平成25年11月6日
「保健婦の手記」からみる民俗との関わり
1.はじめに
(1)保健婦、「保健婦の手記」との出逢い
保健婦という職業は、医学的、衛生学的な視点からの生活指導を主たる目的にはしているが、実際地域での活動をみてみると、単にそれだけではなく、生活学的、教育学的な視点からの生活に根差した指導も行っている。また、指導といっても上から下への命令的な指導ではなく、地域の事情を踏まえ、その上での活動を展開している。つまり、地域住民にとって近しい関係にあり、それでいて専門性を有していることになる。さらに加えるならば、保健婦はその職業としてのそれだけにあたるのでは、地域住民との信頼関係を築けないため、同じ目線に立って考えることをしている。いうなれば、職業としての「保健婦」ではなく、もっと人間性としての「保健婦」がそこにあるのではないかと思う。
(2)
)研究史
保健婦の歴史的研究については、大国美智子氏の『保健婦の歴史』や川上裕子氏の『日本における保健婦事業の成立と展開-戦前・戦中期を中心に-』の中で保健婦事業の成り立ちと経緯を述べている。また、実際に初期の保健婦として活躍された高橋政子氏が『写真で見る日本近代看護の歴史 先駆者を訪ねて』で具体的な人物を挙げて保健婦の成り立ちについて述べている。さらに、高橋氏は自らの半生を振り返り『いのちをみつめて ある保健婦の半生』で、初期の保健婦たちの様子を自身の体験として記している。
民俗学での研究では、木村哲也氏の『駐在保健婦の時代 1942-1997』がある。木村氏は、高知県の駐在保健婦制度とその時代的背景、実際の活動展開、歴史的位置付けについて詳しく論じている。歴史的研究ではあまり注目されなかった保健婦の実態を丹念な聞き取り調査と事業的背景との接合点から明らかにしている。しかしながら、これらの先行研究は事業史や個人史をもとに描いてはいるが、地域における彼らの活動がいかに受け入れられていったのかという肝心な部分がない。
本発表で注目したいのは、事業史的な流れとは別に現場における保健婦と地域住民との生々しい対話の中で、保健婦がいかに受け入れられていくのか、保健婦の考え方や生活指導がどのようにして受け入れられていくのかという現実を垣間見てみたい。そこで用いるのが、「保健婦の手記」である。「保健婦の手記」に対する研究はほとんどない。「保健婦の手記」がどのようなものであり、どのような役割を果たしていたのかということについては研究が皆無に等しい。しかしながら、自分史という中で保健婦自身が自分と住民との交流録を描くことが多い。「保健婦の手記」はそのような中において保健婦の事業推進に伴う実際的な動きを見ることが可能な資料となっている。
(3)民俗学における「保健婦の手記」研究の可能性【1】
助産婦のことについては、出産の変遷の場で論じられることはあっても、保健婦はそうした論じられ方はしない。しかしながら、保健婦活動は母子保健という立場に立てば、産婆や助産婦よりも、母と子に対してかなり密に連絡を取り、妊娠前後から出産後にいたって、子どもの成長などを見届けるなど、かなり長いスパンにわたり関与している。助産婦などが一時の活動であるのに対し、継続的な関与として保健婦が位置付けられる。
また、母子保健に関わらず、保健婦活動は多岐にわたり、健康、衛生の教育普及に始まり、公衆衛生という分野にとどまらず生活支援など身の上相談もこなす。ある意味地域のアドバイザーとしての側面が強い。それこそ、地域生活に与えた影響は大きいものであると考える。
これまで医療者に対する研究は前近代的な伝統生活を対象としてきた民俗学の範疇からは除外されてきたが、しかしながら地域生活に隣接し住民とともに保健衛生を考え、それについて指導を行ってきたこと、かかわりを持ってきたことというのはそれだけで民俗生活に大きな影響を与えたものといえる。保健婦の関わり方はまさにその部分では生活に密接に関与しているといえる。そうした中で、「保健婦の手記」という保健婦と住民との関係性を記すものを分析することは、より具体的な生活の中における民俗を垣間見ることが出来るし、それを変えようとした保健婦側がぶつかった民俗生活との摩擦がよくわかる。その意味で民俗学における研究の可能性は格段に広い分野ではないかと思う。
2.保健婦の存在意義
(1)保健婦とは
保健婦は、時代ごとに名称が変化し、その事業目的によりそれが目指す方向性が異なっているため、一概にこうしたものという定義はできない。現行の「保健師助産師看護師法」の法規を歴史上のすべての保健婦という対象に当てはめることはできない。しかしながら、仮に定義をするならば、日本看護協会監修の『新版保健師業務要覧 第二版』によれば「保健師は、常に、人々ともに疾病を予防し、人々が主体的に健康な生活ができるように支援してきた。特に、貧困層が生活する地区には重点的に予防活動を行い、さらに健康な人も病気や障がいを抱えた人もすべて、「人として生きること・健康であること」が保障されるように、障害を通した人々の健康と幸福を実現することを使命としてきた。社会が予防的看護を必要とし、個人や集団の疾病予防と健康管理の専門家として保健師が誕生したのである」と言える。言い換えれば身体的健康を守ることもさながら、社会保障面における社会的健康を守る専門家が保健婦と言える。定義の中では保健師となっているが、歴史的な変動の中で一つの根幹としてある職業としての意志は変わっておらず、これは過去の保健婦にも言えることである。
本研究においての保健婦は戦後から昭和50年代にかけての保健婦を指す。また、保健婦の歴史は戦前からあるものの、戦後のそれはGHQの政策等により大きく変更がなされている個所があり、その仕事の在り方もGHQの影響を受けている。但し、木村哲也氏が指摘しているように、戦後の保健婦事業はこのGHQの政策としてのそれと、戦前からあった訪問婦を基とするような社会福祉事業としてのそれがせめぎ合っている状態であった。そのため、事業の方針としてのそれと、経験則としての現場の方針は異なる部分がある。事業史としての保健婦をここであらわすとは思っていない。あくまで現場の動きとしての彼らの実情に迫りたい。
(2)保健婦の歴史的背景
戦前の保健婦の事業史については、大国氏や川上氏の著書が詳しいが、その概要を簡単に整理すると、戦前期の保健婦事業は公衆衛生の必要性からというよりも社会的困窮者における救済的な側面からのスタートが大きくある。その最たるものが訪問婦事業である。この事業は様々な団体が担っていたが、現在の家庭訪問の基本を作っていった事業といえよう。それまで、役場や篤志家のもとに訪れなければ救済できなかった貧民の現状を、逆に一軒一軒訪問しそのほどを知り、それに応じた手当をしていくということからスタートしている。当初は都市部の人びとを対象としたものであったが、時代経るごとに農山漁村部へと広がりを持って行く。事業の在り方も事業を形成する団体の方針もその都度変化していくが、依然としてあったのが保健婦というものは、公衆衛生もさながら社会事業としての性格が強かった。
また一方で、こうした動きに看護事業が加わっていく。当時亡国病としてなっていた結核の蔓延に伴い、伝染病予防のためにこれらから人々を守ることを使命として、その予防、隔離などを実施していった。この背景には富国強兵策からものがあり、結核から大切な兵士を守る国策としての保健婦事業が推奨されてくることが一つあり、これまでの社会事業と合わせて、そこに公衆衛生に関わる領域が付与していくようになっていった。
つまり、戦前における保健婦像というのはどこか社会事業的な側面としてのそれが大きい。勿論公衆衛生方面での活躍は大きいが、どちらかというと公衆衛生を向上させるためには農家の生活を向上させるほうが先になって来るため、その救済措置の方面が重点的に行われていたといっていい。
戦後における保健婦の事業は、GHQのもと事業が公衆衛生方面に傾倒していく。これまでの社会事業的な性格から、公衆衛生看護の専門性を追求したものとなり、結核予防もさながら、各種伝染病、寄生虫駆除など様々な公衆衛生領域の事業を中心に展開していくようになる。いうなれば、その教育方針が単に富国強兵策や貧困者対策の国策のそれから、国民の健康を向上させるための、公衆衛生看護的側面へと繋がっていくのである。勿論、社会保障面における保健婦の事業も展開はしていくが、それは社会福祉面に移譲されるようになり、保健婦は戦前のそれよりも看護に特化した形に動いていくような形になっていく。
但し、こうした事業の流れ、戦前から戦後にかけての経緯が、全国各地津々浦々の保健婦にすべて適合していたかというと、「保健婦の手記」を見る限りにおいて、それはまた別の次元で考える必要性があるように思う。事業史的な流れとは別に、地域史のなかにおける保健婦の位置づけや役割はその地域の特性であったり、現場の保健婦の性格や裁量という部分によって様々な形を成している。これについては、医学面では「認められない歴史」であろうし、限りなくグレーゾーンの部分であることは確かである。だが、こうした歴史的背景と現実的な保健婦の対応の在り方をちゃんととらえなければ、実のところ保健婦が地域で何をしていたのかということはわからない。先に述べた木村氏の研究はそういった意味ではこの現実の保健婦の動きと事業史の動きを確実にとらえている。
本発表では、木村氏の研究をもう少し具体的に進めるため、今一度事業史レベルの話からもっとマクロな部分における現場の裁量としての保健婦はいかなるものであったのかに着目することにしたい。
(3)保健婦活動における役割
(4)保健婦の視点から見た地域
…保健婦とはどのような人間か。保健婦助産婦看護婦法の表記における保健婦の存在。歴史的背景。都市の保健婦と農村保健婦。村の中にいて村人の生活を垣間見ることが出来た保健婦は民俗生活に接近するとともにそれを観察する目線をもっていたのではないか。
3.「保健婦の手記」を読む
(1)「保健婦の手記」とは
①保健婦の記録の特性
簡単に説明すれば、保健婦の日常業務における記録をもとに描いた経験談である。保健婦の日常業務である家庭訪問においては、様々な情報が集まる。それは何も母子のこと病者のことだけではない、それを取り囲む過程全体のこともその家庭訪問の記録には記されていく。代表的なものとして吉田喜久代氏の『砂丘の陰に』という戦前に記された日報がある。当時の保健婦は「訪問婦」と呼ばれ社会事業的な性格が強いものであり、病者のそれとは違うが、日々の家庭訪問の度にその家の状況を事細かに記録し、上司に報告するような形をとっている。これが戦後においてもそうであったかということはないにしても、家庭状況を把握すること母子や病者、生活弱者がとりまく生活の実態について記録し、それを把握しながら仕事にあたるのであるから、当然のことながら記録類には、日常生活の機微が伝わるものがある。また、たびたび訪問することによってそれが積み重ねられ、その一家の家庭事情から経済事情などのことを知る手掛かりにもなる。
②「保健婦の手記」とは
そうした中での「保健婦の手記」というのは、それらの家庭訪問を続けていく中で保健婦自身が、そこで暮らす農民たちの暮らしに対する疑問点を自己の体験から見つめなおすような性格を有している。「保健婦の手記」を通じてみることができるのは、地域生活における医療の重要性もさながら、日常生活における農民たちの苦労話など、雑談に類するようなものまで含まれ、そこから保健婦は「なぜこの地域には病気が多いのか」「貧しい暮らしが営まれているのか」と常に疑問として持っていた。いわゆる生活疑問というものである。そうしたせいか疑問を通じて得られるのは、農村生活の向上にどのような糸口があるのかを保健婦自身が考えることもそうであるが、これを手記にしるし、雑誌等で発表することによって、内外に生活疑問をアピールする狙いがある。また、「保健婦の手記」は同僚であるほかの保健婦の目にもつくことから、活動の共有化、自己反省につながる一つの教育的な性格を有している。
③「保健婦の手記」の性格
(ア)「保健婦の手記」の共通性
ところでここで、一応「保健婦の手記」についての概念規定を記しておきたい。というのも、この記録は様々な雑誌等で掲載がされ、その雑誌ごとに性格が異なる。内容もその雑誌の属性に迫ったものが多く、一口に「保健婦の手記」といっても様々なものがある。ただ、共通して言えることは、この保健婦の経験は、次世代の保健婦や同僚に対してむけられていること。また雑誌の書き方にもよるのであるが、保健婦が農山漁村の生活記録を公開することによって、農山漁村の内在化する問題を、読者である民衆に気付かせる狙いを含めてあることがいえる。言い換えれば、「保健婦の手記」と一般的に言われるものの多くが、開示されることによって情報の共有化、問題の顕在化を促すことが主であるということである。
(イ)「保健婦の手記」の属性
この手記の属性が三つ挙げられる。第一に先に記したように当時における生活の克明な描写があること。生活に根差した活動を行っていた保健婦ならではのものであり、またエピソード的ではあるものの、その背景にある生活環境や社会状況についても言及がある点。
第二点に、これが掲載される雑誌の傾向である。主な雑誌として『保健婦雑誌』『公衆衛生』等の専門誌に加え『生活教育』という多分に社会教育的な影響を受けた雑誌にさえも、多くの手記が寄せられている。また生活教育の会(後に保健同人会となる)が発行している『生活教育』に至っては、手記の選考会評議会が行われ、入選者が雑誌への掲載を許されている。つまり、膨大な量の文章が選考会に投稿されて、有識者、例えば丸岡秀子、石垣純二、国分一太郎、金子光などが評価を下している。優秀作品を意図的に恣意的に選んでいる。文学作品的な評価も高く、単に職業的な評価というだけでなく、社会教育的な様相を呈している。
第三に他にも保健婦系の雑誌ではないが岩手県国民健康保険団体連合会が発行している『岩手の保健』には、保健婦だけでなく保健事業に関わった国保関係者や看護婦、栄養士など様々な方面からの記述があり、これが保健婦という職掌にとらわれない幅広い属性を有していることをここに明記しておく。
(2)『生活教育』と「保健婦の手記」
(3)資料としての「保健婦の手記」
(ア)「保健婦の手記」の資料性
「保健婦の手記」は長野県安曇野市にある保健婦資料館に現在集中的に収蔵される傾向にある。国立国会図書館にない本も含めて、保健婦経験者が所蔵していた一切の資料類を寄贈という形で収集し、それを膨大な資料軍の中に位置づけている。但し、未だデータベース化されておらず、今後の整理等で書籍の類型化や属性などについて分析をしていかなければならないが、その利用価値はかなり高い。ただ、「保健婦の手記」の扱いについては資料館付属研究所の研究員間でも、はっきりとした定義ができているわけでもなく、保健婦の歴史自体もまだまだ見直す必要性があるとして、手記類自体に対する研究は未だにない。保健婦の歴史的過程において資料として挙げられるものの、それ自体がどういう性格を有していたのかまではまとまっていないのだ。
『生活教育』より保健婦のメッセージ性は少ないものの、戦後の保健状況を知る意味でもかなり重要な資料である。さらに書籍面では大牟羅良の『ものいわぬ農民』、菊池武雄と共著した『荒廃する農村と医療』、菊池武雄が記した『自分たちで命を守った村』といった東北を中心にして活動していた活動家による貴重な資料には、保健婦に限らず、保健婦の指導を受ける側、医療を受ける側である農山漁村民の声も証言としてあり、一概に「保健婦の手記」が保健婦だけの目線というわけでもない。さらに、長野県の佐久病院中心に活動した若月俊一という医師が自己の回想録として農山村の生活の現状とそれに対する生活疑問のあり方、さらに改善の方向性を描いたもの、及川和男の『村長ありき―沢内村 深沢晟雄の生涯』に出てくるような東北のへき地医療に対する深沢晟雄の村行政の動きと保健活動がある。つまり、私が取り扱っている「保健婦の手記」類というのはそうした幅広い業種間における保健活動の主観的記録類をベースに成り立っている。
(イ)主観的資料への科学性
こうした記録類は先に述べたように主観的で客観性を補うには多少難しい資料である。そこに科学性をもとめるのであれば、どのように立証するのかであるが、それについては実際に現地でその当時の話を当人もしくは親族、さらに旧住民に聞き取り調査を行い、また統計データなどの客観資料が県庁もしくは保健所に保管されているのであれば、それをもとにして立証することを考えている。ただ、「保健婦の手記」は保健婦および関係者が、農山漁村の暮らしを客観的にとらえた結果を記したのであり、またその感想であったりするわけであるから、全く客観性に欠けているというわけではない。そこは科学的に見て立証可能ではないかと考える。資料論的な分析も含め、「保健婦の手記」を取り巻く状況を明らかにしながら、そのうえでその内容について触れていくことにしたい。
4.「保健婦の手記」に描かれる民俗
(1)保健婦が見た民俗
(2)戦後の近代化における伝統の保持と諸問題
(3)保健婦のアプローチ
(4)民俗生活の摩擦と融和
…嫁姑問題、女性の地位、世間体、共同体としての封建制。医療とは違った形での保健婦活動という視点に主眼を置いてみたい。
まとめ
(1)保健婦の手記から見えてくるもの
(2)保健婦と生活者の接合点
(3)民俗学における「保健婦の手記」研究の可能性【2】
…保健婦の手記には多分に生活者の実態と、民俗生活における時代的齟齬を内包している。そうした民俗生活を変えていくうえで保健婦が果たした役割は大きい。生活者に近い存在だからこそ、わかる部分が多い。こうした保健婦の手記、保健婦の証言が示す民俗の在り方というものを民俗学的に分析するためにどうすればいいかを考察する。
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