「いずみ会」「千種町いずみ会」の活動実態、婦人会、行政の動きの三点
でした。(ちなみに「千種町いずみ会」は「いずみ会の後身とされています)
この調査は、単なる調査ではなく
千種町ひいては宍粟市の健康増進を中心とした地域活性化を視野に入れた研究
がその中核をなしており、調査は緊張感をもったものとなりました。おかげでいらぬ情報抜きに話者と話し合えたのでよかったと今思います。また、この調査のもう一つの目的として来月末に締め切りを迎える成城大学への論文集に掲載する原稿の見直しを兼ねていました。
ところが・・・・
今回の調査で「今までの調査を覆す内容」がでてきたのです(新しい発見といえば聞こえがいいのですが、今まで書いてきた論文そのものを否定する内容でした)。
それは何かと申しますと先ほど述べた「いずみ会」と「千種町いずみ会」のことで、
私は以前の聞き取り調査で昭和30年代に「いずみ会」という団体ができ、保健衛生や食生活にかかわる活動を行っていたと聞き取り、且つ「千種町いずみ会」は行政が主導とのなって「千種町健康教育振興審議会条例」などにより「いずみ会」活動を各地区に広めていったと記述しました。
しかしながら、その記述自体(確かに聞き取りで得た情報。何度も確認した情報)が間違いであったのです。(もしくは私の思い込みかもしれません→そうなれば調査地被害となりますが…)
何が間違いかと申しますと・・・・
「いずみ会」という「千種町いずみ会」の前身となる組織は存在しないのです。
「千種町いずみ会」については正確な情報ですが、「いずみ会」という団体は前身ではなく、
「千種町いずみ会」の千種町各地区における支部組織のこと
だったのです。
正直そのお話を伺った折は、愕然として次の質問ができない放心状態になりました(質問内容を変えないといけなかったので混乱していました)。
聞き取り調査において話者から得られる情報は、すべて口から発せられる自己の記憶をさかのぼって述べる口述表現であって、それが正確な歴史的経緯を物語っているものかといえばそうではありません。つまり、私は話者を信じすぎた(すぎるのはいいのだけど事実とごっちゃにならないようにしなければなりません)がため、語りに強調された「いずみ会」を一つの独立した団体とみなしていたのです。
ではどうすればこれが防げたのでしょうか。私が思うには、多くの話者による情報の精査が綿密にできていなかったことに起因するため、語りだけで取り上げるのではなくそれを立証するモノ(資料)を見つけ出すことが防御策といえます。
まぁ、いまさら悲観的になっても仕方がないしこれを機に調査方法を考え直さなければならないでしょうし、正確な事実をつかめたことに感謝をしなければなりません。
正確な事実とはこうなります…
昭和43年、千種町において婦人会を母体として、千種町いずみ会という会が創設され、栄養改善、衛生改善など、地域生活の向上や生活改善、健康増進運動に深く関与し、千種町保健婦、栄養士、山崎保健所の協力を得て活動を行っていた。また、千種町にある12地区各々にいずみ会組織というものをつくり、各地区においては中央の千種町いずみ会で決まった活動内容の他、各地区の環境における個別の活動を行っていた。本論ではその地区の一つ、西河内地区における千種町いずみ会の活動について考察してみたい。
西河内におけるいずみ会は、千種町いずみ会発足の昭和43年直後に創立され、各地区のいずみ会よりもいち早く結成され、その後の千種町いずみ会の基礎となる活動、栄養指導による料理教室の実施や保健婦に学んだ保健衛生普及などを展開させていく。
この西河内における活動の動力源の一つとして、昭和30年代の千種北小学校における学校給食の実施がある。これは、小学校児童の健康診断の結果で成長不良や健康不振などが顕著に目立ち、回虫などの寄生虫保有率が県下でも上位にあったことにより、地域の生活環境の見直しが進められ、育友会(小学校保護者団体)や千種北小学校が「児童に栄養のある食事を」とのことで始めたものである。但し、これは育友会と学校による活動であって、これに西河内のいずみ会ひいてはその母体となる婦人会や千種町いずみ会は関与していない。しかしながら、こうした地域の団結力や子どもの健全な成長を願う感情が、その後の活動に多少なりとも影響を与えていたのではないだろうか。こうした西河内での住民の活動が、千種町いずみ会にとって先駆的な活動となっていったのである。
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