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2014年4月2日水曜日

平成26年度保健婦資料館付属研究所研究員研究計画書



平成26年度保健婦資料館付属研究所研究員年間研究計画書

 

はじめに

 計画書作成にあたり昨年度の研究の反省を述べておく。昨年度の研究計画において、筆者は保健婦資料館に所蔵されている「保健婦の手記」の分析と解説をすること、また愛媛県の稲葉峯雄氏によって記された『草の根に生きる』をもとにした愛媛県南予地域の地区診断の在り方とそれが農村に与えた影響について調べること、さらに雑誌『岩手の保健』の編者であるところの大牟羅良氏をはじめ、彼とかかわり声を上げていった地域住民とのあり方とを調べるとのことであったが、それらが全て調査研究できていたかというと中途半端なものになってしまったことは否めない。

 

   「保健婦の手記」の分析

 「保健婦の手記」の分析、特に雑誌『生活教育』に掲載されている記事を抽出し、それを精査したうえで、具体事例として京都府の故吉田幸永保健婦の手記を取り上げながらそれを具体的にとらえてみたが、手記全体の特質と吉田氏の関わりをいかにみいだすのかということについては触れられなかった。手記は手記の分析で、吉田氏の手記については個別に扱うなどして、それぞれ別々な方向で述べるだけに至った。手記の分析はどちらかというと資料論的な分析に依拠し、『生活教育』の主張するところの性格を強調し、そこから手記はどうあるべきなのか、民俗学でどう位置付けるべきであるのかを述べたのであるが、民俗学における手記研究の在り方などを踏まえて説明できていなかった点は、研究史的に見てそれがどういう風な研究なのかということを不鮮明にしてしまった。素材としてはいいが方法論、論理的思考に問題があった。また、吉田保健婦の在り方については事例として具体的に扱って、地域とのかかわりを浮彫にはできたが、ただそれは手記と周辺資料、そして少しの証言からでしか具体的に迫れなかった。手記という主観の産物を社会という客観との連携の中で描けなかったことは大いに反省しなければならない。

 

   愛媛県南予地区診断報告からの分析

 愛媛県の地区診断という共同保健計画に基づいた愛媛オリジナルの地域保健活動を具体的に分析することにしてみたが、資料類の多様さ、地区診断の移り変わりにおける方向性の変質、さらに関係者各位、保健婦や地域住民らの関わり方をうまく描けたかというとそうでもない。具体的に地域を見たのは、旧広見町と旧吉田町の二つであり、また二つの中でも下大野地区(旧広見町)、増田・黒井地地区(旧吉田町)であり部分的なものである。もともと地域を割り出すという意味で始めたものではあったが、ただ筆者が調査を進める中で思ったことは、住民との関わりを論じるにはもう少し主観的に地区診断の評価を取り入れていかなければならないと思い、地区診断をただ単に地域保健活動の一つの取り組みとして見るのではなく、地域の繋がりの中で、いや個々人と医療とのつながりの中で論じなければならないと実行に移してみたのであるが、調査地区のバリエーションの多さと、地区それぞれよりも話者個人によって地区診断のとらえ方は異なり、具体的にじゃあどういう風なつながりであったのかということを問うたとき、未だに解答を得られていない。先が見えてこないというべきか、地区診断をまだ第一次として位置づけているため調査方法や研究方法などの方法論的な構築に至っていないこともあるから、これについては今年度の課題に持って行きたいと思う。

 

   『岩手の保健』の在り方

 『岩手の保健』の分析については現時点では資料収集とその読解、さらに農民の声ということに焦点を絞って、岩手に限らず地域でそこに暮らす人々の声がどう扱われているのかということを周辺生活記録、生活綴方にみてきたがまだ分析が伴っていない。長期的なスパンで研究を進める必要性があるため、今年度の研究計画においては触れずにいよう。個別的に資料を読み込むことはするものの具体的に足を向けていくことはまだ早急だと考える。

 

 以上のことから昨年度の反省に基づき次に具体的な、今年度の研究目的を立案したい。

 

1.       次期計画策定目標

   計画策定にあたって

研究計画の策定にあたっては目標の設置が必要不可欠であるため、以下その目標について述べていくことにする。ただ、この目標は中長期それぞれあり、さらに最終目標としてのそれもある。そのため、一概に策定できないにしろ、ここで大まかな概要を記しておくことにする。

本研究の大きな目標は、地域、いや個人生活における生活世界がどのように構成され、さらに地域社会という集団の中でどう連携し、その上で内外的な社会変動が与えた影響を明らかにすることにある。これによりこれまで普遍的に語られ、「顔の見えない」生活に、自己主張を与え、そこから垣間見える社会との関連性を現代社会においてどのようにしてとらえなおすのかを問うものである。この研究に答えはない。結論はない。この研究が出版され、最終的に人の目にとまった時にその読者自身が過去を振り返り、考えてみることを視野に入れている。所謂実践的な研究であり、象牙の塔の如く学問の中におかれるだけの研究と位置付けたくない。具体的には地域貢献ないし地域のまちづくりにおける基礎的な資料としてこれを活用できるようなものとしておきたい。結論というのはそうした街づくりの樹上にて出されるのであって、研究者が出す結論というのはただの方向性の一つにすぎないことを強調しておきたい。

 

   計画の中期目標

 計画の大きな目標は社会科学的な視点での地域と個人との有機的な繋がりを求めるものであるが、ここではそれを一歩進めて中期的な目標として提示することにする。

 現時点では愛媛県南予地域の地区診断の調査を継続的に行うことで、一つにその地域と語り部たち個々人との有機的な繋がり、つまり「顔の見える」生活史の作成をしてみたい。またもう一つに、地区診断を世に紹介し、さらにそれを社会教育的な視点で持って論じた『草の根に生きる』の著者、故稲葉峯雄氏の彼自身の思想と、彼の人生の中における地区診断の位置づけを行いたいと思う。これはライフヒストリー的な分析を中心としたものであり、故人の関係者からの聞き取りを基に、故人の性格、行動、さらに著作や手紙、資料などから見受けられる、地区診断をどう稲葉氏自身が捉えて、その後どうしていこうと考えていたのかを問いたい。これは、稲葉氏が地区診断後に老人福祉の分野に移行するため、その原因となる一つのターンが地区診断の想定と結果であったと仮説をたてているからである。地区診断自体もさながら、彼固有の考え方、また彼と接触した様々なヒトとの出逢いの中において、培われた地区診断の結論をそこに見出したいのである。前者が、地域と住民との関連性を描くのに対し、後者は個人と社会とのあり方を問うものであり、『生活記録の社会学』の著者、ケン・プライマーの主観と客観の相互作用論に依拠した生活史への視点を民俗学的に用いるものである。

 さらに、「保健婦の手記」に関する研究においては、生活記録としてある手記の在り方、手記が目指す方向性について資料論的な部分から、具体的な描写に関する部分に至るまで総合的な鳥瞰図を描いてみたい。昨年度の報告では、具体的描写と、資料論的な視座が別々に論じられており、それぞれに欠落があったことを反省し、その上に立って、より一層総合的な視座に立ちながら、「保健婦の手記」の概要と具体性を描いてみたい。この描き方においては生活史的な視点を持ち込む。前記の南予の研究においてもそうであるが、私が目指すべきところは、生活主体と社会との相互作用であり、「保健婦の手記」の場合、保健婦と社会、描かれる対象となる個人と社会という二重の見方もできる。それらがどういう風に対峙し、さらにどういう風な関係性のもとにおいて「描かれる」ものであったのかということを生活記録研究と民俗学的な研究との間を取り持つような形で論じてみたい。

 

   計画の長期目標

 次に中期目標のその後はどうするのか、調査も現時点においてどこまでできるのかも不透明であるため、ここで長期的な目標の設定をあらかじめ行っておきたい。この設定はあくまで研究の最終目標ではなく、中期目標の次のステップとしてのそれであり、研究をどういう風に発表するのかとかどういう風に公開するのかといった部分に触れるものである。

 学会発表では日本民俗学会、京都民俗学会の発表を継続的に行っていきたい。これは民俗学内における生活の在り方を問い直すための一つの手立てととして目標づけておきたいからである。従来の民俗学における地域生活の分類、さらにそれらの類型論、比較論、伝播論の普遍性をもとにした記述に対して、筆者は個々人の生活の村長という立場を維持しながら、社会との関連性の中で生活はどのようにあったのかという、主観と客観の相互作用論という社会科学のメスを入れてみたい。別にこれまでの民俗学の方法論に対して否定をするわけではないが、あまりに地域を抽象的に扱い、具体的に扱ったとしてもデータとしてのそれにしか当たらず、記述がそれ以上進まない。研究者内で完結してしまうことを恐れたためである。私の研究は実践性に立脚したものであるから、研究者内の象牙の塔にこもる必要性はまったくない。地域社会の一般性に訴えるつもりもない。こういう生活があったという事実をもとにして、ではそれをどのようにして解決していくのかという部分に焦点を当ててみたいからである。なので、学会的な結論はその一つの手段であり、結語となるようなものではないことを強調しておく。

 出版については、現時点ではまだ考えていないが、学会誌への投稿を視野に入れて、2本の論考ないし研究ノートを日本民俗学会、京都民俗学会等に発表しておきたい。また、民俗学の枠内に収まるのではなく、積極的に周辺諸科学、社会学、教育学など、さらには医学などの部分においても関係機関を通じて発表しておきたい。加えて、論考ではなく調査において思ったことをコラム化した記事を、保健所や教育委員会などの地域機関に投稿し、それをもとに市の広報などの一部分を飾ってみたいと考えている。これは地域において私の研究に実践性を持たせる一つの手段であると考えている。

 

   計画の最終目標

 上記の計画目標はどれも一時的なものであり、最終結論をだすものではない。またこれから述べるものも最終結論ではないことを念頭に置いておきたい。というのも、本研究の最終結論の策定者は研究者である筆者ではなく、読者やそれこそ地域で働く保健師らが決めることであり、筆者はあくまでアドバイザー的な立場という繋ぎを演じることにしている。つまり、問題の記述とそこから垣間見える諸現象に対する考察ここまでが筆者の仕事であり、それ以上についてはより具体的に地域を考案する場で、ひざを突き合わせながら議論していかなくてはならないのである。

 こう考えると、筆者の最終目標というのは地域議題への導きにこそある。行政も関わるであろうし、地域コミュニティーである自治会や組などの単位での話し合いの場において議論されることを願うものである。一見して筆者の研究は保健分野に編住しているように見受けられるかもしれないが、生活の総合俯瞰の一部として保健を扱っているにすぎず、生活をどう考えるのかという部分についてはより一層の意見を住民側ないし保健師側から示してもらう方がより鮮明になる。とりとめのない議論が出てくるかもしれない危険性ははらんでいるが、とりとめのない議論の中でも彼らがそれらを意識しだすことの方が優先であり、筆者のねらいとしてはそこに長期的目標を位置付けたい。

 

2.       具体的調査と調査方法論

   策定に基づく調査・研究方法論

 ここでは具体的な調査・研究方法について述べていくが、先に断りとして、現時点では調査・研究方法論が完全に私の中で組みあがっているわけではない。それこそ調査を進める中において方法論は違ってくるだろうし、研究に際しても議論の場が異なってくることも考えうる。現に、これまでの調査、京都府の調査から愛媛県の調査に移る際においても保健婦主体から、地域住民の生活と保健婦との関わりという風に研究主体が大きく変わっているし、方法も聞き取り調査と資料調査もさながら個人の手紙のやり取りとの中で考えられうること、個人史の分析方法論の中に立脚したものへと変化しつつある。つまり、一概にここで論じることはできないし、それこそ学会等において発表時に考えることであるから、ここで提示するのはあくまで計画に基づく予測される調査・研究方法であることを明記しておく。

 まず、調査方法であるが、民俗学の方法論としてのフィールドワークにおける聞き取り調査は前提としてそこにある。当研究が聞き取り調査をもとにして、その個人との関係を築いているのであればそれは、立派な調査方法であり、関係構築の方法でもありうるので、これは大きな前提となる。さらに加えて筆者は、調査者個人の主観的な語りに対して興味を持っているため、その個人個人の生活と人生について聞き取り、さらにそれを立証できうるだけの、できるだけの資料を集めている。それは議事録であったり日記であったり、メモであったり写真であったりするわけであるが、個人と地域の相互作用を垣間見える素材を収集し、その分析と語りの在り方を重層的に配置していくことが調査には求められる。

 研究方法については、生活記録(ライフドキュメント)研究で1990年代に発表されているケン・プライマーらの著書、社会学や社会科学の分野を参考にして、それをどのように民俗学に取り入れていくのかが主眼になってくる。生活記録を扱う研究は多々あるが、いずれも理論構築を優先的にしているところが多く、事例分析を強化したものは少ないと見受けられる。プライマーの理論は確かに妥当性を持って語られるべきものであるが、それを民俗学の俎上においてどう料理するかはまだ未知数なものがある。民俗学は事例分析を優先的に行い、そこから理論構築をしていくことが主体であるから、最初に理論があって事例を当てはめていくとかなり事実関係が異なってしまう危険性をはらんでいる。そのうえで、事例と研究の理論の枠は大きくとっておきたい。研究方法が生活記録に依拠しているのは、当研究が生活の様子をそれこそ語りだけに限らず記されたものに対して考えるところにあり、口述史的分析と、個人史的分析との双方間の間を取り持つ形になる。いずれにせよ主観性に立脚した議論であるが、筆者は主観性を社会との照らし合わせで客観性を持たす取り組みを、それこそプライマーの相互作用論の中に見出しているため、彼の論理を民俗学風にアレンジすることから考えてみたい。

 

   「保健婦の手記」と生活記録研究

 細かくなるが、研究ごとの分析方法をここで論じておきたい。「保健婦の手記」が個別的事象を取り上げていること、個人的な記録であることは報告書のとおりであるし、個人という枠組みで見た場合、ケン・プライマーが社会科学の分野において批判されてきた客観性の欠如は確かに指摘されるであるため、これ自体をそのまま用いることは難しい。勿論、手記類をそのまま提示し、読者に判断を仰ぐ研究も欧米の社会科学の研究の中にはある。ただ、「保健婦の手記」というものの特性からして、それ自体が外部に向けて発信されている点、さらに投稿が評価され選択されている点という恣意的なものがあるため、そのままの状態を提示することは筆者のいうところの主観と客観の相互作用をみるような、住民と社会とのあり方、保健婦と社会との結びつきを見るうえではかなり偏りを見せてしまうためあきらめざるを得ない。

 そうなれば、方法は一つ。手記類が書かれる背景を丹念に調査し、書いた本人がどのような人物でありどういう風な人生を歩んできたのかということも含めて内容を吟味しなくてはならない。その語りの周縁においてどういった関係者がそこにいたのかのさえ本来はつかまなければならないが、「保健婦の手記」の内容については匿名性が多く、その関係者をすべて考慮することは現時点ではかなわないだろう。つまり完全な事実確認が「保健婦の手記」でなされるわけではない。ケン・プライマーの著書『生活記録の社会学』の中でもそれについては触れてある通りだ。バイアスがあるし、主観性という立場に立てばそれこそ膨大な資料データがそこにいることになる。しかしながらそうした余裕は現時点でできないため、考慮策として主観性をすべて排除するのではなく、書いた保健婦自身が持つ履歴や経験を洗い出し、それを社会との関連の中で位置づけながら、それこそ歴史の中に位置づけながら、仮定的事実として受け入れ、主観性と客観性の相関関係の上で描くべきだと考える。

 吉田保健婦の手記については現時点で5例ある。但し、これは入選を獲得し、『生活教育』に掲載されたものであってそのすべてではない。彼女は度々記録を付けて公表をしていたという後輩の保健婦からの証言もあり、入選作を除いてもその数は膨大にあるだろう。また彼女と関係性をもった保健婦は多々あり、その講演なども多くの聴衆が聴いている。加えて彼女と深いつながりがあった田中友子生活改良普及員のありようを記したものが近年発刊されており、彼女の足跡もたどっておく必要性が出てきている。つまり、事は日吉町という一地域にかたよらず、そこで働いていた一保健婦が地域住民、いや地域外も含めて様々な人との関連性の中でどう描かれるのかという部分が重要である。

 結論として、「保健婦の手記」をその資料的価値、内容的、具体性の価値基準を総体として取り上げ、それを構築していく中でどういう風な関係図を描けるのかというのが課題となる。現時点においてこの関係図の一部は調査にてわかっているものの、肝心の地域住民からの証言が得られておらず、彼らが保健婦に対して何を思い、保健婦がそれにどう応じていたのかという部分が明らかにならないことにはその関連性を構図的に理解することはかなわないだろう。

 

   愛媛県南予地区診断と稲葉峯雄氏の思想

 愛媛県南予地域の地区診断の調査に至ったのは、もともと稲葉峯雄氏の『草の根に生きる』を拝読し、その社会医療、農村医学的な発想と、地域社会教育の在り方を辿ることにあった。また、勿論稲葉氏が地区診断のきっかけを作ったことは確かであるし、その地区診断が行われた地域との関連性を重んじることは必要不可欠なことである。

現時点では、南予の宇和島市三間町増田・黒井地、北宇和郡鬼北町下大野の三地区の概要を話者の語りと、資料調査から明らかにしていった。ただ、下大野を除く三間町増田・黒井地では悉皆調査、踏査はまだおこなっておらず、地域住民の証言も農協婦人会のそれとして理解されるべきものであり、まだまだ全体的な地域調査が必要である。

一応断りを入れておくと、この調査の大きな目的としては地域住民と保健所、稲葉峯雄氏らなどの人物との関わりをその語りから導き出すという作業である。地域をそのまま調査し、地域の特色を出し、他地域との比較をするということを前提としているのではない。比較論的な立場をとるならば、それこそモデル地区として普遍化し、それぞれの生活については取捨選択された、切り貼りされた生活模様を描かざるを得なくなる。筆者は常々生活は総体であって、衣食住などの分類項目を使うべきではないし、地域的特色をそこに見出したとしても現代社会においてそれが意味するところはただの文化的価値観という風なものに偏り、地域生活に直接的に問題を提示するには至らないことを調査過程で思っていた。

そのため、比較論的立場は切り捨て、地域論的立場にも立たず、地域と人間という立場、その社会と人との相互作用としての個人史に目を向けておきたいと考える。また、ここで言う、個人というのは単にひとりの個人を指すわけではない。一人の個人が地域で果たす役割を丹念に追っても、それこそ縦横無尽な関係性がそこに浮き彫りになり、個人を構成するものはそれこそ他の個人とのかかわりの中で論じなくてはならない。一人の個性というのは存在しえないと考える。環境であり、社会なりがそこに関与してこそ個性が引きだたされる。個性というのは「魅せる」ものであって、パーソナリティーという訳語で話すものではないことをここに明記しておきたい。

ではこの観点に立ったところで、愛媛県南予の地区診断を見ていくに当たり、二つの方法をとりたい。一つは、それこそ証言の集約をしていくということである。地域、いや地区個々の人々の語りの中で地区診断はどうあったのか、また公的機関に残されている資料、さらにかかわりを持った保健婦らがこれをどういう風に客観視していたのかを含め、総合的な形で地区診断の在り方を問うてみたい。これを問いただすことは、地区における健康を見出すというわけではなく、地区診断が持つもっと深い関係性の構築、社会教育的な視点から立った時に見えてくる地域コミュニティーの発展的発想をそこに見出すことができる。これは現在の農村社会が抱える問題である、地区組織の在り方というのもにも直結するし、民俗学的に見ても村政としての地区がどのように機能し、どういう形成過程を経てあったのかということを細かく見ていくことにもつながる。村政についてはこれまで行政的なレベルと家族などの近親者的なレベルなどと別々に取り上げられてきたきらいがある。しかしながら、そうした関係構図は実際の生活のおいてはもっと重層的であり、立体的な繋がりをもって生まれてくる。抽象論としてのそれらの関係構図は確かに、行政とその他というくくりになるかもしれないが、実生活は具体的であり、抽象的な理解では考えられない部分も多々ある。それらをどう描き出すのかが重要だ。

二つ目に、稲葉峯雄氏という大きな関心、関係者としての人物の思想的なものが地区診断には大きな役割を果たしている。地区診断に関わったのはなにも稲葉峯雄氏だけではないが、彼が『草の根に生きる』で鳥取大学医学部教授の加茂甫氏と語った中で、社会医学的な視点で持って愛媛県の南予における健康被害を、生活レベルで考えることの構築を目指していたことから、彼なりの構図がそこに描かれているはずである。また、それが意図的にさようしたのか、逆に外部的な思想によって邪魔されたのか結果的には地区診断は成功して評価はされている。但し、稲葉峯雄氏自身がこれをいかに描いていたのか、その後の地区診断をどのように構築するように仕向けて行ったのかということはかなり重要な課題の一つである。つまり、稲葉峯雄氏自身のライフストーリーと地区診断の交差を見出しておくことも一つの手立てとして必要不可欠ではないだろうか。現時点では、稲葉氏と関わりを持った「蓬会」の保健婦らと接触を持ちつつ、この調査に踏み切る段取りはしているが、未だ彼の家族に会えずにいる。家族に会って話をきくことがかなうならば、彼の人となりと考え方について深いところで知ることができるように思う。できれば、早いうちに、さらにいえば稲葉氏が残したメモ等があればそれをもとに彼の軌跡をたどってみたいと考える。

結果的に、この南予地域の調査は地域のそれとは違った所謂個々人の集合体としての生活史を明らかにすることに焦点が注がれており、稲葉峯雄氏にしろその個人が社会にどうかかわっていったのかを導き出すことにこそ意味を見出している。民俗学における、「生活者の顔がない」生活史を批判するとともに、生活者がどういうひとであり、どういう考えを持ち続けていたのか、その推移はどこにあるのかということを地区診断という部分的な事象に絞って考えてみることにする。

加えて本研究の視座は、民俗学固有のものではなく、経済学、生活学、家政学、社会学、医学、公衆衛生学などのさまざまな諸科学の影響を学際的に、いや総合的に描き出すものであることを付記しておく。

 

   『岩手の保健』の読解と研究

 現状からのべると、まだ資料を読み込めておらず、その問題について論じることについてはできていない。また大牟羅良という人物の人となりもかなり興味深いが、これもまだ調査に踏み切る余裕はない。

 今後の課題としては、まずは資料を読み込むことと時代における編者である大牟羅良の考え方の推移をそこに見出してみたいと考えている。『岩手の保健』は長年にわたって岩手県の国保の歴史に大きく関与してきた雑誌だけでなく、岩手の農村の現状を伝え、議論する場としての雑誌の性格を有している。この性格から考えられうることは、編者自身が地域をどうとらえようとしていたのか、また地域住民はこれに対してどういう反応を見せていったのかが重要である。ここでも筆者のスタンスは比較論者でもなければ地域論者でもない。生活史という立場に立脚しながらも、その主観性の雑誌記事を丹念にとらえ、大牟羅氏が云わんとすること、そしてそれを外部社会が客観視する際に見えてくるものを明らかにしておきたいのである。

 今年度にこの読解作業が終了できればそれでいいと考える。考察についてはまだ方法論を考えつつ探っていきたい。

 

3.       調査研究結果の公表に向けて

 基本的に調査報告は調査地や話者を優先し、一度制作したものを仮報告として話者に渡し、その反応を待って正式な報告書を記述し、考察を述べていくことにしている。これは地域と関係性を硬いものとするための努力であり、別段話者のそのままの声をそのまま載せることについて了解を得るだけのものではない。まずは、仮報告によって地域に対して報告内容に誤読がないかどうか、さらに地域生活においてこの問題を認識してもらうことにこそ意義がある。そのうえで、正式な報告書にてそれを盤石のものとなす。筆者の方向性としては実践性にあり、学問性にある取り組みとしては考えていない。学問的立場に立つのであれば、それこそ正式な報告書をおくることは、確かに成果を見出すことにつながるが、筆者の場合は、それを土台にしてどういう風に地域を考えるかというアフターケアも含めた議論が必要となる。

 この観点に立って報告書を垣間見た時にそれを公表し、掲載することはかなり慎重でなくてはならない。現時点で発表報告をしているのは吉田保健婦のそれと「保健婦の手記」であって、愛媛県南予地域に関する報告はまだ封印している。いずれ、その封印は解き、公表する予定であるが、現時点ではこの報告書によって地域でどのようなアクションがあるのかを待ってみたいと考える。意識され出したかどうかを見計らってからでも公表掲載は遅くない。

 

まとめにかえて

 今年度で取り組めるのは、吉田保健婦の調査と南予の調査の二つが主題となるだろう。別に他のものができないというわけではないが、データ整理が膨大にあり、それに追われることがしばしば出てくるものと考える。その時にほかに手を出していては難しい局面に陥るであろうから、そうしたリスクには慎重にならざるを得ない。個人と社会、主観と客観の相互作用を論理的に進めていくに当たり、まだまだ研究史の分析が整っていないきらいがあるし、民俗学的に見てこれらの方法論が学会的に了解を得られるかどうかという部分に不安を覚えるところはある。しかしながら、「顔の見えない」生活ほどむなしいものはないし、機械的に機能的に分析することが生活を捉えることではないと強く主張したい。生活者あっての生活であり、個人あっての集合であり、集合があっての地域であるこれを段階的にとらえていく作業こそが現在の民俗学には必要不可欠であり、とくに社会とのあり方を基準にした研究の欠落している部分にあたるものと考える。主観性を排除し客観性に科学性をみいだすというのは、もはや古いものである。主観性と客観性の相関関係論を社会学はいち早く見つけそれについて取り上げているにもかかわらず、依然として民俗学はそうした相関関係性を普遍化としてしか取り上げていない。普遍化することがよい場合もあれば悪い場合もあることを考えなくてはならない。

2014年4月1日火曜日

保健婦資料館付属研究所年間報告書③ 南予篇


愛媛県南予地区診断及び農村生活調査第一次報告書

 

はじめに

本報告書は平成25年度(平成254月から平成263月)に行った調査研究について報告するものである。現時点においては調査途中ということもあり、現時点で言える事を考察として述べることとする。

報告書「愛媛県南予地域地区診断及び農村生活調査第一次報告書」は二部構成でなされている。第一は、「三間町増田・黒井地地区診断及び農村生活調査報告」、第二は「広見町下大野地区診断及び農村生活調査報告」である。

この二つの報告は稲葉峯雄氏の著書『草の根に生きる』(岩波書店 1973)で描かれる愛媛県南予地域における保健活動の具体的な取り組みを描き、昭和30年代後半から50年代にかけての農山村の生活の変化において地区診断が果たした役割について考察し、今後の保健師における地区組織との共存の在り方を考えるものである。現時点では、南予の中でも愛媛県宇和島市三間町増田、黒井地と同県北宇和郡鬼北町下大野における調査を、宇和島保健所、八幡浜保健所、広見町保健センターなどの協力を得て、元保健婦らや地区住民からの聞き取り、残存する地区診断資料をもとに作成したものである。

 

    三間町増田・黒井地地区診断及び農村生活調査報告

1.はじめに

本報告は平成26227宇和島市三間町A元保健婦宅にて、B氏(大正10年代生まれ)、C氏(昭和初年生まれ)、D氏(昭和20年代生まれ)以上四名から聞き取り調査(レコーダ使用)、ならびに地区診断報告書ならびに昭和40年代当時の農協婦人部部長であったB氏直筆メモを参照にまとめたものである。

 調査経緯は宇和島市三間町在住のA氏の蔵に所蔵されていた、昭和40年代前後の地区診断資料が見つかったことを受けて、その収集と資料経歴について調査することをA氏に依頼した。その依頼の中に、地区診断当時のことを知る方々にお話をお伺いしたい旨を申し伝え、A氏のご協力を得てB氏、C氏、D氏にお集まりいただくこととなった。

 その際、地区診断自体のことだけでなく、地区診断が行われるようになった背景、農村生活の在り方について調査の中心を移すこととなった。

 本調査は愛媛県南予地域において昭和39年の旧広見町下大野地区を始点に、各地区で広まっていった地区診断(行政と地域住民主体の共同保健計画に基づく地域保健活動)の歴史的背景、その経緯、農村生活の中でそれがどういう役割を担ったのかを調査することを目的とした。

 今回は下大野から数年のちに行われた三間町の地区診断(増田:昭和45年、黒井地:昭和50年代)の経緯を把握するとともに、農村生活がいかにしてかわっていこうとしたのか、地区診断に取り組んだ方々の姿勢から学ぶことを中心に話を進めた。

 

2.昭和40年代前後の増田・黒井地部落の生活

【話者の経歴】

本報告に入る前に話者であるB氏、C氏、D氏の経歴について簡単に記しておく。B氏は大正10年代に宇和島市三間町黒井地に生まれ、一人娘として育つ。昭和10年代後半頃、婿養子を迎え結婚。結婚と同時に婦人会・農協婦人部に入会をした。C氏は昭和初年代に宇和島市三間町増田に生まれ、戦後に隣家に嫁ぐ。結婚と同時に婦人会・農協婦人部に入会をした。D氏は昭和20年代生まれ。三間町での生まれではないが、昭和40年代頃から旧北条市農協生活指導員として各地を稲葉峯雄氏と共に回り、その際B氏にも生活指導を行っている。その後、地域の保健婦に惹かれ昭和50年代に旧長浜町保健婦に転職した。A氏とは保健婦養成所の同期である。

 

【地理的概要】

 三間町は現在、20058月に宇和島市、吉田町、津島町と合併し、宇和島市三間町となっている。三間町と鬼北町、松野町を加えた旧北宇和郡の4町を鬼北地域と呼ばれ、その中で三間町は最も西に位置する。『三間町告森・黒井地地区診断報告書』(以下報告書④と略す)によれば「北は法華津山脈を境として東宇和群に、西は法華津山脈によって吉田町(現宇和島市)に、南は泉ヶ森により宇和島に、東は三間川流域の平坦地をもって広見町(現鬼北町)に隣接して」おり、三間町の中央を東に貫流する三間川の流域は、自然に開けた平坦地をつくり、標高150mの自然盆地を形成する水田地帯である。又この三間川に併行して東西に鉄道及び道路が走り、四周の山脈に散在する村落は、この道路より八方に伸びた交通網によって結ばれ、その大半は概ね5㎞の半径に包合される格好の集落地帯で、人家迄の最遠9㎞、東西10.5㎞、南北7.9㎞、面積5672平方㎞の規模をもって」、「気候は温暖、多雨で冬季における降霜、積雪日数も少なく、風水害等自然災害の発生率は少ない。耕地1.150ヘクタールは地味良好で、気象条件にも恵まれ水田は水稲に、畑は野菜、果樹栽培等に適している」。報告書が発行された昭和53年「人口7,457人、戸数2,039戸、宇和島市のベッドタウンとして住宅化傾向にある」。

この報告書以外で概況がわかるものとして、B氏のメモ(昭和40年代のものと思われる)で「(前略)人口は7500人、戸数1950戸、農協正組合員約1500戸、内専業農家300戸(の)中山間地帯で良質の三間米で有名なところ」で「交通路は国鉄宇和島線と主要地方道宇和島―窪川線が走って居り、三間町の中心地、宮野下から宇和島まで車で112分で行け、宇和島とはとても緊密」(( )内は筆者が記した)になっている。昭和39年に県で初めて地区診断が実施された広見町(現鬼北町)下大野に比べて、平地に位置し、産業ともども構造的に異なる。

人口推移については『三間町黒井地地区の保健活動~15年間の活動の評価と今後の課題~』(以下報告書⑤と略す)で黒井地地区診断が行われた昭和50年が7,247人、昭和55年に7,353人、昭和60年に7,279人、平成27,036人、平成47110人と変動している。増加しているのは、宇和島市内に勤める人が増え、先に記したように「ベッドタウン化」しているからである。人口の大きな変動推移はないものの、高齢化が進行し、昭和60年に既に18%を越えていた65歳以上の老年人口の割合は、平成2年には22.4%に達し、世帯数では核家族化の進行している。

 

【産業】

 主産業は、『増田・則地区診断報告書』(以下と報告書①と略す)によれば、増田・黒井地両部落共に稲作農業が主体。三間米を育てていた。また、報告書④によれば「米作の上に畜産、果樹、養蚕、タバコ、野菜、花キが導入され」ており、「タオル工場、小規模縫製工場が農家の主婦労働力を吸収している」。報告書⑤によれば「昭和55年に第三次産業従事者が第一次産業従事者を越え、農業主体から第23次産業に推移を見せているが、地元での産業は乏しく、勤務者の多くは宇和島方面に出ているのが(平成5年の時点の)現状である」と述べている。

 増田、黒井地それぞれの産業構造は少し異なる為、別に述べてみると。増田は、米を中心に、畜産、果樹、栗などの栽培が盛んであるが、増田そのものの産業構造のはっきりした文がない為、判然としない点が多い。後述する黒井地との差はほとんどないが、農業の機械化、農薬の使用などが盛んに行われたこともあって、特に農薬危害に関する被害が目立つ。そのために、増田では地区診断の中心的な取り組みとして農薬危害の調査と対策に追われることになった。

黒井地は米を中心として畜産、養蚕、タバコ、玉葱、ハウス栽培でトマトをつくり、山林経営などを行っていた。報告書⑤によれば気候に適したキャベツ、キュウリ、いも、栗などが栽培され、(平成5年時において)キュウリは推進作物、キャベツを契約栽培と指定し、米作農業を補完しているが、価格の低迷のため安定した収入源にはなって」おらず、農業従事者の割合が男女共に減少し、逆に勤務者の割合が増加し、若年層を中心に農業離れが進んでいる。黒井地の地区診断はこうした兼業化、外へ勤務へ行く人々の過労が目立つことから実施されたとされている。

米作については、昭和38年に農業が月給制を導入したため(それまでは出来高に応じて支払われるシステムだったが、一定の収穫があるものを前提として月払いにした制度)、農業経営の在り方が問題視され、経営を安定するために酪農や養鶏に手を出す農家が増えた。昭和40年頃から代掻きや田植えは機械の導入により、牛や人間の手から機械へと徐々に移行していった。農業が楽になると同時に、機械を購入するために借金する農家が増え、それを契機に農業と他業種との兼業化が進むようになった(「機械化貧乏」という)。

 

【地区の外観】

 増田・黒井地部落は当時それぞれ、40(上・中・東・西の各組)120(大下・竹中・西前下・西前上・西谷・東谷・源造の各組)あまりの家があった。地区の中は組に分かれ、さらにその下には葬式組を有する。地区診断で住民との直接的対話となった組の集会は、増田は集会場を提供し、黒井地は組長宅を会場としていた。地区診断以外でも普段より、組単位での集りが多く持たれ、婦人会もその組ごとのグループが存在する。婦人会や農協婦人部のグループ活動は増田では集会場を中心に行われていた。料理教室も集会場に炊事場が据え付けられているためそこで行われた。黒井地は集落が大きいこともあり、婦人部のグループ活動はほぼ組単位に行われ、組の家を提供して集まって話し合いがもたれた。料理教室などの実習については集会場を利用することになっていた。

 地区の組織構図は、区長を先頭に、各組の組長ありその下に各戸が属する形になる。区長は行政の総務に委託されている。昭和45年の『増田・則地区診断報告書』(以下報告書①と略す)の記述によれば、年俸20000円の助成が町からなされていた。組長については、日当700円の助成が町からあった。組長の選出については、各戸の輪番制を採用し選挙などで選ばれるものではなかったという。葬式組は隣近所の付き合いで、葬式に準備する椀などを用意するために作られていた。報告書①によれば、昔は組長を各戸の立候補制で成り立っていたが、兼業化が進む昭和40年代以降になって立候補するものが現れず、各戸で回して務めることとなった。

 婦人会は地区の組織に含まれるが、行政の総務とは別で教育委員会の管轄になる。婦人会組織は会長を筆頭に会計そして会員という形に成り立っている。増田は戸数が少ないため、一つの地区で婦人会が構成されているが、黒井地は一応一つの地区単位で婦人会がもたれているものの、活動は組のグループ活動が主体としてなっていた。また、地区に属する婦人会と、農協に属する農協婦人部が併存しており、増田や黒井地は農協の強い支援を受けていたこともあってか、婦人会と農協婦人部の区別はほぼないに等しい。会への入会は、嫁いだり婿を取ったり結婚を契機にして入会することになっている。特段年齢制限があるわけではない。

 男女及び嫁姑間の発言の在り方については、特段差があるわけではない。女性の発言権は保障されているし、婦人会や婦人部のグループ活動に出席するからといって家庭に気兼ねするような人はほとんどいなかった。後述するが、嫁と姑間の亀裂というものは家の構造上ほとんど考えにくい。この地区は地区の連帯ができていて、そこに女性の参加も率先して行われており、嫁や姑という区別もさほどない。

 

【地区の生活模様】

昭和40年代前後、黒井地では家の規模によるが、自分の家は田地を78反耕していた。増田では最大で15反、標準で67反の面積を有していた。但し、家の規模や農業経営の在り方によっても異なる。さらに、昭和45年以降から区画整理が本格化した。

また農家経営の計画性を持たせるために導入された月給制のおかげで、機械化が進んでいる。増田の場合、昭和44年から農薬危害を受けて地区診断が行われていた折は、まだ機械化がさほど進んでいなかったが、その後の昭和50年に黒井地の地区診断が行われた折においては機械化導入によって月給制でも農家経営が難しくなり、借金を返すために町外へ雇用を求めるようになった。こうした農業の機械化が進む一方で、機械で植えつけられない部分についてはどうしても人力で行わなくてはならず、そのため素手や素足を水田に長時間つけていることから、「冷え」になりひどくなると膀胱炎を発症する人、農夫症になる人が多くいた。農業労働の機械化に進む過程における問題は、「冷え」だけでなく農薬散布にもつながり、増田は農薬の散布による中毒症状が見受けられることから、地区診断の折に盛んに農薬散布の在り方について話し合いがもたれている。

当時の生活動態を知るうえで重要なのが、昭和34年頃より盛んに農協婦人部を中心に行われていた家計簿記帳である。農家経営の収支や家計で用いる費用の動向を数値化して表すことは、家庭の状況を把握することにつながった。指導は農協の生活指導員、普及所の生活改良普及員らが担当している。農協婦人部の活動を通じて女性の在り方を見るとこの地域の特色が明らかになる。

三間町増田・黒井地両部落では、嫁に入る(婿を取る)と姑からオモヤ(母屋)を明け渡され、同時に財布や炊事の権限も移行することになる。姑はオモヤの隣に併設されるもしくは別棟のヘヤ(オヘヤ、部屋)に隠居することになる。ここで重要なのは、このヘヤは炊事が別になっており、風呂も別である。つまり、経済生活が一つの敷地内で別に設けられるということになる。A氏によれば家の経済を安定化させるための方策として取り入れられたものではないか、土地の分配や家の財産をなるべく平等にし、家の中で貧富の差が出ないようにするためではないかと考えられている。このため、嫁が姑の目を気にして生活がしにくいということは意見として出てこなかった。ただ、報告書①によると、食生活の面でも別になっているため、ヘヤの食事が栄養バランス取れたものになっているかどうか、それを把握するのは困難であったという風な意見が述べられている。

食生活については、増田・黒井地ともに三間米の生産地であったことから、白米が食卓に上ることが多く、麦飯もあったが、麦のみという家庭は聞き取りの中では出ていない。副食は自家栽培されている野菜(緑黄色野菜は乏しい。田の畔を利用して大豆が取られていたこと)や、行商から買った魚(地区診断の食生活調査で副食の大きな割合を占めていたのが魚類である)がのぼり、その他味噌汁(自家製味噌)や漬物(奈良漬けなど)があった。昭和40年代当時の食生活はさほど貧しいようなものではなかったと考える。但し、報告書①の食生活調査においては良質なタンパク源の摂取の不足、緑黄色野菜のビタミン群の不足に対し指導している部分も見受けられる。調理方法は、油を用いた揚げる調理法もあり、油脂類をとる習慣は当時の生活にすでにあった。

その他、増田・黒井地ともに農業の担い手は基本夫婦ともに行うが、夫の理解もあり婦人労働が過労になるようなことはあまりなかったという。増田は特にその傾向が強く、女性に対しての労働負担は少なかった。ところが、増田以外の地区になるとそれはまた異なり、農業経営に女性も参画し、その分過労などのことも問題視されていた。黒井地が地区診断を行った折は兼業化が進み、夫の出稼ぎ、妻の日雇い労働することがあるため、その兼業化による健康被害が著しく出ていた。昭和40年代頃の増田地区においては専業主婦が多く、外に勤めに出るとしても男の人ぐらいだった。そのため、「おなごは楽じゃ」といわれることがままあった。専業主婦が多かったため、家の中が荒れてしまうということはなく、常にきれいな状態がなされており、天井をも掃除をするという。オモヤは嫁が、ヘヤは姑が管理している。子育てについても、一応オモヤで行うことになっているが、子どもが小さいころは野良仕事に出るときは子どもをヘヤの姑に預けて出る場合もあり、それに対する姑の理解も深い。子どもは組や地区の中で面倒をみることをしていた。子どもの見送りや出迎えは、家から出て挨拶していた。隣近所の繋がりがしっかりしているため、隣近所の経済や生活状態の把握が常にされていた。だから気安く心やすかった。

 

3.地区診断と農協婦人部(報告書①から④、B氏直筆メモ①と②を参考)

   地区診断への道

報告書①と『共同保健計画資料 三間町健康で明るい町づくり運動』(以下報告書②と略す)によれば、三間町では昭和29年、家族計画グループが出来たことを契機に、地域の環境衛生に対する関心が高まり、昭和35年母子保健センター設置とともに母子保健側からのアプローチがなされていく。それが昭和398月に総合的な地区衛生の組織化が図られ、町行政と農協や保健所主導による「健康で明るい生活」を目指す取り組みが300000円の予算編成で実行された。この時、衛生委員というものが各地区に委託任務されることになる。増田では1名、黒井地では3名と部落規模によって任命される衛生委員は異なる。衛生委員は地区を巡回し、台帳を基に健康診断を行うことをしていた。この健康診断の結果、町全体で気管支系疾病が多くみられることが認められ、そのための措置としてインフルエンザ(感冒)の予防接種が叫ばれ始める。尚、この診断による集計結果は公表されていたかどうかは不明としても、ある程度の地域住民に対して健康促進を促す役割を担ったものと考えてよい。

健康診断の過程において町ぐるみでの健康の在り方を問い直すことが具体的に取り上げられてきたのであるが、この健康診断は何度か行われ、そのたびにその問題性について議論がされてきた。そこで話し合われた内容から生活にかかる問題を取り上げ、その解決手段の模索、解決の方法、解決への道筋を問うたのが地区診断であった。この地区診断には多くの関係者がかかわりを持っており、それこそ共同封建計画であるのだから、その連携の在り方が関係者はもちろんのこと地区住民においても理解されなくてはならなかった。

 

   増田地区診断と黒井地地区診断

【増田地区の地区診断】

地区診断が行われたのは昭和44年、増田が最初である。A氏によれば、地区診断は先の健康診断から得られた情報を基にし、そこから見出した問題の中で農薬危害がその当時の農業経営、生活において重要な課題であるとしてこれを調査する目的になされていた。報告書②を確認したところ、地区診断自体の具体的な道筋としては地区の健康管理活動を促すことと、農薬危害の防止策の検討を組集会単位に行い、啓発教育から始まり住民の意見を取り入れながら生活母体を起点にした問題提起を行うことになっていた。健康診断においてはさほど目立った疾病があるわけではないが、農業経営における農薬などの劇物の扱いにおいて不安が残るという結果が出ていた。

また、昭和45年の地区診断は、先の昭和39年に行われた下大野地区と違い、農村医学センター、生活改良普及所、保健所、県、町、公民館、農協などだけでなく組や地区の住民が自主的にこの活動の中核を担っているところに差がある。下大野は初めての取り組みであるから、その組織構成において、行政や県などの主導であり、地区診断を企画した一人である稲葉峯雄氏は単に行政主導のものになるのではなく、地区住民の取り組みに姿勢を見出すことの方が重要ととらえていた。その意味において、増田地区の地区診断はそれが具体的に取り上げられるきっかけになったと考えてよい。最初から地域住民の主体性を、自主性を尊重した形の取り組みがなされていった。

地区診断は健康診断に基づく医学的な診断としてのものと、地域生活の実態調査としてアンケートや聞き取り調査を行っている。その中で出た問題点を専門委員会で話し合われ、各部門の課題として上る。それをうけて組集会ではそれを俎上にして具体的な取り組みが図られるようになった。特に増田地区は道草の会を中心として農協婦人部の集まりがあり、婦人の行動を動力源に組の健康管理体制が活発化していった。勿論、この集まりは多くの関係者が関与している。農業改良普及員、生活改良普及員、公民館、そして保健婦らであった。C氏によれば、こうした活動は組織的に、また啓蒙的にならずにそれぞれの立場がそれぞれで討議しながら行われたという。単なる教育的な指導方針としての取り組み出なかったことが明らかである。

 

【黒井地地区の地区診断】

 報告書④によれば、昭和50年に黒井地地区の地区診断が始まった。この地区の診断は昭和40年代以降に増加した兼業農家、特に農業経営では生活が苦しくなり、農業の他に宇和島などで日雇労働者、さらに遠方への出稼ぎ労働者に過労が目立ち、そのためにこうした労働者の環境をどう考えるかという課題を基軸にした取組であった。特に男性の出稼ぎ労働による負担が大きく、地区には女性が農業経営を任される場面が多々あったため、それによる農夫症などが大きく取り上げられた。貧血、高血圧症などの問題は先の増田地区とのあり方と共通する部分があるが、兼業農家に特化したのが黒井地地区の特徴である。

当地区においても昭和39年の町で行われた健康診断が大きく影響を与えていたことは間違いない。3名の衛生委員を地区内に置き120軒あまりの家々の健康管理に勤めていたこと、さらに昭和39年以降、東谷グループを中心とする農協婦人部の集いが多く開かれ、昭和43年頃には地区の健康問題もさながら、農業問題や男女の問題などについて意見を交換し合っている(B氏直筆メモ②)。現在確認できるだけで昭和43年に3回、B氏宅でその集会が持たれていたことが記録としてわかる。B氏のメモから読み取れるのは、単にこうした話し合いの記録というだけでなく、行動を記録するという積極的なグループ単位での勉強会の姿勢である。増田の道草会にしろ東谷グループにしろ、そうした積極的な地区診断への関与、さらには社会教育的アプローチの在り方は注目に値する。

 

4.農協婦人会の歩み(『農村医学センター』(報告書③と略す)、B氏直筆メモ①参照)

 農協婦人部は昭和28年三間村、成妙村、二名村の三地区の農業協同組合正組合員から婦人部会として発足した。昭和29年に三か村が合併し三間町となり、その後昭和39年に三地区農協が合併し、三間町農業協同組合となった。同年、農協婦人部も三間町農協婦人部という組織体系となった。婦人部の活動は主として営農、生活設計、購買、健康、文化、酪農の6つの部会によって構成されていた。生活設計では、合併以前の昭和34年頃から家計簿記帳運動をはじめ、月給制が導入された昭和38年を契機により一層の計画的予算生活を推奨する活動を展開していく。購買は、生活資材の年間予約を行い、消費の計画性を持たせる運動を行うなど、先の家計簿記帳運動とともに農家経済の把握に一石を投じたと考える。この指導には農協が関与している。

 昭和41年になり農協月給制農家の婦人部員の会が町農協で行われ、そこに稲葉氏、農村医学センターの山根医師らが出席し、昭和39年より隣町の広見町下大野地区における地区診断について話がもたらされる。これを機に、農協婦人部は健康問題について積極的な取り組みをしていく。その一環として設けられたのが主婦農業学校である。婦人部員による学校で、講師には保健婦や改良普及員らがでて年に9回(45時間)の学習機会を設けることになった。この学校を卒業したものがつくったのが、東谷グループや道草会、山彦グループなどの集まりであった(報告書③より)。

B氏直筆メモ②によれば、東谷グループは農繁期の労力の軽減と栄養改善のために共同炊事、月給制導入による生活設計のための家計簿記帳運動への取り組みが見られる。また、その集会では様々なことが取り上げられ話し合われている。最近の作柄から始まり、男女の生活意識の差などを具体的に議論し深めている。冊子にもまとめられ各戸で読まれていた。加えて、健康については農村医学センターの指導を受け農夫症、農薬危害、貧血などについての話し合いを持ち、共同保健計画に基づく地区診断の下地をつくることになった。

また、報告書③に記載のC氏の記録によれば、昭和41年に道草会が結成され、家計簿記帳運動、読書会などの経済文化活動にはじまり、胃の検診活動を行うなどをおこなっていたという。この二つのグループ活動はそれぞれ問題意識が異なるものであるが、昭和44年と昭和50年に行われた増田と黒井地地区診断に大きな影響を与えたと思われる。

 

5.地区診断を振り返ってわかるもの

 地区や組の繋がりが強く、婦人会、農協婦人部を中心に活動が活発であったことから、地区診断における組集会の参加の在り方、勉強の姿勢は増田・黒井地ではかなり教育体制が既に整っており、地域の教養の在り方は進歩的であったと考える。地区診断はその組の在り方にかなりマッチしていた。地区ごとによって差異はあるが、組単位の集まりに対する人々の想いが強いところが増田と黒井地の特徴ではないだろうか。特に農協婦人部によって構成されたグループ活動によって組の結束が補強されていることからもわかる。

 ただ、昭和40年代後半から50年代に入り、外に雇用を求めるようになると、そうした繋がりも希薄化していくこととなった。大きな人口流出が起きているわけではないが、宇和島市中心部へ勤めに出る人が多く、ベッドタウン化してきているのが最近の傾向である。そのため、組や隣近所の結束はほぼ高齢者が中心になってきており、若い世代は土日ぐらいにしか日中家にいないためか、組などの集まりに顔を出すことは少ない。また、孫世代においては以前まで習慣化していた隣近所への挨拶する機会が減り、お年寄りらが道端で出迎えても挨拶を返さない場合もある。B氏、C氏らは地区の高齢化が進むとともに、より以前の地区や組、隣近所でのつながりは大事に感じられ、家の中で自分がどこにいるかを家族や近隣に知らせるようにして生活の中に活かされている。慣習化された付き合いの中においてこうした行動は、昔はごく自然な行動であったのに対し、昨今では高齢者の健康確認、所在確認にいかされている。こうした現状から、組での繋がりは高齢化していき、その活動も高齢者間がほとんどになっている今、若い世代にこのつながりの在り方を顧みる必要性があるように感じた。

 地区診断は確かに共同保健計画に基づく保健活動の一環であったかもしれないが、稲葉峯雄氏のいうように、地域の問題を地域で解き明かす機会でもあった。『草の根に生きる』で記されているように、地区診断は一つのきっかけであり、その後に組の中でグループ活動が芽生え、それが育っていくことが地区の将来性にもつながるものであったのだろう。だが、現実的に今それが少子高齢化とベッドタウン化でより一層の集まりの不安定さが目立つようになり、芽生えるグループ活動も衰退化してきている。組内においても隣近所においても世代によって感じ方が変化し、その付き合いのあり方さえも希薄化が進むなか、これをどう解決するかが問われている。

 

6.まとめにかえて

 本報告は四名の方々の話し合いの中で出てきた内容と地区診断当時の資料類を筆者なりに整理してまとめたものである。若干の考察事項は加えたが、それはこの地区診断を単に学問内の保健活動の歴史的経緯として理解するのではなく、現実的に地区の連帯意識を再確認する機会であると思い、地区診断から見えてくるものとして考察を加えてみた。過去の問題は過去に起因し過去に集結するのではなく、現在にまでの繋がりの中で、それこそ現在地区が抱える組や隣近所の繋がりの希薄化に結び付けるものとして描いてみたいと考えた。論文でこうしたことを書くことが果たしてできるかどうかは別としても、私が目指したいのは地域住民とこうした会話を経て、思い起こすときに今の生活に足りないものは何かを気づいてもらい、それを土台にじゃあどうすればそれが足りるようになるのかを考える土台として利用してほしいと思う。私個人の本意として論文はあくまで過程であって、結果ではないことを望みたい。

 報告書としての今後の課題としては、第一に地区診断の具体的な動きが報告の断片的な記録であるため全体像がつかめず、住民の動向が不明確なため、これを歴史的経緯の中で位置づけるにはまだまだ資料的に不足分があること。第二に保健婦(A氏)、生活指導員(D氏)の診断側の活動が具体的に描けていないことが挙げられる。この課題への取り組みとして今後の調査を再度行い、さらに別の視点からの地区診断の様子を確認するなど、出来る限り地区診断前後の生活模様の変化や、地区診断自体の具体的取り組みを描いていきたい。

 

参考資料:

稲葉峯雄『草の根に生きる 愛媛の農村からの報告』(岩波書店 1973

「農協婦人部集会発表原稿」(B氏直筆メモ①:1970年代後半)

「黒井地部落の名もない集会に参加して-集会参加者の声-」(B氏直筆メモ②:1968)

三間町、宇和島保健所、愛媛県衛生部鬼北農業改良普及所、北宇和病院農村医学センター、三間農業協同組合編『三間町増田、則地区診断報告書 19703(報告書① 1970)

宇和島保健所、三間町編『共同保健計画資料 三間町健康で明るい町づくり運動』(報告書② 1964)

愛媛県立北宇和病院農村医学センター編『農村医学センター No.7(報告書③ 1975)

三間町、宇和島中央保健所ら編『三間町告森・黒井地地区診断報告書』(報告書④ 1978

三間町、三間町国民健康保険ら編『三間町黒井地地区の保健活動~15年間の活動の評価と今後の課題~』(報告書⑤ 1993

 

   鬼北町(旧広見町)下大野地区診断及び農村生活調査報告

はじめに

 本報告は愛媛県の地区診断の在り方と、農村生活の変遷について調査をしたもので、その原点と云える旧広見町下大野地区の在り方を見つめなおすものとなる。調査は平成2576日から8日にかけて鬼北町(旧広見町近永、下大野)を中心に調査を行った。6日は保健師との集いの場を設け、そこで保健師の現状と、地区診断当時の話について若干触れることにした。但し、地区診断の話よりも、保健婦経験者と現役保健師の家庭訪問をめぐる話が中心であったため、ここでは其の議論については割愛したい。調査のいきさつは、平成256月に愛媛県立博物館をたより、愛媛の保健の歴史関係の調査をしたいという旨を伝えたところ、八幡浜保健所を紹介していただいた。その際、稲葉峯雄氏の『草の根に生きる』を読んで、地区診断と農村との関係性について調査したいので話を伺えないかどうかを伝えたところ、関係者が各所にいるからその関係者に連絡を取ってみるとの回答を頂いた。その後、八幡浜保健所より鬼北町近永にある広見町健康センターでの会合をみることになった。

その際、鬼北町の元保健婦から下大野地区への案内を願い、翌日7日に地区に入り、下大野地区集会所にて、A氏(昭和初年生まれ、下大野中組)、B氏(昭和初年生まれ、下大野中尾坂組)、C元保健婦(旧広見町町保健婦下大野地区担当)、D保健師(現鬼北町保健師下大野地区担当)らから、地区診断当時の話を聞いた。その前後にE氏(昭和10年代生まれ、下大野中尾坂組)とF氏(大正10年代生まれ、下大野上組)、あと御開山地区のG氏(昭和10年代生まれ)、H氏(昭和10年代生まれ)の両氏から話を伺った。

本報告では下大野地区をめぐる地域環境、社会環境とその後の地区診断へのいきさつ、さらに地区診断後の健康への住民の関わりと現代への問題点を顧みることにしたい。

 

1、「地区診断」を求めて

(1)地区診断を調査するにあたり

 平成2577日、鬼北町下大野地区で地域調査を行ってみた。本調査は当初、地域住民の方々に地区診断が行われた昭和39年前後で生活がどのように変化したのかを聞くことを主目的にしていた。地区診断報告については実は既にその報告書自体刊行されている。現存資料として広見町保健センターにて保管されているし、多様なメディアによって取り上げられ掘り下げられている。しかしながら、筆者がこの調査をするに至ったのは以下のことがあったからだ。

 稲葉氏の『草の根に生きる』、亡くなった後に編集された『稲葉峯雄の残したもの』、『農村医学センター』、『広見町健康センター』その他地区診断が記されていた著書と論文を鑑みるに、その活動は成功裏に終わっていること、また地区の健康意識を数値的に取り上げたとき、それが結果的に良い方向に向かっていたこと等が記されているが、実はそこに住民の顔や行動に関する記述はなかった。なぜそのように住民の顔が見えない事態になったのだろうか。稲葉氏は地区診断を介して地区へ報告し、地区の中で話し合う健康会議の設置、またその下に設けられた各部会(食生活改善部会など)、さらにその下に設けられた組集会などというように、組織的に住民が主体性を持って参画できるように仕向けていたはずであるのに対して、『草の根に生きる』にも『稲葉峯雄の遺したもの』にも、他の論文報告書にも、住民の意見がどうであったのかということが見えていなかった。

筆者は、記録として歴史的には成功した地区診断が、地域住民レベルにおいて果たしてどのように理解されていたのか、どういう風にそれを地区の生活に取り入れ成功に導いたのかを知りたいと考えた。そのために、話者に対して再度「地区診断前後の生活はどのようなものであったのか?」という質問を繰り返し行った。

 こうした質問をするには、その当時を詳しく知っている人を限定してしまうケースがあるが、別に筆者自身はそれを知らない住民であってもよいと考えている。その地区診断の実態云々も確かに重要ではあるが、地区診断後の生活において地区診断がどう評価されていたのかに関しても興味があったからだ。本節では聞き取り時の語りをそのままにして、その内容から読み取れる地区診断への人々の関心を描いてみた。

 

2)地区概要(『農村医学センター』第一号より)

【地理的概要】

 下大野地区は愛媛県西南部、北宇和郡の中央部に位置し、宇和島市東部の広見町の北東部にあたる。四万十川の最上流広見川の支流下大野川に沿った標高200から300メートルの山脈の谷間に集落を構える純農村地帯である。昭和30年に好藤村、愛治村、近永町、泉村、三島村が合併し広見町となり、現在は平成17年に日吉村と合併して鬼北町という名前になっている。鬼北町の名前の由来は、この地域が鬼北盆地に位置することからである。

 気候としては平均気温が昭和40年代において15.70℃。最高気温21℃、最低気温11℃と年間を通じて暖かい気候区分にあったが、盆地の為寒暖の差が激しいところでもある。年間降水量は240.3㎜となっており、夏は高温多湿な気候にある。

交通は国道と県道が網の目に走り、現在でこそ伊予線の深田駅、近永駅、出目駅がありそこから下大野地区へ行くことも可能であるが、主要交通手段は車やバスであり、どこの家も車を主有している。昭和30年代はもっぱら宇和島市から出ている一日13往復の国鉄バスを利用して来町であり、不便な地域であった。教育施設は、下大野にはなく隣の地区の小松にある小中学校に通い、御開山組には分校があった。但し、児童福祉施設として下大野には保育所があり乳幼児保育を行っていた。

医療施設も隣接の小松に国保直営の三島診療所と歯科の開業医が一軒あるのみで、地区の奥、御開山地域からは8キロ前後とかなり離れた位置にある。このような立地のため、結核患者を早期発見することは難しく、さらに下水道が整備されていなかったために汚染された水等から感染する赤痢や、当時の食習慣であったモクズガニを食して寄生する肺ジストマの多発地域であったことから、保健婦や開業医、保健所などがこれを問題視していた。

 

【生業】

 主として農業を中心として行っていたが、経営規模は平均5.5アールほどの零細農家が多く、林業によって収入を補っている。しかし、昭和30年代においては林業もままならず、長期、短期による季節労働、出稼ぎや日雇が多くみられるようになっている。

 栽培作物は、米麦が中心となるが、昭和30年代より林業と合わせて酪農や畜産に従事する家が多くみられる。その他、果樹とくに栗の栽培や養蚕なども行われており、多様な生業形態をもっていた。出稼ぎや日雇が多いのは先にみたとおりであるが、出稼ぎは男性が中心で京阪神へ、日雇は女性が中心でメリヤス工場や土木作業へと出ていた。そのため、農業は所謂「三ちゃん」農業という経営になっており、尚且つ若い嫁は日雇労働に出ていることからその健康に関することが取りだたされることも多くあった。また、出稼ぎ先で結核にかかりそのまま帰郷して、そこで家族感染を起こすという被害も出ている。

 

【村政】

戸数184戸、人口842人に減少している。減少の原因は零細農家から兼業農家へ、そして宇和島市へ勤めに出る人が昭和30年代より多く見られ、そのために市内へ居を構える人が増えたことが挙げられる。但し、この背景は単に零細農業という原因だけに限らず、交通の不便さ、医療や教育に恵まれていないなどのことも考えられるため一概に生業母体の移動によるところに原因を見出すのは早計かと思われる。

 下大野は昭和30年代頃9つの組からなっていた。奥から御開山組、坂立組、奥組、上組、中尾坂組、中組、東組、西組、町組である。尚、御開山組に関しては昭和39年少し前に下大野に組み込まれていたため、それ以前は御開山それひとつで独立していた。地区で区長がおりその下に各組の組長が行政機構としてある。その他に組織として婦人会があり、地区において支部が置かれている。青年団などの年齢組織についてははっきりとした記述がない為、現在のところ分かっていない。

 

3)地区診断に関する語り

①A氏の語りから

「私は地区診断のことをなんも知らんけん。参考になるかわからんよ」と語るE氏(中尾坂)は、昭和10年代に当地で生まれ、集団就職で一度県外へ出ていたが、丁度地区診断が行われた昭和39年に下大野に結婚を契機に戻ってきた。A氏は地区診断の折は20代、結婚して婦人会に名を連ねていたが、健康会議や組集会には姑が出ていき、自分は姑から話を聞くのみだった。姑から伝え聞くに組集会では減塩対策などの食生活改善指導が、保健婦の手によってなされていた。内容的には栄養素を細かく記録することを教えており、一週間に何を何グラムとったかということを記して逐次保健婦に提出していた。このことについて、E氏は「あの何グラムっていうのがわからなかったけん。なんというか、わずらわしかった」と振り返る。他にも便所の清掃などの指導があったが、それ以前(地区診断以前)から消毒液をまいたりしていたから、特段指導があっても別に地区診断が行われたからそれに沿って改善したわけではない。

また、E氏は昭和40年代後半からメリヤス工場で働きへ日雇労働に出ていった。その日雇いはE氏によれば「昭和30年代当時からよく、地区(下大野地区)の人は外に出よったと思うけん」と語り、当時の地区外労働がはやっていたことを示唆している。後に述べるが、他の話者も同じく地区診断が行われた当時は、地区で農業をやっていては生活ができない。現金収入が少ないといって、夫は季節労働として出稼ぎに出て、妻は少しでも蓄えを増やすために農業以外に土木関係の日雇労働に出ていた。時には木材をキンマ引きで引くなど男性並みの労働をして、製材所へ出すことも行われていたようだ。こうした地区外労働者の健康に対して、地区診断はどこまで影響を持っていたものなのだろうか。次いで、筆者は「(稲葉峯雄氏の著書や地区診断関連の論文などから)当時貧血の問題が持ち上がっていますけど、働きすぎではなかったのでしょうか」という質問をぶつけてみた。すると、「確かに貧血とかいわれていたけど、仕事をやめるわけにはいかんけんね。なるようになるって思ってたけん」と貧血対策に対して消極的であった。

また地区診断とは異なるが、保健婦が行っていた家族計画のことに対しても、E氏はこのように述べていた。「家族計画っていうのがあるっていうのを聞いて、迷ったけど指導を受けたときがあるけん。だけど、あの時は姑からの目が怖かった」という、なぜ怖かったのかと聞くと「私の生んだ子どもは女やけん、世継ぎにならんけん。それやからまわりから『次の子は男ぞ』といわれよったけん。(期待されることに)つらくてつらくて。それに経済的にも三人目を産む余裕はなかったけん。どうしようかとおもっていたところに家族計画指導があったけん、(夫に相談して)しかたなしにやったんよ」、「でもお義母さんは、産んでくれといいよったけん、どっちに転んだらいいかわからんかった」という。後に義母にそのことのことを話した時「あの頃は、世継ぎがおらんといけんかったけんど、よぉくかんがえよったら、あんたがただしかったなぁ」って言ってねぎらってくれたという。それを聞いて「ほっとしたけん」と話す。この語りから読み取れるのは、保健婦が提示した家族計画というのが、実際個人がそれを遂行する段になった際、やはり子どもが多ければいいという古い考え方と衝突することが多くあるとのことだった。特に世継ぎの問題に関しては敏感であったことがうかがい知れる。

 

②B氏、C氏の語りから

中尾坂の下大野集会所にてA氏、B氏それぞれにC元保健婦、D現保健師立ち合いの元、地区診断のことについて語ってもらった。A氏、B氏ともども昭和初年頃の生まれで、昭和20年代に結婚した。同じ時期ぐらいに婦人会に入っていたという。

 B氏は地区診断が行われた前後の生活をこう振り返る。「嫁は姑に言われたことは何でも聞かないけんかった。今思うと『おしん』みたいな生活やったけん」。朝から晩まで仕事していた。現金収入が農業だけでは難しかったから、方々へ出稼ぎや外へ仕事を見つけに行く人が増えていた。そうやって働きづめていたから、自身の健康や子育てのことなんて何一つしてこなかった。子育てにはしつけのことで姑ともめることも多く、保育園(下大野地区にあった)に子どもが一歳になってから入れられるようになるため、それで入園させていたけど、それ以前は姑が子どもを手放さなかった。保育園に入れたことを姑が子どもに「かぁちゃんはバカじゃけん」といっていたこともあった。とにかく、働くことで精一杯で子どものしつけは全部保育園任せだったし、あまり子どもにかまってやることもできなかった。

昭和27年から38年の間の10年間に肺ジストマ(モズクガニを食べて寄生虫が身体の中に入り、最終的には脳を侵してしまう病気)や結核なんかが流行しても、診療所が小松にあるけど予防には間に合わず、またそれで死んで行く人も多く、どうしようもない状況だった。生活は貧乏だったし、衛生面に気を付けることもなければ、そのまま放置な状態が続き、ついに昭和39年前後に立て続けに赤痢が出てしまった。

これを契機に県の共同保健計画として下大野地区をモデル地区に指定し地区診断が実施されるようになった。地区診断の詳しい内容については次節で取り上げる。この地区診断は、ただ単に保健所や農村医学センターが中心になって動くのではなく、住民の参画が求められており、健康会議や組集会などが活発に行われ、婦人会では食生活改善部会で話し合われた内容を年間計画にして、それを組集会で再考し、実行に移すという形をとっていた。当時、そうした話し合いは組長宅で行い、婦人会長などとも多くの意見を交わしていたという。そのおかげもあって、健康意識が芽生え、栄養のある野菜をつくろうと、家の畑の一部を緑黄色野菜の畑にするなど精力的に行った。ところが、またしても姑とこのことでもめることとなったが、栄養のことは自分たちで何とかしないといけないと思い、姑を説得してでも野菜の栽培を続けた。

A氏とB氏両名が言うには、「言い方はなんだけど、赤痢のおかげで、地区のみんなが自分の健康を気にするようになったけん。今思うとよかったとおもいますけん」また、「地区診断によって地区の連帯ができとったけん。みんなで集まって問題解決するのにいいたいことをいっとたけん。それで楽になったこともありますけん」という。

 

3)地区診断に関する地区住民の評価

 A氏からC氏、三名からの聞き取りから得られた情報を整理すると、地区診断前の生活環境は次の三つの問題があった。経済的にもかなり切り詰めた生活がなされていたこと。そのために農業外労働を強いられ、健康は二の次になっていたこと。嫁姑間での亀裂があったこと。このような三つの問題から、地区における健康は害され、肺ジストマ、結核、赤痢の蔓延が起こる騒ぎになり、地区診断が行われるようになった。

 そうした地区診断に対して家によって差異はあるが概ねよかったと見る傾向と、地区診断のことを全く知らずに、ただ盲目にそれに従っていた人々の視点とがある。A氏が後者、B氏とC氏は前者である。B氏、C氏はD保健婦らの前ということもあり、このことについてあまり触れなかったかもしれないが、地区の全域において地区診断が大きく影響していたわけではなく、段階的にそれこそ上から下へのトップダウン式の指導がなされ、それに組集会は相乗していたのではないかと考える。

 では次に地区診断報告書等に描かれる下大野地区と診断の方向性についてなぞってみたい。

 

2.地区診断報告書類から見る地区診断の概要

1)地区診断への道

 地区診断が始まったのは昭和399月。それ以前より地区を対象とした健康診断は継続的に行われており、そこで結核患者が県下で全国的に見て3倍の数字を見ることになり、さらに肺ジストマ、赤痢などの発生が連続して発生したことから地区診断に踏み切った(『農村医学センター』より)。

しかしながら、この地区診断のきっかけになったものは単にこうした公衆衛生的な要因だけでなく、衛生教育として地区をまわっていた稲葉峯雄氏が鳥取大学の加茂甫氏と出会い農村医学、社会医学的に見て広見町下大野地区を契機に、農村医学の実践的な取り組みとして発展させることを目的としていた学術的関心、社会医学的な見地に立っての実践の場としての要因も大きなものといえる。稲葉氏自身は、この地区診断における組同士の連携の在り方、そこから育つ組の主体的な取り組みを望んでおり、単に医学的、衛生的な見地からだけでなく、衛生教育、教育現場からの地区の育て方としてこれを実施することを望んでいた(『草の根に生きる』より)。

さらに地区における昭和30年代における劇的な生業の変化と生活母体の変化による身体的、精神的な潜在疾病が次々に発露し、労働面生活面での改善が求められる結果を招いたことから、町全体として、その先駆的な取り組みの一つとして下大野地区をモデル地区に選定したこともきっかけとある。

 このような重層的な要因については実のところ報告書だけでははっきりしていない。『農村医学センター』第一号(1966)、『広見町健康センター』第二号(1974)、『農村医学センター』第五号(1970)、つまり地区診断後においてその是非を問うた記事からわかることであり、当時の報告書は現在広見町健康センターに所蔵されているものだけなので、未だその資料調査には踏み切っていないため現時点では、以上の資料と地区診断に取り組んだ、稲葉峯雄氏をはじめとする地区診断関係者による度重なる報告が取り上げられている『公衆衛生』『保健婦雑誌』への投稿論文、稲葉峯雄氏の著書『草の根に生きる』等から垣間見ることをまとめて記したい。

 

2)地区診断の構造

 稲葉氏は、地区診断の構造の基本的根幹を、住民の自主性を守る立場から住民の積極的な参画を促すべく、組集会を末端に添えながら、その上にそれらを統括する組織、そしてそれらを管理する組織を組んでいくことにしている。但し、先に断わっておくが、稲葉氏はあくまでこの組織らをセクト主義的な上から下への命令としておくことをせずに、住民の要求を聴きだし、その上で何が行政として県として出来るのかを専門家と検討を重ね、実施に及ぶという形を理想としていた。

 報告書にはこの主張が活かされているか、実施した地区診断にこれが徹底されていたかというと、実のところ地域住民側からすれば地域の健康を保健所、行政、県、鳥取大学らが自分たちの主張のもとに、住民を組み込んだような形になっていたことは否めない。稲葉氏自身が望んだこととは軌道がずれている実態となっていた。しかしながら、この地区診断後における住民の健康意識を変えたこと、住民の中から自主的な組織が出来上がり、組単位での取り組みが盛んに行われる機会を作ったことは、稲葉氏の意向に沿ったものではあった。地区診断自体は昭和39年に行われているが、その後は健康会議などを何度も行い、その後の経過を追って調査しそのデータを住民に提示しながら、また住民側はそのデータに沿って自分たちでできることを組集会に持ち込み、組単位の活動に転じていることからして継続的な活動が活発化していった。

 さて、こうした持続可能な地区診断にはその構造が一番重要なものとなってくる。ではその構造はどういったものであったのかであるが、まず衛生行政の構造を見ることにする。広見町、町議会と「厚生文教委員会」(何かの略だと思われるが報告書の中でははっきりしないためカッコ書きとする)、それらの下に生活環境課、保健課がおかれ、保健課の下に母子健康センター、三島診療所、広見町健康センター、衛生係、国保係がある。では、次に共同封建計画としての地区診断の構造を見ると、広見町共同保健計画推進協議会と呼ばれる、広見町行政、農業改良普及所、保健所、医師会、公民館などから構成される組織が共同で結ぶ組織が一番にある。その下に町の共同保健計画委員会、健康センターが組織され、下に下大野地区健康管理活動推進協議会があり、これに先の共同参画者らが連携する。そして、その下に下大野健康管理活動専門委員会と下大野健康会議がある。専門委員会は専門家による組織で、下小野健康会議は四部門、環境衛生部会、食生活改善部会、健康管理部会、広報教宣部会という各種部署における専門的な研究会が組織されている。これに参画するのが地区の組が組み込まれる。それぞれに組集会が持たれ、そこから下大野健康会議に問題提示がなされたら、各部門にそれに対処する作りになっている。

 ただ、この組織構造が昭和30年当時に完全な形で成り立っていたわけではない。共同保健計画としてこれらの組織がきっちりと組みあがるのは昭和40年代に入ってからである。昭和39年当時は、実験的な組織として、宇和島保健所、鳥取大学、県、町行政、農業改良普及所、公民館などの組織が、保健衛生面、衛生教育面で組織されていたと思われえる。この構造についての図式化は現時点でははっきりしていないのでここで述べることはできないが、先の構造軸が完成に至ったのは昭和39年以降であることは間違いない。

 

3)地区生活に対する地区診断のアプローチ

 下大野地区の地区診断は、はじまりとして報告書にある通り、結核と赤痢の蔓延による健康被害がきっかけとしてある。ただ、地区診断は、健康診断と異なり、単に結核や赤痢を公衆衛生的に処置し管理するのではなく、健康管理面、根本的な問題としての生活全体における、それらの疾病を蔓延させた原因(加茂甫氏、稲葉峯雄氏はこれを「社会的要因」)を解決すべく、また地区全体の衛生教育を発展させ組織することに意義を見出していた。

 地区診断の最大の特徴は、その機動力が先述したように住民の自主的な参画にある。住民自身が自分たちの健康を省みて、地区全体で取り組めることを行うことこそが地区診断に欠かせない要素であった。そのため、地区診断の地区生活へのアプローチはすべて、組単位における集会を重ねていくことになった。勿論地区全体という形をとる場合もあるが、まずは各戸における生活のことを話し合う場を設け、そこで出た議題をもとにして地区診断の方向性を決定し、専門部会、食生活部門、衛生部門などの部会にそれを問題提示し、そこから解決策を専門家と語り合いながら解決に導くという方法であった。先のB氏、C氏の語りの中にあるように、下大野地区では組集会を重ね、その中で食生活改善などの具体策を行ってきた。組集会は各戸老若男女問わず、様々な年齢層が集まり、そこで決議がなされており、衛生対策としての意味合いもさながら、社会教育的な寄合の在り方を底に見ることが出来る。

 現時点では報告書発刊後に論文等で述べられている地区診断の様相でしかアプローチの方向がわかっていないため、具体的なアプローチがどのように行われ、さらにどのような反応がそこにあったのかということは判然としない。但し、『農村医学センター No.1』にはその当時の語り合いのことが稲葉氏によって記されている。それによれば、別段健康だけの問題を取り上げて組集会で話し合われていたわけではなく、先に述べたように社会的要因としての生活の実態、特に農耕に関する問題や、生活全般に対する疑問点などを多くそこに垣間見ることが出来る。つまり、地区診断の末端における組集会とは、地区診断の中でもその社会的要因をいかに把握することかに特化した集会であり、それを基にして地区診断の組織構成がなされていることがわかる。下大野地区の地区診断が先述のように上から下へのような形で組織されているように描かれることが多いが、それは事業としての組織構造であって、実務的医構造においては組から発せられる信号を、専門家が見聞きし、その上で様々な手当てを行うことこそが理想的な形としてあった。健康診断面においては行政や県、保健所などの専門機関に依拠する部分はあるが、それが上から下へとすべて機能していたわけではないことは、地区診断を考えるうえで重要な事柄であろう。

 

4)地区診断側の評価

 報告書による地域住民の地区診断への統計としての評価はおおむね良好な数値を現しており、この地区診断が一定の理解を得ていたことがわかっている。但し、先の住民の声のように世代によってはそれが浸透せず、いや嫁と姑との間の情報連携の在り方自体がまだ解消されていないがために、嫁への引継ぎがなされていない場面や、農機具を入れるがために借金を背負い兼業化し農業外に収入を得るようになって来ると、組単位で集まることは難しくなり、全戸の周知徹底には至らなかったと推測される。

 また、生活調査過程において、地区住民の生活の悩みに健康診断や地区診断を「めんどうくさい」「(改善するのに)金が必要になる」等との声が上がっており、日々の習慣からの脱出もさながら経済生活の中における地区診断の在り方自体を見直すことが必要となりつつあった。この反省を活かし、次の愛治地区へ地区診断が引き継がれていくのであるが、その後も下大野地区では盛んに健康会議を行い、地区ぐるみで活動がされていく。報告書にはその5年間、10年間の歩みが掲載されており、組組織の連携強化、また診断側のセクト主義への批判とその改善策としての関係諸機関の連携の強化などが図られるようになる。

この主張は農村医学センターが行政側との語りの中で、その旨強く述べるとともに、単に患者を待ち治療を中心としてきた医療の反省から、積極的な地域への関与と予防活動の推進を目的に掲げた共同保健計画である地区診断の今後の必要性を問うている。この問いに対し、県ならびに町行政は財政負担のことを主張しながらも、その方向性は町が抱える街づくりプランと合致することもあり可能な限り協力していくことを述べその話し合いを閉じている。しかしながら、こうした中央の話し合いの席には、地域住民の自身が参加していたかというとそうではない。この下大野地区の話し合いの中ではまず主導権は、診断側を主体にして構成し、そこから地域住民の自主性を培うことをしているため、その時点においてはまだ行政本位からの脱出はできておらず、地域住民にしても、行政が言うことだから仕方ないという主張のほうが多かったと思われる。この地区診断の地域住民の評価は報告書の中で統計で把握することが出来るが、実はこの評価方法は全戸に配ったアンケートの内容の中で述べられるものであり、具体的に住民の声が聞こえていたかというと、はっきりわかっていない。

以上のことから、診断側の評価の方向性は確実なる記録にてわかるが、住民自体の主張としての語りはそこに盛り込まれているわけではないことが分かった。稲葉氏が望んだ地区診断の本意、地域住民の主体性を基調とした住民の主張をくみとる活動としては少しずれてきていることを現している。

さて、次にこうした地区診断が行われていく過程において、それとは別に地区診断の歩みを気づいていった下大野地区の一つの組がある。御開山とよばれるその組は、戦後に切り開かれた開拓部落で、この地区の発展における健康管理活動は、もしかすると下大野地区全体の地区診断のプランニングに際し、ある程度のモデルを見ることになったのではないかとされている。ただ、この組に関する記録等は残っていない。報告書そのものにも記述はわずかでしかない。そのため、後述するものは聞き取り調査とわずかに残された資料から割り出した、下大野地区診断前の御開山組、いや当時は御開山は組としては組み込まれておらず、「御開山」として独立していたため、ここではそのあらましを詳しく述べてみたい。

 

3.御開山地域の生活と地区診断

1)開拓部落としての御開山組

 先の地区診断においてはこの組についてあまり触れられていない。ただ、「無医地区」などとして扱われることが多く、この組の実態についてははっきりしていない。この組に住むG氏、H氏(両氏ともども昭和10年代生まれ、県外からの移住者)の証言に下大野地区(御開山を除く)で地区診断が始められた昭和39年以前から鳥取大学の学生や県が健康調査を行っており、それが地区診断の下地にあったのではないかと述べている。

御開山は戦後の引揚者のための開拓政策の中でできた集落であり、昭和20年代当時は下大野地区などの広見町の枠に入るのではなく、県の管轄内に地区が編成されていたため、下大野とは違った組形成がなされていた。御開山が開拓されたのは昭和23年前後から、当初の入植者数はまだはっきりしないが昭和26年の最盛期の時期に4580名が地区内に住んでいた。

生業は当初はタバコ栽培を奨励されており、それに従事していたが、台風被害などを受けて途中で栽培をやめ、酪農や養蚕、野菜栽培などを始めた。この栽培指導にあたったのが県の農業指導員であった。農業指導員の指導の下、イモの栽培や水田耕作などの農業も進められていく。今は休耕田が植林で林になってしまっているが、田畑が広がっていた。酪農は牛乳などの出荷をするのに道が舗装されておらず、不便なうえ冷蔵庫がなかったこともあってなかなか思うようにいかなかった。また、昭和30年代40年代ぐらいには出稼ぎや地区外での仕事を求めるようになった。出稼ぎは県外に及んだし、地区外での労働は土建会社が30軒ぐらい広見町内にあったので、そこへ働きに出る人も多くいた。また、キンマ引きなどの林業の手伝いに行く人も大勢いた。

御開山は先述したように県と直接つながっていたため、独自の組組織があった。組合長を筆頭に副組長、会計があり、その下に各組が編成されていた。全部で5つの組で緑ヶ丘、朝日谷、新屋敷、一橋、六谷である。それぞれに組長があり、組単位で催しごとや相談、会議などを行った。

 

2)御開山の地区診断

昭和39年の下大野地区で地区診断が行われるより以前、県の保健所と鳥取大学の教授や学生、農村医学センターなどが来て、地区診断のモデル地区にいち早く着手されたという経緯がある。G氏曰く「下大野に編成されたのが昭和40年代やったと思うけん、それまでは独自の組織で、地区診断もすでに行われていた。下大野地区が有名になってそちらが最初だと思われているかもしれんけど、その前に御開山でも行われていたけん」という。つまり、地区診断は昭和39年以前に御開山で行われており、それを土台に下大野地区での診断が行われるようになったという。

ただ、その当時は地区診断後の改善活動などがあまり定着はしなかった。というのも昭和30年にやっと電気が通るまで、食生活は食べられるものは何でも食べたし、山菜から茸、兎や鶏や山羊を飼ってはそれを潰して食べていたという。それぐらい生きることに必死だったし、食生活を気にしていることもできなかった。また高血圧や伝染病などの病気が出る要素もなければ、塩分を過剰に摂取する以前にそうしたものがなかった時代だから、高血圧にかかることもなかった。それに地区の年齢層がかなり若い世代で絞められていたこともあって、働き盛りであり病気をすることもあまりなかった。

では、地区診断によって何が取り組まれていたかというと。I保健婦による母子保健活動であったのが大きいという。母子保健活動の主たる目的として、「健康優良児を育て上げたい」とするものだったそうだ。I保健婦が開拓保健婦として活躍したのは昭和25年から40年ぐらいまで、御開山へ夫ともに移り住んできたことからここでの保健活動に従事するようになっていた。しかしながら、途中で三島連絡所勤務を命じられ、御開山から昭和29年に離れていった。ただ、離れていても、よく訪問に来てもらって、母子保健活動に従事していた。勿論家族計画の話も出ていたが、ただそれは地区の人口を減らすことにもつながりかねないし、また積極的にこれに関与しようとする人は少なかったように思うとH氏は述べている。

 

3)御開山の組組織と現在

 御開山の組組織は先に示した通り、5つの組からなる(現在では六谷が人がすまなくなったため、実質4つの組で編成されている)。その5組がそれぞれ協力し合いながら、互いの健康管理につとめているが、いずれにせよ現在高齢化が進むとともに、この地から離れていく人も多い。子どもたちの世話になることもあって、この地を離れるという。G氏はそうしたことに対して、「子どもに世話を見てもらうのはいいが、ここのところ巷で聞くに世話をみようとせずにそのまま施設に預けるけん。そういうのを聞くと、なんだかいややけん」という。「最近の若いもんは、我慢がなってないけん。そうやって介護をちゃんとみようとせんし、年寄りの気持もわからんけん」と、若い人々の介護に対する姿勢がどこかしらお年寄りの意思尊重になっていないことに憤りを感じていた。

 こうした事態はなにも御開山という地区に始まったことではないが、そうした高齢者介護の事情が問題となる中で、地区の組織としての組組織に期待を寄せているという。「今は組員もすくなくなってきたけん。あまりよらんけんど。それでも声を掛け合って暮らしておるけん」と話す。この組織をもとに地域の老人たちの看取り合いがはぐくまれているように思う。また、御開山の特徴として、開拓地区時代からそれぞれにみんな苦労をしつつ、励ましあいながら現在まで来ていることもあり、地区の連帯性の維持には強い意志を持っている。この意思が確認されるものとして、昭和40年代から町へ組み入れられるときも、最後まで「独立した地区を」といって抵抗を試みていた。この願望は県の助成金の減額や、市町村への鞍替えを機に政策的な転換をしなくてはならないこともあり、財政面においてかなえられなかったが、それでも御開山は下大野地区の中にありながらも独立した考え方を持ち続けている。この連帯意識の強さは、たぶん下大野地区全体の中でも強いものではないかと筆者は考える。

 

まとめにかえて

 下大野地区の地区診断を振り返るにあたり、多くの方々の証言と資料を基に報告書を作成した。その中での、報告書類には見られない農民の声をそこに反映することが出来た。その一つとして、報告書では地区診断は順風満帆なように描かれ、さもそれが成功裏に終わったことを裏付けるような統計や論がなされているが、実のところ末端の農村生活においてそれが息づいていたかというと、それは難しい問題であることが明確になった。農村生活はその時々によって、さらにその農家経営の在り方や家族構成によってそれぞれ違うものであるから、地区診断自体が全てマッチするわけではない。だからといて地区診断が浸透しなかったというわけではなくて、地区診断がモデル化することによって生じる、実生活とのひずみに対応がかなり難しく感じられた。嫁姑の問題、出稼ぎ日雇労働の問題、貧困の問題、多様な問題を抱えつつ地域があり、地区が存在するのであり、それをどう地区診断が救い出すのかがカギであったわけであるが、住民の評価として、確かに健康意識の向上に寄与したことは評価できるものの、実生活面にそれを浸透させるにはかなり苦心することになり、結果的に根付いたとしてもその後の地区組織の形骸化、組の連帯の希薄化の中で地区診断の連続性自体が維持できなくなっているのが現実としてある。

 さらに、地区住民の語りの中に多く垣間見えたのは、地区診断は現在も継続中であるが高齢者が多くなり、若者が地区から去っていく中で高齢者に向けた介護や保健の在り方そのものが、地区診断当時の連続性の中においてどういう風に対応していくべきなのか、保健所や市町村の行政諸機関における住民サービスへの在り方について、地区診断当時と比べて希薄化が進んでいること。自分たちの健康は自分たちでという組での総意が今や個々人の健康を個々人が管理し、他社の介入を底にみないなど組織的な取り組みを行うこと自体が難しいというのである。

 この調査前に保健婦経験者と現役保健師らと家庭訪問の在り方について語り合いの場を設けた時、現時点において保健師の業務は多様な分野に細分化され、その部分部分で必死に仕事をするものの横の連携がうまくいかず、さらに地区診断のような課を超えた活動の根本的な理解が行政機構の中では有耶無耶になってしまっていることが指摘されていた。そのことが住民サービス向上への障壁としてあり、住民への健康を現地にて家庭訪問のような形で行うことが出来にくい環境が現時点であるとの問題指摘もあった。このような地区側、保健体制側においてのズレが今後一層増していくものと思われるが、今一度地区診断が目指した意味を問い直し、さらに稲葉峯雄氏が望んだ地区における自主的な取り組みとそれを育てる地域行政の在り方の樹立に向けた構想が望まれるのではないだろうか。

 

参考文献及び資料

稲葉峯雄著『草の根に生きる 愛媛の農村からの報告』(岩波書店 1973)

堀田励二「広見町における地域保健活動のあゆみ」(『公衆衛生 Vol.38 No.31974 136頁から140頁)

新田則之「僻地対策としての広見町健康センターの役割」(『公衆衛生 Vol.38 No.31974 141頁から145頁)

岡田尚久「地区衛生組織活動と保健従事者の役割」(『公衆衛生 Vol.38 No.31974 146頁から150頁)

加茂甫「広見町における地域保健活動に期待するもの」(『公衆衛生 Vol.38 No.31974 151頁から155頁)

「座談会 盛り上げる農村保健活動」(『公衆衛生 Vol.38 No.31974 156頁から168頁)

稲葉峯雄「住民の求めている保健婦像」(『看護 Vol.27 No.21975 18頁から25頁)

新田則之、岡崎春代ら編「広見町(愛媛県)における共同保健計画~下大野得における健康活動13年のあゆみと課題~」(『保健婦雑誌 Vol.35 No.51979 10頁から35頁)

愛媛県立北宇和病院農村医学センター編『農村医学センター No.1』(1966

広見町健康センター編『広見町健康センター 2号』(1974

愛媛県立北宇和病院農村医学センター編『農村医学センター No.5』(1970

 

 

報告を終えて

 本調査は南予の地区診断と農村生活の在り方を探る第一段階として、その途中報告をするものであるが、まだまだ報告書内ではわかりにくい当時の保健婦らの動き、保健所機構の在り方、行政の判断、そして何よりもそれを受けての地域住民の生活動向について関する声がまだ聞こえてきていない部分が多々ある。今後、そこを中心に聞き取り調査並びに資料調査を行い、第二次調査を近々実施したいと思う。

 また、この報告を終えて思うことであるが、昭和30年代後半から始まった地区診断の動きそのものは、確かに共同保健計画として動き、計画に基づいた様々な取り組みがなされたものと思う。だが、こうした計画を推進するにあたり、稲葉峯雄氏が述べるように地域住民の主体性を尊重した動きが必要となる。共同保健計画というのはその作成段階においてから、やはりこうした住民参画型の在り方を模索するところから行わなくてはならなかったであろう。広見町下大野地区から三間町増田・黒井地と時代を経るごとにその様相はさまざまであり、地域的特色もあろうが、下大野での土台作りから始まり、愛治地区への再構成、さらに三間での組織的な動き方へのシフトと大きな変化がそれぞれみられる。こうして考えると、共同保健計画を語るとき、単に一般的な理解としての計画ではなく、地域の中でそれがいかなる関連性を住民との間に築いていけるのかに大きな力点が置かれなくてはならない。

 昨今、保健師事情は刻々と変わり、計画やそれぞれの課の変動により、また法律の新規作成によって左右される事態が起きており、保健師もそれに応じて仕事の割り振りを考えなくてはならない事態になり、それこそ全体を俯瞰した立場に立った保健師の育成が難しい状況になってきつつあると思う。こうした事態にあり、共同保健計画という地域を俯瞰し、全体性の中で議論してきたことを再読することは今後の保健師活動において重要なキーワードになると思う。筆者自身は保健師でもなければ、保健計画に携わる人間でもない。ただ民俗学者で、保健師の歴史と地域住民との関連を見ているに過ぎない。だから、直接的に保健師にどうあってほしいとか、どういう風なことに取り組んでほしいということはできないだろう。ただ、筆者が言えるとするならば、この報告書を一つの土台として、今後の保健の在り方を問い直してほしいと思う。

 さらに、この報告書には多くの関係者、住民の方々の支援があってこそ完成した。深く御礼申し上げるとともに、住民の方々にはこの報告書を機に自己が置かれている地域における生活の連帯性を今一度再読してほしい。集会を持つことというのが希薄化する昨今の事情において連帯性を確認すること自体は、一部の人間にしかわからないことかも知れない。ただ、地区診断によってもたらされた連帯の在り方というのは、それはそれで素晴らしいものであり、評価すべき点も大きい。この評価を今問い直し、その中で現在できることを模索する一つの道具としてこの報告書が使われることを望みたい。

 第一次調査をこのような報告書として作成をみたのは、多くの方々のお力添えの産物であり、筆者個人ではなし得なかった。本当に感謝をし、今後とも筆者の調査研究に協力を願い、結びの言葉にかえたい。

 

 

最後までご覧いただき、ありがとうございました。今後ともなにとぞよろしくお願い申し上げます。