地域保健活動と住民運動―愛媛県南予の「地区診断」と農村生活―
はじめに
愛媛県北宇和郡旧広見町という山間の農村地域で昭和39年以降、「地区診断」と呼ばれる地域保健活動が行われていた。この活動は文字通り、地区を健康診断する目的でなされたものだ。今で言うところのヘルスプロモーションである。この活動は昭和30年代当時としては画期的なもので、「地区診断」を通じて地区住民が健康に関心を寄せ、自らの手で健康を取り戻す活動を社会教育活動のなかに見出していたからだ。
愛媛県北宇和郡旧広見町という山間の農村地域で昭和39年以降、「地区診断」と呼ばれる地域保健活動が行われていた。この活動は文字通り、地区を健康診断する目的でなされたものだ。今で言うところのヘルスプロモーションである。この活動は昭和30年代当時としては画期的なもので、「地区診断」を通じて地区住民が健康に関心を寄せ、自らの手で健康を取り戻す活動を社会教育活動のなかに見出していたからだ。
本報告は「地区診断」がどのようなものであり、どうして住民の手に渡り、さらに住民が自分たちの生活のなかにどう取り入れていったのかを考察するものである。
1、「地区診断」とは何か?
地区診断という言葉の概念は、公衆衛生上、地域の保健衛生を診断し、地域生活の安定を目指す活動を指す。また、昭和30年代当時この活動は衛生教育の普及をねらってのものであった。保健衛生に対して関心を寄せない人々に対して、行政が環境衛生、公衆衛生上の立場から指導し住民に知らしめることが急がれたからだ。
この活動は二つの見方がなされている。一つは共同保健計画という保健行政側の見解としてのそれ。もう一つは、住民活動としてのそれだ。地区診断が愛媛の地で生きついたのは、他でもない住民の自主的な活動が診断後に広く行われ、それが健康意識の向上をもたらしていたからだ。それゆえ、本報告において、行政側の施策を提示するも、それとは別に住民側の理解と努力について触れねばならない。なので、地区診断を括弧書きで提示することをお断りとして入れさせていただく。
補足…レジュメに載せる
私がこの「地区診断」に向き合う理由は二つある。一つはこれまで兵庫県、長野県の調査において、地域住民の自主的な動きを見るなかで、保健活動ほど課題性を持ったものはなく、生活の変化に大きな役割をになっていたことがわかった。昨今の民俗学の傾向として、「動く」生活に対する視座、つまり生活の移ろいやそこに描かれる社会と個人のあり方を問うことが叫ばれている。生活に介入しそこに価値観を植え付ける活動ほどインパクトのあるものはない。他ならぬ私自身生活改善運動を取り上げてきたことにより、よりその「動く」ことへの関心は強いものだった。今回愛媛の地に入ったのは岩波新書の稲葉峯雄氏の著書『草の根に生きる』(岩波書店 1973)が大きく関与している。この本のなかで稲葉峯雄氏は「地区診断」に触れるなかで、保健行政が行政内に終始するのではなく、住民と向き合うことの大事さ、さらに地区組織を育て上げていくことの重要性を問うている。これは稲葉氏自身が青年運動に携わり、さらに衛生教育係として南予の地区を訪ね歩いた経験から述べている。稲葉氏の著書を拝読した時に、どう言う経緯でこの活動が花開いたのかと言うことを、自身の関心であった地域保健活動と住民組織のあり方と重なったからである。
もう一つの理由は、そもそも地域保健活動は生き物であり、それこそ時代時代の課題を内包しつつ、現在にも繋がっている。ヘルスプロモーションなどがそのいい例だろう。こうした企画自体は現在、国家、地方自治体がそれぞれの思惑によって各地で行われていた。しかし、現実的にこうした活動が地域に根ざしているものであるかというと、その評価はまちまちであり、それこそ地方自治体の取り組みの方向性において決定されている。また、大きな問題として、時としてこの保健活動が地域住民に期待されていない場合や、地方自治体が保健活動に対しての興味関心を示さず、定期的な健康診断データを統計処理してことを済ませるようになりつつある。この場合、地域住民の顔はそこにあるのだろうか。地域保健活動は総じて、行政が行う活動であることは理解できるが、それを受ける側がなにを考えその活動を受け入れるのかということについては、何ら答えが見えていない。なにが問題でどう解決するのかが不透明なまま計画だけが進行する、そのようなことではないか。私は歴史的に保健活動をみていくなかで、活動の方針もさながら住民がいかに解釈し、それを生活のなかに位置付けるのかをみてきた。そこで言えることであるが、住民は保健活動に対して、ある程度シビアに捉え、また自己の問題として内在化することで、それを解決しようとしていた。この教訓は現在にこそ活かされるべきものではないか。勿論、昨今の保健行政を取り巻く事情から、もう健康は個々人の自己責任論へとなってきており、地域単位で捉える時代ではないのかも知れない。近隣関係が希薄化し、付き合いも減るとこうしたことができなくなるのでしょう。しかしながら、それを傍観してていいのか。地域を見る目線のあり方をもう少し考えて見るべきではないか。健康は自己責任で語られるが、いざことが起きた時どのように対処するかというと、それこそ地域での付き合いが支えになる。その観点から、今の時代だからこそこの地域保健活動を取り上げるのとの重要性があるのだと思う。
2、保健をめぐる民俗の視座
(1)近代的な保健に対する視座
民俗学で保健活動を正面から捉えることは、これまでなかったように思う。木村哲也氏の駐在保健婦の話(木村哲也著『駐在保健婦の時代 1942-1997』医学書院 2012)がそれに該当するかもしれないが、保健婦活動自体に踏み込んだものではない。どちらかといえば、保健婦機構や政策の変遷とその対応が論点の中心にある。民俗学や歴史学の中で、保健に関して民間医療の中で問われることはあれど、保健活動の中身、特に戦後の行政が行った活動と地域の対応については考察が少ない。保健活動というものが村落社会とは別の近代的な外来物として捉えられていたからではないだろうか。しかしながら、人間の身体というものを見る視点という考え方に立脚すれば、保健活動は幅広く村落社会との結びつきは強い。健康祈願や民間療法の分野における保健の考え方は、近代のそれとは異なるにしても身体を見る視点には変わりないだろう。また、これを近代的な視野でみた場合の保健活動は、それ自体地域の生活、人間の生死に関わるものであるからこそ、その活動の内容は本来大きく捉えられなければならない。
(2)医療福祉における民俗学の活躍
昨今、助産や介護での民俗学の活躍が目覚ましい。安井眞奈美氏の助産をめぐる近現代の移り変わり、出産の考え方の違いなどは注目に値する(安井眞奈美著『出産環境の民俗学―<第三次お産革命>にむけて』昭和堂 2013)。六車由美氏の介護現場における、回想法などを通じての民俗が社会的に果たす役割は大きな成果と言えないだろうか(六車由美著『驚きの介護民俗学』医学書院 2012)。医療、福祉などの中に芽生える民俗の様相はこの二人に代表されるように、これまでの身体を通じての観念的な視座から、近現代におけるその行動のあり方を問う視座へと進化しつつある。しかし、地域の最前線において公衆衛生の立場から生活を改革した活動への言及は未だにない。助産師、介護士への関心があるのに対し、こうした保健活動への関心度が低いのはなぜなのか。
一つとしては、助産、介護の現場は、人の人生のなかにおいて大きな分岐点を表すものであり、そこは生と死が向き合う場と理解できる。臨床や福祉現場において、民俗がどう対応して行ったのかを立証することが可能な分野であっただろう。対して、保健活動は、生と死を扱うものではなく、日常生活に対して行われたものであり、どこかしら生活運動の中で明文化されるものであっただろうが、村落社会と行政機構の境界線上に位置する活動であるがために、それ自体を民俗の変遷の中に位置付けることはしてこなかった。このことが関心が寄せられなかった大きな要因ではないかと思う。
もう一つは、解釈論で民俗は伝承性をもつものであり、保健活動のような近代性をもつものとは相容れない考え方の元におかれていた帰来がある。保健活動は生活の近代化を図る上で、当然のことながら従来の生活を変えること、廃すること、批判することを内包していた。民俗の立場においては、それは脅威的なものであり、民俗の喪失に繋がることであると理解されてきた。しかしながら、人々の生活はこれを受け入れている。現に生活改善運動を始め、様々な社会運動を住民達は吸収ないし理解しながら生活の革新を行ってきた。勿論、人間の身体に関わる問題についてはより敏感であったであろうし、生活を変えることに住民が納得するだけの要素をそこに持っていたことは確実に言える。ともすれば、伝承というものはそれこそ社会の荒波のなかにおいて変わらざるを得ないものであったことは理解できるし、そこに近代的な取り組みが関わりを見せたことは大きな核となり得る。
(3)本研究の視点
本研究はそうした保健活動のなかにおいて、行政ないし県がそれにどのような取り組みをなしたのか、その目的はどのようなものであったのか、また相互関係にある住民がどのようにそれを交渉し得たのか、その部分を明らかにしたい。報告で取り扱うのは、愛媛県南予の鬼北盆地に位置する地区である。それは昭和39年を皮切りにして、愛媛県全体に波及する大きな事業となり、これにより地域の保健のあり方、住民の健康への関心は高まったと言える。保健活動は単に健康の問題を取り上げていたわけではない。むしろその先にある生活環境の是正が、健康への第一歩であるとして、生活への介入がある。愛媛の「地区診断」は、その先駆けで予防のためにも、地区の社会教育のなかに保健活動を位置付けていた。地域の自主性を基調とし、住民自身が学習しながら生活に活かすことを最終的な目標に掲げていた。「地区診断」を明らかにすることは、当時の保健のあり方を見つめ、その中で住民がどう応えていったのかを知ることにも繋がるのではないだろうか。
加えて言えば、本研究が民俗学において果たす役割というものは、民俗学という学問自体が用いる地域への関心の方向性をより実践的な形に向けることにある。文化の諸相を問うのではなく、その文化をいかに活かすべきかそして住民と共にそこにおいて何がなし得るかを探ることにつながる。本研究が保健活動に見出したのは、地域住民との接触と交渉、そして協働の中において変化をどう見出していったのかを問うことになるのであり、広くとらえれば学問的関心からより地域に立脚した実践的な関心へと昇華させていくことになる。
3、愛媛県南予の「地区診断」
(1)地域概要
①地理概要
下大野は愛媛県西南部、北宇和郡の中央部に位置し、宇和島市東部の広見町の北東部にあたる。四万十川の最上流広見川の支流下大野川に沿った標高200から300メートルの山脈の谷間に集落を構える純農村地帯である(注1)。
気候としては平均気温が昭和40年代において15.70℃。最高気温21℃、最低気温11℃と年間を通じて暖かい気候区分にあったが、盆地の為寒暖の差が激しいところでもある。年間降水量は240.3㎜となっており、夏は高温多湿な気候にある。
交通は国道と県道が網の目に走り、現在でこそ予土線の深田駅、近永駅、出目駅がありそこから下大野へ行くことも可能であるが、主要交通手段は車やバスであり、どこの家も車を所有している。昭和30年代はもっぱら宇和島市から出ている一日13往復の国鉄バスを利用しての来町であり、不便な地域であった。教育施設は、下大野にはなく隣の小松にある小中学校に通い、御開山組には分校があった。但し、児童福祉施設として下大野には保育所があり乳幼児保育を行っていた。
医療施設も隣接の小松に国保直営の三島診療所と歯科の開業医が一軒あるのみで、地区の奥、小字御開山からは8キロ前後とかなり離れた位置にある。このような立地のため、結核患者を早期発見することは難しく、さらに下水道が整備されていなかったために汚染された水等から感染する赤痢や、当時の食習慣であったモクズガニを食して寄生する肺ジストマの多発地域であったことから問題視されていた。
②生業形態
主として農業を中心として行っていたが、経営規模は平均5.5アールほどの零細農家が多く、林業によって収入を補っている。栽培作物は、米麦が中心となる。その他、果樹とくに栗の栽培や養蚕なども行われていた。しかし、昭和30年代においては林業もままならず、酪農や養豚などに手を出す人々も多くいた。昭和40年代頃から農業の機械化がすすみ。経営規模は大きくなくとも労働力を減らす役割をになった。その分、男性は長期、短期による季節労働、出稼ぎにいったり、女性は日雇に出るなどの現象が多くみられるようになっている。昭和30年代頃も機械化は進まなくとも、苦しい農家経営のために外に労働を見出す人が多くいた。
そのため、農業は所謂「三ちゃん」農業という経営になっており、尚且つ若い嫁は日雇労働に出ていることからその健康に関することが取りざたされることも多くあった。また、出稼ぎ先で結核にかかりそのまま帰郷して、そこで家族感染を起こすという被害も出ている。こう見ると、赤痢の問題は「地区診断」の突破口となったわけであるが、それ以前より環境衛生、労働衛生面において多くの問題点を内包していた地域といってよい。
③村政
戸数184戸、人口842人に減少している。減少の原因は零細農家から兼業農家へ、そして宇和島市へ勤めに出る人が昭和30年代より多く見られ、そのために市内へ居を構える人が増えたことが挙げられる。但し、この背景は単に零細農業という原因だけに限らず、交通の不便さ、医療や教育に恵まれていないなどのことも考えられるため一概に生業母体の移動によるところに原因を見出すのは早計かと思われる。
下大野は昭和30年代頃、9つの組があった。奥から御開山組、坂立組、奥組、上組、中尾坂組、中組、東組、西組、町組である。組はそのまま小字にあたり、隣組との関係性は不透明である。尚、御開山組に関しては戦後の開拓地で、昭和39年少し前に下大野に組み込まれていたため、それ以前は御開山それひとつで独立していた。地区で区長がおりその下に各組の組長が行政機構としてある。その他に組織として婦人会、農協婦人部が置かれている。
(2)「地区診断」への道
「地区診断」が始まったのは昭和39年9月。それ以前より地区を対象とした健康診断は継続的に行われており、そこで結核患者が県下で全国的に見て3倍の数字を見ることになり、さらに肺ジストマ、赤痢などの発生が連続して発生したことから診断に踏み切った。
また、単にこうした公衆衛生的な要因だけでなく、衛生教育として地区をまわっていた稲葉峯雄氏が鳥取大学の加茂甫氏と出会いが大きな要因となっていた。稲葉氏自身は、社会教育的見地から組同士の連携の在り方、そこから育つ主体性を望んでいた。加茂氏も社会医学の見地から住民の主体性による、健康の回復を望んでいたことから、この診断はそうした活動の実践の場として設けられていた。
(3)「地区診断」の構造
さて、こうした持続可能な地区診断にはその構造(注2)が一番重要なものとなってくる。ではその構造はどういったものであったのかであるが、まず衛生行政の構造を見ることにする。広見町、町議会と「厚生文教委員会」、それらの下に生活環境課、保健課がおかれ、保健課の下に母子健康センター、三島診療所、広見町健康センター、衛生係、国保係がある。では、次に共同保健計画としての「地区診断」の構造を見ると、広見町共同保健計画推進協議会と呼ばれる、広見町行政、農業改良普及所、保健所、医師会、公民館などから構成される組織が共同で結ぶ組織が一番にある。その下に町の共同保健計画委員会、健康センターが組織され、下に下大野地区健康管理活動推進協議会があり、これに先の共同参画者らが連携する。そして、その下に下大野健康管理活動専門委員会と下大野健康会議がある。専門委員会は専門家による組織で、下小野健康会議は四部門、環境衛生部会、食生活改善部会、健康管理部会、広報教宣部会という各種部署における専門的な研究会が組織されている。これに参画するのが組組織である。それぞれに組集会が持たれ、そこから下大野健康会議に問題提示がなされたら、各部門にそれに対処する作りになっている。
ただ、この組織構造が診断当時に完全な形で成り立っていたわけではない。共同保健計画としてこれらの組織がきっちりと組みあがるのは昭和40年代に入ってからである。昭和39年当時は、実験的な組織として、宇和島保健所、鳥取大学、県、町行政、農業改良普及所、公民館などの組織が、保健衛生面、衛生教育面で組織されていたと思われる。(図参照)
(4)地区生活に対する「地区診断」のアプローチ
下大野の「地区診断」は、はじまりとして、結核と赤痢の蔓延による健康被害がきっかけであった。ただ、「地区診断」は、健康診断と異なり、単に結核や赤痢を公衆衛生的に処置し管理するのではなく、健康管理面、根本的な問題としての生活全体における、それらの疾病を蔓延させた原因を解決すべく、また地区全体の衛生教育を発展させ組織することに意義を見出していた。
「地区診断」の最大の特徴は、その機動力にある。住民自身が自分たちの健康を省みて、地区全体で取り組めることを行うことこそが「地区診断」に欠かせない要素であった。そのため、「地区診断」の地区生活へのアプローチはすべて、組単位における集会を重ねていくことになった。勿論下大野全体という形をとる場合もあるが、まずは各戸における生活のことを話し合う場を設け、そこで出た議題をもとにして「地区診断」の方向性を決定し、専門部会、食生活部門、衛生部門などの部会にそれを問題提示し、そこから解決策を専門家と語り合いながら解決に導くという方法であった。下大野では組集会を重ね、その中で食生活改善などの具体策を行ってきた。組集会は各戸老若男女問わず、様々な年齢層が集まり、そこで決議がなされており、衛生対策としての意味合いもさながら、社会教育的な寄合の在り方をそこに見ることが出来る。
組集会は、別段健康だけの問題を取り上げて話し合われていたわけではなく、社会的要因としての生活の実態、特に農耕に関する問題や、生活全般に対する疑問点などを多くそこに垣間見ることが出来る。つまり、「地区診断」の末端における組集会とは、生活上の社会的要因を把握することに特化した集会であった。下大野の「地区診断」は構造的には、上から下へのような形で組織されているように描かれることが多いが、それは事業としての組織構造である。実際は組から発せられる信号を、専門家が見聞きし、その上で様々な手当てを行うことにあった。
4、農村生活に与えた影響
(1)地区診断の評価
報告書(注3)による地域住民の地区診断への統計としての評価はおおむね良好な数値を現しており、この地区診断が一定の理解を得ていたことがわかっている。但し、世代によってはそれが浸透せず、いや嫁と姑との間の情報連携の在り方自体がまだ解消されていないがために、嫁への引継ぎがなされていない場面や、農機具を入れるがために借金を背負い兼業化し農業外に収入を得るようになって来ると、組単位で集まることは難しくなり、全戸の周知徹底には至らなかったと推測される。
また、生活調査過程において、地区住民の生活の悩みに健康診断や地区診断を「めんどうくさい」「(改善するのに)金が必要になる」等との声が上がっており、日々の習慣からの脱出もさながら経済生活の中における地区診断の在り方自体を見直すことが必要となりつつあった。
(2)「地区診断」と農村生活
さて、これまで「地区診断」そのものと住民との関係性を問うて来たが、では具体的にこの活動が実を結ぶ、生活の場においてどういう作用をしていたのかをみておきたい。
①A氏の語りから
「私は「地区診断」のことをなんも知らんけん。参考になるかわからんよ」と語るA氏(注4)は、昭和10年代に当地で生まれ、集団就職で一度県外へ出ていたが、丁度地区診断が行われた昭和39年に結婚を契機に戻ってきた。A氏は地区診断の折は婦人会に名を連ねていたが、健康会議や組集会には姑が出ていき、自分は姑から話を聞くのみだった。姑から伝え聞くに組集会では減塩対策などの食生活改善指導が、保健婦の手によってなされていた。内容的には栄養素を細かく記録することを教えており、一週間に何を何グラムとったかということを記して逐次保健婦に提出していた。このことについて、A氏は「あの何グラムっていうのがわからなかったけん。なんというか、わずらわしかった」と振り返る。他にも便所の清掃などの指導があったが、それ以前(地区診断以前)から消毒液をまいたりしていたから、特段指導があっても別に地区診断が行われたからそれに沿って改善したわけではない。
②B氏、C氏の語りから
下大野集会所にてB氏、C氏それぞれに「地区診断」のことについて語ってもらった。両氏ともども昭和初年頃の生まれで、昭和20年代に結婚した。同じ時期ぐらいに婦人会に入っていたという。農協婦人部としても活躍し、診断後の生活改善には農協婦人部が主体的に関与した。
C氏は「地区診断」が行われた前後の生活をこう振り返る。「『おしん』みたいな生活やったけん」。朝から晩まで仕事していた。現金収入が農業だけでは難しかったから、方々へ出稼ぎや外へ仕事を見つけに行く人が増えていた。そうやって働きづめていたから、自身の健康や子育てのことなんて何一つしてこなかった。
昭和27年から38年の間の10年間に肺ジストマ(注5)や結核なんかが流行しても、診療所が小松にあるけど予防には間に合わず、またそれで死んで行く人も多く、どうしようもない状況だった。生活は貧乏だったし、衛生面に気を付けることもなければ、そのまま放置な状態が続き、ついに昭和39年前後に立て続けに赤痢が出てしまった。
これを契機に県の共同保健計画として下大野地区をモデル地区に指定し「地区診断」が実施されるようになった。この診断は、ただ単に保健所や農村医学センターが中心になって動くのではなく、住民の参画が求められており、健康会議や組集会などが活発に行われ、婦人会では食生活改善部会で話し合われた内容を年間計画にして、それを組集会で再考し、実行に移すという形をとっていた。当時、そうした話し合いは組長宅で行い、婦人会長などとも多くの意見を交わしていたという。そのおかげもあって、健康意識が芽生え、栄養のある野菜をつくろうと、家の畑の一部を緑黄色野菜の畑にするなど精力的に行った。ところが、またしても姑とこのことでもめることとなったが、栄養のことは自分たちで何とかしないといけないと思い、姑を説得してでも野菜の栽培を続けた。
両氏が言うには、「言い方はなんだけど、赤痢のおかげで、地区のみんなが自分の健康を気にするようになったけん。今思うとよかったとおもいますけん」また、「「地区診断」によって地区の連帯ができとったけん。みんなで集まって問題解決するのにいいたいことをいっとたけん。それで楽になったこともありますけん」という。
(3)「地区診断」に関する地区住民の評価
A氏からC氏、三名からの聞き取りから得られた情報を整理すると、「地区診断」前の生活環境は次の問題があった。経済的にもかなり切り詰めた生活がなされていたこと。そのために農業外労働を強いられ、健康は二の次になっていたこと。このような問題から、地区における健康は害され、肺ジストマ、結核、赤痢の蔓延が起こる騒ぎになり、診断が行われるようになった。
そうした診断に対して家によって差異はあるが概ねよかったと見る傾向と、診断のことを全く知らずに、ただ盲目にそれに従っていた人々の視点とがある。A氏が後者、B氏とC氏は前者である。地区の全域において診断が大きく影響していたわけではなく、段階的に指導がなされ、それを踏まえて組集会が循環の役割をしていたのではないか。
まとめにかえて
本報告が目指したのは、かつて愛媛県南予においておこなわれた「地区診断」という地域保健活動が、農村生活に浸透して行った過程を明らかにすることにある。結論から述べると、「地区診断」は今日で言うところのヘルスプロモーションであり、地域住民のエンパワーを結束させる役割をになっていた。つまり、単なる健康診断というよりもより生活基盤に密着した活動を目指していた。住民の反応はといえば、診断直後はやはり行政任せなところが浮き彫りになる。だが、話し合いの場を多く設けることで、住民は自らの健康に関して、ではどうすればよいのかをかんがえるようになっていく。この考え方は当時の保健活動においては大変珍しいやり方であった。全国各地で様々な保健活動が跋扈するなかで、愛媛の事例は住民の主体性を話し合いで持って成し遂げた良い例であろう。
民俗学では、従来積極的に地域生活に行政や県がどういう介入をしてきたのかについて関心を持たなかった。近代化という波にとの説明が依然としてあった。だが、この近代化を住民個人がいかに捉えていたのか、また住民の地域生活においてこれをどう受容していたのかは見えてこなかったと思う。本研究は地域生活において主人公たる住民がいかに保健活動を捉え、そして自分たちのものへとなしたのかを問いかけるものである。
近年、地域保健活動は暗礁に乗り上げ、健康管理体制の維持が自治体で困難な課題となりつつある。これは行政主体の地域活動に終始し、個々人の事情を含み得ない活動がなされてきたからではないか。但し、かといって行政が地域を把握するのに個々人のプライベートな単位から介入することが現代社会において重要かと言うとそうではない。それこそマクロな見方がなされてこその行政でなくてはならないだろう。だから、現状からして、地域枠にこだわる問題を打開する施策は求められない。しかしながら、何もせずに傍観するよりアクションを起こす方が幾分か解決策を模索できる。そこで、本発表は今一度「地区診断」の原点にたち、住民と行政の在り方をそこにみることによって、そうした語り合いの場をどのように設定するのかを学ぶべきではないか。現代社会は昔とは違う。しかし、地続きであり、人と社会は常に隣り合わせにあるのであるから、そこに目を見張る必要はあるだろう。本発表はまだこの課題について答えを出すものに至っていないが、地域保健活動に対して民俗学がなしえる役割を見出してみたい。
注2:稲葉氏は、診断の構造の基本的根幹を、住民の自主性を守る立場から住民の積極的な参画を促すべく、組集会を末端に添えながら、その上にそれらを統括する組織、そしてそれらを管理する組織を組んでいくことにしている。但し、先に断わっておくが、稲葉氏はあくまでこの組織らをセクト主義的な上から下への命令としておくことをせずに、住民の要求を聴きだし、その上で何が行政として県として出来るのかを専門家と検討を重ね、実施に及ぶという形を理想としていた。
しかしながら、実施した「地区診断」にこれが徹底されていたかというと、地域住民側からすれば地域の健康を保健所、行政、県、鳥取大学らが自分たちの主張のもとに、住民を組み込んだような形になっていたことは否めない。稲葉氏自身が望んだこととは軌道がずれている実態となっていた。ただ、この診断後における住民の健康意識を変えたこと、住民の中から自主的な組織が出来上がり、組単位での取り組みが盛んに行われる機会を作ったことは、稲葉氏の意向に沿ったものではあった。「地区診断」自体は昭和39年に行われているが、その後は健康会議などを何度も行い、その後の経過を追って調査しそのデータを住民に提示した。また住民側はそのデータに沿って自分たちでできることを組集会に持ち込み、組単位の活動に転じていることからして継続的な活動が活発化していった。
注3:愛媛県立北宇和病院農村医学センター編『農村医学センター No.1』(1966)、広見町健康センター編『広見町健康センター 2号』(1974)、愛媛県立北宇和病院農村医学センター編『農村医学センター No.5』(1970)
注4:また、A氏は昭和40年代後半からメリヤス工場で働きへ日雇労働に出ていった。その日雇いはA氏によれば「昭和30年代当時からよく、地区(下大野地区)の人は外に出よったと思うけん」と語り、当時の地区外労働がはやっていたことを示唆している。後に述べるが、他の話者も同じく地区診断が行われた当時は、地区で農業をやっていては生活ができない。現金収入が少ないといって、夫は季節労働として出稼ぎに出て、妻は少しでも蓄えを増やすために農業以外に土木関係の日雇労働に出ていた。時には木材をキンマ引きで引くなど男性並みの労働をして、製材所へ出すことも行われていたようだ。こうした地区外労働者の健康に対して、診断はどこまで影響を持っていたものなのだろうか。過労をとりあげ、貧血との関係性を説く診断側の意図を「貧血とかいわれていたけど、仕事をやめるわけにはいかんけんね。なるようになるって思ってたけん」と消極的に捉えていた。
注5:モズクガニを食べて寄生虫が身体の中に入り、最終的には脳を侵してしまう病気
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