ページ

2013年5月20日月曜日

民俗学の学問的実践性と、社会的実践性

おはようございます。

 何度かTwitterで問うていることなのですが、改めてここで私の考えをまとめておきたいと思います。

 と申しますのも、今週の金曜日に大学で岩本通弥編『民俗学の可能性を拓く』の第一章の書評発表を担当することになっておりまして、その件で少し自分なりに、岩本氏の論を批判的に見てみる必要性があるなと思ったのでまとめてみました。


1.はじめに

 まず、批判の前にこの『民俗学の可能性を拓く』という本についての特性について簡単に述べていきます。この本は、現在の民俗学における実践性の議論を発展させるべく書かれたもので、その内容としては、柳田國男言説から始まる民俗学の学問性における実践の在り方などを検討し、それが現実としてどう機能してきたのかという足跡を追うとともに、現在行われている実践性について検討し、その中で何が問題となっているのかを詳しく述べるものです。

2.岩本通弥氏の問いかけ

 岩本氏は昨今の日本民俗学会の在り方からして、その学問の方向性が古いものへ伝統的に残っているものへということに偏在してることを指摘したうえで、そうした内向きの学問的方向性が実践という場において役に立つものか否かという部分を問い直す意味でこの論を述べております。
 第一章では岩本氏が「民俗学の実践性の諸問題」として、柳田國男以来の学史から見れる実践性の変遷を追うことで、そこにどのような問題点が描かれるのかを述べています。

3.民俗学の実践性

 詳しく述べるにはブログだと長すぎるので、簡単に言うと、昨今の民俗学が抱える実践性というものは、どこかしら検討されずにそのまま学問内部の問題意識の中でうやむやのままにされているきらいがあることを指摘し、それが柳田が言うような過去を反省する学問としての活用に寄与していないのではいかという疑問から出発しています。
 柳田の言説について取り上げるとともに、それがいかに解釈されてきたのか、また誤解されていたのかということについても触れて、じゃあ柳田が目指した実践性はいかなるものかを検討するようになっています。
 また、その実例として弟子たちが行った実践について、橋浦泰雄、宮本常一、関敬吾らの研究視座と実践性について詳細に見ています。特に、宮本常一の、民俗学の「民俗」の活用としての地域おこしを取り上げつつ、それがどういった影響を与えていたのかについても詳しく検討されています。
 その中で、岩本氏は宮本氏のやってきたことは確かに農山漁村の産業、特に観光業の樹立に寄与し、地域おこしの面でかなりの影響力があったことを認めつつも、そのやり方がどこかしら「民俗」の美化につながっているような気がするとしてそれを批判し、また地域おこしが宮本氏が思っていた住民の自立性を促すものから資本家の手による植民地化に終わってしまっていることに、宮本氏の実践性の反省を見なければいけないと指摘しています。
 ほかにも橋浦氏や関氏の学問的とらえ方を描いているのですが、岩本氏が一番言いたかったのは、こうした宮本常一のような「民俗」を直接的に取り上げた地域おこしへという実践性への疑問視と、安易な「民俗」の美化に通じることへの戒めを込めてこれを取り上げているように思います。

4.実践性への問題点

 
 しかしながら、この宮本常一氏にはじまる実践性の評価については、いまだ民俗学内部でも賛否両論あり、様々な問いかけが行われているものの、岩本氏はこの宮本氏が実践をしたことによって地域へのアプローチの在り方が開かれたことは一定の評価があることを述べることで、単に地域美化に当たるだとか「民俗」の美化につながるだとかそういう、批判だけで宮本氏の実践性を否定することは間違っているとしています。ただ、先ほども申しあげたとおり、この宮本氏の実践は、ある種成功はしたものの、ただ持続性を考えると、それはどこか行政に頼りっきり、観光資源のための「民俗」利用などとして、地域住民が自分たちの生活を振り返って、そのうえで自己反省の上で確立していくべきものを、資本家の手に渡ってしまっている実態について嘆いている節があり、この点について実践の問題点を明らかにしています。つまり、民俗の文化価値としての観光資源化は、その当時の離島や山村における振興法の中で、「農産漁民の生活に寄与」する目的からそれてしまっていることについて、嘆いているからです。
 また、これは宮本氏とは違った視点で、関敬吾氏の民話を巡っての井之口氏とのやりとりから、いわゆるオーラル(口承)のとらえ方を、関氏は地域住民の活動の中に求めたのに対し、井之口らアカデミズムの側からは、オーラルは歴史補助に当たる資料としてあるべきであるとして反論したことに端を発しています。岩本氏は、これについて、この二人の擦れ違いは、「民俗」をどうとらえるかによって起きている問題とも絡めて、その実践方向が、アカデミズムの中では資料論の形成のために必要な素材としての「昔話」としてあるのに、それを「民話」として大衆的な中に置くべきものではないする考え方がどこかしら、その民俗学が長年培ってきた、歴史学への接近として科学性を強める素材として、ものとしての「民俗」にこだわる姿勢の在り方であることを述べています。
 ほかにも問題点があるのですが、まとめると、民俗学の実践性はどこかしら即物的なものが多く、その持続性将来性を確保するための素材がそろっていないこと、それを検討する場所がないことが第一点であることと、歴史への接近に固執するあまりに「民俗」を資料として用い、それを分析することにしか科学性を持てない今のアカデミズムに対する批判をしている点です。

5.書評として

 上記のほかにも岩本氏は、様々な実践性の問題点を挙げているのですが、やはりどこかしらこの根底にあるのは、柳田言説における「民俗」の解釈論と、そして実践性に先立つ現実論的な部分での検討がなされていないことに批判があると思います。岩本氏は、学史の中からこれを切り取ってそのなかでの解釈として実践性の提示をしめしているのですが、それだとどこまでたっても学問内での議論でしかなく、宮本常一氏が眼前として挑んだ現実的な実践性の中にはうさん霧消しているような理論的展開になってしまっている気がするのです。
 具体的に言えば、柳田言説に振り回されて、結局その実践性は柳田の言葉を借りてしか、学問内では見当がなされていないという点でまず間違いがあると思います。柳田の言葉はその当時性における、現実に即したものの言い方であって、その場における発言はその世相を反映するものであり、それを現実世界にまで持ち込んで、学史の中でその変遷を論じたところで、実際の実践論中ではあまり意味がないものではないかと思うのです。
 私は「生活疑問」という言葉を多用しますが、これは別段柳田の言う「生活疑問」と同意ではないと思っています。それどころか、私の述べる「民俗」は従来の民俗学が固執した過去の封建遺制などによるような伝統的な「もの」としての対象ではなく、生活という動態の中で変化しうる様相が「民俗」であると定義している時点で、岩本氏をはじめとする学史の中での議論はあまりにも、文化財行政方向での検討を重視しがちに見えるのです。
 ここで文化財行政のことを出したのは、宮本氏をはじめ幾人もの民俗学での実践者、特に博物館や資料館に勤める民俗学者たちによって行われた実践性を指してのことであり、つまり、「民俗」という「古俗」を取り上げて、それを文化的に保護し活用していこうとする動きです。
 ですが、私自身も博物館職員としての経験から、その活用に関しては様々な障害があります。博物館に配分される行政の予算、その中に占める活動にかける配分性を考えると、大々的な実践性をそこでできるかというと、そうでもなく、単に「民俗」というものを示して、「懐かしむ」「昔の知恵を探る」といった取り組みに終わってしまう傾向が強いことを示しています。ただでさえ少ない予算の中での活用というのは、民俗学の実践性を訴えるうえで大きな障害になり、且つ博物館の存続の在り方を考えると、こうした実践が問えない状況が増えているのが現状です。本書の加藤氏の第三章における見解を見てもそれが如実に記されています。

6.まとめにかえて

  つまり、岩本氏の論として成立するべきものは、従来の民俗学の学問的領域内、アカデミズムの内部で理論的に述べられているものであり、結局現場においてはその実践性の理論が生かされていないのが現実としてあること、またその活用法が限定的であり、文化財に偏重しそれがために文化財行政がひっ迫する今、この状況下における実践性をどこまで検討できるのかという、実践性の社会、政治、経済についての分析が何もなされていない点に問題があると思うのです。学史レベルでの話の中では、これが煮詰まっていないがために、実践性を評価する上ではあまりいいものとは言えません。ただ、岩本氏がこうした民俗学内部における実践性の方向性を示したことについては一定の評価ができるし、そこからもっと具体的な実践性についての話し合いができることを望みたいとは思います。



他にも言いたいことが山ほどあるのですが、とりあえず一番のツッコミどころを考えてみました。また、「生活疑問」や私の「民俗」のとらえ方については稿を改めます。

0 件のコメント: