平成25年5月26日
於:保健婦資料館
保健婦資料館総会二日目報告
朝からやさしい陽光を受けて起床したのは最高の気分でした。昨晩の総会では保健婦経験者の方々との語らいは何事にもかえられない良い刺激であったし、夕飯の料理は最高で、ピアノ伴奏までついて楽しい時間を過ごせました。
【保健婦資料の傾向】
朝食前に保健婦資料館の写真を撮ったり、収蔵庫に保管されている資料を眺めたりして過ごしました。収蔵されている資料を拝見していて二点のことについて考えていました。まず一点目としてよく保健婦が現場で経験する際に用いられる社会教育的な要素がどこから来ているものなのか資料で当たれないかという点、二点目は農村や農民自体を保健婦がどのような視点で見ていたのかという確証を持てる資料がないかどうかという点でした。結論的に言えば、保健婦資料館に所蔵されている資料の中ではそれらの占める割合は少なく、必ずしもこれらの資料を活用して活動をしていたわけではないことがわかりました。二点目については、菊地頌子氏と名原氏曰く、「農村や農民の実態については、資料で確認するというよりも、現場で確認することが多かったし、保健婦養成の教育課程で都市と農村の両方に実習へ向かうことでそこから知識を得ていた」ということでした。なるほど、現場主義らしい保健婦の証言でした。尚、補足的に見られていたとされるのが社会学的な調査項目が掲載された古島敏雄氏ら編の『農村調査研究入門』(東京大学学出版 1980)で、この農村や農民への関与は保健婦にとって最大の関心ごとでもあったと考えられます。また、もどって一点目については、これは私の雑感なのですが、昨晩菊地氏との会話の中で保健婦の現場での活動、特に教育活動においては社会教育的な思想がかなりの割合でかかわりを持っていたこと、『生活教育』などの生活記録、生活綴り方運動との兼ね合いから全くもって無関係であったとは言い切れないと思います。
【総会発表において】
①3.11での保健師の証言から学ぶ
朝食後、菊地頌子氏の発表で「原発事故と福島の保健師たちの現状」として現在保健婦資料館が取り組んでいる記録映画『1000年後の未来へ、3.11保健師たちの証言』の中で、どのような聞き取りが行われ、さらにどのような証言が得られたのかを個別事例を出しながら詳細に報告されました。東日本大震災は未曽有の大震災として、大きな津波被害もさながら、福島県の原発事故によって多くの方々が故郷を追われるという事態を招きました。ニュースで何度かこういうことを伺ってはいたのですが、その渦中で保健師たちが何を行っていたのか、どういう風な思いでそれにあたっていたのかという証言を集めたこの発表は、後世の保健師にとって災害時の保健師の在り方を問う意味において重要なものではないかと考えます。映画は是非とも見たいと思いました。また、菊地氏より全国保健師活動研究会編『3.11ドキュメント 東日本大震災 原発災害と被災地の保健師活動』(萌文社 2012)を譲っていただき、この発表の詳しい内容をまた本で確認できるようになりました。菊地氏には感謝いたします。
②公設産婆と総合保健活動
続けて、元福井県立大学短大部地域看護学を担当されておられた藤下ゆり子氏より「福井県の保健婦のあゆみ」の報告がありました。特に戦前から戦中にかけての福井県内での保健婦の姿、その前身たる公設産婆と巡回産婆のことについて詳しく報告がなされました。私も公設産婆については存じ上げなかったのですが、福井県内では公的に産婆資格をもった人を地域の保健医療の第一線で活躍できるようにと、様々な取り組みが行われていたということです。その取り組みの中には保健所所長の近代的な考え方が見られ、彼らの力添えがあって行われていたとのこと。また、もう一つ驚いたのがツ反(ツベルクリン反応)がこの戦前期においても行われていたこと。戦後の保健婦活動では常識化していたことではありましたが、戦前のツ反が行われていたのは初めて聞きました。保健婦経験者らの話では、戦前期にもうすでに小学校等でツ反の集団検診が行われており、結核予防会が中心となってこれを行っていたのではないかという意見が出ていました。なるほど、結核予防会が関与していたのならそれは戦前期、さらに戦中期の健民健兵政策の中に位置づけられる活動ですから、事業的な目的とも合致しております。さらに、この当時、栄養改善がそれらの政策の中で語られて、実際に行われていたことに驚きました。というのも戦後の生活改善諸活動のなかにおいては、戦前の栄養改善を含む生活改善はスローガンがほとんどで、実際に行われたかどうかはいまだわかっていないことが多いためです。つまり、この藤下氏の報告内容からすると、戦前気の早い段階において栄養政策が公然として行われ、またその成果が伝えられていたということになり、ただ単なるスローガンではなく実践性を伴ったものであったことがわかったのです。なかなか刺激的でした。
③社会保健婦の日記から見つめる
続いては、元千葉県保健所保健師の弓削田友子氏より「千葉県の社会保健婦養成と卒業生の記録から」と題して、戦前期の社会保健婦が残した日記や新聞記事から見られる社会保健婦養成がどのようにして行われたのかを、資料提示という形で報告されました。資料提示なので実際の分析までは至っていませんでしたが、社会保健婦がどのようにして育成されていくのかが、保健婦の実体験としての日記によって明らかにされるのは大変面白い内容だと思いました。私自身、保健婦の手記という、保健婦自身が記したものをベースとしていることから、資料上の扱いについて気になって質問をさせていただいたのですが、そこはまだ議論が進んでおらず、資料収集がまず先決であるとのお言葉でした。確かに、資料が集積しないことにはその歴史的展開を立証するには不十分なものといえましょう。また、私が驚いたのが、そうした戦前期の社会保健婦時代の日記が今も残っているということ、それ自体が持ち合わせるものとして従来大国美智子氏を筆頭にして語られてきた保健婦の歴史という事業史がもっと具体性を持って語られていく過程が見られる可能性が広がったことを示していました。日記資料は主観的な史料としての批判性も高いのですが、弓削田氏は同時にその社会保健婦のご子息が保管されていた新聞のスクラップ記事を並べて、当時性を確保しつつ客観的な視点での分析が可能なものとして評価できるものだと思います。
以上が調査研究報告の内容であったわけですが、フロアーからの声として大きく上がったのが、やはりその戦前期の資料を今のうちに収集し、保管しておく必要性があること、定期的な資料報告の必要性があることなどが語られ、これが資料館における資料の位置づけを物語るものであることをおもいました。というのも、保健婦資料館館長である坂本玄子氏と朝の事務室にてお話ししている中で、とう資料館が目指すのはまず収集であって、それを活用するのは自主的な学習意欲のある保健師や研究者にゆだねられることが先決であり、こちらからのアプローチは総会を含め、研究会などで語っていくことが大事であること。資料報告によって明らかになることが多いことを仰られておられたので、弓削田氏の発表のときなるほど、こうした報告が定期的に行われ、それによって研鑽されていくのだなぁっと感心しておりました。
【保健師の悩み】
昼食時には、保健婦経験者の方々から、現在の保健師の在り方についてのお話を聞いたりして過ごしました。現在の保健師は、その方が曰くは「外に出ていこうとしていない」というのです。それは事業的な縛りもあるかもしれないのだけど、それにしても「外に出る」努力をしていないのではないかという厳しい意見でした。ただ、そうした状況を作り出した責任は保健師だけにあるのではなくて、行政のほうに責任があり、人事削減により事務職を削ったがためにそのつけが保健師に回ってきているという、本来専門職である保健師の立場が行政内では事務職としての在り方に成り下がっていることを指摘されておられました。大変興味深い内容でした。
【今後の保健婦資料館の事業として】
昼食後は本来であれば長野県佐久穂町役場の須田秀俊氏の提案事項がご本人より報告されるのでしたが、お仕事のご都合で出席できないとのことで、昨晩中に資料を持参なさって説明をみんなの前でなさっておられました。ある程度の共通認識が置けたところで、今後の資料館の取り組みとしての「戦前の産業組合発行『保健教育』の発掘グループ募集」が提唱され、具体的なグループ活動として各大学や諸機関に保管されている資料収集作業が語られました。やはり議題に上がったのは昨晩須田氏が仰っておられた資料保管のことを考えるのであれば全文コピーを取ることが必要であり、その著作権がどこにあるのかを調べ、それをどうクリアして資料をいかに収集するかということでした。私は、奈良医大の図書館に所蔵されている『産業組合』(『保健教育』の前身)を収集するチームに配属させていただき、保健婦資料館の一員として調査に参加することを表明しました。私以外にも奈良医大には元大阪の保健婦でおられた南氏や林氏がご同行いただけるとのことで、大変ありがたいことです。私自身、戦前の保健婦活動についてはあまり存じ上げておりません故、経験者の方々の証言を交えて資料を調査できる機会は、またとないチャンスとなりそうです。あとは奈良医大との接触について具体的な検討策が考えられました。
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