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2014年3月8日土曜日

平成25年度保健婦資料館年間報告書(発表部門その①)


京都府南丹市日吉町保健婦調査第一次報告

 

はじめに

 本報告は、平成25年夏に南丹市日吉町で行った、故吉田幸永保健婦の動向調査について途中報告をするものである。報告内容は昨年新潟大学にて行われた日本民俗学会にて報告をしたものを、研究ノート形式にして作成した。本調査のきっかけになった故吉田幸永保健婦の手記は『生活教育』の昭和35年より特集されていた記事を用い、また吉田保健婦関係者各位より聞き取り及び既刊資料より調べたものをまとめあげてみた。

 本報告のねらいは、故吉田幸永保健婦が旧日吉町で行ってきた数々の活動が『生活教育』のなかで「保健婦の手記」として取り上げられ、そしてそれらを垣間見るに、保健婦が地域社会において地域住民とどうかかわり、さらにその生活にどう影響を与えたのかを検討していくことにある。報告はその第一段階のものを提示している。

 

○「手記にみる日常生活―保健婦と農婦が綴る生活変化の断面―」(日本民俗学会)

はじめに

本稿は、生活研究の中に保健婦の役割を見出し、彼らが農村生活にどのようなアプローチを行い、さらにどう変化を与えようとしていったのかを、京都府の事例からみていくものである。具体的には旧日吉町の国保保健婦(後に町保健婦)であった故吉田幸永保健婦の足跡をたどり、彼女自身が綴った「保健婦の手記」と彼女の関係者からの証言をもとに、その当時のことを振り返り、そこから旧日吉町の保健活動の展開と生活変化を描くものである。

日本民俗学会発表報告の志向としては、生活研究を主体としていた。日本民俗学における生活動態の研究は少なく、その分析もまだまだ足りない部分が多々ある。その中で、京都府日吉町での生活変化というのはそれを動態的にとらえる一つの方法が確立されていると思われた。それが吉田保健婦と地域住民との相互関係性の中で描き出される、生活変化の動態的観察である。発表では主眼をそこにおいたが、学会上において研究史の曖昧さ、学史的な流れにおいて生活研究を、それも保健婦(日本民俗学においては分類的に「保健衛生」分野というくくりから見ている)という専門職的な動きと絡めることにはまだ抵抗があり、今後の課題としてそれを取り入れることを確約し、その場を辞した。未だその研究史の洗い出しには至っておらず、ここで報告することはままならないので、本稿は故吉田幸永保健婦の足跡を中心に、民俗学と絡めて論じていくこととしたい。

 

1.民俗学と保健婦

この発表に先立ち保健婦という存在が日本民俗学の中で扱われていることの少なさを目の当たりとした。助産婦や産婆といった出産介助に関わる人物像と、出産空間の変遷についての論文は数多く紹介されており、その分析も多岐にわたる。また、介護の立場から民俗学を実践性の中に取り入れる取り組みに関する論考も多い。しかしながら、生活研究という立場においての保健婦の扱い、いや保健婦そのものを取り扱った論考は、筆者本人の論考以外見当たらないのが現状である。

しかしながら、保健婦の存在は大きく、出産時という一時的な場における助産婦や産婆と異なり、その後のケアに関して母子保健という考えから生じた活動は保健婦の方が範囲は広い。さらに、保健婦が果たした役割というのは、生病老死という臨場という限られた場所に非ず、生活全般にわたりその活動が行われている。特に戦後、地域の疲弊が目立ったころの保健婦は「医師の代わり」のような活動を受けていたし、遡れば戦前から社会福祉分野において貧困救済的措置と公衆衛生業務という活動の幅の大きなところに保健婦が立脚していたことを考えると、彼らの生活への影響は見えない部分で大きなウェイトを占めていることがわかるだろう。

民俗学でこの保健婦に関する研究がなされてこなかった背景には、生活研究もさながら、生病老死という儀礼研究の立場においても、その一時的な場にのみ目が行き、その場に関係する人物でより専門特化したものにのみ目が向けられていたからではないかと感じるところがある。言うなれば、特異的な歴史の流れの中で埋没してしまったのが保健婦ではないだろうか。

さて、こうした民俗学における保健婦研究の少なさを指摘するとともに、その研究の可能性について具体事例を扱い述べていきたい。本稿では京都府船井郡日吉町(現南丹市日吉町)を事例として扱う。

             

2.京都府船井郡日吉町と生活

(1)地理的状況

船井郡は京都市から見て北東、京都府全体から見れば丹波山地の東南部に位置し、日吉町は京都駅からJR山陰線で47分の距離にある。町域の南部を大堰川が西に流れ、町の中心部で旧日吉町役場が置かれていた殿田付近にて、町域を枝状に貫流する4支流をあわせるほか、胡麻郷地区を分水界にして由良川の1支谷を町域に含む。集落はこの河川域に作られた狭長な谷底平地に立地している。現在は南丹市(平成18年に園部町、八木町、北桑田郡美山町と合併)という行政域に含まれているが、それ以前は日吉町(昭和30年に合併)、またそれ以前は胡麻郷村、五ヶ荘村、世木村の三か村から成っていた。

 

(2)生業と村の状況

①生業母体

 現在の人口は平成17年の調査で5951人(2029世帯)で、昭和45年の人口は7040人となっているから、昭和40年代の過疎化進行を皮切りに、ずっと人口が下回っていることがわかる。また、これに付随して高齢化問題も上がっており、一人暮らしの独居老人が増えている。

 生業は主に農林業が中心で、旧世木村については殿田を中心に大堰川の筏流しで栄えており、山から切り出した木材を集積する拠点ともなっていた。山陰線が開通後は、その路線沿いに材木置き場が置かれて、そこへ木材業者が集まっていた。旧五ヶ荘村については、山深いところもあってか、田畑での農耕が思うように収益を持てないこと、さらに林業においても交通の不便さから、木材運搬にコストがかかり、林産物の収益もあまり見込めない土地であり、ここに住む人々は鉱山に出入りして稼ぐ人が多くいた。昭和30年代に入ると、燃料革命によって林業も衰退していった。また、農業も兼業化が進み、さらに出稼ぎや日雇いで生計を立てる人々が多くなっていった。

 

②村の状況

 昭和30年代、日吉町となると、過疎化に伴い、企業誘致やその他もろもろの政策を町域では進めていこうとした。道路の舗装を急いだり、公共施設の建設ラッシュが起きたが、実のところこうした町政の動きに反して、生活面においては、ライフラインの整備が遅れていたり、病院設備などがまだなく、あったとしても三か村にそれぞれあるわけではなく、準無医村になっていた。当時の町政の動きは、公共工事などに偏りが出ており、またそこに暮らす人々に対する保障などはなかなか厳しいものがあった。

 水道の設置についても昭和30年代後半からであるが、町政側からの申し出で行われたというわけではなく、地域住民が声を上げて町政に働きかけたことから始まったものであり、財政面で厳しいものがあったかもしれないが、町政としてこれに積極的な関与というのはあまりなされていなかった。

 このような町政の動きというのが緩慢な理由は、一つにそれを支える支持基盤の旧態然とした態度にこそあったのではないかと考える。町政には特に各地区の地区長、地区内にある部落の長、戸長などが協議を繰り返し、それによって取り決めがなされていたが、その取り決めに参加するのはいずれにしても男性が中心であり、生活を支える女性の視点に立った見解がなされていなかった。「女子が口出すな」といわれるぐらいの封建的な男尊女卑がまかり通る社会的環境であった。そのため男性的な意見が幅を利かせていた。

 男性的な行政の在り方に対して、女性側からの意見が飛び交うようになってくるのもこの時期に重なる。それまでは女性はつつましやかなほうがいいという風な言い方が多く、加えて女性の中でも嫁は姑に対して頭が上がらない存在であった。農婦の手記には「牛馬のような扱いであればいいほう」というような言葉があり、その当時の女性の位置づけが読み取れる。

 ところが、昭和35年前後から京都府内を中心に盛り上がってきた女性問題に関する運動というのが丹波地域を中心に活発化していった。これについては女性運動家の壽岳章子氏もよる「女性問題研究会」の発足とその活動が背景としてあった。ただし、この活動が日吉町で形を見るようになるのは昭和40年代に入ってからであるが、保健婦らの介入があって、女性を中心とするグループ活動の発足し、次第に町政に女性が意見を出す形が整えられていった。

 

3.「保健婦の手記」にみられる吉田保健婦

(1) 吉田幸永保健婦と保健婦活動

そのような情勢下において、当町で働いていたのが吉田幸永保健婦である。彼女は、大正14年に世木村で三姉妹の長女として生まれた。人懐っこい性格で、世話好き、困っていう人を見るとよく手伝ってあげたりしていた。昭和16年から18年の間を世木村の青年学級に在籍し、そこで裁縫を学びその後、日本大学文学部に入学し、卒業後に保健婦資格を得るため大阪市厚生女学院へ入学、卒業。昭和254月京都府船井郡世木村の国民健康保険診療所保健婦に就任した。

昭和30年代当時の村は保健衛生上の問題も多々あり、準無医村(旧三か村で各村に一軒ずつ診療所があったが、奥まった集落によっては行き来が不便であった)で、夜間にしか医者が常駐しておらず、昼間はもっぱら保健婦がこの対応に追われることがよくあった。そのため、世木村の吉田保健婦の家には連日、村人が使いをよこして診療を頼むなど「医者の代わり」のようなことをすることが多くあった。このほかにも自らが患者宅や地域を回り歩いて家庭訪問をしたり、婦人会などの寄合の場に顔を出して啓蒙活動を行っていた。昭和30年、町に合併してからはK保健婦と一緒に、世木村を二つに分担し、あと吉田保健婦は五ヶ荘村を担当し、K保健婦は胡麻郷村を担当した。一応役割分担はしながら勤めていた。

この昭和30年代ごろの吉田保健婦は、とにかくエネルギッシュで使命感に燃えて次から次へと保健問題を挙げて、時には行政にぶつけてその矛盾を問いただす場面が多々あった。彼女の活動を知るうえで重要なのが「保健婦の手記」である。

 

(2)「保健婦の手記」と吉田保健婦

①「保健婦の手記」とは

 保健婦の手記とは、保健婦自らが投稿形式に雑誌へ掲載していた「保健婦の手記」、さらに保健婦自身が自分の半生を振り返って書いた回想録、さらに医療従事者、保健関係者が残した生活記録をベースにした書籍類である。手記の名称は、「保健婦の手記」であったり「保健婦日記」であったりさまざまである。

特性は三つ。まず当時における生活の克明な描写があること。生活に根差した活動を行っていた保健婦ならではのものである。第二点に、これが掲載される雑誌の傾向である。主な雑誌として『保健婦雑誌』『公衆衛生』『生活教育』『岩手の保健』、医学的、社会教育的啓蒙を目指した雑誌に、多く寄せられている。生活教育の会が発行している『生活教育』に至っては、手記の選考会評議会が行われ、入選作品は雑誌へ掲載された。この雑誌の購読者層は保健婦が多く、内容としても保健婦からの応援メッセージ、悩み相談、教育の現場のレポートなどがあり、保健婦相互間の連絡を兼ねていた。『生活教育』での「保健婦の手記」の特集は現存するもので昭和35年から昭和45年の間に集中的に描かれている。45年以降になるとその姿は雑誌上からはなくなり、「保健婦の手記」それ自体が単行本化されたり、雑誌とは別物として扱われるようになった。

 

②吉田保健婦の記事

 さて、この教育雑誌『生活教育』において吉田保健婦は「保健婦の手記」で5度の入選を果たし、手記が掲載されている。タイトルは「小さな足跡」(昭和35)「一つの集い」(昭和37)「保健婦十二年」(昭和38)「合理化のしわよせの中で」(昭和40) 「あるケースより」(昭和41)である。

「小さな足跡」では農民のグループ活動をつくりその貯蓄精神を生かして改良便所の普及を図るものの、なかなかその普及には活かせず、集金したお金は別の目的に使われるようなってしまう。それでも、吉田氏はあきらめず、全戸の検便をして回虫の保有率を調べ、それをスライドで見せることにより啓蒙思想に努めるとともに、薬の飲み方を丁寧に教えて、改良便所の必要性を説き、見事に定着を見る。

「保健婦十二年」では、昭和25年から37年に至る12年を振り返って、その反省を三つの事例から紹介している。一つ目はジフテリアの子どもを救った経験。昭和25年当時日吉町(旧世木(せぎ)村)の医療機関は、村医として一人の医師がいたが、昼間は郡の病院勤めで、夜間町に駐在するということで、昼間の対応のほとんどが保健婦に頼らざるを得ない状況が多かった。急病人が出ても対応ができず、死なせてしまうことも多かった。そのなかでの経験に、ジフテリア感染症の子どもが出てきて、雪の中様子を見るために向かうのだが、医療行為を禁止されている身である保健婦にはどうしようもなく、そこで医師に連絡を取り、すぐに医師に診てもらうようにするが、医師もジフテリアの子どもの診察には限界を示し、郡の病院へ搬送することと、強心剤の注射をするようにとの指示を下す。そのため、吉田氏は子どもの父親とともに朝早くから家を出て、もちろん子どもの心臓に負担にならぬよう細心の注意を払いながら汽車に乗って病院を訪れ、医師に対応してもらうという措置を取った。このことにより、その子どもの命は取り留めた。この子どもが中学生になって元気でいてくれている姿を見るとホッとするという。次の事例では、役場から離れたところに暮らす吉田保健婦のもとに直々に助けをこうもので、子どもがひきつけを起こしたから診に来てくれという。ところが、その家に着くやその子どもの体温は42度を超えており、浣腸を繰り返すも便が出ず、そのまま息を引き取ってしまうという事態に陥った。吉田氏はその前の日から子どもが「ぽんぽんいたい」と言っていたのを、気にせずにいた無知な親たちに腹を立てるとともに、医療の手が及ばない山村地域にあって、疫痢に対応ができない自分のふがいなさに反省を込めている。さらにその次の事例では、農閑期での家族計画実施に触れるとともに、実際にお産に立ち会った際のことを述べている。骨盤位分娩の経験。逆子のために窒息して仮死状態で生まれた胎児を生き返らせるために必死になって取り組むその姿が描かれている。しかしながらこうしたお産に携わる時の緊張感はかなりの精神的な負担を要し、お産を終えて役場に着いて記録を付けるときの手の震えがあったと述べている。

以上が、現時点における『生活教育』の「保健婦の手記」に描かれた彼女の活動である。ここから読み取れるのは、単に衛生のためとして働いた足跡というよりも、村人ともにあり、その信頼を勝ち取っていった彼女の足跡を記すものであると考える。また、そこに描かれる農山村の現実、医療機関の不足、衛生面での無知、育児面に残る封建遺制とそれを取り除くことによって生じる新たな問題といったものを描き出している。これらの様子は、保健婦側からしか見られない現実ではないのかと考える。

 

4.農婦の手記と保健婦

1)農婦たちの闘いと保健婦

①農婦たちの記録

 吉田保健婦が上記のような活動をしている中で、やはり気になるのがそれを受ける側がそれをどう思っていたのかということである。手記それ自体は、吉田保健婦の本意をくみ取る上では重要なものであるが、それは彼女の主観によって構成されるものであり、その周辺の証言、特に農村現場における証言はこの手記を客観的に見るうえで重要な資料と云えよう。

吉田保健婦の活動の上で重要なのが、彼女と対峙した人々のことである。彼女ととひざを突き合わせて保健婦活動への理解を示したのが、生活改良普及員の介入と日吉町の主婦層、特に若い妻たち、母親たちの存在であった。

 次にそうした女性たちの記録を見ていきたい。主として婦人問題研究会が発行していた雑誌『婦人問題研究』と、草川八重子・壽岳章子が編集を担当した『自分をかえる―丹波船井郡生活改善グループの足あと―』を題材にする。吉田保健婦との関わり、また船井郡の女性たちの活動については、婦人問題研究会が出していた『婦人問題研究』の第10号から44号までに度々散見し、代表者である壽岳章子氏らによって討議され評論されてきた。この資料の位置づけは、文字の如く婦人問題、女性の地位向上や差別に関するものを取り上げ、女性自らが意見を言える環境をつくることを目指したものである。

 

②農婦と保健婦と生活改良普及員

日吉町の一保健婦である吉田幸永氏と農婦との関係は、母子保健などの活動を通じてであろう。吉田保健婦は農婦たちのグループ活動を始めており、料理教室などを催すなど精力的であった。ところが、その料理教室の一場面で、栄養を優先して指導していたがために、農婦から一度家でやってみようとしたけれど姑の理解を得られずに、なかなかうまくそれを家庭の中で実践することは難しいという話が出てきた。吉田氏はのちにそのことについて深く反省することになるのであるが、そうした反省に導いた人もいる。

それが船井郡の生活改良普及員として園部の改良普及所に勤めていた田中友子氏である。田中氏の指導方法は独特で、まず住民の自主性に働きかけることを第一に考え、自らの指導というのは住民の背中を押してあげる程度にとどめ、何から何まで指導することはしない。見放しているようでいて指導はするが、それはあくまで住民側からその提案に乗ってもらう程度の物であり、自分からその生活を変えようとはしないというものだった。

吉田保健婦と田中友子氏との関係は、その思考的な部分でかなり大きな違いがあった。吉田氏は「住民のために」と献身的に動く傾向にあるが、田中氏は住民から動くことを待つ素振りをする傾向にある。そのため、しばしば田中氏は吉田保健婦の行動について、生活改良普及員の立場から「あなたのやっていることは官僚主義だ」と糾弾する。田中氏から見れば、吉田保健婦の行動は住民に対して上からの押しつけであるように見え、それはまるで組織の上から下への命令でしかなく、下からの救い上げることはしていないように見えたのであろう。いくら料理指導をすれど、地域住民側の意識を改革しない限りはそれが定着しないことを田中氏はわかっており、それを吉田保健婦にもわかってほしいことを願っての発言であったと考える。

田中氏と吉田保健婦が協働で行ったことは「一番言いにくいことを一番言いにくい場で一番言いにくい人に言う」というような、女性の発言権の強化であった。特に農家に嫁に来た女性たちにとって、そこでの暮らしは牛以下の扱いをされるのであるから、発言権は当然のごとく低かった。舅や姑はもちろん主人に対しても従順であることが美徳としてあったこともあり、従わざるを得なかった。しかし、田中氏と吉田保健婦はそれでは生活はよくならないと考え、根本的に意識から改革することをしようとした。結果的に、この取り組みは女性問題に熱心であった壽岳章子氏の目にもとまり、府下の女性運動のシンボル的な運動として位置づけられていくようになる。ことに、地域における女性の発言権の強化においては、町行政にまで広がろうとしており、また当時の京都府知事であった蜷川虎三の目にもとまり、「憲法を暮らしの中に」というスローガンの元、活動の強化が目指されるようになった。さらに、昭和30年代後半より社会教育の一環として取り組まれてきた、「ろばた懇談会」の開催にも影響を与え、女性と行政との話し合いというのもここから生じてくるようになった。

こうした背景の中で農婦の手記が描かれていくのであるが、そこには吉田保健婦と田中友子改良普及員双方のやり取りも含まれており、彼女らの提案と現実的な問題とを婦人会の中で話し合いながら、それをより具体的実践可能な状態までもっていくことにしている。

 

2)女性の発言権と保健婦活動

①女性の発言権という壁

「保健婦の手記」でみてきた吉田保健婦の寄生虫撲滅のための活動を見てもわかるが、こうした活動資金のために貯蓄するという行為は、この昭和30年代当時、若い嫁たちにとっては未知の領域であったのだろう。そのため、その貯金をやはり自分たちが手にしたときに、女性として何がやれるのかというと、それは家のことよりも子のこととであったり、生活のためのものであったりするわけで、事業的なものに使うという考えはそこに結び付けられていない。いくら衛生思想を振りかざしたとしても、こうした貯蓄をしたことのない若い嫁たちの意識は改革できないのであった。

この他にも、吉田保健婦が関わる生活上の問題の多くは、女性の家における発言権の在り方をめぐるものが多く壁としてあり、保健婦活動をする中において発言権のありようをめぐっては活動の結果を左右する重要な問題であると位置づけられていた。当然、吉田保健婦はそれについて対処をしようとしたが、その対処の方法が上からの押しつけとして見られていた。これを打破するために、吉田保健婦は田中氏の助力を得ることになった。

 

   意識をかえるということ

田中氏については先に述べたように住民の主体性を第一とすることから、まずは「言いにくいことを言」えるようになる意識改革を進めることなった。ただ、これは小手先だけでできる問題ではない。様々な批判を浴びることになる。特に男性側からの圧力はあった。また姑との関係性もあった。さらに言えば昭和30年代から40年代当時の生活というのは、それこそ兼業農家が増加していき、都市部に働き場所を求めることから、収入の面で農家の収入というのが補助的になってしまった。どちらかというと兼業側が主になりえる場合さえあるという。経済的基盤の揺らぎと男手の出稼ぎ労働、女手の日雇労働が日増しに多くなるという状態が出てくるようになる。そうなると、女性にいくら訴えかけようとしても女性が昼間ほとんど家にいないという状況があり、それに姑が家で幅を利かせている状態がかえって多く出てくる始末となってしまった。女性が経済力を持つことは確かに発言権の拡大につながると思われるが、実際家計を預かるのは主人であり、留守の家を預かるのは姑ら老人にかかっている。つまり、いくら経済力が外部雇用により小遣い稼ぎができたとしても、それは家にいるいないという問題がそこに発生する以上、根本的な女性の発言権の解決には至らなかった。育児などの方面がすべて姑によってなされると、それこそ姑に「頭が上がらない」という立場をつくってしまう結果になる。姑側も、嫁が子を置いて働きに出ていることを訝しむ声も出てくる。こうした少しずつの矛盾や軋轢が日増しに増大化していった中での発言権の確保というのは並大抵のものではなかった。

吉田保健婦と田中氏は昼間はそれぞれに仕事を抱え方々を飛び回ると同時に、夜は日雇から帰ってきた嫁たちを集めて、話し合いを重ねていった。夜遅くまで言いたいことをいうことへの意識改革への第一歩としてのことを行っていたと思われる。

 

(3)受け手としての農婦

①農婦の気持ち

 『自分をかえる―丹波船井郡生活改善グループの足あと―』の中に日吉町に住むS氏の記録で「「遠慮が美徳」から」という手記がある。

(前略)婦人会の集りに生活改良普及員さんが指導に来て、料理講習会を始められた。匁からグラムにと尺貫法の切り替えで、まず第一に計ることから、科学的な基礎を教えてもらった。はじめて台秤や計量カップ、スプーンを使うことを覚えた。計ることは自然に身に付いた。料理実習をするとともに、もの言うことも勉強した。もの言うことということは、自分の思いを口に出すことで、それには自分の考えを持つこと。それはそれは、私たちにとって考えてみなかったことだ。

ただ黙ってうつ向いて仕事さえしていたら良い嫁やと言われていたのに、もの言うことの大事さを知ると、もう家の中も、村中もひっくり返ったのである。「グループの集りに行くと、理屈を言うこと覚えてきて、しゃあない嫁になる」とまで言われた。まわりの人たちからとやかく言われるのがかなんばかりに、ある日の会合に、毎月ためたグループの貯金を全部引き出し、お菓子やみかんを買っていった。普及員さんに「今日はなんですか」と驚かれた。「私達は今日で解散します」といって一日いろいろな話合いをした。そして帰りがけには「また集まろうな」と言った。こんなことを何度も繰り返していた。

その頃、婦人の集りでも始めは入り口ばかりに遠慮して座り、遠慮が美徳と思われていたものだ。私達は進んで場所づくりから始めた。少しづつ婦人会の雰囲気も変わってきた。まず、家の中から地域へと、いろいろなことにぶつかりながら、よくも今日までつづけてこられたと思う」。

この文章からわかるとおり、農婦たちは戸惑いながらも、それでも普及員である田中氏の指導の下で一致団結しながら話し合いを重ね。そのうえで「もの言う」ことを覚えていくようになった。「ものを言う」ことの訓練の場が料理教室であったと考える。これは田中氏だけでなく、吉田氏もそれに触発されて、この実践性に基づいた女性の発言力の復権に向けた取り組みを、直接的に行うのではなく、雰囲気を整えることから始めようとした。また、そうした雰囲気づくりを自然な形でやろうと心に決めた農婦らの動きというのは単に指導者による女性の発言権の強化という言葉に表されるものではない。どちらかというと、指導者はその場を整えたのであって、農婦自らがそこへ入り、その中で学び取りながら一つ一つの問題にあたっていったと考える。

この活動が部落の男たち、姑、舅らの理解を受けるまでには時間がかかったと思われる。これに関する記述が今のところ見つかっていないが、批判を受けながらも発言をすることの大切さを学んだ女性たちが、先の「ろばた会議」に現れるように、部落の集会に出席しそこで言葉を述べるように成長したのは、ひとえに田中氏、吉田氏の指導とそれに意欲を燃やした農婦らの活動が大きな影響力を持っていたことは間違いない。そうした意識改革が大切な活動の一つとして位置づけられる。

 

②保健婦の失敗と農婦の意見

 昭和53年に発行された『婦人問題研究』第43号の中に吉田保健婦の記事がある。特にその農婦との関わりを描いた一文がある。

 「(前略)まあ卒直にいって、それまでの町の保健婦の仕事と言えば、厚生省からの通達、あるいは府の仕事をこなすことにかかりきりなんです。逆に言うたら、それですんでるとゆうところがあります。赤ん坊の検診がどうのこうの、妊婦の健康診断がどうのこうのでおしまい。しかもそれもまことに表面だけのことに終わってしまうのです。勉強会をして、離乳食がどうこう言うても、いくら一所懸命に指導をしましても、その婦人たちに次に会って聞いたら何もやっていないのです。なぜだろう?と思いつゞけました。私はこんなにもきばっているのに、みなはなぜ言うことを聞いてくれないのだろう?それが私の悩みでした。

 (中略)私は、赤ん坊に重湯をのませるとき、その水の中に、コブを入れて栄養をプラスしなさいというように言うてまわったんですが、それがうまくゆきませんでした。若嫁さんのお姑さんが、重湯のだしにコブを使うなんてもったいないと言って、頭から否定されました。理論には間違いない話が、まるで受け入れられない、それはなぜだろうかということを一所懸命に私は考えました」

 吉田保健婦のこの文章はだいぶ後になって書かれたものであるが、その指導時における悩み。農婦たちにいくら勧めても実行に移されないもどかしさというものを描いている。とにかく、この当時における女性の地位がそれほど低く、意見を言える立場にいなかったことがその背景にあった。

 保健婦側からみてもこのように女性の発言権の低さというのは目に見えてわかり、保健婦活動においてそれが障害になることは多いものであったのだから、それを聞いていた婦人たちも家庭でそれを実行するためにはかなりの勇気がいるものであっただろうし、批判を浴びるものであった。

 そのような中で田中氏と出会い、生活改善グループ活動を進めていく中で、「言いにくいことを言う」をスローガンに、単に保健婦がすべてを指導するのではなく、受け手である農婦たちの言葉を引き出しそれについて検討をし、実行をしていったのである。それからの活動は目に見えて隆盛を極めることになる。マンガン中毒事件をきっかけに、マンガン鉱山従業員のじん肺訴訟について取り組みを行ったり、産業廃棄物の処理の改善をめぐったりして、住民の意見に毎回耳を傾け、「町の保健婦」としての職掌よりも、「町民のための保健婦」に、彼らの要求を汲んで様々な取り組みに従事することになった。当然のことながら、町政からの風当たりはかなりきついものであった。仕事をするにしてもやはりお金の面で補助を受けないといけない場合が多々あったため、それを町長に掛け合ったり、方々に電話をして願い出て少しでも住民の要求を通すように心がけるというものを行った。このおかげもあって、吉田保健婦が単に指導として一本化された保健婦というのではなく、町民の中に入り彼らの言葉に耳を澄ませる多様化された保健婦へと変わっていった。

 

まとめにかえて

 本報告は吉田保健婦という一人の保健婦、いや人間が農村生活の中で果たした役割をどう担っていったのか、また地域住民、特に農婦たちがそれをいかに見ていたのかを「保健婦の手記」「農婦の手記」双方から明らかにし、生活変化の上での保健活動の在り方を描いてみた。

農婦たちの掛け合いのなかで、生活、特に保健に関する動向がどう変化していったのかを中心に見いくことにより、従来の民俗学が描いていた単調な変化の様相のとらえ方では見られなかった心情変化などの細かい伏線、複雑な関係がそこにあることを確認できた。

本発表で出てきた、吉田保健婦をはじめ田中友子氏、農婦たちの関わりでもわかるように、一つの生活変化、保健を暮らしの中に反映するためにはどうしていたのかということを考えた時、それは保健婦だけの問題ではなく、多様な人間関係の元で有機的で動態的な生活模様がそこにあり、相互間に語らいを含めながら双方間の中で達成されたものであると考える。保健婦側、生活改良普及員側だけが保健活動に関与していたわけではない。従来民俗学では、保健婦の研究は少ないものの専門職業、産婆や助産婦、介護士という職業を描くとき、どこかそれをその職業の大きな役割を前面に出し、そこにおいて生活はどうあったのかを問うてくるものが多く見受けられる。しかしながら、そうした一方向的な影響が生活を構成していたわけではない。先にみたように、農婦と保健婦、生活改良普及員などの相互間の関係性が基調となる。これを考えるに、従来の民俗学における専門職業の扱いにはもう少しその内面性を明らかにしていかなくてはならない。

 本稿が目指すところは、生活研究の視座に立ったものであり、研究視点によってはこの稿の見方は大きく異なるはずだ。日本民俗学会で出た意見として多かったのは、女性史という立場に置いての意見であった。生活そのものというよりも、生活を支えた農婦、女性の地位向上、発言権の復権の在り方を指摘するものであった。本稿の内容が女性の発言権の強化を図った吉田氏、田中氏の活動をピックアップしたことによるものであろう。筆者の意向としては、女性の発言権の復権は一つの方法であって、それによって生じる生活変化へのまなざしにこそ問題点があるのではないかと考える。

 昨今、社会生活は大きな変化をその都度見せている。その社会生活の変化を経済や物流で語ることは簡単であり、その政治性についても同様である。だが、生活の本質は、生活者自身にあり、生活者の視点にも目を向けていく必要性がある。決して変える側の立場だけの意見で集約されるものではない。これは現在の保健師の地域における保健活動の在り方においても同様である。役所や保健所、県の指導とセクト主義的案立場に立ち、その活動の再分化が進んでいる昨今において、保健師が行う事業は地域を視点においても、そこに実際する生活というよりも、統計データ、事業目標の達成にこそ主眼が置かれている、いやおかされている。役場などは予算決議における予算目標に沿った計画の、事業の運営と達成にこそ主眼がある。保健師がいくら現場に出ようとしてもその機会は限られ、地域のことを考えようにも多忙により、そこに限界を感じる保健師も多い。これは役場の在り方そのものに問題があるが、ただ役場だけにあるのではないと考える。役場という場に「言いにくいこと言う」という視座が足りていない。それは個々人が発言することを促すのではなく、保健師の集団性の中でこれを考える必要性が問われる。さらに言えば、保健師が部署ごとにその部署の仕事に追われて、横の繋がり、課を超えての繋がりができていないことに住民サービスの在り方や、地域全体の状況の把握ができていないことにある。これを解決するうえでも、少し前の保健婦の活動を顧みて、それこそ吉田保健婦と田中改良普及員との関係性を再確認するべきかもしれない。

 以上、民俗学的な学問視点と、現在の保健師の在り方を底にどう結び付けるのかを考察として述べた。保健師の在り方については日本民俗学会の中では触れていない。いや触れずにいた。保健師の問題というものを未だ民俗学は理解が足りない部分が多々あり、これを理解するには時間が必要だと思われたからだ。まずは保健婦という存在、その記述、地域とのかかわりを周知し、そこから見えてくるものを提示することにこそ意義がある。本稿はそうした民俗学的な学問視点と保健師の現状を顧みるために加筆した。

 

参考文献

草地康子・壽岳章子編『自分をかえる―丹波船井生活改善グループの足あと―』(出版委員会 1998)

草地康子・李順連編『丹波マンガンじん肺と女たちの軌跡』(NPO法人丹波マンガン記念館 2013)

田中宣一編『暮らしの革命 戦後農村の生活改善と新生活運動』(農文協 2011)

森島允子「丹波農山村における地域組織―京都府日吉町の場合―」(『人文地理』251号 1973 71頁~94)

山中健太「千草町いずみ会の地域的展開と「生活改善」の受容」(田中宣一編『暮らしの革命―戦後農村の生活改善事業と新生活運動』 農文協 2011 328頁~351) 

山中健太「ある保健婦の足跡から見る地域保健活動の展開と住民の受容」(『佛教大学大学院研究紀要 文学研究科篇』第40号 2012 109頁~124)

山中健太「戦後の生活変化の受容と生活改善」(八木透編『新・民俗学を学ぶ-現代を知るために』昭和堂 2013 233頁~237)

吉田幸永「保健婦活動の公的責任(1)(丸山創・山本繁『公衆衛生実践シリーズ4 自治体における公衆衛生』医学書院 1987 1頁~15)

吉田幸永「丸岡秀子先生とわたし」(丸岡秀子『わたしの結縁帖 付・ふれあった十三人の追想』「わたしの結縁帖」刊行委員会 1991 112頁~117)

生活教育の会『生活教育』 昭和354月号から424月号 

日吉町役場『日吉町政だより』 昭和3810月号から昭和5512月号

婦人問題研究会『婦人問題研究』1016334353(昭和47年から昭和55)

 

報告を終えて

 本報告を終えて一つはっきりしたことがある。この故吉田保健婦の活動は保健婦個人から垣間見えるものでは決してありえないことである。それは地域関係者、特に田中友子生活改良普及員との出逢い、そして地域の婦人との付き合いの中で吉田保健婦自身が成長していった。つまり、吉田保健婦は一つのきっかけであり、多くの人との関係性の中で語られるべき存在であろうということだ。

 今後の方針として、吉田保健婦が地域で行ってきたことについての住民の声についてまだ聞き取り調査がはっきりしておらず、これをできるだけ抑えておきたいと思う。また、まだはっきりとしてはいないが、マンガン鉱山の件、産廃の件などの所謂行政問題についても加味しながら相対的に、地域と保健婦の在り方、そして関係者と生活の変化について検討していきたい。

 調査を通じ南丹市日吉町郷土資料館ならびに吉田保健婦関係者各位には、ご協力を賜り、また多くの証言を得る機会を得たことに感謝し結びの言葉にかえたい。

 

 

最後までご一読いただき、またご協力賜りまして誠にありがとうございました。今後ともなにとぞよろしくお願い申し上げます。

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