平成25年5月25日
於:保健婦資料館
第12回総会に出席して
保健婦経験者が集まる保健婦資料館の第12回総会に出席させていただきました。もういった当初からテンションが上がっていたのですが、私としてはこの総会の場で、自分の研究について触れ、それで保健婦資料館としてこの研究を続けていくことを考えたいと主張するために来ました。というのも、これまで民俗学側、特に佛教大学との接点で論文を書籍化したり、活動を繰り広げてきましたが、自分自身の反省として、あまりにも大学の恩師におんぶにだっこというのはいかがなものかと思ったきらいがあったからです。また、独立した研究者として、保健婦活動を民俗学の中に位置づけ、且つ農民生活と密接にあった保健婦の在り方を今一度振り返ってみる必要性が現代の保健師教育上には欠かせないと思ったからです。本日の会はそういう気持ちで挑んだのです。
【川上裕子氏との出会い】
昼ごろに穂高駅につき、食事をとってから保健婦資料館に赴いたら、ちょうど川上裕子氏と出会い、川上氏が出しておられた『日本における保健婦事業の成立と展開―戦前・戦後期を中心にー』(風間書房 2013)についてお話をお聞かせいただき、且つ私の研究についても少しご存じだったようで(生活改善での研究)、話が弾みかなり貴重な時間をいただきました。本当に川上氏には感謝です。川上氏は大国美智子氏の『保健婦の歴史』(医学書院 1973)では具体的に扱ってこなかった、詳しい保健婦の戦前戦中期の流れをとらえられており、事業史の在り方を今一度見つめなおす著書として素晴らしく、今も私自身読みふけっているところであります。その意味で、この会は出会いの場でしたね。いろいろな保健婦経験者の方々や大学で保健婦の歴史をとらえておられる方がともお会いできたのはいい機会でした。
【総会の講演を通じて】
①在宅保健師の震災支援と自治を考える
昼過ぎから総会が行われ、議事の進行のもといろいろな事業計画が出されて、そのたびにああこういう活動も行っているのかと驚かされることがたびたびありました。何ともすごい会に入会したなぁって感激しました。
そのあと、「長野県栄村の大震災と在宅保健師による村民への支援活動」というタイトルで、在宅看護の会・信濃の会の小林澄子氏がご報告なさっておられました。在宅看護の会という初めて聞く言葉ではありましたが、退職した保健師らが在宅保健師として退職後も、保健師の取り組みをなさっておられるとのこと。長野県栄村の大震災は東日本大震災後に起こった震災で、あまり注目がいかなかったものだったそうなのですが、その震災による被災者救援に向けて現役保健師だけでなく、在宅保健師がボランティアとして地域に滞在しながら、看護などにあたっていたことを聞き、やはり保健師の在り方は地域の中にこそあるものだなぁってしみじみ思いました。また、栄村は自立精神が旺盛な村で事業を住民自ら動くという形でなさっていたことを聞き、そういう中で保健師はどういう活動をしていたのであろうかと不思議と疑問に思いました。というのも、この地域では下駄ばきヘルパーと呼ばれる住民の自治組織の方々が地域で盛んに活動をなさっているという中で、保健師が果たせる役割はなんなのか、また保健師が取り組むべき地域の問題はどこにあるのかということを考えさせられるものであったと思います。在宅看護の会がなさったボランティア活動は、震災を契機にこうした自治組織と連携をとりつつ、行われていたとあって、こうした地域社会における保健婦の確立というのを今一度問い直す意味で、個の発表は大変貴重なものであったと考えます。
②戦前の東北更新会を学ぶ―戦前戦中の保健婦の体制―
続いて記念講演として弘前学院大学教授の松本郁代氏が「東北更新会の目的・組織・事業と保健婦の養成・配置はなぜ行われたか、東北更新会がめざした保健婦像」と題して、戦前期に起こった東北更新会による保健婦活動について、歴史的な視点からご研究されておられることをご発表されておられました。東北更新会というのは、戦前期の東北地域を襲った凶作によって破たんした生活を立て直すべく、中央の社会事業として行われた活動だと私は思っています。その活動が、支部、分会を通じて現地に下されていく模様、またほかの社会事業団体や同潤会、セツルメントとの兼ね合いの中で行われていく過程が、すごく斬新でかつ戦後の保健婦活動にも通じる部分があるように思いました。ただ、今回のご発表のなかではその活動がどのように地域で展開されたのかは述べていらっしゃるものの、どういう風に受容されていったのかという部分についての問いかけがなく、私の研究の立場からすると不燃焼気味でした。別に学会発表ではないので、基調講演ですからそこはそれなんでしょうけど。ただ、保健婦事業が戦前において定着していく際に、この東北更新会という動きが連動し、それによって地域に保健婦が入るようになっていったことは大変勉強になりました。具体的な活動も、かなり面白いものでした。
講演後は様々な議論がなされていったのですが、私は先ほど申し上げた不満から、ついその事業の評価はどうであったのか、地域にとってその事業はどういう風に生かされていたのかという部分を突っ込まざるを得ず、大変見苦しいところを見せてしまったなぁって反省しています。ただ、松本氏は、その点について親切にお答えいただき、また保健婦の歴史が戦前と戦後との間に分断がなされている事態に対してもご指摘をなさり、それは中央の部分の考え方と末端である保健婦との考え方に違いがあったからではないのかという風に仰いました。中央では健民健兵政策の一部としてこれを活用し、事業史でもそのように書かれているけれど、実際現場で働いていた保健婦はそうではなく、地域に根差した生活の改善に努めていたということを聞き、ああそういう風な二重構造がそこに成り立っていたのかと納得しました。どうしても事業史方面から見ると、政策面が強調されてそうした末端の意見というのが捨象されがちになるので、二重の構造がそこにあったとするならば、それは、社会事業としての保健婦活動がそこにまだ顕在し、政府の動向もあるけれど、それとは別の感覚で地域を見ていたことにもつながると思ったのです。
③保健師養成とその中で学ぶ保健婦の経験知
この後は、しばらく休憩に入り、私は近くの温泉入浴場へ行ってきました。やはり穂高に来たのだから温泉を浴びておかないともったいない気がしたのです。入浴客はそこそこいましたけど、しばし疲れをいやすことができ満足でした。帰館すると豪華でおいしそうな夕食の準備が整っており、川上氏の出版記念の祝賀を祝って祝杯をし、私は隣席になった福井県の保健婦経験者である飴谷絹子氏と話したり、福井大学の講師をされておられる北出順子氏とも保健師教育やその現状のことについてお聞きしたり、質問させていただいたりしました。その節は大変お世話になりました。北出氏との会話の中で、やはり保健師教育の過程で保健婦経験権者との接触は大変貴重なものであると同時に、保健師が保健婦経験者から学ぶ機会を行っている北出氏の取り組みは、私が目指すべきことだなぁって思いました。今後も、何かと北出氏と接触を図りつつ、保健師のためにできること、自分がどこまでできるかを模索していきたいと思いました。また、飴谷氏には、保健師と保健婦のあり方の問題をよく取り上げてくれたと嬉しいお言葉をいただき、感無量でした。民俗学内ではこうした保健婦の活動についての着眼点が、木村哲也氏の『駐在保健婦の時代』(医学書院 2012)でしか見られておらず、まだまだ民俗学の中に保健婦の位置づけができていない状態があり、そのようななかで話者である保健婦経験者の方からありがたいお言葉をいただけることは、どれだけ救いになるか。私はここにきてよかったなぁって本当に思いました。その後も、自己紹介の中で、私の思いのたけをぶつけさせていただき、長々となるのを真剣に耳を傾けてくださった方々に、敬意を表するとともにああ私はここでこうして保健婦経験者の方々とともにあり、考える空間を共有していることの素晴らしさを身をもって感じました。
④日吉町故吉田保健婦の活動をお聞きして
食後は事務局の菊地頌子氏とお話しし、今後の研究計画書をお渡しするとともに、現在取り組んでいることを詳らかに話しました。というのも、菊地氏が今度調査に出向く、京都府南丹市日吉町の故吉田幸永保健婦をご存じで、しかも知人であったことを仰ったことに始まりました。こういう繋がりもあるのかと感嘆しました。そこで、お話を伺っていると、吉田氏は昭和30年代、地域において「地域住民のために」と様々な取り組みを行い、行政を巻き込んで予算を取ってきてはそれに着手するということをやっていたそうなのですが、昭和40年代に入って農業改良普及員の方が「そういう風なやり方だと住民があなたにおんぶにだっこで、本当の意味で住民の自律性、主催性を持った自治がたもてない。そのやりかたは官僚主義で、上からの押し付けであって民主的なものではない」と厳しく批判し、それを受けて吉田氏は「地域のために」という風に自分が行ってきた活動を振り返り、それが「官僚主義」的な仕事に徹していたことを反省し、もっと住民の自主性を基調とした取り組みに方向転換していったことを伺いました。この考え方は当時の京都府知事である蜷川虎三氏の「住民自治を第一に」「憲法の実現に保健婦は働きかけないといけない」という意向を受けての農業改良普及員の保健婦に対する指導だったと考えます。もともと社会教育が盛んにおこなわれていた京都府にあって、民主化のためには住民が自ら考え自ら動くことを、住民が主体性を帯びることを基本として考えていたことから端を発し、壽岳章子氏の婦人教育としての精神、社会教育運動の中で培われてきた住民主体性の思想があったからであろうと菊地氏は述べておられました。
なるほど、こうみると吉田氏という個人の保健婦の周りには単に農民との関係性だけでなく、吉田氏個人を指導しようとした農業改良普及員(生活改良普及員か)やその当時の社会教育の在り方、知事の住民自治への取り組みといった時代的な背景をも含めてみるべきであると改めて考え直す必要性があるなと思いました。保健婦の事業性を追うことでは見られない、保健婦の個性としての人間性を垣間見た瞬間というのは確かに貴重なものでした。いやはやいい人に巡り合えたなぁ。これも穂高神社に五円玉を収めたからかと思わざるを得ませんね。ほんとによい「縁」に恵まれた一日でした。
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