ページ

2013年6月27日木曜日

日吉町調査報告(その3)


⑰昭和5010月『日吉町政だより』

 「今年のろばた懇談会 地域の暮らしを考える」では、京都府下で昭和40年代から行われていた社会教育活動と、「憲法を暮らしの中へ」とする蜷川虎三知事の住民主体の行政体制による「ろばた懇談会」と称する、地域問題を住民と行政関係者、専門家、社会教育者などが集まって、現実の生活における問題点について意見交換し、また討議を深め、実行に移すまでのことを検討する会議が行われたとする記事が載っている。記事によれば、これが最初の会議ではなく、何度かにわたって行われていることがわかる。『日吉町政だより』のバックナンバーではこれ以外の「ろばた懇談会」に関する記事は今のところ見当たらないこともあり、過去どのような会議が行われたかは定かではない。記事によれば「ろばた懇談会」は「住民のかたがたが気がるに集り、しごとのことや教育のことなど、毎日のくらしにかかわる具体的な問題やねがいをお互いに出しあいながら、自由に話しあい、考え、私たちの住んでいる地域をよくするための学習の場として行われている」としている。実質行政と住民との町政に関する具体的な話し合いの場になっていた。昭和50年の話し合いでは、和田、新し、片野、駅前の四地区で、道路改良、改良問題、川の美化問題、交通安全対策の問題、子どもの遊び場設置の問題、下排水の問題、水道の問題などが話された。

 本記事は、「ろばた懇談会」がどういうものであるのかについての周知徹底を図ったものであり、詳しい議事録を乗せたものではないためこれ以上のことはわからないが、記事の最後に、「こういうことは教育委員会が設営しなくても、できるならば地域で計画して行政との話し合いがされなくてはならない」と、ろばた懇談会が教育委員会の設営によって行われ、ある種行政によって設けられた場での住民の参加であったことから、積極的な住民の参画がうかがえたかというとそうでもなかったような書き方がなされている。つまり、住民参加を集っておきながら、行政の手中にその権限があったようにあることを反省している。「教育委員会のしていることは、そのためのさそい水」としてあったとされる。またこの記事には載せられていないが、昭和50年代当時、まだ簡易水道が全町内に普及されていたわけではなく、雨水をためたり、川から水を汲んでいたりという生活が行われており、吉田保健婦は昭和30年代ごろから、この簡易水道の設置を訴え、行政に設置を促してきたが、全町域にまで波及することはまだなかったと考える。さらに、川の美化については産業廃棄物の不法投棄により河川の汚れが目立ち、そのための措置を取らないといけないということが話し合われたものと思われる。

 

 「じん肺(硅肺)患者の組織が結成」。この記事は昭和48年から行われた全町域におけるじん肺患者の検診の結果に基づき、全国じん肺患者同盟中央本部、京滋じん肺患者同盟組織にならい、日吉町内でも患者組織を作ることを決めた記事である。この記事の背景として、戦中戦後にかけて日吉町域内および船井郡内の鉱山(マンガン鉱山)において働いていた者に、鉱山閉山後からその労働によるじん肺(肺に石が刺さって起きる呼吸障害などの症状)がみられ、このじん肺に罹った患者に対して国にその検診及び治療に対する諸経費の補償を求めようとした経緯がある。昭和40年代から吉田保健婦、日吉町の婦人会などがじん肺患者への働きかけが行われており、当初は婦人会の中にじん肺患者を夫に持つ婦人から吉田保健婦に相談があり、相談の結果、町医師である藤岡医師のもとでじん肺の検診が自主的に行われるようになっていた。ところが、行政はこれに対して冷ややかな対応を取っており、昭和40年代の時点では、町行政がこれに関与することはあまりなく、予算的措置が取られていたわけではない。そのため、吉田保健婦を筆頭として婦人会らがこれに対して盛んに運動を執り行い、先に見た全国じん肺患者同盟や京滋じん肺患者同盟組織をみつけ、そこに加入することで国から検診に対する支援金があることを知り、そのために町行政に話をつけ、今回の昭和50年に組織を作り出すことに成功したということとなっている。会員数は60名、賛助会員40名からなり、京滋じん肺患者同盟日吉支部として、国に次のような要求をした。「一、われわれじん肺患者の健康診断の費用を国で持て。一、われわれ、じん肺患者の休業補償を生活できる額にせよ。一、われわれ、じん肺患者の(管理三)の者に対しても何らかの補償せよ」としている。じん肺患者数は検診を受けた者で、昭和49年に39名だったのが、昭和50年には50名になっている。このことからも、じん肺という職業病に対する住民の意識が芽生え、それによる行政への請願、国への補償を訴えることにつながったことがわかる。これも、吉田保健婦をはじめ藤岡医師、そして日吉町内の婦人会の協力なくしては成り立たなかった。

 

 「家庭奉仕員 九月より二人に」では、昭和48年度からはじめられた福祉施策のひとつとしての家庭奉仕員を、昭和509月より一名増員することを決定している。当時日吉町内には独居老人が62名、重度障がい者19名が暮らしており、これまでは一人で一週間に14から15名の独居老人並びに重度障がい者の世話をしてきたが、より多くの人々に、きめ細かなサービスができるよう、奉仕員の増員を決定したという。奉仕員となったのは湯浅ふさゑさん(当時38)

 

⑱昭和524月『日吉町政だより』

 「夫人の手でより住みよい町に 「日吉町婦人の集い」が開かれる」では、日吉町内の各種婦人団体が集まって、第八回「婦人の集い」が行われた様子が記事に掲載されている。記事によれば、これは国際婦人デーを契機に、婦人活動の活発化を促し、婦人の力でより住みよい日吉町にしようという目的で催された。さらに、この集いには助役が「今日、婦人は社会的に大きな役割をはたしているが、その役割が十分認識されていない状況にある。つまり、家事、育児、教育、仕事という大変な仕事を十分評価されていない状況である。これらの問題をどう解決していくかを、この機会に十分学習してほしい」と述べ、そのあとで大阪音楽大学で社会教育を研究している井上英之氏を講師に招いて「民主的な家庭づくりと地域づくり」という講演を設けている。講演の内容は、当時の婦人の労働状況の分析から、農村生活が都市化傾向にあることを指摘し、婦人会そのもの活動が都市化傾向で減退している現状から、教育の問題や健康の問題に対して十分に理解が及んでおらず、これを解決するために婦人の働きかけが必要であることを述べていた。

 こうした集いは、「ろばた懇談会」の婦人会バージョンにあたり、婦人から行政に対する疑問を提示する場でもあったのではないかと推測される。但し、町当局がどう参加していたのかについてはわかっておらず、社会教育面が前面に出されていることから、どちらかというと、教育的指導としての傾向が強いものであったのではないか。また、昭和50年代に入ってから、昭和30年代40年代と活発化していた婦人会活動が、先に見たように婦人の日雇いや町外労働により、婦人会自体に参加する人員が減ってきていること、昭和3040年代に比べて減退していることを挙げて、この解決に「婦人の集い」が必要であったことを表している。

 

⑲昭和5211月『日吉町政だより』

 「全日本健康優良学校に五ケ荘小学校」では、五ケ荘小学校(6学級68)が全国の小学校の中から健康優良学校として朝日新聞社から表彰を受けたことを伝えている。この表彰に至った背景には、昭和46年ごろから四ツ谷、佐々江校区で過疎化が激しくなり、且つ両親が共働きで町外にいることがあってか、食生活が栄養バランスの悪い食生活になりがちで、それを学校保健委員会(昭和46年発足)が健康づくり運動を行い、早朝マラソン、乾布摩擦の実施で、体を鍛えるとともに、食事面では栄養を重視した献立の給食を実施するなどその成果の表れがある。

 当時の社会状況として父母が共働きの家庭が増加するとともに、祖父母によって育てられる児童が多く、祖父母は孫に好きなものを食べさせる傾向にあったがために、栄養の偏りが目立ち、その解決のための学校保健委員会組織の結成であったと思われる。ただ、この学校保健委員会がどのような組織で、だれが担っていたかについては記事からはわからない。

 

 「60人の婦人が参加 郡衛生管理組合の見学」では、昭和529月に行われた婦人会による、船井郡衛生管理組合の見学のもようが伝えられている。婦人会はこの見学会でごみの分別がいかに大切か、さらに子の分別にかかる町行政の財政についての聞き取りを行い、日々の日常生活におけるごみの処理を徹底することが「美しい町づくり」につながるとしている。

 当時の婦人会活動が、環境問題に対して熱心であったこと、さらにこうした環境問題が日常生活の卑近な問題であることからここから解決を目指すという方針の表れが見える。

 

⑳昭和5312月『日吉町政だより』

 「最近のニュースに思う…… 北川和歌子」では、町保健婦の北川和歌子氏が昨今の健康事情について述べている。記事の内容は、赤ちゃんの食事に対するもので、昭和53年当時ニュースで話題になっていた放射線をあてた食品が出回っていることに言及し、こうした食品ではなく、もっと安全な食品を扱うように指導することを述べている。また、昭和30年におきた森永ヒ素ミルク事件に触れながら、「せっかく元気で生まれてきた赤ちゃんにお母さんの手で毒を食べさせないように注意」し、「新鮮な野菜をたくさん使った味噌汁を家族には食べさせ、赤ちゃんにはその上澄みを少し食べさせてあげることが大事であり、食品の選定には注意が必要であるということを促している。さらに毎日の食器洗いで使う洗剤によって手の皮膚に必要な油分も奪われることから、市販の洗剤ではなく昔からの石鹸を使った洗い物へと変えることを推奨している。

 

 「農家のくらしと婦人の貧血 吉田幸永」では、町保健婦の吉田幸永氏が健康の目安となる貧血検査「ザーリ」について述べている。「ザーリ」とは血色素数を求める法式で、被検者の単位容積血液中の血色素量と赤血球数の比を求め、これを健康者について得た同比に対する相対値として表現する.次式によって計算する。当時の健康値としてのザーリは80ぐらいであるが、それ以下は貧血として献血などができない。昭和30年代には献血はお金になり、血を売ることで収入を得ることができていた。吉田保健婦はこのザーリの話題について、日吉町の主婦の中ではこの数値を言い合ってお互いの健康を確かめ合うことが合言葉のようになっているという。文章が非常に面白いのでここでそれを抜粋しておく。

 

 日吉町は昭和四十一年から、婦人会活動の主目標に、「健康づくり」をかかげ、年一~二回の健康相談、支部によってはお医者さんに来てもらって健康診断を実施しています。この時いつも話題になるのは、睡眠と食物の話。支部によってはほとんどの主婦が、ザーリ七〇。なんでかなと、よくよく聞いてみますと、ここの支部はみんな働き者の主婦で、睡眠時間は四~五時間でくたびれていることがわかりました。また冬はわりと元気なのに、夏にはガタの来ている主婦。

「バレーの練習でクタクタ、夜バレーに行こうと思ったら、一日の仕事をうんときばって早くすませ、晩のしまいをして、せんだくもして、ふとんしきまでして来んならん。えろうて、えろうて。そらザーリ、七〇にもなるわ」

「バレー、何時頃までやったはるの?」

「十一時にはなるなあー。それから帰って風呂に入ってねるの十二時すぎるわ」

「旦那は応援してくれへんの」

「旦那ども、奥さんのバレーがはじまったら、ほろくに晩めしもあたらんてカンカン」

どうしたら、旦那さん、バレーに頑張る奥さんを応援して下さるかしら……。

 次は食物の話。健康診断がおわったあと、婦人会の役員さんと、お医者さんとのやりとり。

「晩めしのしたくにせめて二時間はかけてほしい。たべるものを創るのは一つの芸術である」

「料理に二時間もかけとったら、内職のお金もうけがパーになってしまいますわ。わたしら内職しとって、ふくろ物買うて皿にのせる。このぐらいしとっても、くらしにくいのですもん。昼ども一人やし、茄子びの漬物でお茶漬けでカサカサとすませます」。

 パートや内職にこきつかわれ、家の仕事に追いまわされ、最も困っている人びとが、たのしみながら食事の支度に二時間をかけ、睡眠を十分にとり、せめて貧血検査が、ザーリ・八〇にするくらしをするのにはどうしたらおいのかを考え話しあう場の一つに、「生活教室」があります。中味は料理実習とくらしの問題の話しあい。年齢に制限はなく、十代の娘さんから八十近いおばあさんまで誰でも入れる教室です。今活動をやっているのは、宮村、生畑、殿、佐々江、西胡麻、上胡麻の各教室です。町の保健婦もいっしょに勉強しています。詳しいことをお聞きになりたい方は町役場保健課、保健婦へおといあわせください。

 

 という文章である。この文章は暮らしを支えている主婦がいかに忙しい身であるのか、さらにそれによって生じる、食生活の不摂生、睡眠の不規則などに問題があり、そのために貧血が起きてしまう現実を物語っている。この当時の婦人の働きようはかなり激しいものであったらしく、日雇い労働に出かけ一日を過ごし、夕飯はインスタントがほとんどで、あまり料理をしなくなっていたという。

 

㉑昭和5412月『日吉町政だより』

 「マンガン鉱山の元労働者 集団検診75人が受ける」として、昭和49年から続いている日吉町内のマンガン鉱山の元労働者に対する集団検診に関する記事が掲載されている。記事によれば51年、52年にも検診が行われ、のべ174名の検診が完了し、その中で労災認定を受けたのが63人もいたという。しかしながら、これまでに患者同盟の自主検診でかなり受診率が上がっているものの、まだ埋もれた労働者がいるという京滋じん肺同盟の要請に応じて今回の検診が実施された。今回検診を受けた中には、坑内運搬に従事していた婦人の姿もあったという。

 「生畑木住簡易水道が完成」という記事では、昭和53年から続けられていた、簡易水道工事が1110日に竣工式を迎えた。総工事費は192945千円で、内訳が国保補助金7087万円、府補助金が17717千円、町債が180万円(7610万円は年金積立金還元融資、過疎債2470万円)、地元負担金330万円、一般会計からの繰越金258千円となっている。水源は木住川の伏流水に求め、浄水所から六つの配水池に送水されたうえで生畑、木住両地区の104世帯(410)へ配水された。この簡易水道の完成で日吉町内の簡易水道普及率は94パーセントとなった。

 この記事には、竣工式、会計、配分についてのほかに、町民の感想が2つ寄せられている。「完成を待ち望んでいました」とする木住地区の法谷啓子氏がこの水道のおかげで炊事などの婦人労働が楽になると同時に、消火栓設備によって火災の際に主婦の手で鎮火できる手段ができたと喜んでいる。また「これで安心です」とする生畑地区の船越千代氏は、炊事や風呂に水が使えることへの喜びと同時に、きれいな水道の利用について「有害な洗剤をさけるよう各自が気を付けていきたい」と環境衛生への配慮がうかがえる。

 

㉒昭和5511月『日吉町政だより』

 「ああよかった!」。これはこの11月から連載が開始された吉田幸永保健婦による、とある保健婦活動のことをつづったものである。11月号では、殿田小学校の湯浅氏から保健婦に食品添加物の主に漂白剤についての学習を行うから、その検査薬を手配してほしいという話からはじまる。検査薬を保健所に問い合わせたところ、係りの者がいないからと断られかけたが、吉田氏は粘って課長から許可を得て、小学校の家庭科授業への薬品の供与をしている。この殿田小学校の取り組みによって、主婦の間で食品添加物の問題が児童を通じて知らされ、これについての「こういう勉強は、一家の台所をあずかっている婦人がやらんならんこっちゃ」として婦人学習に役立てたといっている。

 当時の主婦、婦人会や婦人グループの取り組みはかなり盛んに行われていたこともあり、上記のような児童から学習内容を伝え聞くと同時に、それを実践に移す行動力があった。

 

㉓昭和5512月『日吉町政だより』

 「ああよかった!(その2)」では、同じく吉田保健婦の体験談として、子宮がん検診の話で、婦人会からおしかりを受ける場面を描いている。当初年に一回の受診をこころがけるようにと住民に話してきたのに、いつも行われていた6月の検診日が、12月へと切り替わりその間の半年ばかりは無検診状態にあることを婦人会から指摘され、吉田保健婦は、これに対応すべく、検診日を元に戻すように八木保健所および府の衛生課にかけあうが、年間計画スケジュールの都合上できないと断られ、医師会にも断れれ、けんもほろほろなところ、婦人会支部長に相談したら、H医師を紹介され、H医師にかけあって子宮がん検診を勝ち取るというものである。

 この記事内容自体が婦人の発言からスタートし、婦人の紹介で医師を確保にまでこぎつけるといった、婦人の健康意識の高さと行動力が保健婦を凌駕していることが重要なところとして思われる。

 

㉔昭和564月『広報ひよし』

 「ああよかった(その4)」では、日吉町が取り組んできた子宮がん検診が、昭和5512月の検診で、12年目になることを終えて、11206人が検診を受け、そのうち15人が0期のがんで、155人が子宮筋腫の早期発見へと結果を表したことにちなみ、そこでの回想を吉田保健婦が述べている。

 回想の時期は判然としないが、婦人会から議員になった磯部氏の町議会を傍聴しに行くという話である。婦人会が保健婦とともに議会の傍聴を求め、保健課課長の許可を得て、磯部氏の発言に耳を澄ませる。磯部氏は町議会で「○番議員、吉田町長に質問とお願いをいたします。私ども婦人会は女のいのちを奪う子宮がん死亡ゼロをめざして頑張っております。今日は超婦人会を代表いたしまして、次の二点について町長の前向きの答弁を求めます。①子宮がん検診車をつくっていただきたい。②検診費の個人負担三百円を、町で負担していただきたい」との発言。それに賛同する議員が表れ、町長は「町婦人会のいのちを守る熱意にこたえ、一千人までの検診費は町で負担します」と述べた。

 磯部氏は婦人会の会長でもあったことから、常日頃子宮がん検診がもっと活発化し、検診をうまくできるようにならなくてはと思っていたと考える。そのため、婦人会の同志から「女の声を町政に反映させてもらわんと」ということから、町議会への発言へと至ったのだろう。これによって子宮がん検診車「さちかぜ号」ができる。

 

㉕昭和565月『広報ひよし』

 「ああよかった(その5)」では、昭和56425日、子宮がん検診車「さちかぜ号」が誕生について吉田前町長の意見を吉田保健婦がうかがっている。「そら磯部さんは偉い人やった。ほんま言うたら銅像たてんならんぐらいの人やった」と。磯部氏は蜷川前京都府知事に子宮がん検診車の件について、女性が子宮がんで亡くなっている実情とそれに対する行政のケアをについて体当たりで要求したという。

 このエネルギーがどこから来るのかと思うぐらいの婦人会の行動力の大きさ、これは多分昭和40年代の田中友子氏の来訪と、その後の吉田保健婦の支えがあって他にはないだろうと思う。それこそ、婦人問題研究の壽岳章子氏が絶賛するのも無理はない。

 

【『日吉町政だより』『広報ひよし』と、吉田保健婦の著作とを顧みて】

以上、『日吉町政だより』『広報ひよし』から判明する限りの保健婦と婦人会の活動状況、またその周辺での社会問題に対する取り組みを追ってみたが。ここで明らかになるのは、保健婦個人が中心となって行った活動が果たしてあるのかという点である。あるとしても昭和40年代以前の記事に散見されるものだけで、あとは婦人会が中心となって保健活動が取られている。

何度も記述するようだが、昭和40年代に入り、園部町改良普及所から田中友子生活改良普及員が指導に日吉町を訪れ、そこで婦人グループに対して「言いにくいことを、言いにくい場でいう」活動を展開し、嫁や女の意見を家庭や社会で言える場をつくる取り組みをしていった。これは、これまで、嫁や女はどこかしら牛馬のごとく、またネズミよりましな惨めな生活を送っていたことを受けて、婦人解放を訴えてきた田中友子氏が音頭を取り、その考え方からすべて変えていこうとした。

吉田保健婦もこれを敏感に感じ、自分が今までしてきたことはどこかしら「官僚主義」であったことを反省し、婦人の立場に立った活動の展開をこの田中氏とともに歩んでいこうとした。数々の社会問題に対し、婦人会の発言力は増していき、しまいには先に記したように町議会をも動かす行動力へと移っていく。こうした、婦人の力が保健婦を動かし、婦人の力による保健婦活動の実現であったと考える。

 このことについて、吉田保健婦はたびたびいろんな場で発表をし、その婦人会などの地域活動における公職者の立場を、もっと住民の立場に立ったものへとするように訴えようと数多くの出版物で述べている。これについて、同僚の北川保健婦は少しやりすぎな部分はあったけど、吉田氏らしい活動であったと表現している。

吉田保健婦がこうした地域の取り組みを内外に対して示したことは、二つの意味を持っていると思う。一つは、保健婦活動というのが地域を対象としておきながら、本当に地域生活をみていたのかどうかという疑いと、その実施にともなう地域住民とのつながりは以下にあるかということである。つまり、吉田氏は自身の体験から、自分が行ってきた保健婦活動は、「地域のために」と叫んでおきながらも、それを地域住民に理解されていなかったこと、理解してもらうための取り組みを行ってこなかったことを反省し、そのうえで、地域の第一線で活躍する保健婦たちに行政側の人間として地域を見るのではなく、公職者は行政の外からそれこそ住民側から生活を鑑み、その中でどのようにしたら生活に取り入れてもらえるかを考えることを常に持っておかないといけないと考えたためだろう。

もう一つは、地域住民の参画なくして保健婦活動はあり得ないということである。これまでの保健婦活動はどこか地域住民への施しを中心とした、上から下への官僚主義的な動きでしかとらえられてこなかった、先に示したように「地域のために」ということを叫んでも、それは単に一方通行的な問いかけであって、それを実践する住民自身の力にはなりえていなかった。これを反省し、地域住民からの自発的な問いかけ、ことに生活に関する素朴な疑問から出てくる内在的な気持ちの噴出を起こすこと、田中氏がやってのけたように「ものいう女性」にみられるように、住民自身が自らの生活を省み、そこから何を学ぶかを考え、行動に移していくことの大切さ、そのような中で保健婦がどういう働きができるのかを伝えたかったのではないかと思う。

このような、保健婦と地域住民、特に婦人会とのつながりを考えてみると、日本全国のあらゆる地域に見られる。だが、こうした住民が最終的に主導権を握り、保健婦をも動かせる立場になることは、日吉町の独特のものであると考える。

本調査で得られたのは、保健婦と住民との対話とその行動力の育成の過程と結果である。

2013年6月26日水曜日

京都府保健婦養成講習所(昭和25年)のこと

おはようございます。ちょっと報告が遅れていましたが、先週の土曜日に、ちょっとしたつてを使って、京都府の戦後第一号の保健婦の方々とお話をしてきました。

 京都府の保健婦養成が叫ばれたのは何も戦後に入ってからではないので、その前史はあるのでしょうが、今のところそれに関する資料に当たれていないのでわかりません。なので、今回お話しするのは、先日お会いした方々(82から87歳)は戦後初めてできた「京都府保健婦養成講習所」の第一期生の方々のお話です。

はじめに
 本報告は、戦後の京都府における保健婦養成課程における教育、実習その後の活動について京都府保健婦養成講習所(以後、京都府近畿保健婦養成所、保健婦専門学校と名前を変えて、その後現在は京都府立医科大学に続いているという)の第一期生から来たものをまとめたものである。

京都府保健婦養成講習所とは?
 戦後、GHQが日本の保健衛生看護の在り方は、世界的に見て低レベルだとを指摘され、保健婦養成機関を早急に作り、保健婦の教育並びに設置を急きょ推し進めることが決まった。その中で、京都府は昭和24年に京都府保健婦養成講習所を開設し、看護婦資格を得た、もしくは今看護婦学校に通っている人々に対して広く告知をするとともに、進駐軍の保健婦増員のために公衆衛生看護教育を行うことになった。昭和24年当時、講習所に入所したのは約50名。生徒層は、看護婦免許を持ち病院に勤務していたもの、助産婦学校に通っていたもの、看護婦学校へ通っていたものなどがいる。中には、午前中は看護学校、午後は講習所へというつわものもいた。

養成課程はどのようなものか?
 養成課程は、半年間(第三期生からは期間が延長されている)で座学と実習を行うものであった。半年という限られた期間であったのは、保健婦の設置が急がれたためであり、そのためにも公衆過程では実地訓練型の教育方針がとられていた。京都府では、市内、府内に人口12万に対し1箇所の保健所があり、また役場に国保保健婦が配置されているため、学生の多くは保健所と役場とに実習先を配属され、そこで主に家庭訪問、感染症対策、母子保健などの業務に携わった。
 座学については、一期生の話では、教科書や参考書の類は全くなく、講師が読む本を口頭筆記でノートに写していくものであった。講師陣の中には、本をそのまま読むため、講義というよりも、口頭で述べられたそのままを写し取る作業が行われていたという。

保健婦への配属の決定は?
 養成期間中にすでに内定するものもいたが、大体足並みをそろえて卒業(昭和25年4月前後)と同時に配属先に勤務することになった。話を聞いた6人の保健婦経験者はそれぞれ、府の保健所保健婦、京都市の保健所保健婦、市町村の国保保健婦(2名)、府の教育委員会所属の養護教諭、市の教育委員会所属の養護教諭であった。他にも、産業保健婦もあった。配属先に応じ、養成期間中に、配属先から使者(市町村の場合は役場の長)が講習所に出向き、その場で配属の命令を出す場合もあった。国保保健婦の一人は、滋賀県から京都府の講習所に通っていたこともあって、滋賀県甲賀郡水口町の町長が講習所にみえて、そこで配属先を決められたという。もちろん、免状を取ってからであるが、当時は保健婦養成講習所を卒業すると京都府から保健婦の免状をもらいうけていた。その後は厚生省の国家試験をパスしなければならなくなり、それ以前に免状を受けていたものは、申請して国家資格を得なければならなかったという。

配属先での活動
 それぞれの配属先の活動を一覧すると
 府保健所保健婦H氏:京都府の亀岡保健所に一番最初に勤務した。主に結核患者の家庭訪問、乳幼児健診などに携わった。
 市保健所保健婦K氏:京都府には上京区などの行政区ごとに保健所があり、そこで勤務し、担当地域はその区の中の学区ごとに決められていた。学区単位なのは、京都府は学区によって地域の組織が出来上がっていることもあり、それにならって担当制を敷いたためである。活動は主として、結核患者の家庭訪問だった。
 市町村国保保健婦K氏:京都府の新庄村へ勤務が決まり、村での公衆衛生活動に携わる様々な作業を行ったが、その後昭和30年をきりに日吉町国保保健婦になり、故郷である日吉町旧世木村へと戻り、そこで吉田幸永保健婦(現在私が調べている保健婦)ともに、家庭訪問、乳幼児健診、母親学級、婦人会のグループ活動などに携わった。
 市町村国保保健婦O氏:滋賀県甲賀郡水口町の国保保健婦となり、町役場に勤務しながら、結核患者の家庭訪問、回虫の駆除などの活動に携わった。
 府教育委員会養護教諭H氏:府教委の中にいながら、学校現場での口腔衛生指導を主として行い、府内の全校の歯科健診データをもとに、虫歯の撲滅運動を展開し、そのおかげもあって、昭和30年代ぐらいから徐々に虫歯児童が減少してきていた。
 市教育委員会養護教諭T氏:京都市上鳥羽小学校や市内の高校の保健室に勤務し、保健室に来る生徒の対応や、校内の衛生管理を行うとともに、児童の身長体重などの測定や健康管理を主として行っていた。
 各活動の深い中身については聞き取れなかったが、配属先によっては機構の中で苦しいこともあったが、同僚の保健婦同士が相談事を共有したり、働きを励ましあったりしながら行っていたこともあって、決して一人ではないという気持ちで楽しく頑張ってこれたという。

家庭訪問について
 当時の家庭訪問は主として結核患者への対応が主だったためか、その結核患者の自宅に訪問する際は、細心の注意を払い、自転車などに「○○保健所」とあればそれを消して、普段着のまま出かけるなど、道端で村人とあっても「知人の家に行く」といってその場を後にするように古こと掛けていたという。こうなったのは、昭和20年30年代当時、結核が亡国病として恐れられており、その病気にかかった人は隔離されることが主であったことから、その病人が家にいることを知られると村の内部でのその病人の家の格付けが差別や偏見のもとにさらされ、蔑視される可能性があったからである。
 また、乳幼児の訪問については、赤ん坊ができると助産婦からの連絡、または家庭訪問中に得た情報をもとに、乳幼児の自宅へ訪問し、赤ん坊の体重や発育状態、健康状態を確認し、必要に応じて育児相談や栄養指導を行った。


以上が、報告内容であるが、その他にも現在の保健師活動について以下のような話を聞いた。

―昨今の保健師の活動についてどう思うか?
K氏「赤ん坊(曾孫)が生まれた時に、訪問はしてくれたが、保健婦の経験をしていたからか、あまりにその技術、指導が頼りなく、自分が前に出て話すことが多かった」

―保健師の待遇や処遇が低いという意見が出ているがそれについてはどう思うか?
H氏「時代とともに保健婦から保健師へと変わること、法律が変わることによって保健師に求められる内容は変わってきているし、その待遇や処遇はかなりそれで左右されるから全体を通じていえることはあまりない。また、各配属先によってその処遇は変わっているだろうから一概に悪いとは言えないのではないか」

―今の保健師に求めるものは何か?
O氏「家庭訪問などの地域ケアが一番ほしい」
K氏「老人福祉分野での保健師の活動が望ましい」

などという回答をいただいた。

 あまり長い時間お話ができなかったこと、私自身がこの会合に初参加だったため、顔合わせのつもりで挑んだこともあってか、質問内容に勉強不足があったことは否めないが、上記のような内容の話を聞けたことはかけがえのないものだと思う。またここから保健師が教わることも多くあるだろうかと考える。
 一番印象的だったのは、やはり家庭訪問についての事柄で、地域生活に密着する保健婦だからこそ、細心の注意と地域への配慮が求められること、さらに地域社会における描写の扱いということを念頭に置いた活動が望まれることは、現在の保健師活動にも通日部分があるのではないだろうか。
 しかしながら、昨今の保健師の活動事情を伝え聞くに、こうした地域を包括する保健活動が実施可能かというと、地域の個別化、核家族化、独居老人などのバリエーションの多さ、またそれによって生じる個人領域への侵犯への懸念からなかなか踏み込めないことも多く、ケースバイケースの状態で包括的なケアができうる体制にないことがある。家庭訪問ということを実習や座学で学ぶが、実際現場でそれが生かせる場がなく、自分が何のためにだれのために働いているのかわからなくなる時があるとして、所謂保健師自身の目標の希薄化が進んできていることが大きな問題としてある。
 今後の保健師活動を考えるためには、こうした地域社会の現状に即した対応の在り方、行政内部で叫ばれる「地域」と現実における個別化された「地域」との落差をどう埋めるのか、また保健師の存在意義をどこに求めるのかが問われる。

2013年6月19日水曜日

日吉町調査報告その2


「『日吉町政だより』『広報ひよし』にみられる保健婦と婦人会の取り組み」

 昭和38年の『日吉町政だより』から昭和56年の『広報ひよし』を概観し、そこに見られる吉田幸永保健婦とK保健婦、各地区婦人会の取り組みをその時代背景を含めて見ていくと。

   昭和381031日『日吉町政だより』

 A地区訪問日誌(保健婦の日誌)としてとある未熟児を救うために保健婦が病院と家族のもとを行ったり来たりしながら、看護にあたったことを記している。ここで重要なのはまず一点目にお産に対して、母体の中に胎児が生育する期間を昔の因習で「八月子(やつきご)は育つが九月子(ここのつきご)は育たない」というものがあり、母体から早く出たほうがいいということが村の中であったということ。これに対して保健婦は未熟児の例を挙げて、母体で胎児が育つにはそれなりの長い期間が必要であり、早く生まれすぎるとほ乳力が少なく、虚弱で死んでしまう可能性が高いことをしている。当時は、こうした因習に対しての嫁の発言権が低く、そのままお産を早めるなどのことが行われていたのではないかと考える。二点目として、保健婦は未熟児でも手当をすれば命のともしびは消えないからあきらめないようにしなさいと述べている点である。未熟児の例では医者から見放され、家族もどうしていいかわからないなかで、保健婦を頼ってくれることを願うと同時に、あきらめずに相談し入院の手立てを早期にすることを進めている。当時の未熟児出産においては、どこか諦観したものの見方がなされており、死ぬのをただ待つしかなかったのではないかと考える。こうした状況は無医村地区に多く、それに対応するために保健婦がいるにも関わらず、保健婦を頼らない場合が多くあること、それを広報を通じて読者である町民に知らせようとする意図が見られる。

 

   昭和40315日の『日吉町政だより』

 「家族計画のおすすめ」として保健婦相談を設けることを示唆する文章が掲載されている。人工中絶が多くなってきていることについて触れており、人工中絶による子宮筋腫などの害を挙げて、そうならないように日ごろからの「家族計画」を婦人会と若妻グループの勉強の中で啓蒙しようとしている。保健婦が当時二人、吉田保健婦とK保健婦であったため、各支所に保健婦が詰める日を決めてその時に婦人会に指導していた。月曜日は殿田?の本庁、水曜日は五ケ荘支所、木曜日は胡麻郷支所へ相談窓口を開いていた。

 

   昭和41210日の『日吉町政だより』

 「明るい暮らし正しい家族生活から」と題して、「家族計画」の具体的な指針について触れるとともに、各地区の人工妊娠中絶数をグラフで表し、昭和38年から40年までの三か年における推移を見比べている。そこでは昭和38年から婦人会の中に保健婦が入り込み、家族計画の実地指導を行ってきた成果が表れている。昭和38年度は生まれた数106に対して人工妊娠中絶数が193という結果を生んでおり、それが昭和40年には生まれた数91に対して人工妊娠中絶数が105と減ってきていることを評価している。ただ、部落別に表を見ると家族計画の努力いかんによって左右されており、全部が全部改善されたかというとなかなか難しい状況があった。この当時における人工妊娠中絶の増加傾向は全国的な傾向でもあり、各家庭の家庭の事情で子どもをおろすことがよく行われていた。そのため家族計画が叫ばれるようになるのであるが、具体的な策として、ペッサリーやコンドームの装着を進めることなどのハード面、人工妊娠中絶によって生じる害毒の啓蒙的教育のソフト面によって進められていた。たぶん、この時期の家族計画の話し合いの中ではこれらが語られていたと推定される。

 

④昭和41318日『日吉町政だより』

 「全滅まであと一息 町から寄生虫の追放へ」では、過去10年間の活動を振り返り、そのデータをグラフとして表示し、各部落でどのような変化が起きているのかを示している。昭和32年から36年頃にかけての調査で、十二指腸虫が検便で見つかり、田畑に素足で出入りすることによって寄生され、貧血などを起こすとして問題視されていた。そのたびに検便をして調べ、集団駆虫をして対処していた。当時の衛生観として田畑に素足出入りすることはよくあり、またその素足を水でよく洗う行為も水道が引かれていないためにあまりよくなされていなかった。これは回虫にも言えて、回虫卵が付着しているまま、つまり土がついたまま食す場合があり、そのたびに吉田保健婦は水でよく洗って食べないといけないといい、水道の設置を行政に求める運動もしていた。また、こうした検便や水道の設置に対しては婦人会の方々の協力があってのことであり、吉田保健婦、北川保健婦だけの活動とはいえない。地域ぐるみで取り組んだ結果、このグラフが示す通り、寄生虫が激減したのである。

 

⑤昭和41420日『日吉町政だより』

 「自分の健康は自分で… 保健活動のおすすめ」と題されたものには、地域の婦人会が定期的に保健についての学習を行っていることが各部落ごとに1月~12月にかけての年間スケジュールの中で詳しく述べられた表が載せられている。これによると、昭和40年代は、検便と血圧、乳児(育児)相談などを頻繁に行っていたようである。当時、食生活改善のための料理講習会が行われていたが、まだまだ地域における漬物や塩漬け等の保存食に頼り、血圧が高いままで、高血圧症から脳卒中で倒れる人が頻繁にいたとされる。後々の記事でもそれが見られるが、こうした高血圧症にならないよう、日頃から血圧の計測を行うとりくみがなされていた。K保健婦がいうには、現在もこうした習慣が残っており、老人会の折に、K保健婦は老人らの血圧を記録し、医師に渡すような取り組みを行っている。

 思うに、こうした婦人会の取り組みと保健婦がタッグを組んでいたのは、「もの言わぬ」女性から、「もの言う」女性へと意識の転換をしていこうとした結果なのではないかと思う。ちょうどこのころに、田中友子生活改良普及員と出会う時期であるので、婦人会の中でこうした保健や教育に対する積極的な取り組みがなされていくのは、田中氏の指導も含まれていたのではないかと考える。

 

⑥昭和41916日『日吉町政だより』

 「どんな病気が多いか―日吉町の死因調べ―」では、昭和407月から翌年の6月にかけてどんな病気で亡くなった方が多いかをグラフ化して提示している。一番多いのが脳出血(脳卒中)で、高血圧の方が多くいたためであろう。で、次に多いのがガンである。生活習慣から来るものかどうかはこのグラフと説明の記事だけではわからないものの、当時における死因が急性的な感染症から慢性的な生活習慣病へと切り替わっていった様子がうかがえる。また、ガンについてはこの当時まだ「死刑宣告」を受けたかのようにして捉えられていたとされていて、保健婦らは住民らに対しそれをすぐに「死刑宣告」として受け取らず、日々の検診をちゃんと受けて、生活習慣を整えておくことの大事さを述べている。

 

⑦昭和411117日『日吉町政だより』

 「赤ちゃんの発育がよくなりました」では93日に行われた、世木、五ケ荘、胡麻郷の三地区で行われた乳児健康診断の結果が発表されている。昭和38年までは優良児が男女合わせて二十人足らずだったものが、昭和41年に入ってほとんどの乳児が全国平均を上回っており、育児への関心が母親らの中に高まった傾向がみられると述べている。

 

⑧昭和4237日『日吉町政だより』

 「高血圧にご注意」と称して、40年、41年度からの日吉町内における死亡原因調査の結果が掲示されており、そこには高血圧による死亡が三分の一を示していたことについて、血圧管理の必要性を次のような項目で述べている。「治療を中途でやめないでください」では、医師の所見が「これでよい」というまでは薬の服用や治療をやめないことを述べている。当時の医療費のことであったり詳しいデータがないため一概には言えないが、医師に診てもらうことに抵抗があり、またそれにかかる費用面で工面するのが難しい家庭が多かったことがこの注意の中身ではないかと思われる。この時点で吉田保健婦、北川保健婦がどういう風にして地域に呼びかけていたのかは考える必要性がある。「寒くなると血圧は上がります」として寒さが厳しい季節がら体を温めておくこと、また足元は「炉」があれど、腰から上は隙間風がある家はよくないと述べている。当時の家屋が隙間風が入るようなところがおおく、そのために足元だけあった高ければいいという感覚が抜けず、体全体で温かさを維持するためにも隙間風のある家屋はどうにかするべきだと暗示している。受託改善にもつながる提案であるが、この段階では呼びかけにとどまっているように思われる。「夜の便所行き」では暖かな寝床から便所に行くまでに体が冷えて、寒暖差から血圧が上昇することを指摘し、夜は尿瓶を部屋に持ち込み、なるべく屋外に出ないようにしてほしいことを述べている。当時の住宅構造で便所が屋外にあったこと、そこまでの道のりは冬場は寒い中を行ったり来たりしなくてはならず、その間に血圧の上昇が懸念され、そこに問題があることを述べている。「ふろ」では、風呂の入り方についての注意がなされている。寒さが厳しい外から帰宅してすぐに熱い湯につかる前に、かけ湯をして入ることを指導している。「食事」では塩分過剰摂取がみられるため、塩分量は13グラム(茶さじすり切れ四杯分)を限度にして、それを超えるような摂取は避けるように指導している。また白米を避けて七分づきか麦ごはんを毎食二杯、新鮮な色野菜に果物(特にみかん)、塩分の少ない魚、豆腐、納豆、卵、鯨等を食べ、油気は植物性の油(大豆油、サラダ油、ごま油)を摂取することが血圧を抑えるのに効果的であるという具体的な提案がなされていることに注目がいく。また、こうした広報だけに限らず、料理教室や健康相談に保健婦が応じていることを内外に示すことも文言として含まれていた。また、付属表には高血圧死亡の月別調べが40年度と41年度の比較で載せられているが、冬場に高血圧で死亡する患者が増えていること、また41年度はとくに12月の段階で7件もあり、高血圧死亡が多いことを示している。高血圧対策は30年代後半から行われていたが、40年代になってその傾向がまた異なっているように思う。寒さが原因なのか保健婦の活動不足が原因なのかは判然としないが、どちらにせよ住民の高血圧に対する認識がまだ整っていないのがうかがい知れる。

 

⑨昭和42622日『日吉町政だより』

 「健康づくり 地域活動の成果あらわる ―東谷母子愛育会―」では、日吉町の母子愛育会モデル地区(西胡麻、木住、東谷)の内、東谷地区における母子の健康増進活動についてその歩みと報告がなされている。東谷の婦人(グループ)は自分たちの健康について、詳しい記録を続け、年一回の地元の医師の健康診断の計画をたてているという。そのデータとして紹介されているのが「潜在疾病率」である。当時の日本の農村の疾病率は75パーセント、東谷は昭和38年に72パーセントとなっていたが、昭和42年には50パーセントへと減少していることが成果として挙がっている。潜在疾病率とは病気を持っていながら、もしくは気づかぬままに、がまんして病院にかかっていなかった人の率を出したものである。この東谷の潜在疾病率の減少は、年一回の健康診断のおかげもさながら、共同菜園づくりや、良いタンパク質のもとである鯨や肉の共同購入、豆腐の日(豆腐を食べる日を決めていた)などが設けられたこと、環境衛生が整備されたことが大きな役割を果たしていたと考えられると述べている。この環境衛生の整備は多分、簡易水道の整備やし尿処理設備の整備などがあげられると考える。また、潜在疾病の秒別に見た場合の表も提示されており、そこでは昭和38年では脚気が多かったのが、42年からは心臓病が目立った病気にのぼってきていることを挙げている。さらに、貧血の程度を表す血色素比較がなされている。昭和40年代当時の日本の婦人の平均的な血色素の数値が80に対して、昭和38年は65、昭和42年は70前後を行ったり来たりとなっており、まだまだ貧血の度合いが多いことが表れている。しかし徐々にその改善がみられていることから、食生活の改善がいかに大切であるか、そういうのが結果として出てきたものとを思われる。こうした夫人の健康への関心が高まり、結果を出してきている一方で、日吉町を取り巻く状況は問題が多いと述べている。その内容としては、農村での働き手がサラリーマン化し、野良仕事プラス内職などが婦人に課せられている状況、また食生活が簡易なインスタント食品に傾倒し、栄養状況が悪くなっていることを挙げている。婦人らはこのことについての対策として、七分づき米運動、大豆や卵を食べよう運動、共同菜園づくり、魚や肉の共同購入、わたしたちのからだを守る運動を全長名に広げる取り組みを今後展開してく必要性があると提案している。これらの記事の内容を見るに、婦人の健康意識の高さ、さらに創意工夫をした対応策が自主的にとられていることが着目するに値する。

 

⑩昭和421110日『日吉町政だより』

 「(赤ちゃんの体重)全国平均を上回る」では乳児健診の結果が表としてあらわされ、それによると全国平均値を男女ともども上回る傾向にあることをほめたたえている。また、育児方法として厚着をさせないこと、日光に当ててあげること、おやつは虫歯対策のため適量にしチョコレートやあんるいを与えるのは控えるようにとの指示がなされている。

 

⑪昭和4311日『日吉町政だより』

 「脳卒中にご注意」では日吉町が三か年計画で婦人会とタイアップしてきた高血圧、脳卒中の予防対策を紹介している。塩分過剰摂取が多いことが指摘されているのは、白米と漬物を食べることが多いからであるとしている。そのため、保健婦は「食餌献立」を希望者に指導している。また、寒さと高血圧に関することからは、寒い季節にはほほかむりをして冷たい風から顔を守ることや、冷たい水での洗顔を避けること、夜間の便所には注意することなどを指導している。風呂と血圧については、服を脱ぐこと湯に入ることによって生じる血圧の急激な上昇下降をなるべくさけるために、湯に飛び込むことをやめるようにしたり、湯から出た後の冷たい水をかぶることを戒めたりと風呂の入り方の指導をしている。血圧を下げる薬については、市販薬に頼るのではなく、必ず医師へ相談し処方してもらうようにすることを指導している。これらの指導を徹底するために毎週月曜日は本庁のある殿田、水曜日は五個荘、木曜日は胡麻に保健婦が駐在しているので相談に来るようにしている。また、日吉町年月別脳卒中の死亡者数を表であらわしている。月別に見れば、やはり寒さが厳しい12月から雪解けの4月までの期間が多い。年別に見れば、その時の気候にもより年によって増減はあるものの、ただ年々減少の傾向にあることがわかる。

 

⑫昭和4411日「日吉町政だより」

 「乳幼児健診の結果 やはり赤ちゃんには母乳が一番」では、乳幼児健診結果発育がよい傾向にあることを示したうえで、その傾向はどういう風な栄養からかということを具体的に栄養面から見ている。母親の職場進出により人工栄養によって育てる傾向が多くなっているが、では母乳と混合栄養、人工栄養の発育の差についてグラフで表し、その発育の傾向について述べている。表を見ると母乳を与えた乳幼児の発育が安定した発育傾向にあること、人工栄養による発育は太りすぎになる場合があり、あまり推奨できないことを示している。そのため、この記事ではなるべく母乳で育てることを勧めるような文言が書かれている。

 

⑬昭和4641日「日吉町政だより」

 「虫ぐすり代は、タダ」では、国民健康保険施設と婦人会との寄生虫予防活動の効果を紹介し、昭和32年までは二人に一人が腹に虫をわかしていたが、昭和46年現在においては十人に一人以下まで減ってきていることを表であらわしている。昭和45年までは検便をして虫が出た場合は、薬代の半分を個人負担にしていたが、464月からは全額を町で負担し、薬代がタダであることを述べている。ここで注目したいのが、昭和40年代からの「日吉町政だより」に掲載される保健活動関係の記事には、たびたび婦人会の関与、婦人会とのタイアップが謳われていること、婦人会が積極的に保健活動に関与していることが活動の活発化につながっていることを強調している。

 

⑭昭和46125日「日吉町政だより」人権特集号

 「「婦人研究集会」での交流」では、これまで述べてきた婦人会活動の活発化は、婦人が差別されてきた背景を脱するための発言権の強化としての取り組みであったことを示すような記事が書かれている。「私の家では、女はハイハイといって服従だけを強いられています。今日もこの会合に参加することを反対されましたが私はこれをふりきってきたのです。だまっていては差別はなくならないと思います。私たち婦人は毎日のくらしが差別とのたたかいだと思いますが、みなさんはどうお考えられますか」というある婦人の訴えに、婦人の中から「村のくらしの中では女は発言をおさえられ、またその場もない状態におかれ行動することもおさえられています。いま足をふまれてるものが『いたい』といわなければ足をふんでいるものにその痛さはわかりません。『いたい』といいかえさなければ差別はなくならないと思います」と発言している。このことは、当時生活改良普及員として船井郡に駐在していた田中友子普及員の「カナンことはいう」を実践しようとしているためだと考える。当時の女性の家庭や村での扱いは、男性のそれと比べて地位が低く、発言権もない状態であったものを、女性たちは発言権の回復と、発言することによって女性の地位の向上をめざし活動していることをこの記事は物語っている。

 

⑮昭和47510日「日吉町政だより」

 「おばあさんらでつくった「およばれ会」」では、殿田の老婦人方が集まって、およばれ会なる交流会を開いた内容を記すものである。内容がかなり面白いのでそのまま記述する。

 

とのだの、おばあさんがこのほど区民館で、およばれ会をしました。

「いっぺん、わたしらばっかりであつまりまひょか」

「そうどすなあー。わたしら、もうこの年になったらどこへゆくたのしみもないし」

「ほんなら、わたしがとのだの役員さんにたのんでみまひょ」

とのだのおとしより会の世話役湯浅幸代さんから、でんわ、

「ああ、保健婦さんですか。まいどすみません。とのだの、おとしよりの人から、いっぺんおばあさんばかりのあつまりをしたいのでお世話になれませんやろか、といってはるのですけど……」

「そらごくろうさんです。どんなことをお手伝いさせてもろたらよろしいのでっしゃろ」

「とにかく、話をきいてほしいということで………」

「ほんなら、いっぺんおばあさんらばっかりで、かんたんにできる、ひるごはんでもつくらはったら、どうでっしゃろ……」

「ああ、そらよろしおすなあ。ほんなら、わたしはやさい料理を考えます…。ごはんの方はまかしまっせ」

ということでムードがもり上がってきました。

 みんなでつくったお料理をみんなで、たのしみながら、また湯浅さんの湯どうふは、あたりでおかわりがつづきました。

 あさ十時からひるからの五時まで、ぐるっと輪になった、おばあさんらは、みんな思い思いのことをしゃべりましたが、けっきょくおとしよりのおもいはいっしょやということがわかりました。

 たとえば、

「かなしかったら、自分の部屋でふとんをかぶって泣くしかしやない」

「お母さん、これどうしまひょときいてくれる嫁の一言がどんなにうれしいことか」

「年がいったら、おかしなものやと思うのでっせ。たべもののことですぐひがみがでるのでっせ」

「自分はもう家のこと、ようせんのにあれこれかまいたいのでっせ」

「台所は、若いもんにゆずったけど、何十年とはたらいてきた台所には、としよりでなかったら出せん味がある。これおばあちゃんがつくったんやで、と手づくりの味を家族に味わせたい」

「家族いっしょにごはんをたべて、ごっとうさん、とお茶わんふせてすぐに自分の部屋へ行くときの気持、何とも言えませんなあ」

「みんな、ほんま、ほんま、こういうとしよりの思いを、婦人会のあつまりの時にどうぞ伝えておくれやす!たのみまっせ!」

 はじめてのあつまりでしたが、みんなに一言づつ感じられたことを話してもらいました。

「こんなたのしいあつまりは今日だけでしまいにするのはおかしいし、又あつまれるようにしたい」

「いつも一人でいるので、ほんまによかった」

「今まで老人クラブであつまったけど、すみっこの方で二、三人がほそぼそしゃべっているだけでもう一つスイッとせんかった。今日は胸にあるものをみんなはき出してしもうてほんまにスイッとしました。またこの中の誰かがあつまりたいな、と思ったら二、三人でもあつまりまひょーな、その時には、たのみまっせ!」

 と世話役の湯浅さんと手伝い役の保健婦は下駄をあずけられました。

 

 この文章から感じられるのは、婦人会活動が活発化し、若い嫁たちの発言が注目される一方で、逆に老婦人方の発言がしづらい状況があったということ。またこの「およばれ会」によって老婦人個々が自分の思いを仲間と共有できる場にしたいと願っていること。そういうのが感じられる。保健婦はこれらの要望を婦人会に提案し、こうした老人たちの声を婦人会の中に進言していく役割を担っていたと考える。

 

⑯昭和4851日「日吉町政だより」

 「子宮がんで死なんように 今年も検診を」という表題で、昭和44年から取り組んでいた「がん」の検診が5年目に突入し、婦人会のこの取り組みは府下でも一番の成果を上げていたという。がんの早期発見と治療を婦人会の取り組みによって行われていた。47年と48年は殿田の駅前にある「福祉センター」で「恢復者のつどい」をやり、もち米を持ち寄りながらお祝いを行うとともに、府の医師会の医師による手術後の悩みの話し合いを行うなど、術後ケアにつとめている。そうしたがん検診の取り組みで、子宮がんのことにもふれて、60代から70代で患者がいることがわかり、婦人会から患者に対して検診と治療を受けるようにとの要請をだし、積極的に検診を受ける体制を整えている。日吉町はがん検診を無料で行っていたという。

 

 「身寄りのない老人にあたたかい手 こんにちは家庭奉仕員です」という表題で、これは保健婦とは違うが、昭和48年当時に身寄りのない老人のケアのために4月から家庭奉仕員(ホームヘルパー)制度が導入されたという。この家庭奉仕員に初めて任命されたのが畑郷のI氏(当時46)。一週間に授与人の在宅老人を掛け持ち訪問、身の回りの世話や話し相手として活動している。この文章は老人福祉にも関係するので抜粋する。

 

 Iさんが尋ねる先は、後見人のない単身老人がほとんどで、老衰に加えて手足や目耳など不自由な人が多く、一人で生活するのにせいいっぱいの、言わばお世話をしなければならない人たちばかり。中には紙に大きな字を書いて話さなければ通じない老人もあります。
「こんにちは。どうです?」と気楽に話しかけるIさんに
「今日来てくれやはるやろか、あしたやろかと首なごうして待っていました」と嬉しそうに老人顔がほころぶ。
 話をしているうちにお年寄りの悩みも多く出てきます。
「今月はこうしていても、明日はどうなることかと、自分の身のことを思うと、夜もねられへん時があるんやで」
「おじいさん何も心配せんとき。心配は体に悪いし、まだまだ長生きしてもらわんと…。この頃はね至れり尽せりの立派な老人ホームもできているし、万一病気になっても、タダでお医者さんにみてもらえるし。何でも遠慮せずに言うてや。私に対しては『おっきに』という言葉はいらへんのやで。あたりまえのこととして、しゃべってもらえばいいの。また近くには民生委員さんもおってくれやはるし……。」といつも老人を励ますことを忘れていません。
「くしゃくしゃ思っていても、こうして岩城さんと話していると、気持ちがスィーとしてます。やっぱり話をするということはよいんやなあ。」と老人。
 Iさんの仕事も数多い。家の掃除からふとん干し、食器を洗ったりお茶を沸かしたりして共に昼食をとるかと思えばそのあと洗たくがはじまります。洗たく物が多いときは自宅に持って帰って夜洗い次の訪問日に届けることもしばしば。お医者さんの薬を届けることもあります。
 お年寄りのお世話はなかなか根気のいる仕事、でも時代の要請にこたえる大切な仕事、としてIさんは情熱をかたむけています。

―かなんことは?

 無口で話してくれない人。初めてのうちはとりつく島がありませんでした。でもこのごろはみんな慣れてよく話をしてくださるようになりました。

―うれしいことは?

 何よりも、お年寄りがよろこんでもらえる時です。

―町政に望むことは?

 やはり心配なのが、‘火の用心’です。保護費を届けても、お金の値打ち、使い方が分からない方がおられます。こういう人には、よく本人と相談の上、電気、ガス用品など家庭に便利で安全なものを品物にかえてお渡ししてはいかがでしょうか。
 こう語っているIさんのみはもう次の仕事が待ちかまえています。「もう一軒回ってこんならんし」と走って行かれるIさんの後姿は、そのまま老人の幸せにつながっているのです。

 

 当時、長寿園という老人ホームが日吉町内に出来上がっている。だけど、そこに入居できない人たちの世話をする人が必要とのことで、家庭奉仕員があると考える。活動は保健婦の訪問活動と同様で、加えて身の回りの世話、生活環境を整えてあげることを主として行っているところがある。この家庭奉仕員と保健婦との関係性はどうであったのかが気になるところ。