「『日吉町政だより』『広報ひよし』にみられる保健婦と婦人会の取り組み」
昭和38年の『日吉町政だより』から昭和56年の『広報ひよし』を概観し、そこに見られる吉田幸永保健婦とK保健婦、各地区婦人会の取り組みをその時代背景を含めて見ていくと。
① 昭和38年10月31日『日吉町政だより』
A地区訪問日誌(保健婦の日誌)としてとある未熟児を救うために保健婦が病院と家族のもとを行ったり来たりしながら、看護にあたったことを記している。ここで重要なのはまず一点目にお産に対して、母体の中に胎児が生育する期間を昔の因習で「八月子(やつきご)は育つが九月子(ここのつきご)は育たない」というものがあり、母体から早く出たほうがいいということが村の中であったということ。これに対して保健婦は未熟児の例を挙げて、母体で胎児が育つにはそれなりの長い期間が必要であり、早く生まれすぎるとほ乳力が少なく、虚弱で死んでしまう可能性が高いことをしている。当時は、こうした因習に対しての嫁の発言権が低く、そのままお産を早めるなどのことが行われていたのではないかと考える。二点目として、保健婦は未熟児でも手当をすれば命のともしびは消えないからあきらめないようにしなさいと述べている点である。未熟児の例では医者から見放され、家族もどうしていいかわからないなかで、保健婦を頼ってくれることを願うと同時に、あきらめずに相談し入院の手立てを早期にすることを進めている。当時の未熟児出産においては、どこか諦観したものの見方がなされており、死ぬのをただ待つしかなかったのではないかと考える。こうした状況は無医村地区に多く、それに対応するために保健婦がいるにも関わらず、保健婦を頼らない場合が多くあること、それを広報を通じて読者である町民に知らせようとする意図が見られる。
② 昭和40年3月15日の『日吉町政だより』
「家族計画のおすすめ」として保健婦相談を設けることを示唆する文章が掲載されている。人工中絶が多くなってきていることについて触れており、人工中絶による子宮筋腫などの害を挙げて、そうならないように日ごろからの「家族計画」を婦人会と若妻グループの勉強の中で啓蒙しようとしている。保健婦が当時二人、吉田保健婦とK保健婦であったため、各支所に保健婦が詰める日を決めてその時に婦人会に指導していた。月曜日は殿田?の本庁、水曜日は五ケ荘支所、木曜日は胡麻郷支所へ相談窓口を開いていた。
③ 昭和41年2月10日の『日吉町政だより』
「明るい暮らし正しい家族生活から」と題して、「家族計画」の具体的な指針について触れるとともに、各地区の人工妊娠中絶数をグラフで表し、昭和38年から40年までの三か年における推移を見比べている。そこでは昭和38年から婦人会の中に保健婦が入り込み、家族計画の実地指導を行ってきた成果が表れている。昭和38年度は生まれた数106に対して人工妊娠中絶数が193という結果を生んでおり、それが昭和40年には生まれた数91に対して人工妊娠中絶数が105と減ってきていることを評価している。ただ、部落別に表を見ると家族計画の努力いかんによって左右されており、全部が全部改善されたかというとなかなか難しい状況があった。この当時における人工妊娠中絶の増加傾向は全国的な傾向でもあり、各家庭の家庭の事情で子どもをおろすことがよく行われていた。そのため家族計画が叫ばれるようになるのであるが、具体的な策として、ペッサリーやコンドームの装着を進めることなどのハード面、人工妊娠中絶によって生じる害毒の啓蒙的教育のソフト面によって進められていた。たぶん、この時期の家族計画の話し合いの中ではこれらが語られていたと推定される。
④昭和41年3月18日『日吉町政だより』
「全滅まであと一息 町から寄生虫の追放へ」では、過去10年間の活動を振り返り、そのデータをグラフとして表示し、各部落でどのような変化が起きているのかを示している。昭和32年から36年頃にかけての調査で、十二指腸虫が検便で見つかり、田畑に素足で出入りすることによって寄生され、貧血などを起こすとして問題視されていた。そのたびに検便をして調べ、集団駆虫をして対処していた。当時の衛生観として田畑に素足出入りすることはよくあり、またその素足を水でよく洗う行為も水道が引かれていないためにあまりよくなされていなかった。これは回虫にも言えて、回虫卵が付着しているまま、つまり土がついたまま食す場合があり、そのたびに吉田保健婦は水でよく洗って食べないといけないといい、水道の設置を行政に求める運動もしていた。また、こうした検便や水道の設置に対しては婦人会の方々の協力があってのことであり、吉田保健婦、北川保健婦だけの活動とはいえない。地域ぐるみで取り組んだ結果、このグラフが示す通り、寄生虫が激減したのである。
⑤昭和41年4月20日『日吉町政だより』
「自分の健康は自分で… 保健活動のおすすめ」と題されたものには、地域の婦人会が定期的に保健についての学習を行っていることが各部落ごとに1月~12月にかけての年間スケジュールの中で詳しく述べられた表が載せられている。これによると、昭和40年代は、検便と血圧、乳児(育児)相談などを頻繁に行っていたようである。当時、食生活改善のための料理講習会が行われていたが、まだまだ地域における漬物や塩漬け等の保存食に頼り、血圧が高いままで、高血圧症から脳卒中で倒れる人が頻繁にいたとされる。後々の記事でもそれが見られるが、こうした高血圧症にならないよう、日頃から血圧の計測を行うとりくみがなされていた。K保健婦がいうには、現在もこうした習慣が残っており、老人会の折に、K保健婦は老人らの血圧を記録し、医師に渡すような取り組みを行っている。
思うに、こうした婦人会の取り組みと保健婦がタッグを組んでいたのは、「もの言わぬ」女性から、「もの言う」女性へと意識の転換をしていこうとした結果なのではないかと思う。ちょうどこのころに、田中友子生活改良普及員と出会う時期であるので、婦人会の中でこうした保健や教育に対する積極的な取り組みがなされていくのは、田中氏の指導も含まれていたのではないかと考える。
⑥昭和41年9月16日『日吉町政だより』
「どんな病気が多いか―日吉町の死因調べ―」では、昭和40年7月から翌年の6月にかけてどんな病気で亡くなった方が多いかをグラフ化して提示している。一番多いのが脳出血(脳卒中)で、高血圧の方が多くいたためであろう。で、次に多いのがガンである。生活習慣から来るものかどうかはこのグラフと説明の記事だけではわからないものの、当時における死因が急性的な感染症から慢性的な生活習慣病へと切り替わっていった様子がうかがえる。また、ガンについてはこの当時まだ「死刑宣告」を受けたかのようにして捉えられていたとされていて、保健婦らは住民らに対しそれをすぐに「死刑宣告」として受け取らず、日々の検診をちゃんと受けて、生活習慣を整えておくことの大事さを述べている。
⑦昭和41年11月17日『日吉町政だより』
「赤ちゃんの発育がよくなりました」では9月3日に行われた、世木、五ケ荘、胡麻郷の三地区で行われた乳児健康診断の結果が発表されている。昭和38年までは優良児が男女合わせて二十人足らずだったものが、昭和41年に入ってほとんどの乳児が全国平均を上回っており、育児への関心が母親らの中に高まった傾向がみられると述べている。
⑧昭和42年3月7日『日吉町政だより』
「高血圧にご注意」と称して、40年、41年度からの日吉町内における死亡原因調査の結果が掲示されており、そこには高血圧による死亡が三分の一を示していたことについて、血圧管理の必要性を次のような項目で述べている。「治療を中途でやめないでください」では、医師の所見が「これでよい」というまでは薬の服用や治療をやめないことを述べている。当時の医療費のことであったり詳しいデータがないため一概には言えないが、医師に診てもらうことに抵抗があり、またそれにかかる費用面で工面するのが難しい家庭が多かったことがこの注意の中身ではないかと思われる。この時点で吉田保健婦、北川保健婦がどういう風にして地域に呼びかけていたのかは考える必要性がある。「寒くなると血圧は上がります」として寒さが厳しい季節がら体を温めておくこと、また足元は「炉」があれど、腰から上は隙間風がある家はよくないと述べている。当時の家屋が隙間風が入るようなところがおおく、そのために足元だけあった高ければいいという感覚が抜けず、体全体で温かさを維持するためにも隙間風のある家屋はどうにかするべきだと暗示している。受託改善にもつながる提案であるが、この段階では呼びかけにとどまっているように思われる。「夜の便所行き」では暖かな寝床から便所に行くまでに体が冷えて、寒暖差から血圧が上昇することを指摘し、夜は尿瓶を部屋に持ち込み、なるべく屋外に出ないようにしてほしいことを述べている。当時の住宅構造で便所が屋外にあったこと、そこまでの道のりは冬場は寒い中を行ったり来たりしなくてはならず、その間に血圧の上昇が懸念され、そこに問題があることを述べている。「ふろ」では、風呂の入り方についての注意がなされている。寒さが厳しい外から帰宅してすぐに熱い湯につかる前に、かけ湯をして入ることを指導している。「食事」では塩分過剰摂取がみられるため、塩分量は13グラム(茶さじすり切れ四杯分)を限度にして、それを超えるような摂取は避けるように指導している。また白米を避けて七分づきか麦ごはんを毎食二杯、新鮮な色野菜に果物(特にみかん)、塩分の少ない魚、豆腐、納豆、卵、鯨等を食べ、油気は植物性の油(大豆油、サラダ油、ごま油)を摂取することが血圧を抑えるのに効果的であるという具体的な提案がなされていることに注目がいく。また、こうした広報だけに限らず、料理教室や健康相談に保健婦が応じていることを内外に示すことも文言として含まれていた。また、付属表には高血圧死亡の月別調べが40年度と41年度の比較で載せられているが、冬場に高血圧で死亡する患者が増えていること、また41年度はとくに12月の段階で7件もあり、高血圧死亡が多いことを示している。高血圧対策は30年代後半から行われていたが、40年代になってその傾向がまた異なっているように思う。寒さが原因なのか保健婦の活動不足が原因なのかは判然としないが、どちらにせよ住民の高血圧に対する認識がまだ整っていないのがうかがい知れる。
⑨昭和42年6月22日『日吉町政だより』
「健康づくり 地域活動の成果あらわる ―東谷母子愛育会―」では、日吉町の母子愛育会モデル地区(西胡麻、木住、東谷)の内、東谷地区における母子の健康増進活動についてその歩みと報告がなされている。東谷の婦人(グループ)は自分たちの健康について、詳しい記録を続け、年一回の地元の医師の健康診断の計画をたてているという。そのデータとして紹介されているのが「潜在疾病率」である。当時の日本の農村の疾病率は75パーセント、東谷は昭和38年に72パーセントとなっていたが、昭和42年には50パーセントへと減少していることが成果として挙がっている。潜在疾病率とは病気を持っていながら、もしくは気づかぬままに、がまんして病院にかかっていなかった人の率を出したものである。この東谷の潜在疾病率の減少は、年一回の健康診断のおかげもさながら、共同菜園づくりや、良いタンパク質のもとである鯨や肉の共同購入、豆腐の日(豆腐を食べる日を決めていた)などが設けられたこと、環境衛生が整備されたことが大きな役割を果たしていたと考えられると述べている。この環境衛生の整備は多分、簡易水道の整備やし尿処理設備の整備などがあげられると考える。また、潜在疾病の秒別に見た場合の表も提示されており、そこでは昭和38年では脚気が多かったのが、42年からは心臓病が目立った病気にのぼってきていることを挙げている。さらに、貧血の程度を表す血色素比較がなされている。昭和40年代当時の日本の婦人の平均的な血色素の数値が80に対して、昭和38年は65、昭和42年は70前後を行ったり来たりとなっており、まだまだ貧血の度合いが多いことが表れている。しかし徐々にその改善がみられていることから、食生活の改善がいかに大切であるか、そういうのが結果として出てきたものとを思われる。こうした夫人の健康への関心が高まり、結果を出してきている一方で、日吉町を取り巻く状況は問題が多いと述べている。その内容としては、農村での働き手がサラリーマン化し、野良仕事プラス内職などが婦人に課せられている状況、また食生活が簡易なインスタント食品に傾倒し、栄養状況が悪くなっていることを挙げている。婦人らはこのことについての対策として、七分づき米運動、大豆や卵を食べよう運動、共同菜園づくり、魚や肉の共同購入、わたしたちのからだを守る運動を全長名に広げる取り組みを今後展開してく必要性があると提案している。これらの記事の内容を見るに、婦人の健康意識の高さ、さらに創意工夫をした対応策が自主的にとられていることが着目するに値する。
⑩昭和42年11月10日『日吉町政だより』
「(赤ちゃんの体重)全国平均を上回る」では乳児健診の結果が表としてあらわされ、それによると全国平均値を男女ともども上回る傾向にあることをほめたたえている。また、育児方法として厚着をさせないこと、日光に当ててあげること、おやつは虫歯対策のため適量にしチョコレートやあんるいを与えるのは控えるようにとの指示がなされている。
⑪昭和43年1月1日『日吉町政だより』
「脳卒中にご注意」では日吉町が三か年計画で婦人会とタイアップしてきた高血圧、脳卒中の予防対策を紹介している。塩分過剰摂取が多いことが指摘されているのは、白米と漬物を食べることが多いからであるとしている。そのため、保健婦は「食餌献立」を希望者に指導している。また、寒さと高血圧に関することからは、寒い季節にはほほかむりをして冷たい風から顔を守ることや、冷たい水での洗顔を避けること、夜間の便所には注意することなどを指導している。風呂と血圧については、服を脱ぐこと湯に入ることによって生じる血圧の急激な上昇下降をなるべくさけるために、湯に飛び込むことをやめるようにしたり、湯から出た後の冷たい水をかぶることを戒めたりと風呂の入り方の指導をしている。血圧を下げる薬については、市販薬に頼るのではなく、必ず医師へ相談し処方してもらうようにすることを指導している。これらの指導を徹底するために毎週月曜日は本庁のある殿田、水曜日は五個荘、木曜日は胡麻に保健婦が駐在しているので相談に来るようにしている。また、日吉町年月別脳卒中の死亡者数を表であらわしている。月別に見れば、やはり寒さが厳しい12月から雪解けの4月までの期間が多い。年別に見れば、その時の気候にもより年によって増減はあるものの、ただ年々減少の傾向にあることがわかる。
⑫昭和44年1月1日「日吉町政だより」
「乳幼児健診の結果 やはり赤ちゃんには母乳が一番」では、乳幼児健診結果発育がよい傾向にあることを示したうえで、その傾向はどういう風な栄養からかということを具体的に栄養面から見ている。母親の職場進出により人工栄養によって育てる傾向が多くなっているが、では母乳と混合栄養、人工栄養の発育の差についてグラフで表し、その発育の傾向について述べている。表を見ると母乳を与えた乳幼児の発育が安定した発育傾向にあること、人工栄養による発育は太りすぎになる場合があり、あまり推奨できないことを示している。そのため、この記事ではなるべく母乳で育てることを勧めるような文言が書かれている。
⑬昭和46年4月1日「日吉町政だより」
「虫ぐすり代は、タダ」では、国民健康保険施設と婦人会との寄生虫予防活動の効果を紹介し、昭和32年までは二人に一人が腹に虫をわかしていたが、昭和46年現在においては十人に一人以下まで減ってきていることを表であらわしている。昭和45年までは検便をして虫が出た場合は、薬代の半分を個人負担にしていたが、46年4月からは全額を町で負担し、薬代がタダであることを述べている。ここで注目したいのが、昭和40年代からの「日吉町政だより」に掲載される保健活動関係の記事には、たびたび婦人会の関与、婦人会とのタイアップが謳われていること、婦人会が積極的に保健活動に関与していることが活動の活発化につながっていることを強調している。
⑭昭和46年12月5日「日吉町政だより」人権特集号
「「婦人研究集会」での交流」では、これまで述べてきた婦人会活動の活発化は、婦人が差別されてきた背景を脱するための発言権の強化としての取り組みであったことを示すような記事が書かれている。「私の家では、女はハイハイといって服従だけを強いられています。今日もこの会合に参加することを反対されましたが私はこれをふりきってきたのです。だまっていては差別はなくならないと思います。私たち婦人は毎日のくらしが差別とのたたかいだと思いますが、みなさんはどうお考えられますか」というある婦人の訴えに、婦人の中から「村のくらしの中では女は発言をおさえられ、またその場もない状態におかれ行動することもおさえられています。いま足をふまれてるものが『いたい』といわなければ足をふんでいるものにその痛さはわかりません。『いたい』といいかえさなければ差別はなくならないと思います」と発言している。このことは、当時生活改良普及員として船井郡に駐在していた田中友子普及員の「カナンことはいう」を実践しようとしているためだと考える。当時の女性の家庭や村での扱いは、男性のそれと比べて地位が低く、発言権もない状態であったものを、女性たちは発言権の回復と、発言することによって女性の地位の向上をめざし活動していることをこの記事は物語っている。
⑮昭和47年5月10日「日吉町政だより」
「おばあさんらでつくった「およばれ会」」では、殿田の老婦人方が集まって、およばれ会なる交流会を開いた内容を記すものである。内容がかなり面白いのでそのまま記述する。
とのだの、おばあさんがこのほど区民館で、およばれ会をしました。
「いっぺん、わたしらばっかりであつまりまひょか」
「そうどすなあー。わたしら、もうこの年になったらどこへゆくたのしみもないし」
「ほんなら、わたしがとのだの役員さんにたのんでみまひょ」
とのだのおとしより会の世話役湯浅幸代さんから、でんわ、
「ああ、保健婦さんですか。まいどすみません。とのだの、おとしよりの人から、いっぺんおばあさんばかりのあつまりをしたいのでお世話になれませんやろか、といってはるのですけど……」
「そらごくろうさんです。どんなことをお手伝いさせてもろたらよろしいのでっしゃろ」
「とにかく、話をきいてほしいということで………」
「ほんなら、いっぺんおばあさんらばっかりで、かんたんにできる、ひるごはんでもつくらはったら、どうでっしゃろ……」
「ああ、そらよろしおすなあ。ほんなら、わたしはやさい料理を考えます…。ごはんの方はまかしまっせ」
ということでムードがもり上がってきました。
みんなでつくったお料理をみんなで、たのしみながら、また湯浅さんの湯どうふは、あたりでおかわりがつづきました。
あさ十時からひるからの五時まで、ぐるっと輪になった、おばあさんらは、みんな思い思いのことをしゃべりましたが、けっきょくおとしよりのおもいはいっしょやということがわかりました。
たとえば、
「かなしかったら、自分の部屋でふとんをかぶって泣くしかしやない」
「お母さん、これどうしまひょときいてくれる嫁の一言がどんなにうれしいことか」
「年がいったら、おかしなものやと思うのでっせ。たべもののことですぐひがみがでるのでっせ」
「自分はもう家のこと、ようせんのにあれこれかまいたいのでっせ」
「台所は、若いもんにゆずったけど、何十年とはたらいてきた台所には、としよりでなかったら出せん味がある。これおばあちゃんがつくったんやで、と手づくりの味を家族に味わせたい」
「家族いっしょにごはんをたべて、ごっとうさん、とお茶わんふせてすぐに自分の部屋へ行くときの気持、何とも言えませんなあ」
「みんな、ほんま、ほんま、こういうとしよりの思いを、婦人会のあつまりの時にどうぞ伝えておくれやす!たのみまっせ!」
はじめてのあつまりでしたが、みんなに一言づつ感じられたことを話してもらいました。
「こんなたのしいあつまりは今日だけでしまいにするのはおかしいし、又あつまれるようにしたい」
「いつも一人でいるので、ほんまによかった」
「今まで老人クラブであつまったけど、すみっこの方で二、三人がほそぼそしゃべっているだけでもう一つスイッとせんかった。今日は胸にあるものをみんなはき出してしもうてほんまにスイッとしました。またこの中の誰かがあつまりたいな、と思ったら二、三人でもあつまりまひょーな、その時には、たのみまっせ!」
と世話役の湯浅さんと手伝い役の保健婦は下駄をあずけられました。
この文章から感じられるのは、婦人会活動が活発化し、若い嫁たちの発言が注目される一方で、逆に老婦人方の発言がしづらい状況があったということ。またこの「およばれ会」によって老婦人個々が自分の思いを仲間と共有できる場にしたいと願っていること。そういうのが感じられる。保健婦はこれらの要望を婦人会に提案し、こうした老人たちの声を婦人会の中に進言していく役割を担っていたと考える。
⑯昭和48年5月1日「日吉町政だより」
「子宮がんで死なんように 今年も検診を」という表題で、昭和44年から取り組んでいた「がん」の検診が5年目に突入し、婦人会のこの取り組みは府下でも一番の成果を上げていたという。がんの早期発見と治療を婦人会の取り組みによって行われていた。47年と48年は殿田の駅前にある「福祉センター」で「恢復者のつどい」をやり、もち米を持ち寄りながらお祝いを行うとともに、府の医師会の医師による手術後の悩みの話し合いを行うなど、術後ケアにつとめている。そうしたがん検診の取り組みで、子宮がんのことにもふれて、60代から70代で患者がいることがわかり、婦人会から患者に対して検診と治療を受けるようにとの要請をだし、積極的に検診を受ける体制を整えている。日吉町はがん検診を無料で行っていたという。
「身寄りのない老人にあたたかい手 こんにちは家庭奉仕員です」という表題で、これは保健婦とは違うが、昭和48年当時に身寄りのない老人のケアのために4月から家庭奉仕員(ホームヘルパー)制度が導入されたという。この家庭奉仕員に初めて任命されたのが畑郷のI氏(当時46歳)。一週間に授与人の在宅老人を掛け持ち訪問、身の回りの世話や話し相手として活動している。この文章は老人福祉にも関係するので抜粋する。
Iさんが尋ねる先は、後見人のない単身老人がほとんどで、老衰に加えて手足や目耳など不自由な人が多く、一人で生活するのにせいいっぱいの、言わばお世話をしなければならない人たちばかり。中には紙に大きな字を書いて話さなければ通じない老人もあります。
「こんにちは。どうです?」と気楽に話しかけるIさんに
「今日来てくれやはるやろか、あしたやろかと首なごうして待っていました」と嬉しそうに老人顔がほころぶ。
話をしているうちにお年寄りの悩みも多く出てきます。
「今月はこうしていても、明日はどうなることかと、自分の身のことを思うと、夜もねられへん時があるんやで」
「おじいさん何も心配せんとき。心配は体に悪いし、まだまだ長生きしてもらわんと…。この頃はね至れり尽せりの立派な老人ホームもできているし、万一病気になっても、タダでお医者さんにみてもらえるし。何でも遠慮せずに言うてや。私に対しては『おっきに』という言葉はいらへんのやで。あたりまえのこととして、しゃべってもらえばいいの。また近くには民生委員さんもおってくれやはるし……。」といつも老人を励ますことを忘れていません。
「くしゃくしゃ思っていても、こうして岩城さんと話していると、気持ちがスィーとしてます。やっぱり話をするということはよいんやなあ。」と老人。
Iさんの仕事も数多い。家の掃除からふとん干し、食器を洗ったりお茶を沸かしたりして共に昼食をとるかと思えばそのあと洗たくがはじまります。洗たく物が多いときは自宅に持って帰って夜洗い次の訪問日に届けることもしばしば。お医者さんの薬を届けることもあります。
お年寄りのお世話はなかなか根気のいる仕事、でも時代の要請にこたえる大切な仕事、としてIさんは情熱をかたむけています。
―かなんことは?
無口で話してくれない人。初めてのうちはとりつく島がありませんでした。でもこのごろはみんな慣れてよく話をしてくださるようになりました。
―うれしいことは?
何よりも、お年寄りがよろこんでもらえる時です。
―町政に望むことは?
やはり心配なのが、‘火の用心’です。保護費を届けても、お金の値打ち、使い方が分からない方がおられます。こういう人には、よく本人と相談の上、電気、ガス用品など家庭に便利で安全なものを品物にかえてお渡ししてはいかがでしょうか。
こう語っているIさんのみはもう次の仕事が待ちかまえています。「もう一軒回ってこんならんし」と走って行かれるIさんの後姿は、そのまま老人の幸せにつながっているのです。
当時、長寿園という老人ホームが日吉町内に出来上がっている。だけど、そこに入居できない人たちの世話をする人が必要とのことで、家庭奉仕員があると考える。活動は保健婦の訪問活動と同様で、加えて身の回りの世話、生活環境を整えてあげることを主として行っているところがある。この家庭奉仕員と保健婦との関係性はどうであったのかが気になるところ。
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