2013年5月6日月曜日
計画事後の途中経過(その1)
現在執筆途中で中途半端だけど、とりあえずの方向性とそれについてのアプローチの仕方、さらに保健婦選考研究に関する定言をすこし考えてみたので、書いてみました。
なかなかまとまりがないものになっているかもしれませんが、今のところはこれで考えています。
保健婦からみた生活変化と民俗学的アプローチ
―「保健婦の手記」に描かれる農山村の生活についての考察―
はじめに
本報告は、戦後から高度掲載成長期にかけての、昭和20年から50年代に渡り、各地で繰り広げられてきた保健婦の活動を概観するとともに、彼女らがみた農山村の風景はいかに映っていたのか、また彼女らにとってそれらの生活に対してどのような感情を持ち、その上でそれをどうしようとしたのかについて考えてみたい。これは、農山村での生活の変化に大きな影響力を持っている。従来の民俗学では農山村の生活をどこか、その生活総体よりも、衣食住に分けてそしてそこで使われている物からの分析を主としており、それが変化してきたことについて、その物の背景にある社会経済事情をもとに明らかにしてきた。物の流れとしてや形状の変化、使用の方法、そして最後にそれが使われるようになって生活が変化していく過程を筋書きのようにして描いていた。
ところが、我々が物を入手して使用し、自分たちの生活に取り込んでいくには、それなりのタイムラグがあり、社会変化や世相、経済などの影響は多少あれど、それが直接的な原因として挙げられるものではない。我々は機械のような定期的な動きをしているわけではない。人間的な感情を持ち、それによって構成された社会を作り出し、生活もその中にあることを忘れてはならない。そう考えると、生活の変化というものは単に衣食住という三つに分類して物でもって語ることはあまり意味を持たない。生活総体を概観するような分析がそこになければ、それは生活を押さえたことにもならないし、人間なしの生活描写は民俗学において人間性の欠如に当たらないかと考える。そこで、本報告ではそうした生活描写を総合的に描くべく、衣食住という三要素でもって語るものではないことを個々に宣言しておく。そして、ここではこの生活総体を総合的に俯瞰できうるものを主としておき、そこから生活の変化、いや生活の実態とそこにあったものはなんであったのかを探り、変化がなぜ起こりえたのかを明らかにしたい。
では、具体的にそうした俯瞰できるような要素はどこにあるだろうか、村の内部からか、いや内部からであれば変化を生むインパクトを育てるだけの素養はない。では村外部からか、厳密にいえばそういうことになる。但し、村の閉鎖的な環境の中にあり、村外部から俯瞰できる人物が来たとして、それが生活にインパクトを与えることができるだろうか。先にも述べたとおり、人間生活はそんな単純な変化の構造をもってはいない。外部からの言葉や指導でもって変化を促すことができたとしても、それは「指導されたから」であって、住民の自主的な意志ではないし、不本意に生活が変わることもあるかもしれないけど、それは本当の意味で生活を根本的に変化させたことにはならない。
生活を変えることというのはそれなりにその時点での生活に疑問を投じ、それを解決するための手段としての変化であり、それが基本となっている。メディアや噂などによる村落内への影響は考えられうるが、それが住民の意思に背いたものであるならば、変えたとしてもその効用は伴わないし、生活の問題を解決したことにはならないのである。このように考えると単純に村内、村外双方のアプローチがもたらす影響力というのは限界がある。しかしながら可能性はゼロではない。先にも述べたように村内からの自発的な行動ができないのであれば、村外から村内に向けての内在的なアプローチをする方法があればそれにこしたことはないだろう。
そこで、考えられる人物が保健婦ではないかと私は思う。保健婦とはどのような人物であるのか、それを端的に表すのは難しいが、一般的に「公衆衛生」「健康増進」「母子保健」に関わる仕事を指す職業婦人を指す。現在は男女雇用機会均等法により「保健師」と名前を変え、男性職員の姿も見られるようになってきている。
ところで、この保健婦をなぜこの生活の変化の場で問うことが必要であるのかであるが、彼女らが行った保健婦活動や地域全体、行政や保健所や住民らを巻き込んだ保健活動は、単に表面的な衛生環境の是正を行ったわけでもなければ、医療の行き届かない地域のためのケアという意味だけではなかったと考える。その本質は、若月俊一や大牟羅良、菊池武雄、稲葉峯雄といった保健活動に関与した人間が曰くは、その地域の生活に密接に関与しながら、その生活に身を置きそれこそ内部から変えていく力を持った存在が保健婦であるというのです。つまり、保健婦はその職務において臨床を中心とする看護婦や助産婦らと違って、地域という出先の現場において何ができるのかを考えることが中心となるため、その地域の色に自分を染めて、なおかつ発言できる人間であることが重要となっている。由起しげ子の『ヒマワリさん』(大日本雄弁会講談社 1948)や伊藤桂一の『「沖ノ島」よ 私の愛と献身を』(講談社 1968)という小説に登場する保健婦はいずれも地域の中に溶け込み、住民と話し合い時にはぶつかり合いながらいた。保健婦が行う活動というのは単なる保健衛生を実践し、地域に根付かせることだ。保健婦は地域にいて住民の生活を直視してきた人間である。彼女らが農山村の生活の現実に思ったこと、感じたこと、それでいてその状況を打開しようとして保健衛生をはじめとして様々な取り組みを行ってきたことは、生活の変化に大きく影響を与えたものと思う。もちろん、そこに住民の理解や協力なくして語ることはできない。保健婦を含む保健活動の動態をみていくと、それは住民と保健婦を中心とする関係性の中にあり、生活の変化においても彼らと住民とのかかわりの中で論じる必要性がある。その意味でも、ここで保健婦を取り上げ、村外からどのように彼女らが入り、それで村内はどういう風な反応を示し、それでいて理解の末に生活を変えようとしていったのかという過程が大事なのではないか。
保健婦の研究視座と「保健婦の手記」(作業途中です)
保健婦の研究
従来民俗学からの保健婦への視座、保健婦などの医療従事者からの生活への視点についての研究というのは、ほとんどない。職業者としての助産婦や産婆、そういう人々、臨床に関わり、その命の出現の現場に関わった人間に対する研究があるのに対して、その命を見守り、その子どもないし母親やその家族が暮らしていく生活を総合的に見て、それをよりよいものへと取り組んだ保健婦の活動に対しての研究がないのはおかしい。本研究はそういった、生活を総合的に理解し、そのうえで変化に関与したこの保健婦という存在そのものがどのようなものであり、それがどう生活の変化に結びついていったのかをとらえる必要性がある。まず、保健婦という存在についてもう少し詳しく、その職業並びに事業自体について今一度検討しないといけない。ここでは大国美智子の『保健婦の歴史』(医学書院 1973)と川上祐子の『日本における保健婦事業の成立と展開-戦前・戦中期を中心に-』(風間書房 2013)、木村哲也の『駐在保健婦の時代 1942-1997』(医学書院 2012)という事業史面の先行研究から、その職業的特性とその変遷を整理し、その上で民俗学的な研究の位置づけについて再度検討してみようと思う。
まず、保健婦という存在に対する分析は、いまだにまとまった概念規定がされていない。時代ごとに名称が変化し、その事業目的によりそれが目指す方向性が異なっているためもある。現行の「保健師助産師看護師法」の法規を歴史上のすべての保健婦という対象に当てはめることはできないため、あえてここで言葉の定義を行うことをしないようにしたい。
それでも、ある程度の保健婦という職掌がどのようなものであるのかを日本看護協会監修の『新版保健師業務要覧 第二版』(日本看護協会出版会 2012)からその概要を記しておくことにする。「保健師は、常に、人々ともに疾病を予防し、人々が主体的に健康な生活ができるように支援してきた。特に、貧困層が生活する地区には重点的に予防活動を行い、さらに健康な人も病気や障がいを抱えた人もすべて、「人として生きること・健康であること」が保障されるように、障害を通した人々の健康と幸福を実現することを使命としてきた。社会が予防的看護を必要とし、築や集団の疾病予防と健康管理の専門家として保健師が誕生したのである」と述べている。
これは現行の保健師における定義であるので先に述べたようにこれが歴史上の意味合いにおける保健婦と関係が持てるかどうかは難しいところがある。特に、「主体的に健康な生活」を支援するというのは、保健婦事業が確立してからのことであり、それまではその主体性というのは保健婦側が握る場合が多かった。住民側が主体性を築くまではかなりの道のりがあることを考慮に入れる必要性がある。さらに「人として生きること・健康であること」が保障されるようになるのは日本国憲法で生存権が確立する時期にあって、それ以前の戦前戦中期においてこれが順守されていたかというと、どこかしら政治的な枠組みの中でのみ語られることが多かったように思う。後で見る大国美智子氏の論においてはこの戦後までの保健婦の活動は権力者、政府の駒としての動きが主体となっており、保健婦個々の事業内での主体性というのは確立していなかったという。川上裕子氏も同様にそれを述べている。つまり、日本国憲法発布までの道のりにおける保健婦の活動が必ずしも、上の定義にあてはまるような活動ではなかったということができよう。
但し、これは事業レベルでの問題であり、保健婦個々人における心情を「保健婦の手記」内から取り出せば、それは全く違うものともいえる。戦前においても農村の主体性を確保しながら活動し、「人間性」についての言及をしていることから、これが事業との食い違いにもつながる。先に述べておくが、事業は事業であり、現場での実践的な面とのずれはかなりあり、事業をうのみにはできない。
しかしながら、事業史を整理することが保健婦の外観を、保健婦が経験してきた道のりを記すうえでも重要であることからここでは、事業史の整理をしてそのうえで実際の行動を見ていくこととする。ただ、ここでも問題が一つある。保健婦という職掌は先に述べたように名称の変更等が多く、一概に扱うことが難しく、多層的で多義的なものを含んでいる。歴史的変遷を一直線上で表すことはできず、重層的なものとしてあることを知っていてほしい。保健婦は、その事業的な分類として、公衆衛生事業はもちろんのこと、母子保健事業にはじまる社会事業との絡みも複雑にある。いうなればこの大きな二つの潮流が混ざり合って生まれたのが保健婦であり、現在の保健師へと受け継がれている。なお、現在の保健師は事業の細分化により、担当によりきめられた事業内でのことでしか判断できないこともあってか、全体を見渡せるような保健師業務が行われているとは限らない。つまり、過去の保健婦はそれほど多くの事業に関わり、その中で活動を行っていたことになる。
(つづく)
一応私の方向性としては、民俗学の実践性における「生活疑問』への挑戦の中で保健婦の実践性というのを今一度顧みて、橋浦泰雄のように事業エッセンスとしての民俗学の利用などを検討の視野に入れておきたい。現在の保健師業務についてとこれとは全く異なったものであるという指摘を受けることは十分考慮しなければならないことであるが、従来の保健婦活動がどのように行われっそれが発展してきたのかということは、保健師の現在の位置づけにもかかわることであるし、活動そのものが形骸化した今においてもその可能性、実践性は損なわれていないと考える。さらに住民のニーズの多様化が叫ばれる現在のおいて保健師が一定の活動領域でものを言うことは避けなければいけない。私はこの論でそれについて言うつもりは毛頭ない。もっとも、生活の機微に臨機応変に活動すること、固定的に考えるのではなく柔軟な発想のもとに保健師活動を位置付けていかないとこれから先の活動には意味がなくなってしまう。
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