私の研究でおなじみの千種町いずみ会という団体は、各地区に支部組織をおき、その支部組織での活動を本部で報告し、協議しながら地域住民の健康意識の向上、健康増進の展開をおこなったのです。
こう書くと何の変哲もない組織に思いがちですが、この組織の面白いところは
「行政」がそれを「支援」し、「自ら動いてもらえるよう」画策していた
ところです。千種町行政における健康増進の先頭に立っていたのはA保健婦と呼ばれる人物と国民健康保険診療所、千種町役場の健康増進課、各地区の千種町いずみ会、婦人会、健康推進委員という官民バラバラの組織が一丸となって取り組んでいたことがうかがえます。保健行政の立場から考えれば当然のことと言わざるを得ないのですが、この官民連合による改善活動は珍しい形といえます。兵庫県全域にあるいずみ会組織、そのトップである兵庫県いずみ会、宍粟郡いずみ会などにおいては「自主的な」活動を目的としていますが、千種町いずみ会は末端では自主的な活動となっていますが、その間に行政の補助など様々なバクアップがあって成立する会なのです。
しかし、どうして官民両方が歩み寄る形になったのかというと、これもA保健婦のおかげといわざるを得ないのですが、とにかく昭和40年代当時は12地区内の保健衛生状況はかなり悪く、一刻も早く措置をとる必要性がありました。そのこともあってか、時代は遡りますが昭和35年千種町に唯一の保健婦A氏を置いたのです。まず、保健婦を初めて受け入れるわけですから何かと障害も多い事業だったと思われます。しかしながら、A保健婦は地域の保健、衛生、栄養、労働、育児などの環境を整備させ、千種町いずみ会とともに健康診断を開き、衛生思想の普及につとめていたのです。そのおかげもあってか、千種町で「A保健婦」について話すと、その話だけで盛り上がる状態です。それだけ影響力の強い人だったのでしょう。
さて、話は振り出しに戻りますが、この斬新な千種町いずみ会システムは組織構造だけでなく、その組織に参加している人物の心情においてもそれを活用したシステムとなっています。このことを私は「母性」という言葉を用いて説明しますが、そもそも昭和43年の千種町いずみ会発足の前に昭和31年より児童の成長不良、健康不振などがささやかれ始めており、昭和35年には学校給食を実施することで児童の健康づくりを行ってきました。その後昭和43年までの間の活動に関しては不明確でありますが、この活動を取り仕切っていたのが学校と育友会(保護者組織)の面々です。ここで注目してもらいたいのが、児童の成長不良を心配した父兄による活動が学校給食であったということです。その流れをくんで昭和43年千種町いずみ会が誕生することとなるのです。
つまり、保護者の心配という心情からこの活動がスタートしている点に注目があります。この育友会に参加したのは男女混合ではありましたが、女性のほうが多く、婦人会もこれに絡んでいたとも考えられます。
そのため、
この活動に対して「母性」という「いわゆる女性特有の子どもに対する想い」「家族の健康に対する想い」「地域の健康全般にわたっての改善していこうとする思い」が集約された形で動いていたものと考えられます。
こうした理にかなった千種町いずみ会システムはそれ以後も多くの地区で活躍し、「母性」を原動力にして組織の連帯感を一層強めていったと考えられます。
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