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2013年11月19日火曜日

京都民俗学会年次研究大会での発表原稿完成

  ものすごく荒い文章になってしまいましたが、「保健婦の手記」を民俗学的にどう位置づけたらよいかを考えた上での文章化をしてみました。
  いかんせん即席めいたところがあるので、今後はこれを基軸に少しほかの資料もつき併せて論じていくべきかなとおもっております。
 
平成251119

 

「保健婦の手記」からみる民俗生活との関わり

 

1.はじめに

(1)保健婦、「保健婦の手記」との出逢い

農山村僻地へ調査に赴くと、その都度様々な民俗行事や習俗と出会うことがあるが、そうした習俗の変遷について歴史的流れを追う中で、生活の推移についても触れることが多い。そうした生活の推移において民俗の変化を語るとき、やはり基準となる物質なり経済的な動きを基準にそれを表すことが多いが、人々の生活はそう規則的なものではない。民俗学での変化の諸相は、そうした人々の生活の動態的なあり方についての分析が足りない。

 そうしたことを考えていた折に、兵庫県宍粟郡千種町でとある保健婦と出会った。彼女は地域に入り地域住民とともに彼らの視点に立った方策をたてながら、地域生活に深く関与し、民俗に対しても時に衝突し、時に融和しながらそれこそ段階を経て生活の向上を目指した活動を展開していった。民俗学の分野において保健婦という医療従事者のことを分析した類のものはあまりない。しかし、保健婦が行った事、地域を見て行ったこと、そしてそこで住民と交わした言葉や行動はそれこそ民俗の変化に深く関与したとみていいと思う。この対応の在り方をのぞくことこそ、地域生活の向上化のなかにおいて、民俗生活がどのように見られ、どう感じていたのかという動きを具体的に見ることが可能となるのではないか。

 本研究の動機はそうした保健婦らが地域と関わり、民俗生活と関わる中でどういったことがいえるのか、そういうところに注目してみたい。また、本研究の根幹となるのは、そうした保健婦らが記した地域との交流録、「保健婦の手記」の存在である。この手記に描かれる生活のありようは、それこそ生活の現実性を見ることになる。手記はそうした意味においてより現実的な問題として新しいものと民俗がどう関わり交わってきたのかを感じることが出来る素材である。本発表ではその手記がどのようなものであり、民俗との関わりにはどういったものが浮き彫りになるのかを述べてみたい。

 

(2) )研究史

 保健婦の歴史的研究については、大国美智子氏の『保健婦の歴史』や川上裕子氏の『日本における保健婦事業の成立と展開-戦前・戦中期を中心に-』の中で保健婦事業の成り立ちと経緯を述べている。また、実際に初期の保健婦として活躍された高橋政子氏が『写真で見る日本近代看護の歴史 先駆者を訪ねて』で具体的な人物を挙げて保健婦の成り立ちについて述べている。さらに、高橋氏は自らの半生を振り返り『いのちをみつめて ある保健婦の半生』で、初期の保健婦たちの様子を自身の体験として記している。

民俗学での研究では、木村哲也氏の『駐在保健婦の時代 19421997』がある。木村氏は、高知県の駐在保健婦制度とその時代的背景、実際の活動展開、歴史的位置付けについて詳しく論じている。歴史的研究ではあまり注目されなかった保健婦の実態を丹念な聞き取り調査と事業的背景との接合点から明らかにしている。しかしながら、これらの先行研究は事業史や個人史をもとに描いてはいるが、地域における現実について触れられていない。

 本発表で注目したいのは、事業史的な流れとは別に現場における保健婦と地域住民との生々しい対話の中で、保健婦がいかに受け入れられていくのか、保健婦の考え方や生活指導がどのようにして受け入れられていくのかという現実を垣間見てみたい。そこで用いるのが、「保健婦の手記」である。「保健婦の手記」に対する研究はほとんどない。「保健婦の手記」がどのようなものであり、どのような役割を果たしていたのかということを明らかにしたい。

 

2.保健婦の存在意義

(1)保健婦とは

保健婦は、時代ごとに名称が変化し、その事業目的によりそれが目指す方向性が異なっているため、一概にこうしたものという定義はできない。現行の「保健師助産師看護師法」の法規を歴史上のすべての保健婦という対象に当てはめることはできない。しかしながら、仮に定義をするならば、(日本看護協会監修の『新版保健師業務要覧 第二版』)「保健師は、(中略)「人として生きること・健康であること」が保障されるように、生涯を通した人々の健康と幸福を実現することを使命としてきた。(後略)」と言える。言い換えれば身体的健康と社会的健康を守る専門家が保健婦と言える。

本研究においての保健婦は戦後から昭和50年代にかけての保健婦を指す。また、保健婦の歴史は戦前からあるものの、戦後のそれはGHQの政策等により大きく変更がなされている個所があり、その仕事の在り方もGHQの影響を受けている。但し、木村氏が指摘しているように、戦後の保健婦事業はこのGHQの政策としてのそれと、戦前からあった訪問婦を基とするような社会福祉事業としてのそれがせめぎ合っている状態であった。そのため、事業の方針としてのそれと、経験則としての現場の方針は異なる部分がある。事業史としての保健婦をここであらわすとは思っていない。あくまで現場の動きとしての彼らの実情に迫りたい。

 

(2)保健婦の歴史的背景

 戦前の保健婦の事業史については、大国氏や川上氏の著書が詳しいが、その概要を簡単に整理すると、戦前期の保健婦事業は公衆衛生の必要性からというよりも社会的困窮者における救済的な側面からのスタートが大きくある。その最たるものが訪問婦事業である。この事業は様々な団体が担っていたが、現在の家庭訪問の基本を作っていった事業といえよう。

また一方で、当時亡国病としてなっていた結核の蔓延に伴い、伝染病予防のためにこれらから人々を守ることを使命として、その予防、隔離などを実施していった。この背景には健民健兵政策から、国策としての保健婦事業が推奨されてくる。加えて無医村への対策として保健婦が置かれるケースも多くあった。

戦後における保健婦の事業は、GHQのもと社会事業的な性格から、公衆衛生看護の専門性を追求したものとなり、結核予防もさながら、各種伝染病、寄生虫駆除など様々な事業を中心に展開していくようになる。いうなれば、その教育方針が単に富国強兵策や貧困者対策の国策のそれから、国民の健康を向上させるためにと繋がっていくのである。

但し、こうした事業の流れ、戦前から戦後にかけての経緯が、全国各地津々浦々の保健婦にすべて適合していたかというと、「保健婦の手記」を見る限りにおいて、それはまた別の次元で考える必要性があるように思う。事業史的な流れとは別に、地域史のなかにおける保健婦の位置づけや役割は現場の保健婦の性格や裁量という部分によって様々な形を成している。

 

(3)保健婦の視点から見た地域

 では保健婦は地域生活についてどのような視点で見て、どのようにして向上をしていったのであろうか。保健婦の役割から言えば、それこそ地域に保健衛生を根付かせることが第一となるわけであるが、それをするためには地域生活の機微について調査し、生活の改善の必要性があればそれを改善させ、結果として保健衛生を地域根付かせることが重要となってくる。保健婦は、地域という枠組みということを念頭に置きながらも、各家庭について詳細な調査を行っている。後述する「保健婦の手記」に出てくるのはそうした各家庭の一コマが多い。地域全体を俯瞰することも確かに重要なことではあったのだろうが、保健婦にとってそうした俯瞰するに当たり一軒一軒の家庭がどのような背景のもとにあり、どういう位置づけにあるのかということを主眼にする必要性があった。

 そして、保健婦にとって地域とはそうした個別事象の集りであり、統計的に見た場合、この地域ではどのような対応策が必要なのかを垣間見る視点であると位置づける。保健婦にとって個別事象がまずあって、その上に全体性を見たわせる視点があるといってよい。

 当然のことながら、そうした各家庭をバックにしてまた地域を見ていくに当たり、その地域の民俗に触れる場面は多くある。保健婦という立場は、医療従事者の中でも長期的に地域という場に依拠することが多い。そうした場合、民俗との接点は自然と多くなってくる。こうなった時に、やはり民俗との摩擦があることは必須である。また逆に、民俗を利用することも中にはある。地域の民俗の考え方をいくら頭ごなしに否定してもそれは、単なる摩擦に終わる。それであれば、地域生活の向上は図れない。そこで保健婦は、地域生活における民俗を利用し、地域生活に融和していこうとする。この繰り返しが保健婦が地域の視点を維持できた理由である。

 

 

3.「保健婦の手記」を読む

(1)「保健婦の手記」とは

①「保健婦の手記」とは

 「保健婦の手記」とは、家庭訪問を続けていく中で保健婦自身が、そこで暮らす農民たちの暮らしを自己の体験から見つめなおすような性格を有している。「保健婦の手記」を通じてみることができるのは、地域生活における医療の重要性もさながら、日常生活における農民たちの苦労話など、雑談に類するようなものまで含まれ、そこから保健婦は「なぜこの地域には病気が多いのか」「貧しい暮らしが営まれているのか」と常に疑問として持っていた。いわゆる生活疑問というものである。そうしたせいか疑問を通じて得られるのは、農村生活の向上にどのような糸口があるのかを保健婦自身が考えることもそうであるが、これを手記にしるし、雑誌等で発表することによって、内外に生活疑問をアピールする狙いがある。また、「保健婦の手記」は同僚であるほかの保健婦の目にもつくことから、活動の共有化、自己反省につながる一つの教育的な性格を有している。

 

③「保健婦の手記」の性格

 この手記の属性が三つ挙げられる。第一に先に記したように当時における生活の克明な描写があること。生活に根差した活動を行っていた保健婦ならではのものであり、またエピソード的ではあるものの、その背景にある生活環境や社会状況についても言及がある点。

第二点に、これが掲載される雑誌の傾向である。主な雑誌として『保健婦雑誌』『公衆衛生』等の専門誌に加え『生活教育』という多分に社会教育的な影響を受けた雑誌にさえも、多くの手記が寄せられている。また生活教育の会(後に保健同人会となる)が発行している『生活教育』に至っては、手記の選考会評議会が行われ、入選者が雑誌への掲載を許されている。つまり、膨大な量の文章が選考会に投稿されて、有識者、例えば丸岡秀子、石垣純二、国分一太郎、金子光などが評価を下している。優秀作品を意図的に恣意的に選んでいる。文学作品的な評価も高く、単に職業的な評価というだけでなく、社会教育的な様相を呈している。

第三に他にも保健婦系の雑誌ではないが岩手県国民健康保険団体連合会が発行している『岩手の保健』には、保健婦だけでなく保健事業に関わった国保関係者や看護婦、栄養士など様々な方面からの記述があり、これが保健婦という職掌にとらわれない幅広い属性を有していることをここに明記しておく。

 

(2)『生活教育』と「保健婦の手記」

 「保健婦の手記」は多様な雑誌や著書として出回っている。それらそれぞれに雑誌の意図や著作の意図があり、その一貫性を図ることはできない。先に示した性格は大きな意味において言えることであって、すべてこれに当てはまるものがあるかというと微妙なところがある。雑誌『公衆衛生』や『保健婦雑誌』というようなものであれば、それこそ保健婦の実情を描いた手記が出ているが、どこかそれは保健婦個人の感じてきたことというよりも、事業方針における保健婦の報告的な書き方でしかない。実のところ、『公衆衛生』にしろ『保健婦雑誌』にしろ、まず事業があって、その枠内で保健婦がいるということであり、保健婦は事業の一つのコマに過ぎない。人間的というよりも機械的にその報告が手記という形で処理されているに過ぎない。ところが、『生活教育』という雑誌はその傾向からは全く異質なものがある。

 『生活教育』は昭和32年、生活教育の会の丸岡秀子、国分太一郎、金子光らの手によって編集された雑誌である。顔ぶれを見てわかる通り、この雑誌の意図するところは、社会教育的な側面が大きい。特に生活綴方運動、生活記録運動の流れをくむ人々がこぞってその編者となっている時点で、単なる保健婦の雑誌というものではない。その記述方針も、事業内部の保健婦という位置づけから、地域の人びとにふれあう保健婦という位置づけになっている。

『生活教育』は、保健婦の人間性を追求している。本研究が目指すところは、より具体的な生活であり人間の動態的なものとしてである。『生活教育』における「保健婦の手記」はそうした意味において、資料的にも価値があり分析することによって、保健婦と地域住民との関係性を知ることが出来る。

 

4.「保健婦の手記」に描かれる生活

(1)保健婦が見た生活

 保健婦と「保健婦の手記」の概要を見てきたように、保健婦と地域住民、そしてそこに息づく生活との接合点はかなり密接であることが言える。ここでは、より具体的にその保健婦の活動を「保健婦の手記」から取り上げて論じていきたい。勿論、用いる資料は『生活教育』の「保健婦の手記」を中心に述べていきたい。

 保健婦にとっての壁とはまさに、地域における既存の民俗であったりする。これを近代医学と民俗の対立ととらえる人もいるだろうが、実のところこの対立的なものはもっと別の方向から言えると思う。地域に入って保健衛生を普及させ、健康的な生活を作っていこうとする思いは、保健婦だけが持っていたわけではない。地域住民もまたそれを持っていたと考えていい。『岩手の保健』で乳幼児が次々に死んでいく中で、泣く泣く子どもの亡骸を抱き寄せる母の姿からすれば、子どもを死なせることはそれこそ辛いものであるし、病気にかかっても病院へやれないという思い、つまるところの病院へ行かせてやりたいし行きたいと思っている気持には変わりがないのだ。だから、単に近代的な保健衛生と民俗的な習俗が歯車として対立しあうものであったかというと全く異なる。ここでいう民俗という壁というのは、地域住民が「超えたいけれど越えられない壁」としてのアイデンティティーの産物といってもよい。伝統的生活を固辞しようとするのではなくて、伝統的生活から抜け出せない自分たちがなぜいるのかを誰かに気づかせてもらうことを求めているきらいがある。保健婦は彼らの声を聴き、彼らの想いを汲みながら、壁をより低くしてやることが必要とされるのである。

 

(2)保健婦が見た現実

 手記の多くに散見されるのが、嫁の地位の低さによる衛生指導のゆきわたらなさである。手元にある資料①と②をご覧いただければわかる通り、保健婦が関わる多くの仕事の中で母子保健に関わる仕事は大きい、そのために若い嫁や母に会い、それを指導する機会があるが、ところがそうした指導の中において一番のネックとなるのが、嫁の地位である。①は山形県、②は岩手県の農村の事例である。①は受胎調節(家族計画)指導において中絶をしようとする母(嫁)を想いとどませるために説得するという場面、②は出産したはいいが満足に医療の恩恵を受けられないままに、死んでいくわが子を前に泣き笑いをする母(嫁)の姿をえがいたものである。

 この二つの手記に共通するのが「嫁の地位の低さからくる夫や姑への気兼ね」である。①では避妊していたにもかかわらずメンス(月経)がないがために妊娠したのではないかと慌てる嫁が、夫が妊娠を理解してくれないで別の男の子ではないかと疑われることにひどくおびえている。そして一人でこっそり中絶をしようとするのであるが、保健婦によって中絶による母体の負担を説かれ、それで思いとどまるというものであるが、ここで重要なのは、これまで戦中の国策の「産めよ殖やせよ」の反対で、戦後は「産むな殖やすな」というようなものが飛び交うようになり、世間的に中絶をよしとする流れがあること、さらに世間体として子どもを多く授かることについて異論が飛んでいることから、子だくさんをあまりよしとしない風潮があり、そのための受胎調節だと思い込んでいる節があるということ。そしてこれを信じている夫婦だからこそ、そこに子を授かることを極度に嫌がり、夫がいぬまに中絶をしようとする嫁の姿があるというのが常であることなどが背景としてある。ここで嫁の地位が低いというのは、そうした夫婦での理解が曲がりなりにもあるにもかかわらず、夫へ妊娠したことを世間体から告げられないこと、隠れて中絶をすることで今の状態をキープしようとしていることが挙げられる。

 ②は乳児死亡率が昭和30年代当時最も高かった岩手県の事例で子どもが次々亡くなるなかで「泣き笑い」をしながら「命ッコがなかった」と諦めをしてしまう嫁と、「弱かった」という風に言って諦めさせようとする姑の会話があるのであるが、これもまた嫁の地位の低さを象徴しているようであり、産むことに対してたくさん産めばそのうちの何人かはまともに生きるというような風潮がその集落の多産多死を物語っていることになっている。ここで重要なのは、「泣き笑い」をする嫁と諦めを促す姑とのやり取りで、産んだ子どもが誕生日も迎えずに亡くなっていく姿を諦められずにいる嫁がいて、ただそれをあきらめさせないと次を産んでもらえないとして叱咤激励をする姑との関係性がその家族もさながら地域全体をのみ込む、多産多死を容認する動き、それでいて「泣き笑い」ながらも姑に従わざるを得ない「子を産むために迎えられた」嫁の実態。こうした嫁と姑の在り方というのは全国的に見られるものであるが、こうした多産多死の場においても姑に意見を言えない嫁の実態があることがうかがい知れる。

 では、こうした背景はいかにしてできてきたのだろうか。②の場合、『岩手の保健』の中に、嫁の地位の低さというのは、如実に出てくる。子どもを授かることというのはそれこそ多く産めばそれがいいという風潮がある。姑の言うように「命ッコがなかった」というように諦めて、次の子を早く妊娠することに期待する。しかしながら、普段の嫁の労働は激しく、夫の出稼ぎによって農業の人員は嫁と姑らの手に任され、妊婦だの病人だのといって横になっていることは許されない。「稼ぐ嫁」が求められ、それによって妊娠してもそのまま働き続けるから母体に負担がかかり、早産を招き栄養状態の悪い中での育児、稼がなければならない経済事情などから次々と死んでいく、そしてそれを追いかけるように次々生んでいくということの繰り返しであった。嫁の発言権は許されず、母体がいくらボロボロになろうと、それを行使することを要請される。保健婦は彼女らの状況をみながら、受胎調節指導を行うなどして、なんとか母体の安全をというのであるが、夫が出稼ぎから帰ったら、労働でくたくたになった体を横たえている嫁にせまり、性行為を要求する。いくら受胎調節をしても、それが定着しないのは、嫁だけに指導を与えているせいではないかとさえ思う。

 

(3)受胎調節をめぐる嫁の地位と姑

 先の述べた事例は、①と②ともに母子保健をめぐる問題として保健婦の前に立ちはだかったものであるが、これを分析する中で、「嫁の地位の低さ」「姑の無理解」「受胎調節の在り方への無理解」そうしたものが散在していることがわかる。これまで、保健婦研究の中では結果論として、受胎調節は成功し各地に広まったとなっていたが、実のところこうした摩擦が各方面であったということがわかっている。こうした保健婦事業を行うにあたり、嫁と姑の関係性というのはかなり重要なファクターを占めてくる。地域によってそれらを保健婦がどのようにクリアするのかには違いがあるが、まずは家庭訪問でこうした現実を知り、その上で地域全体でこれをどうとらえるのかを考え、婦人会などの場で嫁や姑らに声をかけていくことから始めていく。

また、受胎調節指導がこのように積極的に出てきた背景には、夫の出稼ぎ、留守宅を任された嫁への過重労働、それによる早産で虚弱児が生まれ、そして死んでいくという現実が一つの流れとしてある。これをいかに断ち切るかが問題点であり、そこに姑の理解も加えていく必要性がある。①と②の事例では触れていないが、実のところ、保健婦は直接姑に指導を行う機会は少ない。これは嫁自身が、それこそ自分の力でもってこれをクリアしていくことを望んでいるからであり、その自主性に欠けている節が多くある。これは社会教育的場側面からの女性解放運動の中からも問われていることであるが、保健婦は内在的な問題を内部の人間から積極的に変わってくれるよう手助けするのみで、直接的な手立てをしようとはしなかった。

 

まとめ

(1)「保健婦の手記」から見えてくるもの

 保健婦の活動を「保健婦の手記」からみていくと、そこには保健婦事業では映しきれない、様々な難題があることが理解できる。そうした難題のなかに民俗の存在もある。出産の問題、嫁姑の問題などなど多岐にわたる問題がそこにある。これを封建遺制としてしまうのは簡単だが、実際地域の人々は健康問題をどうにかしたいと願いながらも、それに抗おうとしながら、あきらめていたように感じる。封建遺制という遺制としての在り方よりも、生活の習慣化によって慣らされた諦観があったと考えてよい。そうした中において、保健婦はこの諦観をどうにかするべく、力を注いでいった。

 

(2)民俗学における「保健婦の手記」研究の可能性

これまで医療者に対する研究は民俗学の範疇からは除外されてきたが、しかしながら地域生活に隣接し住民とともに保健衛生を考え、それについて指導を行ってきたこと、かかわりを持ってきたことというのはそれだけで民俗生活に大きな影響を与えたものといえる。保健婦の関わり方はまさにその部分では生活に密接に関与しているといえる。そうした中で、「保健婦の手記」という保健婦と住民との関係性を記すものを分析することは、より具体的な生活の中における民俗を垣間見ることが出来るし、それを変えようとした保健婦側がぶつかった民俗生活との摩擦がよくわかる。その意味で民俗学における研究の可能性は格段に広い分野ではないか。

2013年11月9日土曜日

「保健婦の手記」からみる民俗との関わり(平成25年11月9日現在)


平成25119

 

「保健婦の手記」からみる民俗との関わり

 

1.はじめに

(1)保健婦、「保健婦の手記」との出逢い

農山村僻地へ調査に赴くと、その都度様々な民俗行事や習俗と出会うことがあるが、そうした習俗の変遷について歴史的流れを追う中で、生活の推移についても触れることが多い。そうした生活の推移において民俗の変化を語るとき、やはり基準となる物質なり経済的な動きを基準にそれを表すことが多々ある。しかしながら、人々の生活はそう規則的なものではない。様々な要因を抱えながら生活を変えていくし、その都度民俗も形を変えざるを得なくなる。民俗学での変化の諸相は、そうした部分、人々の生活の動態的なあり方についての分析が足りないように思う。

 そうしたことを考えていた折に、兵庫県宍粟郡千種町でとある保健婦と出会った。彼女は地域に入り地域住民とともに彼らの視点に立った方策をたてながら、地域生活に深く関与し、民俗に対しても時に衝突し、時に融和しながらそれこそ段階を経て生活の向上を目指した活動を展開していった。こうした、動きというのは実のところ保健婦研究の中でも明らかにされていない。ましてや民俗学の分野において保健婦という医療従事者のことを分析した類のものはあまりない。しかし、保健婦が行った事、地域を見て行ったこと、そしてそこで住民と交わした言葉や行動はそれこそ民俗の変化に深く関与したとみていいと思う。この対応の在り方をのぞくことこそ、地域生活の向上化のなかにおいて、民俗がどのように見られ、さらに新しいものにかわることを地域住民はどう感じていたのかという動きを具体的に見ることが可能となるのではないか。

 本研究の動機はそうした保健婦らが地域と関わり、民俗と関わる中でどういったことがいえるのか、そういうところに注目してみたい。また、本研究の根幹となるのは、そうした保健婦らが記した地域との交流録、「保健婦の手記」の存在である。この手記に描かれる生活のありようは、それこそ歴史的な大きな流れからは捨象されてきた粗末なことかもしれない。ただ、そうした生活の具体性の中に私たちが生きていることには間違いなく、それこそ生活の現実性を見ることになる。手記はそうした意味においてより現実的な問題として新しいものと民俗がどう関わり交わってきたのかを感じることが出来る素材である。本発表ではその手記がどのようなものであり、民俗との関わりにはどういったものが浮き彫りになるのかを述べてみたい。

 

(2) )研究史

 保健婦の歴史的研究については、大国美智子氏の『保健婦の歴史』や川上裕子氏の『日本における保健婦事業の成立と展開-戦前・戦中期を中心に-』の中で保健婦事業の成り立ちと経緯を述べている。また、実際に初期の保健婦として活躍された高橋政子氏が『写真で見る日本近代看護の歴史 先駆者を訪ねて』で具体的な人物を挙げて保健婦の成り立ちについて述べている。さらに、高橋氏は自らの半生を振り返り『いのちをみつめて ある保健婦の半生』で、初期の保健婦たちの様子を自身の体験として記している。

民俗学での研究では、木村哲也氏の『駐在保健婦の時代 19421997』がある。木村氏は、高知県の駐在保健婦制度とその時代的背景、実際の活動展開、歴史的位置付けについて詳しく論じている。歴史的研究ではあまり注目されなかった保健婦の実態を丹念な聞き取り調査と事業的背景との接合点から明らかにしている。しかしながら、これらの先行研究は事業史や個人史をもとに描いてはいるが、地域における彼らの活動がいかに受け入れられていったのかという肝心な部分がない。

 本発表で注目したいのは、事業史的な流れとは別に現場における保健婦と地域住民との生々しい対話の中で、保健婦がいかに受け入れられていくのか、保健婦の考え方や生活指導がどのようにして受け入れられていくのかという現実を垣間見てみたい。そこで用いるのが、「保健婦の手記」である。「保健婦の手記」に対する研究はほとんどない。「保健婦の手記」がどのようなものであり、どのような役割を果たしていたのかということについては研究が皆無に等しい。しかしながら、自分史という中で保健婦自身が自分と住民との交流録を描くことが多い。「保健婦の手記」はそのような中において保健婦の事業推進に伴う実際的な動きを見ることが可能な資料となっている。

 

(3)民俗学における「保健婦の手記」研究の可能性【1

助産婦のことについては、出産の変遷の場で論じられることはあっても、保健婦はそうした論じられ方はしない。しかしながら、保健婦活動は母子保健という立場に立てば、産婆や助産婦よりも、母と子に対してかなり密に連絡を取り、妊娠前後から出産後にいたって、子どもの成長などを見届けるなど、かなり長いスパンにわたり関与している。助産婦などが一時の活動であるのに対し、継続的な関与として保健婦が位置付けられる。

また、母子保健に関わらず、保健婦活動は多岐にわたり、健康、衛生の教育普及に始まり、公衆衛生という分野にとどまらず生活支援など身の上相談もこなす。ある意味地域のアドバイザーとしての側面が強い。それこそ、地域生活に与えた影響は大きいものであると考える。

これまで医療者に対する研究は前近代的な伝統生活を対象としてきた民俗学の範疇からは除外されてきたが、しかしながら地域生活に隣接し住民とともに保健衛生を考え、それについて指導を行ってきたこと、かかわりを持ってきたことというのはそれだけで民俗生活に大きな影響を与えたものといえる。保健婦の関わり方はまさにその部分では生活に密接に関与しているといえる。そうした中で、「保健婦の手記」という保健婦と住民との関係性を記すものを分析することは、より具体的な生活の中における民俗を垣間見ることが出来るし、それを変えようとした保健婦側がぶつかった民俗生活との摩擦がよくわかる。その意味で民俗学における研究の可能性は格段に広い分野ではないかと思う。

 

2.保健婦の存在意義

(1)保健婦とは

保健婦は、時代ごとに名称が変化し、その事業目的によりそれが目指す方向性が異なっているため、一概にこうしたものという定義はできない。現行の「保健師助産師看護師法」の法規を歴史上のすべての保健婦という対象に当てはめることはできない。しかしながら、仮に定義をするならば、日本看護協会監修の『新版保健師業務要覧 第二版』によれば「保健師は、常に、人々ともに疾病を予防し、人々が主体的に健康な生活ができるように支援してきた。特に、貧困層が生活する地区には重点的に予防活動を行い、さらに健康な人も病気や障がいを抱えた人もすべて、「人として生きること・健康であること」が保障されるように、生涯を通した人々の健康と幸福を実現することを使命としてきた。社会が予防的看護を必要とし、個人や集団の疾病予防と健康管理の専門家として保健師が誕生したのである」と言える。言い換えれば身体的健康を守ることもさながら、社会保障面における社会的健康を守る専門家が保健婦と言える。

本研究においての保健婦は戦後から昭和50年代にかけての保健婦を指す。また、保健婦の歴史は戦前からあるものの、戦後のそれはGHQの政策等により大きく変更がなされている個所があり、その仕事の在り方もGHQの影響を受けている。但し、木村氏が指摘しているように、戦後の保健婦事業はこのGHQの政策としてのそれと、戦前からあった訪問婦を基とするような社会福祉事業としてのそれがせめぎ合っている状態であった。そのため、事業の方針としてのそれと、経験則としての現場の方針は異なる部分がある。事業史としての保健婦をここであらわすとは思っていない。あくまで現場の動きとしての彼らの実情に迫りたい。

 

(2)保健婦の歴史的背景

 戦前の保健婦の事業史については、大国氏や川上氏の著書が詳しいが、その概要を簡単に整理すると、戦前期の保健婦事業は公衆衛生の必要性からというよりも社会的困窮者における救済的な側面からのスタートが大きくある。その最たるものが訪問婦事業である。この事業は様々な団体が担っていたが、現在の家庭訪問の基本を作っていった事業といえよう。それまで、役場や篤志家のもとに訪れなければ救済できなかった貧民の現状を、逆に一軒一軒訪問しそのほどを知り、それに応じた手当をしていくということからスタートしている。当初は都市部の人びとを対象としたものであったが、時代経るごとに農山漁村部へと広がりを持って行く。事業の在り方も事業を形成する団体の方針もその都度変化していくが、依然としてあったのが保健婦というものは、公衆衛生もさながら社会事業としての性格が強かった。

また一方で、こうした動きに看護事業が加わっていく。当時亡国病としてなっていた結核の蔓延に伴い、伝染病予防のためにこれらから人々を守ることを使命として、その予防、隔離などを実施していった。この背景には富国強兵策からものがあり、結核から大切な兵士を守る国策としての保健婦事業が推奨されてくることが一つあり、これまでの社会事業と合わせて、そこに公衆衛生に関わる領域が付与していくようになっていった。

戦後における保健婦の事業は、GHQのもと事業が公衆衛生方面に傾倒していく。これまでの社会事業的な性格から、公衆衛生看護の専門性を追求したものとなり、結核予防もさながら、各種伝染病、寄生虫駆除など様々な公衆衛生領域の事業を中心に展開していくようになる。いうなれば、その教育方針が単に富国強兵策や貧困者対策の国策のそれから、国民の健康を向上させるための、公衆衛生看護的側面へと繋がっていくのである。勿論、社会保障面における保健婦の事業も展開はしていくが、それは社会福祉面に移譲されるようになり、保健婦は戦前のそれよりも看護に特化した形に動いていくような形になっていく。

但し、こうした事業の流れ、戦前から戦後にかけての経緯が、全国各地津々浦々の保健婦にすべて適合していたかというと、「保健婦の手記」を見る限りにおいて、それはまた別の次元で考える必要性があるように思う。事業史的な流れとは別に、地域史のなかにおける保健婦の位置づけや役割はその地域の特性、現場の保健婦の性格や裁量という部分によって様々な形を成している。こうした歴史的背景と現実的な保健婦の対応の在り方をちゃんととらえなければ、実のところ保健婦が地域で何をしていたのかということはわからない。本発表では、今一度事業史レベルの話からもっとマクロな部分における現場の裁量としての保健婦はいかなるものであったのかに着目することにしたい。

 

(3)保健婦活動における役割

 保健婦の事業的背景について述べてきたが、ここで保健婦の活動は具体的にどのようなものであったのかということについて、少し触れておきたい。公衆衛生看護という方面における活動が保健婦の活動であるという理解がある一方で、保健婦は戦前と同じく家庭訪問において訪問宅の生活に触れ、その生活の改善策、それこそ保健医療を根付かせるための活動を展開していく。つまり、先に記したように農家の生活向上なくして、保健衛生の向上は成り立たないという考え方が主流であった。そのため、公衆衛生活動をするにあたり、家庭訪問を通じてその地域、その家庭の事情をこと細かく調べ、そのうえでそこに似合った生活の改善策を模索し、改善を実行するということも役割の一つとしてあったと考える。

 これまでの研究史上では、こうした保健婦と生活との関係性についてはこと細かく触れていない。それこそ事業的な流れ保健婦とその地域事業との間でのやり取りしか描かれていない。保健婦の実際の活動について描写する機会というのはほとんどなかったといっていい。しかしながら、事業展開をしていくに当たりその基盤としての、家庭訪問がどのような役割を担っていたのか、そういうことも認識しておく必要性がある。保健婦の活動が公衆衛生看護に依拠した考え方だけだというものではないことをここに記しておく。

 

(4)保健婦の視点から見た地域

 では保健婦は地域生活についてどのような視点で見て、どのようにして改善をしていったのであろうか。保健婦の役割から言えば、それこそ地域に保健衛生を根付かせることが第一となるわけであるが、先に述べたようにそれをするためには地域生活の機微について調査し、生活の改善の必要性があればそれを改善させ、向上させることで、結果として保健衛生を地域根付かせることが重要となってくる。保健婦は、地域という枠組みということを念頭に置きながらも、各家庭について詳細な調査を行っている。後述する「保健婦の手記」に出てくるのはそうした各家庭の一コマが多い。地域全体を俯瞰することも確かに重要なことではあったのだろうが、保健婦にとってそうした俯瞰するに当たり一軒一軒の家庭がどのような背景のもとにあり、どういう位置づけにあるのかということを主眼にする必要性があった。特に事業の中でも家庭訪問はその意味では、個別事象的だったといえよう。

 そして、保健婦にとって地域とはそうした個別事象の集りであり、統計的に見た場合、この地域ではどのような対応策が必要なのかを垣間見る視点であると位置づける。保健婦にとって個別事象がまずあって、その上に全体性を見たわせる視点があるといってよい。現実的に保健婦が見ていたのはそうした個別事象の積み重ねであったのだろう。

 当然のことながら、そうした各家庭をバックにしてまた地域を見ていくに当たり、その地域の民俗に触れる場面は多くある。それこそ、生活の基礎的な部分から、非日常的な部分に至るまで、すべての生活に保健婦は関わることになる。保健婦という立場は、医療従事者の中でも地域という場に依拠することが多い。長期的に生活を見ている場合が多い。そうした場合、民俗との接点は自然と多くなってくる。こうなった時に、やはり民俗との摩擦があることは必須である。また逆に、民俗を利用することも中にはある。地域の民俗の考え方をいくら頭ごなしに否定してもそれは、単なる摩擦に終わる。それであれば、地域生活の向上は図れない。そこで保健婦は、地域生活における民俗を利用し、人心掌握ではないが、そうした意味で地域生活に融和していこうとする。この繰り返しが保健婦が地域の視点を維持できた理由である。

 

 

3.「保健婦の手記」を読む

(1)「保健婦の手記」とは

①保健婦の記録の特性

 簡単に説明すれば、保健婦の日常業務における記録をもとに描いた経験談である。保健婦の日常業務である家庭訪問においては、様々な情報が集まる。それは何も母子のこと病者のことだけではない、それを取り囲む過程全体のこともその家庭訪問の記録には記されていく。代表的なものとして吉田喜久代氏の『砂丘の陰に』という戦前に記された日報がある。当時の保健婦は「訪問婦」と呼ばれ社会事業的な性格が強いものであり、病者のそれとは違うが、日々の家庭訪問の度にその家の状況を事細かに記録し、上司に報告するような形をとっている。これが戦後においてもそうであったかということはないにしても、家庭状況を把握すること母子や病者、生活弱者がとりまく生活の実態について記録し、それを把握しながら仕事にあたるのであるから、当然のことながら記録類には、日常生活の機微が伝わるものがある。また、たびたび訪問することによってそれが積み重ねられ、その一家の家庭事情から経済事情などのことを知る手掛かりにもなる。

 

②「保健婦の手記」とは

 そうした中での「保健婦の手記」というのは、それらの家庭訪問を続けていく中で保健婦自身が、そこで暮らす農民たちの暮らしに対する疑問点を自己の体験から見つめなおすような性格を有している。「保健婦の手記」を通じてみることができるのは、地域生活における医療の重要性もさながら、日常生活における農民たちの苦労話など、雑談に類するようなものまで含まれ、そこから保健婦は「なぜこの地域には病気が多いのか」「貧しい暮らしが営まれているのか」と常に疑問として持っていた。いわゆる生活疑問というものである。そうしたせいか疑問を通じて得られるのは、農村生活の向上にどのような糸口があるのかを保健婦自身が考えることもそうであるが、これを手記にしるし、雑誌等で発表することによって、内外に生活疑問をアピールする狙いがある。また、「保健婦の手記」は同僚であるほかの保健婦の目にもつくことから、活動の共有化、自己反省につながる一つの教育的な性格を有している。

 

③「保健婦の手記」の性格

()「保健婦の手記」の共通性

 ところでここで、一応「保健婦の手記」についての概念規定を記しておきたい。というのも、この記録は様々な雑誌等で掲載がされ、その雑誌ごとに性格が異なる。内容もその雑誌の属性に迫ったものが多く、一口に「保健婦の手記」といっても様々なものがある。ただ、共通して言えることは、この保健婦の経験は、次世代の保健婦や同僚に対してむけられていること。また雑誌の書き方にもよるのであるが、保健婦が農山漁村の生活記録を公開することによって、農山漁村の内在化する問題を、読者である民衆に気付かせる狙いを含めてあることがいえる。言い換えれば、「保健婦の手記」と一般的に言われるものの多くが、開示されることによって情報の共有化、問題の顕在化を促すことが主であるということである。

 

()「保健婦の手記」の属性

 この手記の属性が三つ挙げられる。第一に先に記したように当時における生活の克明な描写があること。生活に根差した活動を行っていた保健婦ならではのものであり、またエピソード的ではあるものの、その背景にある生活環境や社会状況についても言及がある点。

第二点に、これが掲載される雑誌の傾向である。主な雑誌として『保健婦雑誌』『公衆衛生』等の専門誌に加え『生活教育』という多分に社会教育的な影響を受けた雑誌にさえも、多くの手記が寄せられている。また生活教育の会(後に保健同人会となる)が発行している『生活教育』に至っては、手記の選考会評議会が行われ、入選者が雑誌への掲載を許されている。つまり、膨大な量の文章が選考会に投稿されて、有識者、例えば丸岡秀子、石垣純二、国分一太郎、金子光などが評価を下している。優秀作品を意図的に恣意的に選んでいる。文学作品的な評価も高く、単に職業的な評価というだけでなく、社会教育的な様相を呈している。

第三に他にも保健婦系の雑誌ではないが岩手県国民健康保険団体連合会が発行している『岩手の保健』には、保健婦だけでなく保健事業に関わった国保関係者や看護婦、栄養士など様々な方面からの記述があり、これが保健婦という職掌にとらわれない幅広い属性を有していることをここに明記しておく。

 

(2)『生活教育』と「保健婦の手記」

 「保健婦の手記」は多様な雑誌や著書として出回っている。それらそれぞれに雑誌の意図や著作の意図があり、その一貫性を図ることはできない。先に示した性格は大きな意味において言えることであって、すべてこれに当てはまるものがあるかというと微妙なところがある。雑誌『公衆衛生』や『保健婦雑誌』というようなものであれば、それこそ保健婦の実情を描いた手記が出ているが、どこかそれは保健婦個人の感じてきたことというよりも、事業方針における保健婦の報告的な書き方でしかない。言い方を変えるならば事務的に処理された事業という中でじゃあどうやって現場の保健婦は動いているのかを、事業内部で明らかにしているに過ぎない。実のところ、『公衆衛生』にしろ『保健婦雑誌』にしろ、まず事業があって、その枠内で保健婦がいるということであり、保健婦は事業の一つのコマに過ぎない。人間的というよりも機械的にその報告が手記という形で処理されているに過ぎない。ところが、『生活教育』という雑誌はその傾向からは全く異質なものがある。

 『生活教育』は昭和32年、生活教育の会の丸岡秀子、国分太一郎、金子光らの手によって編集された雑誌である。顔ぶれを見てわかる通り、この雑誌の意図するところは、社会教育的な側面が大きい。特に生活綴方運動、生活記録運動の流れをくむ人々がこぞってその編者となっている時点で、単なる保健婦の雑誌というものではない。その記述方針も、これまで論じていた『公衆衛生』などと違って事業内部の保健婦という位置づけから、地域の人びとにふれあう保健婦という位置づけになっている。確かに事業的内容も含まれてはいるものの、どちらかというと保健婦の実態を、保健婦の心情から持って論じているところがこの雑誌の特徴的なものといってよい。基本的に、この雑誌は投稿形式で成り立っており、投稿者である保健婦が生活教育の会宛に手記を送り、その手記を生活教育の会内部で選考し、入選作品が『生活教育』に掲載される。掲載の基準は、『公衆衛生』や『保健婦雑誌』がより報告的な内容を求めるのとは異なり、現場の保健婦がぶつかった壁であったり感じたこと、それこそ喜怒哀楽すべてにわたってどう感じ取っていたのかとイことを文章化し、その文章内容の在り方で決まっている。決して報告的な内容でとどまっているわけではない。

 「保健婦の手記」は数多く出版、形成されているものではあるが、『生活教育』に描かれる保健婦は、現場において何があってどう対応し、そしてそこにどんな気持ちを含めながら行ったのかという保健婦の人間性を追求している。本発表の初めにでもふれたが、本研究が目指すところは、より具体的な生活であり人間の動態的なものとしてのそれである。つまり人間の心情ひとつもそれに含まれる。心情がどうあったのかそれによってどう人は変化を拒み、また受け入れたのかというところが知りたい。『生活教育』における「保健婦の手記」はそうした意味において、資料的にも価値があり分析することによって、保健婦と地域住民との関係性を知ることが出来る。また保健婦が事業を展開するにあたっての保健婦と地域住民の摩擦や融和を見ることがかなうのではないだろうか。

 

4.「保健婦の手記」に描かれる民俗

(1)保健婦が見た民俗

 保健婦と「保健婦の手記」の概要を見てきたように、保健婦と地域住民、そしてそこに息づく生活との接合点はかなり密接であることが言えると思う。ここでは、より具体的にその保健婦の活動を「保健婦の手記」から取り上げて論じていきたいと思う。勿論、用いる資料は『生活教育』の「保健婦の手記」を中心に述べていきたいが、その背景にも着目したいため若干別視点からの資料も検討材料として押さえておきたい。それは、農家によって描かれた手記の類であったり、『岩手の保健』に描かれた農村の声であったり、新評論社から昭和30年代に出ている農村新書シリーズに描かれる農村の手記を取り上げたものなどさまざまであるが、これらは保健婦がぶつかった壁をより鮮明に、どうしてそういう壁が存在しうるのかを検討するものである。

 保健婦にとっての壁とはまさに、地域における既存の民俗であったりする。これを近代医学と民俗の対立ととらえる人もいるだろうが、実のところこの対立的なものはもっと別の方向から言えると思う。地域に入って保健衛生を普及させ、健康的な生活を作っていこうとする思いは、保健婦だけが持っていたわけではない。地域住民もまたそれを持っていたと考えていい。『岩手の保健』で乳幼児が次々に死んでいく中で、泣く泣く子どもの亡骸を抱き寄せる母の姿からすれば、子どもを死なせることはそれこそ辛いものであるし、病気にかかっても病院へやれないという思い、つまるところの病院へ行かせてやりたいし行きたいと思っている気持には変わりがないのだ。だから、単に近代的な保健衛生と民俗的な習俗が歯車として対立しあうものであったかというと全く異なる。どちらかといえば、近代的な保健衛生を手に入れて健康を向上させてやりたい。そういう気持ちがあってしかるべきなのである。だから、ここでいう民俗という壁というのは、地域住民が「超えたいけれど越えられない壁」としてのアイデンティティーの産物といってもよい。伝統的生活を固辞しようとするのではなくて、伝統的生活から抜け出せない自分たちがなぜいるのかを誰かに気づかせてもらうことを求めているきらいがある。保健婦は彼らの声を聴き、彼らの想いを組みながら、民俗の壁をより低くしてやることが必要とされるのである。先に断わっておくが、保健婦は因習を打破しようとしているのではない。因習にがんじがらめになっている地域住民のよき理解者となり、その上で保健衛生をより具体的なものとしてとらえ、そこから住民の自主性を育て上げることが重要なのである。

 だから、保健婦にとっての壁は、そうした積極的な民俗への介入ではあるものの、これは言い換えれば住民自身が積極的に民俗をどうとらえなおすかを問うているように思う。

 

(2)戦後の近代化における伝統の保持と諸問題

(3)保健婦のアプローチ

(4)民俗生活の摩擦と融和

…嫁姑問題、女性の地位、世間体、共同体としての封建制。医療とは違った形での保健婦活動という視点に主眼を置いてみたい。

 

まとめ

(1)「保健婦の手記」から見えてくるもの

 保健婦の活動を「保健婦の手記」からみていくと、そこには保健婦事業では映しきれない、様々な難題があることが理解できる。そうした難題のなかに民俗の存在もある。出産の問題、嫁姑の問題などなど多岐にわたる問題がそこにある。これを封建遺制としてしまうのは簡単だが、実際地域の人々は健康問題をどうにかしたいと願いながらも、それに抗おうとしながら、あきらめていたように感じる。封建遺制という遺制としての在り方よりも、生活の習慣化によって慣らされた諦観があったと考えてよい。そうした中において、保健婦はこの諦観をどうにかするべく、力を注いでいった。民俗を変えるという大きな偉業よりも、民俗を支える人々の意識において働きかけたと言ってみてよい。

 これまでの民俗学における近代医療の在り方や近代化という問題について、どこかしら民俗との対立的なもの、伝統を壊すようなものとしてとらえられてきたが、実のところ、伝統に対して疑問を持っていたのは保健婦をはじめとする医療従事者という有識者だけではない。ちいき住民そのものが伝統というものに対して、疑問を含みながら生活をしていた。ただ諦観して生活の習慣化、規則化が壊されることを恐れていたのかもしれない。だが、変えようとした事実はあり、それに保健婦は関わろうとしたということが「保健婦の手記」からは見えてくる。

 

(2)保健婦と生活者の接合点

 

(3)民俗学における「保健婦の手記」研究の可能性【2

…保健婦の手記には多分に生活者の実態と、民俗生活における時代的齟齬を内包している。そうした民俗生活を変えていくうえで保健婦が果たした役割は大きい。生活者に近い存在だからこそ、わかる部分が多い。こうした保健婦の手記、保健婦の証言が示す民俗の在り方というものを民俗学的に分析するためにどうすればいいかを考察する。

 

2013年11月6日水曜日

「保健婦の手記」にみる民俗との関わり(京都民俗学会発表原稿途中経過)

まだ書きかけで申し訳ないのですが……一度経過報告という意味で開示します。

平成25116

 

「保健婦の手記」からみる民俗との関わり

 

1.はじめに

(1)保健婦、「保健婦の手記」との出逢い

保健婦という職業は、医学的、衛生学的な視点からの生活指導を主たる目的にはしているが、実際地域での活動をみてみると、単にそれだけではなく、生活学的、教育学的な視点からの生活に根差した指導も行っている。また、指導といっても上から下への命令的な指導ではなく、地域の事情を踏まえ、その上での活動を展開している。つまり、地域住民にとって近しい関係にあり、それでいて専門性を有していることになる。さらに加えるならば、保健婦はその職業としてのそれだけにあたるのでは、地域住民との信頼関係を築けないため、同じ目線に立って考えることをしている。いうなれば、職業としての「保健婦」ではなく、もっと人間性としての「保健婦」がそこにあるのではないかと思う。

 

(2) )研究史

 保健婦の歴史的研究については、大国美智子氏の『保健婦の歴史』や川上裕子氏の『日本における保健婦事業の成立と展開-戦前・戦中期を中心に-』の中で保健婦事業の成り立ちと経緯を述べている。また、実際に初期の保健婦として活躍された高橋政子氏が『写真で見る日本近代看護の歴史 先駆者を訪ねて』で具体的な人物を挙げて保健婦の成り立ちについて述べている。さらに、高橋氏は自らの半生を振り返り『いのちをみつめて ある保健婦の半生』で、初期の保健婦たちの様子を自身の体験として記している。

民俗学での研究では、木村哲也氏の『駐在保健婦の時代 19421997』がある。木村氏は、高知県の駐在保健婦制度とその時代的背景、実際の活動展開、歴史的位置付けについて詳しく論じている。歴史的研究ではあまり注目されなかった保健婦の実態を丹念な聞き取り調査と事業的背景との接合点から明らかにしている。しかしながら、これらの先行研究は事業史や個人史をもとに描いてはいるが、地域における彼らの活動がいかに受け入れられていったのかという肝心な部分がない。

 本発表で注目したいのは、事業史的な流れとは別に現場における保健婦と地域住民との生々しい対話の中で、保健婦がいかに受け入れられていくのか、保健婦の考え方や生活指導がどのようにして受け入れられていくのかという現実を垣間見てみたい。そこで用いるのが、「保健婦の手記」である。「保健婦の手記」に対する研究はほとんどない。「保健婦の手記」がどのようなものであり、どのような役割を果たしていたのかということについては研究が皆無に等しい。しかしながら、自分史という中で保健婦自身が自分と住民との交流録を描くことが多い。「保健婦の手記」はそのような中において保健婦の事業推進に伴う実際的な動きを見ることが可能な資料となっている。

 

(3)民俗学における「保健婦の手記」研究の可能性【1

助産婦のことについては、出産の変遷の場で論じられることはあっても、保健婦はそうした論じられ方はしない。しかしながら、保健婦活動は母子保健という立場に立てば、産婆や助産婦よりも、母と子に対してかなり密に連絡を取り、妊娠前後から出産後にいたって、子どもの成長などを見届けるなど、かなり長いスパンにわたり関与している。助産婦などが一時の活動であるのに対し、継続的な関与として保健婦が位置付けられる。

また、母子保健に関わらず、保健婦活動は多岐にわたり、健康、衛生の教育普及に始まり、公衆衛生という分野にとどまらず生活支援など身の上相談もこなす。ある意味地域のアドバイザーとしての側面が強い。それこそ、地域生活に与えた影響は大きいものであると考える。

これまで医療者に対する研究は前近代的な伝統生活を対象としてきた民俗学の範疇からは除外されてきたが、しかしながら地域生活に隣接し住民とともに保健衛生を考え、それについて指導を行ってきたこと、かかわりを持ってきたことというのはそれだけで民俗生活に大きな影響を与えたものといえる。保健婦の関わり方はまさにその部分では生活に密接に関与しているといえる。そうした中で、「保健婦の手記」という保健婦と住民との関係性を記すものを分析することは、より具体的な生活の中における民俗を垣間見ることが出来るし、それを変えようとした保健婦側がぶつかった民俗生活との摩擦がよくわかる。その意味で民俗学における研究の可能性は格段に広い分野ではないかと思う。

 

2.保健婦の存在意義

(1)保健婦とは

保健婦は、時代ごとに名称が変化し、その事業目的によりそれが目指す方向性が異なっているため、一概にこうしたものという定義はできない。現行の「保健師助産師看護師法」の法規を歴史上のすべての保健婦という対象に当てはめることはできない。しかしながら、仮に定義をするならば、日本看護協会監修の『新版保健師業務要覧 第二版』によれば「保健師は、常に、人々ともに疾病を予防し、人々が主体的に健康な生活ができるように支援してきた。特に、貧困層が生活する地区には重点的に予防活動を行い、さらに健康な人も病気や障がいを抱えた人もすべて、「人として生きること・健康であること」が保障されるように、障害を通した人々の健康と幸福を実現することを使命としてきた。社会が予防的看護を必要とし、個人や集団の疾病予防と健康管理の専門家として保健師が誕生したのである」と言える。言い換えれば身体的健康を守ることもさながら、社会保障面における社会的健康を守る専門家が保健婦と言える。定義の中では保健師となっているが、歴史的な変動の中で一つの根幹としてある職業としての意志は変わっておらず、これは過去の保健婦にも言えることである。

本研究においての保健婦は戦後から昭和50年代にかけての保健婦を指す。また、保健婦の歴史は戦前からあるものの、戦後のそれはGHQの政策等により大きく変更がなされている個所があり、その仕事の在り方もGHQの影響を受けている。但し、木村哲也氏が指摘しているように、戦後の保健婦事業はこのGHQの政策としてのそれと、戦前からあった訪問婦を基とするような社会福祉事業としてのそれがせめぎ合っている状態であった。そのため、事業の方針としてのそれと、経験則としての現場の方針は異なる部分がある。事業史としての保健婦をここであらわすとは思っていない。あくまで現場の動きとしての彼らの実情に迫りたい。

 

(2)保健婦の歴史的背景

 戦前の保健婦の事業史については、大国氏や川上氏の著書が詳しいが、その概要を簡単に整理すると、戦前期の保健婦事業は公衆衛生の必要性からというよりも社会的困窮者における救済的な側面からのスタートが大きくある。その最たるものが訪問婦事業である。この事業は様々な団体が担っていたが、現在の家庭訪問の基本を作っていった事業といえよう。それまで、役場や篤志家のもとに訪れなければ救済できなかった貧民の現状を、逆に一軒一軒訪問しそのほどを知り、それに応じた手当をしていくということからスタートしている。当初は都市部の人びとを対象としたものであったが、時代経るごとに農山漁村部へと広がりを持って行く。事業の在り方も事業を形成する団体の方針もその都度変化していくが、依然としてあったのが保健婦というものは、公衆衛生もさながら社会事業としての性格が強かった。

また一方で、こうした動きに看護事業が加わっていく。当時亡国病としてなっていた結核の蔓延に伴い、伝染病予防のためにこれらから人々を守ることを使命として、その予防、隔離などを実施していった。この背景には富国強兵策からものがあり、結核から大切な兵士を守る国策としての保健婦事業が推奨されてくることが一つあり、これまでの社会事業と合わせて、そこに公衆衛生に関わる領域が付与していくようになっていった。

つまり、戦前における保健婦像というのはどこか社会事業的な側面としてのそれが大きい。勿論公衆衛生方面での活躍は大きいが、どちらかというと公衆衛生を向上させるためには農家の生活を向上させるほうが先になって来るため、その救済措置の方面が重点的に行われていたといっていい。

戦後における保健婦の事業は、GHQのもと事業が公衆衛生方面に傾倒していく。これまでの社会事業的な性格から、公衆衛生看護の専門性を追求したものとなり、結核予防もさながら、各種伝染病、寄生虫駆除など様々な公衆衛生領域の事業を中心に展開していくようになる。いうなれば、その教育方針が単に富国強兵策や貧困者対策の国策のそれから、国民の健康を向上させるための、公衆衛生看護的側面へと繋がっていくのである。勿論、社会保障面における保健婦の事業も展開はしていくが、それは社会福祉面に移譲されるようになり、保健婦は戦前のそれよりも看護に特化した形に動いていくような形になっていく。

但し、こうした事業の流れ、戦前から戦後にかけての経緯が、全国各地津々浦々の保健婦にすべて適合していたかというと、「保健婦の手記」を見る限りにおいて、それはまた別の次元で考える必要性があるように思う。事業史的な流れとは別に、地域史のなかにおける保健婦の位置づけや役割はその地域の特性であったり、現場の保健婦の性格や裁量という部分によって様々な形を成している。これについては、医学面では「認められない歴史」であろうし、限りなくグレーゾーンの部分であることは確かである。だが、こうした歴史的背景と現実的な保健婦の対応の在り方をちゃんととらえなければ、実のところ保健婦が地域で何をしていたのかということはわからない。先に述べた木村氏の研究はそういった意味ではこの現実の保健婦の動きと事業史の動きを確実にとらえている。

本発表では、木村氏の研究をもう少し具体的に進めるため、今一度事業史レベルの話からもっとマクロな部分における現場の裁量としての保健婦はいかなるものであったのかに着目することにしたい。

 

(3)保健婦活動における役割

(4)保健婦の視点から見た地域

…保健婦とはどのような人間か。保健婦助産婦看護婦法の表記における保健婦の存在。歴史的背景。都市の保健婦と農村保健婦。村の中にいて村人の生活を垣間見ることが出来た保健婦は民俗生活に接近するとともにそれを観察する目線をもっていたのではないか。

 

3.「保健婦の手記」を読む

(1)「保健婦の手記」とは

①保健婦の記録の特性

 簡単に説明すれば、保健婦の日常業務における記録をもとに描いた経験談である。保健婦の日常業務である家庭訪問においては、様々な情報が集まる。それは何も母子のこと病者のことだけではない、それを取り囲む過程全体のこともその家庭訪問の記録には記されていく。代表的なものとして吉田喜久代氏の『砂丘の陰に』という戦前に記された日報がある。当時の保健婦は「訪問婦」と呼ばれ社会事業的な性格が強いものであり、病者のそれとは違うが、日々の家庭訪問の度にその家の状況を事細かに記録し、上司に報告するような形をとっている。これが戦後においてもそうであったかということはないにしても、家庭状況を把握すること母子や病者、生活弱者がとりまく生活の実態について記録し、それを把握しながら仕事にあたるのであるから、当然のことながら記録類には、日常生活の機微が伝わるものがある。また、たびたび訪問することによってそれが積み重ねられ、その一家の家庭事情から経済事情などのことを知る手掛かりにもなる。

 

②「保健婦の手記」とは

 そうした中での「保健婦の手記」というのは、それらの家庭訪問を続けていく中で保健婦自身が、そこで暮らす農民たちの暮らしに対する疑問点を自己の体験から見つめなおすような性格を有している。「保健婦の手記」を通じてみることができるのは、地域生活における医療の重要性もさながら、日常生活における農民たちの苦労話など、雑談に類するようなものまで含まれ、そこから保健婦は「なぜこの地域には病気が多いのか」「貧しい暮らしが営まれているのか」と常に疑問として持っていた。いわゆる生活疑問というものである。そうしたせいか疑問を通じて得られるのは、農村生活の向上にどのような糸口があるのかを保健婦自身が考えることもそうであるが、これを手記にしるし、雑誌等で発表することによって、内外に生活疑問をアピールする狙いがある。また、「保健婦の手記」は同僚であるほかの保健婦の目にもつくことから、活動の共有化、自己反省につながる一つの教育的な性格を有している。

 

③「保健婦の手記」の性格

()「保健婦の手記」の共通性

 ところでここで、一応「保健婦の手記」についての概念規定を記しておきたい。というのも、この記録は様々な雑誌等で掲載がされ、その雑誌ごとに性格が異なる。内容もその雑誌の属性に迫ったものが多く、一口に「保健婦の手記」といっても様々なものがある。ただ、共通して言えることは、この保健婦の経験は、次世代の保健婦や同僚に対してむけられていること。また雑誌の書き方にもよるのであるが、保健婦が農山漁村の生活記録を公開することによって、農山漁村の内在化する問題を、読者である民衆に気付かせる狙いを含めてあることがいえる。言い換えれば、「保健婦の手記」と一般的に言われるものの多くが、開示されることによって情報の共有化、問題の顕在化を促すことが主であるということである。

 

()「保健婦の手記」の属性

 この手記の属性が三つ挙げられる。第一に先に記したように当時における生活の克明な描写があること。生活に根差した活動を行っていた保健婦ならではのものであり、またエピソード的ではあるものの、その背景にある生活環境や社会状況についても言及がある点。

第二点に、これが掲載される雑誌の傾向である。主な雑誌として『保健婦雑誌』『公衆衛生』等の専門誌に加え『生活教育』という多分に社会教育的な影響を受けた雑誌にさえも、多くの手記が寄せられている。また生活教育の会(後に保健同人会となる)が発行している『生活教育』に至っては、手記の選考会評議会が行われ、入選者が雑誌への掲載を許されている。つまり、膨大な量の文章が選考会に投稿されて、有識者、例えば丸岡秀子、石垣純二、国分一太郎、金子光などが評価を下している。優秀作品を意図的に恣意的に選んでいる。文学作品的な評価も高く、単に職業的な評価というだけでなく、社会教育的な様相を呈している。

第三に他にも保健婦系の雑誌ではないが岩手県国民健康保険団体連合会が発行している『岩手の保健』には、保健婦だけでなく保健事業に関わった国保関係者や看護婦、栄養士など様々な方面からの記述があり、これが保健婦という職掌にとらわれない幅広い属性を有していることをここに明記しておく。

 

(2)『生活教育』と「保健婦の手記」

(3)資料としての「保健婦の手記」

()「保健婦の手記」の資料性

「保健婦の手記」は長野県安曇野市にある保健婦資料館に現在集中的に収蔵される傾向にある。国立国会図書館にない本も含めて、保健婦経験者が所蔵していた一切の資料類を寄贈という形で収集し、それを膨大な資料軍の中に位置づけている。但し、未だデータベース化されておらず、今後の整理等で書籍の類型化や属性などについて分析をしていかなければならないが、その利用価値はかなり高い。ただ、「保健婦の手記」の扱いについては資料館付属研究所の研究員間でも、はっきりとした定義ができているわけでもなく、保健婦の歴史自体もまだまだ見直す必要性があるとして、手記類自体に対する研究は未だにない。保健婦の歴史的過程において資料として挙げられるものの、それ自体がどういう性格を有していたのかまではまとまっていないのだ。

『生活教育』より保健婦のメッセージ性は少ないものの、戦後の保健状況を知る意味でもかなり重要な資料である。さらに書籍面では大牟羅良の『ものいわぬ農民』、菊池武雄と共著した『荒廃する農村と医療』、菊池武雄が記した『自分たちで命を守った村』といった東北を中心にして活動していた活動家による貴重な資料には、保健婦に限らず、保健婦の指導を受ける側、医療を受ける側である農山漁村民の声も証言としてあり、一概に「保健婦の手記」が保健婦だけの目線というわけでもない。さらに、長野県の佐久病院中心に活動した若月俊一という医師が自己の回想録として農山村の生活の現状とそれに対する生活疑問のあり方、さらに改善の方向性を描いたもの、及川和男の『村長ありき―沢内村 深沢晟雄の生涯』に出てくるような東北のへき地医療に対する深沢晟雄の村行政の動きと保健活動がある。つまり、私が取り扱っている「保健婦の手記」類というのはそうした幅広い業種間における保健活動の主観的記録類をベースに成り立っている。

 

()主観的資料への科学性

こうした記録類は先に述べたように主観的で客観性を補うには多少難しい資料である。そこに科学性をもとめるのであれば、どのように立証するのかであるが、それについては実際に現地でその当時の話を当人もしくは親族、さらに旧住民に聞き取り調査を行い、また統計データなどの客観資料が県庁もしくは保健所に保管されているのであれば、それをもとにして立証することを考えている。ただ、「保健婦の手記」は保健婦および関係者が、農山漁村の暮らしを客観的にとらえた結果を記したのであり、またその感想であったりするわけであるから、全く客観性に欠けているというわけではない。そこは科学的に見て立証可能ではないかと考える。資料論的な分析も含め、「保健婦の手記」を取り巻く状況を明らかにしながら、そのうえでその内容について触れていくことにしたい。

 

4.「保健婦の手記」に描かれる民俗

(1)保健婦が見た民俗

(2)戦後の近代化における伝統の保持と諸問題

(3)保健婦のアプローチ

(4)民俗生活の摩擦と融和

…嫁姑問題、女性の地位、世間体、共同体としての封建制。医療とは違った形での保健婦活動という視点に主眼を置いてみたい。

 

まとめ

(1)保健婦の手記から見えてくるもの

(2)保健婦と生活者の接合点

(3)民俗学における「保健婦の手記」研究の可能性【2

…保健婦の手記には多分に生活者の実態と、民俗生活における時代的齟齬を内包している。そうした民俗生活を変えていくうえで保健婦が果たした役割は大きい。生活者に近い存在だからこそ、わかる部分が多い。こうした保健婦の手記、保健婦の証言が示す民俗の在り方というものを民俗学的に分析するためにどうすればいいかを考察する。