もう八月も終わり。再来月の日本民俗学会の年会が迫ってきたので、本腰挙げて研究に取り組まねばと思う限りです。
発表要旨はあとで提示しますね。前に提示したのから少し整理したものですが、まぁ大筋は変わっていません。
私が挑むのは、民俗学の生活変化の描き方が、物流や経済、社会状況を盾として変化を語ることに傾倒し、具体的な生活に負える人間的な動きとしてのそれを見ていないことです。
簡単に言えば上記のようなことなのですが、これを覆すにはそれなりに分析方法の変更や、地域視座と個人視座の交差点などかなり深いところまで突っ込まなくはいけません。ですが、そこまでの時間は発表では使えないので、とりあえず、上記のような「物流や経済、社会状況の変化=生活変化」という枠組みを見直すことから始めたいのです。
その事例には保健婦の手記と農婦の生活記録(手記)を用いて論じようと思います。生活を変えようとしたほけ婦側の主張と、それを受けて取り入れようとした住民側の主張、関係性の在り方を描いてみようと思います。まだまだ、分析が進んでおらず、また手記という媒体を扱うにあたっての諸注意などの懸念事項はいろいろあるのですが、それについては今後の研究において当たっていくとして、今回は純粋に、手記の内容分析、手記同士の接合点について考えながら、変化の受容を解き明かすということにしたいと思います。
2013年8月4日日曜日
発表要旨できました。
こんにちは。先だって、報告していた日本民俗学会第65回年会発表の要旨ですが、あれを少しいじって、本日年会事務局へ送付しました。
何とか間に合いました。しかしながら、本当ならもっと具体例としての活動、特に現在聴ける活動に焦点を当てて発表したいとも思っていたのですが、まだそれを整理するだけの余裕がないのと、なかなか公表には結びつけられないのがあり、今回はそれを断念し、「保健婦の手記」をベースとした発表にしようと考えています。
発表要旨を読んでくださった方はご理解いただけているかと思いますが、私の研究のスタンスで一番重要なのは生活の変化というものに対する人々の反応と受容がどうであったかです。
保健婦を事例に出しているのは、また違った理由もあるのですが、保健婦の活動が生活に密着し、そこから得られる多様な情報から、生活変化の在り方を考察していくことができないかと思ったからです。
ただ、保健婦の手記ばかりを見ているわけではありません。受ける側、農民の手記にも触れておく必要性があります。受け手がどうであったのか、生活に密着すればするほど、やはり摩擦もあったりして、保健婦側との折衝がでてくるものがありますゆえ、こうした場面をどうクリアにしていったのかという部分にこそ、変化の需要の在り方が垣間見えると思うのです。
民俗学でこうしたことに対してはあまり研究がなく、事例をどう扱っていいのか、例外の範疇に当たるものと思われますが、説明を丁寧にして、なんとかそこら辺の民俗学としてこれを扱うに当たってのことは明確にしておく必要性があると思います。それについては、また発表の時に時間があれば、述べることにしておきましょう。
何とか間に合いました。しかしながら、本当ならもっと具体例としての活動、特に現在聴ける活動に焦点を当てて発表したいとも思っていたのですが、まだそれを整理するだけの余裕がないのと、なかなか公表には結びつけられないのがあり、今回はそれを断念し、「保健婦の手記」をベースとした発表にしようと考えています。
発表要旨を読んでくださった方はご理解いただけているかと思いますが、私の研究のスタンスで一番重要なのは生活の変化というものに対する人々の反応と受容がどうであったかです。
保健婦を事例に出しているのは、また違った理由もあるのですが、保健婦の活動が生活に密着し、そこから得られる多様な情報から、生活変化の在り方を考察していくことができないかと思ったからです。
ただ、保健婦の手記ばかりを見ているわけではありません。受ける側、農民の手記にも触れておく必要性があります。受け手がどうであったのか、生活に密着すればするほど、やはり摩擦もあったりして、保健婦側との折衝がでてくるものがありますゆえ、こうした場面をどうクリアにしていったのかという部分にこそ、変化の需要の在り方が垣間見えると思うのです。
民俗学でこうしたことに対してはあまり研究がなく、事例をどう扱っていいのか、例外の範疇に当たるものと思われますが、説明を丁寧にして、なんとかそこら辺の民俗学としてこれを扱うに当たってのことは明確にしておく必要性があると思います。それについては、また発表の時に時間があれば、述べることにしておきましょう。
2013年8月2日金曜日
発表要旨の案。
手記にみる日常生活
―保健婦と農婦が綴る生活変化の断面―
京都府南丹市日吉町(旧船井郡日吉町)、昭和30年代から50年代にかけてここで活躍した保健婦、故吉田幸永氏の手記が『生活教育』という雑誌の中に多く掲載されている。そこに描かれているのが、戦後の日吉町の生活変化の中における人々の日常である。
本発表は、吉田幸永保健婦が残した数々の記録と、また彼女の影響を多々受けた人々によって編まれた生活記録を紐解くことによって、保健婦が地域に与えた影響と、地域が保健婦に与えた影響、さらに地域生活の変化においてそれがどのように作用していったのかということを民俗学的に考察するものである。
民俗学では、生活変化についての指標として、物質変化や経済変化を第一に考え、その中で生活の様相を語ろうとする。耐久消費財や電化製品の物流、経済発展による生活基盤の安定が変化の要因とするところが大きい。しかし、そうした物質や経済の変化は、具体的にどういう過程を経て生活の中に根差したものであったのだろうか。結果的に物質などによって変化が起きることはわかる。しかし生活の変化がそう単純なものではない。台所を変えるにしても、それは経済的なものもあれど、この問題は家、家族、村などの様々なしがらみの中を潜り抜けて段階的に成り立っている。そうした段階を無視してはいけないのではないだろうか。
その段階の中にどのようなものが見いだせるのかをここでは、ある一人の保健婦と彼女を取り巻く農婦たちの記録から追ってみたい。保健婦を選んだのは、保健婦の活動というのが人間の身体に直接影響を与えているということ。それは衛生というだけではなく、もっと深く生活基盤にまで踏み込んだ内容であったことが一番の理由である。人々はどういう風にこれをとらえていたのか、またそれを取り入れようとしたときにどんな対応を取ったのだろうか。
吉田幸永保健婦は、旧日吉町で多くの生活者を相手に、家庭訪問やグループ活動、講習会などといった保健婦活動をしながら、様々な角度でアプローチを試みた。農婦らとの関わりも深く、それによって生活指導に明け暮れる日々を過ごしていた。ところが、農婦らはその指導に対して思うことがあり、様々な対立を見せていく、その中で保健婦の心情的変化もみられ、活動に取り込まれていく。そうした保健婦と農婦たちの関係性から見えてくる、生活変化への対応と受容、そうした変化の結果ではなく過程、これを明らかにし、新しい生活への視座を民俗学的に考えてみたいと思う。
2013年8月1日木曜日
受け入れると言うこと
ここのところ、無駄に時間を過ごしているような感じがして心苦しい限りです。ですが、全く何も考えずにいるわけではなく、あれやこれやと考えたりすることが多々あります。
その中に、研究のことで、いや、研究というか人間の生活の営みのことで、いろいろと考えてみるのです。
具体的にいうと所謂変化とか言うものは、「受け入れる、受け入れない」いずれにせよ「考えること判断すること」がそこにはあり、その手順をなしに変化は語れないと思うのです。
前々から述べてきていることですが、私たちはどこか変化をその結果で評価し、それでもって変わったことを前提で話す節があります。ところが、変化の断面を観察していくと、そうした変化を受容するためのステップがあるのだと私は思います。
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