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2013年9月22日日曜日

発表内容整理のための原稿を途中公開。


手記にみる日常生活

―保健婦と農婦が綴る生活変化の断面―

 

はじめに―民俗学の生活変化への疑問から―

 本発表は、生活変化について具体的な事例を挙げ、その諸相について述べていくものである。結論から述べると、生活変化というのは単に一方的な動き、啓蒙や経済、物流などによって変わることはあり得ない。それを受ける側がいてこそ成り立つ。つまり、生活変化というのは「動かす側」と「受け取る側」の駆け引きの在り方によっておこるといってよい。決して物流によって生じるというものではない。

ところが従来の民俗学では、生活変化の指標を物質や経済を第一に考え語ろうとする。しかし、そうした啓蒙や物質や経済の影響は、具体的にどういう過程を経て生活の中に現れるものだろうか。台所を変えるにしても、それは経済的なものもあるが、この問題は家、家族、村などの様々な段階を経て成り立っている。そうした段階を無視してはいけない。

 ここでは具体的にその段階を考えるうえで、ある保健婦の経験を通じて、官の動きとしての保健婦の活動が、住民たちの生活にどう訴えてきたのか、さらに住民たちはどうとらえてきたのかを保健婦と彼女を取り巻く農婦たちによって編まれた記録を手がかりに明らかにしてみたい。

 

1.吉田幸永保健婦と日吉町

1)保健婦と住民との関係性

保健婦は、多くの生活者を相手に、個別の家庭訪問やグループ活動、婦人会などを対象とした講習会などといった活動をしながら、農婦らとの関わり生活指導に明け暮れる日々を過ごしていた。ところが、農婦らはその指導に対してただ従順に従っていたわけではない。常にその活動に対して疑問を持ち、不満を保健婦にぶつけていく。住民に近い存在だからこそ、その啓蒙指導においては、住民の意見を取り入れつつ、その中でどう考えるかを保健婦は常に考える。疑問が出ればそれに対応し、アプローチを変えるなど保健婦の心情的変化はさまざまである。そうした対応がすべて活動に出てくる。つまり保健婦と農婦たちの関係性は、生活変化への対応と受容にもつながってくる。保健婦と住民の関係性というのはそうした持ちつ持たれつの関係である。

これまで、保健婦をはじめ公的な活動をする人々は、住民を「指導する」立場であるという風にしてとらえられており、それの影響は上から下へと流れるがごとくのようにして理解されてきた。だが、人間が介する活動には、それは人間同士の対話であり、それなりに摩擦や妥協などのものも含まれる。上から下へという流れというのは時として、下から上へという流れにもなりえるし、一方向的なものではない。そうした人間関係を保健婦と住民との間に見出したい。

 

2)地域概要京都府船井郡日吉町
①地理的把握としての地域
 船井郡は京都市から見て北東、京都府全体から見れば丹波山地の東南部に位置し、日吉町は京都駅からJR山陰線で1時間弱ぐらいである。町域の南部を大堰川が西に流れ、町の中心部で旧日吉町役場が置かれていた殿田付近にて、町域を枝状に貫流する4支流をあわせるほか、胡麻郷地区を分水界にして由良川の1支谷を町域に含みます。集落はこの河川域に作られた狭長な谷底平地に立地している。現在は南丹市(平成18年に園部町、八木町、北桑田郡美山町と合併)という行政域に含まれいるが、それ以前は日吉町(昭和30年に合併)、またそれ以前は胡麻郷村、五ヶ荘村、世木村の三か村から成っていた。


②生活環境と生業形態
 現在の人口は平成17年の調査で5951人(2029世帯)で、昭和45年の人口は7040人となっているから、昭和40年代の過疎化進行を皮切りに、ずっと人口が下回っていることがわかる。また、これに付随して高齢化問題も上がっており、一人暮らしの独居老人が増えている。ただし、この地域は京都市内への通勤に便利な点があり、過疎化が進行する一方でベッドタウン化する傾向にある地域である。殿田とかは特にその点において交通の要所でありますから、山陰線の駅周辺部は栄えており人口もそこに集中している。
 生業は主に農林業が中心で、旧世木村については殿田を中心に大堰川の筏流しで栄えており、山から切り出した木材を集積する拠点ともなっていた。山陰線が開通後は、その路線沿いに材木置き場が置かれて、そこへ木材業者が集まっていた。大正2年の「産業現況」をみると、農作物でも林産物でも三か村中、旧世木村が一位となっており、続いて旧胡麻郷村、旧五ヶ荘村となっています。旧五ヶ荘村については、山深いところもあってか、田畑での農耕が思うように収益を持てないこと、さらに林業においても交通の不便さから、木材運搬にコストがかかり、林産物の収益もあまり見込めない土地であり、ここに住む人々は鉱山に出入りして稼ぐ人が多くいた。それが昭和30年代に入り、燃料革命によって薪などの需要が減っていくと同時に、この林業も衰退していった。割木産業から造林業へとの転換もされていったが、昭和45年時には林業収益を得て家計の助けになっている家が14世帯余りしかなく、また農業に至っては純農業で収益を立てているのが68%、兼業農業が94%に及び、燃料革命後から次第に京都市内へ職を見つけていくような状況になっていった。

 

③村の状況
(
)昭和30年代の町政の動向
 先に示したように昭和30年代を皮切りに、胡麻郷、五ヶ荘、世木の旧三か村が合併し、日吉町となると、それに伴って産業変化も大きくなっていく。林業が衰退すると同時に、農業も兼業化が増え、それに伴って労働を京都市内に求める人々が増加するとともに人口動態が激しくなり、過疎化が深刻化していった。こうした過疎化に伴い、企業誘致やその他もろもろの政策を町域では進めていこうとします。過疎化指定となるとその補助金が下りてくることもあって、その補助金をもとに道路の舗装を急いだり、公共施設の建設ラッシュが起きたが、実のところこうした町政の動きに反して、生活面においては、ライフラインの整備が遅れていたり、病院設備などがまだなく、あったとしても三か村にそれぞれあるわけではなく、準無医村になっていた。当時の町政の動きは、公共工事などに偏りが出ており、またそこに暮らす人々に対する保障などはなかなか厳しいものがあった。
 水道の設置についても昭和30年代後半からであるが、町政側からの申し出で行われたというわけではなく、地域住民が声を上げて町政に働きかけたことから始まったものであり、町政としてこれに積極的な関与というのはあまりなされていなかったのが露見していた。つまり昭和30年代という時代の日吉町町政においては、住民主体という考え方よりも、行政主体の考え方による運営がなされていた。
 このような町政の動きというのが緩慢な理由は、一つにそれを支える支持基盤の旧態然とした態度にこそあったのではないかと考えられる。一応、断りを入れておくが、町政に住民は全く関与していなかったわけではなく、特に各地区の地区長、地区内にある部落の長、戸長などが協議を繰り返し、それによって取り決めがなされていたが、その取り決めに参加するのはいずれにしても男性が中心であり、生活を支える女性の視点に立った見解がなされていなかった。「女子が口出すな」といわれるぐらいの封建的な男尊女卑がまかり通る社会的環境であったからであろう。つまり、男性目線でもっての町政運営であったことから、道路や公共施設といった箱物行政に対する建設議案のほうが多く検討され、ライフラインの整備が遅れていた。

(
)新しい動きとして
 男性的な行政の在り方に対して、女性側からの意見が飛び交うようになってくるのもこの時期に重なる。ではそれまではどうであったのかというと、女性はつつましやかなほうがいいという風な言い方が多く、加えて女性の中でも嫁は姑に対して頭が上がらない存在であったとされます。園部のほうの農婦の手記には「牛馬のような扱いであればいいほう」というような言葉があるほうで、つまり女性、特に嫁世代は牛馬よりも地位が低いことを表していた。
 ところが、それが昭和30年代に入ると少しずつ変わっていこうとする。これにはいろいろな諸要因が考えられますが、昭和35年前後から京都府内を中心に盛り上がってきた女性問題に関する運動というのが丹波地域を中心に活発化していたことがあげられる。これについては女性運動家の壽岳章子氏もよる「女性問題研究会」の発足とその活動が背景としてあった。ただし、この活動が日吉町で形を見るようになるのは昭和40年代に入ってからであり、それまでは、発言権というとそれほど大きいものではなかったかが、保健婦らの介入があって、女性を中心とするグループ活動の発足が昭和30年代よりできてくる。その関係もあって、町政に女性が意見を出す形がなされていった。

 

(3)吉田幸永保健婦と保健婦活動

 当町で働いていた吉田幸永保健婦は、大正14年に世木村で三姉妹の長女として生まれた。人懐っこい性格で、世話好き、困っていう人を見るとよく手伝ってあげたりしていた。昭和16年から18年の間を世木村の青年学級に在籍し、そこで裁縫を学びその後、日本大学文学部に入学し、卒業後に保健婦資格を得るため大阪市厚生女学院へ入学した。この頃のことについては資料や証言が得られていないためはっきりとした足跡は示せないものの、昭和254月京都府船井郡世木村の国民健康保険診療所保健婦に就任した折には、それまでの世話好きに加えて、準無医村である村の第一線で活躍する保健婦としての使命に燃える印象があったという。

昭和25年から世木村の保健婦としてなったものの、当時は保健衛生上の問題も多々あり、準無医村で、夜間にしか医者が常駐しておらず、昼間はもっぱら保健婦がこの対応に追われることがよくあった。そのため、世木村の吉田保健婦の家には連日、村人が使いをよこして診療を頼むなど「医者の代わり」のようなことをすることが多くあった。このほかにも自らが患者宅や地域を回り歩いて家庭訪問をしたり、婦人会などの寄合の場に顔を出して啓蒙活動を行っていたという。昭和30年、町に合併してからはK保健婦と一緒に、世木村を二つに分担し、あと吉田保健婦は五ヶ荘村を担当し、K保健婦は胡麻郷村を担当した。一応役割分担はしながら勤めていたようであるが、事業の話になるとそれはそれで協力しながら行った。例えば寄生虫卵撲滅のための運動や、貧血・高血圧症対策などは協力し合いながら進めていった。

この昭和30年代ごろの吉田保健婦の顔を知る人々によれば、とにかくエネルギッシュで次から次へと保健問題を挙げて、時には行政にぶつけてその矛盾を問いただす場面が多々あったという。

 

2.「保健婦の手記」を描く

(1)「保健婦の手記」とは

 保健婦の手記とは、保健婦自らが投稿形式に雑誌へ掲載していた「保健婦の手記」、さらに保健婦自身が自分の半生を振り返って書いた回想録、さらに医療従事者、保健関係者が残した生活記録をベースにした書籍類である。手記の名称は、「保健婦の手記」であったり「保健婦日記」であったりさまざまである。

特性は三つ。まず当時における生活の克明な描写があること。生活に根差した活動を行っていた保健婦ならではのものである。第二点に、これが掲載される雑誌の傾向である。主な雑誌として『保健婦雑誌』『公衆衛生』『生活教育』『岩手の保健』、医学的、社会教育的啓蒙を目指した雑誌に、多く寄せられている。また生活教育の会が発行している『生活教育』に至っては、手記の選考会評議会が行われ、入選者が雑誌への掲載を許されている。この雑誌の購読者層は保健婦が多く、内容としても保健婦からの応援メッセージ、悩み相談、教育の現場のレポートなどがあり、保健婦相互間の連絡を兼ねていた。

今回は『生活教育』(昭和31年から平成9)における「保健婦の手記」欄に掲載された、吉田幸永保健婦の記事である。保健婦資料館には『生活教育』(のちに『保健同人生活教育』になる)の雑誌自体は昭和35年から平成9年頃にかけて一通りの資料が残存している。現存資料の中から昭和35年から45年にかけての「保健婦の手記」で吉田幸永保健婦の記事が多く散見する。

吉田幸永保健婦を取り上げる理由は、一つにその行動が実を結んだ手記の類が多いこと、さらに逆の保健婦の失敗としての経験も含まれていて、良くも悪くもより細かく保健婦と地域住民との交流が知ることができるからである。

 

(2)吉田保健婦の「保健婦の手記」

 保健婦の教育雑誌『生活教育』で、吉田保健婦は度々投稿し、そのうえ評議会の評価を経て入選を果たしている。私が把握しているだけで、昭和35年から45年までに、合計6回雑誌への掲載がなされている。タイトルは①「小さな足跡」(昭和35)②「一つの集い」(昭和37)③「保健婦十二年」(昭和38)④「合理化のしわよせの中で」(昭和40)⑤「あるケースより」(昭和41)⑥「」(昭和年)

中でも①の「小さな足跡」における寄生虫卵撲滅のための運動については、『日吉町政だより』にその様子が描かれており、細かく様子がわかるのであるが、ここでポイントとして持ってほしいのが、この寄生虫卵撲滅のために改良便所を用意しようと、衛生教育を吉田保健婦が地区を回って働きかけるのであるが、その改良便所の支度金として貯蓄していたお金は、改良便所に使用されることはなく、子どもへのお小遣いや、そのほか家庭用品へと消えていったという。つまり、改良便所ということを衛生教育上大切であると説明したところで、やはりそれに従順であるとは限らない。貯蓄するだけの余裕がないというのも背景としてあるが、財布をあずかったことのない嫁たちがそれをどう使うのかということがネックとなってしまっている状態がしばしみられる。それでも粘り強く説明し、理解を得て改良を進めていった。

ただ、この事例で分かる通り、保健婦側の思っている意図と、それを理解するべきはずの住民との意図がかみ合わない場合が出てくる。

 

3.農婦の手記と保健婦

1)農婦たちの戦いと保健婦

①農婦たちの記録

 吉田保健婦が上記のような活動をしている中で、やはり気になるのがそれを受ける側がそれをどう思っていたのかということである。変化は「受ける」側がいて成り立ち、そこに彼らの意思決定がある。そのために、吉田保健婦とひざを突き合わせて保健婦活動への理解を説明したのであって、それに応える日吉町の主婦層、特に若い妻たち、母親たちがいた。

 次にそうした女性たちの記録を見ていきたい。主として婦人問題研究会が発行していた雑誌『婦人問題研究』と、草川八重子・壽岳章子が編集を担当した『自分をかえる―丹波船井郡生活改善グループの足あと―』を題材にする。吉田保健婦との関わり、また船井郡の女性たちの活動については、婦人問題研究会が出していた『婦人問題研究』の第10号から44号までに度々散見し、代表者である壽岳章子氏らによって討議され評論されてきた。この資料の位置づけは、文字の如く婦人問題、女性の地位向上や差別に関するものを取り上げ、女性自らが意見を言える環境をつくることを目指したものである。

 

②農婦と保健婦と生活改良普及員

日吉町の一保健婦である吉田幸永氏と農婦との関係は、母子保健などの活動を通じてであろう。吉田保健婦は農婦たちのグループ活動を始めており、料理教室などを催すなど精力的であった。ところが、次の記録を見ていただければわかるが、その料理教室の一場面で、栄養を優先して指導していたがために、農婦から一度家でやってみようとしたけれど姑の理解を得られずに、なかなかうまくそれを家庭の中で実践することは難しいという話が出てきた。吉田氏はのちにそのことについて深く反省することになるのであるが、そうした反省に導いた人もいる。

それが船井郡の生活改良普及員として園部の改良普及所に勤めていた田中友子氏である。田中氏の指導方法は独特で、まず住民の自主性に働きかけることを第一に考え、自らの指導というのは住民の背中を押してあげる程度にとどめ、何から何まで指導することはしない。見放しているようでいて指導はするが、それはあくまで住民側からその提案に乗ってもらう程度の物であり、自分からその生活を変えようとはしないというものだった。

吉田保健婦と田中友子氏との関係は、その思考的な部分でかなり大きな違いがあった。吉田氏は「住民のために」と献身的に動く傾向にあるが、田中氏は住民から動くことを待つ素振りをする傾向にある。そのため、しばしば田中氏は吉田保健婦の行動について、生活改良普及員の立場から「あなたのやっていることは官僚主義だ」と糾弾する。田中氏から見れば、吉田保健婦の行動は住民に対して上からの押しつけであるように見え、それはまるで組織の上から下への命令でしかなく、下からの救い上げることはしていないように見えたのであろう。いくら料理指導をすれど、地域住民側の意識を改革しない限りはそれが定着しないことを田中氏はわかっており、それを吉田保健婦にもわかってほしいことを願っての発言であったと考える。

田中氏と吉田保健婦が協働で行ったことは「一番言いにくいことを一番言いにくい場で言いにくい人に言う」というような、女性の発言権の強化であった。特に農家に嫁に来た女性たちにとって、そこでの暮らしは牛以下の扱いをされるのであるから、発言権は当然のごとく低かった。舅や姑はもちろん主人に対しても従順であることが美談としてあったこともあり、従わざるを得なかった。しかし、田中氏と吉田保健婦はそれでは生活はよくならないと考え、根本的に意識から改革することをしようとした。結果的に、この取り組みは女性問題に熱心であった壽岳章子氏の目にもとまり、府下の女性運動のシンボル的な運動として位置づけられていくようになる。ことに、地域における女性の発言権の強化においては、町行政にまで広がろうとしており、また当時の京都府知事であった蜷川虎三の目にもとまり、「憲法を暮らしの中に」というスローガンの元、活動の強化が目指されるようになった。さらに、昭和30年代後半より社会教育の一環として取り組まれてきた、「ろばた懇談会」の開催にも影響を与え、女性と行政との話し合いというのもここから生じてくるようになった。

こうした背景の中で農婦の手記が描かれていくのであるが、そこには吉田保健婦と田中友子改良普及員双方のやり取りも含まれており、彼女らの提案と現実的な問題とを婦人会の中で話し合いながら、それをより具体的実践可能な状態までもっていくことにしている。

 

2)女性の発言権と保健婦活動

①女性の発言権という壁

 女性の発言権の強化というとどこか社会教育的な位置づけでもって説明されているきらいがあるが、実のところ多様な活動の中にそれは生きており、別段社会教育の代表格に挙げられる公民館活動などにとどまらない。もちろん生活改良普及員であった田中友子氏の影響から、生活改善の上で話し合われることも多々あったとされるが、これは保健婦活動にも波及していくものがあった。

「保健婦の手記」でみてきた吉田保健婦の寄生虫撲滅のための活動を見てもわかるが、こうした活動資金のために貯蓄するという行為は、この昭和30年代当時、若い嫁たちにとっては未知の領域であったのだろう。そのため、その貯金をやはり自分たちが手にしたときに、女性として何がやれるのかというと、それは家のことよりも子のこととであったり、生活のためのものであったりするわけで、事業的なものに使うという考えはそこに結び付けられていない。いくら衛生思想を振りかざしたとしても、こうした貯蓄をしたことのない若い嫁たちの意識は改革できないのであった。

この他にも、吉田保健婦が関わる生活上の問題の多くは、女性の家における発言権の在り方をめぐるものが多く壁としてあり、保健婦活動をする中において発言権のありようをめぐっては活動の結果を左右する重要な問題であると位置づけられていた。当然、吉田保健婦はそれについて対処をしようとしたが、その対処の方法が上からの押しつけとして見られていたこともあり、どこまでも行政的な処理システムの中に組み込まれているきらいがあったことを吉田保健婦自身もさながらそれを取り囲んでいた農婦たちの中にも疑問としてあった。これを打破するために、吉田保健婦は田中氏の助力を得ることになった。

 

②意識改革として

田中氏については先に述べたように住民の主体性を第一とすることから、まずは言いにくいことを言えるようになる意識改革を進めることなった。ただ、これは小手先だけでできる問題ではない。様々な批判を浴びることになる。特に男性側からの圧力はあった。また姑との関係性もあった。さらに言えば昭和30年代から40年代当時の生活というのは、それこそ兼業農家が増加していき、都市部に働き場所を求めることから、収入の面で農家の収入というのが補助的になってしまった。どちらかというと兼業側が主になりえる場合さえあるという。経済的基盤の揺らぎと男手の出稼ぎ労働、女手の日雇労働が日増しに多くなるという状態が出てくるようになる。そうなると、女性にいくら訴えかけようとしても女性が昼間ほとんど家にいないという状況があり、それに姑が家で幅を利かせている状態がかえって多く出てくる始末となってしまった。女性が経済力を持つことは確かに発言権の拡大につながると思われるが、但しそれは家にいるいないという問題も多分に含まれている問題ではないかと私は考える。育児などの方面がすべて姑によってなされると、それこそ姑に「頭が上がらない」という立場をつくってしまう結果になる。姑側も、嫁が子を置いて働きに出ていることを訝しむ声も確かに出てくる。こうした少しずつの矛盾や軋轢が日増しに増大化していった中での発言権の確保というのは並大抵のものではないものがあっただろう。

吉田保健婦と田中氏は昼間はそれぞれに仕事を抱え方々を飛び回ると同時に、夜は日雇から帰ってきた嫁たちを集めて、話し合いを重ねていった。夜遅くまで言いたいことをいうことへの意識改革への第一歩としてのことを行っていたと思われる。

 

(3)受け手としての農婦

 吉田保健婦と田中友子氏の努力を農婦側がどう見ていたのかということを明確に示す資料として、『自分をかえる―丹波船井郡生活改善グループの足あと―』の中でこう述べられている。日吉町に住むS氏の記録で「「遠慮が美徳」から」という手記からの物である。

(前略)婦人会の集りに生活改良普及員さんが指導に来て、料理講習会を始められた。匁からグラムにと尺貫法の切り替えで、まず第一に計ることから、科学的な基礎を教えてもらった。はじめて台秤や計量カップ、スプーンを使うことを覚えた。計ることは自然に身に付いた。料理実習をするとともに、もの言うことも勉強した。もの言うことということは、自分の思いを口に出すことで、それには自分の考えを持つこと。それはそれは、私たちにとって考えてみなかったことだ。

ただ黙ってうつ向いて仕事さえしていたら良い嫁やと言われていたのに、もの言うことの大事さを知ると、もう家の中も、村中もひっくり返ったのである。「グループの集りに行くと、理屈を言うこと覚えてきて、しゃあない嫁になる」とまで言われた。まわりの人たちからとやかく言われるのがかなんばかりに、ある日の会合に、毎月ためたグループの貯金を全部引き出し、お菓子やみかんを買っていった。普及員さんに「今日はなんですか」と驚かれた。「私達は今日で解散します」といって一日いろいろな話合いをした。そして帰りがけには「また集まろうな」と言った。こんなことを何度も繰り返していた。

その頃、婦人の集りでも始めは入り口ばかりに遠慮して座り、遠慮が美徳と思われていたものだ。私達は進んで場所づくりから始めた。少しづつ婦人会の雰囲気も変わってきた。まず、家の中から地域へと、いろいろなことにぶつかりながら、よくも今日までつづけてこられたと思う」。

この文章からわかるとおり、農婦たちは戸惑いながらも、それでも普及員である田中氏の指導の下で一致団結しながら話し合いを重ね。そのうえで「もの言う」ことを覚えていくようになった。そうした雰囲気づくりを自然な形でやろうと心に決めた彼らの動きというのは単に指導者による女性の発言権の強化という言葉に表されるものではない。どちらかというと、指導者はその場を整えたのであって、農婦自らがそこへ入り、その中で学び取りながら一つ一つの問題にあたっていったと考える。