『生活教育』昭和三十五年三月号(七一ページから七八ページ)
「小さな足跡」
わたしがこの地区を受け持ったのは、ちょうど二年前の十月である。それまでに保健婦の足跡は殆ど残されていそうにない未開地区である。新しい地区に入りこんで一年位は、沈黙を守って地区の状況を少しずつみて行こうと考えた。
そこでまず知ったのは、人間の生命よりも、生活よりも、お金を貯える事が何よりの関心事であるという事であった。超経済的に物事を処理していこうと考えている金融機関のおえら方は、半強制的に貧しい家庭の中から金銭をかき集めていた。お金を集めてそれを何の目的に使用するというのではない。むろん生活の改善なんぞてんで考えに入れようとしていないのである。そういう中で、「人間の健康を維持するにはまず栄養が先決問題である」等と話そうものなら「なに、人間なんてものは麦飯と野菜を食うておればそれで結構、高い牛肉や魚なぞ食うような贅沢は―」と長い経験に物をいわせて頭から𠮟りとばされてしまうといった状態があった。が、地区の中でも比較的進んでいそうに思われるH部落に焦点をすえた。
明けてもくれても、せっせとH部落の有力者の門をくぐって七カ月目に、形ばかりの環境衛生会という小さな組織が生まれた。人口三〇〇人の中に、会長、副会長、班長と一〇人のリーダーが組織された。そして、今のこの部落で一番困っている問題について研究を進めて行った。すると以外にも夜中やお医者さんのいない時におこる腹痛だということになった。他にもまだ、未熟児の多いこと、姑が絶対の権限を握って嫁を酷使する事なぞもあったが、やはり全部の人を対象にする共同作業、そして比較的早く効果の現れそうに思われる寄生虫駆除に重点をおく事になった。
はじめての役員会が夜八時から持たれた。夜の街灯が柿の若葉を水みずしいみどりに輝かせる会議所である。みちばたで会った時には何でも話せる人びとであるのに、あらたまって顔を合せると、トタンに口を閉じてしまう。気楽に話しかけてもなかなか話し出そうとしないお上品な奥さま方ばかり……。そこでこの夜は富山の薬屋さんの事に話を持ちかけて行った。
「みんなの家では月にどの位薬代を払いますか」
するとぼつぼつ話しはじめた。みんなの家では聖徳太子がさわぐというのである。
「その聖徳太子をさわがせないように出来るのです。みんなの力によって―」
こういう調子で何回も何回も話し合いの機会が持たれて、漸く寄生虫対策の準備にとりかかるまでに漕ぎつけた。
まず一年間の計画がつくられ、三カ月毎の検便と駆虫、一カ月一戸当り三百円の改良便所積立貯金の申合せがきまった。貯金という言葉に目の色かえて喜ぶ農業協同組合、計画は着実に進められた。
各班の班長は検査日になると自分の班を廻ってみんなの便を集めて来て、後の結果は責任をもって報告をする。検査の手伝いは各戸順廻りで三人交代、第一回目の検査結果で驚いた事は、蛔虫卵プラス六三%の外に、鉤虫一八%という恐るべき結果が出た。
何はともあれこの鉤虫の恐ろしさを部落の人びとに納得させなくてはならない。そのために資料集めに奔走した。フイルムのありそうな所へ片っぱしから電話をし、持合せがあれば借りる約束をし、翌日の午後借りに行く、翌々日には返納へ行く。岡崎のフイルム・ライブラリーへ何度通った事か。
こうしてどうにか整った上で、部落の人の一番都合のいい時間をきめて貰う。都合のいいのは大抵夜である。七時からときめていても大抵八時をすぎてしまう。
はじめに、いま部落はどんな方針で動いているのか、とか、今後の検査結果などを簡単に話すのだが、一日の仕事で疲れきったお爺さんなどは、
「もうそんなむずかしい事いわんと、はよう薬をのませておくれ」
とせき立てられる。が、薬をのむのは最後の花。それより前に映画を観て貰わなくてはならぬ。「おなかの虫」「十二指腸虫」「保健婦の手記」も入れてちょつと保健婦というものの啓蒙もしておく。それからが薬のみである。
リーダーの会長が名簿をよみ上げると、指名された人が一人ずつ前に出て来て、精密な診察をうけて薬の量がきめられる。他の一人の人が茶碗に湯をついであげる。そんな事を三カ月に二回くり返すわけである。
今でも一番印象に残っているのは、わたしが一人で行って、十二時近くになった時の事である。折悪く降り出した雨はますますひどくなり、川の水も増して来た。部落の人びとは十三キロの道を真夜中に自転車で帰るのを案じて、口ぐちに私の家で泊まって下さいといってくれた。それでも強情なわたしは雨の道を走った。厚いレインコートがすっかりずぶぬれになって、雨がしみこんで来る。自転車の速度をおとすと灯が消えてしまう。もうこうなれば何か人間ばなれのした変な気持ちになって来る。ペダルを踏む事、ただ走る事だけより考えなくなってしまう。
大方半分ぐらい走ったであろうか、すると向うから誰かがやって来る。この雨の降りしきる真夜中に、いくら強がりのわたしでも、一瞬ドキリとした。相手は男だか女だかわからない。ひどく足元がふらついている。若しも走っている自転車を止めでもしたらどうしよう……。でも走るのを止めるわけにはいかない。私は夢中だった。するとその人は道傍の材木の上に座りこんでじっとしている。わたしはその人の前を一気に通りこした。何事もなかった。よかった。
翌日その話をしたら、それはアル中の菓子売りのオッサンで、その夜ちょうど通りかかった駐在所の警官に保護されたという事であった。
家にたどりついたのが一時過ぎ、びしょぬれになったみじめな自分の姿と、一つの仕事を成し遂げたという成就感とが入り混って、複雑な自分の心を支えているのは、わたしの目的である部落の人びとの幸福な生活への一歩前進という事だけである。
ところが、せっかく骨折ってためた貯金の払戻し金が、どのように使われようとしているのかに気づかなかった。というのは、一戸三〇〇円、計九千円也の金が、子供の本代になったり、お盆の買物代にかわったりしかけていたのである。何とうかつな事だっただろう。早速九千円也の金の使い道について集会が持たれた。自分で金を持った事のない主婦はいった。
「そら、目の前に金が入って来ると、日頃不自由している着物やら、小遣いになってしまっても無理はない」
と、でもせっかくここまで来ていながら、そして九千円というお金は、一人のお金ではない。みんなが汗水流して出し合ったお金である。そんな大切なお金を自分の都合のいいように使うなんて……。みんなとこの事を大いに話し合った。でもまだ使われたのではないのだから……。
そのお金を思い切って便所の改良に廻す事によって、二年後からは、富山の薬屋に聖徳太子を渡さなくてすむようになるし、夜中の腹痛からも救われる。そして今の九千円は五年後には生きて来るということを、よくよく話し合った。漸くこの九千円が改良便所に向けられるきざしが見えて来たのはこの九月である。改良便所が完成して後、うまく使用出来ているW町へ部落の人びとが見学に出向いて行った。
この仕事はまだまだ完成の域に達したとはいえない。昭和三十三年三月から三十四年八月までの記録は下のグラフの通りであるが、ますます強く手綱を引いて常に目を向けていなくてはならないし、こうした仕事はわたし個人がいくら力んでみたところでとうてい出来るものではない。わたしはそれらの準備屋、縁の下の力持ち的な役割を持たせて貰えるなら幸いである。何といっても部落の人びとの献身的な涙ぐましいばかりの努力には頭が下る。T子さんなどは、よくこんな事を話してわたしの良心を引きしめてくれる。
「この部落に住ませて貰っているからには、一生の間に何か役に立つ仕事がしてみたい」――と。
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