旧日吉町国保保健婦吉田幸永氏の保健婦活動に関する調査報告
【調査報告履歴】
平成25年5月20日記録(補足情報:日吉町郷土資料館協力)
平成25年5月27日記録(追加情報:保健婦資料館事務局菊地頌子氏の証言。南丹市農業改良普及センター職員の証言)
平成25年5月28日改訂
平成25年5月31日記録(京都府立図書館にて蜷川府政と壽岳章子との接点について調査)
平成25年6月1日記録(K保健婦より聞き取り調査、日吉町に於いて。日吉町郷土資料館同行)
【調査報告まとめ】
平成25年5月20日
「『生活教育』よりみる京都府船井郡日吉町国保保健婦 吉田幸永」
対象保健婦:吉田幸永(よしださちえ)
大正14年生まれ。日本大学文学部卒。大阪市厚生女学院卒。昭和25年4月京都府船井郡日吉町、当時は世木村の(現南丹市日吉町)国民健康保険診療所保健婦(国保保健婦)に就任。退任歴は不明。保健婦の教育雑誌『生活教育』の「保健婦の手記」で4度の入選を果たし、手記が掲載されている。タイトルは「小さな足跡」(昭和35年)「一つの集い」(昭和37年)「保健婦十二年」(昭和38年)「合理化のしわよせの中で」(昭和40年)。
「小さな足跡」では農民のグループ活動をつくりその貯蓄精神を生かして改良便所の普及を図るものの、なかなかその普及には活かせず、集金したお金は別の目的に使われるようなってしまう。それでも、吉田氏はあきらめず、全戸の検便をして回虫の保有率を調べ、それをスライドで見せることにより啓蒙思想に努めるとともに、薬の飲み方を丁寧に教えて、改良便所の必要性を説き、見事に定着を見る。
「一つの集い」では、若妻会を通じて農村婦人の在り方について、嫁の地位向上を示すべく、中老婦人会を開き、彼らと集まりを持つ中で嫁の地位について育児の方面から触れて、その結果、姑の嫁への理解を得ることになったのだが、その一方で、老人たちの楽しみである「孫の面倒」をその手から取り上げてしまったことに対して、吉田氏は苦悩する。
「保健婦十二年」では、昭和25年から37年に至る12年を振り返って、その反省を三つの事例から紹介している。一つ目はジフテリアの子どもを救った経験。昭和25年当時日吉町(旧世木(せぎ)村)の医療機関は、村医として一人の医師がいたが、昼間は郡の病院勤めで、夜間町に駐在するということで、昼間の対応のほとんどが保健婦に頼らざるを得ない状況が多かった。急病人が出ても対応ができず、死なせてしまうことも多かった。そのなかでの経験に、ジフテリア感染症の子どもが出てきて、雪の中様子を見るために向かうのだが、医療行為を禁止されている身である保健婦にはどうしようもなく、そこで医師に連絡を取り、すぐに医師に診てもらうようにするが、医師もジフテリアの子どもの診察には限界を示し、郡の病院へ搬送することと、強心剤の注射をするようにとの指示を下す。そのため、吉田氏は子どもの父親とともに朝早くから家を出て、もちろん子どもの心臓に負担にならぬよう細心の注意を払いながら汽車に乗って病院を訪れ、医師に対応してもらうという措置を取った。このことにより、その子どもの命は取り留めた。この子どもが中学生になって元気でいてくれている姿を見るとホッとするという。次の事例では、役場から離れたところに暮らす吉田保健婦のもとに直々に助けをこうもので、子どもがひきつけを起こしたから診に来てくれという。ところが、その家に着くやその子どもの体温は42度を超えており、浣腸を繰り返すも便が出ず、そのまま息を引き取ってしまうという事態に陥った。吉田氏はその前の日から子どもが「ぽんぽんいたい」と言っていたのを、気にせずにいた無知な親たちに腹を立てるとともに、医療の手が及ばない山村地域にあって、疫痢に対応ができない自分のふがいなさに反省を込めている。さらにその次の事例では、農閑期での家族計画実施に触れるとともに、実際にお産に立ち会った際のことを述べている。骨盤位分娩の経験。逆子のために窒息して仮死状態で生まれた胎児を生き返らせるために必死になって取り組むその姿が描かれている。しかしながらこうしたお産に携わる時の緊張感はかなりの精神的な負担を要し、お産を終えて役場に着いて記録を付けるときの手の震えがあったと述べている。
「合理化のしわよせの中で」では、これまでの保健婦と農民とのかかわりではなく、保健婦と行政とのかかわり、特に待遇面に対しての措置が、役場機構の合理化により、保健婦削減という形で出たことに対して抗議するものであった。抗議は保健婦の定数減らして、一名を学校養護教諭にするというものであったが、定数削減によって生じる住民サービスの充実化が図れないとして吉田氏は町長を相手に、組合に頼み込みそれで助けをこうという姿勢で保健婦の地位向上を目指すべく努力する。その姿は、これまでの地域での活動を見てきた農民らの支持をうけ、且つ組合も町長の合理化に対して抗議を発するとともに、これにてその定数削減をなくすことに勝利する。
以上が、現時点における『生活教育』の「保健婦の手記」に描かれた彼女の活動である。ここから読み取れるのは、単に衛生のためとして働いた足跡というよりも、村人ともにあり、その信頼を勝ち取っていった彼女の足跡を記すものであると考える。また、そこに描かれる農山村の現実、医療機関の不足、衛生面での無知、育児面に残る封建遺制とそれを取り除くことによって生じる新たな問題といったものを描き出している。これらの様子は、保健婦側からしか見られない現実ではないのかと考える。
平成25年5月26日
「保健婦資料館事務局菊地頌子氏の証言から得られた吉田幸永氏の印象とその背景にあったもの」
吉田幸永保健婦は、昭和30年代当時、「地域のために」と様々な取り組みを精力的に行っている半面で、昭和40年代に入って生活改良普及員田中友子氏(昭和53年に船井郡園部にあった生活改良普及所を退職)より、「その手法では民主的ではない。(上から押しつけの)官僚主義になっている」として批判を浴び、地域での保健婦活動の在り方を問われるようになったという。
当時京都府は蜷川虎三知事による、住民自治と憲法に沿った保健活動の強化を受けて、地域での社会教育の実現などに力を注いでおり、その中で民主化政策として農業改良普及員らを配置していたきらいがある。田中氏はそうした社会教育の活発な活動の中に身を置きつつ、住民の主体性を育てる中における保健婦の在り方を問うていたのではないかと推測される。また、こうした社会教育の背景には壽岳章子氏らの婦人運動指導者の影響も見られ、そうした時代背景と周囲の環境が吉田保健婦の人格に影響を及ぼしていたことが分かった。
平成25年5月28日
「蜷川知事とろばた懇談会、壽岳章子と婦人運動と憲法」
昭和35年代頃から活発化する、蜷川知事府政下の地方自治。それを押し出すようにして行われるろばた懇談会。吉田幸永保健婦が丸岡秀子氏の追悼記として出版した『わたしの結縁帳』の中で、昭和35年頃から活発化した京都府下のろばた懇談会なるものを取り上げている。また、この懇談会に吉田氏自身が出席し、婦人の発言力のあり方について職員から問われたところ、「生活改善グループ活動の発展」を挙げている。
壽岳章子氏との接触についてはわからないものの、壽岳氏が部落解放の中で婦人運動を展開することを京都府下で行っており、それに憲法のあり方、人権のあり方を問うていることから、これが日吉町においても同様にして行われていた可能性が高い。吉田保健婦の思想的バックボーンの一つに壽岳章子氏がいてもおかしくはない。
平成25年5月31日
「蜷川府政下の社会教育としてのろばた懇談会」
吉田保健婦が出席した「ろばた懇談会」は、昭和35年から始まる京都府教育委員会が提唱した社会教育活動を推進するための一事業であり、住民の行政への参画を促すとともに、住民の声を府政に活かすための教育活動の一環として行われたようである。津高正文氏ら編『地域づくりと社会教育―京都「ろばた懇談会」に学ぶ―』(総合労働研究所 1980)の目次を見ると、女性運動家の壽岳章子氏が執筆している章があり、「婦人にとってのろばた懇」とのタイトルで、生活改善グループ活動について触れており、吉田氏の活動にも影響を与えていたと思われる。日吉町の住民である佐々江周子氏の手記も掲載されている。
未だ資料すべてに目を通していないので、今後ろばた懇談会の社会教育の流れと保健婦活動についても検討していかなければならない。
平成25年6月1日
「吉田幸永保健婦の後輩であるK保健婦(大正15年生まれ)の証言」
北川和歌子氏は吉田幸永氏と同郷であり、吉田氏とは青年学校(女性は裁縫を、男性は農業を学んでいた)で一緒で、その頃の吉田氏は裁縫が上手で、いろいろ面倒を見てくれて面白い人だったという。自分のことを「たぬきのたーちゃん」(よく人を化かして、誤魔化したりとかしていたから)といっていた。青年学校は3年間で、吉田氏はK氏の一個上であり、昭和18年に青年学校を卒業していた。K氏は翌年に卒業し、京都の看護婦学校と助産婦学校を経て、昭和27年に京都府の保健婦養成所を卒業した。保健婦養成所での訓練期間は6ヶ月程度で、その時保健婦が京都府内で不足ていることもあって、すぐに旧S村(Y町)で国保保健婦として働くこととなった。その後昭和30年に世木村など三か村が合併して日吉町になったころ、そこの国保保健婦として役場から通知が来て転属となった。その時に、吉田保健婦が旧世木村と旧五ヶ荘村で活躍していたこともあって、そこで再開を果たし、その後は受け持ち地区(吉田氏が五個荘地区と世木地区の半分を、K氏が畑郷地区と世木地区を半分担当していた)をそれぞれ持ちつつ、協力して保健婦活動にあたった。
その頃は、国保保健婦と保健所保健婦がいて、国保保健婦は吉田氏とK氏の二人で、保健所保健婦が何名かいた。月に一度研修会が開かれて、学習をしていたという。保健婦の活動としては、乳幼児健診や回虫駆除、生活改善などの活動を主にしていた。特に村の回虫率がひどく、それは水道が引かれていないがために起こったことだとして、吉田氏は役場と掛け合い水道を引くようにしたという。生活改善では、婦人会の集まりに度々出席し、その中で栄養料理講習会を栄養士の指導のもと行い、高血圧症患者(冬場の積雪が多い地域であるために保存食として塩で保存した鰯や漬物類がどこの家にも常備されており、それが食べられていたことによる)が多かったことから塩分を控えめにした食事内容に切り替える運動を行っていた。その後、この活動は生活改良普及員の田中友子氏が昭和30年代以降に関わるようになってから生活改善グループを結成し、活発化するようになった。当時の吉田氏は気の強い人で、青年学校にいた頃とは違った様子だったという。もしかすると大阪にいた頃にいろいろと指導があったのかもしれない。また、田中友子氏との付き合いの中でそれが変化していったことも事実という。吉田保健婦の活動は村人の中にも広がり、赤ん坊の検診の折には母親らは野良仕事を休むべきだとし、老人らには検診日は野良仕事を休みなさいと指示を出し、そのため野良休みが設けられることが多くなった。村人は助かったという。(舅や姑らがこれをどう見ていたのかはわからない)
また、吉田氏は藤岡医師とマンガン鉱山のじん肺の問題に取り組み、よく活動をしていたという。K氏自身がこれに関わっていたわけではない。受け持ち地区が違ったので。
K氏は昭和30年から昭和55年まで日吉町の国保保健婦として活躍したが、その後はしばらくの間、後輩の保健婦を助けて昭和60年まで働いていた。K氏の話の中で、母親が死にその胎児も「死ぬ」と宣告されて、寒空の下ベビーカーに入れられていた胎児を保育器へ入れてくれといい、自分の子供として育てようとした話は感動的であった。
【調査を終えての雑感】
この調査を終えて、吉田保健婦ならびにK保健婦の活動が、さらに広い視野でみるべきであることを痛感した。これまで吉田保健婦に依拠し、吉田保健婦側からの活動でしか保健婦活動を見ていなかったことを反省しつつ、K保健婦という後輩の活動も含めて今後記していく必要性があるのではないか。また、K氏と吉田氏の関係性もそうだが、住民とどういう風に繋がっていたのかという部分について聞き取りができればと今後の調査方向性について、再考し今一度保健婦と住民との繋がりを基軸にしながら進めていきたい。
一部個人名は本人の了承を得ていないため、伏せさせていただきました。
訂正しました。
訂正しました。