研究の主題は、戦後の保健衛生面での「生活改善」の諸相を従来のように単に国策や思想としての社会史の中にとどめるのではなく、もっと具体的に地域社会での生活の中においてどうであったのかを問うものである。地域社会での具体的な動きとしての兵庫県宍粟市千種町の「生活改善」を事例として扱い、その活動の社会的意義を考えるものとする。但し、地域内だけでこれを見てしまうとかなり小規模な意義になってしまい、全体的な、国策としての「生活改善」の流れにおいてこれをどのようなものであったのかについては考えが及ばない場合がある。そこで、当時の社会的背景や政策、千種町の場合、保健衛生政策とその進め方の中にも「生活改善」を見出す必要性もある。つまり、単に地理的な地域という個々の小さなまとまりではなく、もっと広い社会的なまとまりにおける地域という視野でこれを対象化し、且つ分析を試みたいと考える。

第三期の本報告では、千種町において行われた「生活改善」の中に見られる保健教育上の要素、さらにはこの活動が地域住民側において女子教育的なものとして取り扱われていたことを踏まえ、この活動の教育的側面がどう地域生活に影響を与えたのかを考察する。これまで、第一期(46)、第二期(79)報告では「健康」や「病」という言葉が指すイメージと地域社会との接点を社会史的な立場から見て、それを千種町の活動に照らし合わせることでその言葉が具体的どのように扱われ、「生活改善」に結び付いてきたのかを考えようとした。結論からいえば、これらのイメージはその当時の社会状況と密接にあり、それが変化し受け手側である人びとの意識に反映される。つまり、「生活改善」に含まれる「健康」や「衛生」という言葉は、その当時の地域社会にもとからあった意識を変革させ、新しい意識を植え付けた結果「生活改善」が樹立し、確立していったということである。ただ、第一期、第二期では具体的な地域での活動というよりも、その当時の社会状況においてそれがどうであったのかということを推測したまでであり、具体的にどのような意識の植え付けがなされていったのかというところまでは分析できていなかった。本報告ではこれを補強すべく、意識がどのように植え付けられていったのかという視点をもう一度問うことする。また、これには深く教育というものがのしかかってくる。これは単に学校教育というものではなく、社会教育上のそれである。地域の保健衛生に限らず、食生活面での管理を促す教育が幾度も行われ、それが定着することにおいて、食生活が変化し栄養状態が格段に良好な状態となったということはこれまでの報告でも分かってきている。つまり、そうした教育により人びとの意識改革が行われ、栄養状況の改善へ結び付いたとされるのである。だとすると、その教育とはどのようなものであり、どう活動したのか。またそれがどのようにして人々の中に浸透し意識の変革を起こすまでに至ったのかを分析する必要があるだろう。

千種町で「生活改善」が行われたのは昭和35年から昭和50年ぐらいにわたる15年間ぐらいである。この時期の設定についは、やや不明瞭な部分が多いが、これぐらいでしか今のところ資料上や聞き取りデータの上では分かっていない。また、昭和35年以前にもなんらかの改善が行われていたことも考えられるが、保健衛生面においての改善ではこの昭和35年からを考えることが妥当であると考える。その根拠は、昭和35年に隣郡の佐用郡佐用町からひとりの保健婦が赴任してくることにある。ここではA保健婦と呼ぶ。このA保健婦は宍粟郡千種町で初めておかれた保健婦であり、地域の健康の管理体制の先駆けとなった人物でもある。つまり、この人物の登場により、その後の千種町における健康の政策及び活動はそれまでのものとは異なったものとなりえることは必然であり、この人物を具体的に取り上げることで、その当時の保健衛生の状況とそれがいかに変わろうとして言ったのかを分析できる。昭和35年のA保健婦の赴任は、千種町において大きな出来事であり、地域社会の保健衛生面においても転機であったと考える。また昭和50年を終わりとするのは、A保健婦がこの地を去ることを意味している。そこから先は、別の保健婦が赴任することになるのであるが、この昭和50年代を最後として千種町において大きな保健衛生活動ないし、「生活改善」というものはなくなってくる。つまるところ、A保健婦の任用期間は千種町にとっては怒涛の保健衛生の改善ラッシュであり、「生活改善」が頻繁に行われた時期と重なるのである。この意味で、昭和35年から昭和50年を軸に、この地域を考えていきたい。

さて、具体的に事例を見ていくこととする。千種町で「生活改善」の兆しが見えたのは、活動が開始される少し前、昭和31年のとある事件からである。この事件とは、千種北小学校における児童の成長不良の発覚である。発覚という言い方をとるのにはわけがある。当時、千種北小学校では何度か児童の成長を示すデータが取られていたにもかかわらず、この時期に急にその成長の伸び具合を気にしだすそぶりが出てくることである。地域住民からの聞き取りによれば、この小学校の昭和31年に催した修学旅行の旅行先が発端となっているようである。旅行先は明石や姫路といった都市部であり、その当時としては別段不思議な地域でもない。ただ、この旅行に付き添ったある教師が、その旅行先の都市部の児童と当地域の児童との体格差に驚き、この体格差は異常であり改善する必要があることを旅行後、当地域に戻った折に地域住民へ説明したという。それがきっかけにより、学校児童の親を中心に地域住民の中で、自分の子ども達の成長具合に疑問を呈するようになった。この児童の成長不良の原因は、当時の栄養状態にあったという。但し、その詳しいことに関する資料が判明しておらず、聞き取りでしかそれを明らかにすることはできない。聞き取りによれば、当時の児童の様子は身長が低く、痩せていたという。まるで「戦争孤児」のようであったとさえいわれている。また、当時は学校での給食は行われておらず、児童は自宅から弁当を持参することになっていたが、その弁当を用意してもらうこともできない欠食児童が多くいた。この状況を見かねた親たちはその後、これを改善しようと、当時のPTA組織、育友会を中心に学校児童に対する給食の実施を行うこととなる。その後しばらくの間これが続けられ、後に学校児童に限らず、地域の食に対して具体的な改善を急ぐ形で千種町いずみ会という組織が作られていくようになる。

千種町のこうした改善の兆しは、学校という教育現場からの地域への疑問という形から始まり具体的な諸相として改善を進めるようになっていくが、このような流れはなにも千種町に限ったことではない。昭和31年に行われた食生活改善協会の記録『昭和三十一年度 食生活改善協議会報告書』によれば、この学校の教育現場を発端として行われる改善事例は既に報告されており、珍しいことではなかったようである。つまり、保健教育の一環やその一部として地域社会における食の問題や、千種町に見られるような児童の成長不良の問題が扱われるようになってきたということである。また、昭和31年を境目に社会全体の健康観というものも変わってきつつあった時代であった。これまでの地域保健で言われてきた「結核」などの伝染病による急性疾患が衰え、それに代わって「高血圧症」「心筋梗塞」などの生活習慣からくる慢性疾患が増え始める時期なのである。つまり、生活の根本的な見直しがこの当時求められており、食生活、保健においてそれが明確な形で示されていくようになっていたのである。千種町も同様にこのような社会状況にあり、一刻も早くこれらを改善していく用意があったものと思われるが、行政が動き出したのはその後昭和35年のA保健婦の赴任を待つことになる。この間、どのような活動があったのかは聞き取りでも明らかにされておらず、紙面上でも不明になっている。

昭和35年、隣郡佐用郡佐用町からA保健婦が赴任することとなる。このA保健婦の赴任は、宍粟郡を管轄している山崎保健所からの通達があってのことで、その通達によれば当時千種町は欠食児童の問題に限らず、奇形児の問題や発育不良児の問題、母子保健環境の不整備など保健衛生上でかなり問題があると指摘されている地域であったという。そこで、隣郡で保健活動をしていたA保健婦に白羽の矢がいき、その流れで務めることになった。この時点で、千種町には保健婦がおらず、診療所が唯一の保健医療機関であった。そこに保健婦が入ってくることは、地域住民からするとあまりなじみのないものだったようである。A保健婦の話によれば、千種町は閉鎖的な集落が多く、赴任した頃家庭訪問に伺おうとすると「結核患者がいる家に回っているのだ」といううわさが流れ、「病院送りにされてしまう」として誰もあってくれようとしなかった。つまり、この時点で保健婦は伝染病患者を中心に見ているから彼らに診てもらうことはすなわち病院送りということを地域の人は思っていたらしい。その後、A保健婦は地道に家庭訪問を繰り返し信頼を得ていくことになるが、そこで用いられたのが教育ということである。それまでの診療所などの巡察では、病人に適切な施しをあたえることが目的であったのに対し、保健婦のそれは単に病人だけに限らず、その家族や家庭の状況に応じた健康管理の方法を教えることにあった。つまるところ、保健教育の先駆けである。この当時どれぐらいの保健知識がこの地域にあったのかは未だわかっていないものの、昭和31年に学校給食を実施せざるを得ない事態になっていることからしても栄養状況にかなりの関心や保健医療に対しての関心がある程度あったように思う。だがこれらの関心に対しての応答がなく、保健医療の整備がなされていなかった。例えば、妊婦は赤ん坊が生まれる直前まで山の畑を耕したり、田植えをしたりしていたといい。怪我をしたりしてもそのまま放置するか、ひどくなったときにのみ診療所を利用するという。今でこそ医療機関の重要性は一般的になっているが、この当時の医療機関の利用率はかなり低いものだったそうだ。そのため、発見が遅れかなり苦しい事態に陥ることも多く、妊婦は特に異常出産や死産などが多発していた。そこへ、A保健婦が入ってくるようになると、そうした保健衛生面に関する知識を頻繁に見聞きすることにより、人々に医療機関や保健衛生に関する正しい理解を生みこれらを受容していったと考えられよう。A保健婦の指導は、主に母子保健に関わること、つまり出産前後の母体の管理や子どもの成長などのことで、このほかこれに準ずるように生活環境の整備などを人々に教えている。こうしたA保健婦の活躍により徐々に、地域の健康に対する意識の変化が見られるようになる。一つに、このころを境としてトリアゲババの手から資格を持った助産婦へと出産の介助者が変わってくるようになる。また、難産や出産後の体調変化において、病院や診療所、A保健婦の訪問などを積極的に受けるようになる。このようにして地域住民の間、特に母子において保健医療に対し今まで以上に関心を寄せ、積極的に医療機関を利用する動きが出てくるようになった。

そのような保健衛生関係の知識に対する興味関心が向く中で、もうひとつの流れが出てくる。それが女子教育である。先にふれたように、千種町での保健医療に対する関心は子どもの成長などといった母子の身体に関わるものであり、対象者は女性を主としていた。このような、女性に対する動きは何も保健衛生面だけではない。この昭和30年以降は女性解放運動なるものが全国各地でおこなわれるようになる。これは女性の社会進出により従来の男性中心の生活から女性を解放し、地位向上を目指すものであった。このような動きは社会全体を巻き込んだ大きな流れとなり、各地に地位向上を目指す女性集団を形成させることとなった。千種町も例にもれず、昭和30年代当時から千種町西河内や室といった地域において婦人会組織の中から若妻を中心に勉強会組織が出てくる。西河内では、料理教室を開いていたという。この会ができた時期は定かではないものの、当時あまり食することのなかった油でいためる料理やあげもの料理などを婦人雑誌からレシピをとりながら、月に二から三回程度会員のいずれかの家の台所を借りて行っていた。この会は何も栄養や料理法を開発するような勉強会と最初からなっていたわけではなく、心安い仲間内で料理をしてみようということから始まったらしい。室では婦人会組織とは別に幸妻会という会を発足させた。この会はもともと文学などを学ぶためのサークルとして活動していた小さな勉強会であり、その活動内容は多岐にわたり料理教室なども行っていたという。その料理教室では、当時栽培されていなかった食材を積極的に取り入れ、且つ素材を農地で栽培しながら行った革新的な会でもあった。今のところこの二つの会の存在だけしか判明していないが、千種町各所においてこうした女性グループが目立ってくるのがこの昭和30年代後半からであった。これ以前においては婦人会がこれに似たことを行っていたらしいが、若い世代が集団を決して革新的なことを始めるといった動きは見られなかったという。このような状況の中これらの会が成長していくきっかけとなったのがA保健婦の助言であった。A保健婦は昭和35年赴任当初から、これらの会に目を向け、保健衛生面での助言を繰り返し指導するようになった。西河内の場合、料理教室のある日に、A保健婦を招待して栄養知識や台所衛生に対する知識の助言や指導を仰ぎ、それに応じて料理をはじめ、さらには台所の整備にまで着手するようになっている。当時の会員はA保健婦により今まで気づかなかった栄養のことや保健衛生のことをたくさん教えてもらったという。A保健婦はこれらの女性の集まりを通じて地域住民に保健衛生に関心を持ってもらい、地域全体の生活と健康の向上を目指していた。室においても同様に、A保健婦は会員らの集まりに農業改良普及員らとともにでかけては、作物から得られる栄養や食の管理体制における指導などを行っていた。こうした地道な指導において、徐々にA保健婦のもとにこうした女性の会が集まりだした。それが昭和43年千種町いずみ会の始まりであった。

千種町いずみ会は、「女性に与えられた天分」という心構えから「家族の幸せは自分たちの手で」、「健康で明るい社会を」とのスローガンのもと母親世代を中心に結束された。A保健婦の講習を受けた者が、いずみ会会員として各地区で婦人会と共に活躍することとなった。つまるところ、この会はA保健婦の呼びかけのもと集合した各地区の若い女性グループを中心とし、その地区を総合的に養成していく機関として千種町いずみ会が設けられたのである。これは革新的なことであったらしく、当時の保健衛生においてもこの会の影響力は大きい。その証拠に昭和44年千種町役場が出した条例「千種町健康教育振興審議会条例」において千種町いずみ会の活動補助を行政がとるといったかかわりがみられ、町を挙げての取り組みがみられるようになる。そうした、千種町いずみ会はその後も精力的に活動をし、食生活改善をはじめとする「生活改善」の実施や、A保健婦を筆頭にしての健康診断の実施など地域の生活向上ならびに保健衛生への関わりを強固なものへとしていった。

このことにより、地域の保健衛生に関する関心が一気に膨らみ、地域住民は自分たちの従来の生活模様を見直すことを積極的に行うこととなった。

このように千種町の「生活改善」は、あまたの教育を繰り返し享受することで膨らみ、人びとの内面における健康意識を定着させ、保健医療に対し積極的に受け入れようとする流れを作ったといえよう。また、こうした流れの中には社会的気運もあったことも考えられる。昭和30年代から50年代にかけて地域医療への関心が各方面から寄せられており、雑誌『家の光』などのメディアにおいて、地域医療体制の不備を指摘し、これらを改善するとともに人びとに「正しい」健康知識を提示しようとしている。このことからして、この期間における保健医療に対する意識が社会的にも受容されるようになり、健康に対する意識や行動を具体的に描写し、それをよりよい方向へと転換していこうとなった。これ以前の健康に対する知識では、「病気にならなければいい」というそういうマイナス的な発想での健康観であったのに対し、昭和30年代以降「健康を維持し向上させる」というプラスの発想へと転換しているのである。千種町の「生活改善」が果たした役割はそうした意識革命の中にあろう。そして保健教育、女子教育という双方面おけるつながりのもとで大きく前進した事例であったと考えられる。

現在のところ、こうした機運がどのようにして生じたのかを当時のメディア媒体である雑誌等々調査している。そこでわかったのは、人びとの健康に対する熱心なまでの関心の高さである。昭和3334年の『家の光』の付録に「家庭の医療」を題した項目が大きくもうけられ、病院での治療はもちろんのこと、家庭での健康管理の方法や不測の事態における科学的な方法での処置や病院への搬送方法などが事細かく書かれている。ここまで病院などを大々的にとらえたり、別冊で医療を詳しく論じる雑誌付録は見受けられない。その面からもこの昭和30年代は、健康と医療に対し注目が集まっていたことがわかる。このような中で千種町の動きも捉える事が出来るのではないだろうか。また、「生活改善」が女性の地位向上に果たした役割は、従来の研究からも判明しているものの、女性の地位向上が具体的になぜ地域で起こりどう活動に結び付いていったのかといったものは描き切れていなかったのが実情である。ところが、今回の女子教育と保健教育の関わりをみる中においてこれらが母子保健という形をもって密接に絡み、そして活動につながっていったことが分かってきた。

今後の課題としては、これまでのデータを整理しながら、「生活改善」の地域における意義づけを行っていきたい。これは従来の生活改善運動に代わる新しい発想である。従来の研究において生活改善運動は近代化の運動として大きく取り上げられ、その思想や活動の変遷、組織体系の構築、女性の地位向上、農業における開発と生活設計というなかで論じられることが多かった。ところが、今回わかったことはそうした外郭的なことで生活改善運動を取り巻く状況はほんの一部でしかなく、もっと現場である地域においてそれがどのように作用し、人びとがどう受けていったのかということを明らかにする必要がある。このため、新たに「生活改善」というものがいかに地域において意味していたのか、いかに人びとの中にあったのかという点を中心に分析しなければならない。修士論文やその後の書籍等において同じ地域で角度を変えながら分析を行っているのはそのためである。修士論文では地域住民側、書籍においてはA保健婦側、紀要においては総合的な視点を用いて論じており、今後はそれらを生かして「生活改善」とは地域において何であったのかを意義づけするものとしたい。

中間報告②


「病」の逆照射から見た「健康」とそれを支えた生活改善

―今野大輔「ハンセン病差別の民俗学的研究に向けて」を参考に―



 本報告は、「健康」というものがどう扱われ、その対極にある「病」とどのように比較され生活に取り込まれていったのかを、その動きの中にあった生活改善の役割から見ていきたい。

「病」と「健康」は正反対のものとして理解されているが、昨今の諸科学の研究においては「病」の特異性を見出し原因究明とその治療を目的とし、「病」の物理的全容を解明することにおいて「健康」を導き出そうとしている。医学においてはそれを科学的に証明し、そこから導き出される結果を応用し、健康に役立てるということを行っている。歴史学などにおいては「病」の歴史的な位置づけがどのようにして変遷し、その特異性や医療技術の進歩との関係、社会との関係の中でとう扱われその背景に何があるのかといったものを導き出そうとした。また同時にこれに伴う差別を分析し、それを反省する動きを見せている。特に、ハンセン病における強制隔離政策の問題に関しては、国がどのようにそれを差別視させようとしたのかを克明につづるとともに、それに対する反省を明らかにしようとしている。

しかしながら、本報告ではそうした科学的立証や歴史的反省に習うものではない。かといって、科学的根拠を否定して将来的な研究に対し危惧したりするわけではない。また、ハンセン病などの強制隔離政策が正当であったということでもなく、「病」の差別を分析することが何も生まないと言っているのではない。本論で行おうとしていることは「病」の対極に位置し、なおかつ自明のごとく君臨する「健康」という思想、そしてそれを冠して推し進めた活動が、絶対的な権威をもっていかに語られてきたのか、「病」をいかに遠ざけようとしてきたのかを解明することにある。これは「病」を差別視する政策の歴史的反省というよりも、歴史上においての「健康」の優位性がいかにして人々に影響したのか、いかにして生活へ影響を与え、今の私たちの生活を位置付けたのかを立証するものである。

詳しく述べていくと、「病」であることの劣等感があることを前提として語らえ「健康」はそれ自体が自然、普通であるようなとらえ方をされている。見方を変えれば「病」であることは社会的に善しとはされず、改善されるものであり、「健康」でなければいけないのだという強迫観念がここにある。昨今「健康」という言葉の流布はますます過激になりつつある。さまざまな食料品、医薬品をはじめ、衣料、住居など、衣食住のいずれにおいても目立った言葉として使われる。人々はその言葉に安心を求め、さも当然のようにそれを享受しようとしているが、なぜそのように人々は進んでこれを取り入れようとするのだろうか。また、その「健康」の範疇から外れるものに対して、なぜこれほどまでに疑いを抱き、劣等感を持ち忌避するのだろうか。そうした「病」の逆照射からわかる「健康」の内面性を明らかにし、またそれを用いた活動がいかにして広まり、さらにそれを受けた人々がどのようにして「健康」を享受しようとしてきたのかを考えるものである。

この考え方に思い立ったのは、調査地である兵庫県宍粟市千種町における生活改善の分析を行った際のことである。この活動の要となった「千種町いずみ会」は、設立時に「家族の健康」をかかげ、活動にいそしんでいる。その後の行政政策においても「健康推進」を前面に出し、活発に議論していこうとする動きさえある。また、これらの活動が始まる以前、この地域においては児童の成長不良、乳幼児死亡率の高さ、寄生虫卵保有率の高さなどなど、さまざまな保健衛生上の問題を有し逼迫した状態であった。だが、多くの話者が「それまで何とも思わなかった」「なぜうちの子が」と口々にそれまでの生活においてこの問題に対してなんら疑問を呈していなかったということを述べている。「それまで何とも思わなかった」とすることは、これらの活動が動く前は、児童の身長体重そのほかもろもろにいたるまですべて「問題がない」として考えられていたことになる。それが昭和30年代を境に、一変してそれまでの生活を「反省」し、これからの「健康」的な生活を今まで以上に求めるようになった。では、なぜそれほどまでに「健康」を求めなければいけなかったのだろうか。なぜそれまでの何も「問題のない」生活を「改め善くし」なければならなかったのだろうか。千種町の生活改善における「健康」の重要性についてはこれまで活動の実態から見てきたことであるが、なぜそこに漫然と「健康」が掲げられているのかということについては考えたことがなかった。「健康」というものに対し、人々が抱くものとは一体どのようなことなのであろうか。それを解明することは生活改善の推進がどのような作用を受けてあったのかを見ることにもつながる。この疑問から「健康」について今一度考えなおす必要性があると思った。これは、生活改善活動を通じてわかったことであるが、改良普及員ならびに保健婦などが昭和20年代後半より日本全国の農山漁村に対して、生活改善に伴う教育的指導を行ってることからである。ここでいう教育的指導は多種多様ではあるが、一定の方向性がある。それは人々の生活を安心安全で効率の良い合理的な生活に結び付けることであり、つまるところ身体的労苦から切り離された理想的生活の実現を目指している。これに「健康」というものも含まれている。そこで、この教育的指導を通じて、保健衛生知識を伝えていく過程において「健康」というものの優位性についても直接的にはないにせよ、間接的に伝えているのではないかと考える。つまり、生活改善自体、「健康」という言葉を人々に広めさせたのではないかと推察できる。そのため、地域における生活改善の動向を探ることにより、「健康」の普及とそれに対しての人々の受容の具体性を明らかにできる。本報告では、「病」から逆照射された「健康」、そしてそれを具現化した生活改善の足跡を追うものとしたい。

ただ、「健康」というものは真正面から扱うことは非常に難しく、「生まれる」、「育つ」、「老いる」、「死ぬ」のどのライフステージにおいても、「健康」をそのまま扱うというよりは「病」などの身体への災い事を通じてしかとらえることはできない。先の、千種町の例でも「児童の成長不良」というある種の災い事の中で「健康」を導き出していることからも立証できる。では、どうしたアプローチが必要なのかという点であるが、まず「病」そのものに対する「忌避感」というものをもう少し考えていきたい。次に、なぜ「忌避」され、「病」ではないと証明するためにはどうすべきなのかということを通じ、「健康」とはいったいどのようなものであるのかということを考えていきたい。まず、「健康」とはどういうものなのかを知る必要がある。そこで、過去の研究において「病」とその差別から見た「病気観」を扱った論文を取り上げてみたい。「病気観」が形成されていく過程で、「こうしなければ」「これ以外」は「健康」という論が成り立つのである。つまり、「病気観」をのぞくことで「健康観」について考えることができうる。ここでは今野大輔の「ハンセン病差別の民俗学的研究に向けて」をあげてみることにする。

今野大輔の「ハンセン病差別の民俗学的研究に向けて」は2008年に『日本民俗学』256号において発表された論文で、ハンセン病差別の俗信、伝承や伝説を頼りに「癩病観」をとりあげている。今野はハンセン病のこれまでの研究はその差別政策、特に強制隔離政策において人々がハンセン病を差別してきたとされていることに言及し、その政策による差別はある一方でもう一つのものとして俗信などの政策以外の面から差別に至った背景もあるのではないかとしている。ハンセン病に関する伝承は少ないながらも各地に分布し、時期外れの食物などからくる食物禁忌や、神聖な火を汚すことから始まる火の禁忌、「業病」と言われた貴人殺害の怨恨などがあげられる。いずれもこれを侵犯することによりハンセン病にかかるとされ、忌み嫌われるものとしてあげられていた。特に、「業病」に至ってはその罪が何世代にもわたって伝承されていくとされ、その後の遺伝性疾患であるとする国の強制隔離政策を助長するものであったのではないかとしている。また、今野は、こうした伝承におけるハンセン病の扱いとは別に、そのハンセン病にかかわる人における所作にも着目している。鍋かぶり葬にならう特殊葬法のありようである。この鍋かぶり葬は遺体の頭に鍋や甕などをかぶせて埋葬するもので、中世期から続く古い葬法である。この葬法についてこれまでの研究では、霊魂の安定化を図った装置として記述される傾向にあった。特に、盆期間に死んだ者の遺体は、先祖の霊が自分たちが赴く先に、これからあの世に行く存在がいることに疑問を感じ、霊魂の頭をたたくからかぶり物をしているのだという説明がなされた。確かに、呪術的な様相を呈していると考えられる。しかしながら、この特殊葬法がハンセン病においても用いられるにも関わらず、病との関係性についての考察はなされてこなかった。今野はそこで、このハンセン病における葬法に関する伝承の中にハンセン病が遺伝であり家筋に影響を与えることから、これを避ける意味で死者との断絶を決意したのがハンセン病の鍋かぶり葬の本意ではないかとした。つまり、ハンセン病患者の家筋のものは、その患者と縁を切ることによって、家筋を存続させようとし、「癩病」の筋のレッテルを忌み嫌う所作を葬法の中に取り込んでいたというのである。また、鍋をかぶり埋葬されることは、同時に忌避されるものとして人々に認識されていたと論じた。ただ、家筋の病として述べられたのは何も、ハンセン病だけではないと今野は述べている。結核も同様に家筋のものとして理解されていた現実がある。しかしながら、ハンセン病とそれとでは、その扱いに差があり、前者のほうが差別意識が強いように感じられ、その差が何なのかを述べている。それによれば、結核はそれ発症自体が急激であり一度かかれば死に至りやすく、且つ誰にでも罹患する恐れがある。その一方、ハンセン病は慢性的に体内にとどまり、発症が遅く発見が遅れるケースがあり、発症しても死にはいたらないものの体の一部が変形するなどの症状が出る。また、菌自体の感染力は低く、誰でも罹患するという恐れはない。このように、一見同じような扱いをされているものの、結核は国民病として恐れられる半面、ハンセン病は特殊な病気としての意識が強く、その希少性から先に記した「家筋」などのものとして捉えられていた傾向があった。さらに結核とハンセン病では衛生政策の扱いが異なることに対しても言及している。特に隔離政策において結核はそれほど隔離されることがなく徹底した検診のもとに行われていたのに対し、ハンセン病は強制隔離政策が実行され人々の恐怖をあおった。これまでの伝承がもっていた「癩病観」と国家の強制隔離政策とが相まって、これを忌避し差別しようとする動きがみられたのではないかと述べている。こうした論拠を出したうえで、今野は民俗学におけるハンセン病差別の研究は、さまざまな伝承から分析可能であり、これまでの政策差別一辺倒な考え方ではなく、もっと広範囲にわたった人々の中にあった「癩病観」をも見る必要性があるのではないかと締めくくっている。

今野の論はこれまでのハンセン病の政策における差別観の考え方を見直し、そうした人の内面性と政策とが相まって差別が進行した諸相を明らかにしたことは大きく、これとは別に人々の意識の根底にあった癩病観にまで踏み込んだものであり、これを解明することこそが差別の全容を理解することにつながるとし、その役割を多少なりとも民俗学が考えるべきだとしている。

しかしながら、ハンセン病の政策、「癩病観」という「病」に対する強い忌避感があることは理解できるが、なぜそこまで精神的に忌避すべきものとして私たちの中にあるのだろうかという点には答えが出ていないように感じる。今野は「癩病観」を用いて「病」の恐怖感というものが人々の中にあり、それが差別を生んだとされているが、ではどうして「病」にそれほどまでに恐怖感を植え付けられなければならなかったのかという疑問も出てくる。千種町の事例でもわかるとおり、児童の成長不良が人々に認識されなければ、それほど身長や体重に疑問を持つこともなくて済んでいたはずだ。しかし、そこに突如として疑問が生まれ、それまでの生活を反省するという事態が起こった。つまり、「病」を認識したとき、それに疑問を持ちそうならないでいようとする気持ちが出てくる。そうした認識作業が「病」を比較対象化し差別しようとしていったのではないか。そうした疑問を持ちこみ「病」を認識、忌避させたのは「病」の対極にある「健康」である。この点に関する研究はいまだ進んでおらず、民俗学のおいては分析がほとんどないのである。社会学や諸科学において「健康観」という言葉がある。これはその時その場所そのものに見出された「健康」に関する思想に基づく人々の行動理念をあらわすものであり、「病」への対抗策としての諸相をもあらわしている。つまり、「健康」と「病」は表裏一体のものであり、片方だけを論じても、もう片方の意図をくみ取らないと理解できない仕組みとなっている。今野の論は「病観」での差別の分析であって、もう一方であるその時代の「健康観」が抜け落ちているのは分析不足ではないかと考える。

では、今野のこうしたハンセン病に関する差別意識の中にあった「癩病観」にはじまる「病観」にはどのような「健康」という考え方が絡んでいるのだろうか。一つの仮説として時代時代の伝染病に対する「健康観」の積み重ねとそれを促進させた健康教育や政策が大きく影響しているのではないかと考える。また、この健康教育の普及には生活改善がしばしば絡んでいる。生活改善でたびたびおこなわれた保健衛生知識の普及、教育的指導が「病」と「健康」を導き出した。これはハンセン病だけでなく、各種感染症、慢性疾患、奇形児や障がい者などにおいてもいえることである。いずれも目に見えるものに限定される節はあるが、「病」を持つ者とそうでない「健康」な者との選別を可視化して、そしてより差別化することがこの教育的指導に盛り込まれていたとするならば、その後の生活改善において「健康」という言葉がなしえた業績は大きく、且つ人々の意識面の改革を促進させたことになる。ここで断っておくが、「健康」が悪いわけではない。ただ、その言葉の持つ権威というものがその後の活動において大きく働き、「病」を遠ざけたのである。

千種町の事例に戻りその「病」と「健康」そして生活改善のありよう考えてみたい。まず、千種町の「病」となるのは、はじめ児童の成長不良というものであった。この成長不良とは、身長体重などが県下の標準値に至っていなかったことからいわれている。その標準値を基にその後の児童の成長がより分けられる結果となった。標準値を用いられる以前、児童の成長不良について誰も「なんとも思わなかった」、ただ漠然としたその地域内の社会的価値観でのみ身体が見られていたのである。これを「健康観」の変化と捉えるならば、以前までの「健康観」と成長不良が発見された以後の「健康観」とはちょっと異質なものであると考えられないだろうか。その変化の背景には昭和30年代に制定された「優生保護法」とその思想にある「健康観」が影響している。この法律自体は「望まれない子ども」つまり障がいを持って生まれる子どもを出産前に抑制することを法文化したものである。千種町の問題は児童の成長不良であるから、一見なんら関係のないものと思われるかもしれないが、この「優生保護法」の考え方に従うならば、身体的弱者の徹底的な排除がそこに浮かびあがってこないだろうか。そうなれば、障がい者だけに限らず、生まれて育っている子どもも含めて、身体的に劣っている存在に対して忌避し、そうではない者を称賛するという思考が生まれる。この法律だけではなく、この時代の保健衛生での考え方は、ある種の制限的措置を身体に設けているように思う。身体がある一定のラインに達している者に対しては優を、それ以外のものに対しては劣を与え、その優における価値観を高める指導がされているのである。例えば、身体測定結果における県下の水準に至っていない児童に対しては「栄養をとりなさい」とか、「運動をしなさい」とかを奨める動きが見られるのもこのことからである。「健康」を求めることは当然のことであるが、そこに身体の優劣を見出していることに誰も気づいていないだろう。千種町での成長不良問題から派生した生活改善はこうしたバックボーンの上に成り立ち、そして町民の身体を管理運営していくことになる。特にそれが際立って見えるのが昭和43年に町で制定された「千種町健康教育振興審議委会条例」である。これは町を挙げて健康教育、即ち体育などを奨励し児童の身体の改善を実現し、「健康」で且つ元気のある町を内外にアピールするものであった。つまり、「病」とされた児童の成長不良などを一掃し、「健康」である身体を手に入れるための条例である。ここで、ハンセン病患者とこの児童の成長不良者という存在の比較的なものを考えてみた場合、そこには質は異なれど「病」「劣」に対するある種の忌避がうかがえるのではないだろうか。つまり「健康」でいなければ、「病」にかかれば自分は「劣」と見なされ、社会的な場から一掃されるという恐怖心を人々に植えつけたと考えられないだろうか。この植えつけの役割を果たしたのが「生活改善」であり「地域保健活動」である。これらの活動は、単に「病」を排除するにとどまらず、そうした意識変化にも大きく影響を与えたのである。

現状ではこれ以上のことはわかっていない。まだ分析するものは多いが、生活改善が地域の「病観」を変質させ、「新しい健康観」をそこに植えつけたことは推測できよう。そして、これらを助長した社会背景も常に考える必要性がある。民俗学において、生活改善は常に「善」とし、それまでの生活を「悪」とすることが多い。しかし、そのような価値観が出るのはなぜなのか、なぜ以前の生活を排除しようとするのかといった視点も考えるべきであろう。また、「病」というものについての研究的余地は、かなり幅広いが未だ研究が進んでいない「健康」に対する視野も同時に開拓すべきものではないか。単に一面でしか「病」の民俗学的意義を見出すのではなく、「病」を通じてみる「健康」の役割をいうものも考える必要がある。以上のことから、今後はその「健康」と生活改善についてもう一度分析を行い、これがどのようにしてリンクしているのかを整理検討してみたい。

中間報告①


報告題目:千種町の「生活改善」からみる地域社会における「健康」



本研究は、戦前・戦後にわたり人々の生活の「近代化」「合理化」を目的に、政府行政、各種啓蒙団体、地域組織等が行った「生活改善」と呼ばれる活動の概論を述べることと、それらが地域社会に果たした役割を位置付けるものである。「生活改善」という言葉に対する定義は未だ整理がされていないが、仮に定義するとなれば以下のようになる。生活の「合理化」や「近代化」といった従来の生活規範から脱却した新しい生活規範のモデルを構築するため、さらにはそれを普及するために行われた社会活動である。「生活改善」は戦前から現在に至るまで数多くの団体が行い、その時代その場所で活動の目的が異なりその当時の政治、社会を持って語られることが多い。従来の研究では戦前戦後の活動を通じて教育学、生活学、経済学、社会学、歴史学、民俗学といった諸科学によって様々な角度から各団体の理念、活動、その時代背景などが浮き彫りにされてきた。しかしながら、これらの研究は各種団体個々の分析に留まることが多く、活動の実態についてはあまり研究が進んでいない。また、地域の受容についての分析も進んでいない。さらに、民俗学の研究に至っては、改善前後の民俗の変容の諸相のみを取り上げ、民俗がいかに変わったのか、また変わらなかったのかを理由づける一つの要因として扱ってきた節がある。しかし、そうした変容の諸相といった側面だけでなくそこに関連してくる改善活動自体にも目を向けなくてはならないのではないか。民俗生活に大きな変容の中で、事象を撤廃、改善しようとした「意図的」活動は目を見張る部分があり、単に人々が暮らしうる民俗社会においてそれを受容した拒否したに限らず、そこにどのような介入があり、どういった諸相が渦巻いていたのかを取り上げることは重要である。こうした方面から「生活改善」を正しく捉え直し、その位置付けを再検討することは、社会を取り巻く諸相とその事象との関連性を見る中でも重要ではないか。本研究はそういった民俗学で見落とされてきた「生活改善」との地域生活の具体像を明らかにする。

これまで、兵庫県宍粟市千種町というフィールドのもとで、「生活改善」と呼ばれた地域保健活動やいずみ会活動などの衛生に関わる「活動」の分析し、それがいかにして地域に定着、どう普及してきたのかを、官側である保健婦と民側であるいずみ会の双方から見定めた。いずれも一様にその時代その地域の諸事情により誘発され活動を展開したことが分かった。双方同じく「衛生上の悪化」から派生しており、官はそれに「脅威を感じ」行政的に「取り除き」「宍粟郡下における衛生行政の立場を向上」させようとし、民はそれに「恐れを抱き」自分達の生活を「(衛生的に)改め直そう」とした。そうした双方の思惑が重なり、それぞれの活動で結果的にひとつの「生活改善」として形成されたことを述べてきた。この論は地域の実際の動きが重層的であること、地域の状況によってそれが構築されているということの二点が判明した。しかしながら、論中では活動の歴史的、社会的背景についてはあまり触れられなかった。「衛生の悪化」という理由をそれぞれが「脅威」「恐れ」と感じ、それを「改善」せざるを得なかった背景にはどういう事情があったのかも含めて見ることによってより地域の「生活改善」の諸相が見渡せるのではないか。単に「恐れ」から台所や住宅、さらには食生活自体に至るまで「改善」、「変化」させようとしたのではない。そこには衛生的脅威を取り巻く様々な要因が考えられないだろうか。そこで、戦後から高度経済成長期を中心に、地域で起こった保健衛生上の「生活改善」と呼ばれる活動、衛生改善、台所改善などを取り上げながら地域の諸相を描き、一方で衛生行政や保健衛生事業、さらに衛生思想の流布と啓蒙といった同時代の社会事情も含めて論じたい。

ところで、ここで取上げる「生活改善」は、数多くある活動の中でも、生活にダイレクトに影響を与え、且つ自分達の生活に「善い」ものとして積極的に受け入れられていった保健衛生に関する活動である。主として、保健医療をはじめ公衆衛生に関する活動も含む広い領域にわたるが、本研究では公衆衛生活動を中心としてそれを描いていこうと考える。こうした公衆衛生活動に関する「生活改善」からの切り口は先行研究からはあまり見受けられない。そもそもこの活動を「生活改善」と位置付けることがあまりなかったことにも由来するが、その内容を再検討してみると「生活改善」と密接につながりは深い。例えば便所の改善、台所改善、住宅改善の活動の発端となるのはやはり衛生上の理由からということが多い。これまでの研究では合理化、近代化のもとで行われた活動であるとのことから物の利便性などを追及していたのが、「生活改善」と思われがちであるが、こうした人々健康や衛生に配慮した活動を行っていたことも念頭に置く必要性がある。つまるところ、こうした健康ないし衛生の考え方次第で「生活改善」は動いていたのではないかとさえ思われる節もある。では、この「生活改善」の根底となるものはなんであろうか。それを考える必要性がある。

本報告においては、これらのことを前提に考え、まず「生活改善」が派生した地域に着目することとなった。兵庫県宍粟市千種町では昭和32年ふとした児童の成長不良の発覚とともに生活改善もしくは地域保健活動が繰り広げられていく。ここで注目したいのはその活動の引き金となった昭和32年の児童の成長不良の発覚である。これ以前にも頻繁に身長体重などの体格を示す身体測定結果、健康診断結果が表出しているにもかかわらず、この時点でそれが地域住民の目に「発覚」したのである。これは一体何なのかということが最初の問いであった。そもそもこうした「発覚」があったからこそ生活改善が発動したのであり、これがなければ何も起きなかったはずである。

そこで、私はこの「発覚」したものを、その当時の社会的事象に依拠するある種の思想的社会的な存在が構築したものであることを前提に調べることにした。すると、当時「健康」に関わる諸運動が広く行われていることが分かった。特に、昭和30年代以降の戦後の生活改善の運動の中においては、まず人々の「健康」や「健全な生活」を前提にして、あらゆる生活の合理化、近代化に手を出すことになる。つまり、これらの活動の根底にあるものが「健康」というもので、その思想によりこの活動が動いているのである。また、生活改善の中には保健活動を行い、地域に「健康」に関する知識を普及教育するものもある。ではその「健康」が表出することに応じて起こってくるものとは何か、そもそもこうした「健康」がはらんでいた社会的な意義というものは何であろうか。千種町での「発覚」は他地域との比較の中で語れていることに着目すると、そこにはある種の競争原理や健康基準創出のようなものがうかがえる。「健康」であることに対する強迫的な考え方があり、それに応じて他地域と比較し同じかそれ以上でない、または「基準値に達していない身体は不健康である」という考え方が広まり、それを強烈なインパクトを持って受け取っていることもうかがえ、これがなぜ引き起こされたのかを探る必要性があるのではないか。こうした疑問から私は「健康」というものの捉えられ方、さらにそれによってひき起こった生活改善の諸相を考えてみたいと思ったのである。

このように千種町で起こった「生活改善」というものはその根底に「健康」に対するある種の強迫的な感情とそれを支えた保健体制に依拠していることが明確である。保健体制の構築についてはまた別の報告にて表したいと思うが、その前にこの「健康」というものが如何にして人々のそばに横たわっていたのか。さらに言えば、千種町の場合は子どもの成長という「健康」基準にそれが映し出されていたようにも思われるため、これがどのようにして起こっていたのかを調べる必要性があるだろう。

そこで取り上げたいのが、同時代において子どもの成長を社会的に意義づける、「健康」を社会的基準に押しやる出来事としての健康優良児表彰事業のありようを捉えなおそうと考える。「健康優良児表彰事業」は昭和5211日新聞で「少国民の健康如何は次の時代の国運を支配する大問題」であり「国民保健運動の一方法として全国小学校児童の健康調査を行」い、そこから健康優良者を選定して表彰することにより国民の健康意識の向上を目指そうとした活動である。これの前身としては、当時の児童保育のための展覧会であった、子ども博覧会や児童博覧会などが挙げられる。ここにおいて、大正期から昭和初期にかけての都市新中産階級の労働者家庭における子どもの扱い方というものを、その肉体的な見地からの「理想像」として挙げられたのが始まりである。つまり、健康優良児表彰というものはそれに「健康」とついているものの、現在でいう「健康」というのとは異なり、ある種の見世物的な要素を含んだ「理想の子ども」を選出するためのイベントであったようにも思われる。また、このイベントは、単なる理想像を追い求めるだけに留まらず、それを使える人間として、兵士として富国強兵策に沸いた当時の日本の政治的支配体制の一つの駒として役立てるように仕組まれたものでもあったように感じられる。当時の文部省、内務省は健康政策を通じて様々な催しを行っている。例えば、ラジオ体操の樹立もこの時期に当たる。またそれから派生する健民運動や各種イベントにおいて身体の重要性を説いたものが多く取り立たされたのもこの当時のものであろう。だが、こうした政策自体は、戦後もそのまま受け継がれるものとは異なる。その当時の健康観というものが依拠するところが大きく、それによって暫定的であるが活動の方針や健康優良児の捉え方というものは異なってきた。

この健康観の移り変わりについて鹿野政直氏が次のように分類している。まず、健康という言葉自体ができた明治から大正期までを「健康」の時代、突発性の伝染病から慢性の伝染病へと移り変わった大正期から昭和初期にかけて「体質」の時代、健康を治すものから維持する体力や健康の維持と強化へ向けた昭和期から戦後期にかけての「体力」の時代、栄養失調などを通じて生理学的見地からの物理的肉体を重視した戦後から高度経済成長にかけて「肉体」の時代、高度医療体制における医学的革新が見られ、長寿命の時代到来を告げたころからの体調を気遣う動きとして現れた高度経済成長期から昭和50年代にかけて「体調」の時代、死に向かう中で問われる健康をはらんだ昭和50年代から現在に至るまでの「生命」の時代という風に6つの分類に分けてそれぞれの時代における健康観を述べている。この健康観に倣って考えるなら、健康優良児が起こった昭和初期は「体質」から「体力」の時代へと移り変わろうとした時期に当たる。

一方、千種町の時期はそれからはるか後の、高度経済成長期における「体調」の時代であり、健康観は全く異なるものである。しかしながら、私はこの健康観自体がはっきり区分できるものとは思っていない。体質や体力を消耗戦の中で維持し政治的に活用とした時代と全く一緒というわけではないが、体質や体力を整える意味において栄養価値やそれを摂取すべくしきりに体調を気にする時代とは全く別物というわけでもないと思う。健康優良児表彰においても同様であり、この事業は戦前から戦後しばらくの間、戦中期を除いて行われ続けている背景には、体力が唯一その人物を測る基準としてあったことに由来する。その体力を支える栄養管理面での体調というものもそこに加わっているだろうし、単なる外見的な体力というものが昭和初期に現れていたわけではないのである。そのため、「体質」「体力」の時代と「体調」の時代とには時間的格差はあるものの、その根底とすることは健康の維持繁栄に依拠することであり、ほぼ同様のものともいえる。そうした考えをもって、この千種町の一例を細かく見ると、昭和30年代に何度かこの地域で健康優良児表彰が行われていたことが分かっている。それは身長体重を基準とした身体測定を表立って行ったものであり、子どもたちの健康を確かに測っていた。しかしながら、この身体測定において要するものは身長と体重であり、それは個々人の身体的なデータ化を基にするものであるが、これを表にすることはあまりこの時点では持たれていなかったのではなかろうか。その結果、昭和32年の時点で子どもの成長不良が「発見」されるにつながるのであろう。ここにはまだ分析しなくてはならないことがあるが、ひとつ言えることとして、こうした「健康」に下地があったにもかかわらず「発見」されたという事実である。そもそも、健康優良児表彰がこの地域であったのであれば、昭和32年までに子どもの成長不良は発覚していたであろうし、行政においても手を打つ手段はいくらでもあったと思われる。しかしながらこれを行っていない。それにこの子どもの成長不良を引き金に、地域住民全体を巻き込んだ健康増進運動、地域保健活動、生活改善へと変わっていく。こうした総合的な見地から言って千種町のとりまく健康は複雑多岐であったことが分かる。

昭和40年代に入って、千種町では行政により千種町健康振興審議会条例が制定されたりと、町民の健康措置についての議案が相次いで制定されている。これは、地域住民の高齢化に伴う社会福祉の充実化と町民健康躍進のための体育振興に依拠するものがある。具体的には社会福祉施設の増設や体育館、町民のための運動施設の増加を行っている。この背景には、昭和30年代から40年代にかけての千種町内で行われた数々の健康運動や保健婦による活動の報告により、町民の健康状態の悪化が深刻であること、それを解決するには栄養措置のほかに体育を取り入れた総合的な健康支援を行わなければならないことが挙げられる。そうした、段階の上に昭和40年代の千種町における健康増進運動があるわけである。ただし、これは昭和40年代においてであって、昭和32年の子どもの成長不良を直接取り上げた自称ではない。だが、昭和40年代の報告においてもやはり子どもの成長不良が取り立たされており、町民がこの問題に対して関心を抱き、行政がそれに応えようとしている姿が浮き彫りにされている。つまり、昭和32年の事象はその後の千種町の行政において大きな事件であり、これを解決するために躍起になっていた部分がある。今のところ、この当時を知る手だてがあまり残されておらず、聞き取りを中心に行っているが、当時の行政において町民の健康はそれほどまでに重要かつ問題であったという点、さらにその住民の中でとりわけ子どもの成長というものは最大の関心ごとであり早急な手立てがなされるべきだという認識が備わっていた点がこのことからわかる。

論が前後するが、先に記したように、この子どもの成長については「健康優良児表彰事業」に近いものがある。子どもの成長を物差しで測り、それに基準を設けそれからはずれるものを異とする意識があった。それがこの子どもの成長不良の突如とした発覚を生むことになっていたのではないかとおもう。当時、どのような身体測定がなされていたのかは今のところ分かっていない。だが、この身長体重の格差は顕在化する事象としてあるので、見た目でそれがわかってしまい、修学旅行先で子どもの身長体重が比較的劣っているものとして映ったのであろうと思う。またこの当時、千種町に保健普及の兆しがなく、まだ混沌とした状態にあったこと、人々の中に健康という意識があまりなかったことを考慮に入れると、この子どもの成長不良という言葉は十分すぎるほど効果を持っていたのではないか。その後、千種町に保健婦が初めておかれるようになるが、それにともない地域の健康事情は明確になればなるほど、人々に結果として恐怖が生まれてきたと思われる。それを何とか除去するために行政が躍起になって政策を打ち出したのであろう。

以上が、今回の健康優良児表彰と千種町の成長不良事象を考察したところである。健康優良児との接点についての明確な資料、資料分析が整っていないため、健康優良児のイメージ像や施策における対比の問題を取り上げたうえでの報告とさせてもらった。これは本来ならば、あまりよいものとはいえない。接点がないものを接点があるようにしているのかもしれない。それは研究においては重々気をつけないといけないことであるが、この千種町の一件についての考察において、この健康優良児表彰がそこで行われていたという事実だけでも有力な手掛かりとなりうる可能性は高く、それを前面に出した報告となった。今後は、行政の措置としての法令の分析、さらに同時代において健康に関する政策がどうであったのかを加えていくこととしたい。