おはようございます。つい昨日行われた日本民俗学会での発表を公開します。ちょっと失敗してしまいましたけど、ようするに私のやりたいことはコレだということです。
生活者にとっての「生活改善」
-兵庫県宍粟郡千種町における「生活改善」の受容と背景-
1.はじめに
本発表は兵庫県宍粟市千種町の昭和30年代から50年代にかけておこなわれた「生活改善」(地域保健活動)の実態を明らかにするとともに、それが地域にどう受け入れられていったのかという過程を、地域住民である生活者の視点から追うものである。生活者にとって「生活改善」とはどのようなものに映り、そしてそれが行われることに対してどのような心情を持っていたのであろうか。それが今回の発表の目的である。
まず、生活者にとっての「生活改善」を述べるに当たり、従来の研究でこれがどのように扱われてきたのかを述べてみたい。そもそも、この生活改善と称する活動はどのようなものであったのか、田中宣一氏はこう述べている。「政府および政府関係機関の施策と、それに啓発された自治体及び地域や家々、さらには諸団体が、自らの生活の改善向上をめざす創意と努力」とし、生活の近代化、合理化を目指した活動である(田中 2011)。こうした活動は明治期からその萌芽がある。大正期には生活改善同盟会という組織が、都市部を中心に勤倹貯蓄、時間励行など様々な面で生活の改良を目指し活動を行っていた。戦前戦中も富国強兵の風潮の中、都市、農村といった広い範囲において生活設計の見直しを迫る活動を行っている。戦後には、GHQの指導の下、農林省が農業などの生産生活またそれに伴う農民の生活の近代化合理化を目指し生活改善普及事業や、新生活運動協会による農村の社会教育などの興隆を目的とした新生活運動、また他にも公民館活動や保健所活動などといった組織がたちあがり、多くの地域、とくに農村をターゲットに戦後農村の疲弊からの解放、民主化徹底を目的とし様々な形で活動がなされた。
これが生活改善の大まかな内容である。従来の研究ではこの活動をベースに、その団体がどのような理念で、どのような活動を行ってきたのかを詳細に描いている。最近のものでは田中宣一氏編集の『暮らしの革命-戦後農村の生活改善事業と新生活運動』(農文協 2011)が新しい、また新生活運動の歴史的経過をたどったものとして大門正克氏編集の『新生活運動と日本の戦後-敗戦から1970年代-』(日本経済評論社 2012)もある。ところが、団体の活動史としての側面が強く、地域の活動においても団体と地域グループとのかかわり、それを中心に行われた活動の概要といったように、すべての物事に対して団体を経由している。受け手である生活者像、生活改善に対する彼らの姿勢というものは現れてこない。生活改善とは生活者やそれをとりまく地域環境、社会環境などの中で、生活者が改善を必要と判断し取り入れるなかで生じた、結果としての生活の改善であって、あくまで団体はそのきっかけである。ここで、合理化近代化を前面に出さないのには理由がある。生活の合理化近代化という目線は、どれも地域生活を外部から覗いた言葉であり、生活者にとってそれは外部の意見でしかない。生活者にとって生活改善はそのような理想的な形を常に取っていたわけではない。生活者の都合は、地域生活における生活者の思考の中にあり、その都度改善をするかどうかを選択し、その都合に合わせて変えられていくものである。生活改善という活動がこれまで団体からの目線で研究されてきたのは、生活者、末端部において、それがどの団体の活動かは明確に区別されておらず、実態を知るには団体の記録を通じてしか、その存在が明らかにされていなかったからである。だが、生活者にとって生活改善は団体としてのそれだけはない。生活者の様々な考え方が交錯し、生活全体がその中にあることを考えなければならない。これらのことから、私はこうした生活者からの視点を括弧書きの「生活改善」として扱い、従来の研究とは少し離れた、受容される側から活動を眺めてみようと思う。
2.兵庫県宍粟郡千種町の生活改善の動向
兵庫県宍粟郡千種町は鳥取県と岡山県との県境に位置し、周囲を山林に囲まれた町で、千種川を挟むようにして集落が点在している。生業は農業と林業が盛んである。この地域で生活改善が起こったのは昭和32(1957)年、小学生児童の成長不良の発覚からである。欠食児童や栄養不良児が多く、その原因は地域の食生活環境にあるのではないかとされた。そのため、給食を実施しその是正にあたった。この給食の実施を契機に、町内の各地区で料理講習会や勉強会などといった自主的なグループ活動が行われ、食生活の向上に向けた取り組みがなされた。こうした取り組みが行われていたものの、依然として地域の生活環境は悪く、奇形児や乳幼児の死亡率など子どもだけの身体をとっても問題は山積みだった。
そのような中、昭和35(1960)年、当郡初めての町保健婦としてA氏が赴任することになった。彼女は、保健婦として就任するとすぐに、母子保健活動や地域の衛生環境の調査を行い、町内全戸を回る家庭訪問を実施した。これを事細かに記録し、どのような生活環境にどんな病気があるのかを調べた。また、彼女は調査をするだけでなく、積極的に地域に入り食生活に関わる栄養指導や衛生知識の普及に尽力した。この当時大きく問題となっていたのは、その食生活における環境であった。まず、米飯中心の栄養の偏った「ばっかり食」が横行していたこと。次に、母親の過労から食生活への気配りができなかったこと。さらに、衛生環境が整っておらず回虫などの健康被害が著しかったことがあげられる。A保健婦はこれに着目し食生活を改めるアクションを起こした。これにより、問題の存在が徐々に周知され、生活者自身が自分たちの問題として意識し出すようになった。彼らはこのA保健婦の声に耳を傾け、健康に関する知識を積極的に取り入れようとする機運が高まった。A保健婦は、このような中で、自分が積極的に関与することもさながら、生活者が自発的に問題に取り組んでこそ解決につながると考え、地域で活躍していた婦人グループに着目し彼らとともに活動をしようとした。そこで、昭和43(1968)年、「家族の幸せは自分たちの手で」、「健康で明るい生活を」とのスローガンのもと千種町いずみ会という組織を作り上げた。この組織は地域の婦人会のもとにおかれ、組織的な改善活動に勤しむこととなった。主な活動は栄養師を招いての料理講習会を通じて行われた食生活改善や栄養改善の実施、A保健婦を指導者に衛生や健康に関する知識を身につけることで、地域の衛生環境の是正を図ることなどを行った。具体的には、これまでの米飯一辺倒な食事を見直し、強化米(ビタミン剤入りの米)や麦飯の推奨、おかずの種類を増やして栄養バランスのとれた献立にするなどの工夫がとられ、飯にたかっていたハエを遠ざけるために、その温床となっていた厩や便所を別棟にしたり、台所環境を整備する等の住宅改良にも着手した。さらに、回虫の駆除を進んで行い、保健所より無料散布されていたマクリ(虫下し)を湯で溶かしそれを児童らに飲ませ、寄生虫のもととなっていた田畑への糞尿肥料の散布をなるべく控えることを呼びかけた。また、こうした生活環境の是正と同時に、町内全域を中心とした健康診断を実施し、昭和30年代後半から40年代当時に問題とされた高血圧や脳卒中などの病気を発見し、それについての講習を町の国民健康保険診療所と協力して、病気の早期発見と予防、そして生活改善への体制を築き上げた。その後この活動が行政の目を引き、町が健康政策を打ち出すと同時に、彼らに予算を振り分け、その活動を支えていくこととなった。それとともに予防活動のほかに健康増進に関わる活動も見られるようになり、当時の成人病に対応した基礎体力作りや運動などの設備が整えられることとなった。この活動はA保健婦が就任していた昭和50年代にまで千種町内で続き、活動は郡全体へ県全体へというように拡大していった。ところが、A保健婦の退職と同時に活動は衰微し、大規模な検診は保健所のそれと変わり、食生活改善は単なる料理講習に切り替わってくるようになった。年々参加者は少なくなり、活動の形骸化から現在は行われなくなった。
生活改善は千種町いずみ会の熱意とA保健婦の補助により、速やかに行われ、この相関関係こそがその受容のありようだと思っていた。ところが、そう簡単に生活改善が受容されていたのではない。生活者が生活の改善を必要とし、活動を選択した結果が生活改善につながるのであって、団体の生活改善がそのまままかり通るとは限らない。そのため、活動を進めようとする団体とそれを受け取る地域住民の間には、その活動をめぐっての軋轢や数々の葛藤があり、数々の接触を経て実るものである。だから生活改善を団体から見る視点ではなく、今一度生活者の目線で見ていく必要がある。また千種町のそれは、「保健衛生」や「健康」をキーワードにして行われており、その活動の受容にはそれらの価値観の変動が大きく関わっている。それらも含めて、生活者にとっての「生活改善」を考える必要性がある。
3.認識されるまでの道のりと葛藤
(1)医療への誤解と、健康に対する地域住民の不理解
団体の生活改善が生活者にとっての「生活改善」につながるには、まずにその活動の有効性が問われる。その活動が自分たちの生活にとって有効であるのか、本当に必要であるのかという部分において納得ができる状況でない限り受容されることはない。戦前戦中期の生活改善はこれらを無視した上からの圧力的な活動ではあったが、戦後の活動はどれも民主的な采配によるところが大きく、受け入れるか否かは生活者の受け取り次第ということになっている。もちろん、それにむけての活動努力は団体が行うことではあるのであるが、結局のところ生活者の必要性がなければ形骸化されてしまうことになる。千種町の場合、昭和32年の時点で、児童の成長不良ということから、給食を実施しようとする強いアクションが行われる。これは児童の身体というものに対して周りの大人たちが危機感を募らせたこと、周囲の比較を通じて自分たちの身体を見直したことになるのであるが、それにより改善が必要であることを認識し、行動に移した結果である。ところが、この意識というのはその後昭和35年にA保健婦が就任するまで、児童のことという狭い範囲でしか認識されず、生活自体が大きく改善をされることはなかった。食事に対して気をつけることはあっても、栄養知識があったわけでもなければ、衛生に考慮できたともいえない。つまり、千種町で給食がはじめられた当初においては、あまり表だった意識の変化はなく、それを受け入れるだけの必要性を感じていたかというとそうではないのである。そのため、問題は置き去りにされてしまった。
その後昭和35年にA保健婦が入ってくるとこの問題に少し明かりがともされることとなる。A保健婦は家庭訪問を通じ、地域の問題の所在については明確にとらえることができたのであるが、生活者にそうした話をする機会はなかなかなかった。その原因となったのが、地域における「保健婦」に対する偏見であった。当時医療従事者というのは国民健康保険診療所が千種町千草に一軒あるのみで、それ以外の医療機関というと、郡内にあった博愛病院の存在、それと保健所であった。千種町で病気やけがをすると、軽いものであれば診療所に診ることはあったものの、重い病気や手術を要するものになった場合は、郡内を離れ隣の町である佐用郡佐用町にまで出ていかなくてはならかった。医療費の他交通費のこともあり、医者にかかることはかなり慎重なことであったという。また、千種町の西河内地区など山奥の集落では、病気になることは労働力を割くことになり、また家族の迷惑や主人や姑に気兼ねすることもあってか、病気になってもよほどのことがない限り医者にかかろうとはしなかった。そのような環境下の中、A保健婦は地域を巡回していたわけであるが、医療従事者に慣れていないせいか、保健婦の存在を見たときに、「結核を診に来たのか」「それならここにはおらん、出ていけ」と冷たくあしらい、A保健婦の家庭訪問に対して強い不快感を示していたという。こうした周囲からの忌避されることが多かったため、大きな活動に出ることはできず、何度も地道に家を訪問するしかなかった。門前払いをされることも多々あったそうだが、それでも何度も訪問して理解を経て家に上がっていたという。
また、病気や怪我等に対する人々の認識は「ほっておけば治る」というものであり、症状が進行してから医者にかかることが多かったためか、手遅れの患者が多かった。このため、A保健婦が地域に入ってみたのは悲惨な状況であったという。我慢したことにより症状が進んでから病院にかかることが多かったため、普段からのこまめな治療はできなかった。こうした地域環境がきっかけで、A保健婦は住民の病気への理解を促すために各地区を回りながら、衛生指導を行った。病院にかかること、手遅れにならぬよう病気の知識を持つよう住民に呼びかけた。これも何度か行うことで人々に認識されていった。生活者の中にある病気や怪我や医療従事者に対する理解が足りなかったことが原因であった。
(2)地域住民間における団体活動への不理解
次に生活改善が行われていた際に問題となったのが、地域内での生活改善に対する温度差であった。特に、地域で活躍していた千種町いずみ会に対する風当たりという面において、A保健婦の活動同様に難しい局面があったという。千種町いずみ会は当初各地区において行われていた婦人グループを中心にしてできた組織である。グループ活動が行われていた当初は婦人会とは関係なく、あくまで個人同士の付き合いレベルで活動が行われていた。だが、婦人会に所属する姑世代からは関心が寄せられておらず、千種町いずみ会が結成し婦人会の中に置かれるようになった後も、半ば婦人会から浮きだった存在であったそうだ。そのため、こうした目立つ活動を善しとしない人々から嫌がらせの様な事を受けたことが多々あったそうだ。また、会員の家族は、この婦人グループの活動を、どう見ていたのかというと、「婦人会の活動だから」という理由から見守っていたという。千種町いずみ会の活動に対し、それは婦人会の活動であって彼ら独自の活動としての理解がなく、同時に家族らはそれら婦人の動きに対してあまり理解が及ばなかったそうだ。つまり、千種町いずみ会はそのまま地域社会に溶け込んだ団体ではなく、どこか浮いた存在としてそこにあり、婦人会からもあまり関心がもたれず、家族にもあまり理解を示されていなかったことが活動においてかなりの障害になっていた。特に、姑からに気兼ねしながら活動をしなければならないこともあって、最初は細々とした活動であった。さらに、彼らの活動については行政もあまりよく思っていない節があったそうだ。確かに活動自体は地域の保健に関わる重要な活動ではあるものの、昭和43年発足当時にそこへ地域の予算をつぎ込むことに理解が及ばず、活動に対しての評価がなく自費ですべての活動をまかなわれなければならなかった。料理講習会に限らず、千種町いずみ会の活動は幅広く、血圧の測定運動にまで発展した折に、各家に血圧計を置くように役場に持ちかけたが、予算をめぐって行政と対立することもしばしばあったそうだ。こうした地域における生活改善に対する不理解が起きていたことはこれらの活動が受容される中において重要なことであろう。
従来の研究において生活改善は活動記録のみが目立ち、団体がどのように動き、どのように対応したかに焦点があった。しかしながら、受容という場面においては生活者との対立も多少あっただろう。医療に対する人々の不理解や、活動団体に対する不理解というものは大きな問題があり、生活者は「生活改善」の必要性を感じていなかったともいえる。そのため、生活者の反応は薄く、団体が活動したところでそれに対する評価をすることもなく、ただただ見守ることしかなかった。
そこで、A保健婦ならびに千種町いずみ会がとった行動は、そうした不理解を払拭することであった。まず、地域の医療や健康、衛生というものの捉え方を変える必要性があった。既存の考え方を考察し、それを変えるという中で、単に医者にかかることを勧めるのではなく、各個人が病気の知識を有し、健康に対して積極的に感じ、衛生的な暮らしに心掛けることを目的とした。こうした考え方の改善がどのようにして受容されるようになったのかを考える必要性がある。次に、千種町いずみ会の地域内での彼らの動きに対する人々の理解は、単に婦人会の活動であるという認識しかなかった。あまりこの活動の中身について関心が寄せられていなかったこと、単なる若い世代の活動として旧態然とした婦人会活動から切り離されていたことが問題であった。そのため、当初の活動は、細々としたものが多く、消極的であり、はっきりとした結果が得られていたものではなかった。その後千種町いずみ会は、保健婦を招き講話を催し、そこから栄養知識について学び、それを地域に持ち帰って普及するやり方をとっている。そうしたいずみ会がどういう立ち位置におかれ、どういう視点で見られていたのかということも必要になる。
他にも様々な問題点があるが、以上の二つの視点について考えてみたい。
4.生活者と健康
(1)生活者にとっての健康
そもそも、この活動は地域の保健衛生の是正にあり、現在から考えれば、至極まっとうな活動であるように思う。ところが、このような考え方がその当時あったかと言えばそうでもない。というのも、先述した生活者と医療従事者の誤認でもわかるように、生活者にとって病は大敵であり、だが同時に病院に入ることをこれと同様に忌避していた。当時の生活者にとっての健康とは、医学的な健康というものとは少し異なり、養生としての健康がそこにあったからではないかと思う。病気は「そのままにしておけば治る」自然治癒という考え方が支配していたことになろう。病院に行くことは労働力を割くことにもつながり、それを回避するべきと考えたため、人々の中には病院は最終手段であった。その日暮らせればいい、その時の状態が良ければいいというくらし方が基本であったため、未来における病気の脅威に対してなんら用意を持っていなかった。病気を長らく放置し、手遅れの状態になることが多く、且つ予防に目を向けるだけの余力が生活者の中にはなかったというべきなのかもしれない。
さらに、なぜこのような余力がないとか医者にかかることが難しい状態であったのかを問うた場合、経済的な理由と生業的な理由とがあると思う。医者にかかることは多額の費用を要し、それを出すだけの蓄えもなければ、予防にあてられる余裕もなかった。また生業的な理由は、当時この地域では出稼ぎが横行しており、一家の大黒柱である主人が家を空けることが多く、残された祖父母と妻の「三ちゃん農業」が多くみられ、農業人口の少なさのために一人にかかる労働力がかなり多かったこと。さらに妻は子どもたちのためにということで少しでも蓄えを増やすべく、外部に働き口を求め炭焼きなどを行って生計を立てようと試みたがために、一日のほとんどを仕事につぎ込み、多忙な毎日を送っていた。そのため、医者にかかるタイミングもなければ、忙しさのために家庭の健康や予防に手を回せるだけの余力もなかった。後々これについては問題化され、「母よ、家に帰れ運動」というものが実施されるようになってくる。
ただし、全く健康に対しての考え方が備わっていなかったかというとそうではない。先に記したように昭和32年において、既に児童の成長不良を通じて自己の健康水準の低さを自覚し、それに対して劣等感を持っていたのは事実である。生活者にとってのこの子どもの不健康の発覚はかなりの衝撃を与えた。当時の生活者からの声は「どうしてうちの子が」「今まで何にもなかったのに」「確かにこまいとは思っていたが」というように子どもの健康がそれまでは別段問題にされなかっただけに、このときの健康水準における不健康の烙印は、危機感として内々に健康への疑問が出てくることになった。こうした危機感を通じての健康が省みられ、生活者にとって「生活改善」は必要なものとして意識されるにいたった。その後、しばらく間が空いてしまうものの生活者にはこの疑問が残り、A保健婦が家庭訪問を繰り返し行うことで、単に子どもの問題だけでなく自己の問題として認識されるようになっていった。まとめると、この当時地域内では二つの異なる考え方が混じった状態となっていた。一方では養生という考え方がために病院や医療にかかることを最終手段としておき、実際にかかることは経済的、社会的に見ても忌避すべきものであるとする考え方が支配していた。だが他方では、子どもの健康における疑問から自身の身体やその生活に劣等感を持ち、従来の健康ではだめだと意識的に思うようになった。こうした考え方が渦巻き、葛藤がある中で、生活者は「生活改善」を求めようとしたことになる。
(2)生活者にとっての婦人グループ
次に、婦人会や行政などとの温度差というものについてよく考えてみると、地域社会、村社会として、この新しい組織や考え方に対しての多少の抵抗があった。この原因については推測の域を出ないが、嫁と姑、嫁と家、女性と社会という枠組みの中で語られるものだと考える。つまり、新しい考え方を持とうとする女性、特に嫁世代に対して、古い考え方をもつ姑世代を中心とした婦人会の中で摩擦があった。昭和30年代ごろの婦人会組織は村の中でもかなりの力を持っていたそうだ。そのため、婦人会に所属することは家として村としては誇りとなるものであり、婦人会の活動はかなり高い評価を受けていたという。この背景には男手が出稼ぎなどで町外へ出ており、実質的に家庭のこと村のことで権力を誇示していたのはやはり女性なのではないかと思う。嫁世代が婦人会に加わることはかなり大きな存在意義になっていた。そこへ、新参者である千種町いずみ会が出てくるわけであるが、この会はもともと地区の婦人グループの中におかれていたため、活動としてもそのグループの域を出ることはない。そのためか、婦人会の傘下組織におかれる際、婦人会の権限としての活動を許可されているのであって独立した考え方を有するものではなかった。千種町いずみ会が正式に認められた昭和40年代において、この活動が力を強めていたことに対し、婦人会や姑世代はこれを表面上認めはするものの、陰ではあまりよいものとして見てはいなかった風もある。そのため、食生活改善や栄養改善を行う際、姑の了解や婦人会との接触としてもかなり気を使った。だが、この会が目指したこと、健康に関することについては、姑世代や婦人会の大多数は理解を示しており、また子どもたちのためという建前もあったためか活動に対して正面をきって反対することはなかった。
さらに行政の反応も同様に、初めのうちはこの活動に対してなんら支援をするということを示していなかった。千種町いずみ会が会として成立するまでの間、様々なグループ活動が地域内で起こってはいたものの、行政がこれに対して何らかの処置、予算配分などを行っていたということは聞かない。この昭和43年以前の段階においては行政の積極的な介入はなく、あくまで生活者の自由意思に任せていたというのがあった。ところが、昭和43年に入ると、それまで黙認してきたものが看過できなくなり、行政の介入が起こってくる。これは昭和44年に制定された千種町健康教育振興審議会条例による健康教育の普及を示唆したもので、同年の体位向上協議会において児童の身長体重ならびに地域の食生活や衛生環境に対し、行政として関心を持ったことによる。ただ、この介入においての予算配分は、婦人会のそれとは別なものであり、金額としても少ないものであった。千種町いずみ会はこの予算枠について、後々A保健婦とともに改善するよう行政に訴え、それで活動資金を手に入れるようになった。行政の意図としても、こうした健康への盛り上がりを受けて、健康増進に前向きに取り組まざるを得なくなり、そこでA保健婦や保健所を交えて地域の健康への取り組みを行政としてどのように取り組むのかを決めていこうとした。予算もその都度において決定され、施行されるようになった。婦人会活動にしろ、行政の取り組みにしろ最初はあまり積極的なものではなく、どちらかというと旧態然とした対応でしかなかったものが、健康を敏感に受けるようになってからはがらりと方向転換をし、千種町いずみ会やA保健婦に対し協力を申し出るというような対応をしている。このことからわかるのは、千種町での健康に関する活動は、すぐに認識され決断されたのではなく、昭和40年代にまでもつれこみ、様々な葛藤の中で生み出されたものであるということである。
5.まとめ
千種町における生活改善の背景にあった諸事情というものについて考えてきたが、ここでもう一度そもそも活動がどうして起こったのか、なぜ活動を受け入れたのかということを考え直したい。
昭和32年におきた児童の成長不良の問題は、他地域との比較の中で自分たちの健康基準の低さに劣等感を覚えたことに始まった。つまり、この時点において人々の目に具体的な指標としての健康が見え始め、それは従来の生活のままではいけないことを決定づけた。だが、昭和32年の時点では、小学校内での問題として処理され、生活者の中に改善を生みだすことはなかった。その一方で、この児童の給食の件を発端にして地域内での食生活に対する関心が高まり、婦人グループの意識的な活動が行われるようになっていく。細々とした活動ではあるものの、生活者が食生活を見直そうとし始めたことがうかがえる。また、これとは平行して健康に対する問題意識は昭和35年のA保健婦の就任により、表面化することになる。病院にかかろうとしなかった地域の健康への不理解を払拭するべく、A保健婦はたびたび地域を訪れては健康に課する知識の普及に努めた。同時に家庭訪問を通じて各戸に呼びかけを行い、意識的な改革に乗り出そうとしていた。そのような中、地区の婦人グループの活動に出会い、彼女らとともに地域の生活改善に乗りだそうとする。このとき、既に地区内には健康に対する関心が高まり、A保健婦に対する忌避感は薄まり、彼女を中心とした活動に目が向けられていくようになる。婦人グループも当初は婦人会から浮きたった存在で、姑世代との間に考え方の開きがあったものの、活動を通じて特に家族の健康について方針を示していくことになり、徐々に理解を取り付けていった。
このように、活動は生活者の様々な考え方の下に展開し、段階的にステップアップしていったことがわかる。これまでの研究では活動の足跡をそのまま追うことから、こうしたステップアップという過程についての詳細な分析がなされていなかった。この段階には生活者が何を思い、何のために、どうして生活改善を受け入れたのかという、生活者個々の「生活改善」がそこにあったのであろう。団体史としての生活改善からは導き出されない、生活者の本音の部分における改善のありようは、単に生活改善を活動として見るのではなく、人々の心情の変化においてあるものとして受けとらえるべきだろう。
最後に、この生活者視点の「生活改善」、特に今回は健康という意識の変化や団体の認識などについてみてきたが、ここで描けるものはすごく狭い範囲でのことであって、全国的にこうした活動の展開がなされていたかいうとそうではない。地域個々の活動にはそれなりの理由や、それなりの受容があってしかるべきである。だから、今回扱ったのは兵庫県宍粟郡千種町の昭和30年代から50年代にかけて行われた活動の、しかも昭和30年代から40年代ぐらいまでの間で起こった事象を取り上げて述べたものである。時代や場所によってその考え方は異なり、活動の性格やその受けとらえ方というものも変わってくるだろう。特に、昭和40年代からは栄養改善により、栄養豊かな食事が提供される一方で、その反動としての生活習慣病が問題化される。成人病診断が町行政の下で実施され、単に予防としての健康から、健康増進、向上のための活動へとスイッチしていく。つまり、その間においても生活者の意識は変化を続け、この活動を見ていたことになる。とするならば、当研究はまだまだ途上段階であり、全体を抑えたものとなっていない。また千種町の活動だけを切り離すならば、彼らの行った活動というのは地域保健活動という医療関係の活動にもなる。そうした視点からの分析も必要であるし、そうした立場から生活改善はどうであったのかをとらえる必要があるだろう。
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