このところ、よく農村の手記を読むようになっています。保健関係はもちろんのこと、もっと幅広く、の農村の日常生活に関する手記の類です。
手記といってもいっぱいあるかと思いますが、私が手記と申しているのは、生活綴り方運動によって社会教育として派生した自分を見つめなおす意味での手記です。
こうした手記は、資料としての妥当性を得ているか、客観性があるかといえば、それは書いた本人にのみ許される客観性であり、我々外部者がそこに抱くのは主観の塊といえましょう。
ですが、ある意味、農村社会に関する農民の率直な意見を並べたてたものであるとも考えます。なので、私はその意味でもこの手記の存在をちゃんと把握したいと思っております。
そうした手記によく農地解放、農地改革前後の農業の在り方について触れる記事があり、それを見るたびに思うことなのですが、歴史上、農地解放後、農地は地主から小作人にそれぞれ分配され、自作農として独立しえたという風に描かれていますが、果たして「独立しえた」といえるのかというと、それは複雑な人間関係から解き放たれない現実もあるというのを手記からうかがえます。
ほかにも、生活改善のことで、こんな記事もありました。ある農婦の話で、村で生活改善が行われるに当たりその役に当たったというのですが、どうもその役が重荷になっているというのです。その理由として、生活改善が派手な結婚式をやめようという動きに対して、せっかくの末娘の晴れの日、ちゃんと祝ってやりたいという親心がせめぎあい、またそれに加えて世間体の問題もあってか役にはなったからにはしなければならないが、体裁のことを考え長持ちとかを持たすとかはしないものの、あとで家具屋から立派な本棚を花嫁道具として別に嫁ぎ先へ送ってやるというのです。この記事から読み取れるのは、農民の生活改善という変化に対しての対応の在り方です。
で、これをどう読むかですが、多分これまでの生活改善研究の研究者が読むなら、「それは農民の見栄」の表れだとして農民の対応を糾弾し、それこそ生活改善の妨げであったというようになるでしょう。ですが、私はこう読み取ります。貧しい農家において、結婚という晴れの日に持たせてやれるものは持たせてやりたい、そういう心があって当然であり、親心として理解してあげなければいけない。生活改善を受け入れるという段階にあって、そうした葛藤をちゃんと表現することが重要であり、単にこれを「虚栄心」の表れという風に片づけていいものではないと思うのです。
いずれの事例も、農村の手記ならではのもので、実はこれと同じく見ている保健婦の手記はまた違った様相を照らしています。というのもこの場合、保健婦は「施す側」としてそれを見ているのですから、その対応は明確です。上記の生活改善に絡んでいえば、「農民の生活は不衛生で不合理」という言葉をまず用いることから始まり、それを「改める必要性」を強調します。つまり、保健婦の手記は、農村の手記にはない「権力」としてのそれとして映る場合もあるのです。実のところ、農民は、別に不衛生で不合理なままの生活をよしとしているわけではありません。自分たちも変えようと努力はしています。ところが、それを阻む何かがあるのです。その何かを見つめる視点が、農村の手記には色濃くあります。たとえば、家父長制に代表されるような序列、村の中での封建的対応、男尊女卑、富農と貧農などなどそれぞれにおいて文脈が異なるものの、これが摩擦になって進められない現実があるのだと思います。
私は、こうした現実があることを民俗学に分かってほしいと思っているのです。実は、民俗学での生活変化の表現は独特で、ものの変化と精神の変化と区別して、それでもって時代変遷の中にそれらを並べておきます。例えば、ものの変化で言えばテレビの導入時期は何年で、それ以降は情報が入っているだろうから云々、という風につまりテレビの導入という契機を持って生活をはかるのですが、これって、ものが入ったら情報が入るという風に思っていませんかね。まぁ、情報の種類もたくさんあるので、この場合視覚的情報としましょうか。で、そうした視覚的情報が得られると生活はすぐに変化するものなのでしょうか。私はそこに疑問を持ちます。民俗学ではものが導入された=変化の去来として述べていますが、これ自体おかしな話で、まずどういう段階を踏んでそれが導入されるのかを詳しく述べるべきであり、その段階にはどういった障害があるのかということをつぶさに見ていく必要性があるにもかかわらず、それをすっ飛ばしてみていてはいけないと思うのです。何事も手順が必要です。また変化を受け入れないという選択肢もあることを忘れてはいけません。
依然話したかもしれませんが、テレビが無用の長物となり置物としてあり、その家の経済を逼迫する病巣として象徴されるケースも無きにしも非ずです。この場合、テレビを購入しないことには村の生活水準に自分が遅れると思い、無理をして購入した結果、それを支払った金のやりくりに迷い借金をしたがために日々の生活が破たんしていってしまうというものもあります。だから、テレビが導入されることが必ずしも視覚的情報をえるばかりではないこと、テレビを契機に生活が破たんしてしまうこともあること、世間体という壁が立ちはだかるということ、それも含めて生活を見なければ、それこそ生活を見たとはいえません。
私が民俗学に望むのはただ一つ「変化というものはなんだったのかという分析」それだけです。
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