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2013年9月2日月曜日

京都府船井郡日吉町の村政状況と保健婦活動(その2)

村の状況
(1)昭和30年代の町政の動向
 先に示したように昭和30年代を皮切りに、胡麻郷、五個荘、世木の三か村が合併し、日吉町となると、それに伴って産業変化も大きくなってきます。地理のほうでも示しましたが、林業が衰退すると同時に、農業も兼業化が増え、それに伴って労働を京都市内に求める人々が増加するとともに人口動態が激しくなり、結果的に町域の人口がどんどん現象化していくことが目に見えてわかってくるのがこの年代ということです。こうした人口の減少に伴い、過疎地域の指定を受け、企業誘致やその他もろもろの政策を町域では進めていこうとします。過疎化指定となるとその補助金が下りてくることもあって、その補助金をもとに道路の舗装を急いだり、公共施設の建設ラッシュが起きてくるのですが、実のところこうした町政の動きに反して、生活面においては、上下水道の整備が遅れ、水道の設置がなされていない地域が数多くあったこと。また病院設備などの保健衛生に関する設備状況が遅れており、それがもとで亡くなる人が多数いたことを併せ持つと、どうも当時の町政の動きは、ハード面が偏りが出ており、またソフト面でもあまりにもずさんな財政管理体制がなされていたのではないかと疑わざるを得ません。
 先に述べた水道の設置については、実は町政側からの申し出で行われたというわけではなく、地域住民が声を上げて町政に働きかけたことから始まったものであり、町政としてこれに積極的な関与というのはあまりなされていなかったのが露見しています。つまり昭和30年代という時代の日吉町町政においては、住民主体という考え方よりも、行政主体の考え方による運営がなされており、正直なところ、これが引き金になって町域から人が離れていったのではないかと思えるほどです。
 このような町政の動きというのが緩慢な理由は、一つにそれを支える支持基盤の旧態然とした態度にこそあったのではないかと考えます。一応、断りを入れておきますが、町政に住民は全く関与していたわけではなく、特に各地区の地区長、地区内にある部落の長、戸長などが協議を繰り返し、それによって取り決めがなされていたのですが、その取り決めに参加するのはいずれにしても男性が中心であり、生活を支える女性の視点に立った見解がなされていなかったことがあげられます。つまり、男性目線でもっての町政運営であったことから、道路や公共施設といった箱物行政に対する建設議案のほうが多く検討され、ライフラインに対する認識というのはこの中にどれほど含まれていたのかはわからずじまいです。ただ、言えることは、男性視点という名のもとに町政におけるライフラインの建設が遅れてしまったこと、生活基盤の立て直しを急がなければいけないところをそれがまかり通っていなかったことが原因といえましょう。

(2)新しい動きとして
 男性的な行政の在り方に対して、女性側からの意見が飛び交うようになってくるのもこの時期に重なります。ではそれまではどうであったのかというと、女性はつつましやかなほうがいいという風な言い方が多く、常に男尊女卑的な言い方がありましたし、女性の中でも嫁は姑に対して頭が上がらない存在であったとされます。園部のほうの農婦の手記には「牛馬のような扱いであればいいほう」というような言葉があるほうで、つまり女性、特に嫁世代は牛馬よりも地位が低いことを表していました。
 ところが、それが昭和30年代に入ると少しずつ変わっていこうとします。これにはいろいろな諸要因が考えられますが、実のところ昭和30年代にどのような方向性の運動が生じていたのかについてわかる資料が手元にはなく、推測の域を出ないのですが、昭和35年前後から京都府内を中心に盛り上がってきた女性問題に関する運動というのが丹波地域を中心に活発化していたことがあげられます。これについては壽岳章子氏の活動に呼応する形で存在してた「女性問題研究会」の発足とその活動にあると考えます。ただし、この活動が日吉町で形を見るようになるのは昭和40年代に入ってからであり、田中友子生活改良普及員が赴任したことから活発化していきます。それまでは、発言権というとそれほど大きいものではなかったかと思いますが、あとで紹介する保健婦との兼ね合いもあって、女性を中心とするグループ活動の発足が昭和30年代よりできてくるので、その関係もあって、町政に女性が意見を出す形がなされていきます。
 ただし、この意見というのは男性社会であるところの寄合の場ではあまりに小さく、意見として提示できるのが難しい場であったことは確かであり、そこに保健婦が介在して、水道設備の申し出を行ったり、多様な形で調整と女性を結び付けていたと考えられます。

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