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2009年8月11日火曜日

聞き取り技術向上の構築に向けて

 聞き取り調査というものは、ある意味話者の生の声を聞くことから、記されなかった歴史を辿ることができるというメリットがあります。しかし一方で、聞くということは相手があって成り立ちますので、相手の主観がそこに生じているわけで、正確な時間的空間を呼び起こすにはあまりにも粗末すぎるというデメリットがあります。
 私たちの記憶は「忘れたい記憶」と「忘れない記憶」の二種類に分けられると考えます。そうなれば、話者はどれを選ぶでしょう。もし調査者が都合の悪い内容のことを聞こうとすれば、それは「忘れたい記憶」として処理され、話してもらえなくなる可能性があります。

 そもそも

 聞き取り調査というのは不完全な調査であり、完璧な記憶を呼び起こすだけの力はありません。

それを承知の上で、私たちは多くの話者から聞き取りを行い、行政文書やその他資料と突き合わせながら総合的に調査資料を整理し研究していきます。ある意味、完璧な記憶に一歩近づくためといっても過言ではないでしょう
 しかしながら、最近行政文書やそのほかの資料(モノ資料も含む)等に関して懐疑的になってきています。その理由は、文書資料とされるものはその筆者の主観やその筆者がいう「客観」的視点で物事が記されています。またモノ資料にしても、実際使われた当時の使い方が記憶の通りであるのかという実証性はなく、かなり不安定な記憶を辿ることとなります

 そこで、私は聞き取り調査の向上に向けて以下の3点から考えてみることにしたいと思います。

①聞き取り調査自体の正誤性をどう見るべきか

②調査対象者である話者をどう見るべきか

③文書資料と聞き取り資料を並列で考えるべきか

以上の3点からのアプローチを考えてみたいのですが、何分一人で考えても仕方がないことなのでどなたか進言いただければ幸いです。

 まず私の意見を言わせていただきたいと思うのですがよろしいでしょうか?(もし準備が必要ならこの後は読まなくて結構です)






①聞き取り調査自体の正誤性をどう見るべきか
 これについては皆さんのほうがよくご存じかと思いますが、「何度も訪問して」話の内容に齟齬がないかチェックすることにあります。つまり、複数回の話者とのやり取りがなければ成り立たないものです。

②調査対象者である話者をどう見るべきか
 結構難しい問題ですが、私は調査対象者としてみるのではなく、単に会話者としてみるべきかと思います。この場合、調査とか研究とかの概念は一度捨ててみることが必要かと思いますがね。ただし、会話者となるにはそれなりの信頼関係のもとでお互いを意識しなければ成り立ちません。①で申し上げた通り、やはり何度か会うことがベストです。それと、会話者には質問は無用です。質問でなくて話をするのです。何気ない話題を振りかけ、それに応じて答えを待つ。ただそれだけのことです。では調査はどうなるんだと怒鳴る方もいらっしゃるでしょうが、概念を捨てろとはいいましたが調査自体をやめろとは言っていません。会話者と適度な会話をすることで、その中に民俗学的エッセンスが詰まっていればそれだけで十分ではありませんか。確かに丸坊主の時もあるでしょうが、それでもくじけてはいけません、相手との関係性の構築には成り立っているのですから。

③文書資料と聞き取り資料を並列で考えるべきか
 まず、それはあり得ないことでしょうね。文書資料と聞き取り資料では次元が異なります。方や記述というスタンスから見るもの、方や話すというスタンスから聞くものですので、全く意味が異なります。そのため、並列に考えることはできません。よって、聞き取り調査で文書類を証拠に話を進めていくことはある意味危険性を帯びています。確かに、証拠としての文書の力は強力です。それを使って話をすれば、話者はそれ以上のことを話さなくなるでしょうし、関係も淡白なものとなってしまいがちです。そうなれば、聞き手話し手という関係自体危ぶまれるでしょうね。

以上が私の意見です。この意見は私が数々の調査経験から言えたことであって、どなたかの論文を読んで描いたわけではありません。よって、素人意見としてみていただければ結構です。しかしながら、この調査論を考えるには日本民俗学会でも取り上げるべき課題だと考えたりもします。

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